記す者
第六十四話 記す者
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朝から、陣地の空気が違っていた。
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兵が武器を外している。
腰の刀を天幕の外に置く者がいる。
弓を革袋に収め、矢筒を後ろへ下げる者がいる。
馬を少し離れた場所へ移し、嘶きが天幕の中へ届かないようにしている者もいた。
炊事場の火は残っている。
だが煙の向きまで気にして、天幕へ流れないよう薪を減らしていた。
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戦の準備ではなかった。
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壊さないための準備だった。
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シンはそれを見ていた。
田村麻呂が陣地を歩いている。
怒鳴らない。
急かさない。
ただ、兵の位置を見て、馬の位置を見て、天幕の入口を見て、短く言葉を置いていく。
言葉を置かれた兵は、すぐに動いた。
命令というより、重しだった。
浮き上がりそうな空気を、地面へ戻している。
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(戦争を終わらせようとしている軍だ)
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初めて見た気がした。
前の時代のヤマト軍は、揃った足音で来た。
誰も叫ばない。
でも止まらない。
止まらないことそのものが、命令だった。
人間の顔はあった。
けれど遠くから見れば、ひとつの硬いものに見えた。
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ここは違う。
疲れた顔の兵がいる。
夜を越して目の赤い者がいる。
寒さで指を擦り合わせながら、槍を置く者がいる。
紙を濡らさないよう、袖の内側へ抱える書記がいる。
墨を磨る音がある。
木簡を束ねる音がある。
人間がいた。
疲れて、怯えて、それでも壊さないために動いている人間がいた。
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「シン」
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カミノが来た。
今日も朝から歩き回っていたらしく、衣の裾に霜の湿りが残っていた。
従者が後ろから追ってきている。
追ってきているというより、逃げられないよう見張っている顔だった。
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「会談を見たいのだ」
「……いきなり俺に言うなよ」
「田村麻呂に言うと、少し考えた顔をする」
「考えるだけマシだろ」
「従者に言うと、すぐ止める」
カミノがそう言った瞬間、後ろの従者が顔色を変えた。
「なりません」
年嵩の従者が言った。
声は低い。
だが必死だった。
「まだ何もしていない」
「なさる前に止めております」
「なぜだ」
「危険だからです」
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カミノは本当に不思議そうな顔をした。
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「危険なら、お前たちが守れ」
従者が息を呑んだ。
「それが役目というものだ」
「ミコ様」
「俺が危険を見ずに、どうして危険を避けることを覚える」
「ミコ様」
「俺が言葉を聞かずに、どうして言葉で人を止めることを覚える」
「ミコ様ぁ」
最後は少し泣きそうな声だった。
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シンは口を挟むか迷った。
迷っているうちに、カミノはもう天幕の方へ歩き出していた。
従者二人が慌てて前に回り込む。
カミノは止まらない。
兵が道を開ける。
誰も笑わなかった。
止める者もいなかった。
止めれば本当に面倒になることを、皆が知っている顔だった。
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天幕の入口近くで、田村麻呂が立っていた。
カミノを見た。
従者を見た。
最後にシンを見た。
なぜか、シンまで巻き込まれている顔をされた。
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「宮様」
「見たい」
「危うございます」
「聞いた」
「承知の上で?」
「承知の上だ」
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田村麻呂は少しだけ黙った。
怒った顔ではなかった。
困った顔でもない。
何かを計っている顔だった。
カミノの命。
会談の重さ。
モレの矜持。
従者の胃痛。
たぶん、その全部を同時に見ていた。
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「中で声を荒げてはなりません」
「荒げない」
「相手の言葉を遮ってもなりません」
「できるだけしない」
「できるだけ、では困ります」
「分かった。しない」
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田村麻呂は頷いた。
従者が小さく呻いた。
カミノは振り返って、シンを見た。
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「シン」
「今度は何だ」
「お前は中には入らん」
「知ってるよ」
「だが、ちゃんと聞いておけ」
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シンは眉をひそめた。
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「俺が聞いてどうする」
「分からない」
「分からないのに言うな」
「分からないから言うのだ」
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カミノは、そこで少しだけ真面目な顔になった。
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「お前は、ここに来てからずっと、見たことのないものを見たような顔をしている。モレを見た時もそうだった。俺には分からないものを、お前は何か知っているのだと思う」
「知ってるわけじゃない」
「なら、聞いておけ。知っているかどうかは、後で分かる」
そう言って、カミノは天幕の中へ入った。
従者二人も、諦めた顔で続いた。
入口の布が揺れた。
その向こうに、火の気配と墨の匂いがある。
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シンは外に残された。
見張りの兵が二人、入口の左右に立っている。
武器は持っていない。
だが、手の届く距離に槍が置かれていた。
安全にするために武器を遠ざける。
危険だから、完全には遠ざけない。
その中途半端さが、人間らしかった。
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天幕の中の声が、布越しに届いた。
田村麻呂の低い声。
モレの、さらに低い声。
時々、カミノが口を挟む。
そしてスズリの静かな声が、その間を埋める。
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通訳、というだけではなかった。
言葉の向こうにあるものを、別の言葉へ移している。
そのまま移せば壊れるものを、壊れない形へ置き換えている。
そんな声だった。
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シンは天幕の布に背を当てず、少し離れて立った。
布一枚の向こうに、刃物より危ないものがある。
言葉だ。
書かれれば残る。
残れば、人を縛る。
ただの音が、墨になった瞬間、別の生き物になる。
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晩秋の空は低かった。
雲が山の上に垂れている。
風は北から来て、陣地の旗を小さく鳴らした。
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「名を、改めて記す」
田村麻呂の声がした。
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「磐具公母礼」
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スズリの声が続いた。
たぶん、紙に書いたのだ。
筆先が紙を擦る音が、布越しにほんのわずか聞こえた気がした。
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沈黙が落ちた。
短い沈黙だった。
だが重かった。
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「その字は、俺の声ではない」
モレが言った。
怒鳴ってはいない。
ただ、削った木の芯みたいな声だった。
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「記録上は、そのようになる」
田村麻呂が答えた。
「記録とは、誰のものだ」
「後に残すためのものだ」
「誰の後に」
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また、少し黙った。
シンは、天幕の外で息を止めていた。
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「ヤマトの後か」
モレが言った。
「死んだ者の後か。まだ生きている者の後か」
スズリの筆が止まった。
今度は、はっきり分かった。
音がしなくなったからだ。
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「名を残すことは、奪うことではない」
田村麻呂が言った。
「残し方による」
「では、どう残せばいい」
「分からぬ音は、分からぬと書け」
モレの声が低くなった。
「勝った者の言葉に直してしまえば、また一つ死ぬ」
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シンは目を伏せた。
モモのことを思った。
モモ。
白桃。
執行体。
観測者。
命令。
誤差。
どれも彼女を言い当てているようで、どれも彼女ではない。
名前は残る。
役目も残る。
でも、その声が残るとは限らない。
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「城柵を置く」
田村麻呂が言った。
声が少し固くなっていた。
交渉の中心へ戻したのだ。
「兵を置く。倉を置く。道を守る。降る者を殺さぬためにも要る」
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「囲いだ」
モレの返答は早かった。
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「城柵だ」
「囲いだ」
言い直しではない。
拒絶だった。
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「獣を防ぐために囲いを作る。人を囲えば、人は獣になる」
「囲いがなければ、兵も食も守れぬ」
「囲いがあれば、囲いの外ができる」
モレの声は冷たかった。
「外に置かれた者は、冬に先に死ぬ」
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中が少し黙った。
反論を探す沈黙ではなかった。
その言葉を、どこへ置けばいいのか分からない沈黙だった。
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「戸を立てる」
田村麻呂が言った。
「名を記し、米を納め、道を守る。その代わり、無用に討たぬ。奪わぬ。降る者を守る」
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「戸ではない」
モレが言った。
「人は戸ではない」
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「では、何だ」
カミノの声だった。
約束を忘れたわけではない。
ただ、聞かずにはいられなかった声だった。
従者の小さな気配が動いた。
たぶん止めようとしたのだ。
でも、田村麻呂は止めなかった。
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モレは、短く何かを言った。
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それは、シンには聞き取れなかった。
ヤマトが使う言葉ではない、というより、字にしにくい音だった。
山の中で枝が折れる音に似ていた。
炉の灰の奥で火が沈む音にも似ていた。
意味は分からない。
なのに、胸の奥だけが反応した。
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スズリの筆が止まった。
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「……家の火」
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スズリが言った。
声が少しだけ揺れていた。
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「家、という意味か」
田村麻呂が聞いた。
「家だけではありません」
スズリは、言葉を探していた。
いつものように整えた声ではない。
触れたことのない傷の形を、手探りで確かめている声だった。
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「炉です。人の数です。冬を越す力です。火が落ちれば、弱い者から先に消えます。飢えに。寒さに。病に。あるいは、他の火に」
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「他の火」
カミノが繰り返した。
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「別の家。別の集まり。別の力です」
スズリはそう答えた。
すぐに書かなかった。
書けなかったのだと、シンには分かった。
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「お前たちは名を書く」
モレが言った。
「名を書けば、人を持った気になる。地を書けば、山を持った気になる。戸を書けば、火を数えた気になる」
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「気になるだけでは、ない」
田村麻呂が言った。
「道を引けば荷が通る。倉を置けば飢えを防げる。名を記せば、誰が殺され、誰が降り、誰が戻らぬか分かる」
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「分かった後で、どうする」
「殺さぬために使う」
「殺すためにも使える」
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「そうだ」
田村麻呂は即座に答えた。
天幕の中の空気が、少し変わった。
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「墨は、殺すためにも使える。だから、誰が書くかが要る」
スズリの息が、ほんの少し止まった。
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「見た者が書く。聞いた者が書く。嘘を書けば、後の者が死ぬ。何も書かなければ、死んだ者がいなかったことになる」
田村麻呂の声は低かった。
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「俺は、それも避けたい」
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モレはすぐに答えなかった。
シンには、表情は見えない。
だが、モレが田村麻呂を見ていることだけは分かった。
火を見る者同士が、炎ではなく灰を見ている。
そんな沈黙だった。
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「なら、見ろ」
モレが言った。
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「イサワを記すなら、イサワを見ろ」
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「使者を送る」
「使者では足りない」
「兵は入れぬ」
「兵はいらない」
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そこで、布の向こうの気配が変わった。
モレが、誰かを見た。
たぶん、スズリを見た。
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「その女」
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スズリの筆が、紙の上で止まった。
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「記す者だな」
「はい」
「途中、手を止めた」
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「……はい」
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「分からなかったからか」
「分かった気がしたからです」
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スズリの声は小さかった。
「分かった気がして、それをそのまま書くのが怖くなりました」
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モレは、しばらく黙った。
「それでいい」
意外な言葉だった。
「怖がらずに書く者はいらない」
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シンは、そこで少しだけスズリを見たいと思った。
だが布がある。
中は見えない。
声だけが届く。
記録される前の声だけが。
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会談は、そこで一度切れた。
完全に終わったわけではない。
だが、互いにこれ以上は紙の上では進まないと分かったようだった。
天幕の中で衣擦れの音がする。
木簡がまとめられる。
誰かが低く指示を出す。
入口の布が上がった。
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最初にモレが出てきた。
外の光に目を細めることもなく、まっすぐ歩いた。
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首から腕にかけて刻まれた藍の刺青が、秋の薄い光を吸っている。
山の稜線。
流れる水。
鹿の角。
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シンは、また胸の奥を掴まれた。
アサメの刺青は紅だった。
この男の刺青は藍だった。
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違う。
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でも、同じ場所から来ている。
同じ祈りの親戚だった。
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モレはシンの横を通り過ぎた。
通り過ぎて、止まった。
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振り返った。
かなり長く、シンを見た。
顔ではなく、目を見ていた。
喉の布も、衣も、手も見ない。
ただ目を見る。
山の者が、雪の下の水を探すみたいに。
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「……お前」
モレが言った。
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「俺の刺青を見た時、息を止めたな」
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シンは答えなかった。
答えられなかった。
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「ヤマトの者は、この線を見ても、怖がるか、珍しがるか、数えるかだ」
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モレはシンへ一歩近づいた。
見張りの兵がわずかに動いた。
モレは気にしなかった。
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「お前は、違った」
「……何が」
「失ったものを見る目だった」
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胸の奥が、熱くなった。
痛みに近い熱だった。
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「山の匂いがする」
モレが言った。
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「火のそばに長くいた者の匂いだ。煙を嫌わない。血を見て、すぐに目を逸らさない。だが、殺すための目でもない」
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シンは、喉の布に指をやりかけてやめた。
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「ヤマトの顔じゃない」
「……それは昨日も言われた」
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「山の顔でもない」
モレは言った。
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「だが、目の奥に山の火がある」
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シンは、何も言えなかった。
山。
火。
アサメ。
炉の煙。
鹿肉。
野薔薇。
腕の刺青。
血の熱。
全部が、勝手に戻ってくる。
戻ってくるのに、そこへは戻れない。
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モレは視線を移した。
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天幕から出てきたスズリを見た。
スズリは筆を持ったままだった。
指先に墨がついている。
墨は黒いのに、冷えた光の中では少し青く見えた。
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「お前もだ」
モレが言った。
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スズリが、かすかに揺れた。
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「私は」
「お前は、聞こえない音を聞いた」
「……聞こえたわけではありません」
「なら、なぜ手を止めた」
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スズリは答えられなかった。
怖いというより、自分の中に知らない部屋を見つけたみたいな顔だった。
鍵のない部屋。
開けた覚えがないのに、奥から火の匂いが漏れてくる部屋。
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モレは田村麻呂へ向いた。
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「その二人を貸せ」
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空気が動いた。
従者が顔を見合わせる。
兵が少し身構えた。
置いていた武器の場所へ、目だけが動く。
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「理由は」
田村麻呂が静かに聞いた。
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「イサワを記すなら、イサワを見ろ」
「それは聞いた」
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「その女は、書く前に止まれる」
モレはスズリを見た。
「止まれる者でなければ、書かせるな」
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それから、シンを見た。
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「その男は、俺の刺青に反応した。山の火を知っている。知らないふりをしているが、体が知っている。イサワへ入れば、ヤマトが見えないものを見るかもしれない」
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「シンは、こちらの者でもない」
田村麻呂が言った。
「だからだ」
モレの答えは短かった。
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「ヤマトの墨だけで書けば、ヤマトの形になる。イサワの者だけで話せば、イサワの傷になる。その男は、どちらにも入りきらない」
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シンは思わず顔を上げた。
モレの目は動かなかった。
「半端な者は、境を見る」
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天幕の入口から、カミノが一歩前に出た。
従者が止めようとした。
カミノは止まらなかった。
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「ならば行かせよう」
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周囲がざわついた。
田村麻呂がカミノを見た。
カミノは田村麻呂を見返した。
どちらも黙っていた。
でもその沈黙の中に、長い信頼があった。
言葉にしなくても、互いがどこまで危ういことを言っているか分かっている沈黙だった。
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「都で記せば、都の形になる」
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カミノが言った。
静かな声だった。
だが、その言葉だけは空気を変えた。
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「勝った者の墨だけで残せば、負けた者の火は、ただの煙になる。見た者が記せ」
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スズリが顔を上げた。
シンもカミノを見た。
カミノは真剣だった。
いつもの、好奇心に目を輝かせる顔ではない。
何かを恐れている顔だった。
知らないまま書かれることを。
知らないまま残ることを。
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「護衛は付ける」
田村麻呂が言った。
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「要らない」
モレが即座に言った。
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「では行かせられぬ」
「兵を入れれば、見えるものも見えなくなる」
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「二人だけでは渡せぬ」
田村麻呂の声は動かなかった。
モレも引かなかった。
また、沈黙が落ちた。
今度の沈黙は、戦に近かった。
刃物がないだけで、互いの首筋へ手を伸ばしている。
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「護衛ではなく、道案内を一人」
カミノが言った。
「ヤマトの兵ではなく、荷運びでもいい。武器を持たず、二人を帰すための者」
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シンは、思わずタダの方を見た。
炊事場の近くで、でかい男が鍋の火を見ていた。
聞こえているのかいないのか分からない顔だった。
だが、こちらを向いていた。
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「タダ」
カミノが呼んだ。
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「行けるか」
「荷があるなら行ける」
タダは短く答えた。
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「荷は二人だ」
「重そうだな」
「たぶんな」
カミノが少しだけ笑った。
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緊張した空気が、わずかに緩んだ。
モレはタダを見た。
上から下まで見る。
タダも見返した。
どちらも笑わなかった。
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「飯は作れるか」
モレが聞いた。
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「作れる」
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「なら、邪魔にはならない」
それだけだった。
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田村麻呂はしばらく黙っていた。
シンを見る。
スズリを見る。
タダを見る。
モレを見る。
最後に、北の山を見た。
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「……行って来い」
それだけだった。
許可というより、覚悟の音だった。
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夜になった。
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シンは外へ出た。
北を見た。
山が黒く、空に溶けている。
星はない。
雲が厚い。
だが、山の形だけは分かった。
黒いものの上に、さらに黒いものがある。
その重なりが、山だった。
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陣地の火は少なくされていた。
明日の出立に備えて、荷がまとめられている。
馬の鼻息が白い。
遠くで誰かが咳をした。
その音もすぐに吸われて、夜に戻った。
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モレの言葉が、頭の中で戻ってくる。
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目の奥に山の火がある。
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そんなものが、まだ自分に残っているのか。
シンには分からなかった。
アサメはもういない。
山の火は消えた。
消えたはずだった。
それなのに、他人には見えるらしい。
自分で見えない火が。
自分では触れられない場所で、まだくすぶっている火が。
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草を踏む音がした。
振り返る。
スズリが来た。
墨色の衣。
髪をまとめたまま。
手に何も持っていなかった。
筆も、紙も、木簡もない。
記す者ではなく、ただの一人として来たように見えた。
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スズリは何も言わずに、シンの隣に立った。
同じ方向を見る。
しばらく、二人とも黙っていた。
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「……あの言葉、懐かしい気がしたんです」
スズリが言った。
小さい声だった。
「知らないはずなのに」
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シンは少し間を置いた。
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「どの言葉が」
「全部、です。家の火とか。火が落ちるとか。囲いの外とか」
「……」
「記録していたのに、手が止まりました。聞いて、考えて、書き写したのではありません。思い出している感じがしました」
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スズリは自分の手を見た。
白い指だった。
墨の跡が、爪のそばに少しだけ残っている。
何度洗っても、墨は細い隙間に残る。
消えたようで、残る。
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「変ですよね」
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風が来た。
枯れ草が鳴った。
山の匂いがした。
土と、木の皮と、遠い火の匂いが混ざっていた。
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シンはスズリを見た。
スズリは山を見ていた。
知らない場所を、でも知っている場所として見ている目だった。
モレが言った通りだった。
本人だけが、その山の名を知らない。
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「変じゃない」
シンは言った。
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「そういうことは、ある」
「……そうですか」
「ある」
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強く言いすぎたかもしれない。
でも、弱く言うことはできなかった。
シン自身が、それを信じたかった。
記憶がなくても、残るものはある。
名前を呼べなくても、反応するものはある。
思い出せなくても、胸の奥で燃え続ける火はある。
そうでなければ、モモまで消えてしまう。
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スズリは少し間を置いた。
それから、また山を見た。
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「私は、何を記せばいいのでしょう」
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シンはすぐに答えられなかった。
簡単な問いではなかった。
見たものを書けばいい、と言えば済むのかもしれない。
だが、見たものだけでは足りない。
見えなかったものまで書こうとすれば、嘘になる。
人は、どこまでを記していいのか。
どこからが奪うことになるのか。
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「たぶん」
シンは言った。
「分からなかったことを、分からなかったって書けばいい」
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スズリがこちらを見た。
「それは、記録になりますか」
「なるだろ。分かったふりよりは」
スズリは黙った。
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それから、ほんの少しだけ息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
夜で、よく見えなかった。
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遠くで馬が鳴いた。
秋風が、また来た。
山の匂いを運んだまま、通り過ぎた。
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桃の香りを、久しく感じていない。
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そのことに気づいた瞬間、胸の奥が少し冷えた。
モモの気配が遠い。
遠いのに、消えない。
消えないから、余計に遠い。
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ワカレの声が、嫌に鮮明に残っていた。
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壊れたまんま待ってるよ。
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軽い声だった。
だが、その言葉だけは軽くなかった。
モモはまだ、どこかにいる。
壊れたままで。
待っている。
何を待っているのかも分からないまま。
自分が待っていることさえ、うまく分からないまま。
それでも、まだいる。
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アサメが守ろうとした世界が、あの山の向こうに続いている。
モモが壊れたまま待っている世界も、あの山の向こうにある。
同じ山だ。
どちらも、同じ山の向こうにある。
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シンは北の山を見た。
黒い山は、何も答えなかった。
ただ、そこにあった。
墨のように黒く。
火を隠したまま。
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(第六十五話へ)




