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More Than Words

第五十九話 More Than Words



 白が、山の向こうにあった。



 音はなかった。


 雷もない。


 木の裂ける音も、兵の声も、獣の逃げる声もない。


 ただ白だけが、夜明け前の空へ滲んでいた。



 山の稜線が、少しだけ薄くなっている。


 そこにあったはずの黒い形が、白に削られている。



 シンは振り返れなかった。



 振り返れば、見えてしまう。


 置いてきた炉。


 踏み慣れた土。


 骨を流した川。


 獣道。


 子供が笑った場所。


 アサメが火を見ていた顔。



 全部が、白に触れたかもしれない。



 そう思ったら、振り返れなかった。



 波の音だけが、霧の向こうから来ていた。


 まだ海は見えない。


 でも、風の匂いが変わっていた。


 川の水に、塩が混じり始めている。



(先に、進め……!)



 足が動いた。



 動かすしかなかった。




 山道は濡れていた。



 春の霜が溶け、土が柔らかくなっている。


 一歩踏むたびに足が沈んだ。


 沈んだ足を抜く。


 また前へ出す。


 その繰り返しだった。



 逃げる列は、長くも短くもなかった。


 老人。


 子供。


 母親。


 若い男。


 怪我をした者。


 泣くのを我慢している者。


 何も分からず、ただ大人の手に引かれている幼い子。



 誰も大声を出さなかった。


 泣き声も小さい。


 咳も飲み込む。


 転んでも、すぐに立つ。



 前を行く老人の荷が崩れかけた。


 シンは腕を伸ばして支えた。


 老人は何も言わなかった。


 ただ一度だけ、深く頷いた。



 その背には、木の椀が括られていた。


 古い椀だった。


 縁が欠けている。


 何度も使われ、何度も洗われ、炉の煙の色が染みついている。



 他にもあった。



 種。


 炉道具。


 鉄器。


 骨片を包んだ布。


 干し肉。


 山菜を乾かした束。


 獣の皮。


 針。


 石。


 火種。



 土地は失う。


 山は置いていく。



 それでも、山が育てたものだけは背中に乗せて行く。



 誰も、それを難民の列とは言わなかった。


 言えるはずがなかった。



 山そのものが、足を持って歩いていた。



 アサメは最後尾にいた。



 何度も振り返った。


 泣かなかった。


 声も出さなかった。



 ただ、見ていた。



 木を。


 霧の中へ消えていく尾根を。


 足元の土を。


 湿った根を。


 踏んだ石を。



 一歩踏むたびに、少しだけ長く足を地面に置いた。



 覚えているのだ。


 持って行けないものを、一つずつ。


 一歩ずつ。



 アサメの胸には、火種があった。


 灰に埋められた、小さな赤。


 布と土器と毛皮に包まれて、外からは見えない。


 でも、そこに火があるとシンには分かった。



 アサメの歩き方が、少しだけ違うからだ。


 守るものを抱いた歩き方だった。



 その火を落としたら、本当に山が消える。


 そう知っている歩き方だった。




 シンの内側で、何かがずっと言っていた。



 本当にこれでいいのか。



 逃げると決めた。


 逃げると言った。


 戦わないと決めた。


 夜を待たないと決めた。



 それでも、その声は消えなかった。



 山を置いていく。


 炉を置いていく。


 白が後ろから来ている。


 ハヤセが死んだかもしれない。


 モモが追ってくるかもしれない。


 タケミカヅチは、もう海まで見ているかもしれない。



 それでも。



 進むしかない。



 シンはその声を黙って聞きながら、足を動かした。




 ワカレは、木の上にいた。



 音もなく。


 気配もなく。


 ただ、いた。



 道が二つに分かれる場所だった。


 片方は川へ落ちる獣道。


 片方は尾根へ戻る道。



 そこに立つのではなく、木の枝に座っている。


 片膝を立て、もう片方の足をぶらぶらさせている。


 ふざけているようにも見える。


 でも、その場所は道の口だった。


 人が迷う場所。


 進むか戻るかを決める場所。



 ワカレには、そういう場所が似合いすぎた。



「イヌ、死んだよ」



 軽い声だった。



 シンの足が止まった。


 列が少しだけ乱れた。


 ナギが振り返る。



「最後まで噛みついてた」



 ワカレが続けた。



「ワンコっぽかったなぁ」



 ナギの顔が歪んだ。


 泣く顔ではなかった。


 笑う顔でもなかった。



「……噛んだんだ」



 小さく言った。



 それだけだった。


 でも、ナギには分かったのだろう。


 あの角笛の意味が。


 あの短く三つ、長く一つの吠え声が。



 シンは何も言えなかった。



 ハヤセが死んだ。


 それを聞いても、悲しむ余裕すらなかった。


 胸の奥に何かが落ちた。


 でも、それが痛みに変わる前に、足を動かさなければならなかった。



 後ろで気配がした。



 アサメだった。



 アサメは一度だけ、目を閉じた。


 短かった。


 すぐに開けた。



 でも確かに、黙祷だった。



 ワカレはそれを見ていた。


 枝の上で、足を揺らすのをやめていた。



 シンが聞いた。



「なんで教える」



 ワカレは少し黙った。



 いつもなら、すぐに軽口が返ってくる。


 でも、その時だけ少し遅れた。



「アサメが死ぬとこ、ちょっと見たくない」



 それだけだった。



 アサメがワカレを見た。


 ワカレもアサメを見た。



 一瞬だけ、変な間があった。


 知り合いを見る間ではなかった。


 敵を見る間でもなかった。


 ずっと古い踊りの続きを、互いに忘れたふりをしているような間だった。



 ワカレが目を逸らした。



「急いだ方がいい」



 枝の上から、霧の向こうを見た。



「神託、もう海まで見てる」



 その言葉で、霧が少しだけ白くなった気がした。



 アサメが動いた。



「行く」



 誰も反論しなかった。



 ワカレはもう、木の上から消えていた。


 音もなく。


 道の口にいた影だけが、しばらくシンの目に残った。




 海が見えた時、夜はまだ明けきっていなかった。



 まず、葦が増えた。


 川幅が広くなった。


 水の色が変わった。


 山の水の冷たい透明さではなく、重く、鈍く、灰色に光る水だった。



 泥の匂いが変わる。


 腐った草。


 塩。


 海藻。


 砂。


 どこか遠い場所の匂い。



 霧の奥に、低く光るものがあった。



 海だった。



 黒く、灰色で、静かではなかった。


 波が来る。


 引く。


 来る。


 引く。



 そのたびに、足元の砂が少しずつ持っていかれる。



 シンは、少しだけ息を吸った。



 山の匂いとは違う。


 逃げ道の匂いだった。




 船団は大きくなかった。



 刳り舟。


 板を継いだ幅広の舟。


 荷を積むための低い舟。


 船腹を何度も縛り直した古い舟。



 どの舟も新しくはなかった。


 継ぎ目には黒い詰め物が塗られている。


 縄は何度も締め直されていた。


 板の色は、塩と日と雨で変わっていた。



 でも、その古さは弱さではなかった。



 何度も海へ出てきた古さ。


 何度も嵐を越えてきた古さ。


 何度も人を乗せてきた古さ。



 沈まなかった古さだった。



 船べりには、妙な印が刻まれているものもあった。


 雲のような。


 渦のような。


 鳥の足跡のような。



 シンには意味が分からなかった。


 でもナギが一度だけ、それを見て目を細めた。


 懐かしいものを見る目だった。



「古い舟だな」



 シンが言う。



 ナギは縄を引きながら答えた。



「古い約束で動く舟だよ」


「約束?」


「まつろわない奴は、昔から舟に乗るんだ」



 それ以上は言わなかった。


 言っている暇もなかった。



 海人たちは、山の民を見ても驚かなかった。


 怯えもしなかった。


 何者かと問わなかった。



 ただ手を貸した。



 子供を受け取る。


 荷を引き上げる。


 老人の足を支える。


 火種を持つアサメには、誰も不用意に触れなかった。



 火種を抱いている者だと、見ただけで分かったようだった。



 何度もやってきた者たちの目だった。


 歴史の表には残らない逃げ道を、何度も開いてきた者たちの目だった。



 敗者を乗せることに慣れている。


 滅びる前の声を聞くことに慣れている。


 名前を奪われる者を、別の浜へ運ぶことに慣れている。



 そういう目だった。




 ナギが変わっていた。



 キジではなかった。



「子供優先!!」


「火種は真ん中! 落とすな!!」


「そっちじゃない、こっち乗れ!!」


「重い奴は後ろ! 違う、座れ! 立つな!」



 声が大きかった。


 迷いがなかった。


 どこへ行けばいいか、誰をどの舟に乗せるべきか、全部分かっていた。



 波の間を読む。


 舟の沈み方を見る。


 人の重さを見て、荷を移す。


 子供の泣き声ではなく、舟の傾きに怒鳴る。



「泣いてもいい! 揺らすな!」



 小さな子供が、泣きながら必死に頷いた。



 船頭たちも、ナギの言うことを聞いていた。


 年上の男もいる。


 白髪の者もいる。


 それでも、今ここではナギが道を持っていた。



 シンは初めて、それを見た。



 これが、ナギの本当の場所なのだと思った。


 火のそばで軽口を叩いている時でも、山道で笑っている時でもない。


 海の前で、人を動かしている時。


 流れを売るのではなく、流れを使って人を逃がす時。



 ナギは、海人だった。




 ナギが最後の縄を引いた。



 波打ち際から少し離れた葦の陰に、小舟があった。


 半分だけ隠すように置かれている。



 二人。


 無理をして三人。


 それだけしか乗れない。



 大きな舟は、もう浅瀬から離れ始めていた。


 水深が足りない。


 追手が来る。


 長くは待てない。



「これは残す」



 ナギが言った。



「最後に逃げる奴用」



 シンが小舟を見る。



 細い。


 頼りない。


 でも葦の間を抜けるには、これしかない。



「お前ら用だよ」



 ナギは当然のように言った。



「山側で足止めしないと、船団まで追いつかれる。全員で乗ろうとしたら全部沈む。残る奴がいる」



 アサメが崖の方を見た。



 その目は、もう答えを見つけていた。



「アタシが残る」



 静かな声だった。



「そこまで土地が読めるのは、アタシだけだ」



 シンは息を呑んだ。



「アサメ」


「崩れる場所も、水が走る場所も、獣道も全部分かる」



 アサメはシンを見なかった。


 崖を見ていた。


 山と海の境目。


 水が山から落ち、砂と泥へ変わる場所。



「アタシが足止めする」



 タダが即座に言った。



「俺も残る」



 当然の声だった。


 他の言い方を知らないような声だった。



 アサメが振り返った。



「ダメだ」


「なんでだ!!」



 タダの顔が赤くなった。


 怒っている。


 でも、怒りだけではなかった。


 恐怖に近かった。



 タダは大きい。


 誰よりも大きい。


 いつだって、誰かの前に立つ。


 でも今だけは、その大きさが子供みたいに見えた。



 アサメは答えなかった。


 近づいた。


 タダの前に立つ。


 背が低い分、少し上を向く。



 その距離が、妙だった。



 恋人の距離ではない。


 仲間の距離でも足りない。


 親子とも違う。


 もっと古い。


 アサメがまだ小さく、山刀も持てず、火のそばで膝を抱えていた頃から続いているような距離だった。



「タダ」



 アサメが言った。



「アタシが小さい頃から、お前はその顔だったな」



 タダの表情が固まった。



「アサメ」


「ずっと前に立ってた。熊の前でも、雪の前でも、知らない男の前でも」



 アサメは少しだけ笑った。



「今度は後ろに立て」



 タダは何も言えなかった。



「子供らの後ろに立て。火の後ろに立て。シンが壊れたら、殴ってでも運べ」



 タダの喉が鳴った。



 アサメはさらに近づいた。


 耳へ口を寄せた。



 何かを言った。



 波の音で、シンには聞こえなかった。



 タダだけが聞いた。



 表情が、ゆっくり変わった。


 怒りが抜ける。


 代わりに、痛みが来る。


 そして、耐える顔になる。



 アサメが離れた。



「お前は生かす方を頼む」



 タダはしばらく黙っていた。


 拳を握る。


 開く。


 また握る。



 泣きそうだった。


 泣かなかった。



「……生かす」



 短く言った。



 アサメは頷かなかった。


 でも、目を逸らさなかった。



 タダは船へ向かった。


 足取りは重い。


 でも、止まらなかった。



 ナギの隣に立つ。


 一度だけ、低く言った。



「出せ」



 ナギはタダを見た。


 何も聞かなかった。


 頷いた。



 舟が出た。



 水を押す音。


 子供の小さな泣き声。


 縄の軋む音。


 誰かが祈るように息を吐く音。



 火種を乗せた舟が、少しずつ岸を離れていく。



 アサメはそれを見た。


 長くは見なかった。


 すぐに崖の方へ向き直った。




 空気が変わった。



 虫の声が消えた。


 波の音が薄くなった。


 風が止まった。



 潮の匂いが、すっと消えた。



 代わりに。



 白い霧が来た。



 霧ではなかった。



 ミサネが来た。



 白い装束。


 白い顔。


 目が空を見ていた。


 瞬きが少ない。


 唇は切れ、頬には血の気がない。



 それでも、時々だけ、子供を見る。



 その一瞬だけ顔が歪む。


 苦しそうだった。


 人間の顔だった。



 でも次の瞬間には、また消えた。


 誤差を修正するように。



 ミサネの後ろに、兵がいた。



 揃っていた。


 いや、揃えられていた。



 木盾。


 弓。


 長柄の武器。


 革。


 布。


 少しだけ鉄の甲。



 本来はばらばらの人間たちだ。


 でも、呼吸が揃っている。


 足が同じ方向へ引かれている。


 白い目が、時々空を映す。



 軍勢ではなかった。



 巨大な何かの神経の束だった。



 その後ろに、モモがいた。



 刃を下げたまま立っていた。


 焦点がなかった。


 白桃だった。



 でも。



 シンを見た時だけ、揺れた。



 ほんの少し。


 本当に少しだけ。



 その揺れを、シンは見逃せなかった。



「モモ」



 呼びたかった。


 でも、声はまだ出なかった。



 アサメが一歩前へ出た。



 シンの隣を通り過ぎる時、肩が触れた。



 アサメの温度。


 炉の火と、野薔薇と、山の匂い。



「桃色、任せた」



 それだけ言った。



 シンはアサメを見た。



 アサメはもう走っていた。



 崖の方へ。


 迷いがなかった。



 事前に読んでいたのだ。


 崩れる地形を。


 水の流れを。


 狭所へ誘い込む道を。


 どの根がまだ生きていて、どの土が水を含んでいるか。


 どの岩が見かけより軽く、どの倒木が最後の支えになっているか。



 山の知恵だった。



 山が最後に、自分の身体で戦う姿だった。



 兵たちの足が、アサメを追って崖へ向いた。


 揃った足音が、湿った斜面へ入っていく。



 アサメは一度だけ振り返った。


 シンを見たのではない。


 舟を見た。


 火種を乗せた舟を。



 それから、霧の中へ消えた。




 シンは海岸に残った。



 モモと向き合った。



 距離は近かった。


 近すぎた。



 波が来る。


 引く。


 砂が足の下から逃げていく。



 モモは動かない。


 シンも動けない。



「モモ」



 今度は声が出た。



 白桃ではなく、その名前で呼んだ。



 モモが揺れた。



 目の奥で、何かが動いた。



「……逃げ、て」



 声が掠れていた。



「……はゃく」



 モモは分かっていた。


 自分がシンを見つける装置だということを。


 自分がここにいる限り、追跡が終わらないということを。


 自分の目が、シンをタケミカヅチへ渡してしまうことを。



 それでも。



 足が動かない。


 刃が上がらない。



 シンも逃げられなかった。



 逃げると決めたのに。


 ここまで来たのに。


 まだ、モモの前では足が止まる。



 崖の向こうで、地が裂けるような音がした。



 岩が崩れた。


 水が噴いた。


 雪解けの水が、斜面の内側から溢れたような音だった。



 揃った足音が乱れる。


 盾がぶつかる音。


 叫び声。


 滑る音。


 土と水が一緒に落ちる音。



 アサメは兵を斬ったのではない。


 山を動かしたのだ。



 先頭が止まる。


 後ろが詰まる。


 詰まった足元を、水がさらう。


 濡れた土が剥がれる。


 倒木が落ちる。



 揃えられた足ほど、乱れに弱い。



 アサメはそれを知っていた。



 最後に、大きな音がした。


 崖の一部が落ちた音だった。



 その後。



 静寂。




 アサメが戻ってきた。



 血まみれだった。


 肩が裂けている。


 額から血が流れている。


 片足を引きずっている。


 それでも、立っていた。



 片膝をつきかけて、立ち上がる。


 山刀を杖のように使う。


 口の端に血がある。



 それでも、笑っていた。



「行くぞ」



 その声が終わる前に。



 空が白くなった。



 音が来る前に、光が来た。



 雷だった。



 静かだった。


 派手ではなかった。


 空が裂けるような音もない。


 海が割れるような衝撃もない。



 ただ、白い光が一本落ちた。



 アサメの身体を貫いて、砂浜に影を作った。



 それだけだった。



 一瞬だけ、アサメの輪郭が白に縁取られた。


 山刀。


 髪。


 血。


 胸に抱いた火の匂い。


 野薔薇の香り。



 全部が白くなった。



 そして、消えた。



「アサメ!!!!」



 シンは叫んだ。



 喉が裂けるくらい叫んだ。


 声になっていたのか分からなかった。



 走った。


 砂に足を取られた。


 転びかけた。


 それでも走った。



 アサメが倒れる前に抱えた。



 重かった。



 何十年分もの重さがあった。


 山を歩いてきた足の重さ。


 火を見てきた目の重さ。


 人を守ると決めた身体の重さ。



 いつもの野薔薇と、山の匂いがした。



「嘘だろ」



 シンは言った。



「嘘だろ」



 同じ言葉しか出なかった。



「なんでだよ」


「逃げてたじゃんか」


「戦わなかっただろ」


「逃げたじゃん」


「俺、逃げたんだぞ」



 アサメは息をした。


 浅かった。


 でも、した。



 目がシンを見ていた。


 痛みで濁っているのに、まだ強かった。



「タダ、に……」



 声が小さかった。



「最後くらい……好きな男の、そばにいさせろって……言った……」



 シンは何も言えなかった。



 あの時。


 タダの耳に口を寄せた時。


 アサメは、それを言ったのだ。



 タダは分かった。


 だから船に乗った。


 生かす方へ行った。



 アサメが少し笑った。



 強がりではなかった。


 今だけは、ただの笑みだった。



「……好き、だ」



 その言葉が誰に向けられたものなのか、分からないふりはもうできなかった。



 シンは口を開いた。


 何かを言おうとした。



 でも、それ以上の言葉を知らなかった。



 好きだ。


 ありがとう。


 ごめん。


 死ぬな。


 置いていくな。


 全部違った。


 全部足りなかった。



 言葉では、間に合わなかった。



 アサメが続けた。



「生きろ」



 それだけ言って、アサメは止まった。



 シンは首を振った。



「無理だ」



 声が勝手に出た。



「無理だって」


「そんなこと言うなよ」


「お前が言うなよ」



 力の抜けたアサメの手が、シンの腕に触れた。



 優しかったあの体温は、もう遠くなっていた。


 血はまだ熱い。


 シンの手に、熱い血がついている。


 なのに、アサメの指先は冷えていく。



 シンだけが生きていた。



 そのことが、許せなかった。



 その瞬間。



 シンの中で何かが壊れた。



 静かではなかった。


 綺麗でもなかった。


 ぐしゃぐしゃに壊れた。



 アサメの血が手についた。


 熱かった。


 シンはまだ生きていた。



 だから。



(まだ間に合う)



 その考えが、頭の中に入り込んだ。



 入り込んだというより、ずっとそこにあった穴から、泥水みたいに溢れてきた。



(戻ればいい)


(戻れば助かる)


(次なら)


(次ならアサメを死なせない)



 シンは息を吸った。


 うまく吸えなかった。


 笑いのようなものが漏れた。



「……そうだ」



 ヒヒ、と笑った。



 自分でも分かるくらい、壊れた笑い方だった。



「そうだよ」


「まだ終わってない」



 アサメはもう動かない。


 何も聞こえない。



 でも、シンはもう死に戻ることしか考えていなかった。



 八。


 九。


 まだ飛んでいない。



 なら。



(十がある)



 確証なんかなかった。


 理屈もなかった。


 モモが何か言っていた。


 九つまで。


 それ以上はない。



 でも、そんなものは聞こえなかった。



 聞いてしまったら、終わるから。



 シンは立ち上がった。



 血だらけのまま。


 顔は笑顔で固まったまま。



 アサメをそっと砂の上に置いた。


 優しく置いた。


 優しく置けてしまったことが、また何かを壊した。



 モモへ近づいた。



「モモ?」



 優しい呼び方だった。


 壊れているように、優しかった。



 モモが震えた。



 白桃ではなかった。


 完全な白桃ではなかった。


 シンを見ている。


 泣きそうな目で。


 泣けないまま。



「斬ってくれ」



 シンは言った。



「おれを」



 モモの唇が震えた。



「……いや」


「早く」



 シンが笑う。



「次で助ける」


「次なら間に合う」


「次なら全部やり直せる」



 モモの顔が歪む。



「やめて」



 声が、ほとんど子供みたいだった。



 シンは聞かなかった。



「アサメが死ぬ前に戻るんだ」


「だから斬れ」



 モモが首を振った。



「……九つまで、」



 声が震えていた。



「それ以上は、ない」



 シンは止まった。



 ほんの一瞬だけ。



 その言葉が、胸に触れた。


 冷たかった。


 でも、すぐに弾いた。



「分かんないだろ!!」



 シンは叫んだ。



「お前に何が分かるんだよ!!」


「俺は戻ってきたんだよ!!」


「何回も!!」


「何回も死んで戻ってきたんだよ!!」



 モモは泣きそうな顔で首を振った。



「次があるか、分からない……」



 息が震えている。



「またシンに会えても、何百年後か分からない……」



「知らない!!」



 シンは叫んだ。



「そんなの知らない!!」


「今戻らなきゃ意味ないんだよ!!」


「今じゃなきゃダメなんだよ!!」



 言いながら、自分でも分かっていた。


 モモに背負わせようとしている。


 自分を殺すことを。


 シンを失うことを。


 また何百年も会えないかもしれないことを。



 分かっていた。


 でも、止まれなかった。



 アサメの血が、まだ手にある。


 熱い。


 熱いのに、もうアサメは動かない。



「頼むよ……」



 声が落ちた。



「頼むから……」


「モモ」


「俺を殺してくれ……!」



 優しい声だった。


 泣きそうな声だった。


 狂った声だった。



「じゃないと、アサメが、死ぬ……!」



 モモの目から、涙がこぼれそうになった。


 でも、まだこぼれなかった。



「斬れ、ない……」



 小さな声だった。



 その言葉で、一瞬だけシンの顔が歪んだ。


 怒りではなかった。


 悲しみでもなかった。


 子供が、最後の扉を閉められたような顔だった。



 でも止まらなかった。



 シンは、モモの刃に近づいた。



 自分から。



「じゃあ、動かなくていい」



 笑った。



「俺が行く」



 モモが目を見開いた。



「だめ」



 その声は、はっきりモモだった。



「シン、だめ」



 空が白くなった。



 ミサネの目から、最後の光が消えた。



「誤差最大」



 遠い声だった。


 冷たかった。


 空の底から来ていた。



「強制介入」



 モモの体が動いた。



 自分の意志ではなかった。


 モモは止まれなかった。



 それでも。



 シンはモモの顔を見ていた。



 表情は変わっていなかった。


 声も出ていなかった。



 でも。



 モモの目から、涙が落ちた。



 初めてだった。



 一粒だった。



 桃の花の雫のような。


 白い光の中で、それだけが本物だった。



 シンはそれを見た。



 見てしまった。



 自分が、モモに何をさせているのか。


 それが、一瞬だけ分かった。



 でも、もう止まれなかった。



 刃が来た。



 シンの最後の認識。



(戻るんだ)




 遠くで波の音がした。



 霧の向こうに、船が見えた。



 小さくなっていた。


 もう遠かった。



 でも、沈んでいなかった。



 ナギが舳先に立っていた。


 風を見ている。


 波を読んでいる。


 もう振り返っていない。



 タダが何かを胸に抱えていた。



 火種だった。



 アサメが包んだ火。


 山から持ち出した赤。


 灰の中に眠らせた、まだ死んでいない火。



 子供の泣き声が、風に乗って来た。


 小さかった。


 でも、生きていた。



 船は、海の上を行く。



 火種が揺れながら、海の上を行く。



 山が、海の上を行くのだ。



 それだけが、救いだった。



 アサメは死んだ。


 シンも死ぬ。


 モモは泣いている。



 でも、山はまだ行く。



 火はまだ消えていない。




 また、始まる。



 終わりではない。


 喜びでもない。



 呪いのように。


 祈りのように。


 波が返すように。



 どこへ戻るのかは、分からない。


 同じ朝なのか。


 別の時代なのか。


 別の身体なのか。


 それとも、もう戻らないのか。



 それでも。



 また。



 また、始まる。



⸻ Starting Over ⸻



(第六十話へ)

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