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第六十一話 硯



 運ばれていた。



 馬の背ではない。


 担架のようなものだった。


 木と革を組んだ粗い作りで、揺れるたびに背中が痛かった。


 痛みだけが、まだ現実だった。



 空が流れていく。


 枯れ木の枝が、横切っては消えた。


 その合間に、赤く色づいた葉が見えた。



 紅葉だった。



 風に剥がれた葉が、空から静かに落ちていく。


 その一枚が、担架の端に乗った。


 誰かの足が揺れた拍子に、すぐ落ちた。


 地面へ落ちた葉は、踏まれ、泥に混じり、見えなくなった。



 秋の終わりだった。



 声がした。


 複数の声。


 男の声。


 若い声。


 低い声。


 命じる声と、応じる声。


 だが意味は届かなかった。


 音としてだけある。



 火が見えた。


 篝火だ。


 一つではない。


 いくつもある。


 整然と並んでいる。



(整然と)



 そこだけ、少し引っかかった。


 アサメの集落の火とは違う。


 あの火は、必要な場所にあった。


 炉に。


 入口に。


 子供達の集まる場所に。


 獣を焼く場所に。


 誰かが寒そうにしていれば、火が寄せられた。


 誰かが黙れば、火が間を埋めた。



 ここにある火は違う。


 列になっている。


 距離を測られている。


 見張りの目印にされている。


 夜を照らすだけではなく、人を並べるために燃えている。



 でも考える前に、また揺れた。


 担架が石を越えた。


 背中が跳ねた。


 首の傷が熱を持った。



 アサメの血が手についた感触が、まだある。


 熱かった。


 もうどこにもない熱が、まだ手のひらに残っていた。



 手を握ろうとした。


 指が少しだけ動いた。


 血は無かった。


 代わりに泥と、自分の爪の間に詰まった土があった。



 シンは目を閉じた。


 閉じても、アサメは消えなかった。


 だから、すぐに開けた。



 空はまだ灰色だった。


 紅葉だけが赤かった。




 気づいたら、屋根の下にいた。



 天幕だった。


 革と布を重ねた、大きな天幕。


 中央に火鉢が一つある。


 外より少し暖かかった。


 湿った革の匂い。


 灰の匂い。


 薬草の匂い。


 人が多く寝起きしている場所の、薄い汗の匂い。



 山の匂いではなかった。


 だが、ここにも人はいた。



 誰かが、隣に座っていた。



 女だった。


 さっきの、墨と香の匂いの女だ。



 墨色の衣。


 まとめた黒髪。


 白い指。


 薄い香。



 顔立ちは静かだった。



 派手ではない。


 だが、一度目に入ると妙に忘れにくい顔だった。



 切れ長の目。


 薄い唇。


 白い肌。


 灯りに照らされても、赤くならない。


 火のそばにいるのに、水の近くにいるみたいだった。



 美しい水墨画のような女性だった。



 静かで。


 澄んでいて。


 でも、どこか冷たそうで。



 女はシンの首へ、濡らした布を当てた。


 静かな手つきだった。


 痛くしないように、丁寧に。


 けれど迷いはない。


 血に慣れている手ではない。


 だが、血を恐れている手でもなかった。



 シンは動かなかった。


 動く気になれなかった。



 女が傷口を拭く。


 布が赤くなる。


 別の布へ替える。


 もう一度濡らす。


 また拭く。



 その途中で、女の手が止まった。



 一瞬だけ。



 傷の形を見た。


 引いた方向を見た。


 石の跡が残った皮膚を見た。


 傷の深さと浅さを見た。


 誰かに切られた傷ではないことを、見た。



 止まった。



 それだけだった。



 また動いた。


 続きを拭いた。


 何も言わなかった。


 聞かなかった。



 ただ、手が少しだけ慎重になった。


 それだけだった。



 その沈黙が、妙に痛かった。


 責められるよりも。


 驚かれるよりも。


 なぜ、と聞かれるよりも。


 女が何も言わず、ただそこにある傷を傷として扱うことが、シンには堪えた。



 生きている人間の傷として。



 女は細く裂いた布を巻いた。


 首の後ろへ手を回す時、袖口から薄い香がした。


 花ではない。


 甘くもない。


 紙と墨に染みた香だった。



 結び目を作る。


 強すぎず。


 緩すぎず。



「息は苦しくありませんか」



 初めて、女が聞いた。



 シンは少し遅れて頷いた。


 声を出したくなかった。


 出せば、また何かが崩れそうだった。



 女はそれ以上聞かなかった。


 ただ、赤くなった布をまとめ、器の水を替えた。


 その動作まで、妙に整っていた。


 この女は、物を決まった場所へ置く。


 汚れたものを汚れたままにしない。


 起きたことを、そのまま流さない。



 そんな気がした。




 手当てが終わると、女は少し離れた。


 しばらくして、粥が来た。


 土器の椀に入った、薄い粥だった。


 湯気が細く立っている。


 米の匂いは薄い。


 塩もほとんどない。


 だが、温かかった。



「食べられるかな」



 さっきの男が来た。


 カミノと呼ばれていた男だ。



 整った顔。


 柔らかい目。


 貴人の顔だ。



 でも威圧感は薄い。



 妙に距離が近かった。



 普通なら近づかない。


 血まみれで、喉を裂いている得体の知れない男へ。


 まして、明らかに身分の高い人間なら、なおさらだ。



 なのにカミノは、自然にシンの横へ座った。


 裾が土に触れることも、血の匂いも、あまり気にしていないようだった。


 気にしていないのではない。


 気にはしている。


 ただ、それよりも先に、知りたがっている。



「腹は減っていないか?」



 声は柔らかい。


 だが、どこか育ちの良さが残る口調だった。


 命令に慣れている。


 だが命令することを、面白がってはいない。



 シンは答えなかった。



「死ぬなよ」



 カミノが言った。



 責めていなかった。


 脅してもいなかった。


 ただ、言った。



「せっかく助けたのだから」



 シンは男を見た。


 男はシンを見ていた。



 怖がっていない。


 気持ち悪がっていない。



 むしろ。



 妙に興味深そうだった。



 珍しいものを見るみたいに、真っ直ぐ見ている。


 だが、その目には嫌な軽さが無かった。


 物を見る目ではない。


 人を見る目だった。


 どうしてここにいる。


 何を見てきた。


 何を失った。


 何を隠している。


 その全部を、聞かずに見ている目だった。



「……死にたいわけじゃない」



 シンは言った。


 自分でも驚いた。


 声が出るとは思っていなかった。



 死にたいわけじゃない。


 それは本当だった。


 死にたかったのではない。


 戻りたかっただけだ。


 死が、戻るための扉だっただけだ。


 扉が開かないなら、死には何の意味もない。



「そうか」



 カミノは少し笑った。



「なら、まだ大丈夫だ」



 あっさり言った。



 その後ろで、女が小さく息を吐いた。



「宮様」



 少し困った声だった。



「その者へ近づきすぎです」



「分かっている」



 カミノは普通に答えた。



「だが面白いのだ」



 悪びれない。



「普通、死のうとした者はもっと怯える」



 シンを見る。



「君は違う。怯えていないのではない。怯える場所が、少しずれている」



 その目は、本当に観察していた。


 怖がるより先に、知ろうとしている目だった。



 女――スズリは、少し諦めたみたいに目を伏せた。



「……冷めます」



 それだけ言った。



 カミノは少し笑った。



「だそうだ」



 椀をシンの横へ置く。



「冷める前に食え」



 それだけ言って、出ていった。


 天幕の外へ出る時、外の兵が一斉に姿勢を正す気配がした。


 やはり、ただの男ではない。



 なのに、さっきまで粥を持って、血まみれの男の横に座っていた。



 変なやつだ。




 シンはしばらく、椀を見ていた。



 薄い粥だった。


 味付けはほとんどない。


 でも湯気が出ていた。


 生きているものの湯気が出ていた。



 一口、飲んだ。



 温かかった。



 それだけだった。


 でも腹に入った。


 胃がゆっくりと動く。


 体が、それを受け取る。


 生きるための動きを勝手に始める。



 腹立たしかった。


 こんな時でも、体は生きようとする。


 アサメがいなくても。


 戻れなくても。


 喉を裂いても。


 崖から落ちても。


 粥が入れば、体は温まる。



 もう一口飲んだ。


 今度は少し、米の甘さが分かった。



 外から声が聞こえた。


 複数の男の声だ。


 指示を出す声と、受ける声。


 荷の移動。


 火の管理。


 見張りの交代。


 馬を繋ぐ場所。


 明朝の出立。


 誰かが名を呼び、誰かが返事をする。



 組織だった声だった。



 アサメの集落とは違う。


 あそこは声が少なかった。


 皆が判断して動いていた。


 言わなくても分かることが多かった。


 子供達でさえ、火のそばでどう動けばいいか知っていた。



 ここは違う。


 誰かが指示する。


 誰かが従う。


 誰かが数える。


 誰かが記録する。



(社会だ)



 そう思った。


 嫌悪でも感動でもなく、ただそう思った。


 死んでも死んでも、人間はこういうものを作る。


 道を作り、火を並べ、人を動かし、荷を数え、名を書き留める。


 その先に国がある。



 アサメの山と、ここは違う。


 だが、どちらにも人がいる。


 どちらにも火がある。


 それが、少しだけ嫌だった。


 アサメのいない世界にも火があることが。




 夜が深くなった。



 天幕の中の火鉢が、少し小さくなっていた。


 外の声が減った。


 見張りだけが動いている気配がする。


 遠くで馬が鼻を鳴らした。


 革が軋む。


 火が爆ぜる。


 誰かが咳をした。


 すぐにまた静かになる。



 眠れなかった。



 目を閉じると、アサメが見えた。


 倒れる瞬間。


 シンを見た目。


 かすれた声で言った言葉。



 好きだ。


 生きろ。



 目を開けた。



 天幕の天井を見た。


 革の縫い目が見えた。


 整然としている。


 誰かが設計した縫い目だ。


 雨が溜まらないように。


 風で裂けないように。


 火の粉が上がってもすぐ燃え移らないように。


 考えられている。



 首に触れた。


 傷口に。


 布が巻かれていた。


 女が巻いた布だ。



 無意識に、少しだけ強く押した。



 そこを裂けば。


 また。



 シンの手が止まる。



 震えた。



 死ぬのが怖いのではなかった。


 正確には違った。



 また飛び込んでも、また同じ時間へ戻る。


 その恐怖だった。



 今まで死ぬことは、出口だった。


 次がある出口だった。


 間違えたら死ねばいい。


 失敗したら戻ればいい。


 痛みは代価で、死は道だった。



 でも今回は違う。


 何度やっても、アサメはいない時間へ戻る。


 戻るたびに、アサメのいない世界だけが確かになる。



(また死んでも)


(また、ここへ戻るだけだ)



 それが初めて、怖かった。


 死ぬことではなく。


 死んでも変わらないことが、怖かった。



 喉を押さえた。


 布の上から押さえた。


 震えが止まらなかった。



「……眠れませんか」



 声がした。



 女だった。


 火鉢のそばで、何かを書いていた。


 薄い光の中で、細い筆を動かしていた。


 気づかなかった。


 ずっとそこにいたらしい。



 小さな机。


 薄い紙。


 木簡。


 黒い硯。


 水を入れた小さな器。


 磨りかけの墨。



 女の指が、硯の上で墨を動かす。


 ゆっくりと。


 丸く。


 音がした。


 小さな音だった。


 石と墨が擦れる、静かな音。



 火の音とは違う。


 川の音とも違う。


 でも、その音は夜の底に沈んで、消えなかった。



「……仕事か」



 シンが聞いた。


 声がかすれていた。



「記録です」


「何を」


「今日の行程と、物資の数と、見張りの交代」



 少し間を置いた。



「あなたを拾ったことも」



 記録される、と思った。


 自分が拾われたことが、どこかに書かれる。


 血を流して倒れていたこと。


 名も知らない男だったこと。


 首に傷があったこと。


 粥を飲んだこと。


 それらが、誰かの筆で残される。



 それが妙に、現実だと感じさせた。



「名を教えてくださいますか」



 女が聞いた。


 強制する口調ではなかった。


 ただ、聞いた。



「……シン」



 女は紙へ視線を落とした。


 筆先がわずかに止まる。



「シン、ですね」


「ああ」


「字は」


「知らない」



 女は少しだけ目を上げた。


 責めるようではなかった。


 ただ、なるほど、という目だった。



「では、音で残します」



 筆が動いた。



 自分の名前が、女の手で書かれている。


 そう思うと、変な感じがした。


 名前など、何度も変わった。


 時代が変わるたびに、呼び方も、立場も、周囲の人間も変わった。


 それでも、シンはシンだった。


 だが今、その音が、初めて紙の上に置かれた気がした。



「私はスズリです」



 女が言った。



「硯?」



 シンは思わず聞き返した。



「はい」



 スズリは小さく頷いた。


 火鉢の灯りが、黒い硯の水面に揺れていた。



「変な名だな」


「よく言われます」


「怒らないのか」


「事実ですから」



 淡々と言った。


 だが不快ではなさそうだった。



「硯は、墨を受けるものです」



 スズリは筆先を整えながら言った。



「水が多すぎれば薄くなる。少なすぎれば筆が割れる。強く磨りすぎれば墨が荒れる。弱すぎれば色が出ない」



 何の話か分からなかった。


 けれど、声は静かだった。



「記録も、少し似ています」


「……何が」


「濃く書きすぎれば、書く者の感情になります。薄く書けば、何も残りません」



 スズリは紙へ目を落とした。



「だから、難しいです」



 その横顔は、少しだけ年相応に見えた。


 さっきまでの冷たい硯水みたいな印象が、一瞬だけ緩んだ。



「俺のことも書くのか」


「書きます」


「何て」


「今のところは、名をシンと名乗る男。山中にて発見。首に裂傷。意識あり。粥を少量摂る」



「それだけか」


「それ以上は、まだ知りません」



 スズリは顔を上げた。



「あなたが話さないことを、私は勝手には書けません」



 その言葉に、シンは黙った。



 どこから来たか。


 なぜ血を流していたか。


 誰を失ったか。


 なぜ戻れなかったか。



 何も聞かなかった。


 聞かないことで、そこにあるものを踏まないようにしていた。



 筆の音だけが続いた。


 細い、静かな音だった。



 シンはそれを聞いていた。


 山の炉の音とは違う。


 でも、何かが似ていた。


 続いていく音だった。


 火が炭になる音。


 炭が砕けて墨になる音。


 墨が紙へ落ちる音。


 消えたものが、別の形で残ろうとする音。



 シンはその音を聞きながら、少しだけ目を閉じた。


 眠りは来なかった。


 ただ、倒れ込むような暗さだけが、まぶたの裏へ広がった。




 夜が更けた頃、シンは外へ出た。



 止める者はいなかった。


 見張りがこちらを見たが、動かなかった。


 逃げると思われていないのか。


 逃げても構わないと思われているのか。


 それとも、どこへも行けない顔をしているのか。


 自分では分からなかった。



 近くの丘へ上った。


 足元が枯れ葉で滑る。


 赤い葉が、夜風で擦れ合っていた。



 息が白かった。


 冬が近い空気だった。



 上に出ると、視界が開けた。



 篝火が広がっていた。


 一つや二つではない。


 見渡す限り、点在している。


 大きい火。


 小さい火。


 高い所の火。


 低い所の火。


 風除けの中で赤く縮こまっている火。


 見張りの足元で、槍の影を伸ばしている火。



 整然と、でも広大に広がっている。



(軍勢だ)



 かなり大きい。


 城柵のようなものも見えた。


 木材を組んだ、しっかりした構造物だ。


 石は少ない。


 でも土台が深い。


 長く使うつもりで作られている。


 ただ泊まるためではない。


 ここへ線を引くためのものだ。


 ここから先は国だ、と言うための木の壁だった。



(戦国じゃない)


(もっと古い)



 シンは北の方角を見た。


 霧の向こうに、山が連なっている。


 低い山だった。


 でも広い。


 どこまでも続いている感じがした。


 闇の奥で、黒い背を並べている。



 アサメの山ではない。


 だが、山だった。



 遠くで兵が話していた。


 声が夜気に混じって届いた。



「……明日、胆沢の様子を見に行く」


「蝦夷の動きは」


「まだ不明だ。アテルイが動けば話は変わる」



 シンは止まった。



(……アテルイ?)



 知識としてはあった。


 だが詳しくは知らない。


 名前だけ。


 東北。


 蝦夷。


 坂上田村麻呂。


 朝廷。


 戦。


 負けた英雄。


 どこかで聞いた程度の断片。



 それでも、十分だった。



 自分が、とんでもなく遠い場所まで来たことだけは分かった。


 アサメの時代から、さらに後。


 山にいた人々が、もう別の名で呼ばれる時代。


 国がもっと大きく、もっとはっきりと、山へ手を伸ばしている時代。



 篝火が揺れていた。


 いくつも、いくつも揺れていた。



 アサメはいない。


 炉もない。


 野薔薇の匂いもない。



 でも人が生きていた。


 火が燃えていた。


 国が動いていた。



 シンは丘の上に立ったまま、しばらく北の山を見ていた。


 胸の奥が空っぽだった。


 空っぽなのに、重かった。



 モモも、どこかにいるのだろうか。



 そう思った瞬間、背筋が冷えた。


 モモ。


 白桃。


 あの白い姿。


 アサメを奪ったもの。


 それでも、モモだったもの。



 もしこの時代にもいるなら。


 もしまた現れるなら。



 シンは首の布に触れた。


 痛みがあった。


 戻れない痛みだった。



「オッス!起きたか!」



 後ろから声がした。


 聞いたことのある声。


 忘れるわけがない声。



「久しぶりっ!五百年くらい?!」



 シンの背筋が凍った。



 振り返る。



 信じられないものがいた。



 金髪。


 軽薄な笑顔。


 ふざけた立ち方。


 夜の丘の上に、場違いなほど自然に立っている。



 俺を二回殺したやつ。



「サル……!」



 ワカレが、にやりと笑った。



(第六十二話へ)

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