戻れなかった男
第六十話 戻れなかった男
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息が入った。
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「っ……は……!」
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肺に空気が流れ込む。
体が跳ねた。
喉が焼けるみたいに痛かった。
胸の奥が、ぎし、と軋んだ。
長く水の底に沈められていたように、息の仕方を体が忘れていた。何度も咳き込み、吐きそうになった。胃には何も無い。それでも腹の底だけが捩れて、口の中に苦いものが上がってくる。
生きている。
その事実だけが、痛みより先に来た。
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目を開ける。
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空。
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灰色だった。
白い海霧ではない。
重く濁った、晩秋の空だった。
雲が低い。
頭のすぐ上に、冷たい蓋をされているみたいだった。
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枝が揺れていた。
乾いた葉が一枚、くるくる回りながら落ちてくる。
それが頬に触れた。
冷たかった。
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(……また)
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シンは起き上がった。
頭が重い。
視界が揺れる。
耳鳴りがしていた。
体の芯に、死んだ時の痛みがまだ残っている。残っているはずがないのに、残っていた。
何度経験しても、死は体に嘘をついた。
もう終わったものを、まだ終わっていないように残していく。
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でも。
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いつもの戻りだった。
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死んで。
戻って。
また始まる。
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そのはずだった。
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シンは周囲を見た。
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森だ。
だが違う。
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木の種類。
葉の落ち方。
空気。
土。
全部が違う。
前の山には、鉄と煙と鹿肉と炉の匂いがあった。
アサメの集落には、いつも火の気配があった。
濡れた薪が煙る匂い。
焼けた石の匂い。
山菜を煮る匂い。
血の匂い。
子供達が走った後の土埃。
タダが作る汁の湯気。
そして、野薔薇の匂い。
アサメが近くにいる時だけ、ふっと風の奥から届く匂い。
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ここには無い。
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あるのは、冷えた土と、枯れ草と、見知らぬ水の匂いだけだった。
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川の音がした。
近い。
かなり流れが速い。
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「……アサメ」
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声に出ていた。
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返事はなかった。
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シンは立ち上がった。
足元がふらついた。膝が笑っている。指先に力が入らない。それでも立った。
周囲を見る。
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アサメがいない。
タダもいない。
ナギもいない。
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子供達も。
炉も。
火も。
白桃も。
崩れた海辺も。
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何もなかった。
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(……おかしい)
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シンは歩いた。
数歩。
すぐに走った。
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斜面を滑るように下りる。
枯れ草が脚に絡む。
石に躓く。
肩を木へぶつける。
手のひらを地面につく。
泥が爪の間に入った。
痛かった。
でも痛みは遠かった。
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「アサメ!!」
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叫んだ。
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声が森へ吸われた。
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返事はない。
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「アサメぇ!!」
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もう一度。
今度は怒鳴るみたいに。
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返事はない。
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シンは森の中を走った。
あったはずの道を探した。
前の時代なら、集落へ続く細い踏み跡があった。山の者にしか分からない、草の倒れ方だけで続く道。アサメが何度も通った道。タダが荷を運んだ道。ナギが軽い足取りで下っていった道。
その道があるはずだった。
あるはずだ。
無ければならなかった。
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どこにも無かった。
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獣道はあった。
鹿の足跡もあった。
人の踏み跡も、かすかにあった。
だが違う。
知らない足跡だった。
知らない道だった。
土の締まりが違う。草の倒れ方が違う。道が人を覚えていない。
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「違う」
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声が漏れた。
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さらに走った。
倒木を越えた。
湿った斜面を下りた。
苔むした岩を掴んだ。
その岩に見覚えがない。
木にも見覚えがない。
空の開け方も違う。
鳥の声も違う。
自分だけが、知っている場所の続きを探している。
だが世界の方は、そんな場所など初めから無かったという顔をしていた。
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海があるはずだった。
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最後に見たのは海だった。
白桃。
炎。
崩れる場所。
アサメの血。
伸ばした腕。
届かなかった指。
喉が潰れるほどの叫び。
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だから、ここから走れば海へ出るはずだった。
そうでなければおかしい。
おかしくなければいけなかった。
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だが、海の匂いはしない。
塩の匂いが無い。
波の音が無い。
潮風が無い。
あるのは川だけだった。
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川辺へ出た。
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広い川だった。
黒い水が暴れている。
流れが速い。
冷たい。
対岸は霧で見えない。
水は、山の奥から何かを押し流してくるように、休みなく唸っていた。
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誰もいなかった。
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焼け跡もない。
船もない。
海もない。
白桃の気配もない。
アサメの声もない。
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シンは立ち尽くした。
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(ここ、どこだ)
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海岸じゃない。
山の形が違う。
空気が違う。
川の流れが違う。
季節の進み方が違う。
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遠くで、馬の鈴が鳴った気がした。
かすかだった。
霧の向こう。
木々の向こう。
人の気配が多い。
前の時代より。
人が多い。
道がある。
馬がいる。
鉄の音もある。
何かが、集団で動いている。
国の匂いがした。
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でも。
そんなことはどうでもよかった。
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(なんでいない)
(なんでいないんだ)
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シンは川原を歩いた。
アサメの痕跡を探した。
足跡。
血。
布。
髪。
小さな骨飾り。
折れた矢。
割れた土器。
何でもよかった。
何かひとつでもあればよかった。
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石ばかりだった。
冷たい石。
濡れた石。
知らない水草。
川に運ばれてきた枝。
どれもこれも、アサメを知らなかった。
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「ふざけんなよ」
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声が掠れた。
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モモが言っていた。
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九つまで。
次がある保証はない。
次があっても遠い未来かもしれない。
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分かっていた。
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でも。
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(例外があるかもしれない)
(もっと前へ戻れるかもしれない)
(まだ間に合うかもしれない)
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まだ、そう思った。
そう思わなければ立っていられなかった。
考えを止めたら、その場で崩れそうだった。
アサメが死んだ。
その事実を、真正面から見るだけの力が無かった。
だから、別の可能性を探した。
都合のいい穴を探した。
この仕組みの隙間を探した。
死に戻りにルールがあるなら、例外もあるはずだ。
なければ困る。
あってくれ。
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シンは川上を見た。
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崖があった。
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高い。
下は激流だった。
黒い水が岩へぶつかり、白く砕けていた。
落ちれば死ぬ。
間違いなく死ぬ。
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シンは登った。
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滑りながら。
爪を割りながら。
土を掴みながら。
木の根に指をかける。
剥がれた爪が痛んだ。
掌の皮が切れた。
息が荒くなる。
枯れ草が顔に当たる。
泥が口に入る。
それでも登った。
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頂上へ立つ。
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風が強かった。
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下で川が暴れている。
水音が大きい。
世界中の音が、そこへ集まっているようだった。
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アサメの声がした気がした。
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『生きろ』
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「……うるさい」
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シンは笑った。
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笑えていなかった。
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「戻るんだよ」
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下を見た。
足が震えていた。
体は恐れていた。
死に慣れたはずなのに、死ぬ直前だけはいつも体が怯える。その反応が腹立たしかった。
これで戻れなかったら。
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一瞬だけ、その考えが来た。
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シンはすぐに捨てた。
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そんな未来は考えない。
考えたら飛べなくなる。
飛べなければ戻れない。
戻れなければ、アサメは死んだままだ。
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「待ってろ」
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誰に言ったのか分からなかった。
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そのまま飛んだ。
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躊躇はなかった。
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落下。
風。
回転。
白。
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水面が近づく。
岩が見える。
体が強張る。
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暗転。
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息が入った。
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「っ……!!」
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同じ場所だった。
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同じ空。
同じ霧。
同じ枯れ草。
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同じ馬鈴。
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シンはしばらく動かなかった。
体中が冷えていた。
生きている。
戻っている。
だが。
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ここだった。
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アサメのいる時間ではなかった。
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それから。
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「違う」
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立ち上がった。
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「違う違う違う違う」
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川を見た。
山を見た。
空を見た。
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「ここじゃない」
「もっと前だ」
「アサメが死ぬ前だ」
「戻れ」
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誰へ言っているのか、自分でも分からなかった。
空へ。
山へ。
川へ。
モモへ。
この仕組みを作った誰かへ。
自分自身へ。
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「今まで戻ってただろ」
「なんで今回だけ」
「なんでだよ」
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叫ぶ。
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返事はない。
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川は流れている。
霧は白い。
世界は静かだった。
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シンは石を掴んだ。
川へ投げた。
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また掴んだ。
投げた。
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また。
また。
また。
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石が水を打つ音だけが続いた。
どれも同じ音だった。
何も変わらなかった。
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シンは木を殴った。
一度。
二度。
三度。
拳の皮が裂ける。
幹に血が付いた。
木は何も答えなかった。
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「戻せよ」
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地面を掴んだ。
土を掘った。
爪が剥がれかける。
枯れ草が千切れる。
湿った土が指に詰まる。
まるで、この下に前の時代が埋まっているみたいに。
アサメの山が、この薄い土の膜の向こうにあるみたいに。
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「戻せ」
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途中から、笑っていた。
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「は、はは」
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乾いた笑いだった。
すぐに止まった。
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鋭い石があった。
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シンはそれを拾った。
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刃みたいに尖っていた。
重さが手に合った。
使える、と思った。
そう思った自分を、どこか遠くから見ている自分がいた。
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「戻れ戻れ戻れ戻れ」
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呪文みたいだった。
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「分かってんだろ」
「出来るだろ」
「頼むから」
「アサメ死ぬ前に」
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喉へ当てた。
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躊躇はなかった。
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一気に引いた。
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熱が走った。
喉が詰まる。
空が回る。
川の音が遠くなる。
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暗転。
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また同じ場所だった。
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シンは、もう起き上がれなかった。
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枯れ草の上へ転がる。
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土が冷たかった。
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空が灰色だった。
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霧が流れていた。
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(……戻れない)
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ゆっくり。
本当にゆっくり。
その事実だけが腹へ落ちた。
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飛び降りても。
喉を裂いても。
返ってくるのはこの時間だ。
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アサメのいた時間じゃない。
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アサメの声が届く場所じゃない。
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それでも、まだ何かを考えようとした。
もっと高い場所なら。
もっと深い水なら。
火なら。
心臓なら。
首なら。
もっと確実なら。
もっと痛ければ。
もっとひどければ。
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考えた。
考えようとした。
だが、もう体が動かなかった。
いや。
動けたとしても、たぶん同じだった。
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もう、分かっていた。
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(アサメは)
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死んでいる。
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もうどこにもいない。
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「……」
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声が出なかった。
涙も出なかった。
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ただ空を見ていた。
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アサメが言っていた。
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好きだ。
生きろ。
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(生きろ)
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その言葉が今、呪いみたいに重かった。
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何のために。
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誰のために。
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何を抱えて。
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どこへ行けと言うのか。
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胸の中に、アサメの手の重さが残っていた。
最後に触れた体温。
血の匂い。
あの時、言い返せなかった言葉。
抱き返せなかった腕。
もう一度呼べなかった名前。
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全部が遅かった。
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いつも遅い。
死んでから分かる。
戻ってから気付く。
でも今度は、戻っても間に合わない。
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前の時代は終わった。
山はどこかで焼けた。
炉の火は消えたかもしれない。
アサメは土に還ったかもしれない。
ナギは海へ戻ったかもしれない。
タダはどこかで、いつものように汁を作っているかもしれない。
子供達は泣いたかもしれない。
誰かがアサメの名前を呼んだかもしれない。
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その全部に、自分だけがいない。
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死んで戻るくせに。
死んでも戻れるくせに。
肝心な時だけ、戻れなかった。
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風が止んだ。
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川の音だけが残った。
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シンは仰向けのまま、空を見ていた。
まぶたを閉じる力も無かった。指を動かす気力も無かった。体はここにあるのに、中身だけがどこか遠い場所へ置き去りにされたようだった。
その時、枯れ草の向こうで、小さく枝が鳴った。
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ぱき、と。
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シンは目だけを動かした。
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鹿がいた。
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若い鹿だった。
角はまだ短く、細い。
冬毛へ変わりかけた体は、枯れ草とよく似た色をしていた。霧の中から、最初からそこにいたものが形だけ濃くなったように、静かに現れた。
鹿は、シンを見ていた。
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逃げなかった。
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近づきもしなかった。
ただ、少し離れた場所に立って、黒い濡れた目でシンを見ていた。
その目には、驚きも憐れみも無かった。
責める色も、救う色も無かった。
ただ山にあるものが、山に倒れているものを見る目だった。
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シンは息をした。
喉が痛んだ。
鹿の鼻がわずかに動いた。
血の匂いを嗅いだのかもしれない。
死の匂いを嗅いだのかもしれない。
あるいは、知らない時代から落ちてきたものの匂いを嗅いだのかもしれない。
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「……食うか」
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声にならない声で言った。
鹿は動かなかった。
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「俺、もう動けないぞ」
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鹿は瞬きをした。
それだけだった。
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前の山にも、鹿がいた。
アサメは鹿の足跡を読むのがうまかった。湿った土に残ったわずかな跡を見て、どちらへ行ったか、何頭か、どれくらい前かを言い当てた。
シンには分からなかった。
ただの跡にしか見えなかった。
アサメは笑っていた。
山を見ろ、と言った。
鹿は道を知っている、と言った。
人より先に、鹿が道を作るのだと。
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その言葉を思い出した。
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目の前の鹿は、少し首を上げた。
耳が動く。
遠くの音を聞いている。
川ではない。
風でもない。
人の音。
馬の音。
金具の音。
この鹿には、もう分かっているのだろう。
ここへ人が来ることも。
道が通ることも。
山が、次のものを受け入れようとしていることも。
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鹿は一歩だけ近づいた。
枯れ草が軽く沈んだ。
シンの指先から、ほんの数歩の距離。
伸ばせば届きそうだった。
だがシンは動けなかった。
手を伸ばせなかった。
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鹿の目の中に、灰色の空が映っていた。
小さな空だった。
そこにシンの顔は映っていなかった。
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鹿は何もしなかった。
癒やしもしない。
導きもしない。
言葉も無い。
ただ、そこにいて、シンがまだ生きていることを確かめるように、静かに息をした。
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やがて鹿は顔を上げた。
霧の向こうを見た。
そして、身を翻した。
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軽かった。
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一度も振り返らなかった。
枯れ草を踏み、濡れた土を避け、倒木の脇を抜けて、鹿は森の奥へ戻っていく。
その足取りには迷いが無かった。
どこへ行けばいいのか、初めから知っているものの歩き方だった。
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シンは見ていた。
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鹿の背が霧に溶ける。
薄い茶色が、灰色の中へ消えていく。
最後に、短い尾だけが揺れた。
それも見えなくなった。
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残ったのは、川の音と、鹿が踏んだ草の跡だけだった。
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シンは、そこで初めて少しだけ泣いた。
涙が出たというより、目の端から勝手に水がこぼれた。
声は出なかった。
泣き方も分からなかった。
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鹿は進んだ。
山も進んだ。
水も進んだ。
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アサメのいない世界だけが、当たり前みたいに先へ行く。
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遠くで鈴が鳴った。
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馬の足音。
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篝火の光。
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人の気配。
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(……人がいる)
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それだけ分かった。
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でも動く気になれなかった。
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そのまま横になっていた。
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どれくらい経ったのか分からない。
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足音が近づいてきた。
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「……人がいる」
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若い声だった。
静かな声。
驚きはあるが、騒いではいない。
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次に、別の声。
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女だった。
⸻
「血……」
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少し息を呑む音。
衣擦れ。
誰かが膝をついた気配。
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「生きています」
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さらに別の足音。
数人いる。
武装した者もいる。
革の軋む音。
金具の鳴る音。
馬が鼻を鳴らす音。
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「怪我は」
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男の声だった。
柔らかい。
だが芯がある。
命令に慣れている声だった。
それなのに、命じるより先に問う声でもあった。
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シンは返事をしなかった。
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気配が近づく。
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若い男がしゃがみこんだ。
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整った顔だった。
高貴な生まれだと分かる顔。
だが威圧感がない。
高い場所にいる者の顔なのに、人を見下ろすことに慣れきっていない。
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目が静かだった。
知性があった。
そして、奇妙なほどよく動いた。
シンの顔を見て、傷を見て、周囲を見て、またシンへ戻る。
恐怖より先に、観察が来る目だった。
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そして。
シンを見ても、怖がらなかった。
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「……怪我はあるか」
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シンは少し間を置いて答えた。
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「……戻れなかった」
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男は眉を動かさなかった。
意味が分かったはずはない。
分かるはずがない。
それでも、否定しなかった。
笑わなかった。
問い返さなかった。
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「そうか」
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ただ、そう言った。
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肩へ手が置かれた。
温かかった。
アサメの手とは違う。
タダの手とも違う。
山の者の手ではなかった。
だが、人の手だった。
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その横へ、女が来た。
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黒髪だった。
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長い髪を後ろでまとめている。
墨色の衣。
白い肌。
動きに無駄がなかった。
近づく時も、膝をつく時も、目だけが先に動いた。
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アサメとは全然違った。
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山ではない。
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火でもない。
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冷たい硯水みたいな女だった。
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静かで。
薄く香がして。
張り詰めていて。
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でも。
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その目だけは、ひどく人を見ていた。
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女はシンの首を見た。
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喉の血。
割れた爪。
石を握った跡。
泥の付いた膝。
擦り切れた掌。
濡れた髪。
衣に付いた川砂。
地面に残る引っかき傷。
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順番に見た。
何も見落とさない目だった。
まるで、そこに書かれた文字を読んでいるみたいだった。
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少しだけ、顔が強張った。
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「……カミノ様」
「何だ」
「この方……」
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言葉を選んでいた。
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「ずいぶん遠くから来たみたいです」
「遠く、とは」
「分かりません。でも」
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女はシンを見た。
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怖がっていた。
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でも、目を逸らさなかった。
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「何度も死んでいる人の顔をしています」
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風が吹いた。
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枯れ草が揺れた。
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霧の向こうで、篝火が揺れていた。
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シンは目を閉じた。
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(アサメ)
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胸の奥でだけ、そう呼んだ。
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返事は来なかった。
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来るはずがなかった。
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それでも世界は続いていた。
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馬が鳴いた。
篝火が揺れた。
男の手が、シンの肩にあった。
女の視線が、シンを記録するように留まっていた。
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川は流れていた。
馬は進もうとしていた。
篝火は夜の残りを燃やしていた。
人々は、どこかへ向かおうとしていた。
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山が終わっても。
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国は動いていた。
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鹿が消えた森の奥へも、馬鈴の鳴る道の先へも、世界は一歩ずつ流れていく。
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ただシンだけが、アサメのいた山の夕暮れに、まだ足を置いたままだった。
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(第六十一話へ)




