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再起動

第六十九話 再起動


⸻


 イサワに来てから、十日ほどが過ぎていた。


⸻


 桃の香りは、それきり来なかった。


 あの夜、山風の中に一瞬だけ混じった気配。


 懐かしくて、冷たくて、胸の奥を掴んで消えたもの。


 シンは何度も思い返した。


 だが、昼の火の中にも、夜の霧の中にも、柵の外を吹く風の中にも、同じ匂いはなかった。


⸻


 だから余計に、消えなかった。


⸻


 思い出せない記憶ではない。


 忘れられない気配だった。


⸻


⸻


 その朝、シンが目を覚ますと、まだ空は暗かった。


 炉の奥に炭だけが赤く残っていた。


 灰の底で、小さく息をしている。


 火の色だけは、何百年経っても変わらない。


 そう思ってから、シンは少し嫌になった。


 何百年。


 自分の中ではただの時間ではない。


 死んで、飛ばされ、また生きている時間だった。


⸻


 シンは音を立てないように立ち上がった。


 眠っている者たちの間を抜け、外へ出る。


 冷気が頬に触れた。


 秋の終わりの夜明け前だった。


 東の端だけが、わずかに白い。


 霧が低く漂い、柵の木を半分ほど隠している。


 川の音だけが続いていた。


⸻


 顔を洗うつもりだった。


 水を浴びれば、頭の中の重いものが少しは落ちる。


 そんな気がした。


⸻


 川辺へ向かった。


 足元の草は濡れていた。


 踏むたびに冷たい水が草の根元から滲み、草履の縁に触れた。


 霧の向こうで、水面がかすかに光っていた。


⸻


 その中に、人影があった。


⸻


 川に入っていた。


 膝のあたりまで水に浸かっている。


 濡れた黒髪が背中に貼りつき、肩の線を細く見せていた。


 白い肌が、霧の中で輪郭を失っている。


 水が揺れるたびに、白い光も揺れた。


⸻


(スズリだ)


⸻


 シンは止まった。


 止まれた。


 そこまではよかった。


 視線を外すのに、少し遅れた。


⸻


 朝霧。


 冷たい川。


 濡れた髪。


 白い肌。


 揺れる水面。


⸻


 それは、絵のようだった。


 幻のようでもあった。


 けれど幻ではない。


 そこに生きている人間だった。


⸻


(綺麗だ)


⸻


 素直にそう思った。


 思ってしまった。


⸻


 その直後に、シンは自分で驚いた。


 驚いたことに、さらに驚いた。


⸻


(俺、ちゃんと人を見てる)


⸻


 この時代に来てから、ずっと何かが止まっていた。


 アサメを失ってから、世界の色が薄かった。


 食べられた。


 歩けた。


 喋れた。


 冗談も言えた。


 だが、そのどれもが少し遠かった。


 皮一枚、世界との間に挟まっているようだった。


⸻


 それが今、少しだけ剥がれた。


 目の前の人間を、綺麗だと思えた。


 自分の中の何かが、まだ死んでいないのだと分かった。


⸻


 その時、スズリが振り返った。


⸻


 一瞬、目が合った。


 霧の中で、スズリの表情が止まった。


⸻


「……っ」


⸻


 次の瞬間、水音が跳ねた。


 スズリは川から出ようとして、足を滑らせた。


 また水に入った。


 さらに慌てた。


 とにかく、慌てた。


⸻


 シンは反射的に後ろを向いた。


⸻


「見てないっ」


「見てました!」


「顔洗いに来ただけっ」


「それは本当でも、見てました!」


「事故デス」


「言い方が最悪ですっ!」


⸻


 後ろから水をかけられた。


 朝の川の水だった。


 かなり冷たかった。


⸻


「ふ、服まで濡れたど!」


「知りませんっ!」


「覗いてないデス!!」


「敬語にしても駄目です!!」


⸻


 シンは濡れた袖を見た。


 スズリは岩陰で急いで衣を整えている。


 霧の中で、二人とも無駄に濡れていた。


⸻


 そこへ、足音が来た。


⸻


 複数だった。


 草を踏む音。


 水桶を持つ音。


 誰かが小さく欠伸をした。


⸻


 アテルイが来た。


 モレもいた。


 若い蝦夷の男が二人、後ろに続いている。


 朝の水浴びらしかった。


⸻


 アテルイは川辺の光景を見た。


 服を濡らして立つシン。


 岩陰で固まるスズリ。


 水面に残る、無駄に大きな波紋。


⸻


 アテルイが少し笑った。


 何も言わなかった。


 そのまま川へ入った。


⸻


 若い男たちも続いた。


 誰も深く気にしていなかった。


 朝に川へ入り、身を清め、水を浴びる。


 ただそれだけのことらしかった。


⸻


 モレだけが、シンを一瞥した。


⸻


「ヤマトの者は、妙なところで騒ぐ」


⸻


 それだけ言って、川へ向かった。


⸻


 スズリは少し離れた岩に腰を下ろした。


 ずっと俯いている。


 耳まで赤かった。


⸻


 シンは濡れた袖を絞りながら、川の方を見た。


 霧が少しずつ晴れていく。


 山の形が出てきた。


 水面が明るくなり、朝の光を細かく砕いていた。


⸻


 シンは、自然に笑っていた。


⸻


 久しぶりだった。


 力を抜いて笑えたのが、本当に久しぶりだった。


⸻


 その瞬間。


⸻


 頭の中に、別の顔が浮かんだ。


⸻


 黒髪。


 桃の飾り。


 白い肌。


 色硝子のような瞳。


⸻


 モモだった。


⸻


 忘れていたわけではない。


 笑った瞬間に、来た。


 今、笑っていいのかと問う声のように来た。


⸻


 シンは目を閉じた。


 川の音がした。


 朝の声がした。


 誰かが水をかぶって、小さく息を詰めた。


⸻


(待ってろ)


⸻


 また同じ言葉だった。


 だが、少し違っていた。


 焦りではなかった。


 叫びでもなかった。


 もっと静かなものだった。


 生きている人間が、歩き出す前に吐く息のようなものだった。


⸻


⸻


 昼を過ぎた頃、柵の外の空気が変わった。


⸻


 最初に気づいたのは見張りだった。


 高い声ではない。


 短く、低い声で、内側へ知らせた。


 それだけで、周囲の男たちが動いた。


 刃の位置を確かめる者。


 子どもを奥へ行かせる女。


 馬を静める者。


 炉の火から目を離さない老女。


⸻


 柵の外から、馬の音が来ていた。


 多くはない。


 十人に満たない数だった。


 それでも、音の立て方が違った。


 こちらへ入ってくる前から、地面を踏みつけている。


⸻


 ヤマト側から兵が来た。


⸻


 田村麻呂の配下ではなかった。


 少なくとも、そう見えた。


 旗もない。


 正式な使者の標もない。


 鎧も揃っていない。


 だが、槍の先に白い布が結ばれていた。


 その布だけが妙に新しく、汚れていなかった。


⸻


 先頭の男が、柵の前で止まった。


 痩せた顔をしていた。


 目の奥だけが熱い。


 周りを見ているようで、見ていない目だった。


⸻


「毘沙門天の名において!!まつろわぬ鬼の地を鎮める!!!」


⸻


 声が大きかった。


 必要以上に大きかった。


 自分の声で、自分を奮い立たせているようでもあった。


⸻


「これが都の意思だ!!」


⸻


 イサワの空気が冷えた。


⸻


 モレが前に出た。


 体が低く、重くなる。


 戦う前の動き方だった。


⸻


「鬼と言うなら、まず帰れ」


⸻


 声も低かった。


 一語一語が、地面に沈むようだった。


⸻


 若い蝦夷の男たちが動いた。


 刃へ手が伸びる。


 ヤマト兵の方でも槍が少し上がった。


 馬が鼻を鳴らした。


 土を蹴る音がした。


⸻


 一触即発だった。


⸻


 アテルイが前に出た。


⸻


 何も言わなかった。


 ただ、前に出た。


⸻


 それだけで、空気が止まった。


⸻


 アテルイは先頭の男を見た。


 静かな目だった。


 怒ってはいない。


 だが、いつもの柔らかさもなかった。


 男の声ではなく、声の後ろにあるものを見ている目だった。


⸻


「誰の名で来た」


⸻


 先頭の男は少し顎を上げた。


「都だ」


⸻


「都にも、人の名がある」


⸻


 男は答えなかった。


 答えられないのか、答える気がないのか。


 シンには分からなかった。


 ただ、その沈黙で十分だった。


⸻


 名前のない命令。


 責任のない正義。


 誰かの口を借りた神の名。


⸻


 嫌なものだった。


⸻


「今日は引け」


⸻


 アテルイが言った。


 ヤマト兵へ向けた声ではなかった。


 モレへ向けていた。


⸻


 モレは動かなかった。


 一瞬だけ、肩がさらに低くなった。


 そのまま踏み込めば、先頭の男へ届く距離だった。


⸻


 だが、引いた。


⸻


 若い男たちも、遅れて刃から手を離した。


 ヤマト兵は柵の外に留められた。


 中へは入れなかった。


 それでも先頭の男は、勝ったような顔をした。


 自分たちが何かを示したと思っている顔だった。


⸻


 シンはそれを見ていた。


⸻


(和平では止まらない)


⸻


 静かに、腹に落ちた。


 田村麻呂が止めているものを、別の側が動かしている。


 ヤマトは一枚岩ではない。


 それは知識としては分かっていた。


 だが、今日、目で見た。


⸻


 同じ都から来た者が、同じ言葉を使っても、同じものを見ているとは限らない。


 ある者は道を見る。


 ある者は金を見る。


 ある者は鬼を見る。


 ある者は、神の名を持ってくる。


⸻


 そして、どれもこの土地を動かす。


⸻


⸻


 夕方になった。


⸻


 スズリへ、密かに文が届いた。


 正式な使者ではなかった。


 商人の荷に紛れていた。


 乾いた薬草の束の下に、細く折られた紙が入っていた。


⸻


 スズリはそれを見つけると、誰にも見せずに袖へ入れた。


 少し離れた場所で開いた。


 シンは近くにいた。


 モレも、遠くから見ていた。


⸻


 スズリの顔色が変わった。


⸻


「何が書いてある」


⸻


 シンが聞いた。


⸻


「神野様からです」


⸻


 スズリは紙を持つ指に力を入れた。


 折り目が白く潰れた。


⸻


「父や兄たちの側で、毘沙門を担ぐ者たちが声を強めている、と」


⸻


「今日の連中か」


⸻


「名は書かれていません。ですが、近い者かもしれません」


⸻


 スズリは目を落としたまま続けた。


⸻


「こちらでも抑えてはいる。だが、全部は止めきれない。嫌な流れだ。山の空気が変わったら、迷わず逃げろ。追ってまた知らせる」


⸻


 読み終えてから、スズリは紙を折った。


 声は乱れていなかった。


 だが、指先が白かった。


⸻


「カミノたちと、今日来たあいつらは違うのか」


⸻


「都は、複雑です」


⸻


「複雑でも、ここへ来る」


⸻


 スズリはすぐには答えなかった。


⸻


「はい」


⸻


 小さな声だった。


⸻


 モレが来た。


 スズリの顔を見て、すぐに察した。


⸻


「また都の火種か」


⸻


「……申し訳ありません」


⸻


「謝るな」


⸻


 モレの声は冷たかった。


 だが、責めるための冷たさではなかった。


 これ以上、紙に頭を下げるなと言っているようでもあった。


⸻


「お前が火を持ってきたわけじゃない」


⸻


 スズリが顔を上げた。


 少しだけ驚いた顔をしていた。


⸻


「だが、都の火は嫌いだ」


⸻


 モレは柵の外を見た。


 夕暮れの山が黒くなり始めていた。


⸻


「燃え方を知らないくせに、遠くまで燃える」


⸻


 スズリは何も言えなかった。


⸻


 アテルイは静かだった。


 川の方を見ている。


 水面を見ているわけではない。


 もっと遠くを見ていた。


 道の先か。


 山の向こうか。


 都か。


 それとも、まだ来ていない戦か。


⸻


 シンには分からなかった。


 ただ、アテルイが何かを決めかけているのは分かった。


⸻


⸻


 夜になった。


⸻


 シンは一人で外へ出た。


 イサワの火が柵の内側に揺れている。


 炉の煙が低く流れていた。


 遠くで子どもの声がした。


 すぐに大人の声がして、静かになった。


 山は暗かった。


 霧が地面に近いところを這っていた。


⸻


 今日一日を思い返した。


 朝の川。


 水に濡れたスズリ。


 自然に笑えた自分。


 笑った瞬間に浮かんだモモの顔。


⸻


 生きている。


 ちゃんと生きている。


 アサメを失った後も。


 モモが壊れたまま、どこかにいると知っていても。


 自分の体は腹を空かせ、寒さを感じ、人を綺麗だと思い、笑う。


⸻


 それが、ひどく残酷で。


 少しだけ救いでもあった。


⸻


(モモ)


⸻


 前の時代の最後を思い出した。


 泣けない顔のまま落ちた、一粒の雫。


 白い光。


 強制されながら動く刃。


 自分を見ているのに、自分を見られなかった目。


⸻


 あれから、どれだけの時間が彼女の中を過ぎたのか。


 待っているのか。


 待つという形も失っているのか。


 それとも、ただ命令だけが残っているのか。


⸻


 シンは柵の外を見た。


 闇があった。


 木々の間に、さらに濃い闇が重なっている。


⸻


 風が来た。


⸻


 山から吹いてくる、冷たい風だった。


 枯れ草を撫で、柵の木を鳴らし、シンの袖を揺らした。


⸻


 その中に。


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 桃の香りがした。


⸻


 シンは動けなかった。


⸻


 懐かしかった。


 胸が詰まるくらい懐かしかった。


 だが同時に、冷たかった。


 あの白い光を思い出す、静かすぎる冷たさが混じっていた。


⸻


 シンが振り返った。


⸻


 その瞬間。


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 見張り櫓の鐘が鳴った。


⸻


 短く。


 鋭く。


 二回。


⸻


 警戒の合図だった。


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 遠くで悲鳴がした。


 柵の外だった。


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 シンは走った。


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 柵の端へ出る。


 木の隙間から外を見る。


 暗闇の中で、火が揺れていた。


 小さい火だった。


 誰かが持っている松明の火だった。


⸻


 その火が、不自然に傾いた。


 倒れた。


 地面で跳ねた。


 火の粉が散り、すぐに消えた。


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 闇が戻った。


⸻


 その闇の中に。


⸻


 白い影があった。


⸻


 白装束だった。


 黒髪が夜の中に溶けている。


 桃の髪飾りだけが、消え残った火を拾って、わずかに光を返していた。


⸻


 白い顔が、ゆっくり上がった。


 イサワを見上げた。


⸻


 シンは息を止めた。


⸻


(モモ)


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 再会の感動より先に来たのは、別の言葉だった。


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(逃げろ)


⸻


 そこに視線はあった。


 だが、誰かを見る目ではなかった。


 獣とも違う。


 もっと静かで、もっと空っぽだった。


 命令を待っている目ではない。


 もう命令が入っている目だった。


⸻


 白桃が、ゆっくりイサワを見上げていた。


⸻


 桃の香りが、冷たい山風に広がっている。


⸻


 シンの中で、何かが音もなく落ちた。


⸻


 モモではない。


 だが、モモだった。


⸻


 壊れたままの彼女が。


 再び、動き始めていた。


⸻


(第七十話へ)


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