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ハヤセ

第五十八話 ハヤセ



「全員」



 ナギはシンを見ていた。


 沢の水が二人の間を流れている。


 オキの胸には、赤い石があった。



「炉の集落も?」


「オキの集落も。歩けない人も、子供も」


「舟はすぐに山へ来ないよ」


「分かってる」



 分かっていなかった。


 人数も。


 川までの道も。


 舟が何艘要るのかも。


 何を捨てれば、夜までに山を下りられるのかも。



 分かっているのは、ここへ残ればみんな死ぬことだけだった。



「何を見た」



 アサメが聞いた。


 シンが掴んだ手は、まだ肩にある。


 血のない手。


 切られていない手。



「アサメがモモと戦った」



 アサメの指が、シンの肩で止まる。



「アタシが?」


「炉で。モモは、お前が使うものを全部覚えた」


「負けたか」


「ああ」



 アサメは手を離した。


 自分の脇へ触れる。


 消えた時間で、最初の刃を受けた場所だった。



「アタシは死んだか」


「分からない」


「なら、死んでない」



 迷いのない声だった。



「お前は」


「モモに斬られた」


「死んだのか」


「ああ」



 タダが息を吐いた。


 一度も死んでいない者の中で、死んだ数だけが増えていく。



「舟を呼んでも、人を川まで下ろさなきゃ乗せられない」


 ナギが言った。


「それに、捕まってる人もいる」


「歩けるのが七人。二人は運ばないと動けない」



 ナギの目が細くなる。



「誰から聞いたの?」


「ハヤセ」


「まだ会ってないよ」


「死ぬ前に会った」



 ナギが空を見た。


 日はまだ高い。


 それでも、暗くなるまでの時間は少ない。



「二本の煙と、鳥の声」


 シンが言った。


「それでハヤセを呼べる」



 ナギは、しばらく何も言わなかった。



「本当に俺が教えたの?」


「ああ」


「そっか」



 ナギは沢の向こうを見た。


 オキの体を見ないようにしていた。



「じゃあ、もう一回教えるよ」



 濡れた葉が集められた。


 二本の煙が尾根へ上がる。


 ナギの鳥の声が沢の下へ流れた。




 ハヤセが来た。


 肩から腕へ、血の滲んだ布を巻いている。


 前と違うのは、シンの話を何も知らないことだった。



「止まれ」


「手を見せろ」



 同じ言葉。


 ナギが両手を開く。



「ミサネは一度倒れた」



 シンは、ハヤセが聞く前に言った。



「起きた後、立ち方が変わった。道より、観測する男を消せと命じた」


「誰に聞いた」


「お前に」



 ハヤセの手が剣の柄へ下がる。



「傷の位置は、右の肋の下。今はない」


 シンは衣の上から触れた。


「お前は林で『子供は餌じゃない』と怒鳴る。角笛を短く鳴らす。捕らえられた人は九人。ミサネは、人に戻ると全員を逃がせと言う」



 ハヤセの目がナギへ動く。



「教えたか」


「教えてないよ」



 乾いた沈黙が落ちた。



「信じろと?」


「信じなくていい」


 シンは言った。


「今から起きることだけ止めてくれ」



 ハヤセは剣から手を離さなかった。



「九人の名は」


「全員は知らない。ヨリ。サエ。左の耳が欠けた男。足を折った女。咳をする老人」


「見張りは」


「川側に二人。片方は左足を引く。もう片方は、弓を背へ回したまま近くへ来る」



 死ぬ前に見たものを、一つずつ置いた。


 まだ起きていないこと。


 ハヤセしか知らないはずのこと。



「お前が九人を外へ出した後、林の奥で角笛が鳴る。短く一度だ。あれで人が二つに割れた」


「誰が鳴らす」


「お前だ」


「理由は」


「命令が一つじゃないと知らせるため」



 ハヤセの目が、ほんの少しだけ細くなった。


 信じたのではない。


 自分ならそうする、と考えた顔だった。



 ハヤセはシンの顔を見た。


 次にアサメ。


 オキ。


 ミコの手の赤い石。



「要求は」


「捕らえた人を返せ」


「その後は」


「山を下りる」



 ハヤセの目がわずかに動いた。



「全員か」


「全員だ」



 アサメが答えた。


 ハヤセはしばらく沢の流れを見ていた。


 流れの中に、オキを刺した男の血がまだ薄く残っている。


 ハヤセはそれを見た。


 何も聞かなかった。



「川下へ移す」


「見張りは二人」


 ナギが言った。


「一人は俺が道を間違えさせる。もう一人はハヤセが何とかする」


「前もそうしたのか」


「そうらしい」


「成功は」


「した」


「なら、同じにする」



 ハヤセは信じたとは言わない。


 それでも、使えるものは使った。


 未来を信じたのではない。


 目の前の傷と、戻すべき九人を選んだ。



「行くぞ」


 ナギへ言った。



「今から?」


「時間がない」



 ナギが小さく笑った。



「急ぐのも、同じなんだろうね」


「知らん」



 二人は林へ入った。



「……白桃は」



 シンが呼び止めると、ハヤセだけが振り返った。



「俺を斬った。泣いていた」


「そうか」


「でも、止まらなかった」


「止まれないようにされた」



 ハヤセは白い幕のある方角を見た。



「次も、モモと呼んでやれ」


「言われなくても」


「なら忘れるな」



 それだけ残し、今度こそ林へ消えた。




 オキを枝で覆った。


 アサメはミコを急かせなかった。


 赤い石を胸へ置き、もう一度拾うまで待った。



「戻ってくる?」


 ミコが聞いた。


「体は迎えに来る」


「オキは」


「お前が連れていく」



 ミコは、すぐには分からなかった。


 手の中の赤い石を見た。


 やがて、強く握った。



 四人は山を上った。


 今度は炉へ戻るためではない。


 炉を出るためだった。




 同じ日の夕刻。


 炉の集落に戻った。


 アサメの号令で炉の民が家々へ散った。


 集落から離れるために。



 日が山に触れる前、ナギが林から現れた。


 後ろから、捕らえられていた九人が続いた。


 ハヤセは来なかった。


 ヨリは自分の足で歩いた。


 サエは、足を折った女の担架をナギと一緒に持っていた。


 咳をする老人は、戻るなり炉の前へ膝をついた。


 生きて戻った者を数える声と、戻らなかった者の名を呼ぶ声が重なった。



 泣く時間はない。


 手を取り、傷を見て、荷を減らす。


 集落の中で、アサメの声が飛んだ。



「歩けない者を先にする」


「弓は」


「一人一張。矢は持てる分」


「鉄は」


「道具になったものだけ」



 炉の側に鉄の塊が積まれている。


 この山で掘り、焼き、何日も打ったものだ。


 持てば、また刃にできる。


 だが、重い。



 タダが鉄の塊を一つ持ち上げた。


 そのまま炉の横へ戻す。


 骨針。


 砥石。


 小さな鉄の刃。


 木を削る道具。


 それだけを布へ包んだ。



 食べ物は、粟、稗、豆。


 すぐ食べる分より、次に蒔く種を先にする。


 塩を小さな袋へ分けた。


 薬草を濡れた苔で包む。



 一人の老人が、家の柱を外そうとしていた。


 何度も石で打つ。


 縄は緩まない。



「それは持てない」


 アサメが言った。


「ここで生まれた子の背を測った柱だ」


「見れば分かる」


「置いていけと?」



 アサメは山刀を抜いた。


 柱の、傷が集まった部分だけを削り取る。


 長い木片。


 子供たちの背の高さが、横の線として残っている。



「これなら持てる」



 老人は木片を抱いた。


 それ以上、柱を外そうとはしなかった。



 ミコは、トン、チン、カンを炉の前へ座らせていた。



「川から上がったら、最初に何がある?」


「曲がった杉」


 トンが答える。


「その次は?」


「水を汲むところ」


 チンが答えた。


「その先で道はいくつになる?」


「三つ」


 カンが指を三本立てた。



 ミコは頷いた。


 焼けた集落の道を、入口から順に言っていた。


 曲がった杉。


 水場。


 鉄を置いた小屋。


 雨を避けた岩。


 三つに分かれる逃げ道。


 目を閉じても帰れるように、一つずつ声へ出して渡していく。



「今度は、人」



 ミコが一人の名を言った。


 トンが繰り返す。


 トンの声を、チンが繰り返す。


 最後にカンが言う。


 次の名も、その次の名も、同じように四人の口を渡った。


 途中でチンが一人を忘れた。


 ミコより先に、トンが教えた。



「全部は覚えられない」


 カンが言った。


「一人で全部覚えるな」



 アサメが答えた。


 荷をまとめていた手を止めずに、名を一つ復唱する。


 近くにいた老人が、次の名を継いだ。


 水を運んでいた女も、その次を口にした。



「お前が忘れたら、隣に聞け。隣が忘れたら、みんなで思い出せ」



 ミコは最初から始めた。


 今度は四人だけではなかった。


 炉の周りで働く者たちが、知っている名を声へ重ねた。


 最後にオキの名が来た。


 誰も間違えなかった。



 炉の火を落とす。


 消さない。


 赤い炭を灰で包み、小さな土器へ入れた。


 土器の口へ濡れた苔を置き、空気が少しだけ通る隙間を残す。



「この火が消えたら?」


 チンが聞いた。


「次の場所で起こす」


 タダが土器を包む。


「同じ火?」


「ここから持っていけば、同じ火だ」



 アサメが炉の周りを見た。


 炉。


 家。


 子供の背の高さが刻まれた柱。


 何もなくなる。


 だが、人は歩ける。



「山を捨てるんじゃない」



 みんなの手が止まった。



「持っていく」



 アサメが土器の火を持ち上げた。


 みんなの手が、また動き始めた。




 日が沈む前に、列は山を下り始めた。


 先頭はナギ。


 山の道を知る者が中へ入る。


 後ろはタダ。


 今度は誰も家を振り返らなかった。



 歩けない二人は、枝と衣で作った担架へ乗せた。


 年寄りは短い杖を持つ。


 子供は大人の帯を掴む。


 手を離せば、暗い山の中で列が切れる。



 ミコはアサメの後ろを歩いた。


 唇を小さく動かしている。


 曲がった杉。


 水場。


 鉄を置いた小屋。


 その後ろで、トン、チン、カンが人の名を順に繰り返していた。


 一人の声が途切れると、別の一人が続きを継いだ。



 道は沢に沿って下る。


 行きに使った細い崖道ではない。


 炭を運ぶ古道を使う。


 距離は長いが、担架が通る幅がある。



 最初の人が角を曲がってから、最後の人が同じ場所へ来るまで、三十も数えられる。


 走れない。


 一人が転べば、列全体が止まる。


 それでも、まとまって歩くしかない。


 途中で、担架の横木が折れた。


 列が止まる。


 後ろから来た者は理由が分からず、闇の中で肩をぶつけた。


 声を上げれば追手へ位置を渡す。


 アサメは静かに人を分けた。


 タダが細い木を膝で折り、シンが衣を裂いて結ぶ。


 寝かされた女は一度も呻かなかった。


 折れた足を自分の両手で抱え、歯を食いしばっていた。



「声を出していい」


 シンが言った。


「これを噛め」



 布を丸めて渡す。


 女は首を振った。



「子供が怖がる」



 前を歩く子供は振り返らなかった。


 聞こえていた。


 それでも歩いた。



 夜が来る前に、山の中腹へ届いた。


 木々の間から、下を流れる川が細く見える。


 舟は見えない。



 ナギが古道を外れた。


 尾根の端へ上がる。


 湿った葉を燃やし、川へ向けて煙を三度切った。



「来る?」


 シンが聞く。


「気づいてればね」


「気づかなかったら」


「川まで歩く」



 ナギは笑った。


 口元の血が乾き、笑みの端が少し引きつった。



 列はまた動いた。


 暗くなると、火は使わない。


 前の者の踵が沈んだ場所へ、次の者が足を置く。


 泥の深さも、石の形も、足の裏から後ろへ渡していく。




 その頃、山の反対側に張られたヤマトの陣へ、ハヤセが戻っていた。


 人を逃がした道を避け、獣道から幕の裏へ入る。


 番の者は、頬の傷を見ても何も聞かなかった。


 同じ傷を持つ者が、幕の中に何人もいた。



 火はある。


 それでも寒い。


 篝火が同じ高さで燃え、兵は同じ方向を見て座っている。


 誰も話さない。


 誰も笑わない。



 ハヤセは食糧を積んだ小屋へ入った。


 粟の袋を二つ裂く。


 中身を地面へ広げ、泥と混ぜた。


 止める者はいない。


 止める者が来る前に、無傷の袋を一つ担いだ。


 山へ続く道とは逆へ運ぶ。


 足跡を深く残し、途中で袋を裂いた。


 粟を海へ向かう細道へ撒く。


 追う者が見れば、逃げた者はそちらへ食糧を運んだと思う。



 次に渡し場へ行く。


 川に渡した丸太は三本。


 縄を切り、二本を流した。


 残った一本へ切れ目を入れる。


 一人なら渡れる。


 列で走れば折れる深さ。



 弓の弦を水へ沈める。


 槍の鉄の穂先を抜き、灰の底へ隠す。


 荷を担ぐ者の草鞋を集め、鼻緒を切った。


 予備の松明へ水をかける。


 油の壺は倒さない。


 倒せば匂いで分かる。


 底へ小さな穴を開け、草の上へゆっくり漏らした。


 使う頃には空になる。


 人を一人殺すより、百人を遅らせる方を選んだ。



 イヌの仕事ではない。


 ハヤセが決めたことだった。


 見つかれば、裏切りと呼ばれる。


 見つからなくても、戻る場所はなくなる。


 それでよかった。


 役へ戻れないなら、名で選ぶしかない。



 白い幕の奥に、ミサネがいた。


 水の入った土器を持っている。


 自分では飲まない。


 横に寝かされた兵の口へ、少しずつ水を流していた。



「ミサネ」



 土器が止まる。


 ミサネは顔を上げない。



「逃がした」


 ハヤセが言った。


「九人。子供も山を下りる」



 ミサネの肩から力が抜けた。



「よかった」



 人の声だった。


 一つだけの声。



「急いでください」


「もう動いている」


「違う」



 ミサネの手がハヤセの腕を掴んだ。


 冷たい。


 指の力だけが強い。



「あなたも」



 ハヤセは答えなかった。


 ミサネは手を離さない。


 ハヤセの里でも、この女は妹と同じ高さまで膝を折った。


 助けられないと決めた口で、良い名だと言った。


 ハヤセは、そのどちらも忘れていない。



「逃げて」


「できない」


「なぜ」


「お前が言った」



 ミサネの手が強張る。



「白桃を見ていろと。次があるなら、止めろと」


「……覚えていたのですか」


「忘れない」



 妹の最後の声も、覚えている。


 生きてね。


 あの時は、守れなかった。


 今も、生きて戻れるとは限らない。


 それでも、九人は山へ戻った。


 白桃の奥には、まだ名を呼ぶ者がいる。


 ミサネの手を外す。


 次の言葉が来る前に、白い幕を出た。



 奥の幕に、モモがいた。


 刀を膝へ置き、座っている。


 袖に傷はない。


 桃の飾りも、黒髪の左で丸いままだった。


 あの戦いは、シンの中にしか残っていない。



「モモ」



 呼ぶと、目が動いた。


 ハヤセを見る。



「シン」



 ハヤセは息を止めた。


 シンが言った通りだった。


 幕の奥で、一人で、名前だけを呼んでいる。



「モモ」


 ハヤセがもう一度呼ぶ。


「その名を離すな」



 モモの指が膝上の刀へ触れた。


 撫でたのではない。


 自分の手の下にあるものが何か、確かめている。



 モモの目がわずかに揺れた。


 ハヤセはそれを見た。



 外で足音がした。


 一つではない。


 ハヤセが渡し場へ入れた切れ目を誰かが見つけた。



 ハヤセは立った。


 幕の出口へ向かう。



「ハヤ」



 後ろから、燃えた里と一緒に捨てたはずの名を呼ばれた。


 役ではない。


 モモの声だった。



 ハヤセは振り返った。


 モモの焦点が戻っている。


 人の目。


 灰の中を歩いた日、一度だけこの名を呼んだ目だった。


 長くは続かない。



 ハヤセは、何を言うか決めた。



「まだいるじゃないか」



 モモの目が見開かれた。


 ハヤセは幕を出た。




 同じ夜。


 山裾の川に、月が映っていた。


 細く引き伸ばされ、流れの上で何度も切れる。



 川岸に舟が四艘あった。


 丸木舟より幅がある。


 舷底は浅い。


 下流の海人が、荷を川上へ運ぶための舟だった。



 ナギの煙を見た二人が、下から漕ぎ上がってきた。


 残りの舟は、川岸の草の中に伏せてあったものを起こした。


 人を乗せるため、粟の袋と塩の壺を岸へ下ろす。



「何人だ」


 海人の一人が聞いた。


「数えるの、やめた」


 ナギが答える。


「乗るだけ乗せる」



 子供から乗せた。


 次に歩けない者。


 土器に入れた火。


 種の袋。


 薬草。


 子供の背を刻んだ木片。



 その後に、名を覚えた子供たち。


 人は荷より後ではなかった。


 持っていくものと一緒に、舟へ乗った。



 四艘では全員を運べない。


 歩ける者は岸沿いを下る。


 流れが緩くなる場所で、舟を一艘ずつ戻す。


 何度も往復し、少しずつ人を下流へ移した。


 一度目の舟が戻るまで、岸に残った者は葦の中へ伏せた。


 水へ入った足の冷たさが、膝から上へ昇る。


 泣き出した幼子の口を、母親が胸へ押し当てる。


 息まで止めさせないよう、アサメが背を一定の速さで叩いた。


 対岸で石が落ちた。


 全員の体が固くなる。


 鹿が水を飲みに来ただけだった。


 鹿も人を見て止まり、暗い林へ戻った。



 シンは最後の組で岸を歩いた。


 アサメも残った。


 先頭ではない。


 もう、この山の道を知らない者の中にいる。



 夜半。


 川の中ほどにある砂洲へ、全員が集まった。


 舟を並べ、風を防ぐ。


 火は小さくした。


 タダが土器の灰から赤い炭を一つ出す。


 枯れた草へ息を吹き、細い炎を起こした。



 炉の火だった。


 山から川へ移っても、同じ色で燃えた。



 誰も大きな声で話さない。


 川の音が会話を流す。


 子供たちは一つの毛皮の下で寝た。


 ミコだけが起きている。



「ここも山?」


 ミコが聞いた。


「川だ」


 アサメが答える。


「じゃあ、山はどこ」



 アサメは土器の火を指した。


 次に、寝ている人々。


 最後に、ミコの胸を指先で軽く叩いた。



「ここにある」



 ミコは、しばらく川を見ていた。


 やがて毛皮の下へ潜った。




 川で炉の火が眠りに入った頃。


 山上のヤマト陣で、ハヤセは角笛を奪った。


 渡し場が落ちたことに気づいた者たちが、山側へ動き始めている。


 まだ数は少ない。


 今なら、列の後ろへ追いつける。



 角笛の持ち主が、ハヤセの足元に倒れている。


 死んではいない。


 首を打っただけだ。



 ハヤセは角笛へ息を入れた。


 短く二回。


 間を置いて、長く一回。


 追う者が川へ向かった時の合図。


 海人の舟にも届く、道の声だった。



 二回目の短い音が切れる前に、白い刃が来た。



 ハヤセは角笛を離さない。


 首へ来た刀を剣で受ける。


 腕が沈んだ。


 膝が土へつく。



 モモが立っていた。


 薄桃色の衣。


 ほどけていない黒髪。


 割れていない桃の飾り。


 それでも、目の奥には、先ほど名を呼んだ時の揺れが残っていた。



 灰の里で刃を止めたことも、その後、風の中でハヤと呼んだことも、モモの記録には残っていない。


 それでも、名を呼べば奥の誰かがこちらを見る。



 ハヤセは刀を押し返した。


 立ち上がる。


 右腕は痺れている。


 左手だけで剣を構えた。



 モモが踏み込む。


 速い。


 剣を合わせる前に、刃の軌道だけが白く見えた。


 ハヤセは後ろへ跳ばない。


 横へ転がり、土を掴んでモモの目へ投げた。


 モモは瞼を閉じない。


 刀を横薙ぎし、風で土を払う。


 その間に、ハヤセは角笛を腰へ差した。


 両手で剣を持つ。


 上から振る。


 モモの刃が下から触れた。


 ハヤセの剣先だけが飛んだ。


 鉄の欠片が火へ落ちる。


 赤い火花が散った。


 残った短い剣を、ハヤセは鍔元へ滑り込ませる。


 モモの刀を外へ押し、足を掛ける。


 人なら倒れる。


 モモは倒れない。


 軸足を踏み替える。


 掛けられた足を自分から浮かせ、その足でハヤセの胸を蹴った。


 背中から地面へ落とす。


 息が抜けた。


 モモの刃が喉へ下りる。


 ハヤセは折れた剣を横へ入れた。


 刃と刃が噛む。


 白い刃が少しずつ下がる。


 力ではない。


 最も壊れにくい角度を、モモは迷わず選んでいる。


 ハヤセの腕が震えた。



「モモ」



 名前だけを置いた。


 モモの刃が止まった。


 ハヤセはその一息で体を抜いた。



「追うな」


 ハヤセは言った。


「シンはお前を白桃と呼ばない」



 モモの唇が動く。



「……シン」



 モモの左手が、刀を持つ右手首を掴んだ。


 刃が止まる。



「追わないで」


「それをお前が決めろ」



 ハヤセは短く息を吸った。



「イヌじゃない。白桃でもない」



 モモの目が揺れた。


 その奥へ、白い光が落ちる。


 ミサネの口を奪ったものと同じ白。


 タケミカヅチ。



「経路妨害個体を排除」



 モモの声に、モモではないものが重なった。


 左手の指が強張り、右手から外れる。


 白い刃が下がった。


 ハヤセの剣が弾かれる。


 土の上を回って、暗闇へ消えた。



 刀が胸を貫いた。


 ハヤセの体が一歩後ろへ下がる。


 倒れない。


 角笛を口へ戻した。



 長い音が鳴った。


 最後まで、切れなかった。


 山へ逃げた者へ、追手の足を知らせる音。


 川の者へ、舟を急がせる音。


 役として覚えた合図を、自分で選んだ相手のために使った。



 角笛を吹き切った瞬間、灰の里の朝が戻った。


 竹箒が屋根を擦る音。


 軒下から聞こえる咳。


 止むまで、なにもできずに待っていた。



「生きてね」



 妹の声は、あの夜のままだった。


 里も守れなかった。


 妹の手の力が消えていくのを、握っていることしかできなかった。


 それでも今夜、九人は山へ戻った。


 ミコは生きている。


 川へ下る者たちに、この音は届く。


 音の先には海がある。


 灰の降らない場所を、妹は知りたがっていた。



 意味は後で決まる。


 ミサネの声が、今になって胸の奥で響いた。



 モモの手が刀から離れた。


 ハヤセの胸に刃を残したまま、指が宙を掴む。



「はや……」



 声は最後まで続かなかった。


 ハヤセは、モモが呼び終えるのを待った。


 あの頃、妹の咳が止まるのを待ったように。



「……ハヤ」



 今度は、最後まで届いた。


 白桃が呼んだのではない。


 モモの口が、自分の名を作った。



「ああ……」



 息が漏れた。


 笑えたかは、自分では分からなかった。



 そのまま後ろへ倒れた。


 角笛は胸の上に残った。


 灰は降っていない。


 それでもハヤセには、夜の上から白いものが静かに落ちてくるように見えた。



「……すまんな」



 誰への言葉だったのか。


 もう分からなかった。



 モモか。


 シンか。


 故郷か。


 妹か。



 自分自身へか。



 血が落ちた。



 静寂が、満ちた。




 ハヤセが吹き切った音は、山の闇を下った。


 川の砂洲まで届いた時、炉の火が小さく揺れた。


 短く二回。


 間を置いて、長く一回。



 ナギが顔を上げた。


 何も言わない。


 角笛の音が山と川の間で長く残った。



「何の合図」


 シンが聞いた。



「追ってくる」


「ハヤセは」



 ナギは答えなかった。


 土器の火を見た。


 毛皮の下で眠るミコと、トン、チン、カンを見た。


 夜の川に並んだ舟を見た。



「イヌが噛んだ」



 それだけ言った。


 角笛の長い音が消えた。



 全員を起こした。


 舟に荷を戻す。


 火をまた灰へ埋める。


 砂洲を離れた。




 翌朝。



 川の幅が広くなっていた。


 流れも緩い。


 岸の木が低くなり、空が大きく見える。


 水の匂いに、別のものが混じっていた。



 潮。



 川の水が、海の味を持ち始めている。


 ナギが舷先で顔を上げた。


 鼻から長く息を吸う。


 その顔に、山では見せなかった色が少しだけ戻った。



「海が近い」



 子供たちが前を見る。


 まだ海は見えない。


 川の先が、朝の光の中で白く開いているだけだった。



 後ろで、音がした。


 角笛ではない。


 雷だった。



 シンは振り返った。


 遠くなった山の中腹で、白い光が走った。


 一度だけ。


 山の輪郭が朝の中へ戻る。



 モモが来る。


 ハヤセが作った時間は、もう尽きようとしていた。



(第五十九話へ)


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