↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
63/149

墨の国と火の国

第六十三話 墨の国と火の国


⸻


 朝が来ていた。


⸻


 秋の終わりの朝だった。


 白い息が出る。


 霜が枯れ草の先に残っている。


 馬が吐く息も白く、鼻孔から細く流れて消えた。


⸻


 篝火は夜通し燃えていたらしく、火はもう小さくなっていた。


 赤い芯だけが灰の奥に残り、そこから薄い煙が上がっている。


 煙は冷気の中を水平に流れた。


 上へ昇らない。


 朝の空気が重く、地面に近いところで、白い帯みたいにたなびいていた。


⸻


 シンは天幕の外に出て、その煙を見ていた。


⸻


 山の朝とは違った。


 山の朝は音が少なかった。


 炉のはぜる音と、風と、鳥だけがあった。


 誰かが目を覚ませば、薪が動く。


 誰かが水を汲みに行けば、足元の草が濡れる。


 子供がくしゃみをして、誰かが笑う。


 それくらいだった。


⸻


 ここは違う。


⸻


 見張りが交代する。


 炊事場で火が起こされる。


 馬番が馬を引いていく。


 伝令が走る。


 書記が何かを読み上げる。


 荷を担いだ男が横を通る。


 革紐が鳴る。


 槍の柄が木箱に当たる。


 鍋を置く音。


 誰かが人名を呼ぶ声。


 返事。


 また指示。


⸻


 誰もが役割を持っていた。


 役割通りに動いていた。


 声が噛み合って、組織が動いていた。


 人間が一人ずつ動いているのではない。


 大きな一つの生き物の中で、手や足や歯や胃袋が、それぞれ勝手に働いているみたいだった。


⸻


(社会だ)


⸻


 死んでも死んでも、人間はこういうものを作る。


 何百年経っても、形は変わるが、中身は同じだ。


 誰かが決めて、誰かが従って、誰かが数える。


 誰かが記録する。


⸻


 シンはそれを眺めていた。


 嫌悪ではなかった。


 感動でもなかった。


 ただ、見ていた。


⸻


 山の火は、人を寄せた。


 ここの火は、人を並べた。


 同じ火なのに、役目が違う。


 アサメのいた場所では、火は中心だった。


 ここでは、火もまた配置されている。


 何歩おきに置くか。


 誰が管理するか。


 いつ消すか。


 どれだけ薪を使うか。


 火までが、命令を受けているように見えた。


⸻


 それが、この国なのだと思った。


⸻


 火を置く国。


 道を引く国。


 名を書き、数を残し、死んだ者の場所まで決める国。


⸻


 煙の匂いが鼻に入った。


 山の煙とは違う。


 整えられた煙の匂いだった。


⸻


⸻


「起きていたか」


⸻


 カミノが来た。


 朝から陣地を歩き回っているらしく、衣の裾が露で湿っていた。


 従者が二人ついている。


 少し距離を取っているが、目はずっとカミノを追っていた。


 カミノ本人は気にしていない様子で、シンへ普通に近づいてきた。


⸻


 兵が数人、少し離れたところで頭を下げた。


 ミコ、と呼ぶ声が聞こえた。


 カミノは軽く手を振って、そのまま馬のそばへ寄った。


⸻


「馬は好きか」


「……普通だ」


「そうか。俺は好きだ」


⸻


 カミノは馬の首を撫でた。


 馬が少し身じろいだ。


 カミノは怖じけず、ゆっくり続けた。


 慣れた手つきだった。


 撫でるというより、馬に自分の存在を伝えているような触れ方だった。


 馬は少し耳を動かし、やがて落ち着いた。


⸻


「馬はいい」


「何が」


「嘘をつくのが下手だ」


⸻


 カミノは馬の額に触れたまま言った。


⸻


「怯える時は怯える。嫌な時は嫌がる。こちらが焦っていれば、すぐ分かる」


「人間もだいたいそうだろ」


「人間は隠す。隠した上で、隠していない顔をする」


⸻


 シンは少しだけカミノを見た。


⸻


「アンタもするのか」


「する。下手だと言われるが」


⸻


 カミノは悪びれずに答えた。


 それから、シンの喉へ視線を向けた。


 昨夜スズリが巻いた布が、まだある。


 白い布の端に、わずかに血が滲んでいた。


⸻


「昨夜、丘で誰かと話していたと聞いた」


「……田村麻呂から聞いたか」


「そうだ。誰だったんだ」


「知り合いだ」


「どこにいる」


「消えた」


⸻


 カミノは馬から顔を上げた。


 疑っていない目だった。


 むしろ面白がっている目だった。


⸻


「消えた、とはどういうことだ」


「そういうことだ」


「詳しく聞いていいか」


「良くない」


「なぜ」


「説明できない」


⸻


 カミノは少し考えた。


 それから頷いた。


⸻


「分かった」


⸻


 あっさりしていた。


 シンは少し拍子抜けした。


⸻


「……追及しないのか」


「説明できないなら聞いても意味がない」


「疑わないのか」


「疑う材料がない」


「誰も見てないんだろ」


「なら、誰も見ていないということが分かるだけだ」


⸻


 カミノはそう言って、また馬の首を撫でた。


⸻


「俺は、見ていないものを無かったことにはできない。だが、見ていないものを見たことにもできない」


「……面倒な奴だな」


「よく言われる」


⸻


 カミノは少し笑った。


 笑い方が明るい。


 だが、軽いだけではない。


 見たものと見ていないものを分けようとする、妙な真面目さがあった。


⸻


「その傷はどうした」


⸻


 カミノが聞いた。


⸻


「……自分でやった」


「なぜ」


「戻れると思った」


「どこへ」


⸻


 シンは少し間を置いた。


⸻


「……大事な人間がいた場所へ」


⸻


 カミノは黙った。


 追及しなかった。


 ただ、少しだけ目が変わった。


 理解した目ではない。


 理解しようとしている目だった。


⸻


「戻れなかったか」


「戻れなかった」


「そうか」


⸻


 それだけ言って、カミノはまた馬を見た。


 責めなかった。


 哀れみもしなかった。


 ただ、受け取った。


⸻


 その沈黙が、少しだけありがたかった。


 同時に、少しだけ苦しかった。


 責められた方が、まだ怒れた。


 怒れれば、立っていられた。


 受け取られると、胸の奥が急に静かになる。


 静かになると、アサメの声が戻ってくる。


⸻


 生きろ。


⸻


 シンは目を逸らした。


⸻


⸻


 炊事場の方から、匂いが来た。


⸻


 雑穀の匂いと、焼いた魚の匂いと、汁の匂いが混ざっていた。


 煙。


 脂。


 塩。


 灰。


 湯気。


⸻


 シンはそちらを向いた。


⸻


 何かが引っかかった。


 匂いではない。


 匂いの奥にある何かが。


 胃が反応したのではない。


 記憶が先に反応した。


⸻


 炊事場へ近づいた。


 石を組んだ竈が並んでいる。


 大きな鍋がかかっている。


 煙が上がっている。


 兵が何人も動いている。


 薪を割る者。


 水を運ぶ者。


 干し魚を裂く者。


 鍋の中を覗き込む者。


⸻


 その横に、でかい男が立っていた。


⸻


 本当にでかかった。


 周りの兵より頭一つ分高い。


 荷物を運んでいるらしく、背に大きな袋を担いでいた。


 竈の火を覗き込んで、何かを言っている。


 炊事担当の兵が、素直に聞いている。


⸻


「火が強い」


⸻


 男が言った。


⸻


「煮立たせたいならそれでいい。腹に入れる汁なら、少し弱めろ。具が逃げる」


「具が逃げる?」


「味が逃げる」


⸻


 炊事の兵は分かったような、分からないような顔で頷いた。


 男は勝手に薪を一本外した。


 火が少し落ちる。


 鍋の表面の泡が静かになった。


⸻


 男が振り返った。


⸻


「……面倒な顔をしている」


⸻


 シンは止まった。


⸻


 言葉が出なかった。


 出てくるまでに、少し時間がかかった。


⸻


(タダ)


⸻


 同じだった。


 声も。


 立ち方も。


 火の前にいる背中も。


 火を怖がらない感じも。


 鍋を見る目も。


 余計なことを言わず、でも必要なことは当然のようにするところも。


⸻


 違う時代なのに。


 違う人間のはずなのに。


 同じだった。


⸻


「……どこかで会ったか?」


⸻


 男が言った。


⸻


 シンは少し黙った。


⸻


「……いや」


⸻


 喉が詰まった。


⸻


「似てる奴を知ってる」


⸻


 男は少し首を傾げた。


⸻


「そうか」


⸻


 それだけだった。


⸻


 男は袋から干し肉を取り出した。


 厚めに切られた肉だった。


 黒く燻されていて、表面に塩が吹いている。


⸻


「食え」


「……」


「考えるのは腹を満たしてからでいい」


⸻


 シンは受け取った。


 かじった。


⸻


 硬い。


 歯が立ちにくい。


 だが、噛んでいるうちに脂が戻る。


 燻製の香りが鼻を抜けた。


⸻


 うまかった。


⸻


 泣きそうになった。


 本当に、泣きそうになった。


 ならなかった。


 ぎりぎり、ならなかった。


⸻


 食べ物はずるい。


 死んだ人間を戻さないくせに、生きている体だけをこちらへ戻してくる。


 噛め。


 飲め。


 腹へ入れろ。


 まだ終わっていない。


 そう言ってくる。


⸻


「こういう時代は飯が作れる奴が強い」


⸻


 男が言った。


 独り言みたいな言い方だった。


⸻


「こういう時代、とはどういう意味だ」


「軍が動く時代だ。腹が減れば兵は動かない。飯作れる奴を邪険にはできない」


「……お前、どこでも同じだな」


「同じだ」


⸻


 男は鍋を覗き込んだ。


 火加減を見た。


 何も言わずに薪を一本足した。


 さっき外した薪ではなく、別の細い薪だった。


 火は少しだけ変わった。


⸻


「タダだ」


⸻


 タダが言った。


 振り返らずに言った。


⸻


「……俺は、シン」


「そうか」


「タダ、か」


「ああ」


⸻


 それだけだった。


 それだけで十分だった。


⸻


 名前を聞いただけで、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 この男は、前のタダではない。


 分かっている。


 前のタダの記憶はない。


 アサメも知らない。


 ナギも知らない。


 それでも、火の前に立つ背中が同じだった。


 人間の世界がどれだけ変わっても、汁を作る奴はいる。


 腹を満たせと言う奴はいる。


 それが救いなのか、残酷なのか、シンにはまだ分からなかった。


⸻


 後ろからカミノが来た。


 炊事場を覗き込んで、目を輝かせた。


⸻


「いい匂いだ」


「食うか」


「食ってもいいのか」


「腹が減ってるなら食え」


⸻


 タダはカミノが誰か気にしていない様子で、椀を一つ差し出した。


 カミノは普通に受け取った。


 従者が少し慌てた。


⸻


「宮様、それは」


「毒見は済んでいるのか」


⸻


 カミノが聞いた。


 従者は言葉に詰まった。


 タダが鍋を指した。


⸻


「俺が飲んだ」


「ならいい」


「宮様」


「腹が減っている」


⸻


 カミノは椀に口をつけた。


 少し熱かったらしく、目を細めた。


 だがすぐにもう一口飲んだ。


⸻


「うまい」


「だろ」


「お前、どこの者だ」


「荷を運ぶ者だ」


「荷だけか」


「腹が減った奴には飯も出す」


「便利だな」


「便利な奴は生き残る」


⸻


 カミノは笑った。


 タダは笑わなかった。


 ただ鍋を見た。


⸻


 三人で、竈の前にいた。


 カミノ。


 タダ。


 シン。


 身分も時代も立場も違う三人が、湯気の前で同じように椀を持っている。


 それが妙に奇妙で、少しだけ静かだった。


⸻


 少し離れた場所で、スズリが記録をしていた。


⸻


 墨色の衣。


 白い指。


 細い筆が動く。


 墨で少し汚れた袖先が、朝の光を受けていた。


 小さな机の上には、紙と木簡が置かれている。


 硯の黒が、朝の冷たい光を吸っていた。


⸻


 スズリは炊事場の騒がしさの中でも、乱れずに書いていた。


 誰が何を受け取ったか。


 どれだけの米を使ったか。


 どの隊へ何を送ったか。


 誰が戻り、誰が出たか。


 多分、そんなことを記録している。


⸻


 戦の記録を、文字が継いでいる。


⸻


 山では、知識は口と手で伝わった。


 どの草が食えるか。


 どの沢が危ないか。


 鹿がどちらへ抜けたか。


 火をどう残すか。


 子供は見て覚えた。


 若い者は怒られながら覚えた。


 名は木に刻まれず、誰かの声に残った。


⸻


 ここでは紙と墨が伝える。


 数が書かれる。


 名が書かれる。


 場所が書かれる。


 死も、功も、命令も、反逆も、墨になって残る。


⸻


 どちらが正しいかではない。


 人間は色んな方法で、続けようとしている。


⸻


 スズリの横顔は静かだった。


 きれいだ、と思った。


 アサメとは全然違う美しさだった。


 土でも火でもない。


 墨と紙と静寂の美しさだった。


 火のそばにいても燃えない。


 水のように見えて、消えない黒を作る。


⸻


 墨の国。


⸻


 ふと、そんな言葉が浮かんだ。


⸻


 この国は、墨で残す。


 人を名にして、名を列にして、列を命令にして、命令を歴史にする。


 それは強い。


 とても強い。


⸻


 けれど。


 山には火があった。


 名にされなくても、火は残った。


 誰が書かなくても、手が覚えていた。


 火の国。


 そう呼ぶには荒すぎるかもしれない。


 でも、シンにはそう思えた。


⸻


 墨の国と、火の国。


⸻


 その二つが、今、この朝の冷たい空気の中で向かい合おうとしている。


⸻


⸻


 昼前に、空気が変わった。


⸻


 最初に馬が気づいた。


 耳を立て、首を上げた。


 次に見張りが動いた。


 その動きに兵が反応する。


 炊事場の声が少し細くなる。


 鍋の泡の音だけが、妙に大きく聞こえた。


⸻


 兵が集まった。


 声が減った。


 誰かが槍を持ち直した。


 誰かが馬の手綱を引いた。


 伝令が田村麻呂の天幕へ走った。


⸻


 南の方角から、馬が来た。


⸻


 一騎だった。


⸻


 ゆっくりした速度で来た。


 だが誰も、遅いとは思わなかった。


 その馬の来方が、急ぐ必要のない来方だった。


 急がないことで、かえって強く見えた。


 逃げるつもりも、媚びるつもりもない。


 止まれと言われれば止まる。


 だが恐れてはいない。


 そんな来方だった。


⸻


 騎乗の男は、ヤマト軍の中へ入ってきても表情を変えなかった。


 媚びなかった。


 怯えなかった。


 圧されなかった。


⸻


 静かだった。


⸻


 田村麻呂が前に出た。


 その背後に数人の兵。


 少し離れて、カミノも立っていた。


 スズリは紙を押さえ、筆を持ったまま視線だけを上げた。


 タダは鍋の火を見ていたが、顔だけは来た馬の方を向いていた。


⸻


 二人が向かい合った。


⸻


 どちらも静かだった。


 どちらも動じなかった。


 違う火を背負った男同士が、霜の残る地面の上で向かい合っている。


 そんな感じがした。


⸻


 シンはその様子を、少し離れたところから見ていた。


⸻


 男が馬から下りた。


⸻


 長身だった。


 タダほど大きくない。


 でも無駄が極端に少ない体だった。


 削ぎ落とされた体だ。


 痩せているように見えるが、倒れなさそうな体だった。


 風で折れそうな細さではない。


 長い冬を越えた木のような体だった。


⸻


 顔は頬が少し削れていた。


 長年、眠れていない顔だ。


 目が冷たかった。


 怒っているのではない。


 冷たくしないと壊れる目だった。


 熱いものを奥に押し込めて、表だけを凍らせたような目。


⸻


 男の首から腕にかけて、刺青があった。


⸻


 シンは、そこで止まった。


⸻


 渦。


 山の稜線を模した線。


 流れる水。


 鹿の角。


⸻


 深い藍で刻まれた、古い意匠だった。


 皮膚の上に、山と水が流れている。


 線は荒くない。


 だが飾りでもない。


 生きるために刻まれた線だった。


⸻


(アサメ)


⸻


 声に出なかった。


 でも、出そうになった。


⸻


 アサメが持っていた刺青と、同じ系統だった。


 完全に同じではない。


 色も違う。


 線の流れも少し違う。


 アサメの刺青には、もっと火があった。


 紅があった。


 皮膚の奥から燃えるような、山の女の色があった。


⸻


 この男の刺青は藍だった。


 深く沈む川の色。


 夜の山影。


 消えた火の後に残る、黒に近い青。


⸻


 でも同じ流れを持っていた。


 同じ土地から来た意匠だった。


 同じ祈りの親戚だった。


⸻


 胸が痛くなった。


 痛いというより、何かが締め付けられた。


 山の火の匂いが、一瞬だけ戻ってきた気がした。


 炉の煙。


 鹿肉。


 野薔薇。


 アサメの腕。


 血の熱。


⸻


 男がシンを見た。


⸻


 一瞬だけ目が止まった。


 ヤマト兵ではない、と分かったらしい。


 あるいは、別の何かを感じたのか。


 表情は変えなかった。


 でも視線が少しだけ、シンの上で動いた。


 喉の布。


 衣の乱れ。


 目。


 手。


 どこかを読むように見た。


⸻


「……ヤマトの顔じゃないな」


⸻


 男が言った。


 田村麻呂へ向けた言葉でも、シンへ向けた言葉でもなかった。


 ただ、事実として言った。


⸻


 シンは答えなかった。


 答え方が分からなかった。


 ヤマトでもない。


 蝦夷でもない。


 山の民でもない。


 未来の人間でもない。


 自分が何の顔をしているのか、自分でも分からなかった。


⸻


 田村麻呂が前に出た。


⸻


「名を」


⸻


 男は少し間を置いた。


⸻


「イサワより使いに来た」


⸻


 また、少し間があった。


⸻


「モレだ」


⸻


 風が来た。


 枯れ草が揺れた。


 篝火の煙が横へ流れた。


⸻


 モレ。


⸻


 名前が空気に置かれた瞬間、周囲の兵がわずかに反応した。


 誰かが息を殺した。


 誰かが槍を握り直した。


 田村麻呂の顔だけが変わらなかった。


 カミノの目が、強く開いた。


 スズリの筆先が紙に触れた。


⸻


 墨が置かれた。


⸻


 その音が、シンには聞こえた気がした。


⸻


 モレはまだシンを見ていた。


 シンもモレを見ていた。


⸻


 モレの刺青が、秋の光の中で少し光った。


 藍が深かった。


 アサメの刺青は、燃えるような紅だった。


⸻


 墨の匂いがした。


 スズリが記録を始めていた。


 細い筆の音が、静かな空気に溶けた。


⸻


 国の火が揺れていた。


 山の火が、その向こうから来ていた。


⸻


 墨の国が、火の国の名を書き留める。


⸻


 その朝、シンは初めて、この時代の戦が始まる音を聞いた気がした。


⸻


(第六十四話へ)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。