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北の残り火

第六十七話 北の残り火


⸻


 朝霧の中に、アテルイがいた。


⸻


 正確には、朝霧の中で馬に説教していた。


⸻


 馬達の間にいた。


 管理しているのではなかった。


 従えているのでもなかった。


 ただ、混ざっていた。


⸻


 霧は低かった。


 柵の外の草地に白く溜まり、馬の脚を膝のあたりまで隠していた。


 馬が息を吐くたび、その霧が少しだけ揺れる。


 白いものの中から、耳が出る。


 首が出る。


 濡れた毛並みが、朝の薄い光を吸っていた。


⸻


 アテルイは、その中に立っていた。


 手に縄を持っていない。


 鞭も持っていない。


 腰に刀はある。


 だが、馬の前ではそれを意識させなかった。


⸻


 一頭が自然に寄ってくる。


 鹿毛の牝馬だった。


 首を伸ばして、アテルイの肩へ頭を擦り付けた。


 かなり強く擦り付けたので、アテルイの体が少し傾いた。


 アテルイは特に驚かなかった。


 耳の後ろをゆっくり掻いた。


⸻


「お前、また柵越えたろ」


⸻


 馬に向かって言っていた。


 馬は答えない。


 ただ、耳を一度だけ後ろへ倒した。


 叱られる前の子供みたいな耳だった。


⸻


「知らない顔をするな。腹に出てる」


⸻


 アテルイは馬の腹のあたりを軽く叩いた。


 叩くと言っても、音を出すための触れ方だった。


 馬は鼻を鳴らした。


⸻


「だからお前は太るんだ」


⸻


 鹿毛の牝馬は、悪びれる様子もなく、アテルイの袖を噛んだ。


 噛むというより、唇で引いた。


 抗議しているようにも、誤魔化しているようにも見えた。


⸻


「やめろ。反省のふりが下手だ」


⸻


 アテルイは袖を取り返した。


 馬は鼻を鳴らした。


 霧の中で、その音だけが妙に大きく聞こえた。


⸻


 シンは少し離れたところから、それを見ていた。


⸻


 会話している。


⸻


 そう見えた。


 もちろん、馬が言葉で返しているわけではない。


 アテルイも、本当に返事を待っているわけではない。


 だが、馬が耳を動かす。


 鼻を鳴らす。


 首の力を抜く。


 前脚にかける重さを変える。


 アテルイはそれを見て、触る場所を変える。


 声の低さを変える。


 半歩退く。


 また近づく。


⸻


 命令ではなかった。


 長い付き合いの中で、互いに読めるようになったものだった。


⸻


 子馬が一頭、アテルイの足元をうろついていた。


 脚がまだ細い。


 冬毛がふわりと残っていて、霧の水気を含んでいる。


 大人の馬に近づいては押し戻され、また別の馬の腹の下へ入り込もうとしている。


 危なっかしい。


 だが、周りの馬は本気で怒らない。


⸻


 アテルイは子馬の方も見た。


 しゃがんで、鼻先へ手を差し出した。


 子馬がそれを嗅いだ。


 少し後退する。


 耳を立てる。


 また近づく。


⸻


 アテルイは動かなかった。


 手を追わせない。


 逃げても、追わない。


 ただ待った。


⸻


 子馬がもう一度、鼻先を近づける。


 アテルイの指に触れる。


 それから、急に興味を失ったみたいに横を向いた。


 アテルイが小さく笑った。


⸻


「偉い顔だな」


⸻


 霧の中に、その光景だけがあった。


⸻


 シンが近づくと、アテルイが振り返った。


 起きていたか、とも言わなかった。


 ただ、横へ少し空けた。


 座れ、ということらしかった。


⸻


 シンは草の上に腰を下ろした。


 草は濡れていた。


 冷たかった。


 だが、不快ではなかった。


 山の朝の冷たさだった。


⸻


「なんで馬があんなに懐くんだ」


⸻


 シンが聞いた。


⸻


 アテルイは少し考えた。


 考えながら、牝馬の鼻面を軽く押し返した。


 馬がまた肩へ頭を擦り付けようとしていた。


⸻


「怖がってないからじゃないか」


「それだけか」


「それだけだ」


⸻


 アテルイは霧の向こうを見た。


⸻


「人間はすぐ支配したがる。縄を締める。声を荒げる。先に勝とうとする」


「馬には勝てないだろ」


「勝てる。勝てるが、嫌われる」


⸻


 アテルイは牝馬の首に手を置いた。


 馬の皮膚が、その下で細かく震えた。


 霧の中に小さな虫がいたらしい。


⸻


「馬は嫌な奴には近寄らない。近寄っても、心を寄せない」


「心か」


「面倒な言い方だが、他にない」


⸻


 子馬がまた近づいてきた。


 今度はアテルイではなく、シンの方へ来た。


 シンは少し固まった。


 子馬が鼻先を伸ばす。


 シンの膝のあたりを嗅ぐ。


 喉の布の方へ顔を上げる。


⸻


 シンは反射的に動きかけて、止めた。


 逃げれば追ってくるかもしれない。


 手を出せば怖がるかもしれない。


 どうすればいいか分からず、ただ座っていた。


⸻


 アテルイが笑った。


⸻


「嫌われてはいないらしい」


「……怖がってないだけだろ」


「そうだ。それで十分だ」


⸻


 子馬はシンの膝を嗅ぎ終えると、興味を失ったように横へ歩いていった。


 小さな尾が、霧の中で揺れた。


⸻


「今、俺は判定されたのか」


「された」


「どうだった」


「食えない。危なくない。面白くもない」


「最後は余計だろ」


 アテルイが笑った。


 笑うと、周りの馬が少し耳を動かした。


 この男の笑い声を、馬も覚えているのだと思った。


⸻


 霧が少しずつ薄くなっていた。


 山の形が出てきた。


 川の音が近くなった。


 どこかで、朝の火が起こされる匂いがした。


⸻


「馬と話せるのか」


 シンが聞いた。


⸻


 アテルイは、少しだけ眉を上げた。


⸻


「話せる」


「本気で言ってるのか」


「本気だ」


⸻


 アテルイは馬を見た。


 馬は草を食んでいた。


⸻


「こいつらは、嘘が下手だ。怖い時は怖がる。痛い時は痛がる。走りたい時は体が先に前へ出る。眠い時は耳が鈍る」


「それを読むってことか」


「それを読む。こちらも読まれる」


⸻


 アテルイが手を上げると、牝馬が一歩寄った。


 呼ばれたからではない。


 アテルイの体の向きと、声を出す前の気配を読んだように見えた。


⸻


「だから、話してる」


⸻


 シンは黙った。


 妙に納得した。


 不思議なことが起きているわけではない。


 それでも、言葉を使っている人間同士より、ずっと通じているように見えた。


⸻


⸻


 その日は、イサワの中を歩いた。


⸻


 朝の霧が晴れると、集落の輪郭がはっきりした。


 前日に見た時よりも、広く見えた。


 木柵はただ敵を防ぐためのものではなかった。


 馬を逃がさない。


 子供が川へ迷わない。


 夜の獣を遠ざける。


 乾かしている魚や皮を守る。


 そういう生活の境でもあった。


⸻


 柵の内側には、低い家が並んでいた。


 草葺きの屋根。


 土を固めた壁。


 板を組んだ壁。


 高床の倉もあった。


 鼠を防ぐためなのか、柱の途中に平たい板が付けられている。


 倉の下では犬が丸くなっていた。


⸻


 川へ出ると、男達が漁をしていた。


 網を使っていた。


 川幅は広い。


 水は澄んでいる。


 秋の水だから、足を入れれば骨まで冷えるはずだった。


 それでも男達は足首から脛まで水に入っていた。


 冷たそうな顔をしながら、手は止めない。


⸻


 網を張る者。


 石を動かして魚を追う者。


 岸で籠を構える者。


 獲れた魚をすぐに腹へ刃を入れる者。


⸻


 作業は早かった。


 声を張り上げない。


 だが、必要な時だけ短く呼ぶ。


 その声で、誰が何をするか分かっている。


 ヤマトの陣で見た命令とは違う。


 こちらは、何度も同じ水に入ってきた人間達の呼吸だった。


⸻


 魚の銀が、朝の光を弾いた。


 岸の棚には、割かれた魚が並んでいる。


 尾を下げ、腹を開き、風を通す。


 塩は少ない。


 だから煙を使う。


 風を使う。


 寒さを使う。


 この土地にあるものを、全部使う。


⸻


 少し上流では、炭焼き場があった。


⸻


 土を積んだ低い窯から、白い煙が細く上がっていた。


 煙はまっすぐには昇らない。


 山から来る風に押され、横へ流れて、また木々の間へ戻っていく。


 炭を管理している老人が一人、煙を見ながら何かを確認していた。


⸻


 老人は、煙の色を見る。


 匂いを嗅ぐ。


 土の隙間から漏れる熱を手の甲で測る。


 木が炭へ変わる途中の声を聞いているようだった。


⸻


「まだ開けない」


 老人が言った。


 誰に向けた言葉でもなかった。


 近くにいた若者が、黙って頷いた。


⸻


 炭が要る。


 鍛冶に要る。


 冬に要る。


 火を長く持たせるためにも要る。


 山の火は、ただ燃やすだけでは続かない。


 燃やし方を知る者がいて、初めて続く。


⸻


 鍛冶の音が続いていた。


⸻


 鉄を打つ音だ。


 一定のリズムで打っていた。


 近づくと、若い男が赤い鉄を叩いていた。


 鍛冶場は簡素だった。


 炉。


 鞴。


 石の台。


 道具を置く棚。


 壁には曲がった刃や、折れた鏃や、使い古した金具が吊られている。


 新しい鉄だけではない。


 古いものを直し、つなぎ、また使う場所だった。


⸻


 師匠らしい老人が横で見ていた。


 何も言わなかった。


 若い男の槌の角度が少しずれる。


 老人が咳をした。


 それだけで、若い男の手が直った。


⸻


 鉄が赤い。


 赤から橙へ変わる。


 橙から暗くなる。


 暗くなる前に打つ。


 打てなくなれば、火へ戻す。


 その繰り返しだった。


⸻


 シンは、火を見ていた。


 炉の火とは違う。


 飯の火とも違う。


 鉄を変える火。


 人の生活を守るために、硬いものを曲げる火。


⸻


 毛皮を加工している女達がいた。


 皮を伸ばし、乾かし、脂を入れ、柔らかくする作業だ。


 木枠に張られた皮が、秋の光の中で白く見えた。


 女達の手は荒れていた。


 指の節が太く、爪の間に汚れが入っている。


 でも手つきに迷いがなかった。


 どこを強く引けば裂けるか。


 どこなら伸びるか。


 手が知っている。


⸻


 子供が近くで見ていた。


 一人が飽きて、皮の端をつついた。


 女がその子の頭を軽く叩く。


 叱るというより、覚えろ、という手だった。


 子供は口を尖らせたが、また見た。


⸻


 市のような場所もあった。


 都にあるような市とは多分違う。


 決まった区画があるわけではない。


 木の台、敷いた布、荷を下ろした場所。


 そこに物が並ぶ。


 琥珀。


 鉄器。


 毛皮。


 干した魚。


 薬になる根。


 馬具の金具。


 矢柄にする木。


 誰かが持ってきて、誰かが持っていく。


⸻


 琥珀は、光を含んでいた。


 小さな虫の影が閉じ込められているものもあった。


 シンはそれを見て、すぐに分かった。


 これが欲しいのだ。


 鉄も。


 馬も。


 皮も。


 山の道も。


⸻


 ヤマトは、ただ鬼を討ちに来るのではない。


 道を欲しがる。


 物を欲しがる。


 名を欲しがる。


 数えられるものにして、自分の内へ入れようとする。


⸻


(国だけど、村の延長だ)


⸻


 シンは思った。


 ヤマトのような、命令と管理の国家ではない。


 だが、ばらばらでもない。


 未開でもない。


 山の民が連なって、一つの形になっている。


 川の集まり。


 馬の集まり。


 火の集まり。


 その形が、生きていた。


⸻


 老人が子供に弓を教えていた。


 子供は弓を引く力がなくて、何度も手元が狂った。


 老人は怒らなかった。


 ただ、後ろから腕ごと支えた。


 弓を引く。


 戻す。


 また引く。


⸻


「獣を射る前に、自分の息を射る」


 老人が言った。


 子供は意味が分からない顔をした。


 それでも真剣に頷いた。


⸻


 シンはその横を通り過ぎた。


 胸の奥に、アサメの時代の山が重なった。


 あの山は小さかった。


 ここは大きい。


 あの山は、まだ国になる前の火だった。


 ここは、国に近づいた火だった。


⸻


 それでも、根は同じだった。


 生きるために覚え、覚えたものを次へ渡す。


 それだけのことが、国の形になる。


⸻


⸻


 二日目の昼過ぎ、匂いで気づいた。


⸻


 燻製の匂いと、汁の匂いが混じっていた。


 炭焼き場の近くの、人が集まっている場所から来ていた。


 煙の奥に、脂がある。


 根菜の甘さがある。


 魚の皮が焦げる匂いがある。


⸻


 でかい男が、鍋をかき回していた。


⸻


 シンは止まった。


⸻


「……また面倒な顔してる」


⸻


 男が振り返らずに言った。


⸻


「タダ」


「ああ」


「お前、荷運びじゃなかったのか」


「荷は置いた」


「置いたら鍋の前に来るのか」


「火があった」


「理由になるのか」


「なる」


⸻


 タダは鍋を混ぜながら答えた。


 説明するつもりがない言い方だった。


 でも嘘でもなかった。


⸻


 タダは、シン達と一緒にイサワへ入った。


 道案内というより、荷を背負う者としてだった。


 モレの前でも田村麻呂の前でも態度を変えず、ただ袋を担いで歩いていた。


 その男が、気づけばもう炭焼き場の近くで鍋を見ている。


 そして、最初から任されていたみたいな顔で匙を動かしている。


⸻


 足元には、荷袋が二つ置かれている。


 一つは空になっていた。


 もう一つには干し魚と根菜が残っている。


 その隣に、塩を入れた小さな袋があった。


 口をきつく結んでいる。


 大事なものの置き方だった。


⸻


「アテルイとも知り合いか」


「何度か飯を出した」


「それで鍋まで触れるのか」


「飯は強い」


⸻


 シンは少し笑いそうになった。


 またなった。


 ここ数日で、そういうことが増えていた。


 笑いそうになって、自分で驚く。


 まだ笑えるのか、と。


⸻


 タダは鍋から匙を上げた。


 汁を少し落とす。


 粘りを見る。


 それから、火を見た。


⸻


「火が近い」


 タダが言った。


 近くの若い男が首を傾げた。


「鍋が怒ってる」


「鍋が?」


「泡が荒い」


⸻


 タダは薪を一本抜いた。


 火が少し落ちる。


 鍋の泡が静かになった。


 若い男が感心した顔をした。


 その隣で、さっきまで鍋を見ていた女が腕を組んでいた。


 余所者に場所を取られて不満そうなのに、鍋の泡が静かになると、悔しそうに頷いた。


 タダはその頷きも見ていない。


 タダは何も言わない。


 当然のことをしただけ、という顔だった。


⸻


 アテルイがその場に来た。


 馬具を直していたらしく、手に革の匂いがついていた。


 鍋を覗き込む。


⸻


「お前の汁は薄い」


「塩は貴重だ」


「もう少し入れろ」


「駄目だ」


「鹿革やる」


「塩の方が高い」


「ぬぅ」


⸻


 アテルイが少し口を曲げた。


 言い返さなかった。


 でも次の瞬間、小さく笑っていた。


⸻


「では、何を足せば濃くなる」


「時間」


「それは今ない」


「なら我慢しろ」


「客に出す汁だぞ」


「客も我慢する」


⸻


 周りにいた者が笑った。


 アテルイも笑った。


 タダは笑わなかった。


 ただ、鍋へ薄く裂いた燻製肉を入れた。


⸻


「それは塩ではないのか」


 アテルイが言った。


「肉だ」


「塩をまとった肉だ」


「肉だ」


「ずるいな」


「飯はずるくていい」


⸻


 アテルイは真面目な顔で頷いた。


「それは覚えておく」


「覚えるな」


「なぜだ」


「悪用する顔だ」


「俺はそんな顔をしているか」


「してる」


 周りがまた笑った。


 アテルイは笑われても平気だった。


 むしろ少し得意そうですらあった。


⸻


 シンはその会話を聞きながら、汁をもらった。


 薄かった。


 でもうまかった。


 塩が前に出ないぶん、魚と根の味が分かる。


 燻製肉の脂が、後から舌に戻ってくる。


 腹に落ちると、体の芯が少しだけ温かくなった。


⸻


「薄いだろ」


 タダが言った。


「うまい」


「薄いかどうかを聞いた」


「薄い」


「だろ」


⸻


 タダは満足そうだった。


 薄いことを認めた上で、うまい。


 それが大事らしかった。


⸻


 アテルイが椀を持ったまま言った。


「戦の後も、お前はどっちにも飯を持っていくのか」


「生きていれば」


「死んでいたら」


「誰かが作れ」


⸻


 アテルイは少し黙った。


 それから椀を見た。


⸻


「飯を作る者は、戦う者より強い時があるな」


「腹が減った戦う者は弱い」


「そうだな」


⸻


 アテルイは汁を飲み干した。


 椀の底に残った根のかけらまで、指で取って食べた。


 それを誰も不作法とは見なさなかった。


 ここでは、食べ物を残す方が不作法なのだと分かった。


⸻


⸻


 夜になった。


⸻


 老女達が炉の番をしていた。


 夜通し火を維持する仕事だ。


 大きな火ではない。


 炎を高く上げる火でもない。


 炭の奥に熱を残す火だった。


 灰をかぶせ、空気を絞り、朝まで消えないように眠らせる。


⸻


 火を眠らせる。


⸻


 その言い方が、シンの中に浮かんだ。


 消すのではない。


 殺すのではない。


 朝に起こせる形で、夜へ渡す。


⸻


 スズリが、その輪へ自然に混ざっていった。


 最初は見ているだけだった。


 紙も筆も持っていない。


 記録する者としてではなく、火の前にいる一人として座っていた。


⸻


 老女の一人が灰を寄せる。


 別の老女が炭の位置を変える。


 火が強すぎる場所に灰をかぶせ、弱すぎる場所へ細い枝を入れる。


 無駄がなかった。


⸻


 スズリはそれを見ていた。


 見ているうちに、腰の小さな布袋へ手をやった。


⸻


 お守りだった。


⸻


 墨色の衣の内側から、そっと取り出す。


 小さな布袋。


 紐は何度も替えられているようだった。


 袋の布も古い。


 だが、中に入っているものの方がもっと古かった。


⸻


 スズリは布袋の口を開いた。


 中から、煤けた鉄片を出した。


 指の先ほどの、小さな欠片だった。


 刃物の一部なのか。


 火打ちの残りなのか。


 何かの飾りだったのか。


 形はもう分からない。


 黒く煤けて、ところどころ赤錆が浮いている。


⸻


 それでも、捨てられずに残されてきたものだった。


⸻


 スズリはそれを掌に乗せた。


 火に近づける。


 鉄片が、赤くなるわけではない。


 ただ、表面の煤が少しだけ光を返した。


 スズリはじっと見ていた。


⸻


 自分で意味を知らないものを、意味があるものとして持たされてきた。


 そういう目だった。


⸻


 老女の一人が、手を止めた。


 スズリの手元を見た。


 目が細くなる。


 火を見る目ではない。


 古い傷を見る目だった。


⸻


「それを、誰に持たされた」


⸻


 スズリが顔を上げた。


 鉄片を握り込まなかった。


 隠さなかった。


 ただ、掌に乗せたまま、少しだけ固まった。


⸻


「分かりません」


「分からぬ?」


「子供の頃から、持っていました。意味は、知らないんです」


⸻


 老女は黙った。


 それから別の老女と目を合わせた。


 何かを確認しているみたいだった。


 でも、すぐには何も言わなかった。


⸻


 炉番の老人が、そこへ来た。


 昼間、炭焼き場で煙を見ていた老人だった。


 火を確認してから、ゆっくりと座った。


 腰を下ろすまでに時間がかかった。


 だが、座ると背筋が少し伸びた。


⸻


 老人はスズリの掌を見た。


 鉄片を見た。


 それから、炉を見た。


⸻


「……それ、まだ残っていたのか」


⸻


 スズリは意味が分からなかった。


 でも老女達が少しだけ動いた。


 呼吸が変わった。


 それだけだった。


 何も言わなかった。


⸻


「知っているんですか」


 スズリが聞いた。


⸻


 老人はすぐに答えなかった。


 火箸で炭を一つ動かした。


 炭の奥から、小さな赤が覗いた。


⸻


「知っているというほどではない」


 老人は言った。


「俺が見たものではない。俺の父が見たものでもない。父の父が、年寄りから聞いた話だ」


⸻


 誰かへ向けた話ではなかった。


 でも、皆が聞いていた。


 シンも、少し離れた場所で聞いていた。


 モレは柱の影に立っていた。


 アテルイはいなかった。


 だが、外で馬が一度鼻を鳴らした。


 その音まで、話を聞くために静まったように感じた。


⸻


「昔、火の山が焼かれた時代があった」


⸻


 老人は言った。


 静かな声だった。


 炉の火の音に混じる声だった。


⸻


「山の民は散った。一部は海へ逃げた。イズモのキジに案内されて、別の地へ移り住んだ」


⸻


 シンは、少し動いた。


⸻


(海へ逃げた)


⸻


 前の時代のことを思い出した。


 ナギが船を出した。


 タダが子供を抱えていた。


 火種が海の上を行った。


 黒い水の上で、小さな火が消えないように守られていた。


⸻


 喉の奥が、急に狭くなった。


 ただの昔話のはずだった。


 この老人は、アサメの名を知らない。


 ナギも知らない。


 シンがいた山の夜も、火の前で交わされた声も、知るはずがない。


⸻


 それなのに、話の中にあった。


 海へ逃げた火。


 子供を抱えた腕。


 消えないように守られた小さな赤。


⸻


 シンは、膝の上で手を握った。


 爪が掌に食い込んだ。


 痛みがあって、ようやく息が戻った。


⸻


「逃げなかった者達が、北へ向かった」


 老人は続けた。


「山を越え、川を越え、名を変え、血を混ぜた。炉を消さないように。火を守りながら」


⸻


 老人は炉を見た。


 今燃えているこの火を見た。


⸻


「それが、ここへ来た」


⸻


 だれも喋らなかった。


 炉の音だけが続いた。


⸻


 シンは、目の前の炉を見た。


 灰の奥に赤がある。


 細い。


 小さい。


 息を吹きかけすぎれば散る。


 放っておけば消える。


 それでも、火だった。


⸻


(残ってた)


⸻


 声にはならなかった。


 でも、胸の奥でその言葉だけがはっきりした。


⸻


 アサメは死んだ。


 その事実は変わらない。


 あの手はもう戻らない。


 あの声も戻らない。


 シンが戻りたいと願った場所は、もうどこにもない。


⸻


 だが、消えていなかった。


⸻


 アサメが守ろうとしたもの。


 ナギが海へ運んだもの。


 タダが腹を満たして守ったもの。


 山の民が、名を変え、血を混ぜ、それでも捨てなかったもの。


 それが、ここにあった。


⸻


 シンは、少し下を向いた。


 泣くつもりはなかった。


 泣く場面でもなかった。


 だが、目の奥が熱かった。


 悲しみだけではなかった。


 救われた、という言葉も違う。


 もっと苦くて、もっと温かいものだった。


⸻


 戻れない。


 でも、届いていた。


⸻


 そのことが、ひどく痛くて、ひどくありがたかった。


⸻


「その時、火を持つ者がいたという」


 老人は、スズリの掌へ視線を戻した。


「女だったとも、子供だったとも、男だったとも言う。話す者によって違う。だが、火を持っていたことだけは同じだ」


⸻


「火を」


 スズリが小さく言った。


⸻


「消えた炉へ入れる火だ。死んだ者の名を忘れぬための火だ。新しい家を、ただの小屋にしないための火だ」


⸻


 老人の声は低かった。


 だが、重すぎなかった。


 昔話を語る声だった。


 事実と祈りが、まだ分かれていない場所の声だった。


⸻


「その火を守るために、鉄の欠片を袋へ入れた。焼けた山から拾った鉄だとも、折れた刃だとも、炉の底に残った塊だとも言う。何が本当かは知らん」


⸻


 スズリの指が、鉄片を少しだけ強く包んだ。


⸻


「それは何のために」


「忘れぬためだ」


⸻


 老人は即座に答えた。


⸻


「火は、見ていなければ消える。名も同じだ。持つ者が持ち、次へ渡す。意味が分からなくなっても、捨てなければ残る」


⸻


「……その火を持つ者は」


 シンは、気づくと口を開いていた。


 声が少し掠れていた。


⸻


 老人がシンを見た。


 老女達も見た。


 スズリも、鉄片を掌に乗せたまま顔を上げた。


⸻


「その者は、どうなった」


⸻


 老人はすぐには答えなかった。


 炉の火を見た。


 灰を少し寄せた。


 赤が、ほんの少し広がった。


⸻


「知らん」


⸻


 短い答えだった。


 シンの胸が、少し沈んだ。


 だが老人は続けた。


⸻


「山で死んだとも言う。海へ戻ったとも言う。名を変えて、誰かの母になったとも言う。火の中へ入ったとも言う」


⸻


 老人は、そこで薄く笑った。


 作り話を笑う顔ではなかった。


 人がどうしても何かを残したくなることを知っている顔だった。


⸻


「だが、どうなったかより、火が残ったことの方が大事だ」


⸻


 シンは息を止めた。


⸻


「人は死ぬ。名も削れる。話は曲がる。だが、炉に火が入れば、子が飯を食う。寒い夜を越す。次の朝に起きる。それで、死んだ者は少しだけ負けずに済む」


⸻


 シンは何も言えなかった。


 胸の奥で、何かが崩れた。


 崩れたのに、空洞にはならなかった。


 そこへ、別の温かさが入ってきた。


⸻


 アサメを忘れることはできない。


 忘れたくもない。


 だが、アサメのいた場所へ戻ることだけが、彼女を想うことではない。


 ここに残った火を見ることも、たぶん同じだった。


⸻


 スズリは黙った。


 鉄片を見ていた。


 自分が今まで、意味の分からないものを持っていたこと。


 意味の分からないまま、捨てなかったこと。


 そのことが、急に重くなったように見えた。


⸻


「私は」


 スズリが言った。


 声は小さかった。


「これを、何も知らずに持っていました」


「それでいい」


 老人は言った。


「知っている者だけが残すわけではない。知らぬ者が残すこともある」


⸻


 スズリは顔を上げた。


⸻


「知らないままで、残していいんですか」


「知ったふりで捨てるよりは、よほどいい」


⸻


 老女の一人が、そこで小さく笑った。


 笑いというより、息だった。


⸻


「火を見る手つきだった」


 その老女が言った。


「さっきの手だ。灰を寄せる手。あれは、教わらねばできぬ」


⸻


 スズリが自分の手を見た。


 白い指。


 墨の跡。


 爪の隙間に、さっき触れた灰が少し入っている。


⸻


「私は、覚えていません」


「手は覚える」


 老女が言った。


「頭より先に、手が覚えることがある」


⸻


 スズリは何も言えなかった。


 変な顔ではなかった。


 取り乱してもいなかった。


 ただ、静かに戸惑っていた。


 自分の中に、自分より古いものが少しだけ残っている。


 それをどう扱えばいいのか分からない。


 そんな顔だった。


⸻


 シンは、その顔を見ていた。


 胸の奥が少し痛んだ。


 記憶がなくても、残るものはある。


 それを信じたいと思っていた。


 でも、目の前に出されると、少し怖かった。


⸻


 モモも、そうなのか。


⸻


 名前を呼べなくても。


 自分が何者か分からなくても。


 それでも、どこかに残っているものはあるのか。


⸻


 炉の火が、低く鳴った。


 老人はまた炭を動かした。


⸻


「持っていろ」


 老人が言った。


「それは、お前が意味を知るためのものではない。お前が消さぬためのものだ」


⸻


 スズリは、鉄片を布袋へ戻した。


 袋の口を結ぶ。


 結び目に少し手間取った。


 指が震えていた。


⸻


 誰も急かさなかった。


 炉の火だけが待っていた。


⸻


⸻


 深夜、客間へ戻った。


⸻


 寒かった。


 山の夜だ。


 秋の終わりの冷気が、板の隙間から来ていた。


 昼の火の匂いは残っている。


 だが、空気はすぐに冷える。


⸻


 炉の炭が残っていたが、小さかった。


 赤い芯だけが灰の奥にある。


 その赤を見ていると、さっきの老人の言葉が戻ってきた。


⸻


 火は、見ていなければ消える。


 名も同じだ。


⸻


 毛皮が足りなかった。


 スズリが一枚持っていた。


 それを、シンに押し付けようとした。


⸻


「俺より寒いだろ」


「慣れています」


「慣れてない顔だ」


「そんな顔ですか」


「してる」


⸻


 結局、毛皮を半分ずつにした。


 炉の近くに並んで横になった。


 他に方法がなかった。


⸻


 距離は近かった。


 だが、妙な気配はなかった。


 寒さをしのぐための距離だった。


 火のそばで生き物が身を寄せる距離。


⸻


 炉の火が、小さく揺れていた。


 外で風が鳴っている。


 スズリの墨と、薄い香の匂いがした。


 その奥に、灰の匂いが混ざっていた。


⸻


 しばらくして、スズリが言った。


⸻


「ここ、初めてなのに懐かしいんです」


⸻


 シンは炉を見たまま答えた。


⸻


「俺もだ」


「……変ですよね」


「変じゃない」


⸻


 少し間があった。


 風が板の隙間を鳴らした。


⸻


「あなたは、誰を探しているんですか」


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 シンは少し止まった。


⸻


「探している」


「はい。ずっとそういう顔をしています」


「そういう顔か」


「はい」


⸻


 シンは炉の火を見た。


 答えるつもりはなかった。


 でも、口が動いた。


 火のそばでは、時々、言わなくていいことまで口から出る。


⸻


「……黒髪の女だ」


⸻


 スズリは黙った。


⸻


「桃の香りがする」


⸻


 言ってから、胸の奥が冷えた。


 久しく感じていない香りだった。


 思い出すだけで近くなるのに、近くなったぶんだけ遠さが分かる。


⸻


「会えていないのですか」


「壊れてしまった。置いて来てしまった」


⸻


 全部は言わなかった。


 言えなかった。


 未来のこと。


 観測のこと。


 命令のこと。


 死に戻りのこと。


 白い光の中で泣いた顔のこと。


 何も言えなかった。


 でも、それだけ出た。


⸻


 スズリは黙っていた。


 何も言わなかった。


 励ましもしなかった。


 尋ね返しもしなかった。


⸻


 ただ、少しだけ毛皮を自分の方へ引いた。


 気づいていないみたいだった。


 無意識の動きだった。


 毛皮の端が、シンの肩から少しずれた。


 スズリはそれに気づいて、また少し戻した。


⸻


 しばらくして、小声で聞いた。


⸻


「その人、まだ生きていると思いますか」


⸻


 シンはかなり長く黙った。


⸻


 炉の炭が、かすかに音を立てた。


 灰の奥で、小さな赤が崩れた。


⸻


「……分からない」


⸻


 また黙った。


 外の風が、少し弱くなった。


⸻


「でも、待ってる気がする」


⸻


 スズリは答えなかった。


 少しだけ、静かになった。


 それ以上は何も言わなかった。


⸻


 やがて呼吸が落ち着いた。


 眠ったらしかった。


⸻


 シンは眠れなかった。


⸻


⸻


 しばらくして、外へ出た。


⸻


 山が見えた。


 夜の山だ。


 暗い。


 でも形が分かった。


 黒いものの上に、さらに黒いものが重なっている。


 その重なりが山だった。


⸻


 イサワの火が、柵の内側から見えた。


 夜通し燃えている炉の火だ。


 一つではない。


 あちらにも。


 こちらにも。


 家の中に低く残る火。


 炉番のそばに眠る火。


 鍛冶場の灰の奥に隠された火。


⸻


 北の残り火。


⸻


 その言葉が、胸の奥に落ちた。


⸻


 シンは山を見ながら、頭の中で知っていることを探した。


⸻


 アテルイ。


 蝦夷。


 坂上田村麻呂。


 征夷大将軍。


⸻


 そのくらいだった。


 詳しく知っていたわけではない。


 何年に何があったのか、誰が何を願ったのか、どこでどうなったのか。


 そこまでは分からない。


 ただ、大きな形だけは知っていた。


⸻


 アテルイは、田村麻呂と戦った。


 そして負けた。


 最後には処刑された。


⸻


 たぶん、学校で習った。


 あるいは、どこかで読んだ。


 覚え方も曖昧だった。


 けれど、その結末だけは頭の底に残っていた。


⸻


 遠い時代の出来事としてなら、ただの知識で済んだ。


 文字の上なら、短い。


 アテルイ。


 敗北。


 処刑。


 それだけで終わる。


⸻


 だが今は違う。


⸻


 アテルイは馬に話しかけていた。


 太った牝馬を叱っていた。


 子馬を待っていた。


 老人と笑っていた。


 タダの薄い汁に文句を言っていた。


 椀の底の根まで食べていた。


⸻


 それだけの男が、負ける。


⸻


 それだけの男が、殺される。


⸻


 その知識が、今は刃物みたいだった。


 目の前に生きている人間の背中へ、すでに振り下ろされている刃だった。


⸻


(ここは、負ける側だ)


⸻


 大雑把な結末だけを、シンは知っていた。


⸻


 アテルイは知らない。


 モレはどこかで感じているかもしれない。


 スズリは記そうとしている。


 タダは飯を作っている。


 老人達は火を眠らせている。


 子供達は弓を覚えている。


 馬は朝になれば草を食む。


⸻


 それら全部が、いずれ別の名前で書かれる。


 鬼。


 賊。


 討たれるべき者。


 服すべき者。


⸻


 モレが言っていた。


⸻


 負けても、消えないように。


⸻


 シンはその言葉を、今になって少しだけ分かった気がした。


⸻


(消えないようにするには、どうすればいい)


⸻


 初めて、そこを考えた。


 死に戻りで時間を変えることではない。


 歴史を書き直すことでもない。


 勝敗をひっくり返すことでもない。


⸻


 残すことだ。


⸻


 名前を。


 声を。


 この火を。


 薄い汁の味を。


 馬に話しかける声を。


 煤けた鉄片を掌に乗せたスズリの顔を。


 灰の奥で眠る赤を。


⸻


 シンは山を見ていた。


⸻


 風が来た。


 炉の煙が流れた。


 夜の山が、静かに呼吸していた。


⸻


 この火も、大きな流れに呑まれるのかもしれない。


 だが、呑まれた後にも残せるものがあるのかもしれない。


⸻


 火は、見ていなければ消える。


 名も同じだ。


⸻


 シンは、煙の向こうの山を見た。


 アサメの火。


 モモの桃。


 スズリの鉄片。


 アテルイの声。


⸻


 全部が、この夜の中で、細く繋がっていた。


⸻


(第六十八話へ)


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