More Than Words
第五十九話 More Than Words
⸻
白が、山の向こうにあった。
⸻
音はなかった。
雷もない。
木の裂ける音も、兵の声も、獣の逃げる声もない。
ただ白だけが、夜明け前の空へ滲んでいた。
⸻
山の稜線が、少しだけ薄くなっている。
そこにあったはずの黒い形が、白に削られている。
⸻
シンは振り返れなかった。
⸻
振り返れば、見えてしまう。
置いてきた炉。
踏み慣れた土。
骨を流した川。
獣道。
子供が笑った場所。
アサメが火を見ていた顔。
⸻
全部が、白に触れたかもしれない。
⸻
そう思ったら、振り返れなかった。
⸻
波の音だけが、霧の向こうから来ていた。
まだ海は見えない。
でも、風の匂いが変わっていた。
川の水に、塩が混じり始めている。
⸻
(先に、進め……!)
⸻
足が動いた。
⸻
動かすしかなかった。
⸻
⸻
山道は濡れていた。
⸻
春の霜が溶け、土が柔らかくなっている。
一歩踏むたびに足が沈んだ。
沈んだ足を抜く。
また前へ出す。
その繰り返しだった。
⸻
逃げる列は、長くも短くもなかった。
老人。
子供。
母親。
若い男。
怪我をした者。
泣くのを我慢している者。
何も分からず、ただ大人の手に引かれている幼い子。
⸻
誰も大声を出さなかった。
泣き声も小さい。
咳も飲み込む。
転んでも、すぐに立つ。
⸻
前を行く老人の荷が崩れかけた。
シンは腕を伸ばして支えた。
老人は何も言わなかった。
ただ一度だけ、深く頷いた。
⸻
その背には、木の椀が括られていた。
古い椀だった。
縁が欠けている。
何度も使われ、何度も洗われ、炉の煙の色が染みついている。
⸻
他にもあった。
⸻
種。
炉道具。
鉄器。
骨片を包んだ布。
干し肉。
山菜を乾かした束。
獣の皮。
針。
石。
火種。
⸻
土地は失う。
山は置いていく。
⸻
それでも、山が育てたものだけは背中に乗せて行く。
⸻
誰も、それを難民の列とは言わなかった。
言えるはずがなかった。
⸻
山そのものが、足を持って歩いていた。
⸻
アサメは最後尾にいた。
⸻
何度も振り返った。
泣かなかった。
声も出さなかった。
⸻
ただ、見ていた。
⸻
木を。
霧の中へ消えていく尾根を。
足元の土を。
湿った根を。
踏んだ石を。
⸻
一歩踏むたびに、少しだけ長く足を地面に置いた。
⸻
覚えているのだ。
持って行けないものを、一つずつ。
一歩ずつ。
⸻
アサメの胸には、火種があった。
灰に埋められた、小さな赤。
布と土器と毛皮に包まれて、外からは見えない。
でも、そこに火があるとシンには分かった。
⸻
アサメの歩き方が、少しだけ違うからだ。
守るものを抱いた歩き方だった。
⸻
その火を落としたら、本当に山が消える。
そう知っている歩き方だった。
⸻
⸻
シンの内側で、何かがずっと言っていた。
⸻
本当にこれでいいのか。
⸻
逃げると決めた。
逃げると言った。
戦わないと決めた。
夜を待たないと決めた。
⸻
それでも、その声は消えなかった。
⸻
山を置いていく。
炉を置いていく。
白が後ろから来ている。
ハヤセが死んだかもしれない。
モモが追ってくるかもしれない。
タケミカヅチは、もう海まで見ているかもしれない。
⸻
それでも。
⸻
進むしかない。
⸻
シンはその声を黙って聞きながら、足を動かした。
⸻
⸻
ワカレは、木の上にいた。
⸻
音もなく。
気配もなく。
ただ、いた。
⸻
道が二つに分かれる場所だった。
片方は川へ落ちる獣道。
片方は尾根へ戻る道。
⸻
そこに立つのではなく、木の枝に座っている。
片膝を立て、もう片方の足をぶらぶらさせている。
ふざけているようにも見える。
でも、その場所は道の口だった。
人が迷う場所。
進むか戻るかを決める場所。
⸻
ワカレには、そういう場所が似合いすぎた。
⸻
「イヌ、死んだよ」
⸻
軽い声だった。
⸻
シンの足が止まった。
列が少しだけ乱れた。
ナギが振り返る。
⸻
「最後まで噛みついてた」
⸻
ワカレが続けた。
⸻
「ワンコっぽかったなぁ」
⸻
ナギの顔が歪んだ。
泣く顔ではなかった。
笑う顔でもなかった。
⸻
「……噛んだんだ」
⸻
小さく言った。
⸻
それだけだった。
でも、ナギには分かったのだろう。
あの角笛の意味が。
あの短く三つ、長く一つの吠え声が。
⸻
シンは何も言えなかった。
⸻
ハヤセが死んだ。
それを聞いても、悲しむ余裕すらなかった。
胸の奥に何かが落ちた。
でも、それが痛みに変わる前に、足を動かさなければならなかった。
⸻
後ろで気配がした。
⸻
アサメだった。
⸻
アサメは一度だけ、目を閉じた。
短かった。
すぐに開けた。
⸻
でも確かに、黙祷だった。
⸻
ワカレはそれを見ていた。
枝の上で、足を揺らすのをやめていた。
⸻
シンが聞いた。
⸻
「なんで教える」
⸻
ワカレは少し黙った。
⸻
いつもなら、すぐに軽口が返ってくる。
でも、その時だけ少し遅れた。
⸻
「アサメが死ぬとこ、ちょっと見たくない」
⸻
それだけだった。
⸻
アサメがワカレを見た。
ワカレもアサメを見た。
⸻
一瞬だけ、変な間があった。
知り合いを見る間ではなかった。
敵を見る間でもなかった。
ずっと古い踊りの続きを、互いに忘れたふりをしているような間だった。
⸻
ワカレが目を逸らした。
⸻
「急いだ方がいい」
⸻
枝の上から、霧の向こうを見た。
⸻
「神託、もう海まで見てる」
⸻
その言葉で、霧が少しだけ白くなった気がした。
⸻
アサメが動いた。
⸻
「行く」
⸻
誰も反論しなかった。
⸻
ワカレはもう、木の上から消えていた。
音もなく。
道の口にいた影だけが、しばらくシンの目に残った。
⸻
⸻
海が見えた時、夜はまだ明けきっていなかった。
⸻
まず、葦が増えた。
川幅が広くなった。
水の色が変わった。
山の水の冷たい透明さではなく、重く、鈍く、灰色に光る水だった。
⸻
泥の匂いが変わる。
腐った草。
塩。
海藻。
砂。
どこか遠い場所の匂い。
⸻
霧の奥に、低く光るものがあった。
⸻
海だった。
⸻
黒く、灰色で、静かではなかった。
波が来る。
引く。
来る。
引く。
⸻
そのたびに、足元の砂が少しずつ持っていかれる。
⸻
シンは、少しだけ息を吸った。
⸻
山の匂いとは違う。
逃げ道の匂いだった。
⸻
⸻
船団は大きくなかった。
⸻
刳り舟。
板を継いだ幅広の舟。
荷を積むための低い舟。
船腹を何度も縛り直した古い舟。
⸻
どの舟も新しくはなかった。
継ぎ目には黒い詰め物が塗られている。
縄は何度も締め直されていた。
板の色は、塩と日と雨で変わっていた。
⸻
でも、その古さは弱さではなかった。
⸻
何度も海へ出てきた古さ。
何度も嵐を越えてきた古さ。
何度も人を乗せてきた古さ。
⸻
沈まなかった古さだった。
⸻
船べりには、妙な印が刻まれているものもあった。
雲のような。
渦のような。
鳥の足跡のような。
⸻
シンには意味が分からなかった。
でもナギが一度だけ、それを見て目を細めた。
懐かしいものを見る目だった。
⸻
「古い舟だな」
⸻
シンが言う。
⸻
ナギは縄を引きながら答えた。
⸻
「古い約束で動く舟だよ」
「約束?」
「まつろわない奴は、昔から舟に乗るんだ」
⸻
それ以上は言わなかった。
言っている暇もなかった。
⸻
海人たちは、山の民を見ても驚かなかった。
怯えもしなかった。
何者かと問わなかった。
⸻
ただ手を貸した。
⸻
子供を受け取る。
荷を引き上げる。
老人の足を支える。
火種を持つアサメには、誰も不用意に触れなかった。
⸻
火種を抱いている者だと、見ただけで分かったようだった。
⸻
何度もやってきた者たちの目だった。
歴史の表には残らない逃げ道を、何度も開いてきた者たちの目だった。
⸻
敗者を乗せることに慣れている。
滅びる前の声を聞くことに慣れている。
名前を奪われる者を、別の浜へ運ぶことに慣れている。
⸻
そういう目だった。
⸻
⸻
ナギが変わっていた。
⸻
キジではなかった。
⸻
「子供優先!!」
「火種は真ん中! 落とすな!!」
「そっちじゃない、こっち乗れ!!」
「重い奴は後ろ! 違う、座れ! 立つな!」
⸻
声が大きかった。
迷いがなかった。
どこへ行けばいいか、誰をどの舟に乗せるべきか、全部分かっていた。
⸻
波の間を読む。
舟の沈み方を見る。
人の重さを見て、荷を移す。
子供の泣き声ではなく、舟の傾きに怒鳴る。
⸻
「泣いてもいい! 揺らすな!」
⸻
小さな子供が、泣きながら必死に頷いた。
⸻
船頭たちも、ナギの言うことを聞いていた。
年上の男もいる。
白髪の者もいる。
それでも、今ここではナギが道を持っていた。
⸻
シンは初めて、それを見た。
⸻
これが、ナギの本当の場所なのだと思った。
火のそばで軽口を叩いている時でも、山道で笑っている時でもない。
海の前で、人を動かしている時。
流れを売るのではなく、流れを使って人を逃がす時。
⸻
ナギは、海人だった。
⸻
⸻
ナギが最後の縄を引いた。
⸻
波打ち際から少し離れた葦の陰に、小舟があった。
半分だけ隠すように置かれている。
⸻
二人。
無理をして三人。
それだけしか乗れない。
⸻
大きな舟は、もう浅瀬から離れ始めていた。
水深が足りない。
追手が来る。
長くは待てない。
⸻
「これは残す」
⸻
ナギが言った。
⸻
「最後に逃げる奴用」
⸻
シンが小舟を見る。
⸻
細い。
頼りない。
でも葦の間を抜けるには、これしかない。
⸻
「お前ら用だよ」
⸻
ナギは当然のように言った。
⸻
「山側で足止めしないと、船団まで追いつかれる。全員で乗ろうとしたら全部沈む。残る奴がいる」
⸻
アサメが崖の方を見た。
⸻
その目は、もう答えを見つけていた。
⸻
「アタシが残る」
⸻
静かな声だった。
⸻
「そこまで土地が読めるのは、アタシだけだ」
⸻
シンは息を呑んだ。
⸻
「アサメ」
「崩れる場所も、水が走る場所も、獣道も全部分かる」
⸻
アサメはシンを見なかった。
崖を見ていた。
山と海の境目。
水が山から落ち、砂と泥へ変わる場所。
⸻
「アタシが足止めする」
⸻
タダが即座に言った。
⸻
「俺も残る」
⸻
当然の声だった。
他の言い方を知らないような声だった。
⸻
アサメが振り返った。
⸻
「ダメだ」
「なんでだ!!」
⸻
タダの顔が赤くなった。
怒っている。
でも、怒りだけではなかった。
恐怖に近かった。
⸻
タダは大きい。
誰よりも大きい。
いつだって、誰かの前に立つ。
でも今だけは、その大きさが子供みたいに見えた。
⸻
アサメは答えなかった。
近づいた。
タダの前に立つ。
背が低い分、少し上を向く。
⸻
その距離が、妙だった。
⸻
恋人の距離ではない。
仲間の距離でも足りない。
親子とも違う。
もっと古い。
アサメがまだ小さく、山刀も持てず、火のそばで膝を抱えていた頃から続いているような距離だった。
⸻
「タダ」
⸻
アサメが言った。
⸻
「アタシが小さい頃から、お前はその顔だったな」
⸻
タダの表情が固まった。
⸻
「アサメ」
「ずっと前に立ってた。熊の前でも、雪の前でも、知らない男の前でも」
⸻
アサメは少しだけ笑った。
⸻
「今度は後ろに立て」
⸻
タダは何も言えなかった。
⸻
「子供らの後ろに立て。火の後ろに立て。シンが壊れたら、殴ってでも運べ」
⸻
タダの喉が鳴った。
⸻
アサメはさらに近づいた。
耳へ口を寄せた。
⸻
何かを言った。
⸻
波の音で、シンには聞こえなかった。
⸻
タダだけが聞いた。
⸻
表情が、ゆっくり変わった。
怒りが抜ける。
代わりに、痛みが来る。
そして、耐える顔になる。
⸻
アサメが離れた。
⸻
「お前は生かす方を頼む」
⸻
タダはしばらく黙っていた。
拳を握る。
開く。
また握る。
⸻
泣きそうだった。
泣かなかった。
⸻
「……生かす」
⸻
短く言った。
⸻
アサメは頷かなかった。
でも、目を逸らさなかった。
⸻
タダは船へ向かった。
足取りは重い。
でも、止まらなかった。
⸻
ナギの隣に立つ。
一度だけ、低く言った。
⸻
「出せ」
⸻
ナギはタダを見た。
何も聞かなかった。
頷いた。
⸻
舟が出た。
⸻
水を押す音。
子供の小さな泣き声。
縄の軋む音。
誰かが祈るように息を吐く音。
⸻
火種を乗せた舟が、少しずつ岸を離れていく。
⸻
アサメはそれを見た。
長くは見なかった。
すぐに崖の方へ向き直った。
⸻
⸻
空気が変わった。
⸻
虫の声が消えた。
波の音が薄くなった。
風が止まった。
⸻
潮の匂いが、すっと消えた。
⸻
代わりに。
⸻
白い霧が来た。
⸻
霧ではなかった。
⸻
ミサネが来た。
⸻
白い装束。
白い顔。
目が空を見ていた。
瞬きが少ない。
唇は切れ、頬には血の気がない。
⸻
それでも、時々だけ、子供を見る。
⸻
その一瞬だけ顔が歪む。
苦しそうだった。
人間の顔だった。
⸻
でも次の瞬間には、また消えた。
誤差を修正するように。
⸻
ミサネの後ろに、兵がいた。
⸻
揃っていた。
いや、揃えられていた。
⸻
木盾。
弓。
長柄の武器。
革。
布。
少しだけ鉄の甲。
⸻
本来はばらばらの人間たちだ。
でも、呼吸が揃っている。
足が同じ方向へ引かれている。
白い目が、時々空を映す。
⸻
軍勢ではなかった。
⸻
巨大な何かの神経の束だった。
⸻
その後ろに、モモがいた。
⸻
刃を下げたまま立っていた。
焦点がなかった。
白桃だった。
⸻
でも。
⸻
シンを見た時だけ、揺れた。
⸻
ほんの少し。
本当に少しだけ。
⸻
その揺れを、シンは見逃せなかった。
⸻
「モモ」
⸻
呼びたかった。
でも、声はまだ出なかった。
⸻
アサメが一歩前へ出た。
⸻
シンの隣を通り過ぎる時、肩が触れた。
⸻
アサメの温度。
炉の火と、野薔薇と、山の匂い。
⸻
「桃色、任せた」
⸻
それだけ言った。
⸻
シンはアサメを見た。
⸻
アサメはもう走っていた。
⸻
崖の方へ。
迷いがなかった。
⸻
事前に読んでいたのだ。
崩れる地形を。
水の流れを。
狭所へ誘い込む道を。
どの根がまだ生きていて、どの土が水を含んでいるか。
どの岩が見かけより軽く、どの倒木が最後の支えになっているか。
⸻
山の知恵だった。
⸻
山が最後に、自分の身体で戦う姿だった。
⸻
兵たちの足が、アサメを追って崖へ向いた。
揃った足音が、湿った斜面へ入っていく。
⸻
アサメは一度だけ振り返った。
シンを見たのではない。
舟を見た。
火種を乗せた舟を。
⸻
それから、霧の中へ消えた。
⸻
⸻
シンは海岸に残った。
⸻
モモと向き合った。
⸻
距離は近かった。
近すぎた。
⸻
波が来る。
引く。
砂が足の下から逃げていく。
⸻
モモは動かない。
シンも動けない。
⸻
「モモ」
⸻
今度は声が出た。
⸻
白桃ではなく、その名前で呼んだ。
⸻
モモが揺れた。
⸻
目の奥で、何かが動いた。
⸻
「……逃げ、て」
⸻
声が掠れていた。
⸻
「……はゃく」
⸻
モモは分かっていた。
自分がシンを見つける装置だということを。
自分がここにいる限り、追跡が終わらないということを。
自分の目が、シンをタケミカヅチへ渡してしまうことを。
⸻
それでも。
⸻
足が動かない。
刃が上がらない。
⸻
シンも逃げられなかった。
⸻
逃げると決めたのに。
ここまで来たのに。
まだ、モモの前では足が止まる。
⸻
崖の向こうで、地が裂けるような音がした。
⸻
岩が崩れた。
水が噴いた。
雪解けの水が、斜面の内側から溢れたような音だった。
⸻
揃った足音が乱れる。
盾がぶつかる音。
叫び声。
滑る音。
土と水が一緒に落ちる音。
⸻
アサメは兵を斬ったのではない。
山を動かしたのだ。
⸻
先頭が止まる。
後ろが詰まる。
詰まった足元を、水がさらう。
濡れた土が剥がれる。
倒木が落ちる。
⸻
揃えられた足ほど、乱れに弱い。
⸻
アサメはそれを知っていた。
⸻
最後に、大きな音がした。
崖の一部が落ちた音だった。
⸻
その後。
⸻
静寂。
⸻
⸻
アサメが戻ってきた。
⸻
血まみれだった。
肩が裂けている。
額から血が流れている。
片足を引きずっている。
それでも、立っていた。
⸻
片膝をつきかけて、立ち上がる。
山刀を杖のように使う。
口の端に血がある。
⸻
それでも、笑っていた。
⸻
「行くぞ」
⸻
その声が終わる前に。
⸻
空が白くなった。
⸻
音が来る前に、光が来た。
⸻
雷だった。
⸻
静かだった。
派手ではなかった。
空が裂けるような音もない。
海が割れるような衝撃もない。
⸻
ただ、白い光が一本落ちた。
⸻
アサメの身体を貫いて、砂浜に影を作った。
⸻
それだけだった。
⸻
一瞬だけ、アサメの輪郭が白に縁取られた。
山刀。
髪。
血。
胸に抱いた火の匂い。
野薔薇の香り。
⸻
全部が白くなった。
⸻
そして、消えた。
⸻
「アサメ!!!!」
⸻
シンは叫んだ。
⸻
喉が裂けるくらい叫んだ。
声になっていたのか分からなかった。
⸻
走った。
砂に足を取られた。
転びかけた。
それでも走った。
⸻
アサメが倒れる前に抱えた。
⸻
重かった。
⸻
何十年分もの重さがあった。
山を歩いてきた足の重さ。
火を見てきた目の重さ。
人を守ると決めた身体の重さ。
⸻
いつもの野薔薇と、山の匂いがした。
⸻
「嘘だろ」
⸻
シンは言った。
⸻
「嘘だろ」
⸻
同じ言葉しか出なかった。
⸻
「なんでだよ」
「逃げてたじゃんか」
「戦わなかっただろ」
「逃げたじゃん」
「俺、逃げたんだぞ」
⸻
アサメは息をした。
浅かった。
でも、した。
⸻
目がシンを見ていた。
痛みで濁っているのに、まだ強かった。
⸻
「タダ、に……」
⸻
声が小さかった。
⸻
「最後くらい……好きな男の、そばにいさせろって……言った……」
⸻
シンは何も言えなかった。
⸻
あの時。
タダの耳に口を寄せた時。
アサメは、それを言ったのだ。
⸻
タダは分かった。
だから船に乗った。
生かす方へ行った。
⸻
アサメが少し笑った。
⸻
強がりではなかった。
今だけは、ただの笑みだった。
⸻
「……好き、だ」
⸻
その言葉が誰に向けられたものなのか、分からないふりはもうできなかった。
⸻
シンは口を開いた。
何かを言おうとした。
⸻
でも、それ以上の言葉を知らなかった。
⸻
好きだ。
ありがとう。
ごめん。
死ぬな。
置いていくな。
全部違った。
全部足りなかった。
⸻
言葉では、間に合わなかった。
⸻
アサメが続けた。
⸻
「生きろ」
⸻
それだけ言って、アサメは止まった。
⸻
シンは首を振った。
⸻
「無理だ」
⸻
声が勝手に出た。
⸻
「無理だって」
「そんなこと言うなよ」
「お前が言うなよ」
⸻
力の抜けたアサメの手が、シンの腕に触れた。
⸻
優しかったあの体温は、もう遠くなっていた。
血はまだ熱い。
シンの手に、熱い血がついている。
なのに、アサメの指先は冷えていく。
⸻
シンだけが生きていた。
⸻
そのことが、許せなかった。
⸻
その瞬間。
⸻
シンの中で何かが壊れた。
⸻
静かではなかった。
綺麗でもなかった。
ぐしゃぐしゃに壊れた。
⸻
アサメの血が手についた。
熱かった。
シンはまだ生きていた。
⸻
だから。
⸻
(まだ間に合う)
⸻
その考えが、頭の中に入り込んだ。
⸻
入り込んだというより、ずっとそこにあった穴から、泥水みたいに溢れてきた。
⸻
(戻ればいい)
(戻れば助かる)
(次なら)
(次ならアサメを死なせない)
⸻
シンは息を吸った。
うまく吸えなかった。
笑いのようなものが漏れた。
⸻
「……そうだ」
⸻
ヒヒ、と笑った。
⸻
自分でも分かるくらい、壊れた笑い方だった。
⸻
「そうだよ」
「まだ終わってない」
⸻
アサメはもう動かない。
何も聞こえない。
⸻
でも、シンはもう死に戻ることしか考えていなかった。
⸻
八。
九。
まだ飛んでいない。
⸻
なら。
⸻
(十がある)
⸻
確証なんかなかった。
理屈もなかった。
モモが何か言っていた。
九つまで。
それ以上はない。
⸻
でも、そんなものは聞こえなかった。
⸻
聞いてしまったら、終わるから。
⸻
シンは立ち上がった。
⸻
血だらけのまま。
顔は笑顔で固まったまま。
⸻
アサメをそっと砂の上に置いた。
優しく置いた。
優しく置けてしまったことが、また何かを壊した。
⸻
モモへ近づいた。
⸻
「モモ?」
⸻
優しい呼び方だった。
壊れているように、優しかった。
⸻
モモが震えた。
⸻
白桃ではなかった。
完全な白桃ではなかった。
シンを見ている。
泣きそうな目で。
泣けないまま。
⸻
「斬ってくれ」
⸻
シンは言った。
⸻
「おれを」
⸻
モモの唇が震えた。
⸻
「……いや」
「早く」
⸻
シンが笑う。
⸻
「次で助ける」
「次なら間に合う」
「次なら全部やり直せる」
⸻
モモの顔が歪む。
⸻
「やめて」
⸻
声が、ほとんど子供みたいだった。
⸻
シンは聞かなかった。
⸻
「アサメが死ぬ前に戻るんだ」
「だから斬れ」
⸻
モモが首を振った。
⸻
「……九つまで、」
⸻
声が震えていた。
⸻
「それ以上は、ない」
⸻
シンは止まった。
⸻
ほんの一瞬だけ。
⸻
その言葉が、胸に触れた。
冷たかった。
でも、すぐに弾いた。
⸻
「分かんないだろ!!」
⸻
シンは叫んだ。
⸻
「お前に何が分かるんだよ!!」
「俺は戻ってきたんだよ!!」
「何回も!!」
「何回も死んで戻ってきたんだよ!!」
⸻
モモは泣きそうな顔で首を振った。
⸻
「次があるか、分からない……」
⸻
息が震えている。
⸻
「またシンに会えても、何百年後か分からない……」
⸻
「知らない!!」
⸻
シンは叫んだ。
⸻
「そんなの知らない!!」
「今戻らなきゃ意味ないんだよ!!」
「今じゃなきゃダメなんだよ!!」
⸻
言いながら、自分でも分かっていた。
モモに背負わせようとしている。
自分を殺すことを。
シンを失うことを。
また何百年も会えないかもしれないことを。
⸻
分かっていた。
でも、止まれなかった。
⸻
アサメの血が、まだ手にある。
熱い。
熱いのに、もうアサメは動かない。
⸻
「頼むよ……」
⸻
声が落ちた。
⸻
「頼むから……」
「モモ」
「俺を殺してくれ……!」
⸻
優しい声だった。
泣きそうな声だった。
狂った声だった。
⸻
「じゃないと、アサメが、死ぬ……!」
⸻
モモの目から、涙がこぼれそうになった。
でも、まだこぼれなかった。
⸻
「斬れ、ない……」
⸻
小さな声だった。
⸻
その言葉で、一瞬だけシンの顔が歪んだ。
怒りではなかった。
悲しみでもなかった。
子供が、最後の扉を閉められたような顔だった。
⸻
でも止まらなかった。
⸻
シンは、モモの刃に近づいた。
⸻
自分から。
⸻
「じゃあ、動かなくていい」
⸻
笑った。
⸻
「俺が行く」
⸻
モモが目を見開いた。
⸻
「だめ」
⸻
その声は、はっきりモモだった。
⸻
「シン、だめ」
⸻
空が白くなった。
⸻
ミサネの目から、最後の光が消えた。
⸻
「誤差最大」
⸻
遠い声だった。
冷たかった。
空の底から来ていた。
⸻
「強制介入」
⸻
モモの体が動いた。
⸻
自分の意志ではなかった。
モモは止まれなかった。
⸻
それでも。
⸻
シンはモモの顔を見ていた。
⸻
表情は変わっていなかった。
声も出ていなかった。
⸻
でも。
⸻
モモの目から、涙が落ちた。
⸻
初めてだった。
⸻
一粒だった。
⸻
桃の花の雫のような。
白い光の中で、それだけが本物だった。
⸻
シンはそれを見た。
⸻
見てしまった。
⸻
自分が、モモに何をさせているのか。
それが、一瞬だけ分かった。
⸻
でも、もう止まれなかった。
⸻
刃が来た。
⸻
シンの最後の認識。
⸻
(戻るんだ)
⸻
⸻
遠くで波の音がした。
⸻
霧の向こうに、船が見えた。
⸻
小さくなっていた。
もう遠かった。
⸻
でも、沈んでいなかった。
⸻
ナギが舳先に立っていた。
風を見ている。
波を読んでいる。
もう振り返っていない。
⸻
タダが何かを胸に抱えていた。
⸻
火種だった。
⸻
アサメが包んだ火。
山から持ち出した赤。
灰の中に眠らせた、まだ死んでいない火。
⸻
子供の泣き声が、風に乗って来た。
小さかった。
でも、生きていた。
⸻
船は、海の上を行く。
⸻
火種が揺れながら、海の上を行く。
⸻
山が、海の上を行くのだ。
⸻
それだけが、救いだった。
⸻
アサメは死んだ。
シンも死ぬ。
モモは泣いている。
⸻
でも、山はまだ行く。
⸻
火はまだ消えていない。
⸻
⸻
また、始まる。
⸻
終わりではない。
喜びでもない。
⸻
呪いのように。
祈りのように。
波が返すように。
⸻
どこへ戻るのかは、分からない。
同じ朝なのか。
別の時代なのか。
別の身体なのか。
それとも、もう戻らないのか。
⸻
それでも。
⸻
また。
⸻
また、始まる。
⸻
⸻ Starting Over ⸻
⸻
(第六十話へ)




