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サル、ふたたび

第六十二話 サル、ふたたび


⸻


「久しぶりっ! 四百年くらい?!」


⸻


 シンは動けなかった。


⸻


 金髪。


 軽薄な笑顔。


 ふざけた立ち方。


 篝火の光の中で、本当に自然に立っている。


 夜の丘の上。


 兵の見張りがいて、馬の気配があって、遠くには軍勢の火がいくつも揺れている。


 そんな場所に、そいつだけが、まるで祭りの帰り道にでも寄ったみたいな顔で立っていた。


 いつからそこにいたのか、まったく分からなかった。


⸻


「お前……!」


⸻


 声が勝手に出た。


 喉の傷が痛んだ。


 それでも声は止まらなかった。


⸻


「なんでここにいる」


「いやぁ、いるよね普通に」


「普通じゃない!!」


⸻


 シンは一歩踏み出した。


 足元の枯れ葉が潰れる。


 体はまだ重い。


 喉も痛い。


 腹の奥も空っぽだった。


 それでも、怒りだけはすぐに動いた。


 それが少しだけ、ましだった。


 悲しみよりは、怒りの方がまだ足を前に出せる。


⸻


 距離を詰めた。


 胸倉を掴もうとした。


 ワカレはするりと横へずれた。


 掴めなかった。


⸻


 気配は消えていない。


 でも触れられない。


 すぐそこにいるのに、風の端を掴もうとしているみたいだった。


⸻


「落ち着いてよ〜」


「落ち着けるか!!」


「まぁまぁ」


「お前に殺された事もある!!」


⸻


 ワカレは少し首を傾けた。


 まるで、昨日の夕飯を思い出すみたいな顔だった。


⸻


「えっ、何回?」


「二回だ!!」


「あー、そのくらいはするか」


「する話じゃないだろ!!」


⸻


 シンは拳を握った。


 爪の間に、まだ土が詰まっている。


 喉を裂いた時に握った石の感触が残っていた。


 その手で、今度はワカレを殴りたかった。


 殴ってもどうにもならないと分かっている。


 だが、どうにもならないことばかりだった。


 だから、せめて殴りたかった。


⸻


 ワカレは両手を軽く上げた。


⸻


「いやぁ、怒る元気あるじゃん。よかったよかった」


「よくない」


「さっきまで死体みたいな顔してたからさ」


「死んでたんだよ」


「まぁ、それはそうか」


⸻


 その言い方が、また腹立たしかった。


 軽い。


 何もかもが軽い。


 アサメの死も。


 自分の死も。


 五百年という時間さえ。


 この男の口にかかると、川で拾った小石みたいに転がされる。


⸻


「……ここはどこだ」


⸻


 シンは声を落として聞いた。


 怒鳴り続けると、喉の傷が開きそうだった。


⸻


「胆沢のちょっと南」


「今、何年だ」


「んー」


⸻


 ワカレは空を見た。


 本当に計算しているみたいに、少し間を置いた。


 月は雲に隠れていた。


 星も少ない。


 その暗い空を、ワカレは真面目な顔で見上げる。


 その真面目さすら、ふざけているように見えた。


⸻


「前回から? 数えてないなぁ。でもまぁ、四百年とかそんくらい経ったんじゃね?」


⸻


 四百年。


⸻


 シンは少し黙った。


⸻


 言葉の意味が、すぐには腹に落ちなかった。


 四百年。


 人が何度生まれて、何度死ぬ時間だ。


 村が消える。


 山の名が変わる。


 海岸線も、道も、言葉も、人の祈りも変わる。


 アサメのいた山は、もう誰かの記憶の中にすら残っていないかもしれない。


 あの炉の火も。


 子供達の声も。


 ミサネの顔も。


 ナギの笑い方も。


 タダの汁の湯気も。


 四百年という言葉の前で、全部が一気に遠くなった。


⸻


「……アサメは」


⸻


 声が変わった。


 自分でも分かるくらい、変わった。


 怒りの上澄みが消えて、底に沈んでいたものが出てきた。


⸻


「アサメはどうなった」


⸻


 ワカレが、少し静かになった。


⸻


 笑顔が消えたわけではなかった。


 でも、少しだけ薄くなった。


 篝火の光が揺れて、ワカレの頬の陰影が変わる。


 一瞬だけ、その顔が若くなく見えた。


⸻


「そりゃ死んだよ」


⸻


 軽かった。


 軽すぎるから逆に重かった。


⸻


「……」


「あの時の話だろ。あれはもうどうしようもなかったやつ」


「お前が止めなかったから」


「止める役じゃないんだよね、俺」


⸻


 シンは歯を食いしばった。


⸻


 止める役じゃない。


 その言葉を、体が拒んだ。


 誰かが死ぬ時。


 世界が壊れる時。


 大切なものが奪われる時。


 そこにいて、見ていて、知っていて。


 それで止める役ではないなどと、どうして言える。


⸻


「見てたのか」


「うん」


「最初から?」


「途中から」


「なら助けられただろ」


「無理だね」


「決めるな」


「決めてない。そういう流れだったってだけ」


⸻


「流れって何だよ」


⸻


 シンの声が低くなった。


⸻


「川か? 道か? 歴史か? 運命か? そういう適当な言葉で、人が死んだって言えば済むのか」


⸻


 ワカレはすぐには答えなかった。


 珍しく、口を閉じた。


 丘の下で兵が歩く音がした。


 槍の穂先が篝火を受けて、赤く光る。


⸻


「済まないよ」


⸻


 ワカレは言った。


⸻


「済まないけど、進む」


⸻


 シンは黙った。


⸻


 ワカレは続けた。


 声は軽い。


 でも目だけが、少し別の場所を見ていた。


⸻


「俺も結構悔しかったけどさ」


「……何?」


「割と好きだったし。昔の知り合いに、ちょっと似てたんだよね」


⸻


 それ以上は言わなかった。


 言う気がないのだと分かった。


 シンも聞けなかった。


 聞けば、また別の遠い時代の話が出てくる。


 この男の中には、そういうものがいくつも沈んでいる気がした。


 ふざけた笑顔の奥に、何人分もの別れがある。


 それが余計に腹立たしかった。


 そんなものを抱えているなら、なぜ笑っていられる。


⸻


 シンは少し間を置いた。


⸻


「……モモは」


⸻


 ワカレが空を見た。


⸻


「壊れたまんま待ってるよ」


⸻


 軽い。


⸻


 軽かった。


⸻


 でも。


 その言葉だけが、シンの腹の底へ落ちた。


 石が沈む落ち方で、落ちた。


⸻


 壊れたまま。


 待っている。


⸻


 モモの顔が浮かんだ。


 白い頬。


 揺れない目。


 命令のような声。


 そして、時々だけ戻る、あの短い言葉。


 シン。


 りょ。


 そんな、小さな欠片。


⸻


 アサメは死んだ。


 モモは壊れたまま。


 自分だけが、また違う時代にいる。


 何ひとつ取り戻せないまま。


⸻


「可哀想だよねぇ」


⸻


 ワカレが続けた。


⸻


「君ら毎回そうなるから」


⸻


 シンの中で何かが切れた。


⸻


「なんなんだお前は!!」


⸻


 掴みかかった。


 今度は捕まえた。


 ワカレの衣を両手で掴んだ。


 布の感触があった。


 確かに掴めた。


 逃げようと思えば逃げられるはずなのに、ワカレは動かなかった。


⸻


「何を知ってる」


「色々」


「なんで笑ってるんだ」


「笑ってると楽だから」


「助けろよ!!」


「それは難しい」


「なんで止めなかった!! アサメを!! モモを!!」


⸻


 ワカレはシンに掴まれたまま、逃げなかった。


 ただ、見ていた。


⸻


 目が、古かった。


 笑顔の奥に、途方もない時間があった。


 今まで見たどんな老人よりも古い。


 山や石に近い古さではない。


 流れ続けたものの古さだった。


⸻


「……俺には止められる事と止められない事があって」


⸻


 少しだけ、声が変わった。


⸻


「あれは止められない側だった」


「なんで」


「流れだから」


「流れで人が死ぬのか」


「死ぬよ。ずっとそうだよ」


⸻


 シンは手を離せなかった。


 離したくなかった。


 このまま掴んでいれば、何かを聞き出せる気がした。


 この男の軽い口の奥に、答えがある気がした。


 なぜ自分は死ぬのか。


 なぜ時代を越えるのか。


 なぜモモがいるのか。


 なぜ大切な人間だけが置いていかれるのか。


⸻


「……俺はどうすればいい」


⸻


 声が小さくなった。


 怒りで膨らんでいたものが、急に萎んだ。


⸻


「アサメはもういない。モモは壊れてる。俺はここにいる。どうすればいい」


⸻


 ワカレは少し間を置いた。


 それから、


⸻


「元気出てきたじゃん」


⸻


 にやりと笑った。


⸻


「……は?」


「さっきまで死人みたいな顔してたのに、今ちゃんと怒ってる」


「それが何だ」


「それで十分じゃない、今夜は」


⸻


 シンは手を離した。


⸻


 ワカレの衣に、握った跡が残っていた。


⸻


「……お前、本当に何なんだ」


「道の途中にいる奴」


「答えになってない」


「なってるよ。道はどこにでもあるから」


「ふざけるな」


「ふざけてないよ。俺にしては、かなり真面目」


⸻


 ワカレは肩をすくめた。


⸻


「道はさ、進む奴の前にだけあるわけじゃないんだよ。迷ってる奴の足元にもある。倒れてる奴の横にもある。戻りたい奴の背中にもある」


「戻れない道に何の意味がある」


「戻れないから道なんじゃない?」


⸻


 シンは睨んだ。


⸻


「殴るぞ」


「それはちょっと困る。痛いの嫌いだし」


「二回殺した奴が言うな」


「あれは仕事みたいなもんで」


「最低だな」


「よく言われる」


⸻


 ワカレは笑った。


 いつもの軽い笑いだった。


 しかし、その笑いが少しだけ掠れて聞こえたのは、風のせいかもしれない。


⸻


 少し離れた場所から、スズリはその様子を見ていた。


⸻


 火鉢のそばで記録を終え、外の空気を入れに出たところだった。


 丘の上に立つシンを見つけた。


 まだ寝ているはずの怪我人が、一人で北を見ていた。


 声をかけようと思った。


 けれど、彼の横顔があまりに遠かったので、少しだけ足を止めた。


 そして次の瞬間、彼は誰かへ向かって声を荒らげた。


⸻


 スズリには、その相手が見えなかった。


⸻


 篝火は揺れている。


 丘の上には、シンしかいない。


 それなのにシンは、確かに誰かを見ているようだった。


 怒り。


 苛立ち。


 痛み。


 問い。


 全部が、見えない相手へ投げつけられている。


⸻


 風で、火が揺れていた。


 赤い火が、シンの横顔を照らしたり消したりしている。


⸻


 最初に見た時は、死人みたいな男だと思った。


 目が、どこにも居なかった。


 体だけがここにあって、心は別の場所で倒れている。


 そんな顔だった。


⸻


 でも今は違う。


⸻


 怒っていた。


 苦しんでいた。


 誰かへ縋るみたいに、叫んでいた。


⸻


 生きている顔だった。


⸻


 なのに。


⸻


 時々だけ。


 その横顔が、ひどく遠く見えた。


⸻


 今ここではない、どこか別の時間を見ている顔だった。


⸻


 スズリは少しだけ寒気を覚えた。


⸻


(この人は、どこから来たのだろう)


⸻


 墨と香の匂いの残る袖を、無意識に握る。


 手の内で、衣が小さく皺になった。


⸻


 この男の傷は、ただの傷ではない。


 首の裂傷も、爪の割れも、目の奥に沈んでいるものも。


 どれも、何かを語っている。


 けれど、それを紙に書くには、まだ何も知らなすぎた。


 知らないまま書けば、嘘になる。


 見たまま書いても、たぶん足りない。


⸻


 その時。


⸻


 シンが、誰もいない場所へ向かって叫んだ。


⸻


「待て!!」


⸻


 スズリには、そこに誰も見えなかった。


⸻


 でも。


⸻


 シンだけは、確かに“誰か”を見ていた。


⸻


 足音がした。


⸻


 重い足音だった。


 ゆっくりしているが、一歩一歩が確かな足音だ。


 兵たちの足音とは違う。


 急いでいない。


 騒いでいない。


 ただ歩くだけで、周囲の空気が少しずつ整えられていくような足音だった。


⸻


 シンが振り返った。


 一瞬だけ。


⸻


 振り返って、また正面へ向いたら。


⸻


 ワカレが、いなかった。


⸻


「待て……!!」


⸻


 シンは周囲を見た。


 いない。


 気配もない。


 香も音も何もない。


 本当に何もなかった。


 さっきまで掴んでいた衣の感触だけが、手の中に残っている。


 握った跡も、もう無い。


⸻


 足音が近づいてきた。


⸻


 大きな男だった。


⸻


 本当に大きい。


 篝火の光の中でも、その輪郭が際立っていた。


⸻


 物理的なサイズが大きいわけではない。


 むしろ弓のように引き絞られた身体だった。


 無駄な肉がない。


 立っているだけで、どこに重心があり、どこへ動けるのかが分からない。


 兵の鎧を着ているわけでもないのに、戦場の匂いがした。


⸻


 だが威圧ではない。


 静かな大きさだった。


 山のように動かないのではない。


 水のように流れるのでもない。


 そこにいるだけで、人が自然に道を開ける。


 そういう大きさだった。


⸻


「……誰と話していた」


⸻


 男が言った。


 声は低い。


 でも怒鳴らない。


 問い詰める声でもなかった。


 ただ、聞く。


 必要なことだけを、まっすぐ聞く声だった。


⸻


 シンは少し間を置いた。


⸻


「……知り合いだ」


「どこにいる」


「消えた」


⸻


 男はシンを見た。


 怪訝な目だった。


 だが責めなかった。


⸻


 周囲へ視線を動かした。


 兵が二人、少し離れたところに立っている。


 二人とも、首を振った。


 誰も見ていない、ということらしかった。


⸻


 男は少し目を細めた。


⸻


「……坂上の、田村麻呂という」


⸻


 シンは止まった。


⸻


(……坂上田村麻呂)


⸻


 名前は知っていた。


 昔、どこかで聞いたことがある。


 征夷大将軍。


 アテルイと戦った男。


 それくらいしか分からなかった。


⸻


 だが今、目の前にいる。


 教科書の中の名前でもない。


 石碑に刻まれた文字でもない。


 血の通った男として、夜の丘に立っている。


⸻


「お前は」


「……シン、だ」


「どこから来た」


「……東の方から」


「なぜ死にかけていた」


⸻


 シンは少し間を置いた。


⸻


「……戻れなかった」


「戻れなかった、とは」


「そういうことだ」


⸻


 田村麻呂は無理に聞かなかった。


⸻


 ただ、シンを見た。


 頭の先から足の先まで、静かに見た。


⸻


 品定めではない。


 読んでいる目だ。


 戦場で人間を見てきた目だ。


 嘘を吐く者。


 怯える者。


 怒る者。


 諦めた者。


 死に場所を探す者。


 生きる気の無い者。


 その全部を見てきた目だった。


⸻


「ただの浮浪者ではないな」


「……そうでもない」


「そうでもない、は否定ではない」


⸻


 シンは少し笑いかけた。


 笑えなかった。


 でも、かすかに口元が動いた。


⸻


 田村麻呂は、それを見た。


 何か言いかけて、やめた。


⸻


「ここへ来る前に、どこにいた」


「山だ」


「北の山か」


「……もっと西の方だ」


「山育ちか」


「少し、そうかもしれない」


⸻


 田村麻呂は頷いた。


 それ以上は聞かなかった。


 聞かないことで、かえって逃げ道を塞がない。


 そういう距離の取り方を知っている男だった。


⸻


 スズリは少し離れた場所で、二人を見ていた。


 田村麻呂の背は大きい。


 シンの体は細く、まだ血の気も戻っていない。


 並べば、まるで大人と子供のようにも見える。


 なのに奇妙なことに、シンは完全には小さく見えなかった。


 失ったものの重さだけが、彼の影を濃くしていた。


⸻


 田村麻呂が天幕の方へ歩き始めた。


 少し進んで、止まった。


⸻


「アテルイの名を聞いて、何故あんな顔をした」


⸻


 シンは答えなかった。


⸻


「名前を知っていたか」


「……少し」


「どこで聞いた」


「……覚えていない」


⸻


 田村麻呂は振り返らなかった。


 でも少し間を置いた。


⸻


「明日、胆沢から使者が来る」


「……」


「アテルイ側だ」


⸻


 それだけ言って、歩いていった。


 重い足音が、遠ざかった。


 兵たちが身を正す気配がした。


 スズリも小さく頭を下げた。


 田村麻呂の影は火の間を抜け、やがて天幕の方へ消えた。


⸻


 シンは一人、丘の上に残った。


⸻


 どこかで、笑い声がした気がした。


 風に混じって来た。


 軽い、薄い笑い声だ。


⸻


(ワカレ)


⸻


 シンは北を見た。


⸻


 篝火の海の向こうに、山が見えた。


 霧の中に沈んでいる。


 低く、広い山だ。


 前の時代の山とは違う。


 アサメのいた山ではない。


 だが、山は山だった。


⸻


 あの山の向こうに、アテルイがいる。


⸻


 この時代の火。


 この時代の山。


 この時代の戦。


⸻


 そしてどこかに、モモがいる。


 壊れたまま、待っている。


⸻


 アサメの声が戻ってきた。


 あの砂浜で聞いた声が。


⸻


『生きろ』


⸻


 呪いみたいに重い言葉だった。


 でも。


 今夜は少しだけ、違う重さで落ちた気がした。


⸻


 生きろ。


 それは、戻れという意味ではなかったのかもしれない。


 やり直せという意味でも、取り返せという意味でもなかったのかもしれない。


⸻


 ただ。


 次の火の前まで歩け、ということだったのかもしれない。


⸻


(アテルイ)


⸻


 秋風が来た。


 枯れ葉が一枚、篝火の光を横切った。


 赤かった。


⸻


 燃えているみたいに赤かった。


⸻


(第六十三話へ)

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