胆沢
第六十六話 胆沢
⸻
イサワは、生きていた。
⸻
それが最初に来た感覚だった。
どこかが特別に美しいわけでも、強いわけでも、大きいわけでもない。
ただ、生きていた。
人が、馬が、火が、水が、全部が生きていた。
⸻
朝の霧が、まだ低いところに残っている。
川の上だけ白く、岸の草は濡れて光っていた。
木柵の内側へ入ると、土の匂いが濃くなった。
踏まれた土。
乾いた土。
雨の残った土。
同じ土なのに、場所によって匂いが違った。
人の足と馬の蹄と、炉から出た灰と、魚を洗った水が、その匂いを作っている。
⸻
木柵の内側は、思ったより広かった。
ただし、ヤマトの陣地のように真っ直ぐではない。
柵も道も、すべてが土地に合わせて曲がっていた。
大きな木を避ける。
水の流れを避ける。
風の抜ける場所を残す。
人間が線を引いたというより、土地の声を聞いて、必要なところだけ囲ったように見えた。
⸻
柵に沿って家が並んでいる。
低く地面へ沈むような竪穴の家。
柱を立て、板と草で壁を作った家。
穀を湿気から守るためか、少し高く作られた小さな倉。
屋根には草が厚く重ねられていた。
朝の水滴が、軒先からぽたりぽたりと落ちている。
その下を、子供が裸足で走った。
叱られる。
笑って逃げる。
また叱られる。
⸻
川に向かって開けた場所には、干した魚が棚に並んでいた。
串に刺されたもの。
腹を開かれたもの。
細く裂かれて、縄に掛けられたもの。
魚の間から、秋の光が差している。
乾いた魚の匂いと、川の水の匂いが混じっていた。
女が一人、魚の向きを変えている。
日の当たり方を見る目が、戦の見張りより真剣だった。
魚一匹分の水分が、冬の命に関わるのだろう。
⸻
遠くから、金属を打つ音がした。
規則正しい。
強く打つ音ではない。
薄く延ばす音でもない。
刃の欠けを直しているような、短く、確かめる音だった。
鉄の匂いが混じっていた。
木炭の匂いもある。
ヤマトの武器庫の匂いとは違った。
ここでは、鉄も生活の中にある。
矢じり。
小刀。
馬具の留め金。
鍋の縁。
殺すためだけではなく、切るため、結ぶため、煮るため、直すためにある。
⸻
馬が何頭も、柵の外の草地を歩いていた。
繋がれていない。
自由にしている。
でも遠くへ行かない。
ここが自分の場所だと知っているみたいだった。
若い馬が一頭、霧に濡れた草を蹴った。
そばにいた少年が短く声をかける。
馬は耳を動かして、少しだけ距離を取った。
従う、というより、互いの間合いを知っている。
そんな関係だった。
⸻
女達が集まって、燻製を作っていた。
煙の匂いが来る。
干し肉。
魚。
木の実。
細く切った根。
煙は低く、ゆっくり流れた。
火を大きくしすぎない。
熱で焼くのではなく、煙で冬へ渡す。
それを分かっている手だった。
⸻
子供が一人、その近くで木弓を持って遊んでいた。
弓が小さい。
まだ矢が飛ばない。
でも本人は真剣な顔をしていた。
少し離れたところで、年上の子供が見ている。
笑わない。
馬鹿にしない。
ただ、構えが崩れるたびに短く直す。
遊びの中に、もう次の冬が混じっていた。
⸻
シンは、その全部を少し遠くから見ていた。
⸻
(消えてなかった)
⸻
声に出なかった。
でも、腹の底に落ちた。
⸻
炉の火の囲み方。
山への入り方。
肉の吊るし方。
水場の場所に手を合わせる仕草。
炉が家の中央にあること。
子供が火へ近づく時、誰かが自然に肩を引くこと。
年寄りが何も言わず、薪の向きを直すこと。
弱い者へ、椀が先に回ること。
⸻
アサメの時代にあったものが、全部ここに生き残っていた。
完全に同じではない。
五百年分の変化がある。
道具も増えている。
人の数も増えている。
集まりは大きくなり、役目も細かくなっている。
でも根っこは続いていた。
途切れていなかった。
⸻
山が消えなかったように、山で生きた人の形も消えなかった。
⸻
⸻
スズリは黙っていた。
⸻
柵の内側へ入ってから、ずっと黙っていた。
泣いているわけではなかった。
でも、目が普通じゃなかった。
何かをじっと見ている目だった。
見知らぬ場所を見ている目ではない。
かといって、思い出した者の目でもない。
戸の向こうから、自分の名を呼ばれた気がして、しかしその声がどこから来たのか分からない。
そんな目だった。
⸻
炉のそばを通り過ぎた時、スズリの足が少し遅くなった。
灰の積もり方を見た。
何も言わなかった。
でも、炉の端に置かれていた火掻き棒へ、自然に手を伸ばした。
灰を少しだけ寄せる。
赤い芯が、下から細く見えた。
そこへ、細い枝を一本足す。
枝はすぐには燃えない。
少し煙を出し、それから静かに火を受けた。
⸻
近くにいた老女が、少しだけ顔を上げた。
スズリを見た。
灰を見る。
火を見る。
またスズリを見る。
でも何も言わなかった。
⸻
スズリは気づいていないようだった。
自分が何をしたかも分かっていないみたいに、また歩き出した。
数歩行ってから、ようやく自分の手を見た。
指先に灰がついている。
墨ではない。
灰だった。
スズリはそれを少し見つめ、布で拭おうとして、やめた。
そのまま、手を下ろした。
⸻
シンはそれを見ていた。
モレも見ていた。
アテルイは少し離れた場所で、何も見ていないような顔をしていた。
だが、たぶん見ていた。
あの男は、そういう見方をする。
⸻
⸻
迎えに出てきた男に案内されて、客用の場所へ通された。
⸻
板敷きの広い空間だった。
天井が高い。
中央に炉がある。
壁際には毛皮が重ねられている。
柱には、縄と木の札が掛かっていた。
何かの印なのだろう。
シンには読めない。
スズリも、すぐには書こうとしなかった。
見るだけにしていた。
⸻
床板は、よく踏まれて艶が出ていた。
新しい建物ではない。
人が何度も座り、話し、飯を食い、寝た場所だ。
入口近くには濡れた履物を置く場所がある。
奥には、客が横になれるだけの空きが作られていた。
客を泊め慣れている。
そういう場所だった。
⸻
シンは荷を置いた。
タダは一度だけ炉を見て、黙って頷いた。
よい火だ、と思ったのかもしれない。
スズリが筆と紙を取り出した。
もう記録を始める気らしかった。
⸻
「今日は休め」
⸻
モレが言った。
珍しく柔らかい声だった。
「明日から見ればいい。今日は食って眠れ」
スズリは少し迷った。
紙を見る。
炉を見る。
自分の灰のついた指を見る。
それから、筆を戻した。
「……はい」
小さく答えた。
その声は、疲れていた。
記録をする前に、受け取りすぎていた。
⸻
⸻
昼の飯の場所へ呼ばれた。
⸻
外の広場だった。
焚き火がいくつかある。
鍋が並んでいる。
粟の飯。
焼いた魚。
根菜の汁。
干し肉。
豆を煮たもの。
木の実を砕いて混ぜたもの。
塩は多くない。
だが、燻した匂いと、魚の脂と、根菜の甘さがあった。
⸻
器は揃っていなかった。
木の椀。
土器。
欠けた縁を直した器。
他所から来たらしい、硬く焼かれた器も少しだけ混じっている。
それぞれ違う。
でも誰も気にしていない。
器は形ではなく、手から手へ渡ることで役目を持っていた。
⸻
アテルイがいた。
⸻
広場の端、他の男達と並んで座っていた。
特別な場所ではなかった。
上座でも何でもない。
ただの、端の方だった。
だが、そこにいるだけで、人の流れが少し変わる。
誰かが話しかける。
誰かが遠くから目だけで合図する。
アテルイはそれに短く返す。
大きな声を出さない。
命令もしない。
それでも、何かが決まっていく。
⸻
子供が三人、アテルイの周りにいた。
一人がアテルイの肩に乗ろうとしていた。
アテルイは腕を曲げて、その子を肩まで持ち上げた。
何でもない動きだった。
子供が笑った。
周りの男達も笑った。
戦の話をしていた顔が、ほんの一瞬だけ父親の顔になる。
その変化が、シンには妙に刺さった。
⸻
食事が始まった。
⸻
アテルイは椀を持っていたが、自分が食べる前に何度か横へ回していた。
隣の若い男へ。
遠くにいた老人へ。
子供へ。
それから、ようやく自分で食べた。
誰も驚かない。
それがいつものことなのだ。
偉いから先に食うのではない。
中心にいるから、回す。
そういう男だった。
⸻
シンはその様子を見ながら、飯を食べた。
⸻
うまかった。
飾り気がなかった。
でも、素材の味がした。
山の飯だった。
粟は少し硬い。
魚は皮が香ばしい。
汁は熱く、根の匂いが強い。
干し肉は噛むほどに脂が戻る。
体が、ゆっくりこちらへ戻ってくる。
食べ物はずるい。
どの時代でも、死んだ者は戻さないくせに、生きている体だけは戻してくる。
⸻
タダは、いつの間にか鍋のそばにいた。
誰かと火加減の話をしている。
もう馴染んでいた。
アテルイがそれを見て、少し笑った。
シンは、その笑い方を見て、思った。
この男は強い。
強いが、強さを見せるために強いわけではない。
人がそれぞれの場所を見つけるまで、場所を空けておける強さだった。
⸻
⸻
食後、アテルイが川の方へ歩いた。
⸻
シンは少し後からついていった。
誰も止めなかった。
モレは見ていた。
止めなかった。
それで、行っていいのだと分かった。
⸻
川は広かった。
秋の水だ。
透明で、底の石が見える。
流れが速い。
浅いところでは水が白く折れ、深いところでは緑がかった黒になっていた。
対岸の草は風に倒れ、また起きる。
木の葉が一枚、水面を走るように流れていった。
⸻
アテルイは川岸に立って、向こう岸を見ていた。
シンも並んだ。
しばらく、二人とも黙っていた。
沈黙が苦しくなかった。
この男の横では、黙っていても責められている感じがしない。
それが不思議だった。
⸻
「どうだ、鬼の国は」
⸻
アテルイが言った。
軽い口調だった。
自嘲でも怒りでもなかった。
ただ、都の方ではそう呼ばれるのだろう、と知っている声だった。
⸻
「……普通に、人が生きてる」
⸻
シンは答えた。
それしか出なかった。
アテルイが笑った。
腹から来る、自然な笑い方だった。
⸻
「そこが一番大事だからな」
⸻
川が流れていた。
水音が続いていた。
⸻
「ヤマトは、俺達を山から下ろしたい」
アテルイが続けた。
笑いは引いていたが、怒ってもいなかった。
事実として言っていた。
「城柵へ寄せ、戸を立て、名を書き、米を数える。そうすれば、殺さなくて済むと思っている」
「……嫌なのか」
「嫌というより」
⸻
少し間を置いた。
⸻
「山を忘れると、人は変になる」
⸻
シンは黙った。
「川がどこから来るか分からなくなる」
アテルイは川を見ていた。
「冬がどれくらい寒いか忘れる。飯がどこから来るか考えなくなる。火を誰が残しているか、見えなくなる」
「……」
「それで生きてはいける」
アテルイの声は穏やかだった。
「でも、何かが抜ける」
⸻
川が光っていた。
上流の方から、木の葉が一枚流れてきた。
赤かった。
流れに乗って、すぐに見えなくなった。
⸻
「お前は山を知ってる目をしてる」
⸻
アテルイが言った。
「モレもそう言った」
「そうか。モレが言うなら本当だ」
「……俺は、ここにいる資格があるのか分からない」
「資格?」
「ヤマト側で拾われた。蝦夷でもない。どちらでもない」
⸻
アテルイは少し首を傾げた。
それから言った。
⸻
「飯を食って、川を見て、火のそばにいる。それで十分じゃないか」
⸻
シンは少し止まった。
「……簡単に言う」
「難しくする理由がない」
「でも、ヤマトが来る」
「来る」
「それでも」
「それでも飯を食う。川を見る。火のそばにいる」
⸻
アテルイはそれだけ言って、また川を見た。
答えでも励ましでもなかった。
ただ、そういう男だった。
大きな戦の前でも、食う。
川を見る。
火のそばにいる。
それを軽んじない。
だから、人がこの男の周りへ戻ってくるのだと、シンは思った。
⸻
「お前は、何を探している」
アテルイが言った。
急に核心へ入ってきた。
だが、刺すような聞き方ではなかった。
「……分からない」
「そうか」
「でも、待ってる奴がいる」
「なら、行かないとな」
あっさり言った。
「どこにいるかも分からない」
「それでも、待ってるなら行くんだろ」
シンは返せなかった。
川の音が、少し大きく聞こえた。
モモの顔が浮かんだ。
泣けない顔。
一粒だけ落ちた涙。
壊れたまま待っている、とワカレが言った声。
⸻
「……ああ」
シンは言った。
「行く」
アテルイは頷いた。
それ以上は聞かなかった。
やはり、この男は聞かない。
聞かないまま、人が立つ場所を少しだけ広げる。
⸻
⸻
夕方、モレがシンの横に来た。
⸻
「アテルイと話したか」
「少し」
「どうだった」
シンは少し考えた。
⸻
「あいつは、今を守ってる」
「そうだ」
「アンタは、先を見てる」
「そうだ」
「どちらが正しい」
⸻
モレは少し間を置いた。
⸻
「両方必要だ」
⸻
それだけだった。
遠くでアテルイが老人と話していた。
老人が何か言って、アテルイが笑った。
老人も笑った。
どちらも畏まっていなかった。
そこだけ、空気が少し緩んでいた。
だが、緩いだけではない。
アテルイが笑うと、周りの者が安心する。
モレが黙ると、周りの者が考える。
二人で一つの火を守っているように見えた。
片方は今燃えている火。
片方は、灰の中に残す火。
⸻
「……いずれ鬼と書かれる」
モレが言った。
いつもの声だった。
⸻
「あいつは何と言っている」
「書きたければ書けばいいと言う」
「……」
「生きてる間くらい、ちゃんと飯食って笑えばいいと言う」
シンは少し黙った。
⸻
「それで怒らないのか」
「怒らない。あいつはそういう男だ」
「アンタは怒る」
「俺はそういう男だ」
⸻
モレは川の方を向いた。
夕日が水面に落ちていた。
赤かった。
「怒る者もいる」
モレが言った。
「笑う者もいる。飯を作る者もいる。歌う者もいる。逃げ道を見る者もいる。矢を研ぐ者もいる」
「……」
「全部いないと、火は残らない」
シンは何も言わなかった。
モレの横顔は、夕日の中で少しだけ赤く見えた。
藍の刺青は、沈む光の中で黒に近くなっていた。
⸻
⸻
夜になった。
⸻
火を囲んだ。
⸻
大きい火だった。
弔いの火でも、戦の火でも、陣地の火でもなかった。
ただ、人が集まるための火だった。
薪は太すぎず、細すぎない。
炎は高く上がりすぎない。
人の顔が見える高さに保たれていた。
火を扱う者が、よく分かっていた。
⸻
人の輪が、自然にできた。
アテルイは端にいた。
端にいるのに、中心だった。
モレは少し後ろにいた。
見張るようで、祈るようでもあった。
タダは鍋のそばにいた。
当然の場所だった。
スズリは子供たちの近くに座らされていた。
どうしてそこなのか分からない顔をしていたが、誰も説明しなかった。
説明されないまま、彼女はそこに収まっていた。
⸻
太鼓が鳴り始めた。
一定のリズムだった。
皮を張った小さな太鼓を、掌で叩いている。
強い音ではない。
土の下から来るような音だった。
それに合わせて、低い声が重なった。
歌だった。
言葉は分からない。
でも、山の夜の歌だと思った。
火の前でしか歌えない声だった。
遠くまで響かせる歌ではない。
この輪の中にいる者の胸を、同じ速さにするための歌だった。
⸻
酒が回った。
木の椀に入った、発酵した液体だ。
少し酸っぱかった。
少し熱かった。
喉を通ると、腹の中がゆっくり温まった。
誰かが笑う。
誰かが咳き込む。
老人が若い男をからかう。
若い男が言い返せず、周りが笑う。
子供が眠たそうにしている。
それでも目を開けようとしている。
火の夜を最後まで見たいのだ。
⸻
シンはそれを飲みながら、火を見た。
人間の輪の中にいた。
久しぶりだった。
本当に久しぶりだった。
この時代に来てから、ずっと外側にいた。
ヤマトの陣でも、炊事場でも、会談の外でも、どこか一枚隔てた場所にいた。
でも今夜は、輪の中にいた。
誰かがシンへ椀を回す。
隣の子供が、シンの履物を見ている。
タダが鍋から何かを足す。
スズリが小さく礼を言う。
アテルイが遠くで笑う。
ただそれだけで、外側ではなくなっていく。
⸻
アサメを思った。
泣かなかった。
でも、思った。
アサメが守ろうとしていたのは、こういう夜だった。
この火だった。
この声だった。
この酒だった。
この子供の眠そうな顔だった。
この老人の乾いた笑い声だった。
この、明日を約束されたわけでもないのに、今日を終わらせるために火を囲む時間だった。
⸻
それが消えずにいた。
五百年、消えずにいた。
⸻
(良かった)
⸻
声にならなかった。
でも、そう思った。
ただそれだけが、静かに胸の奥に落ちた。
⸻
その瞬間、桃の香りを思い出した。
実際に香ったわけではない。
火の匂いの奥で、記憶の方が勝手に動いただけだ。
モモにも、これを見せたいと思った。
思ってから、胸が痛んだ。
モモはこの火を見たら、どう分類するのだろう。
共同体。
儀礼。
食事。
熱源。
誤差。
そんな風に言って、それでも、どこかで手を止めるのではないか。
止めてほしい、とシンは思った。
⸻
⸻
夜が深くなった頃。
⸻
子供が一人、火のそばで眠りかけていた。
三つか四つくらいの子だ。
まだ眠りたくない顔をしながら、目が閉じかけていた。
頭が前へ落ちる。
また起きる。
周りの大人たちは笑っている。
でも誰も急かさない。
眠るまで待っている。
⸻
スズリが隣にいた。
子供の背をゆっくり撫でていた。
ぎこちない手だった。
慣れている手ではない。
でも乱暴ではなかった。
子供は嫌がらない。
むしろ、少しずつスズリの方へ体を預けていった。
⸻
スズリが、何かを口ずさんだ。
⸻
旋律だった。
言葉はなかった。
ただ低く、柔らかく、揺れるような旋律だった。
最初は、火の音と混じって分からなかった。
けれど、二度目の揺れで、周囲の空気が少し変わった。
誰かが顔を上げた。
誰かが椀を持つ手を止めた。
太鼓を叩いていた男の手が、ほんの少し遅れた。
⸻
周囲が、少しずつ静かになった。
⸻
太鼓が止まった。
声が収まった。
誰かが誰かの腕を軽く触れた。
見ろ、という意味らしかった。
⸻
スズリはまだ気づいていなかった。
子供の背を撫でながら、低く、低く、旋律を続けている。
歌っているというより、眠りへ降りる道を、手探りで撫でているようだった。
旋律は古かった。
古い、とシンは思った。
根拠はない。
でも、新しく作られたものではない。
誰か一人のものではない。
夜と火と子供の眠りが、何度も何度も繰り返されるうちに、自然に残った形のようだった。
⸻
老女が一人、立っていた。
火の向こうにいた。
昼間、スズリが灰を寄せた炉のそばにいた老女だった。
スズリを見ていた。
じっと見ていた。
動かなかった。
⸻
「その歌、誰に教わった」
⸻
老女が静かに言った。
責める声ではなかった。
探る声でもない。
ただ、火の中から出てきたものの名を確かめるような声だった。
⸻
スズリが顔を上げた。
自分が何を口ずさんでいたか、分かっていない顔だった。
子供の背に置いていた手が止まる。
眠りかけていた子供が、小さく身じろぎした。
スズリは慌てて、また背を撫でた。
その動きは、さっきより自然だった。
⸻
「……覚えていません」
⸻
老女は黙った。
火が鳴った。
誰も口を挟まなかった。
⸻
「……そうか」
⸻
それだけ言った。
でも、目が動いた。
スズリの顔を見た。
手を見た。
髪を見た。
それから、また黙った。
火の方へ顔を戻した。
⸻
アテルイは、少し離れたところからその場を見ていた。
笑ってはいなかった。
驚いてもいなかった。
ただ、深く息を吸った。
そして、何も言わなかった。
モレも、何も言わなかった。
言えば、歌が別のものになる。
たぶん、二人ともそれを知っていた。
⸻
風が来た。
炎が揺れた。
子供が、スズリの隣で完全に眠った。
小さな呼吸が続いていた。
⸻
旋律は消えていた。
でも空気の中に、まだ残っているみたいだった。
誰もすぐには話し始めなかった。
太鼓も戻らなかった。
火だけが鳴っていた。
⸻
シンはその場から、火を見ていた。
山が続いていた。
人が続いていた。
炉が続いていた。
歌が続いていた。
名前を奪われても。
鬼と書かれても。
誰かが忘れても。
別の誰かの手が、灰を寄せる。
別の誰かの口が、歌をなぞる。
そうやって、火は残る。
⸻
火は、まだ残っていた。
⸻
(第六十七話へ)




