金
第六十八話 金
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交易の場は、朝から動いていた。
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イサワの柵の外だった。
川に近い、少し開けた場所である。
昨夜の霜がまだ草の根元に残っていた。
踏まれるたびに白く砕け、泥と混じって消えていく。
川の音は低く、絶えず聞こえていた。
人の声。
馬の鼻息。
革袋を下ろす音。
鉄がぶつかる乾いた音。
その全部が、朝の冷たい空気の中で妙にはっきり響いた。
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地面には布が敷かれ、その上に品物が並べられていた。
毛皮。
干した魚。
鉄器。
馬具。
薬草の束。
炭。
塩の入った革袋。
琥珀の玉。
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どれも、この土地で生きるためのものだった。
腹を満たすもの。
火を起こすもの。
体を守るもの。
馬を動かすもの。
傷を塞ぐもの。
冬を越すためのもの。
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それらが布の上に置かれると、急に別の顔を持つ。
使うためのものではなく、量られるものになる。
比べられるものになる。
誰かの手から、誰かの手へ移るものになる。
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シンは少し離れたところから、その場を見ていた。
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ヤマト側の商人が来ていた。
三人組だった。
衣は旅で汚れているが、汚れ方が戦の者とは違う。
腰の低さも、目の動かし方も、兵ではない。
笑顔がうまかった。
声を張る時も、引く時も、妙に明るい。
相手が怒りそうになる直前で冗談を入れ、相手が笑いそうになる直前で値を下げない。
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普通の商人だった。
そのことが、かえってシンには引っかかった。
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商人は毛皮を手に取り、裏返して毛の密度を見た。
指先でなで、鼻に近づけ、湿りを確かめる。
干魚は数を数え、古いものと新しいものを分けた。
馬具は縫い目を見て、革の厚みを押した。
鉄の小刀を手に取る時だけ、少し慎重になった。
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戦の匂いはしなかった。
血の匂いも、命令の匂いも、武器を隠す者の匂いもない。
ただ、欲しいものを見ている人間の匂いがした。
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そして。
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場の端に、黒い砂があった。
少量だった。
革の小袋に入れられ、口を紐で軽く結ばれている。
布の上に置かれたそれは、遠目にはただの川砂に見えた。
黒く、重く、湿ったように沈んでいる。
だが、その中に細い光があった。
朝日を受けた瞬間だけ、ちらりと黄色く瞬く。
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商人の目が、そこで変わった。
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毛皮を見る時の目ではなかった。
干魚を数える時の目でもなかった。
品定めではない。
欲だった。
もっと深く、もっと乾いたものだった。
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(金砂だ)
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シンは胸の内で呟いた。
東北の川から採れる砂金。
都は、それを欲しがっている。
そんな話を、どこかで聞いた気がした。
陸奥に金が出た。
だから都はこの土地を放っておけなくなった。
そんなふうな話だったと思う。
正確な年も、細かな事情も、シンには分からない。
ただ、分かることがあった。
山の奥で光った一粒は、山の中だけでは終わらない。
川底の砂は、川底の砂のままではいられない。
それを欲しがる目が来る。
それを数える手が来る。
それを運ぶ道が欲しくなる。
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商人が小袋へ近づいた。
イサワの男が手を出して止めた。
商人は笑った。
イサワの男は笑わなかった。
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交渉が始まった。
言葉は穏やかだった。
声も荒くない。
だが互いに、引くつもりのない目をしていた。
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商人は何度も袋を見た。
イサワの男は何度も商人の手元を見た。
銭らしいものも見えたが、それだけで済む話ではなかった。
塩。
布。
鉄。
米。
酒。
馬具。
何と換えるのか。
どれだけ渡すのか。
次も持ってくるのか。
どこで採れたのか。
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その問いの後ろに、もっと大きな問いが隠れていた。
誰のものなのか。
この川は。
この山は。
この土地は。
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(都は、この土地そのものを欲しがってる)
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毛皮でも、魚でも、馬でもなかった。
山の底にあるもの。
川の砂の中に混じるもの。
火で焼けば姿を変えるもの。
数えられ、運ばれ、記録され、遠くの誰かの力になるもの。
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それを手に入れるために、道が欲しくなる。
道を守るために、柵が欲しくなる。
柵を動かすために、人が欲しくなる。
人を従わせるために、名が欲しくなる。
名を残すために、文字が欲しくなる。
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シンは交易場のざわめきを聞きながら、喉の奥が少し冷えるのを感じた。
目の前にあるのは商いだ。
だが、その奥に別のものがいた。
人を動かし、道を引き、山を測ろうとするもの。
国というやつの匂いだった。
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スズリが横で、手元の紙に何かを書いていた。
交易品の種類と数だった。
毛皮、何枚。
干魚、何束。
塩、何袋。
鉄鏃、何本。
炭、何袋。
細い文字が、紙の上に整って並んでいく。
彼女の筆は迷わない。
見たものを、聞いたものを、逃さず形に変えていく。
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「全部、記録してるのか」
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シンが聞いた。
「記録できるものは」
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「なんのために」
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スズリの筆が、少しだけ止まった。
その横顔は静かだった。
だが、問いの意味を軽く受け流してはいなかった。
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「都で書けば、都の形になると、神野様が」
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「それは、記録するための理由じゃない」
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「……では」
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スズリは筆を持ったまま、交易場を見た。
商人が笑う。
イサワの男が首を振る。
別の場所で、女が干魚を束ね直す。
子どもが琥珀を触ろうとして、大人に叱られる。
馬が鼻を鳴らす。
川が流れる。
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「ここにあったものが、あったと分かるようにするためです」
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シンは黙った。
その答えは、思ったより重かった。
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記録は奪うためにも使える。
支配するためにも使える。
だが、残すためにも使える。
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ここにあった。
ここに生きていた。
ここで交換され、笑い、疑い、怒り、冬を越そうとしていた。
それを誰かが書かなければ、都の記録の中では、ただの貢ぎ物になる。
金何両。
馬何頭。
蝦夷何人。
それだけになる。
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スズリはまた筆を動かした。
細い黒が、白い紙の上に増えていく。
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交易場の端に、タダがいた。
干し肉と保存食と塩を広げている。
そこに銭はほとんど見えなかった。
ヤマトの商人が懐に入れているような小さな丸い金属は、この場では主役ではない。
ここでは、腹を満たすものと、火を保つものと、刃になるものの方が強かった。
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イサワの男が鍋を指した。
タダが干し肉を三切れ、指で示した。
男が鉄の矢じりを二本出した。
タダが少し首を振った。
三本にした。
タダは頷いた。
それだけで終わった。
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シンが近づいた。
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「銭は使わないのか」
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「使えない場所の方が多い」
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「でも、ヤマトの商人は持ってるだろ」
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「持ってはいる。都の近くなら便利だからな」
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タダは干し肉を切り分けながら言った。
刃が肉に入るたび、乾いた繊維が裂ける音がした。
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「便利か」
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「ああ。腐らない。軽い。数えられる。持って逃げることもできる」
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「それで良くないのか」
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タダは少し考えた。
考えながらも手は止まらなかった。
干し肉を分け、塩を量り、革袋の口を縛る。
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「腹は銭じゃ膨れない」
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シンは黙った。
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「だが、銭があれば腹が膨れる気がしてくる」
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タダが続けた。
独り言のような声だった。
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「銭が悪いわけじゃない。物と物をいちいち比べなくて済む。遠くの人間とも取引できる。数えればいい。記録もしやすい。争いも減ることがある」
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「いいことだらけに聞こえる」
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「だから厄介なんだ」
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タダが顔を上げた。
その目は交易場ではなく、もっと遠くを見ていた。
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「便利なものは、人間の目を変える。最初は魚と塩を換えるために使う。次に、魚も塩も鉄も馬も、同じものに見えてくる。銭いくつ分か、金いくら分か。それだけで測れる気がしてくる」
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「……」
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「そうなると、山も川も同じだ。山は木の数になる。川は砂金の量になる。人は働ける日数になる。命は、失って困る値段になる」
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シンは交易場を見た。
ヤマト商人がまだ金砂の袋と向き合っていた。
笑顔で話している。
だが目は笑っていなかった。
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「全部を換えられると思い始めると、換えてはいけないものまで換える」
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タダは干し肉を一切れ、シンへ渡した。
シンは受け取った。
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「何が死ぬ」
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「腹の膨れ方が分からなくなる」
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シンは干し肉を見た。
塩気の強い、硬い肉だった。
噛めば顎が疲れる。
飲み込むには水が要る。
だが確かに、腹に入る。
体の中で熱になる。
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銭はそうならない。
金もそうならない。
それなのに、人間は金のために腹を空かせることがある。
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タダはそれ以上言わなかった。
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交易場の端に、モレが立っていた。
腕を組み、不機嫌な顔をしている。
彼は商人の声ではなく、商人の視線を見ていた。
毛皮を見る目。
馬を見る目。
鉄を見る目。
金を見る目。
その違いを、ひとつずつ腹の底に沈めているようだった。
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「都は山を見てない」
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シンが横に来ると、モレが低く言った。
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「金しか見てない」
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「鉄もだろ」
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「同じことだ。山に値段をつけて、持っていく」
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モレの声には、怒りよりも嫌悪があった。
奪われることへの怒りではない。
見誤られることへの嫌悪だった。
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山は金だけではない。
鉄だけでもない。
獣が通る。
水が湧く。
木が育つ。
人が死に、人が生まれる。
火を起こす炭も、薬になる草も、冬を越す獲物も、みな山から来る。
そこに値をつけるということは、山を切り分けるということだった。
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アテルイが来た。
交易場を一通り見回してから、モレの横に立った。
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「欲しがるのは分かる」
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アテルイが言った。
モレとは少し違う声だった。
怒りを先に出さない声である。
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「良い鉄も出る。馬も育つ。川には魚が来る。人間は豊かな場所へ来る」
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「だから来させるな、と言っている」
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「来る者は来る」
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モレが黙った。
アテルイは川の方を見た。
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「問題は、来ることではない。取り方だ」
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風が吹き、枯れ草が低く揺れた。
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「山を掘り返しすぎると、水が死ぬ」
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静かな声だった。
怒りではなかった。
事実として言っていた。
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「川の水が濁れば、魚が来なくなる。魚が来なければ、熊の歩く場所が変わる。熊が変われば、山の道が変わる。山の道が変われば、人の暮らしも変わる」
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「……」
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「だから山を掘るなら、川の分だけにしろと言っている」
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「ヤマトはそれを聞かない」
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「聞かないから困っている」
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アテルイは少し笑った。
困っている、と言いながら、その声は山の天気を話すようだった。
しかしシンには分かった。
この男は軽く言っているのではない。
分かっているのだ。
川が死ぬとは、戦で人が死ぬのと同じくらい重いことだと。
いや、もっと長く死ぬことだと。
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戦の死はその場で見える。
川の死は、何年もかけて人を殺す。
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交易場が落ち着いた頃、スズリは炉守りの老女と話していた。
老女は炭の入った革袋を持っていた。
都の商人へ渡す分だった。
炭は黒く、軽いものと重いものが混ざっている。
袋の口からこぼれた欠片が、地面に落ちて割れた。
中まで黒い。
けれど、割れ口にはかすかに光があった。
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スズリはそれを見ていた。
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「火は黒く残る」
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老女が言った。
独り言のようだった。
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「燃え尽きても、炭になる。炭が砕ければ黒い粉になる。炉の煤を集め、膠で練れば墨になる」
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スズリの手が止まった。
筆を持っていた手だ。
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「……炉の火が、文字になるんですか」
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「火そのものは残らない」
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老女は、袋の口を縛り直した。
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「残るのは、燃えた後のものだ」
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スズリは黙っていた。
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「木は燃えればなくなる。だが炭は残る。煤はもっと細かく残る。黒いものを集めて、固めて、水で溶く。そうすれば、人の言葉を紙へ移せる」
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「火が、言葉に」
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「火ではない。火の跡だ」
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老女はそれだけ言って、袋を持って行った。
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スズリはしばらく、自分の筆を見ていた。
墨色の先端。
そこに含まれた黒。
それはただの色ではなかった。
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燃えた後に残ったもの。
消えたものの、消えきらなかった部分。
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スズリは紙へ視線を落とした。
そこには交易品の名が並んでいる。
毛皮。
干魚。
鉄。
馬具。
炭。
塩。
金砂。
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それらを書いた墨は、火の跡でできている。
火の跡が、物の名を残している。
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シンはその横顔を見た。
スズリの中で、何かが静かに繋がったのが分かった。
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この土地の火。
この土地の炭。
この土地の黒。
それが都の文字になる。
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だが逆もある。
この土地の黒で、この土地のことを書くこともできる。
都のためではなく。
ここにあったものが、あったと分かるように。
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夕方になった。
川の色が鈍くなり、交易場の声も少しずつ減っていった。
布が畳まれ、革袋が縛られ、馬の背に荷が積まれる。
商人たちは最後まで笑顔だった。
だが金砂の袋を手に入れられなかった一人だけは、笑うたびに口の端が固かった。
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その時、伝令が来た。
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ヤマト側からだった。
だが田村麻呂の正式な使者ではない。
旗もない。
大きな声で名乗りもしない。
馬を使わず、歩いて来た男だった。
身なりは目立たない。
柵へ近づく前に周囲を見て、誰に見られているかを確かめた。
それからスズリへ直接、紙を渡した。
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紙一枚だった。
封はされていなかった。
封をすれば、かえって怪しまれるからだろう。
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スズリが読んだ。
顔色が少し変わった。
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「何が書いてある」
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シンが聞いた。
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「神野様からです」
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「何と」
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「……都の一部が、動き始めているようです」
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「どういう意味だ」
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「まだ定かではない、と。ですが、危険な者たちが何かを始めているかもしれない、と」
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スズリは紙を折った。
声は平静だった。
だが指先が白くなっていた。
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「カミノ、何て書いてた」
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シンがもう一度聞いた。
スズリは少し迷った。
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「都の危険な者たちには気をつけろ、と。追ってまた知らせるそうです」
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「曖昧だな」
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「神野様も、まだ掴みきれていないのだと思います」
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シンは黙った。
都の一部。
危険な者たち。
曖昧な言葉ほど嫌だった。
名前がない敵は、どこにでも入り込める。
商人の顔もできる。
僧の顔もできる。
役人の顔もできる。
神の顔すらできる。
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シンはなんとなく、話を変えた。
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「アンタ、ずっとカミノの側にいるんだな」
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「はい」
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「大変だろ。変人っぽいし」
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スズリが少しだけ困った顔をした。
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「……よく問題を起こします」
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「だろうな」
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「女性関係も、その……多いですし」
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「おおぅ……」
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シンは少し笑った。
張り詰めた空気が、ほんの少し緩んだ。
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「スズリは手を出されてる感じはしないけどな」
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スズリが、一瞬だけ止まった。
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「……神野様は、そういう線引きはきちんとされる方です」
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少し間があった。
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「……多分」
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シンは吹き出した。
スズリは真面目な顔のまま、目だけを逸らした。
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モレが横から見ていた。
露骨に顔をしかめた。
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「都の内輪揉めをここへ持ち込むな」
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「持ち込んでいるのではありません」
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「お前たちの“嫌な予感”は、大抵こっちが燃える」
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「……すみません」
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スズリは小さく頭を下げた。
モレはそれ以上責めなかった。
怒鳴っても紙の中身が変わるわけではないと分かっている顔だった。
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アテルイは黙っていた。
紙を見た。
それから川の方を見た。
その目は、商人の荷でも、金砂の袋でもなく、もっと遠い場所を見ていた。
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都で何かが動く。
それはやがて道を通り、兵を通り、命令を通り、この川へ来る。
金も、銭も、文字も、命令も、みな遠くから来る。
だが来た時には、もうただの遠い話ではない。
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シンは外へ向かった。
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(来る)
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理屈ではなかった。
感覚だった。
都の何かが動き始めている。
タケミカヅチに繋がる何かが。
モモを引っ張る何かが。
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金を欲しがる目と、神を呼ぶ声は、どこか似ている。
どちらも、遠くにあるものを自分の手元へ引き寄せようとする。
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夜になった。
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シンは一人で柵の外へ出た。
山が見えた。
イサワの火が柵の内側に揺れている。
人の声は遠かった。
笑い声も、鍋の音も、革を縛る音も、夜の空気に吸われて薄くなっていた。
太鼓はなかった。
静かな夜だった。
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シンは山を見ていた。
昼の交易場を思い出す。
金砂の袋。
商人の目。
タダの言葉。
アテルイの川。
スズリの筆。
火の跡からできた黒。
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炭が墨になり、墨が文字になり、文字が記録になる。
その記録は、人を残すこともできる。
人を縛ることもできる。
金と同じだ。
銭と同じだ。
道具はただの道具ではいられない。
人間がそこへ欲を入れた瞬間、別のものになる。
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シンは息を吐いた。
白くはならなかった。
だが胸の奥は冷えていた。
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モモのことを考えていた。
壊れたまま、どこかにいる。
長すぎる年月の重さを抱えて。
待っているのか。
それとも、待つことすら分からなくなっているのか。
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彼女はいつも、人の輪の外にいた。
静かに見ていた。
ひどく優しく、ひどく遠くから。
あの桃の髪留め。
白と淡い桃色の衣。
感情を出さない目。
けれど、シンが死ぬ時だけ、わずかに揺れる声。
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風が来た。
普通の風だった。
山から来る、冷たい秋風。
枯れ草を撫で、柵の木を鳴らし、シンの頬をかすめた。
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でも。
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その中に。
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桃の香りがした。
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一瞬だけだった。
それだけだった。
懐かしかった。
胸が締め付けられるくらい懐かしかった。
最初の時代から、何度も嗅いだ匂いだった。
モモがそばにいる時の匂いだった。
何も言わずに隣へ立つ時。
誤差、と小さく呟く時。
白い指で、刀の柄に触れる時。
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けれど同時に。
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冷たかった。
静かすぎた。
あの白い光を思い出す感触が混じっていた。
前の時代の最後。
世界が白くなった時の感触だ。
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シンが振り返った。
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誰もいなかった。
山が暗くあった。
柵の影が地面に落ちていた。
火が揺れていた。
風は止んでいた。
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でも確かに、香った。
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(モモ)
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遠い。
だが、いる。
この時代に、いる。
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金の光が都を呼ぶように。
墨の黒が記録を残すように。
シンの中の何かが、彼女の気配を拾っていた。
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懐かしさと不穏さだけが、夜の中に残った。
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(第六十九話へ)




