↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
66/149

胆沢

第六十六話 胆沢


⸻


 イサワは、生きていた。


⸻


 それが最初に来た感覚だった。


 どこかが特別に美しいわけでも、強いわけでも、大きいわけでもない。


 ただ、生きていた。


 人が、馬が、火が、水が、全部が生きていた。


⸻


 朝の霧が、まだ低いところに残っている。


 川の上だけ白く、岸の草は濡れて光っていた。


 木柵の内側へ入ると、土の匂いが濃くなった。


 踏まれた土。


 乾いた土。


 雨の残った土。


 同じ土なのに、場所によって匂いが違った。


 人の足と馬の蹄と、炉から出た灰と、魚を洗った水が、その匂いを作っている。


⸻


 木柵の内側は、思ったより広かった。


 ただし、ヤマトの陣地のように真っ直ぐではない。


 柵も道も、すべてが土地に合わせて曲がっていた。


 大きな木を避ける。


 水の流れを避ける。


 風の抜ける場所を残す。


 人間が線を引いたというより、土地の声を聞いて、必要なところだけ囲ったように見えた。


⸻


 柵に沿って家が並んでいる。


 低く地面へ沈むような竪穴の家。


 柱を立て、板と草で壁を作った家。


 穀を湿気から守るためか、少し高く作られた小さな倉。


 屋根には草が厚く重ねられていた。


 朝の水滴が、軒先からぽたりぽたりと落ちている。


 その下を、子供が裸足で走った。


 叱られる。


 笑って逃げる。


 また叱られる。


⸻


 川に向かって開けた場所には、干した魚が棚に並んでいた。


 串に刺されたもの。


 腹を開かれたもの。


 細く裂かれて、縄に掛けられたもの。


 魚の間から、秋の光が差している。


 乾いた魚の匂いと、川の水の匂いが混じっていた。


 女が一人、魚の向きを変えている。


 日の当たり方を見る目が、戦の見張りより真剣だった。


 魚一匹分の水分が、冬の命に関わるのだろう。


⸻


 遠くから、金属を打つ音がした。


 規則正しい。


 強く打つ音ではない。


 薄く延ばす音でもない。


 刃の欠けを直しているような、短く、確かめる音だった。


 鉄の匂いが混じっていた。


 木炭の匂いもある。


 ヤマトの武器庫の匂いとは違った。


 ここでは、鉄も生活の中にある。


 矢じり。


 小刀。


 馬具の留め金。


 鍋の縁。


 殺すためだけではなく、切るため、結ぶため、煮るため、直すためにある。


⸻


 馬が何頭も、柵の外の草地を歩いていた。


 繋がれていない。


 自由にしている。


 でも遠くへ行かない。


 ここが自分の場所だと知っているみたいだった。


 若い馬が一頭、霧に濡れた草を蹴った。


 そばにいた少年が短く声をかける。


 馬は耳を動かして、少しだけ距離を取った。


 従う、というより、互いの間合いを知っている。


 そんな関係だった。


⸻


 女達が集まって、燻製を作っていた。


 煙の匂いが来る。


 干し肉。


 魚。


 木の実。


 細く切った根。


 煙は低く、ゆっくり流れた。


 火を大きくしすぎない。


 熱で焼くのではなく、煙で冬へ渡す。


 それを分かっている手だった。


⸻


 子供が一人、その近くで木弓を持って遊んでいた。


 弓が小さい。


 まだ矢が飛ばない。


 でも本人は真剣な顔をしていた。


 少し離れたところで、年上の子供が見ている。


 笑わない。


 馬鹿にしない。


 ただ、構えが崩れるたびに短く直す。


 遊びの中に、もう次の冬が混じっていた。


⸻


 シンは、その全部を少し遠くから見ていた。


⸻


(消えてなかった)


⸻


 声に出なかった。


 でも、腹の底に落ちた。


⸻


 炉の火の囲み方。


 山への入り方。


 肉の吊るし方。


 水場の場所に手を合わせる仕草。


 炉が家の中央にあること。


 子供が火へ近づく時、誰かが自然に肩を引くこと。


 年寄りが何も言わず、薪の向きを直すこと。


 弱い者へ、椀が先に回ること。


⸻


 アサメの時代にあったものが、全部ここに生き残っていた。


 完全に同じではない。


 五百年分の変化がある。


 道具も増えている。


 人の数も増えている。


 集まりは大きくなり、役目も細かくなっている。


 でも根っこは続いていた。


 途切れていなかった。


⸻


 山が消えなかったように、山で生きた人の形も消えなかった。


⸻


⸻


 スズリは黙っていた。


⸻


 柵の内側へ入ってから、ずっと黙っていた。


 泣いているわけではなかった。


 でも、目が普通じゃなかった。


 何かをじっと見ている目だった。


 見知らぬ場所を見ている目ではない。


 かといって、思い出した者の目でもない。


 戸の向こうから、自分の名を呼ばれた気がして、しかしその声がどこから来たのか分からない。


 そんな目だった。


⸻


 炉のそばを通り過ぎた時、スズリの足が少し遅くなった。


 灰の積もり方を見た。


 何も言わなかった。


 でも、炉の端に置かれていた火掻き棒へ、自然に手を伸ばした。


 灰を少しだけ寄せる。


 赤い芯が、下から細く見えた。


 そこへ、細い枝を一本足す。


 枝はすぐには燃えない。


 少し煙を出し、それから静かに火を受けた。


⸻


 近くにいた老女が、少しだけ顔を上げた。


 スズリを見た。


 灰を見る。


 火を見る。


 またスズリを見る。


 でも何も言わなかった。


⸻


 スズリは気づいていないようだった。


 自分が何をしたかも分かっていないみたいに、また歩き出した。


 数歩行ってから、ようやく自分の手を見た。


 指先に灰がついている。


 墨ではない。


 灰だった。


 スズリはそれを少し見つめ、布で拭おうとして、やめた。


 そのまま、手を下ろした。


⸻


 シンはそれを見ていた。


 モレも見ていた。


 アテルイは少し離れた場所で、何も見ていないような顔をしていた。


 だが、たぶん見ていた。


 あの男は、そういう見方をする。


⸻


⸻


 迎えに出てきた男に案内されて、客用の場所へ通された。


⸻


 板敷きの広い空間だった。


 天井が高い。


 中央に炉がある。


 壁際には毛皮が重ねられている。


 柱には、縄と木の札が掛かっていた。


 何かの印なのだろう。


 シンには読めない。


 スズリも、すぐには書こうとしなかった。


 見るだけにしていた。


⸻


 床板は、よく踏まれて艶が出ていた。


 新しい建物ではない。


 人が何度も座り、話し、飯を食い、寝た場所だ。


 入口近くには濡れた履物を置く場所がある。


 奥には、客が横になれるだけの空きが作られていた。


 客を泊め慣れている。


 そういう場所だった。


⸻


 シンは荷を置いた。


 タダは一度だけ炉を見て、黙って頷いた。


 よい火だ、と思ったのかもしれない。


 スズリが筆と紙を取り出した。


 もう記録を始める気らしかった。


⸻


「今日は休め」


⸻


 モレが言った。


 珍しく柔らかい声だった。


「明日から見ればいい。今日は食って眠れ」


 スズリは少し迷った。


 紙を見る。


 炉を見る。


 自分の灰のついた指を見る。


 それから、筆を戻した。


「……はい」


 小さく答えた。


 その声は、疲れていた。


 記録をする前に、受け取りすぎていた。


⸻


⸻


 昼の飯の場所へ呼ばれた。


⸻


 外の広場だった。


 焚き火がいくつかある。


 鍋が並んでいる。


 粟の飯。


 焼いた魚。


 根菜の汁。


 干し肉。


 豆を煮たもの。


 木の実を砕いて混ぜたもの。


 塩は多くない。


 だが、燻した匂いと、魚の脂と、根菜の甘さがあった。


⸻


 器は揃っていなかった。


 木の椀。


 土器。


 欠けた縁を直した器。


 他所から来たらしい、硬く焼かれた器も少しだけ混じっている。


 それぞれ違う。


 でも誰も気にしていない。


 器は形ではなく、手から手へ渡ることで役目を持っていた。


⸻


 アテルイがいた。


⸻


 広場の端、他の男達と並んで座っていた。


 特別な場所ではなかった。


 上座でも何でもない。


 ただの、端の方だった。


 だが、そこにいるだけで、人の流れが少し変わる。


 誰かが話しかける。


 誰かが遠くから目だけで合図する。


 アテルイはそれに短く返す。


 大きな声を出さない。


 命令もしない。


 それでも、何かが決まっていく。


⸻


 子供が三人、アテルイの周りにいた。


 一人がアテルイの肩に乗ろうとしていた。


 アテルイは腕を曲げて、その子を肩まで持ち上げた。


 何でもない動きだった。


 子供が笑った。


 周りの男達も笑った。


 戦の話をしていた顔が、ほんの一瞬だけ父親の顔になる。


 その変化が、シンには妙に刺さった。


⸻


 食事が始まった。


⸻


 アテルイは椀を持っていたが、自分が食べる前に何度か横へ回していた。


 隣の若い男へ。


 遠くにいた老人へ。


 子供へ。


 それから、ようやく自分で食べた。


 誰も驚かない。


 それがいつものことなのだ。


 偉いから先に食うのではない。


 中心にいるから、回す。


 そういう男だった。


⸻


 シンはその様子を見ながら、飯を食べた。


⸻


 うまかった。


 飾り気がなかった。


 でも、素材の味がした。


 山の飯だった。


 粟は少し硬い。


 魚は皮が香ばしい。


 汁は熱く、根の匂いが強い。


 干し肉は噛むほどに脂が戻る。


 体が、ゆっくりこちらへ戻ってくる。


 食べ物はずるい。


 どの時代でも、死んだ者は戻さないくせに、生きている体だけは戻してくる。


⸻


 タダは、いつの間にか鍋のそばにいた。


 誰かと火加減の話をしている。


 もう馴染んでいた。


 アテルイがそれを見て、少し笑った。


 シンは、その笑い方を見て、思った。


 この男は強い。


 強いが、強さを見せるために強いわけではない。


 人がそれぞれの場所を見つけるまで、場所を空けておける強さだった。


⸻


⸻


 食後、アテルイが川の方へ歩いた。


⸻


 シンは少し後からついていった。


 誰も止めなかった。


 モレは見ていた。


 止めなかった。


 それで、行っていいのだと分かった。


⸻


 川は広かった。


 秋の水だ。


 透明で、底の石が見える。


 流れが速い。


 浅いところでは水が白く折れ、深いところでは緑がかった黒になっていた。


 対岸の草は風に倒れ、また起きる。


 木の葉が一枚、水面を走るように流れていった。


⸻


 アテルイは川岸に立って、向こう岸を見ていた。


 シンも並んだ。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 沈黙が苦しくなかった。


 この男の横では、黙っていても責められている感じがしない。


 それが不思議だった。


⸻


「どうだ、鬼の国は」


⸻


 アテルイが言った。


 軽い口調だった。


 自嘲でも怒りでもなかった。


 ただ、都の方ではそう呼ばれるのだろう、と知っている声だった。


⸻


「……普通に、人が生きてる」


⸻


 シンは答えた。


 それしか出なかった。


 アテルイが笑った。


 腹から来る、自然な笑い方だった。


⸻


「そこが一番大事だからな」


⸻


 川が流れていた。


 水音が続いていた。


⸻


「ヤマトは、俺達を山から下ろしたい」


 アテルイが続けた。


 笑いは引いていたが、怒ってもいなかった。


 事実として言っていた。


「城柵へ寄せ、戸を立て、名を書き、米を数える。そうすれば、殺さなくて済むと思っている」


「……嫌なのか」


「嫌というより」


⸻


 少し間を置いた。


⸻


「山を忘れると、人は変になる」


⸻


 シンは黙った。


「川がどこから来るか分からなくなる」


 アテルイは川を見ていた。


「冬がどれくらい寒いか忘れる。飯がどこから来るか考えなくなる。火を誰が残しているか、見えなくなる」


「……」


「それで生きてはいける」


 アテルイの声は穏やかだった。


「でも、何かが抜ける」


⸻


 川が光っていた。


 上流の方から、木の葉が一枚流れてきた。


 赤かった。


 流れに乗って、すぐに見えなくなった。


⸻


「お前は山を知ってる目をしてる」


⸻


 アテルイが言った。


「モレもそう言った」


「そうか。モレが言うなら本当だ」


「……俺は、ここにいる資格があるのか分からない」


「資格?」


「ヤマト側で拾われた。蝦夷でもない。どちらでもない」


⸻


 アテルイは少し首を傾げた。


 それから言った。


⸻


「飯を食って、川を見て、火のそばにいる。それで十分じゃないか」


⸻


 シンは少し止まった。


「……簡単に言う」


「難しくする理由がない」


「でも、ヤマトが来る」


「来る」


「それでも」


「それでも飯を食う。川を見る。火のそばにいる」


⸻


 アテルイはそれだけ言って、また川を見た。


 答えでも励ましでもなかった。


 ただ、そういう男だった。


 大きな戦の前でも、食う。


 川を見る。


 火のそばにいる。


 それを軽んじない。


 だから、人がこの男の周りへ戻ってくるのだと、シンは思った。


⸻


「お前は、何を探している」


 アテルイが言った。


 急に核心へ入ってきた。


 だが、刺すような聞き方ではなかった。


「……分からない」


「そうか」


「でも、待ってる奴がいる」


「なら、行かないとな」


 あっさり言った。


「どこにいるかも分からない」


「それでも、待ってるなら行くんだろ」


 シンは返せなかった。


 川の音が、少し大きく聞こえた。


 モモの顔が浮かんだ。


 泣けない顔。


 一粒だけ落ちた涙。


 壊れたまま待っている、とワカレが言った声。


⸻


「……ああ」


 シンは言った。


「行く」


 アテルイは頷いた。


 それ以上は聞かなかった。


 やはり、この男は聞かない。


 聞かないまま、人が立つ場所を少しだけ広げる。


⸻


⸻


 夕方、モレがシンの横に来た。


⸻


「アテルイと話したか」


「少し」


「どうだった」


 シンは少し考えた。


⸻


「あいつは、今を守ってる」


「そうだ」


「アンタは、先を見てる」


「そうだ」


「どちらが正しい」


⸻


 モレは少し間を置いた。


⸻


「両方必要だ」


⸻


 それだけだった。


 遠くでアテルイが老人と話していた。


 老人が何か言って、アテルイが笑った。


 老人も笑った。


 どちらも畏まっていなかった。


 そこだけ、空気が少し緩んでいた。


 だが、緩いだけではない。


 アテルイが笑うと、周りの者が安心する。


 モレが黙ると、周りの者が考える。


 二人で一つの火を守っているように見えた。


 片方は今燃えている火。


 片方は、灰の中に残す火。


⸻


「……いずれ鬼と書かれる」


 モレが言った。


 いつもの声だった。


⸻


「あいつは何と言っている」


「書きたければ書けばいいと言う」


「……」


「生きてる間くらい、ちゃんと飯食って笑えばいいと言う」


 シンは少し黙った。


⸻


「それで怒らないのか」


「怒らない。あいつはそういう男だ」


「アンタは怒る」


「俺はそういう男だ」


⸻


 モレは川の方を向いた。


 夕日が水面に落ちていた。


 赤かった。


「怒る者もいる」


 モレが言った。


「笑う者もいる。飯を作る者もいる。歌う者もいる。逃げ道を見る者もいる。矢を研ぐ者もいる」


「……」


「全部いないと、火は残らない」


 シンは何も言わなかった。


 モレの横顔は、夕日の中で少しだけ赤く見えた。


 藍の刺青は、沈む光の中で黒に近くなっていた。


⸻


⸻


 夜になった。


⸻


 火を囲んだ。


⸻


 大きい火だった。


 弔いの火でも、戦の火でも、陣地の火でもなかった。


 ただ、人が集まるための火だった。


 薪は太すぎず、細すぎない。


 炎は高く上がりすぎない。


 人の顔が見える高さに保たれていた。


 火を扱う者が、よく分かっていた。


⸻


 人の輪が、自然にできた。


 アテルイは端にいた。


 端にいるのに、中心だった。


 モレは少し後ろにいた。


 見張るようで、祈るようでもあった。


 タダは鍋のそばにいた。


 当然の場所だった。


 スズリは子供たちの近くに座らされていた。


 どうしてそこなのか分からない顔をしていたが、誰も説明しなかった。


 説明されないまま、彼女はそこに収まっていた。


⸻


 太鼓が鳴り始めた。


 一定のリズムだった。


 皮を張った小さな太鼓を、掌で叩いている。


 強い音ではない。


 土の下から来るような音だった。


 それに合わせて、低い声が重なった。


 歌だった。


 言葉は分からない。


 でも、山の夜の歌だと思った。


 火の前でしか歌えない声だった。


 遠くまで響かせる歌ではない。


 この輪の中にいる者の胸を、同じ速さにするための歌だった。


⸻


 酒が回った。


 木の椀に入った、発酵した液体だ。


 少し酸っぱかった。


 少し熱かった。


 喉を通ると、腹の中がゆっくり温まった。


 誰かが笑う。


 誰かが咳き込む。


 老人が若い男をからかう。


 若い男が言い返せず、周りが笑う。


 子供が眠たそうにしている。


 それでも目を開けようとしている。


 火の夜を最後まで見たいのだ。


⸻


 シンはそれを飲みながら、火を見た。


 人間の輪の中にいた。


 久しぶりだった。


 本当に久しぶりだった。


 この時代に来てから、ずっと外側にいた。


 ヤマトの陣でも、炊事場でも、会談の外でも、どこか一枚隔てた場所にいた。


 でも今夜は、輪の中にいた。


 誰かがシンへ椀を回す。


 隣の子供が、シンの履物を見ている。


 タダが鍋から何かを足す。


 スズリが小さく礼を言う。


 アテルイが遠くで笑う。


 ただそれだけで、外側ではなくなっていく。


⸻


 アサメを思った。


 泣かなかった。


 でも、思った。


 アサメが守ろうとしていたのは、こういう夜だった。


 この火だった。


 この声だった。


 この酒だった。


 この子供の眠そうな顔だった。


 この老人の乾いた笑い声だった。


 この、明日を約束されたわけでもないのに、今日を終わらせるために火を囲む時間だった。


⸻


 それが消えずにいた。


 五百年、消えずにいた。


⸻


(良かった)


⸻


 声にならなかった。


 でも、そう思った。


 ただそれだけが、静かに胸の奥に落ちた。


⸻


 その瞬間、桃の香りを思い出した。


 実際に香ったわけではない。


 火の匂いの奥で、記憶の方が勝手に動いただけだ。


 モモにも、これを見せたいと思った。


 思ってから、胸が痛んだ。


 モモはこの火を見たら、どう分類するのだろう。


 共同体。


 儀礼。


 食事。


 熱源。


 誤差。


 そんな風に言って、それでも、どこかで手を止めるのではないか。


 止めてほしい、とシンは思った。


⸻


⸻


 夜が深くなった頃。


⸻


 子供が一人、火のそばで眠りかけていた。


 三つか四つくらいの子だ。


 まだ眠りたくない顔をしながら、目が閉じかけていた。


 頭が前へ落ちる。


 また起きる。


 周りの大人たちは笑っている。


 でも誰も急かさない。


 眠るまで待っている。


⸻


 スズリが隣にいた。


 子供の背をゆっくり撫でていた。


 ぎこちない手だった。


 慣れている手ではない。


 でも乱暴ではなかった。


 子供は嫌がらない。


 むしろ、少しずつスズリの方へ体を預けていった。


⸻


 スズリが、何かを口ずさんだ。


⸻


 旋律だった。


 言葉はなかった。


 ただ低く、柔らかく、揺れるような旋律だった。


 最初は、火の音と混じって分からなかった。


 けれど、二度目の揺れで、周囲の空気が少し変わった。


 誰かが顔を上げた。


 誰かが椀を持つ手を止めた。


 太鼓を叩いていた男の手が、ほんの少し遅れた。


⸻


 周囲が、少しずつ静かになった。


⸻


 太鼓が止まった。


 声が収まった。


 誰かが誰かの腕を軽く触れた。


 見ろ、という意味らしかった。


⸻


 スズリはまだ気づいていなかった。


 子供の背を撫でながら、低く、低く、旋律を続けている。


 歌っているというより、眠りへ降りる道を、手探りで撫でているようだった。


 旋律は古かった。


 古い、とシンは思った。


 根拠はない。


 でも、新しく作られたものではない。


 誰か一人のものではない。


 夜と火と子供の眠りが、何度も何度も繰り返されるうちに、自然に残った形のようだった。


⸻


 老女が一人、立っていた。


 火の向こうにいた。


 昼間、スズリが灰を寄せた炉のそばにいた老女だった。


 スズリを見ていた。


 じっと見ていた。


 動かなかった。


⸻


「その歌、誰に教わった」


⸻


 老女が静かに言った。


 責める声ではなかった。


 探る声でもない。


 ただ、火の中から出てきたものの名を確かめるような声だった。


⸻


 スズリが顔を上げた。


 自分が何を口ずさんでいたか、分かっていない顔だった。


 子供の背に置いていた手が止まる。


 眠りかけていた子供が、小さく身じろぎした。


 スズリは慌てて、また背を撫でた。


 その動きは、さっきより自然だった。


⸻


「……覚えていません」


⸻


 老女は黙った。


 火が鳴った。


 誰も口を挟まなかった。


⸻


「……そうか」


⸻


 それだけ言った。


 でも、目が動いた。


 スズリの顔を見た。


 手を見た。


 髪を見た。


 それから、また黙った。


 火の方へ顔を戻した。


⸻


 アテルイは、少し離れたところからその場を見ていた。


 笑ってはいなかった。


 驚いてもいなかった。


 ただ、深く息を吸った。


 そして、何も言わなかった。


 モレも、何も言わなかった。


 言えば、歌が別のものになる。


 たぶん、二人ともそれを知っていた。


⸻


 風が来た。


 炎が揺れた。


 子供が、スズリの隣で完全に眠った。


 小さな呼吸が続いていた。


⸻


 旋律は消えていた。


 でも空気の中に、まだ残っているみたいだった。


 誰もすぐには話し始めなかった。


 太鼓も戻らなかった。


 火だけが鳴っていた。


⸻


 シンはその場から、火を見ていた。


 山が続いていた。


 人が続いていた。


 炉が続いていた。


 歌が続いていた。


 名前を奪われても。


 鬼と書かれても。


 誰かが忘れても。


 別の誰かの手が、灰を寄せる。


 別の誰かの口が、歌をなぞる。


 そうやって、火は残る。


⸻


 火は、まだ残っていた。


⸻


(第六十七話へ)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。