ハヤセ
第五十八話 ハヤセ
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三度目の岩屋の朝だった。
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小さい火。
朝霧。
雪解けの冷気。
石の壁に滲んだ水。
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それらは同じだった。
同じすぎた。
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だからシンは、今回は目を覚ましてすぐに数えなかった。
死んだ数も。
残りの数も。
もう、数えることそのものに意味がない気がした。
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ユナたちの時代と同じなら。
ここが最後だ。
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最初の時代と、一つだけ噛み合わない。
けれど、その違和感を解く時間はもうなかった。
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生きる。
ここで生きる。
そのために逃げる。
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それだけだった。
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アサメが目を覚ます前に、シンは立った。
炉の小さな火に、枝を足した。
火が少しだけ強くなる。
その赤を見ながら、昨夜の白を思い出した。
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アサメが倒れた。
モモが泣けない顔で立っていた。
白桃が戻った。
白が来た。
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生きろ。
逃げろ。
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あの声だけが、まだ耳の奥にあった。
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だから。
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全員が起きた時、シンは短く言った。
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「逃げる」
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それから、必要なことだけを話した。
死に戻りのこと。
今日の夜を待てば、白桃が来ること。
和睦は間に合わないこと。
ハヤセとナギが動いても、タケミカヅチが直接見れば潰されること。
そして、この集落を、火ごと動かすこと。
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長くは話さなかった。
三度目の説明は、もう言葉ではなく、声の乾きで伝わった。
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タダは黙って聞いていた。
驚かなかった。
ただ、干し肉を齧る手を一度止めて、シンを見た。
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「分かった」
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それだけだった。
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アサメは、炉を見ていた。
火が映った目は、山道を見る時の目ではなかった。
もっと深い場所を見ている目だった。
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「夜まで待たないんだな」
「待たない」
「山を捨てるんじゃないな」
「捨てない」
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アサメはそれで納得した。
頷かなかった。
でも、立った。
それが返事だった。
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ナギは長く黙っていた。
火を見ていた。
唇を噛んでいた。
いつもの軽口は出なかった。
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「……キジは、やめる」
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小さく言った。
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「今から海人をやる」
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シンはナギを見た。
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「頼む」
「頼まれた」
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ナギは笑おうとした。
笑えなかった。
でも、その顔は逃げていなかった。
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「海へ出す。子供も、火も、山の人も。全部」
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そう言った声だけは、少しだけ温かかった。
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昼前。
ナギは尾根へ出た。
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湿った春山だった。
昨夜の霧がまだ残っていて、枝も草も重い。
狼煙を上げるには向かない日だった。
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ナギは文句を言わなかった。
乾いた小枝を芯にして、その上へ湿らせた草を重ねる。
煙を太くする草。
白く出す草。
すぐ消える草。
残る草。
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それを迷いなく分けた。
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シンには違いがほとんど分からなかった。
でもナギの手は知っていた。
舟の上で風を読む手。
潮目を読む手。
島と島の間に見えない道を引く手。
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火がついた。
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一度目の煙は、横へ流れた。
ナギはすぐに崩した。
風向きを見る。
黙って火を組み直す。
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二度目。
煙は細かった。
それも崩した。
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三度目。
白い煙が、まっすぐ上がった。
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長く。
短く。
間を置いて。
また長く。
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ただの狼煙ではなかった。
言葉だった。
海人の言葉。
山の者には読めない、煙の言葉。
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誰も口を開かなかった。
タダは背後で周囲を見ていた。
アサメはもっと離れて、山の音を聞いていた。
シンは、煙が消えていく先を見ていた。
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返事は、すぐには来なかった。
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春の風が煙を裂く。
山の向こうへ届いたのかどうかも分からない。
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ナギの指だけが、少し震えていた。
でも、煙は乱さなかった。
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しばらくして。
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遠い尾根の向こうに、細い煙が立った。
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一本。
消える。
二本。
間を置く。
三本目が、少しだけ長い。
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ナギが息を吐いた。
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「来る」
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その声にだけ、潮の匂いがした。
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「船か」
「船。けど、海そのものまでは遠い。川筋へ落ちる。葦の多いところまで行ければ、拾ってくれる」
「間に合うか」
「間に合わせる」
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ナギは煙の消えた空を見た。
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「今度は、売らない」
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夕方前。
ハヤセが来た。
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一人だった。
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足音が先に来た。
急いでいる。
でも、倒れないギリギリの速さだった。
枝を折る音。
泥を踏む音。
息を殺しきれない呼吸。
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霧の中から現れたハヤセは、前より痩せて見えた。
鎧は泥だらけだった。
赤黒い装束は裂れている。
頬に傷がある。
目だけが死んでいなかった。
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「決めたか」
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ハヤセが言った。
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シンは頷いた。
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「逃げる」
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ハヤセは、少しだけ笑った。
嬉しそうではなかった。
羨ましそうにも見えた。
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「それがいい」
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短い声だった。
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「逃げられるうちは、逃げろ」
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その言い方に、シンは引っかかった。
ハヤセは、自分に言っているようにも見えた。
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アサメが前へ出た。
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「どれだけ止められる」
「半刻」
「少ないな」
「多い方だ」
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ハヤセは即答した。
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「東の尾根は捨てろ。水場も使うな。もう見られている。主道は塞がれる」
「なら」
「川へ落ちろ。谷底じゃない。途中で西へ折れる細い獣道がある。山の者なら分かるはずだ」
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アサメは目を細めた。
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「分かる」
「そこからなら、川筋へ出られる。足の遅い者はタダに預けろ。子供は二人ずつ。泣かせるな。泣き声より、立ち止まることの方が危ない」
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軍人の声だった。
短く。
必要なものだけ。
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シンは聞いていた。
聞きながら、昨夜のハヤセを思い出していた。
止めたはずの兵。
届かなかった命令。
白くなった空。
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「ミサネは」
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シンが聞いた。
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ハヤセの顔が少しだけ暗くなった。
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「壊れかけている」
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言い切った。
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「神託を降ろしているんじゃない」
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ハヤセは空を見た。
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「神に焼かれている」
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風が止んだ気がした。
ほんの一瞬。
山全体が、息を詰めたようだった。
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「タケミカヅチが、直接手を下し始めた。ミサネ様の口を通してはいるが、もうあれは命令じゃない。焼き印だ」
「白桃は」
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シンの声が掠れた。
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ハヤセは、シンを見た。
その目だけが、一瞬、人間に戻ったように見えた。
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「中にいる」
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短く言った。
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「まだ、消えていない」
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シンは言葉を失った。
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ハヤセはそれ以上説明しなかった。
説明できないのかもしれなかった。
ただ、その一言には妙な確信があった。
見たことがある者の声だった。
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「俺は戻る」
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ハヤセが言った。
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ナギが顔を上げた。
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「戻るって、そっちに?」
「そうだ」
「戻ってくる?」
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ハヤセは少し黙った。
それから、薄く笑った。
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「犬は戻る場所を選べない」
「じゃあ、どうすんの」
「噛む」
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ナギは一瞬、何か言おうとした。
でもやめた。
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「イヌだもんねぇ」
「お前は最後までキジだな」
「やめたって言ってるでしょ」
「なら、海人」
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ハヤセが言う。
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「山の向こうで角笛が乱れたら走れ。短く三つ、長く一つ。俺だ」
「合図?」
「吠える」
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ナギは笑った。
今度は少しだけ、本当に笑った。
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「聞こえたら走る」
「ああ」
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ハヤセはシンを見た。
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「白桃に近づくな」
「無理だ」
「だろうな」
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ハヤセは苦く笑った。
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「なら、せめて呼べ。名前で呼べ。白桃ではなく」
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シンは頷いた。
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「モモ」
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ハヤセは、その名を聞いて、少しだけ目を伏せた。
何かを思い出したように。
灰の匂いでも嗅いだように。
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けれど何も言わなかった。
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ハヤセは霧の中へ戻っていった。
振り返らなかった。
でも、最後まで足は遅かった。
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それから、集落は静かに動き始めた。
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声を張る者はいない。
泣く者も、怒鳴る者もいない。
逃げるための準備は、戦の準備よりずっと静かだった。
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荷は少なかった。
干し肉。
木の実。
皮袋に入れた水。
刃物。
針。
火打ち。
毛皮。
子供に背負わせるには重すぎるものは、捨てる。
老人が惜しむものも、捨てる。
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タダは何も言わず、重い荷を自分の背へ寄せていった。
子供を一人、背負い紐でくくる。
もう一人の手を取る。
それでも、まだ片手が空いていた。
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タダはいつも、出口を作る。
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シンはそう思った。
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ナギは子供たちを集めていた。
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「二人ずつ。手を離すな。転んでも泣くな。泣いてもいいけど立て。声は飲め。息は鼻でしろ」
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子供たちは真剣な顔で頷いた。
ナギの声が、いつもの軽い声ではなかったからだ。
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アサメは炉の前にいた。
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最後まで、そこにいた。
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炉の火は、まだ生きていた。
赤く小さい炭が、灰の奥に残っている。
アサメはそれを、素手に近い手つきで扱った。
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熱いはずだった。
でも顔は変えなかった。
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灰を小さな土器へ移す。
赤い炭を灰の中に埋める。
上からさらに灰をかぶせる。
火を殺さない。
見せもしない。
ただ眠らせる。
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それから、炉の端の土を一つかみ取った。
小さな骨片と、古い石を布に包む。
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シンは見ていた。
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山を捨てるのではない。
山を持っていくのだ。
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炉をそのまま背負うことはできない。
家を背負うこともできない。
水場も、道も、木も、岩も、獣の声も、持っていくことはできない。
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でも、火種は持てる。
名を呼ぶ者は連れていける。
子供の笑い声は、まだ消えていない。
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アサメは火種を布で包んだ。
それを胸に抱いた。
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その顔に、何十年分もの時間があった。
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祈らなかった。
泣かなかった。
ただ、火を見た。
それから立った。
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「行く」
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それだけだった。
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ハヤセが本陣へ戻る頃、空は鈍い灰色になっていた。
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山の冷気とは違う匂いがあった。
篝火の煙。
汗。
濡れた革。
薬草。
泥。
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その奥に、ほんの少しだけ、灰の匂いがした。
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ハヤセは一瞬、足を止めた。
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白い朝。
咳の音。
細い手。
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記憶はそこまで来て、すぐ沈んだ。
沈めた。
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今は戻る時ではない。
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本陣は静かすぎた。
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兵が並んでいる。
木盾を持つ者。
弓を持つ者。
長い柄の武器を持つ者。
胸に鉄の短い甲をつけた者。
革だけを巻いた者。
布だけの者。
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本来なら、ばらばらの者たちだった。
話す言葉も、出てきた土地も、信じるものも違う。
海辺から来た者。
平地から来た者。
山を知らない者。
山を焼いたことのある者。
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それなのに、呼吸だけが揃っていた。
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一つの巨大な生き物のようだった。
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いや、生き物ではない。
神経だ。
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ここはもう、軍ではなかった。
巨大な神経の中だった。
一本の白い命令が、全員の背骨に通っている。
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ハヤセはその中を歩いた。
誰も声をかけなかった。
誰も止めなかった。
イヌが戻ってきた。
それだけの扱いだった。
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天幕の前で、兵が一人倒れていた。
腕から血を流している。
誰も近づかない。
命令がないからだ。
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天幕の中から、白い女が出てきた。
ミサネだった。
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白い装束。
白すぎる顔。
唇が切れている。
目の下に青い影がある。
でも、その手には水を含ませた布があった。
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ミサネは倒れた兵のそばに膝をつき、口元へ水を当てた。
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「……まだ生きてる」
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小さく呟いた。
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その声だけは、人間だった。
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ハヤセは足を止めた。
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この女を憎んだことがある。
今も憎んでいる。
それでも、この女がすべてを望んでやっているわけではないことも知っている。
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見ることしかできない者。
選ばされる者。
神託という白い牢の中で、焼かれながら立っている者。
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ミサネが顔を上げた。
ハヤセを見た。
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「戻りましたか」
「戻った」
「逃がすのですね」
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ハヤセは答えなかった。
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ミサネは微かに笑った。
笑いと言うには弱すぎるものだった。
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「なら、急いだ方がいい」
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その瞬間、ミサネの目が揺れた。
揺れた直後、焦点が空へ抜ける。
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ハヤセは、もうその変化を知っていた。
神託が降りる時の顔ではない。
神が押し込まれる時の顔だ。
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「対象移動、予測」
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ミサネの口から声が出た。
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女の声だった。
でも、女の声ではない。
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「逃亡経路、再計算」
「白桃、待機」
「追討準備」
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ハヤセは歯を食いしばった。
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天幕の奥に、モモがいた。
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静かに立っていた。
薄桃色の衣。
黒い髪。
桃の飾り。
刃は納めたままだった。
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焦点がない。
人形みたいに立っている。
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ハヤセは一歩、近づいた。
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「白桃」
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呼んだ。
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モモが、ゆっくり顔を向けた。
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目はハヤセを見ていなかった。
でも、口が動いた。
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「……シン」
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それだけだった。
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命令ではない。
確認でもない。
報告でもない。
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名前だった。
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ハヤセの中で、何かが止まった。
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白桃は名前を呼ばない。
敵を数える。
対象を識別する。
命令を実行する。
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でも今、名前を呼んだ。
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水の底から浮かんでくるみたいに。
誰かを探すみたいに。
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ハヤセは、昔の灰の匂いを思い出した。
白い朝。
燃える家。
動かない小さな手。
そして、白桃が一度だけ止まったこと。
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あの時も、白桃は完全には白桃ではなかった。
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(まだいるじゃないか)
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ハヤセは思った。
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(お前は、まだいる)
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その時。
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風が止まった。
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炎が止まった。
兵が止まった。
世界が、一拍だけ止まった。
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ミサネの目から、人の光が消えた。
⸻
「感情汚染確認」
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声が重なった。
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遠く。
冷たい。
空の底から来る声。
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「白桃汚染率増加」
「修正権限移行」
「強制介入開始」
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「ミサネ様!」
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ハヤセが叫んだ。
⸻
返事はなかった。
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モモが、小さく息を吸った。
いや、吸おうとした。
呼吸の形だけが乱れた。
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「……いや」
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声だけが震えていた。
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表情は動かない。
目も乾いたまま動かない。
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それでも、その二文字だけは、確かにモモの中から来ていた。
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ハヤセは抜いた。
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モモを斬るためではなかった。
ミサネを斬るためでもなかった。
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噛みつくためだった。
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ハヤセは角笛の置かれた柱へ走った。
⸻
追討開始の合図。
それを吹く役の男が、すでに角笛を手にしていた。
ハヤセは男の腕を打った。
角笛が落ちる。
兵が振り向く。
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「イヌ!」
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誰かが叫んだ。
⸻
ハヤセは角笛を拾った。
肺に残った息を全部入れた。
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短く三つ。
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山へ向かう兵の列が、一瞬止まった。
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長く一つ。
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待機でも、進軍でもない。
正しい合図ではない。
でも、ハヤセがナギへ残した合図だった。
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吠えた。
⸻
次の瞬間、背後から刃が来た。
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ハヤセは振り向かず、横へ沈んだ。
肩を裂かれる。
血が飛ぶ。
⸻
それでも倒れなかった。
⸻
「白桃、止まれ」
⸻
モモがこちらを見た。
⸻
刃が抜かれている。
いつ抜いたのか分からなかった。
⸻
「白桃!」
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ハヤセはもう一度呼んだ。
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モモの体が震えた。
⸻
「……ハ、ヤ」
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小さな音だった。
名前になりきらなかった。
でも、届いた。
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ハヤセは笑った。
口の端から血が落ちた。
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「まだいるじゃないか」
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刃が来た。
⸻
速かった。
⸻
ハヤセは受けた。
受けた瞬間、腕ごと弾かれた。
天幕の柱へ背中を打ちつける。
息が抜けた。
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立てなかった。
膝をついた。
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それでも、モモを見ていた。
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「お前まで」
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血が喉に絡む。
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「あっちへ行くな」
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モモの体が、細かく震えていた。
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泣けない身体で、泣いているみたいだった。
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でも、刃は止まらない。
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ミサネの声が、空の底から落ちてくる。
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「障害排除」
「追討再開」
「白桃、実行」
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ハヤセは、自分の足元に落ちた角笛を見た。
ひびが入っていた。
それでも鳴った。
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なら十分だ。
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「……すまんな」
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誰への言葉だったのか、自分でも分からなかった。
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モモか。
シンか。
ミサネか。
山へ逃げる者たちか。
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あるいは、灰の匂いの奥にいる誰かか。
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モモの刃が落ちた。
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血が落ちた。
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静寂が、落ちた。
⸻
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山道を下っていたシンたちは、遠くで角笛を聞いた。
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短く三つ。
⸻
子供が怯えて足を止めかけた。
タダがその背を押す。
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長く一つ。
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ナギが振り返った。
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顔が変わった。
⸻
「走れ」
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声が低かった。
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「ナギ?」
「走れ!」
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ナギが叫んだ。
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「イヌが吠えた!」
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誰にも意味は分からなかった。
でも、ナギには分かった。
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イヌが噛んだ。
⸻
ハヤセが、合図を乱した。
追討の足を、一瞬でも止めた。
⸻
その一瞬で、進むしかなかった。
⸻
アサメが先頭に出た。
火種を胸に抱いたまま、獣道へ入る。
⸻
「こっちだ」
⸻
声は揺れていなかった。
⸻
山道ではない。
獣の道だった。
人が通るには狭い。
老人には厳しい。
子供には怖い。
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でも、アサメの足は迷わなかった。
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湿った根を越える。
泥に沈む前に石を踏む。
倒れた木をくぐる。
低い枝を払う。
⸻
火種を落とさない。
後ろを振り返らない。
⸻
シンは列の中ほどにいた。
子供の手を握っていた。
もう片方の手で、荷を押さえていた。
⸻
逃げている。
⸻
戦っていない。
説得していない。
待っていない。
⸻
逃げている。
⸻
それが、こんなに苦しいことだとは思わなかった。
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勝つよりも。
謝るよりも。
死ぬよりも。
⸻
逃げる方が、ずっと生きている感じがした。
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川の音が近くなった。
⸻
雪解けの水が、石に当たっている。
冷たい音だった。
⸻
その音に混じって、遠くから別の匂いが来た。
⸻
潮。
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海そのものは、まだ見えない。
でも、風の中に潮が混じり始めていた。
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ナギの目が変わった。
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「近い」
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そう言った。
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前方の谷が少し開ける。
葦が増えた。
水の色が変わった。
川幅が、ほんの少し広くなる。
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遠くで、煙が立った。
⸻
海側からの返事だった。
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船が来る。
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間に合う。
⸻
シンは、そう思いかけた。
⸻
その時。
⸻
山の向こうが、白くなった。
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音はなかった。
雷もなかった。
ただ、白だけがあった。
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遠い山の稜線が、一瞬、薄く削られたように見えた。
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「……あ」
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シンは止まりかけた。
⸻
隣にいるアサメの顔を、見られなかった。
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見れば、そこに何が映っているか分かってしまうから。
置いてきた炉。
踏み慣れた土。
獣の道。
骨を流した川。
山そのもの。
⸻
アサメは何も言わなかった。
ただ、火種を抱く腕に力を込めた。
⸻
ナギが前を見た。
⸻
「まだ届いてない」
⸻
声は震えていた。
でも、前を向いていた。
⸻
「でも、見られたかもしれない」
⸻
シンは、白くなった山を見た。
そして、前を見た。
⸻
海はまだ見えない。
けれど、潮の匂いは強くなっていた。
⸻
波の音がした。
⸻
霧の向こうで、海が光っていた。
⸻
(第五十九話へ)




