表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
60/64

戻れなかった男

第六十話 戻れなかった男



 息が入った。



「っ……は……!」



 肺に空気が流れ込む。


 体が跳ねた。


 喉が焼けるみたいに痛かった。


 胸の奥が、ぎし、と軋んだ。


 長く水の底に沈められていたように、息の仕方を体が忘れていた。何度も咳き込み、吐きそうになった。胃には何も無い。それでも腹の底だけが捩れて、口の中に苦いものが上がってくる。


 生きている。


 その事実だけが、痛みより先に来た。



 目を開ける。



 空。



 灰色だった。


 白い海霧ではない。


 重く濁った、晩秋の空だった。


 雲が低い。


 頭のすぐ上に、冷たい蓋をされているみたいだった。



 枝が揺れていた。


 乾いた葉が一枚、くるくる回りながら落ちてくる。


 それが頬に触れた。


 冷たかった。



(……また)



 シンは起き上がった。


 頭が重い。


 視界が揺れる。


 耳鳴りがしていた。


 体の芯に、死んだ時の痛みがまだ残っている。残っているはずがないのに、残っていた。


 何度経験しても、死は体に嘘をついた。


 もう終わったものを、まだ終わっていないように残していく。



 でも。



 いつもの戻りだった。



 死んで。


 戻って。


 また始まる。



 そのはずだった。



 シンは周囲を見た。



 森だ。


 だが違う。



 木の種類。


 葉の落ち方。


 空気。


 土。


 全部が違う。


 前の山には、鉄と煙と鹿肉と炉の匂いがあった。


 アサメの集落には、いつも火の気配があった。


 濡れた薪が煙る匂い。


 焼けた石の匂い。


 山菜を煮る匂い。


 血の匂い。


 子供達が走った後の土埃。


 タダが作る汁の湯気。


 そして、野薔薇の匂い。


 アサメが近くにいる時だけ、ふっと風の奥から届く匂い。



 ここには無い。



 あるのは、冷えた土と、枯れ草と、見知らぬ水の匂いだけだった。



 川の音がした。


 近い。


 かなり流れが速い。



「……アサメ」



 声に出ていた。



 返事はなかった。



 シンは立ち上がった。


 足元がふらついた。膝が笑っている。指先に力が入らない。それでも立った。


 周囲を見る。



 アサメがいない。


 タダもいない。


 ナギもいない。



 子供達も。


 炉も。


 火も。


 白桃も。


 崩れた海辺も。



 何もなかった。



(……おかしい)



 シンは歩いた。


 数歩。


 すぐに走った。



 斜面を滑るように下りる。


 枯れ草が脚に絡む。


 石に躓く。


 肩を木へぶつける。


 手のひらを地面につく。


 泥が爪の間に入った。


 痛かった。


 でも痛みは遠かった。



「アサメ!!」



 叫んだ。



 声が森へ吸われた。



 返事はない。



「アサメぇ!!」



 もう一度。


 今度は怒鳴るみたいに。



 返事はない。



 シンは森の中を走った。


 あったはずの道を探した。


 前の時代なら、集落へ続く細い踏み跡があった。山の者にしか分からない、草の倒れ方だけで続く道。アサメが何度も通った道。タダが荷を運んだ道。ナギが軽い足取りで下っていった道。


 その道があるはずだった。


 あるはずだ。


 無ければならなかった。



 どこにも無かった。



 獣道はあった。


 鹿の足跡もあった。


 人の踏み跡も、かすかにあった。


 だが違う。


 知らない足跡だった。


 知らない道だった。


 土の締まりが違う。草の倒れ方が違う。道が人を覚えていない。



「違う」



 声が漏れた。



 さらに走った。


 倒木を越えた。


 湿った斜面を下りた。


 苔むした岩を掴んだ。


 その岩に見覚えがない。


 木にも見覚えがない。


 空の開け方も違う。


 鳥の声も違う。


 自分だけが、知っている場所の続きを探している。


 だが世界の方は、そんな場所など初めから無かったという顔をしていた。



 海があるはずだった。



 最後に見たのは海だった。


 白桃。


 炎。


 崩れる場所。


 アサメの血。


 伸ばした腕。


 届かなかった指。


 喉が潰れるほどの叫び。



 だから、ここから走れば海へ出るはずだった。


 そうでなければおかしい。


 おかしくなければいけなかった。



 だが、海の匂いはしない。


 塩の匂いが無い。


 波の音が無い。


 潮風が無い。


 あるのは川だけだった。



 川辺へ出た。



 広い川だった。


 黒い水が暴れている。


 流れが速い。


 冷たい。


 対岸は霧で見えない。


 水は、山の奥から何かを押し流してくるように、休みなく唸っていた。



 誰もいなかった。



 焼け跡もない。


 船もない。


 海もない。


 白桃の気配もない。


 アサメの声もない。



 シンは立ち尽くした。



(ここ、どこだ)



 海岸じゃない。


 山の形が違う。


 空気が違う。


 川の流れが違う。


 季節の進み方が違う。



 遠くで、馬の鈴が鳴った気がした。


 かすかだった。


 霧の向こう。


 木々の向こう。


 人の気配が多い。


 前の時代より。


 人が多い。


 道がある。


 馬がいる。


 鉄の音もある。


 何かが、集団で動いている。


 国の匂いがした。



 でも。


 そんなことはどうでもよかった。



(なんでいない)


(なんでいないんだ)



 シンは川原を歩いた。


 アサメの痕跡を探した。


 足跡。


 血。


 布。


 髪。


 小さな骨飾り。


 折れた矢。


 割れた土器。


 何でもよかった。


 何かひとつでもあればよかった。



 石ばかりだった。


 冷たい石。


 濡れた石。


 知らない水草。


 川に運ばれてきた枝。


 どれもこれも、アサメを知らなかった。



「ふざけんなよ」



 声が掠れた。



 モモが言っていた。



 九つまで。


 次がある保証はない。


 次があっても遠い未来かもしれない。



 分かっていた。



 でも。



(例外があるかもしれない)


(もっと前へ戻れるかもしれない)


(まだ間に合うかもしれない)



 まだ、そう思った。


 そう思わなければ立っていられなかった。


 考えを止めたら、その場で崩れそうだった。


 アサメが死んだ。


 その事実を、真正面から見るだけの力が無かった。


 だから、別の可能性を探した。


 都合のいい穴を探した。


 この仕組みの隙間を探した。


 死に戻りにルールがあるなら、例外もあるはずだ。


 なければ困る。


 あってくれ。



 シンは川上を見た。



 崖があった。



 高い。


 下は激流だった。


 黒い水が岩へぶつかり、白く砕けていた。


 落ちれば死ぬ。


 間違いなく死ぬ。



 シンは登った。



 滑りながら。


 爪を割りながら。


 土を掴みながら。


 木の根に指をかける。


 剥がれた爪が痛んだ。


 掌の皮が切れた。


 息が荒くなる。


 枯れ草が顔に当たる。


 泥が口に入る。


 それでも登った。



 頂上へ立つ。



 風が強かった。



 下で川が暴れている。


 水音が大きい。


 世界中の音が、そこへ集まっているようだった。



 アサメの声がした気がした。



『生きろ』



「……うるさい」



 シンは笑った。



 笑えていなかった。



「戻るんだよ」



 下を見た。


 足が震えていた。


 体は恐れていた。


 死に慣れたはずなのに、死ぬ直前だけはいつも体が怯える。その反応が腹立たしかった。


 これで戻れなかったら。



 一瞬だけ、その考えが来た。



 シンはすぐに捨てた。



 そんな未来は考えない。


 考えたら飛べなくなる。


 飛べなければ戻れない。


 戻れなければ、アサメは死んだままだ。



「待ってろ」



 誰に言ったのか分からなかった。



 そのまま飛んだ。



 躊躇はなかった。



 落下。


 風。


 回転。


 白。



 水面が近づく。


 岩が見える。


 体が強張る。



 暗転。




 息が入った。



「っ……!!」



 同じ場所だった。



 同じ空。


 同じ霧。


 同じ枯れ草。



 同じ馬鈴。



 シンはしばらく動かなかった。


 体中が冷えていた。


 生きている。


 戻っている。


 だが。



 ここだった。



 アサメのいる時間ではなかった。



 それから。



「違う」



 立ち上がった。



「違う違う違う違う」



 川を見た。


 山を見た。


 空を見た。



「ここじゃない」


「もっと前だ」


「アサメが死ぬ前だ」


「戻れ」



 誰へ言っているのか、自分でも分からなかった。


 空へ。


 山へ。


 川へ。


 モモへ。


 この仕組みを作った誰かへ。


 自分自身へ。



「今まで戻ってただろ」


「なんで今回だけ」


「なんでだよ」



 叫ぶ。



 返事はない。



 川は流れている。


 霧は白い。


 世界は静かだった。



 シンは石を掴んだ。


 川へ投げた。



 また掴んだ。


 投げた。



 また。


 また。


 また。



 石が水を打つ音だけが続いた。


 どれも同じ音だった。


 何も変わらなかった。



 シンは木を殴った。


 一度。


 二度。


 三度。


 拳の皮が裂ける。


 幹に血が付いた。


 木は何も答えなかった。



「戻せよ」



 地面を掴んだ。


 土を掘った。


 爪が剥がれかける。


 枯れ草が千切れる。


 湿った土が指に詰まる。


 まるで、この下に前の時代が埋まっているみたいに。


 アサメの山が、この薄い土の膜の向こうにあるみたいに。



「戻せ」



 途中から、笑っていた。



「は、はは」



 乾いた笑いだった。


 すぐに止まった。



 鋭い石があった。



 シンはそれを拾った。



 刃みたいに尖っていた。


 重さが手に合った。


 使える、と思った。


 そう思った自分を、どこか遠くから見ている自分がいた。



「戻れ戻れ戻れ戻れ」



 呪文みたいだった。



「分かってんだろ」


「出来るだろ」


「頼むから」


「アサメ死ぬ前に」



 喉へ当てた。



 躊躇はなかった。



 一気に引いた。



 熱が走った。


 喉が詰まる。


 空が回る。


 川の音が遠くなる。



 暗転。




 また同じ場所だった。



 シンは、もう起き上がれなかった。



 枯れ草の上へ転がる。



 土が冷たかった。



 空が灰色だった。



 霧が流れていた。



(……戻れない)



 ゆっくり。


 本当にゆっくり。


 その事実だけが腹へ落ちた。



 飛び降りても。


 喉を裂いても。


 返ってくるのはこの時間だ。



 アサメのいた時間じゃない。



 アサメの声が届く場所じゃない。



 それでも、まだ何かを考えようとした。


 もっと高い場所なら。


 もっと深い水なら。


 火なら。


 心臓なら。


 首なら。


 もっと確実なら。


 もっと痛ければ。


 もっとひどければ。



 考えた。


 考えようとした。


 だが、もう体が動かなかった。


 いや。


 動けたとしても、たぶん同じだった。



 もう、分かっていた。



(アサメは)



 死んでいる。



 もうどこにもいない。



「……」



 声が出なかった。


 涙も出なかった。



 ただ空を見ていた。



 アサメが言っていた。



 好きだ。


 生きろ。



(生きろ)



 その言葉が今、呪いみたいに重かった。



 何のために。



 誰のために。



 何を抱えて。



 どこへ行けと言うのか。



 胸の中に、アサメの手の重さが残っていた。


 最後に触れた体温。


 血の匂い。


 あの時、言い返せなかった言葉。


 抱き返せなかった腕。


 もう一度呼べなかった名前。



 全部が遅かった。



 いつも遅い。


 死んでから分かる。


 戻ってから気付く。


 でも今度は、戻っても間に合わない。



 前の時代は終わった。


 山はどこかで焼けた。


 炉の火は消えたかもしれない。


 アサメは土に還ったかもしれない。


 ナギは海へ戻ったかもしれない。


 タダはどこかで、いつものように汁を作っているかもしれない。


 子供達は泣いたかもしれない。


 誰かがアサメの名前を呼んだかもしれない。



 その全部に、自分だけがいない。



 死んで戻るくせに。


 死んでも戻れるくせに。


 肝心な時だけ、戻れなかった。



 風が止んだ。



 川の音だけが残った。



 シンは仰向けのまま、空を見ていた。


 まぶたを閉じる力も無かった。指を動かす気力も無かった。体はここにあるのに、中身だけがどこか遠い場所へ置き去りにされたようだった。


 その時、枯れ草の向こうで、小さく枝が鳴った。



 ぱき、と。



 シンは目だけを動かした。



 鹿がいた。



 若い鹿だった。


 角はまだ短く、細い。


 冬毛へ変わりかけた体は、枯れ草とよく似た色をしていた。霧の中から、最初からそこにいたものが形だけ濃くなったように、静かに現れた。


 鹿は、シンを見ていた。



 逃げなかった。



 近づきもしなかった。


 ただ、少し離れた場所に立って、黒い濡れた目でシンを見ていた。


 その目には、驚きも憐れみも無かった。


 責める色も、救う色も無かった。


 ただ山にあるものが、山に倒れているものを見る目だった。



 シンは息をした。


 喉が痛んだ。


 鹿の鼻がわずかに動いた。


 血の匂いを嗅いだのかもしれない。


 死の匂いを嗅いだのかもしれない。


 あるいは、知らない時代から落ちてきたものの匂いを嗅いだのかもしれない。



「……食うか」



 声にならない声で言った。


 鹿は動かなかった。



「俺、もう動けないぞ」



 鹿は瞬きをした。


 それだけだった。



 前の山にも、鹿がいた。


 アサメは鹿の足跡を読むのがうまかった。湿った土に残ったわずかな跡を見て、どちらへ行ったか、何頭か、どれくらい前かを言い当てた。


 シンには分からなかった。


 ただの跡にしか見えなかった。


 アサメは笑っていた。


 山を見ろ、と言った。


 鹿は道を知っている、と言った。


 人より先に、鹿が道を作るのだと。



 その言葉を思い出した。



 目の前の鹿は、少し首を上げた。


 耳が動く。


 遠くの音を聞いている。


 川ではない。


 風でもない。


 人の音。


 馬の音。


 金具の音。


 この鹿には、もう分かっているのだろう。


 ここへ人が来ることも。


 道が通ることも。


 山が、次のものを受け入れようとしていることも。



 鹿は一歩だけ近づいた。


 枯れ草が軽く沈んだ。


 シンの指先から、ほんの数歩の距離。


 伸ばせば届きそうだった。


 だがシンは動けなかった。


 手を伸ばせなかった。



 鹿の目の中に、灰色の空が映っていた。


 小さな空だった。


 そこにシンの顔は映っていなかった。



 鹿は何もしなかった。


 癒やしもしない。


 導きもしない。


 言葉も無い。


 ただ、そこにいて、シンがまだ生きていることを確かめるように、静かに息をした。



 やがて鹿は顔を上げた。


 霧の向こうを見た。


 そして、身を翻した。



 軽かった。



 一度も振り返らなかった。


 枯れ草を踏み、濡れた土を避け、倒木の脇を抜けて、鹿は森の奥へ戻っていく。


 その足取りには迷いが無かった。


 どこへ行けばいいのか、初めから知っているものの歩き方だった。



 シンは見ていた。



 鹿の背が霧に溶ける。


 薄い茶色が、灰色の中へ消えていく。


 最後に、短い尾だけが揺れた。


 それも見えなくなった。



 残ったのは、川の音と、鹿が踏んだ草の跡だけだった。



 シンは、そこで初めて少しだけ泣いた。


 涙が出たというより、目の端から勝手に水がこぼれた。


 声は出なかった。


 泣き方も分からなかった。



 鹿は進んだ。


 山も進んだ。


 水も進んだ。



 アサメのいない世界だけが、当たり前みたいに先へ行く。



 遠くで鈴が鳴った。



 馬の足音。



 篝火の光。



 人の気配。



(……人がいる)



 それだけ分かった。



 でも動く気になれなかった。



 そのまま横になっていた。




 どれくらい経ったのか分からない。



 足音が近づいてきた。



「……人がいる」



 若い声だった。


 静かな声。


 驚きはあるが、騒いではいない。



 次に、別の声。



 女だった。



「血……」



 少し息を呑む音。


 衣擦れ。


 誰かが膝をついた気配。



「生きています」



 さらに別の足音。


 数人いる。


 武装した者もいる。


 革の軋む音。


 金具の鳴る音。


 馬が鼻を鳴らす音。



「怪我は」



 男の声だった。


 柔らかい。


 だが芯がある。


 命令に慣れている声だった。


 それなのに、命じるより先に問う声でもあった。



 シンは返事をしなかった。



 気配が近づく。



 若い男がしゃがみこんだ。



 整った顔だった。


 高貴な生まれだと分かる顔。


 だが威圧感がない。


 高い場所にいる者の顔なのに、人を見下ろすことに慣れきっていない。



 目が静かだった。


 知性があった。


 そして、奇妙なほどよく動いた。


 シンの顔を見て、傷を見て、周囲を見て、またシンへ戻る。


 恐怖より先に、観察が来る目だった。



 そして。


 シンを見ても、怖がらなかった。



「……怪我はあるか」



 シンは少し間を置いて答えた。



「……戻れなかった」



 男は眉を動かさなかった。


 意味が分かったはずはない。


 分かるはずがない。


 それでも、否定しなかった。


 笑わなかった。


 問い返さなかった。



「そうか」



 ただ、そう言った。



 肩へ手が置かれた。


 温かかった。


 アサメの手とは違う。


 タダの手とも違う。


 山の者の手ではなかった。


 だが、人の手だった。



 その横へ、女が来た。



 黒髪だった。



 長い髪を後ろでまとめている。


 墨色の衣。


 白い肌。


 動きに無駄がなかった。


 近づく時も、膝をつく時も、目だけが先に動いた。



 アサメとは全然違った。



 山ではない。



 火でもない。



 冷たい硯水みたいな女だった。



 静かで。


 薄く香がして。


 張り詰めていて。



 でも。



 その目だけは、ひどく人を見ていた。



 女はシンの首を見た。



 喉の血。


 割れた爪。


 石を握った跡。


 泥の付いた膝。


 擦り切れた掌。


 濡れた髪。


 衣に付いた川砂。


 地面に残る引っかき傷。



 順番に見た。


 何も見落とさない目だった。


 まるで、そこに書かれた文字を読んでいるみたいだった。



 少しだけ、顔が強張った。



「……カミノ様」


「何だ」


「この方……」



 言葉を選んでいた。



「ずいぶん遠くから来たみたいです」


「遠く、とは」


「分かりません。でも」



 女はシンを見た。



 怖がっていた。



 でも、目を逸らさなかった。



「何度も死んでいる人の顔をしています」



 風が吹いた。



 枯れ草が揺れた。



 霧の向こうで、篝火が揺れていた。



 シンは目を閉じた。



(アサメ)



 胸の奥でだけ、そう呼んだ。



 返事は来なかった。



 来るはずがなかった。



 それでも世界は続いていた。



 馬が鳴いた。


 篝火が揺れた。


 男の手が、シンの肩にあった。


 女の視線が、シンを記録するように留まっていた。



 川は流れていた。


 馬は進もうとしていた。


 篝火は夜の残りを燃やしていた。


 人々は、どこかへ向かおうとしていた。



 山が終わっても。



 国は動いていた。



 鹿が消えた森の奥へも、馬鈴の鳴る道の先へも、世界は一歩ずつ流れていく。



 ただシンだけが、アサメのいた山の夕暮れに、まだ足を置いたままだった。



(第六十一話へ)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ