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白桃、襲来

第七十話 白桃、襲来


⸻


 鐘が、もう一度鳴った。


⸻


 短く、鋭く。


 今度は続けて三回。


 緊急の合図だった。


⸻


 イサワの中が動いた。


 眠っていた男たちが出てくる。


 刃を持っている者。


 弓を取る者。


 火のそばに走る者。


 子どもを奥へ引く声がした。


 女たちが低い声で名を呼び合い、荷をまとめる。


 泣き出しかけた子の口を、誰かが手で塞いだ。


⸻


「炉の火を消すな」


⸻


 誰かが叫んだ。


⸻


 それは逃げるための声ではなかった。


 生きるための声だった。


 火が消えれば、夜がただの闇になる。


 火が残れば、人はまだ集まれる。


⸻


 シンは柵の端に立ったまま、外を見ていた。


⸻


 白い影は、まだそこにいた。


⸻


 動いていない。


 ただ、立っている。


 倒れた松明の火が、地面で細く揺れていた。


 その弱い光が、白い衣の裾を照らしている。


 夜の中で、そこだけが少し浮いて見えた。


⸻


 黒髪が揺れた。


 長い髪だった。


 風にほどけ、頬にかかり、肩から背へ流れている。


 その一部が、ゆるく横で束ねられていた。


 束ねたところに、桃の髪飾りがあった。


 淡い色の小さな飾りだった。


 だが闇の中では、そこだけが生き物のように光を拾った。


⸻


 白い衣。


 その端に、薄い桃色が混じっている。


 雪に朝焼けが差す時のような色だった。


 美しかった。


 美しいから、余計に間違って見えた。


 ここは夜の柵の外で、誰かが倒れ、鐘が鳴り、人が刃を持って走っている。


 そんな場所に立つには、あまりにも静かすぎた。


⸻


 左腰に刀があった。


 フツ。


 鞘は黒く、鍔の影だけが輝いて見えた。


 手は柄に触れていない。


 抜いてもいない。


 それなのに、刃の気配だけが先に来ていた。


⸻


 桃の香りがした。


 甘い。


 懐かしい。


 その奥に、冷たいものがあった。


 果実ではない。


 花でもない。


 凍りついた白桃の様な匂いだった。


⸻


 モレが来た。


 シンの横に並んだ。


 白桃を見た。


 一秒も怯まなかった。


⸻


「都の使いか」


⸻


 静かな声だった。


 問いかけではない。


 確認だった。


⸻


「……違う」


⸻


 シンは言った。


 喉が渇いていた。


⸻


「都より、もっと遠い」


⸻


 モレは黙った。


 白桃を見続けた。


 その目が、少しずつ変わっていった。


 人を見る目ではなくなる。


 獣を見る目でもない。


 山に入ってはいけないものを測る目になっていった。


⸻


 柵の外へ、若い蝦夷の男が出た。


 刃を抜いていた。


 昼にヤマト兵へ手を伸ばしかけた男の一人だった。


 顔が強張っている。


 怖がっていた。


 それでも前へ出た。


⸻


 止める者はいなかった。


 いや、止める前に男が動いてしまった。


 あの白いものを、柵の前に立たせておけなかったのだ。


⸻


 白桃は動いていない。


 ただ立っていた。


⸻


 男が一歩、詰めた。


 二歩。


 三歩。


⸻


 次の瞬間。


⸻


 男が倒れていた。


⸻


 シンには見えなかった。


 白桃が動いた瞬間が見えなかった。


 音もなかった。


 風が白い衣の袖を揺らしたように見えた。


 それだけだった。


⸻


 結果だけがあった。


 男は地面に伏していた。


 刃は遠くへ飛んでいた。


 手首が変な向きに固まっている。


 首の横に、白桃の指が一瞬だけ触れていた。


 斬ってはいない。


 血も出ていない。


 だが男は動けなかった。


 目を見開いたまま、息だけをしている。


 恐怖だけが顔に残っていた。


⸻


 白桃の手が離れた。


 袖が戻る。


 桃の香りだけが遅れて揺れた。


⸻


 誰も喋らなかった。


⸻


 白桃が、ゆっくり顔を上げた。


⸻


 視線が動いた。


 人を見ているのに、人を見ていない目だった。


 生き物ではなく、形を判別している。


 呼吸ではなく、数を読んでいる。


 恐怖ではなく、障害を分類している。


⸻


「……対象、確認」


⸻


 声が来た。


⸻


 シンは息を止めた。


⸻


 モモの声だった。


 だが、モモの声ではなかった。


 音は同じだった。


 高さも、息の薄さも、語尾の落ち方も。


 それなのに、中にあるものが違った。


 誰かへ届く声ではない。


 どこかへ送られる報告だった。


⸻


「……胆沢、観測」


⸻


 白桃の目が柵をなぞった。


 火。


 人。


 武器。


 逃げ道。


 子どもの隠された場所。


 炉。


 川へ抜ける通り。


⸻


 それらを一つずつ、見ているようで見ていなかった。


 見ただけで、もう終わったものとして扱っている。


⸻


「……修正、開始」


⸻


 イサワの男たちが動いた。


 数人が前へ出る。


 囲もうとした。


 弓を構える者もいた。


⸻


 モレが舌打ちした。


⸻


「囲むな」


⸻


 声は間に合わなかった。


⸻


 白桃が視界から消えた。


⸻


(速い)


⸻


 足音がしなかった。


 地面を蹴る音もない。


 衣擦れもない。


 ただ、桃の香りだけが移動した。


⸻


 白い影が柵の前から消えた次の瞬間、柵の内側で火が揺れた。


⸻


 もう入っていた。


⸻


「入られた」


⸻


 誰かが叫んだ。


 声が裏返っていた。


⸻


 子どもの泣き声がした。


 女の押し殺した声。


 馬が暴れ、木へ体をぶつける音。


 炉の火が大きく揺れた。


⸻


 シンは走った。


⸻


 白桃がいた。


 炉の近くだった。


 炎が白装束へ映っている。


 白い衣の裾に赤い光が揺れ、淡い桃色が一瞬だけ濃くなった。


 黒髪の先が火の色を拾い、濡れたように光った。


 桃の髪飾りが、炎を小さく返していた。


⸻


 左手は鞘に近い。


 右手は空いている。


 フツはまだ抜かれていない。


 抜かれていないのに、周囲の男たちは踏み込めなかった。


 刀を抜く前から、もう斬られているような気配があった。


⸻


 美しかった。


 美しすぎて、怖かった。


 人間が危ないのではない。


 綺麗なものが、人間の側に立っていないことが怖かった。


⸻


「モモ!」


⸻


 シンが叫んだ。


⸻


 白桃が止まった。


⸻


 一瞬だけ。


 本当に、ほんの一瞬だけ。


 視線がシンへ向いた。


⸻


(見た)


⸻


 シンの胸が痛んだ。


 見た。


 たしかに見た。


 そこに何かが届いた。


⸻


「モモ、俺だ!」


⸻


 シンは前へ出かけた。


⸻


「シンだ」


⸻


 桃の香りが少し強くなった。


 火の匂い。


 炭の匂い。


 人の汗。


 土。


 血の出ていない恐怖。


 その全部の中で、桃だけがはっきりした。


⸻


「……認識」


⸻


 声が来た。


⸻


「……シン」


⸻


 その二文字だけが違った。


 機械の声の奥。


 水底から浮かぶような、かすかな揺れがあった。


 記録ではない。


 命令でもない。


 名前に反応した何かだった。


⸻


 シンの足が動きかけた。


⸻


 そして。


⸻


「……処理、停止」


⸻


 白桃の右手が止まった。


 指先が、わずかに震えた。


 ほんの少しだった。


 風で揺れたのか、彼女自身が揺れたのか、分からないほどだった。


⸻


 それでもシンには見えた。


⸻


 モモがいる。


⸻


 壊れた白桃の奥に、まだいる。


⸻


 シンは前へ出た。


⸻


 モレが腕を掴んだ。


⸻


「行くな」


⸻


 低い声だった。


⸻


「でも」


「行けば死ぬ」


⸻


 シンは止まった。


⸻


 モレの手は強かった。


 怒りではない。


 恐怖でもない。


 生かすための力だった。


⸻


 その時だった。


⸻


 アテルイが来た。


⸻


 走ってはいなかった。


 急いでいない足音だった。


 だが、来た瞬間に空気が変わった。


 誰も命じられていないのに、半歩ずつ下がった。


 火のそばの者だけが、火から離れなかった。


⸻


 アテルイは白桃を見た。


 一秒で全部を理解した顔だった。


 いや、理解したのではない。


 分からないものを、分からないまま危険だと受け取った顔だった。


⸻


「退け、モレ」


⸻


 モレが止まった。


 振り返った。


 初めて、言葉に従った。


 シンの腕を離す。


 それでも、すぐ横に残った。


⸻


 アテルイが前へ出た。


⸻


 白桃と向き合った。


⸻


 火の赤。


 衣の白。


 山の黒。


 その間に、二人が立っていた。


⸻


「お前は、人間か」


⸻


 白桃は答えなかった。


 瞳だけが、アテルイを捉えていた。


 色硝子のような目だった。


 光を返すのに、温度がない。


⸻


「答えなくていい」


⸻


 アテルイが言った。


⸻


「今日は帰れ」


⸻


 静かな声だった。


 脅しではない。


 願いでもない。


 山の道を塞ぐ時の声だった。


⸻


「ここは山だ」


⸻


 白桃は動かなかった。


⸻


「お前が探しているものは、ここにはない」


⸻


 白桃の視線が、わずかに横へ動いた。


 シンを見たのか。


 炉を見たのか。


 それとも、見えない何かを読んだのか。


⸻


 桃の香りだけが残っていた。


⸻


「聞け」


⸻


 アテルイの声が変わった。


 静かなまま、遠くまで通る声だった。


⸻


「子どもと老人を奥へ」


「火を守れ」


「追うな」


「外を見ろ」


⸻


 イサワが動いた。


 怒鳴り声は少なかった。


 皆が何をするか知っている動きだった。


 子どもが奥へ運ばれる。


 老人が支えられる。


 炉の火へ薪が足される。


 弓を持つ者が柵へ散る。


⸻


 モレは不満そうだった。


 それでも従った。


 刃を下げ、外周を見る者たちへ低く指示を出した。


⸻


 タダがいた。


 子どもを連れている。


 片腕で小さな子を抱え、もう片方の手で荷車を押していた。


 荷車には水と、干し肉と、包んだ布が積まれていた。


 タダは声を荒げなかった。


 いつものように大きく、静かだった。


⸻


 スズリは炉のそばにいた。


 震えていた。


 顔は白い。


 だが、筆だけは止まらなかった。


 膝の上の紙へ、短く、速く、何かを書いている。


⸻


 火の近くに、白桃。


 柵の外に、松明。


 倒れた男。


 血はない。


 動けない。


 桃の香。


 フツ、未抜刀。


⸻


 スズリの筆が、それを追っていた。


 恐怖で逃げたい手が、記録する手に負けていた。


⸻


 柵の外。


 森の向こう。


⸻


 松明が見えた。


⸻


 一つ。


 二つ。


 三つ。


⸻


 もっとあった。


⸻


 だが、近づいてこない。


 森の外で止まっていた。


 動かずに、こちらを見ている。


⸻


(本隊だ)


⸻


 シンだけが、そう思った。


 確信ではない。


 だが、体が知っていた。


 あれは迷っている火ではない。


 道を探している火でもない。


 待っている火だった。


⸻


 白桃が再びシンを見た。


⸻


 一瞬。


 本当に一瞬だけ。


⸻


 目が揺れた。


⸻


 モモだった。


⸻


 次の瞬間には、消えた。


 色硝子の冷たさが戻った。


⸻


 白桃が後ろへ下がった。


 足音はなかった。


 衣の裾が火の光から離れる。


 白が暗くなる。


 桃色が闇へ沈む。


⸻


 フツの鞘が、最後に小さく光った。


⸻


 白い姿が森へ向かった。


 闇の中へ溶けた。


⸻


 桃の香りだけが残った。


⸻


 森の向こうの松明も動いた。


 一つずつ、奥へ下がっていく。


 強硬派の兵たちが、夜の中へ消えていった。


⸻


 誰も追わなかった。


 アテルイが追うなと言ったからだった。


 それだけではない。


 追えば死ぬと、皆が分かっていた。


⸻


 夜だけが残った。


⸻


⸻


 深夜。


⸻


 イサワは静かだった。


 だが、誰も眠れていなかった。


⸻


 火は守られていた。


 小さくはなったが、消えていない。


 炉の赤い芯が、灰の底で生きていた。


 人はその周りに集まった。


 誰も大きな声を出さなかった。


⸻


 倒された男は、まだ震えていた。


 命に別状はない。


 骨も折れていない。


 それなのに、立てなかった。


 自分が何をされたのか分からない恐怖が、体の奥に残っているようだった。


⸻


 モレは武器を整えていた。


 刃を拭く。


 柄を確かめる。


 弓の弦を見る。


 黙ったままだった。


 怒っている時の沈黙ではない。


 負け方を考えている沈黙だった。


⸻


 アテルイは川を見ていた。


 何も言わなかった。


 ただ立っていた。


 川の音を聞いているのか。


 森の音を聞いているのか。


 それとも、まだ来ていない朝を聞いているのか。


⸻


 タダは残った汁を温めていた。


 誰かが起きた時のためだった。


 具は少ない。


 塩気も薄い。


 それでも湯気が立つだけで、人の顔が少し戻った。


⸻


 スズリは灯火の横で記録を書いていた。


 筆先が止まらなかった。


 何度も墨を足し、紙を替え、また書いた。


 手は震えている。


 文字は震えていなかった。


⸻


 シンだけが外にいた。


⸻


 山を見ていた。


⸻


 眠れるはずがなかった。


 目を閉じれば、白桃がいる。


 白い衣。


 黒髪。


 桃の髪飾り。


 人を見ていない目。


 それでも、名前を呼んだ時だけ揺れた声。


⸻


 モモはいた。


 だが、届かない。


 届いたと思った瞬間、遠ざかる。


 水の底に沈んだものを、夜の上から掴もうとしているようだった。


⸻


 風が来た。


⸻


 桃の香りだった。


⸻


 遠く。


 木々の間。


⸻


 白い影が見えた。


⸻


 今度は消えなかった。


 立っていた。


 こちらを見ていた。


⸻


 シンは息を止めた。


⸻


 白桃が、ゆっくり後ろを向いた。


 山の奥へ歩き始める。


 黒髪が背で揺れた。


 白い衣が闇に削られていく。


 フツの鞘だけが、木々の間で一度だけ光った。


⸻


 一度だけ。


⸻


 振り返った。


⸻


 その目は。


⸻


 前より少しだけ、人間だった。


⸻


(モモ)


⸻


 声にはならなかった。


⸻


 白桃は森へ消えた。


⸻


 桃の香りだけが残った。


⸻


 後ろから足音が来た。


⸻


 アテルイだった。


⸻


「寝ろ」


⸻


 短かった。


⸻


「明日も来る」


⸻


 シンは振り返った。


⸻


「分かるのか」


⸻


 アテルイは山を見た。


⸻


「山が静かすぎる」


⸻


 少し間があった。


⸻


「こういう時は、何か来る」


⸻


 それだけ言った。


⸻


 シンは、あてがわれた小屋へ戻った。


⸻


 炉の火は小さかった。


 スズリは壁際で眠っていた。


 疲れ切った顔だった。


 筆だけが横に残っている。


 筆先は黒い。


 まだ乾いていなかった。


⸻


 シンは横になった。


 目を閉じた。


⸻


(明日)


⸻


(何かが壊れる)


⸻


 理由は分からなかった。


 だが、確信だけがあった。


⸻


 炉の火が揺れた。


⸻


 夜が終わった。


⸻


 そして。


⸻


 次の朝が来る。


⸻


(第七十一話へ)


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