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アテルイ

第六十五話 アテルイ


⸻


 朝から揉めていた。


⸻


「だから俺も行くと言っている!」


「なりません!」


「危険です!」


「ワカミコ様!!」


⸻


 カミノが、従者二人と兵三人に囲まれていた。


 囲まれながら、普通に抜けようとしていた。


 本気で抜けようとしているので、止める側もかなり必死だった。


 兵の一人は、槍を持っていない。


 それなのに、槍を構える時より緊張した顔をしていた。


 従者の一人は、両手を広げてカミノの前へ立っている。


 もう一人は、後ろへ回り込んでいた。


 だがカミノは、横へ抜ける。


 抜けた先に兵が立つ。


 兵が立った先を、カミノがまた抜けようとする。


 儀式の舞にしては、全員の顔が切実すぎた。


⸻


 何かのスポーツ競技みたいだ。サッカーとか。


 シンの頭の中。


 ウロオボエ様が数百年ぶりに少し目醒めた。


⸻


「見るだけだ!」


「見るだけで済まないでしょう!!」


「なぜ済まないんだ!」


「胆沢ですよ! 蝦夷の本拠ですよ!!」


「だから見たい!」


「ミコ!!」


⸻


 シンは少し離れたところから、それを見ていた。


 口元が、少しだけ緩んだ。


 笑いそうになった。


 この数日で、初めてのことだった。


⸻


 カミノは本気だった。


 本気で危険を見に行こうとしている。


 ただの好奇心ではない。


 知らないまま決めることを、たぶん、この男は怖がっている。


 そういうところは、厄介だった。


 だが、少しだけ羨ましくもあった。


 怖いものを見に行きたいと言えることが。


 止める者がいて、それでも前へ出ようとできることが。


⸻


 田村麻呂が来た。


 歩幅は大きくない。


 だが、人が自然に道を開けた。


 カミノの正面に立つ。


 一言だけ言った。


⸻


「駄目です」


⸻


 即答だった。


 カミノは露骨に不満な顔をした。


 でも田村麻呂は動じなかった。


 長い付き合いらしい沈黙が、二人の間にあった。


 従者たちは、そこへ縋るような顔をした。


 兵たちは、ようやく息をした。


⸻


「なぜだ」


「危険だからです」


「それは聞いた」


「では、もう一度申し上げます。危険だからです」


「言葉を増やせ」


「胆沢へ入る道は、こちらの道ではありません。あちらの道です。こちらの理屈で守れる場所ではない」


 田村麻呂の声は静かだった。


「宮様がおいでになれば、向こうもこちらも、見るべきものを見られなくなります」


「俺が邪魔だと言うのか」


「はい」


 また即答だった。


 カミノは目を細めた。


 従者が小さく呻いた。


 シンは、今度こそ少し笑いそうになった。


⸻


 カミノは諦めた。


 ため息をついた。


 それからシンを見た。


⸻


「ちゃんと見て来い」


「……ああ」


「見えたものを、全部記憶しろ」


「記録はスズリがすると」


「記録と記憶は違う」


⸻


 シンは少し止まった。


 カミノの声は軽くなかった。


 昨日の会談の後から、少し変わったように見えた。


 何かを知ったのではない。


 知らないものがあると、ちゃんと知った顔だった。


⸻


 カミノは今度、スズリを見た。


⸻


「ちゃんと記せ。都の言葉でなくていい」


「……はい」


「見たまま記せ」


「分かりました」


 スズリは少し緊張した顔で頷いた。


 筆と紙を抱えていた。


 木簡を数枚、布で包んで腰に結んでいる。


 それだけで胆沢へ入るつもりらしかった。


 剣ではない。


 弓でもない。


 墨と紙。


 昨日モレが言った通り、これは武器にもなる。


 救いにもなる。


 それを持つ手が、かすかに白かった。


⸻


「スズリ」


 シンが言うと、スズリは少しだけこちらを見た。


「何ですか」


「落とすなよ」


「落としません」


「山道だぞ」


「分かっています」


 そう答えてから、スズリは少しだけ首を傾げた。


 分かっています、と言った自分の声を、不思議に思ったようだった。


⸻


 モレは黙って見ていた。


 何かを見逃さない目だった。


 でも何も言わなかった。


 タダは荷を背負っていた。


 干し肉。


 塩。


 小さな鍋。


 水筒。


 火打ち石。


 それだけで、どこへでも行ける顔をしている。


⸻


⸻


 出立は朝のうちだった。


⸻


 モレが先頭を行く。


 シンとスズリが続く。


 少し後ろを、タダが荷を背負って歩く。


 馬は二頭だけだった。


 荷を載せるための馬と、足を痛めた者が出た時のための馬。


 ヤマトの兵はつかなかった。


 離れた場所から見張る者はいるのだろう。


 だが、道へ入る者はいない。


 それが、昨夜決まった線だった。


 線を越えれば、見えるものが変わる。


 そういう線だった。


⸻


 田村麻呂が、見送りに立っていた。


 鎧ではない。


 だが、立っているだけで陣の中心に見えた。


 シンが横を通りすぎようとした時、短く言った。


⸻


「戻って来い」


⸻


 シンは少し止まった。


 帰る場所として言われた。


 帰る場所として扱われた。


 それが、妙に重かった。


 今まで、そういう言い方をされたことがなかった。


 アサメ達には言われた。


 でもあれは、もう別の時間にある言葉だ。


 この時代では、初めてだった。


⸻


「……ああ」


⸻


 シンは答えて、歩き出した。


 背中に、田村麻呂の視線がある。


 それは命令ではなかった。


 心配でも、哀れみでもない。


 ただ、戻る先を置いておく視線だった。


 その重さが、少しだけ歩きにくかった。


⸻


⸻


 最初は、ヤマト側の道だった。


⸻


 踏み固められた土。


 木柵の残り。


 陣の跡。


 管理された水路。


 遠くで炊煙が上がっている。


 畑の端に、灰が撒かれている。


 杭が打たれ、縄が張られ、ここから先は誰のものか、分かるようにされていた。


⸻


 人の手が入っていた。


 区画があった。


 命令の跡があった。


 ここは、ヤマトが世界を測ろうとした場所だった。


 何歩。


 何戸。


 何束。


 何人。


 書けるものへ変えようとする手が、土の上にも残っている。


⸻


 それが、少しずつ変わっていった。


⸻


 道が曖昧になる。


 木が近くなる。


 川の音が増える。


 馬が静かになる。


 鳥の声が変わる。


 空気が広くなる。


⸻


 踏み固めた道は、なくなったわけではない。


 ただ、土の方が強くなった。


 人の都合で引いた線が、木の根と落ち葉に少しずつほどかれていく。


 水の音が近くなった。


 川は見えない。


 それでも、どこかを流れていることだけは分かる。


 湿った石の匂いがした。


 枯れた草の下に、まだ青いものが残っている匂いがした。


⸻


 シンは馬の横を歩きながら、それを感じていた。


⸻


(山だ)


⸻


 アサメの時代とは違う。


 あの時代より、ずっと人がいる。


 もっと社会がある。


 もっと国に近い。


 道もある。


 見張りもいる。


 誰がどこを通ったか、きっと誰かが覚えている。


 だが、根っこは同じ匂いがした。


 土と、木と、火の匂い。


 管理ではなく、生きるために作られた場所の匂いだった。


⸻


 しばらく進んだところで、シンは口を開いた。


⸻


「カミノって、何者なんだ」


⸻


 スズリは少し困った顔をした。


「言えません」


「そうか」


「ただ」


⸻


 少し間があった。


⸻


「本来は、このような場所においでになる方ではありません」


「危険すぎる……から?」


「……そういうことです」


 シンは何となく察した。


 でも深くは考えなかった。


 今はそれより、山の空気の方が気になっていた。


⸻


 風が来た。


 山から吹いてくる風だった。


 冷たかった。


 でも、嫌な冷たさではなかった。


 知っている冷たさだった。


 肌の表面ではなく、胸の奥の古い場所を撫でていくような冷たさだった。


⸻


 スズリが、道の端に落ちていた葉を拾った。


 無意識にやっているみたいだった。


 薄桃色の葉だった。


 桃ではない。


 紅葉した山の葉だが、色が桃に近かった。


 スズリはそれを見て、少しだけ眉を寄せた。


 なぜ拾ったのか、自分でも分からない顔だった。


⸻


 シンはそれを見た。


⸻


 見た瞬間に、来た。


⸻


 白い肌。


 黒髪。


 小さな桃の飾り。


 桃の香り。


⸻


 モモだった。


⸻


 無意識に、首の傷へ触れていた。


 布が巻かれている。


 その下に傷がある。


 自分でつけた傷だ。


 戻れると思った。


 戻れなかった。


 生きろと言われた。


 生き残ってしまった。


⸻


(モモ)


⸻


 壊れたままで、どこかにいる。


 五百年分の重さを抱えたまま、まだそこにいる。


 シンを覚えていないかもしれない。


 名前を呼べないかもしれない。


 それでも、白い光の中で落ちた涙を、シンは見た。


 あれは本物だった。


 命令でも、実行でも、演算でもなかった。


 モモそのものだった。


⸻


 シンは手を離した。


 傷から手を離した。


⸻


(待ってろ)


⸻


 言葉にならなかった。


 声にもならなかった。


 ただ、そう思った。


 思ったことに、自分で少し驚いた。


 今まで「会いに行く」とは思っていなかった。


 戻れないと分かってから、何もかも止まっていた。


 でも今、思った。


⸻


 待ってろ、と。


⸻


 スズリがこちらを見た。


「どうしました」


「いや」


 シンは首を振った。


「何でもない」


 何でもなくはなかった。


 でも、まだ言葉にできなかった。


⸻


⸻


 道はさらに細くなった。


⸻


 モレが時々、スズリを見ていた。


 何かを確認するみたいに、見ていた。


 スズリは気づいていないようだった。


 少なくとも、気づかないふりをしていた。


⸻


 川音が聞こえた時、スズリが先に顔を上げた。


「左に水があります」


 言ってから、自分で驚いたように瞬きをした。


 少し進むと、確かに左手の低いところに沢があった。


 落ち葉の下を水が走っている。


 澄んだ水だった。


 モレは何も言わず、沢のそばへ下りた。


 タダが水筒を外した。


⸻


 またしばらく行くと、スズリが空を見た。


「夕方までには降ります」


「雨か」


 シンが聞くと、スズリは困ったように眉を寄せた。


「たぶん」


「たぶん?」


「匂いが」


 そう言ってから、口を閉じた。


 自分の言葉が変だと思ったのだろう。


 タダは空を見た。


「降るな」


「お前も分かるのか」


「飯を作る奴は、雨が分からないと困る」


「理由が強い」


 スズリは少しだけほっとしたような顔をした。


 自分だけが変ではないと分かった顔だった。


 けれど、モレはその顔まで見ていた。


⸻


 木の根が張った場所で、スズリは足を止めた。


 道の端へ寄る。


 湿った苔のある石を避け、乾いた根の上へ足を置く。


 迷いがなかった。


 山を歩き慣れた者の動きだった。


 その後で、本人が一番驚いていた。


「……危なそうだったので」


 誰にともなく言った。


 シンは何も言わなかった。


 モレも何も言わなかった。


 沈黙が、そのまま彼女を守るように続いた。


⸻


 モレがシンの横へ並んだ。


 低い声で言った。


⸻


「本当に覚えてないのか、あれは」


「あれ、というのは」


「あの女。北の空気を知ってる」


⸻


 シンは少し考えた。


「……覚えていないんだと思う。夢で見た気がする、とは言っていた」


「夢か」


「たぶんな」


 モレは黙った。


 それ以上は聞かなかった。


 でも、また少しスズリを見た。


 その目が、いつもの冷たさと少し違った。


 何かを確かめている目だった。


 奪われたものを探す目ではない。


 まだ残っているものを、壊さないように見る目だった。


⸻


⸻


 夕方、本当に雨が降った。


⸻


 強い雨ではなかった。


 細い雨だった。


 木の葉に当たり、幾つにも割れて落ちてくる。


 地面はすぐに黒くなった。


 土の匂いが濃くなった。


 馬の背が濡れ、タダが布を一枚荷にかけた。


 スズリは紙を懐へ入れた。


 その動きだけは、完全に書記だった。


 山の気配に戸惑っても、紙だけは守る。


 そこは揺れなかった。


⸻


 途中の小さな山集落で、火を囲んだ。


⸻


 ヤマト陣地とは違う囲み方だった。


 静かだった。


 誰も大声を出さない。


 でも遠ざからない。


 火の近くに、自然に人が集まる。


 子供がいた。


 女もいた。


 老人もいた。


 馬が近くで草を食んでいた。


 誰も追い払わなかった。


⸻


 火は中心にあった。


 ただ暖を取るための火ではなかった。


 誰かが濡れた袖を乾かす。


 誰かが鍋をずらす。


 子供が近づきすぎて、女に肩を引かれる。


 老人が火の具合を見て、何も言わずに細い枝を足す。


 その手つきは、命令ではない。


 だが誰も逆らわない。


 火の前では、年を取った者の手が少し強くなる。


 そういう場所だった。


⸻


 シンは少し呆けた。


 前の時代の山の集落に似ていた。


 でもあそこより人が多い。


 もっと深い社会がある。


 道具も、役目も、話し合いも、見張りもある。


 それでも根っこが同じだった。


 火が中心にある。


 誰かが座る場所を詰める。


 濡れた者へ湯気の近いところを譲る。


 食べ物が、まず弱い者の方へ回る。


 そういう、言葉になりにくい順番がある。


⸻


 タダは当然のように鍋の近くへ行った。


 誰かに断る前に、火の強さを見た。


 そして、勝手に薪を一本外した。


 集落の男が眉を上げた。


 タダは言った。


「煮立ちすぎる」


 男は少しだけ鍋を覗き込み、何も言わずに頷いた。


 タダはそのまま火のそばに居場所を得た。


 世界が違っても、飯が作れる奴は強い。


 それは、本当に変わらないらしい。


⸻


 モレが火の前に座った。


 シンも座った。


 雨は木々に受け止められ、遠くで細く鳴っている。


 火の上に、白い湯気が上がった。


 煙は低く流れた。


 その匂いが、胸の奥を温めたり、刺したりした。


⸻


「アテルイは、終わらせたがっている」


 モレが言った。


 炎を見たまま言った。


⸻


「戦を。人死を」


「……降るということか」


「終わらせることと、降ることは違う」


⸻


 火が揺れた。


 モレはその揺れを見ていた。


「民を減らしたくないのだ、あいつは」


「……そうか」


「だからヤマトと話してる」


 少し間があった。


「だが、終わった後」


⸻


 モレの声が低くなった。


⸻


「俺たちは鬼とされる」


⸻


 シンは黙った。


 その言葉は、簡単に否定できなかった。


 鬼。


 人が人ではなくなるための言葉。


 殺した後で、殺した側が眠るための言葉。


 書かれれば、なお強い。


 墨になった鬼は、死んだ後も人を追う。


⸻


「負けた側の名前は、勝った側が書く。アテルイが何を考えていたか。イサワで何が生きていたか。全部、都の字で書かれる」


「……」


「だから俺が残す」


⸻


 モレが言った。


⸻


「負けても、消えないように」


⸻


 シンはその言葉を、しばらく黙って聞いていた。


⸻


(アサメが守ろうとしたものと、同じだ)


⸻


 山が終わっても残るものを。


 名前が消えても続くものを。


 そういうものを、残そうとしている。


⸻


「……刺青を見た時、哀しげな顔をしていたな」


 モレが言った。


⸻


 シンは少し間を置いた。


「昔、山で生きてた奴を知ってる。同じ流れの意匠を持っていた」


「女か」


 シンは答えなかった。


 答えなくても、モレには伝わったらしい。


「今はもういない」


「……そうか」


「戻れない」


「……そうか」


⸻


 それだけだった。


 モレは深掘りしなかった。


 ただ、一度だけ火を見た。


 それが、黙祷みたいだった。


⸻


 スズリは少し離れたところで、子供に椀を渡されていた。


 戸惑いながら受け取る。


 椀を両手で持つ。


 湯気が顔へ上がる。


 その瞬間、スズリの目が少しだけ遠くなった。


 泣きそうではない。


 思い出した顔でもない。


 ただ、体が何かを受け取った顔だった。


 自分の知らない言葉で呼ばれた時のように。


 意味は分からないのに、振り返ってしまう時のように。


⸻


 モレがそれを見た。


 シンも見た。


 だが誰も言わなかった。


 言えば壊れる。


 そういうものがある。


⸻


⸻


 夜明け前に出た。


⸻


 霧だった。


⸻


 白く、深い霧だった。


 木々の輪郭が滲んでいる。


 馬の足音だけが聞こえた。


 他の音が霧に吸われていた。


 葉から落ちる水の音も、遠くの川の音も、すぐ近くにあるようで、どこにもないようだった。


⸻


 静かだった。


 幻想的だった。


 山が息をしているみたいだった。


 白い息を、谷へ吐いている。


 その中を、人と馬が進んでいる。


 誰も大きな声を出さない。


 タダでさえ、足音を少し殺していた。


⸻


 突然、馬達が止まった。


⸻


 一斉に止まった。


 ざわつかなかった。


 むしろ落ち着いた。


 鼻を鳴らして、そのまま静かに立った。


 耳だけが、霧の奥へ向いている。


⸻


 モレが少し笑った。


 珍しかった。


 初めて見る表情だった。


 硬い顔が、ほんの少しほどけた。


 安心に近い。


 敬意に近い。


 帰ってきた者が、家の火を見つけた時の顔にも見えた。


⸻


「来た」


⸻


 シンには分からなかった。


 何も見えなかった。


 霧しかなかった。


⸻


 でも。


⸻


 空気が変わった。


 山が、何かを待っているみたいだった。


 迎えているみたいだった。


 鳥の声が止まったのではない。


 止まる必要がなくなったみたいに、静かになった。


 川の音も、火の跡の匂いも、馬の息も、全部が一つの方向へ顔を向けた。


 そんな錯覚があった。


⸻


 霧の奥に、影が見えた。


⸻


 馬だった。


 ゆっくり出てくる。


 一頭。


 また一頭。


 音が少ない。


 霧から生まれてくるみたいだった。


 馬の脚が白いものを割り、その後ろにまた霧が閉じる。


 革紐の小さな音。


 濡れた鞍の匂い。


 低く交わされる声。


 誰も急がない。


 急がないことが、そのまま力だった。


⸻


 騎乗の男が、霧の中から姿を現した。


⸻


 最初に感じたのは、威圧ではなかった。


⸻


 シンはそれに少し驚いた。


⸻


 大きな男だった。


 アテルイ、と分かる前から、そう分かった。


 周囲が自然に下がっていた。


 誰も命令していない。


 でも全員が少し後ろへ引いていた。


 場所を空けているのではない。


 中心がどこにあるか、全員の体が知っているようだった。


⸻


 なのに怖くなかった。


 むしろ、空気が柔らかくなった。


 張り詰めていたものが、少し緩んだ。


 馬が落ち着いた。


 霧の中で誰かが小さく息を吐いた。


 その音が、祈りの終わりみたいに聞こえた。


⸻


 アテルイは、火のような男ではなかった。


 火を持つ男だった。


 燃え上がって周囲を焼く火ではない。


 冬の朝、消えかけた炉の奥に残っている赤い芯。


 そこへ人が手をかざす。


 誰かが帰ってくる。


 そのための火。


⸻


 広い肩をしていた。


 顔には傷がある。


 髪は湿り、額に少し張りついていた。


 衣は飾り立てていない。


 だが、粗末ではなかった。


 使い込まれた布。


 磨かれた革。


 必要なものだけが、正しい場所にある。


 腰の刀は、抜かれるためではなく、そこにあることで周囲を黙らせていた。


⸻


 アテルイが馬を止めた。


 誰かが名を告げたわけではない。


 それでも場が、彼の名を知っていた。


 霧も。


 馬も。


 木々も。


 そこにいる人間も。


⸻


 モレが一歩進んだ。


 深く頭を下げるのではない。


 しかし、確かに敬意のある動きだった。


「遅い」


 アテルイが言った。


 声は低い。


 だが重苦しくはなかった。


「霧が濃い」


 モレが答えた。


「お前が道を間違えたのではなく?」


「間違えない」


「そうか」


 アテルイは少し笑った。


 周囲の男たちも、ほんの少し息を緩めた。


 それだけで分かった。


 この男は、恐れられているだけではない。


 待たれている。


 信じられている。


 叱られても、人が離れない男だった。


⸻


 アテルイは周囲を見た。


 タダを見た。


 荷を見た。


 鍋を見た。


「飯の匂いがする」


「作れる」


 タダが答えた。


「なら、後で頼む」


「腹が減ってるなら作る」


「減ってる」


 アテルイはあっさり言った。


 それで、また空気が少し緩んだ。


⸻


 次に、スズリを見た。


⸻


「……都の匂いなのに、山の目をしてるな」


⸻


 スズリが少し固まった。


 何か言おうとして、言えなかった。


 筆も紙も持っている。


 返す言葉も、たぶん幾つか知っている。


 それでも、今は出てこなかった。


 アテルイはそれを責めなかった。


 ただ、少しだけ目を細めた。


 見抜くためではない。


 眩しいものを見るような目だった。


「無理に思い出すな」


 アテルイが言った。


「山は、思い出せと怒鳴らない」


 スズリの指が、紙の包みを握った。


「……はい」


 小さな返事だった。


 それで十分だというように、アテルイは頷いた。


⸻


 次に、シンを見た。


⸻


 少し笑った。


 自然な笑い方だった。


 重くなかった。


 でも軽くもない。


 目の前の人間が生きて立っていることを、まず受け取る笑い方だった。


⸻


「お前は、死にかけの顔をしてる割に、目はまだ死んでないな」


⸻


 シンは返せなかった。


 アテルイはさらに近づいてきた。


 シンの首を見た。


 布が巻かれている。


 傷がある。


 自分でつけた傷だ。


 そのことまで見抜かれた気がして、シンは少し息を止めた。


⸻


「ああ。まぁ、色々あった顔だな」


⸻


 だいたい察したみたいだった。


 でも、それ以上は言わなかった。


 聞かなかった。


 モレなら聞く。


 アテルイは聞かない。


 聞かないまま、場所を作る。


 それが、この男の強さなのだとシンは思った。


⸻


 代わりに、軽く言った。


⸻


「まぁいい。生きて来たのなら飯を食え」


⸻


 シンは少し呆けた。


 何と言えばいいか分からなかった。


 でも、口が動いた。


⸻


「……ああ、ありがとう」


⸻


 自分の声が、少し違った。


 さっきまでと、少し違った。


 乾いていない声だった。


⸻


 アテルイは頷いた。


 それだけで、会話は終わった。


 足りない感じはなかった。


 むしろ、余計なものを足さなかったから、言葉が残った。


⸻


⸻


 霧が晴れ始めた。


⸻


 ゆっくり、少しずつ。


 山の形が出てきた。


 川が見えた。


 水面が朝の光を細く返している。


 火が見えた。


 煙が上がっていた。


 木柵があった。


 ヤマトの柵とは違う。


 土地を切るための柵ではない。


 中にある火を、冬と獣と敵から守るための柵だった。


⸻


 その向こうに、人がいた。


 馬がいた。


 子供の声がした。


 女が水を運んでいる。


 男が木を割っている。


 老人が小さな子供の手を引いている。


 川辺で、誰かが魚を洗っている。


 木の陰に、弓を持つ若い者が立っている。


 警戒はある。


 だが、生活もある。


 どちらかだけではなかった。


⸻


 イサワ。


⸻


 アサメの時代の山の集落とは、比べ物にならない大きさだった。


 山が、国になっていた。


 名簿ではなく。


 城柵ではなく。


 火と水と道と人でできた国だった。


⸻


 でも。


⸻


 山のままだった。


⸻


 シンは呆然とした。


 横でスズリが、声を出さずに止まっていた。


 気づいていないみたいだった。


 自分では気づいていないみたいだった。


 でも。


⸻


 頬を、涙が流れていた。


⸻


 スズリは慌てて拭わなかった。


 流れていることに、まだ気づいていなかった。


 あるいは、気づいていても、何の涙か分からなかった。


 悲しい顔ではない。


 嬉しい顔でもない。


 帰ってきた顔、というには、彼女はここを知らない。


 それでも、体だけが先に何かを受け取っていた。


⸻


 山の匂いが来た。


 土と、木と、火の匂いだった。


 知らないはずの匂いが、帰ってきたみたいに来た。


⸻


 アテルイは、その涙を見ていた。


 何も言わなかった。


 モレも言わなかった。


 タダは鍋のことを考えているような顔で、でも少しだけ目を細めていた。


 シンは北の集落を見た。


 火を見た。


 子供の声を聞いた。


 霧の向こうから現れた男の背を見た。


⸻


 山は、鬼はまだ、生きていた。


⸻


(第六十六話へ)


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