墨の国と火の国
第六十三話 墨の国と火の国
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朝が来ていた。
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秋の終わりの朝だった。
白い息が出る。
霜が枯れ草の先に残っている。
馬が吐く息も白く、鼻孔から細く流れて消えた。
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篝火は夜通し燃えていたらしく、火はもう小さくなっていた。
赤い芯だけが灰の奥に残り、そこから薄い煙が上がっている。
煙は冷気の中を水平に流れた。
上へ昇らない。
朝の空気が重く、地面に近いところで、白い帯みたいにたなびいていた。
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シンは天幕の外に出て、その煙を見ていた。
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山の朝とは違った。
山の朝は音が少なかった。
炉のはぜる音と、風と、鳥だけがあった。
誰かが目を覚ませば、薪が動く。
誰かが水を汲みに行けば、足元の草が濡れる。
子供がくしゃみをして、誰かが笑う。
それくらいだった。
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ここは違う。
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見張りが交代する。
炊事場で火が起こされる。
馬番が馬を引いていく。
伝令が走る。
書記が何かを読み上げる。
荷を担いだ男が横を通る。
革紐が鳴る。
槍の柄が木箱に当たる。
鍋を置く音。
誰かが人名を呼ぶ声。
返事。
また指示。
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誰もが役割を持っていた。
役割通りに動いていた。
声が噛み合って、組織が動いていた。
人間が一人ずつ動いているのではない。
大きな一つの生き物の中で、手や足や歯や胃袋が、それぞれ勝手に働いているみたいだった。
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(社会だ)
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死んでも死んでも、人間はこういうものを作る。
何百年経っても、形は変わるが、中身は同じだ。
誰かが決めて、誰かが従って、誰かが数える。
誰かが記録する。
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シンはそれを眺めていた。
嫌悪ではなかった。
感動でもなかった。
ただ、見ていた。
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山の火は、人を寄せた。
ここの火は、人を並べた。
同じ火なのに、役目が違う。
アサメのいた場所では、火は中心だった。
ここでは、火もまた配置されている。
何歩おきに置くか。
誰が管理するか。
いつ消すか。
どれだけ薪を使うか。
火までが、命令を受けているように見えた。
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それが、この国なのだと思った。
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火を置く国。
道を引く国。
名を書き、数を残し、死んだ者の場所まで決める国。
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煙の匂いが鼻に入った。
山の煙とは違う。
整えられた煙の匂いだった。
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「起きていたか」
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カミノが来た。
朝から陣地を歩き回っているらしく、衣の裾が露で湿っていた。
従者が二人ついている。
少し距離を取っているが、目はずっとカミノを追っていた。
カミノ本人は気にしていない様子で、シンへ普通に近づいてきた。
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兵が数人、少し離れたところで頭を下げた。
ミコ、と呼ぶ声が聞こえた。
カミノは軽く手を振って、そのまま馬のそばへ寄った。
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「馬は好きか」
「……普通だ」
「そうか。俺は好きだ」
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カミノは馬の首を撫でた。
馬が少し身じろいだ。
カミノは怖じけず、ゆっくり続けた。
慣れた手つきだった。
撫でるというより、馬に自分の存在を伝えているような触れ方だった。
馬は少し耳を動かし、やがて落ち着いた。
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「馬はいい」
「何が」
「嘘をつくのが下手だ」
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カミノは馬の額に触れたまま言った。
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「怯える時は怯える。嫌な時は嫌がる。こちらが焦っていれば、すぐ分かる」
「人間もだいたいそうだろ」
「人間は隠す。隠した上で、隠していない顔をする」
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シンは少しだけカミノを見た。
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「アンタもするのか」
「する。下手だと言われるが」
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カミノは悪びれずに答えた。
それから、シンの喉へ視線を向けた。
昨夜スズリが巻いた布が、まだある。
白い布の端に、わずかに血が滲んでいた。
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「昨夜、丘で誰かと話していたと聞いた」
「……田村麻呂から聞いたか」
「そうだ。誰だったんだ」
「知り合いだ」
「どこにいる」
「消えた」
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カミノは馬から顔を上げた。
疑っていない目だった。
むしろ面白がっている目だった。
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「消えた、とはどういうことだ」
「そういうことだ」
「詳しく聞いていいか」
「良くない」
「なぜ」
「説明できない」
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カミノは少し考えた。
それから頷いた。
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「分かった」
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あっさりしていた。
シンは少し拍子抜けした。
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「……追及しないのか」
「説明できないなら聞いても意味がない」
「疑わないのか」
「疑う材料がない」
「誰も見てないんだろ」
「なら、誰も見ていないということが分かるだけだ」
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カミノはそう言って、また馬の首を撫でた。
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「俺は、見ていないものを無かったことにはできない。だが、見ていないものを見たことにもできない」
「……面倒な奴だな」
「よく言われる」
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カミノは少し笑った。
笑い方が明るい。
だが、軽いだけではない。
見たものと見ていないものを分けようとする、妙な真面目さがあった。
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「その傷はどうした」
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カミノが聞いた。
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「……自分でやった」
「なぜ」
「戻れると思った」
「どこへ」
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シンは少し間を置いた。
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「……大事な人間がいた場所へ」
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カミノは黙った。
追及しなかった。
ただ、少しだけ目が変わった。
理解した目ではない。
理解しようとしている目だった。
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「戻れなかったか」
「戻れなかった」
「そうか」
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それだけ言って、カミノはまた馬を見た。
責めなかった。
哀れみもしなかった。
ただ、受け取った。
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その沈黙が、少しだけありがたかった。
同時に、少しだけ苦しかった。
責められた方が、まだ怒れた。
怒れれば、立っていられた。
受け取られると、胸の奥が急に静かになる。
静かになると、アサメの声が戻ってくる。
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生きろ。
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シンは目を逸らした。
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炊事場の方から、匂いが来た。
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雑穀の匂いと、焼いた魚の匂いと、汁の匂いが混ざっていた。
煙。
脂。
塩。
灰。
湯気。
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シンはそちらを向いた。
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何かが引っかかった。
匂いではない。
匂いの奥にある何かが。
胃が反応したのではない。
記憶が先に反応した。
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炊事場へ近づいた。
石を組んだ竈が並んでいる。
大きな鍋がかかっている。
煙が上がっている。
兵が何人も動いている。
薪を割る者。
水を運ぶ者。
干し魚を裂く者。
鍋の中を覗き込む者。
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その横に、でかい男が立っていた。
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本当にでかかった。
周りの兵より頭一つ分高い。
荷物を運んでいるらしく、背に大きな袋を担いでいた。
竈の火を覗き込んで、何かを言っている。
炊事担当の兵が、素直に聞いている。
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「火が強い」
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男が言った。
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「煮立たせたいならそれでいい。腹に入れる汁なら、少し弱めろ。具が逃げる」
「具が逃げる?」
「味が逃げる」
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炊事の兵は分かったような、分からないような顔で頷いた。
男は勝手に薪を一本外した。
火が少し落ちる。
鍋の表面の泡が静かになった。
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男が振り返った。
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「……面倒な顔をしている」
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シンは止まった。
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言葉が出なかった。
出てくるまでに、少し時間がかかった。
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(タダ)
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同じだった。
声も。
立ち方も。
火の前にいる背中も。
火を怖がらない感じも。
鍋を見る目も。
余計なことを言わず、でも必要なことは当然のようにするところも。
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違う時代なのに。
違う人間のはずなのに。
同じだった。
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「……どこかで会ったか?」
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男が言った。
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シンは少し黙った。
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「……いや」
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喉が詰まった。
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「似てる奴を知ってる」
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男は少し首を傾げた。
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「そうか」
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それだけだった。
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男は袋から干し肉を取り出した。
厚めに切られた肉だった。
黒く燻されていて、表面に塩が吹いている。
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「食え」
「……」
「考えるのは腹を満たしてからでいい」
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シンは受け取った。
かじった。
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硬い。
歯が立ちにくい。
だが、噛んでいるうちに脂が戻る。
燻製の香りが鼻を抜けた。
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うまかった。
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泣きそうになった。
本当に、泣きそうになった。
ならなかった。
ぎりぎり、ならなかった。
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食べ物はずるい。
死んだ人間を戻さないくせに、生きている体だけをこちらへ戻してくる。
噛め。
飲め。
腹へ入れろ。
まだ終わっていない。
そう言ってくる。
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「こういう時代は飯が作れる奴が強い」
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男が言った。
独り言みたいな言い方だった。
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「こういう時代、とはどういう意味だ」
「軍が動く時代だ。腹が減れば兵は動かない。飯作れる奴を邪険にはできない」
「……お前、どこでも同じだな」
「同じだ」
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男は鍋を覗き込んだ。
火加減を見た。
何も言わずに薪を一本足した。
さっき外した薪ではなく、別の細い薪だった。
火は少しだけ変わった。
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「タダだ」
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タダが言った。
振り返らずに言った。
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「……俺は、シン」
「そうか」
「タダ、か」
「ああ」
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それだけだった。
それだけで十分だった。
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名前を聞いただけで、胸の奥が少しだけ痛んだ。
この男は、前のタダではない。
分かっている。
前のタダの記憶はない。
アサメも知らない。
ナギも知らない。
それでも、火の前に立つ背中が同じだった。
人間の世界がどれだけ変わっても、汁を作る奴はいる。
腹を満たせと言う奴はいる。
それが救いなのか、残酷なのか、シンにはまだ分からなかった。
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後ろからカミノが来た。
炊事場を覗き込んで、目を輝かせた。
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「いい匂いだ」
「食うか」
「食ってもいいのか」
「腹が減ってるなら食え」
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タダはカミノが誰か気にしていない様子で、椀を一つ差し出した。
カミノは普通に受け取った。
従者が少し慌てた。
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「宮様、それは」
「毒見は済んでいるのか」
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カミノが聞いた。
従者は言葉に詰まった。
タダが鍋を指した。
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「俺が飲んだ」
「ならいい」
「宮様」
「腹が減っている」
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カミノは椀に口をつけた。
少し熱かったらしく、目を細めた。
だがすぐにもう一口飲んだ。
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「うまい」
「だろ」
「お前、どこの者だ」
「荷を運ぶ者だ」
「荷だけか」
「腹が減った奴には飯も出す」
「便利だな」
「便利な奴は生き残る」
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カミノは笑った。
タダは笑わなかった。
ただ鍋を見た。
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三人で、竈の前にいた。
カミノ。
タダ。
シン。
身分も時代も立場も違う三人が、湯気の前で同じように椀を持っている。
それが妙に奇妙で、少しだけ静かだった。
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少し離れた場所で、スズリが記録をしていた。
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墨色の衣。
白い指。
細い筆が動く。
墨で少し汚れた袖先が、朝の光を受けていた。
小さな机の上には、紙と木簡が置かれている。
硯の黒が、朝の冷たい光を吸っていた。
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スズリは炊事場の騒がしさの中でも、乱れずに書いていた。
誰が何を受け取ったか。
どれだけの米を使ったか。
どの隊へ何を送ったか。
誰が戻り、誰が出たか。
多分、そんなことを記録している。
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戦の記録を、文字が継いでいる。
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山では、知識は口と手で伝わった。
どの草が食えるか。
どの沢が危ないか。
鹿がどちらへ抜けたか。
火をどう残すか。
子供は見て覚えた。
若い者は怒られながら覚えた。
名は木に刻まれず、誰かの声に残った。
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ここでは紙と墨が伝える。
数が書かれる。
名が書かれる。
場所が書かれる。
死も、功も、命令も、反逆も、墨になって残る。
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どちらが正しいかではない。
人間は色んな方法で、続けようとしている。
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スズリの横顔は静かだった。
きれいだ、と思った。
アサメとは全然違う美しさだった。
土でも火でもない。
墨と紙と静寂の美しさだった。
火のそばにいても燃えない。
水のように見えて、消えない黒を作る。
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墨の国。
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ふと、そんな言葉が浮かんだ。
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この国は、墨で残す。
人を名にして、名を列にして、列を命令にして、命令を歴史にする。
それは強い。
とても強い。
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けれど。
山には火があった。
名にされなくても、火は残った。
誰が書かなくても、手が覚えていた。
火の国。
そう呼ぶには荒すぎるかもしれない。
でも、シンにはそう思えた。
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墨の国と、火の国。
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その二つが、今、この朝の冷たい空気の中で向かい合おうとしている。
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昼前に、空気が変わった。
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最初に馬が気づいた。
耳を立て、首を上げた。
次に見張りが動いた。
その動きに兵が反応する。
炊事場の声が少し細くなる。
鍋の泡の音だけが、妙に大きく聞こえた。
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兵が集まった。
声が減った。
誰かが槍を持ち直した。
誰かが馬の手綱を引いた。
伝令が田村麻呂の天幕へ走った。
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南の方角から、馬が来た。
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一騎だった。
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ゆっくりした速度で来た。
だが誰も、遅いとは思わなかった。
その馬の来方が、急ぐ必要のない来方だった。
急がないことで、かえって強く見えた。
逃げるつもりも、媚びるつもりもない。
止まれと言われれば止まる。
だが恐れてはいない。
そんな来方だった。
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騎乗の男は、ヤマト軍の中へ入ってきても表情を変えなかった。
媚びなかった。
怯えなかった。
圧されなかった。
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静かだった。
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田村麻呂が前に出た。
その背後に数人の兵。
少し離れて、カミノも立っていた。
スズリは紙を押さえ、筆を持ったまま視線だけを上げた。
タダは鍋の火を見ていたが、顔だけは来た馬の方を向いていた。
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二人が向かい合った。
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どちらも静かだった。
どちらも動じなかった。
違う火を背負った男同士が、霜の残る地面の上で向かい合っている。
そんな感じがした。
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シンはその様子を、少し離れたところから見ていた。
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男が馬から下りた。
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長身だった。
タダほど大きくない。
でも無駄が極端に少ない体だった。
削ぎ落とされた体だ。
痩せているように見えるが、倒れなさそうな体だった。
風で折れそうな細さではない。
長い冬を越えた木のような体だった。
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顔は頬が少し削れていた。
長年、眠れていない顔だ。
目が冷たかった。
怒っているのではない。
冷たくしないと壊れる目だった。
熱いものを奥に押し込めて、表だけを凍らせたような目。
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男の首から腕にかけて、刺青があった。
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シンは、そこで止まった。
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渦。
山の稜線を模した線。
流れる水。
鹿の角。
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深い藍で刻まれた、古い意匠だった。
皮膚の上に、山と水が流れている。
線は荒くない。
だが飾りでもない。
生きるために刻まれた線だった。
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(アサメ)
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声に出なかった。
でも、出そうになった。
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アサメが持っていた刺青と、同じ系統だった。
完全に同じではない。
色も違う。
線の流れも少し違う。
アサメの刺青には、もっと火があった。
紅があった。
皮膚の奥から燃えるような、山の女の色があった。
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この男の刺青は藍だった。
深く沈む川の色。
夜の山影。
消えた火の後に残る、黒に近い青。
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でも同じ流れを持っていた。
同じ土地から来た意匠だった。
同じ祈りの親戚だった。
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胸が痛くなった。
痛いというより、何かが締め付けられた。
山の火の匂いが、一瞬だけ戻ってきた気がした。
炉の煙。
鹿肉。
野薔薇。
アサメの腕。
血の熱。
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男がシンを見た。
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一瞬だけ目が止まった。
ヤマト兵ではない、と分かったらしい。
あるいは、別の何かを感じたのか。
表情は変えなかった。
でも視線が少しだけ、シンの上で動いた。
喉の布。
衣の乱れ。
目。
手。
どこかを読むように見た。
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「……ヤマトの顔じゃないな」
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男が言った。
田村麻呂へ向けた言葉でも、シンへ向けた言葉でもなかった。
ただ、事実として言った。
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シンは答えなかった。
答え方が分からなかった。
ヤマトでもない。
蝦夷でもない。
山の民でもない。
未来の人間でもない。
自分が何の顔をしているのか、自分でも分からなかった。
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田村麻呂が前に出た。
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「名を」
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男は少し間を置いた。
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「イサワより使いに来た」
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また、少し間があった。
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「モレだ」
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風が来た。
枯れ草が揺れた。
篝火の煙が横へ流れた。
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モレ。
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名前が空気に置かれた瞬間、周囲の兵がわずかに反応した。
誰かが息を殺した。
誰かが槍を握り直した。
田村麻呂の顔だけが変わらなかった。
カミノの目が、強く開いた。
スズリの筆先が紙に触れた。
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墨が置かれた。
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その音が、シンには聞こえた気がした。
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モレはまだシンを見ていた。
シンもモレを見ていた。
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モレの刺青が、秋の光の中で少し光った。
藍が深かった。
アサメの刺青は、燃えるような紅だった。
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墨の匂いがした。
スズリが記録を始めていた。
細い筆の音が、静かな空気に溶けた。
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国の火が揺れていた。
山の火が、その向こうから来ていた。
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墨の国が、火の国の名を書き留める。
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その朝、シンは初めて、この時代の戦が始まる音を聞いた気がした。
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(第六十四話へ)




