ハヤセ
第五十八話 ハヤセ
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「全員」
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ナギはシンを見ていた。
沢の水が二人の間を流れている。
オキの胸には、赤い石があった。
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「炉の集落も?」
「オキの集落も。歩けない人も、子供も」
「舟はすぐに山へ来ないよ」
「分かってる」
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分かっていなかった。
人数も。
川までの道も。
舟が何艘要るのかも。
何を捨てれば、夜までに山を下りられるのかも。
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分かっているのは、ここへ残ればみんな死ぬことだけだった。
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「何を見た」
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アサメが聞いた。
シンが掴んだ手は、まだ肩にある。
血のない手。
切られていない手。
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「アサメがモモと戦った」
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アサメの指が、シンの肩で止まる。
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「アタシが?」
「炉で。モモは、お前が使うものを全部覚えた」
「負けたか」
「ああ」
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アサメは手を離した。
自分の脇へ触れる。
消えた時間で、最初の刃を受けた場所だった。
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「アタシは死んだか」
「分からない」
「なら、死んでない」
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迷いのない声だった。
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「お前は」
「モモに斬られた」
「死んだのか」
「ああ」
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タダが息を吐いた。
一度も死んでいない者の中で、死んだ数だけが増えていく。
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「舟を呼んでも、人を川まで下ろさなきゃ乗せられない」
ナギが言った。
「それに、捕まってる人もいる」
「歩けるのが七人。二人は運ばないと動けない」
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ナギの目が細くなる。
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「誰から聞いたの?」
「ハヤセ」
「まだ会ってないよ」
「死ぬ前に会った」
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ナギが空を見た。
日はまだ高い。
それでも、暗くなるまでの時間は少ない。
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「二本の煙と、鳥の声」
シンが言った。
「それでハヤセを呼べる」
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ナギは、しばらく何も言わなかった。
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「本当に俺が教えたの?」
「ああ」
「そっか」
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ナギは沢の向こうを見た。
オキの体を見ないようにしていた。
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「じゃあ、もう一回教えるよ」
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濡れた葉が集められた。
二本の煙が尾根へ上がる。
ナギの鳥の声が沢の下へ流れた。
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ハヤセが来た。
肩から腕へ、血の滲んだ布を巻いている。
前と違うのは、シンの話を何も知らないことだった。
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「止まれ」
「手を見せろ」
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同じ言葉。
ナギが両手を開く。
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「ミサネは一度倒れた」
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シンは、ハヤセが聞く前に言った。
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「起きた後、立ち方が変わった。道より、観測する男を消せと命じた」
「誰に聞いた」
「お前に」
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ハヤセの手が剣の柄へ下がる。
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「傷の位置は、右の肋の下。今はない」
シンは衣の上から触れた。
「お前は林で『子供は餌じゃない』と怒鳴る。角笛を短く鳴らす。捕らえられた人は九人。ミサネは、人に戻ると全員を逃がせと言う」
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ハヤセの目がナギへ動く。
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「教えたか」
「教えてないよ」
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乾いた沈黙が落ちた。
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「信じろと?」
「信じなくていい」
シンは言った。
「今から起きることだけ止めてくれ」
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ハヤセは剣から手を離さなかった。
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「九人の名は」
「全員は知らない。ヨリ。サエ。左の耳が欠けた男。足を折った女。咳をする老人」
「見張りは」
「川側に二人。片方は左足を引く。もう片方は、弓を背へ回したまま近くへ来る」
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死ぬ前に見たものを、一つずつ置いた。
まだ起きていないこと。
ハヤセしか知らないはずのこと。
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「お前が九人を外へ出した後、林の奥で角笛が鳴る。短く一度だ。あれで人が二つに割れた」
「誰が鳴らす」
「お前だ」
「理由は」
「命令が一つじゃないと知らせるため」
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ハヤセの目が、ほんの少しだけ細くなった。
信じたのではない。
自分ならそうする、と考えた顔だった。
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ハヤセはシンの顔を見た。
次にアサメ。
オキ。
ミコの手の赤い石。
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「要求は」
「捕らえた人を返せ」
「その後は」
「山を下りる」
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ハヤセの目がわずかに動いた。
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「全員か」
「全員だ」
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アサメが答えた。
ハヤセはしばらく沢の流れを見ていた。
流れの中に、オキを刺した男の血がまだ薄く残っている。
ハヤセはそれを見た。
何も聞かなかった。
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「川下へ移す」
「見張りは二人」
ナギが言った。
「一人は俺が道を間違えさせる。もう一人はハヤセが何とかする」
「前もそうしたのか」
「そうらしい」
「成功は」
「した」
「なら、同じにする」
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ハヤセは信じたとは言わない。
それでも、使えるものは使った。
未来を信じたのではない。
目の前の傷と、戻すべき九人を選んだ。
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「行くぞ」
ナギへ言った。
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「今から?」
「時間がない」
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ナギが小さく笑った。
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「急ぐのも、同じなんだろうね」
「知らん」
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二人は林へ入った。
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「……白桃は」
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シンが呼び止めると、ハヤセだけが振り返った。
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「俺を斬った。泣いていた」
「そうか」
「でも、止まらなかった」
「止まれないようにされた」
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ハヤセは白い幕のある方角を見た。
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「次も、モモと呼んでやれ」
「言われなくても」
「なら忘れるな」
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それだけ残し、今度こそ林へ消えた。
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オキを枝で覆った。
アサメはミコを急かせなかった。
赤い石を胸へ置き、もう一度拾うまで待った。
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「戻ってくる?」
ミコが聞いた。
「体は迎えに来る」
「オキは」
「お前が連れていく」
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ミコは、すぐには分からなかった。
手の中の赤い石を見た。
やがて、強く握った。
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四人は山を上った。
今度は炉へ戻るためではない。
炉を出るためだった。
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同じ日の夕刻。
炉の集落に戻った。
アサメの号令で炉の民が家々へ散った。
集落から離れるために。
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日が山に触れる前、ナギが林から現れた。
後ろから、捕らえられていた九人が続いた。
ハヤセは来なかった。
ヨリは自分の足で歩いた。
サエは、足を折った女の担架をナギと一緒に持っていた。
咳をする老人は、戻るなり炉の前へ膝をついた。
生きて戻った者を数える声と、戻らなかった者の名を呼ぶ声が重なった。
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泣く時間はない。
手を取り、傷を見て、荷を減らす。
集落の中で、アサメの声が飛んだ。
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「歩けない者を先にする」
「弓は」
「一人一張。矢は持てる分」
「鉄は」
「道具になったものだけ」
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炉の側に鉄の塊が積まれている。
この山で掘り、焼き、何日も打ったものだ。
持てば、また刃にできる。
だが、重い。
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タダが鉄の塊を一つ持ち上げた。
そのまま炉の横へ戻す。
骨針。
砥石。
小さな鉄の刃。
木を削る道具。
それだけを布へ包んだ。
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食べ物は、粟、稗、豆。
すぐ食べる分より、次に蒔く種を先にする。
塩を小さな袋へ分けた。
薬草を濡れた苔で包む。
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一人の老人が、家の柱を外そうとしていた。
何度も石で打つ。
縄は緩まない。
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「それは持てない」
アサメが言った。
「ここで生まれた子の背を測った柱だ」
「見れば分かる」
「置いていけと?」
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アサメは山刀を抜いた。
柱の、傷が集まった部分だけを削り取る。
長い木片。
子供たちの背の高さが、横の線として残っている。
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「これなら持てる」
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老人は木片を抱いた。
それ以上、柱を外そうとはしなかった。
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ミコは、トン、チン、カンを炉の前へ座らせていた。
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「川から上がったら、最初に何がある?」
「曲がった杉」
トンが答える。
「その次は?」
「水を汲むところ」
チンが答えた。
「その先で道はいくつになる?」
「三つ」
カンが指を三本立てた。
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ミコは頷いた。
焼けた集落の道を、入口から順に言っていた。
曲がった杉。
水場。
鉄を置いた小屋。
雨を避けた岩。
三つに分かれる逃げ道。
目を閉じても帰れるように、一つずつ声へ出して渡していく。
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「今度は、人」
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ミコが一人の名を言った。
トンが繰り返す。
トンの声を、チンが繰り返す。
最後にカンが言う。
次の名も、その次の名も、同じように四人の口を渡った。
途中でチンが一人を忘れた。
ミコより先に、トンが教えた。
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「全部は覚えられない」
カンが言った。
「一人で全部覚えるな」
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アサメが答えた。
荷をまとめていた手を止めずに、名を一つ復唱する。
近くにいた老人が、次の名を継いだ。
水を運んでいた女も、その次を口にした。
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「お前が忘れたら、隣に聞け。隣が忘れたら、みんなで思い出せ」
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ミコは最初から始めた。
今度は四人だけではなかった。
炉の周りで働く者たちが、知っている名を声へ重ねた。
最後にオキの名が来た。
誰も間違えなかった。
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炉の火を落とす。
消さない。
赤い炭を灰で包み、小さな土器へ入れた。
土器の口へ濡れた苔を置き、空気が少しだけ通る隙間を残す。
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「この火が消えたら?」
チンが聞いた。
「次の場所で起こす」
タダが土器を包む。
「同じ火?」
「ここから持っていけば、同じ火だ」
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アサメが炉の周りを見た。
炉。
家。
子供の背の高さが刻まれた柱。
何もなくなる。
だが、人は歩ける。
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「山を捨てるんじゃない」
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みんなの手が止まった。
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「持っていく」
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アサメが土器の火を持ち上げた。
みんなの手が、また動き始めた。
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日が沈む前に、列は山を下り始めた。
先頭はナギ。
山の道を知る者が中へ入る。
後ろはタダ。
今度は誰も家を振り返らなかった。
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歩けない二人は、枝と衣で作った担架へ乗せた。
年寄りは短い杖を持つ。
子供は大人の帯を掴む。
手を離せば、暗い山の中で列が切れる。
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ミコはアサメの後ろを歩いた。
唇を小さく動かしている。
曲がった杉。
水場。
鉄を置いた小屋。
その後ろで、トン、チン、カンが人の名を順に繰り返していた。
一人の声が途切れると、別の一人が続きを継いだ。
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道は沢に沿って下る。
行きに使った細い崖道ではない。
炭を運ぶ古道を使う。
距離は長いが、担架が通る幅がある。
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最初の人が角を曲がってから、最後の人が同じ場所へ来るまで、三十も数えられる。
走れない。
一人が転べば、列全体が止まる。
それでも、まとまって歩くしかない。
途中で、担架の横木が折れた。
列が止まる。
後ろから来た者は理由が分からず、闇の中で肩をぶつけた。
声を上げれば追手へ位置を渡す。
アサメは静かに人を分けた。
タダが細い木を膝で折り、シンが衣を裂いて結ぶ。
寝かされた女は一度も呻かなかった。
折れた足を自分の両手で抱え、歯を食いしばっていた。
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「声を出していい」
シンが言った。
「これを噛め」
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布を丸めて渡す。
女は首を振った。
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「子供が怖がる」
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前を歩く子供は振り返らなかった。
聞こえていた。
それでも歩いた。
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夜が来る前に、山の中腹へ届いた。
木々の間から、下を流れる川が細く見える。
舟は見えない。
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ナギが古道を外れた。
尾根の端へ上がる。
湿った葉を燃やし、川へ向けて煙を三度切った。
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「来る?」
シンが聞く。
「気づいてればね」
「気づかなかったら」
「川まで歩く」
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ナギは笑った。
口元の血が乾き、笑みの端が少し引きつった。
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列はまた動いた。
暗くなると、火は使わない。
前の者の踵が沈んだ場所へ、次の者が足を置く。
泥の深さも、石の形も、足の裏から後ろへ渡していく。
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⸻
その頃、山の反対側に張られたヤマトの陣へ、ハヤセが戻っていた。
人を逃がした道を避け、獣道から幕の裏へ入る。
番の者は、頬の傷を見ても何も聞かなかった。
同じ傷を持つ者が、幕の中に何人もいた。
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火はある。
それでも寒い。
篝火が同じ高さで燃え、兵は同じ方向を見て座っている。
誰も話さない。
誰も笑わない。
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ハヤセは食糧を積んだ小屋へ入った。
粟の袋を二つ裂く。
中身を地面へ広げ、泥と混ぜた。
止める者はいない。
止める者が来る前に、無傷の袋を一つ担いだ。
山へ続く道とは逆へ運ぶ。
足跡を深く残し、途中で袋を裂いた。
粟を海へ向かう細道へ撒く。
追う者が見れば、逃げた者はそちらへ食糧を運んだと思う。
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次に渡し場へ行く。
川に渡した丸太は三本。
縄を切り、二本を流した。
残った一本へ切れ目を入れる。
一人なら渡れる。
列で走れば折れる深さ。
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弓の弦を水へ沈める。
槍の鉄の穂先を抜き、灰の底へ隠す。
荷を担ぐ者の草鞋を集め、鼻緒を切った。
予備の松明へ水をかける。
油の壺は倒さない。
倒せば匂いで分かる。
底へ小さな穴を開け、草の上へゆっくり漏らした。
使う頃には空になる。
人を一人殺すより、百人を遅らせる方を選んだ。
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イヌの仕事ではない。
ハヤセが決めたことだった。
見つかれば、裏切りと呼ばれる。
見つからなくても、戻る場所はなくなる。
それでよかった。
役へ戻れないなら、名で選ぶしかない。
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白い幕の奥に、ミサネがいた。
水の入った土器を持っている。
自分では飲まない。
横に寝かされた兵の口へ、少しずつ水を流していた。
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「ミサネ」
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土器が止まる。
ミサネは顔を上げない。
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「逃がした」
ハヤセが言った。
「九人。子供も山を下りる」
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ミサネの肩から力が抜けた。
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「よかった」
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人の声だった。
一つだけの声。
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「急いでください」
「もう動いている」
「違う」
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ミサネの手がハヤセの腕を掴んだ。
冷たい。
指の力だけが強い。
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「あなたも」
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ハヤセは答えなかった。
ミサネは手を離さない。
ハヤセの里でも、この女は妹と同じ高さまで膝を折った。
助けられないと決めた口で、良い名だと言った。
ハヤセは、そのどちらも忘れていない。
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「逃げて」
「できない」
「なぜ」
「お前が言った」
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ミサネの手が強張る。
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「白桃を見ていろと。次があるなら、止めろと」
「……覚えていたのですか」
「忘れない」
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妹の最後の声も、覚えている。
生きてね。
あの時は、守れなかった。
今も、生きて戻れるとは限らない。
それでも、九人は山へ戻った。
白桃の奥には、まだ名を呼ぶ者がいる。
ミサネの手を外す。
次の言葉が来る前に、白い幕を出た。
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奥の幕に、モモがいた。
刀を膝へ置き、座っている。
袖に傷はない。
桃の飾りも、黒髪の左で丸いままだった。
あの戦いは、シンの中にしか残っていない。
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「モモ」
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呼ぶと、目が動いた。
ハヤセを見る。
⸻
「シン」
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ハヤセは息を止めた。
シンが言った通りだった。
幕の奥で、一人で、名前だけを呼んでいる。
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「モモ」
ハヤセがもう一度呼ぶ。
「その名を離すな」
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モモの指が膝上の刀へ触れた。
撫でたのではない。
自分の手の下にあるものが何か、確かめている。
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モモの目がわずかに揺れた。
ハヤセはそれを見た。
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外で足音がした。
一つではない。
ハヤセが渡し場へ入れた切れ目を誰かが見つけた。
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ハヤセは立った。
幕の出口へ向かう。
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「ハヤ」
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後ろから、燃えた里と一緒に捨てたはずの名を呼ばれた。
役ではない。
モモの声だった。
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ハヤセは振り返った。
モモの焦点が戻っている。
人の目。
灰の中を歩いた日、一度だけこの名を呼んだ目だった。
長くは続かない。
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ハヤセは、何を言うか決めた。
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「まだいるじゃないか」
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モモの目が見開かれた。
ハヤセは幕を出た。
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⸻
同じ夜。
山裾の川に、月が映っていた。
細く引き伸ばされ、流れの上で何度も切れる。
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川岸に舟が四艘あった。
丸木舟より幅がある。
舷底は浅い。
下流の海人が、荷を川上へ運ぶための舟だった。
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ナギの煙を見た二人が、下から漕ぎ上がってきた。
残りの舟は、川岸の草の中に伏せてあったものを起こした。
人を乗せるため、粟の袋と塩の壺を岸へ下ろす。
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「何人だ」
海人の一人が聞いた。
「数えるの、やめた」
ナギが答える。
「乗るだけ乗せる」
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子供から乗せた。
次に歩けない者。
土器に入れた火。
種の袋。
薬草。
子供の背を刻んだ木片。
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その後に、名を覚えた子供たち。
人は荷より後ではなかった。
持っていくものと一緒に、舟へ乗った。
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四艘では全員を運べない。
歩ける者は岸沿いを下る。
流れが緩くなる場所で、舟を一艘ずつ戻す。
何度も往復し、少しずつ人を下流へ移した。
一度目の舟が戻るまで、岸に残った者は葦の中へ伏せた。
水へ入った足の冷たさが、膝から上へ昇る。
泣き出した幼子の口を、母親が胸へ押し当てる。
息まで止めさせないよう、アサメが背を一定の速さで叩いた。
対岸で石が落ちた。
全員の体が固くなる。
鹿が水を飲みに来ただけだった。
鹿も人を見て止まり、暗い林へ戻った。
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シンは最後の組で岸を歩いた。
アサメも残った。
先頭ではない。
もう、この山の道を知らない者の中にいる。
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夜半。
川の中ほどにある砂洲へ、全員が集まった。
舟を並べ、風を防ぐ。
火は小さくした。
タダが土器の灰から赤い炭を一つ出す。
枯れた草へ息を吹き、細い炎を起こした。
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炉の火だった。
山から川へ移っても、同じ色で燃えた。
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誰も大きな声で話さない。
川の音が会話を流す。
子供たちは一つの毛皮の下で寝た。
ミコだけが起きている。
⸻
「ここも山?」
ミコが聞いた。
「川だ」
アサメが答える。
「じゃあ、山はどこ」
⸻
アサメは土器の火を指した。
次に、寝ている人々。
最後に、ミコの胸を指先で軽く叩いた。
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「ここにある」
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ミコは、しばらく川を見ていた。
やがて毛皮の下へ潜った。
⸻
⸻
川で炉の火が眠りに入った頃。
山上のヤマト陣で、ハヤセは角笛を奪った。
渡し場が落ちたことに気づいた者たちが、山側へ動き始めている。
まだ数は少ない。
今なら、列の後ろへ追いつける。
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角笛の持ち主が、ハヤセの足元に倒れている。
死んではいない。
首を打っただけだ。
⸻
ハヤセは角笛へ息を入れた。
短く二回。
間を置いて、長く一回。
追う者が川へ向かった時の合図。
海人の舟にも届く、道の声だった。
⸻
二回目の短い音が切れる前に、白い刃が来た。
⸻
ハヤセは角笛を離さない。
首へ来た刀を剣で受ける。
腕が沈んだ。
膝が土へつく。
⸻
モモが立っていた。
薄桃色の衣。
ほどけていない黒髪。
割れていない桃の飾り。
それでも、目の奥には、先ほど名を呼んだ時の揺れが残っていた。
⸻
灰の里で刃を止めたことも、その後、風の中でハヤと呼んだことも、モモの記録には残っていない。
それでも、名を呼べば奥の誰かがこちらを見る。
⸻
ハヤセは刀を押し返した。
立ち上がる。
右腕は痺れている。
左手だけで剣を構えた。
⸻
モモが踏み込む。
速い。
剣を合わせる前に、刃の軌道だけが白く見えた。
ハヤセは後ろへ跳ばない。
横へ転がり、土を掴んでモモの目へ投げた。
モモは瞼を閉じない。
刀を横薙ぎし、風で土を払う。
その間に、ハヤセは角笛を腰へ差した。
両手で剣を持つ。
上から振る。
モモの刃が下から触れた。
ハヤセの剣先だけが飛んだ。
鉄の欠片が火へ落ちる。
赤い火花が散った。
残った短い剣を、ハヤセは鍔元へ滑り込ませる。
モモの刀を外へ押し、足を掛ける。
人なら倒れる。
モモは倒れない。
軸足を踏み替える。
掛けられた足を自分から浮かせ、その足でハヤセの胸を蹴った。
背中から地面へ落とす。
息が抜けた。
モモの刃が喉へ下りる。
ハヤセは折れた剣を横へ入れた。
刃と刃が噛む。
白い刃が少しずつ下がる。
力ではない。
最も壊れにくい角度を、モモは迷わず選んでいる。
ハヤセの腕が震えた。
⸻
「モモ」
⸻
名前だけを置いた。
モモの刃が止まった。
ハヤセはその一息で体を抜いた。
⸻
「追うな」
ハヤセは言った。
「シンはお前を白桃と呼ばない」
⸻
モモの唇が動く。
⸻
「……シン」
⸻
モモの左手が、刀を持つ右手首を掴んだ。
刃が止まる。
⸻
「追わないで」
「それをお前が決めろ」
⸻
ハヤセは短く息を吸った。
⸻
「イヌじゃない。白桃でもない」
⸻
モモの目が揺れた。
その奥へ、白い光が落ちる。
ミサネの口を奪ったものと同じ白。
タケミカヅチ。
⸻
「経路妨害個体を排除」
⸻
モモの声に、モモではないものが重なった。
左手の指が強張り、右手から外れる。
白い刃が下がった。
ハヤセの剣が弾かれる。
土の上を回って、暗闇へ消えた。
⸻
刀が胸を貫いた。
ハヤセの体が一歩後ろへ下がる。
倒れない。
角笛を口へ戻した。
⸻
長い音が鳴った。
最後まで、切れなかった。
山へ逃げた者へ、追手の足を知らせる音。
川の者へ、舟を急がせる音。
役として覚えた合図を、自分で選んだ相手のために使った。
⸻
角笛を吹き切った瞬間、灰の里の朝が戻った。
竹箒が屋根を擦る音。
軒下から聞こえる咳。
止むまで、なにもできずに待っていた。
⸻
「生きてね」
⸻
妹の声は、あの夜のままだった。
里も守れなかった。
妹の手の力が消えていくのを、握っていることしかできなかった。
それでも今夜、九人は山へ戻った。
ミコは生きている。
川へ下る者たちに、この音は届く。
音の先には海がある。
灰の降らない場所を、妹は知りたがっていた。
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意味は後で決まる。
ミサネの声が、今になって胸の奥で響いた。
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モモの手が刀から離れた。
ハヤセの胸に刃を残したまま、指が宙を掴む。
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「はや……」
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声は最後まで続かなかった。
ハヤセは、モモが呼び終えるのを待った。
あの頃、妹の咳が止まるのを待ったように。
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「……ハヤ」
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今度は、最後まで届いた。
白桃が呼んだのではない。
モモの口が、自分の名を作った。
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「ああ……」
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息が漏れた。
笑えたかは、自分では分からなかった。
⸻
そのまま後ろへ倒れた。
角笛は胸の上に残った。
灰は降っていない。
それでもハヤセには、夜の上から白いものが静かに落ちてくるように見えた。
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「……すまんな」
⸻
誰への言葉だったのか。
もう分からなかった。
⸻
モモか。
シンか。
故郷か。
妹か。
⸻
自分自身へか。
⸻
血が落ちた。
⸻
静寂が、満ちた。
⸻
⸻
ハヤセが吹き切った音は、山の闇を下った。
川の砂洲まで届いた時、炉の火が小さく揺れた。
短く二回。
間を置いて、長く一回。
⸻
ナギが顔を上げた。
何も言わない。
角笛の音が山と川の間で長く残った。
⸻
「何の合図」
シンが聞いた。
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「追ってくる」
「ハヤセは」
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ナギは答えなかった。
土器の火を見た。
毛皮の下で眠るミコと、トン、チン、カンを見た。
夜の川に並んだ舟を見た。
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「イヌが噛んだ」
⸻
それだけ言った。
角笛の長い音が消えた。
⸻
全員を起こした。
舟に荷を戻す。
火をまた灰へ埋める。
砂洲を離れた。
⸻
⸻
翌朝。
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川の幅が広くなっていた。
流れも緩い。
岸の木が低くなり、空が大きく見える。
水の匂いに、別のものが混じっていた。
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潮。
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川の水が、海の味を持ち始めている。
ナギが舷先で顔を上げた。
鼻から長く息を吸う。
その顔に、山では見せなかった色が少しだけ戻った。
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「海が近い」
⸻
子供たちが前を見る。
まだ海は見えない。
川の先が、朝の光の中で白く開いているだけだった。
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後ろで、音がした。
角笛ではない。
雷だった。
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シンは振り返った。
遠くなった山の中腹で、白い光が走った。
一度だけ。
山の輪郭が朝の中へ戻る。
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モモが来る。
ハヤセが作った時間は、もう尽きようとしていた。
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(第五十九話へ)




