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白桃 対 鬼女

第五十七話 白桃 対 鬼女



 モモが、立っていた。



 集落の入口。


 夜の空気の中に、薄桃色の衣がある。


 黒い髪が、肩から流れている。


 桃の飾りが、炉の火を少しだけ拾っていた。



 いつもと同じ姿だった。


 同じ顔。


 同じ声のはずだった。


 同じ匂いのはずだった。



 でも。



 今夜は違った。



 立ち方が、人間じゃない。


 重心が、どこにもない。


 地面に立っているのに、地面を踏んでいない。


 人形が立っているみたいだった。



 呼吸が、ズレている。


 吸って、吐く。


 その間隔が、均等すぎる。


 人の呼吸にあるはずの揺れがない。


 寒さに乱れることも、恐怖に詰まることも、怒りで荒れることもない。



 呼吸という形だけが、そこにある。



 焦点のない目が、シンの方を向いていた。


 見ている。


 でも、見ていない。


 そこにあるものを、ただ数えている目だった。



 シンは立ち上がれなかった。


 立ち上がろうとした。


 でも、膝が動かなかった。



 さっきまで、火のそばにいた。


 肉の匂いがあった。


 子供たちの笑い声があった。


 アサメの手が、肩に触れていた。



 今くらい、生きてる方へ来い。



 そう言われたばかりだった。


 その言葉の熱が、まだ肩に残っていた。



 ナギはキジをやめた。


 ハヤセは一人で来た。


 アサメは、山を売らずに境界を認めると言った。


 シンは、今夜だけは間に合ったのかもしれないと思った。



 思ってしまった。



 その全部が、モモの前で、薄くなっていく。



(全部)



 シンはモモを見た。



(遅かった)



 でも。



 桃の香りだけは、まだあった。



 甘い。


 冷たい夜の中で、そこだけが違う。


 血でもない。


 煙でもない。


 焦げた木でもない。


 桃の匂い。



 それだけが、まだモモだった。



「……修正」



 声が出た。



「……誤差確認」


「……白桃、実行」



 最初から二重だった。


 モモの声の層は薄い。


 遠い。


 水の底から聞こえるみたいに、埋もれている。



 シンの喉が詰まった。



「モモ」



 名前を呼んだ。


 呼んだだけだった。


 それ以上の言葉が出なかった。



 モモの指先が、わずかに震えた。


 ほんの一瞬だけ。



 刃を持つ右手ではない。


 左手だった。


 何かを掴もうとして、掴めなかった手。


 白い光の中で、最後に伸びてきた手。



 その記憶と重なった。



 シンは息を吸った。



 次の瞬間。


 刃が出た。



 音はなかった。


 ただ、薄桃色の衣の横に、白い線が増えた。



 刀だった。


 フツ。


 いつもモモが持っている刃。


 でも今夜は、刀というより、命令の形に見えた。



 その時。



「下がれ」



 アサメが前へ出た。



 シンとモモの間に、割り込んだ。


 迷いがなかった。


 立ち上がる、というより、すでにそこにいた。


 炉の光を背にして、山刀を抜いている。



 短い刃だ。


 太い。


 使い込まれている。


 刃こぼれがある。


 柄には手の汗と油が染みている。


 草を払う刃。


 獣を捌く刃。


 木を削る刃。


 人を殺すためだけに作られたものではない。



 だから、重かった。



「アサメ」


「黙れ」


「でも」


「後ろにいろ」



 アサメは振り返らなかった。



 それだけだった。


 それだけで、シンは動けなくなった。



 アサメの背中があった。


 いつも山道で前を歩く背中。


 火を読む背中。


 獣を追う背中。


 腹が立つほど大きく見えて、時々、ひどく女の人に見える背中。



 その背中が、今はシンの前にあった。



 モモの焦点のない目が、アサメへ移った。



 人を見ている目ではない。


 障害物を認識する目。


 排除すべきものを、輪郭だけで捉える目だった。



 アサメは、その目を見ても揺れなかった。


 足を少し開く。


 膝を沈める。


 左足の指が、地面を掴む。


 湿った土が、かすかに沈んだ。



 炉の灰。


 踏み固められた土。


 子供たちが走った跡。


 落ちた木片。


 石。


 薪の割れた端。



 アサメは、それを見ていなかった。


 見ていないのに、全部知っていた。



 モモが、一歩動いた。



 速かった。



 足音がない。


 風もない。


 ただ、そこにあった薄桃色が、次の瞬間にはアサメの前にあった。



 白い線が走る。



 アサメは避けた。



 大きく避けたわけじゃない。


 半歩、沈んだだけだった。


 背を折る。


 肩を抜く。


 右足が土をこすった。


 刃は髪を一本だけ持っていった。



 黒い髪が、火の中で光って落ちた。



 アサメの山刀が、下から跳ねた。


 モモの刃に当たる。



 金属の音がした。


 短い。


 乾いた音だった。



 モモの刀は、まっすぐだった。


 無駄がない。


 振り下ろしにも、引きにも、迷いがない。


 人間の身体が持つはずの重さや、癖や、恐怖がない。



 正確すぎた。



 アサメは、その正確さの外にいた。



 刃を受けない。


 受けたように見せて、当てる場所をずらす。


 力で押さない。


 押される前に、足を変える。


 炉の灰を踏む。


 灰が滑る。


 滑ることまで使って、体の線をずらす。



 モモの刃が、アサメの脇を抜けた。


 衣が裂ける。


 血が少し飛んだ。



 アサメは止まらない。



 傷を見ない。


 痛みを切り捨てる。


 左肘を畳んで、モモの手首へぶつけた。



 モモの刀が、ほんの少し浮く。



 その隙間に、アサメの膝が入った。


 モモの膝の外側。


 人間なら崩れる場所。



 でも、モモは崩れなかった。



 関節が、不自然に戻る。


 体の軸だけが、何かに引き直されたように立つ。



 アサメの目が、少しだけ細くなった。



 次が来た。



 モモの二撃目は、さっきより速かった。


 首。


 喉。


 胸。


 三つの線が、ほとんど同時に見えた。



 シンには見えなかった。


 見えたと思った時には、もう遅かった。



 でもアサメは動いていた。



 後ろへは引かない。


 前へ入る。


 刃の内側へ。


 危険な方へ。



 山刀の腹で刀の軌道を押す。


 火花が散る。


 アサメの腕に血が走る。


 それでも、足は崩れない。



 地面に根が生えているみたいだった。



 モモの肩が、ほんの少しだけ空いた。



 その瞬間。


 アサメの山刀が走った。



 派手な斬撃ではなかった。


 叫びもない。


 大きく振りかぶることもない。



 近い距離で、短く、深く。



 薄桃色の衣が裂けた。


 肩口から、赤が出た。



 モモが止まった。



 完全に止まった。



 さっきまで人形みたいだった体が、急に人間の重さを思い出したように揺れた。


 足が、土を踏んだ。


 初めて、足音がした。



「……あ」



 声が出た。



 二重じゃなかった。


 モモだけの声だった。



 シンは息を呑んだ。



 モモの目に、焦点が戻っていた。


 ほんの一瞬だけ。


 本当に、一瞬だけ。



 痛みを感じた目だった。


 命令を処理する目ではない。


 何が起きたのか分からず、傷を見て、血を見て、恐怖する目。



 人間の目だった。



「……いや」



 小さな声だった。



 モモの左手が、肩に触れた。


 指先に血がつく。


 それを見た。


 そして、シンを見た。



 シンは一歩、前へ出かけた。



(戻れる)



 思ってしまった。



(モモはまだいる)



 希望が、生まれた。


 小さくて、弱くて、でも確かな希望だった。



 その希望があったから。


 次にそれが消える瞬間を、シンはまともに見てしまった。



 モモの瞳から、焦点が抜けた。



 肩の血を見ていた目が、何も見ない目に戻った。


 左手が落ちる。


 痛みが消える。


 人間の重さが消える。



「……優先度、変更」



 声が重なった。



「……修正続行」



 アサメが、息を吐いた。



 それだけだった。


 勝てないことを悟った息ではない。


 怯えでもない。


 ただ、次の一撃へ入るための息だった。



 その時。



 遠くで、角笛が鳴った。



 低い音だった。


 山にぶつかって、集落へ落ちてきた。



 子供たちの声が止まる。


 炉の周りの大人たちが、一斉に入口を見る。


 タダが動いた。


 大きな体が、子供たちのいる方へ半歩ずれた。



 霧の向こうから、影が来ていた。



 一人ではない。


 二人でもない。


 何十の影。


 その奥に、さらに影がある。



 足音は揃っているようで、揃っていない。


 革を巻いた足。


 裸足に近い足。


 木の板を踏む音。


 泥を潰す音。


 息の荒い者。


 低く祈りを唱える者。


 弓を持つ者。


 長い柄の武器を持つ者。


 木盾を構える者。


 鉄の短い甲を胸に付けた者は、ほんの一部だった。



 寄せ集めだ。


 でも、ばらばらではない。



 何か一本の見えない縄で、首を引かれているみたいに、全員が同じ方向を向いている。



 その一番奥に、白い装束が見えた。



 女だった。


 細い。


 白い布をまとっている。


 髪が乱れている。


 目は、こちらを見ていない。


 空を見ていた。


 いや、空に見られている顔だった。



「ミサネ様……」



 ハヤセの声がした。



 シンは振り向いた。



 霧の端に、ハヤセがいた。


 泥だらけだった。


 肩で息をしている。


 赤黒い装束は裂け、腕に血が滲んでいる。


 立っているのがやっとに見えた。



 その横に、ナギがいた。


 こちらもひどかった。


 頬が切れている。


 片足を引きずっている。


 それでも、目だけは死んでいなかった。



 二人とも、戻ってきた。


 戻ってきたのに、止められていない。



 その事実だけで、シンの腹が冷えた。



「ハヤセ!」



 シンが叫んだ。



「止めたんじゃないのか!」


「止めた!」



 ハヤセが叫び返した。


 声が割れていた。



「現場は止めた! 兵も引かせた! ミサネ様の前までは、話が通った!」



 ハヤセは奥歯を噛んだ。



「だが、上が見た」


「上……」


「俺たちが止めたからだ。流れを変えたから、見られた」



 空が、また白くなった。



 一瞬だけ。


 でも、さっきより濃い白だった。



 ミサネの口が開いていた。


 声が出ている。


 でも、ミサネが喋っているようには見えなかった。


 喉を、何かが通っていた。



「敵性集落、確認」


「白桃感情発生源、接近」


「山中敵性個体、再評価」



 声は女のものだった。


 でも、女の声ではなかった。


 ミサネの喉を通って、別の何かが喋っている。



 シンは、昨日ハヤセが言った名前を思い出した。



 タケミカヅチ。



 雷の神。


 見るもの。


 命を見つけ、数え、選び、消すもの。



「鬼女、確認」



 ミサネの口が、そう言った。



 アサメの目だけが動いた。


 怒らない。


 笑わない。


 ただ、モモから視線を外さない。



 山刀を握る手に、少しだけ力が入った。



 それが返事だった。



「白桃、討伐優先度変更」



 モモの首が、わずかに傾いた。


 人形の首が、糸で引かれたみたいに。



 ナギが、霧の向こうの兵を見た。



「……流れじゃない」



 声が震えていた。



「潮なら引く。これは引かない」



 ナギは歯を食いしばった。



「ただの濁流だ」



 その濁流が、集落へ入ってきた。



 叫び声は少ない。


 怒号も少ない。


 むしろ静かだった。


 静かなまま、踏み込んでくる。



 タダが前へ出た。



 大きな体が、子供たちの逃げ道をふさぐ敵の前に立った。


 武器を持った兵が二人、同時に来る。



 タダは棍棒を振り上げなかった。


 横へ払った。


 木盾ごと、一人を押し倒す。


 もう一人の腕を掴み、地面へ叩きつける。



 殺す動きではなかった。


 止める動きだった。



 でも、重い。



 倒れた兵が起き上がる前に、タダは次の兵の前へ出る。


 逃げ道を空ける。


 子供たちを背中の後ろへ通す。



 シンはそれを見た。



 タダはいつも、出口に立つ。



 肉を焼く時も。


 山道を歩く時も。


 誰かが怖がっている時も。


 今も。



 タダは、逃げる場所を作る男だった。



「水場じゃない!」



 ナギが叫んだ。



 泣いていなかった。


 顔は歪んでいる。


 声も震えている。


 でも、ちゃんと見ていた。



「そっちは詰まる! 煙が低い方へ行け! 谷へ降りるな、戻れなくなる!」



 子供の手を掴む。


 一人。


 二人。


 小さい子を、年上の子へ押しつける。



「二人ずつ! 手を離すな! 走るな、転ぶ! 火の明かりを見るな、目が寄る!」



 海人の声だった。


 舟の上で人を動かす声。


 潮の変わり目に、遅れる者を怒鳴る声。


 生きるための声だった。



 ナギはもう、流していなかった。


 流れを変えようとしていた。



 ハヤセも動いた。



「止まれ!」



 ヤマト兵の前に入る。


 命令する。


 肩を掴む。


 突き飛ばす。



「子供を追うな! 下がれ! 聞こえないのか!」



 聞こえていなかった。


 いや、聞こえている。


 でも、届いていない。



 兵たちの目は、時々白く光った。


 完全に操られているわけではない。


 恐怖もある。


 汗もある。


 迷いもある。



 それでも、足が前へ出る。


 上から引かれている。



「くそ……!」



 ハヤセが一人を殴った。


 倒す。


 その自分の手を見て、一瞬だけ苦い顔をした。


 それでも次を止めに行った。



 集落の中は、いくつもの動きに裂けていた。



 逃げる子供。


 止めるタダ。


 叫ぶナギ。


 押し返すハヤセ。


 白い霧の奥で、ミサネの声。


 そして。



 モモとアサメ。



 二人の周りだけ、別の場所みたいだった。



 火の粉が舞っている。


 炉の赤が薄桃の衣に映る。


 アサメの腕から落ちた血が、土に吸われていく。



 モモが動いた。



 さっきと違う。



 一撃目を知っている動きだった。


 アサメの沈み込みを読んでいる。


 灰で滑る角度を読んでいる。


 山刀の長さを読んでいる。



 アサメが半歩沈む。



 その場所に、もう刃があった。



 アサメは無理に体を捻った。


 脇腹を掠める。


 血が飛ぶ。



 それでも、山刀を返す。



 モモはそこにいなかった。



 ほんの少しだけ後ろへ下がっている。


 下がったというより、最初からそこに来ると決めていたみたいな位置だった。



 アサメの足が、土を噛む。



 次の石。


 次の根。


 次の灰。



 山を読む。



 でも、その読みの先に、白桃の刃が置かれていく。



 一度通じたものが、二度目には通じない。


 アサメが山の癖を使うたび、モモはその癖ごと覚えていく。



 正確さが、山を学んでいた。



 アサメの息が荒くなった。


 初めて、荒くなった。



 シンは走った。



 間に合わない。


 分かっていた。


 でも走った。



「アサメ!」



 叫んだ。



 アサメは振り返らなかった。


 振り返ったら死ぬ。


 だから振り返らなかった。



 でも、少しだけ笑った気がした。



 モモの刃が、低く来る。


 足を狙う。


 アサメは飛ばない。


 飛べば終わる。


 地面を離れた瞬間、この女は山ではなくなる。



 だから、踏んだ。



 切られる足で、さらに土を踏んだ。


 痛みごと、前へ出た。



 山刀が、モモの胸元へ届きかける。



 モモの目が、シンの方へ一瞬だけ動いた。



 本当に、一瞬。



 白桃ではない。


 モモだった。



 その一瞬で、刃の角度がわずかに狂った。



 アサメの山刀が、薄桃の衣を裂いた。


 深くはない。


 でも、血が出た。



「……シン」



 モモの声が漏れた。



 二重ではなかった。



 シンの足が止まりかけた。



 止まるな。


 そう思った。


 でも、止まりかけた。



 その遅れが、すべてだった。



 空が白くなった。



「白桃異常発生」


「感情介入、確認」


「修正優先度、最大化」



 ミサネの喉が、声を出した。



 その瞬間、モモの体から人間の揺れが消えた。



 次の一撃は、速さではなかった。


 正しさだった。



 アサメがどこへ踏むか。


 どこへ逃げるか。


 どこで痛みに耐えるか。


 どこでシンを庇うか。



 全部、先に置かれていた。



 一閃。



 音が、遅れて来た。



 アサメの体が傾いた。



 山が崩れる時のように、急ではなかった。


 大きなものが、ゆっくり重さを失う。


 膝が落ちる。


 山刀の先が土を削る。


 血が、火の明かりの中で黒く見えた。



「アサメ!」



 今度は声が出た。



 シンは走った。


 転びそうになりながら、アサメの前へ行った。



 モモが止まっていた。



 アサメを斬った瞬間。


 モモが止まっていた。



 刀が下がっている。


 肩が震えている。


 目に焦点が戻っている。



 自分の刃を見ていた。


 刃についた血を見ていた。


 倒れているアサメを見ていた。



「……いや」



 モモが言った。



 泣く寸前の声だった。


 でも、涙は出ていなかった。


 泣けない顔のまま、泣く寸前だった。



「違う」



 シンはアサメのそばに膝をついた。



 アサメはまだ息をしていた。


 浅い。


 でも、していた。



 山刀をまだ握っている。


 指が白い。


 離していない。



 シンを見た。



 目は、いつもの目だった。


 痛みの奥で、まだ山を読んでいる目。


 もう自分が助からないことを、先に読んだ目。



「……生きろ」



 かすれた声だった。


 でも、はっきり聞こえた。



「逃げろ」



 それだけだった。



 アサメらしい言葉だった。


 余分なものが、何もない。


 泣くなとも言わない。


 守れとも言わない。


 好きだとも言わない。



 ただ、命令した。



 生きろ。


 逃げろ。



 その二つが、シンの胸に刺さった。



 モモが、こちらを見ていた。



 泣きそうな目で。


 壊れかけた目で。


 自分が何をしたのか分かってしまった目で。



 シンは立ち上がった。



 何を考えていたか分からない。


 怒りだったのか。


 悲しみだったのか。


 モモを助けたかったのか。


 アサメを斬ったものを止めたかったのか。



 全部だった。



 シンはモモへ向かった。



 アサメを斬ったモノへ。


 モモへ。



「モモ」



 名前を呼んだ。



 モモの唇が震えた。



「シン、見ないで」



 その一言だけで、シンの足が止まった。



 見ないで。



 殺すなでも、逃げてでもない。


 見ないで。



 自分が壊れていくところを。


 誰かを斬ったところを。


 シンを殺すところを。



 見ないで。



 空が、白くなった。



 さっきまでの白ではない。


 集落全体を覆う白だった。


 炉の赤が消えていく。


 霧が消えていく。


 人の影が、薄くなる。



 ミサネの声が聞こえた。


 でも、ミサネの声ではなかった。



「白桃異常、再同期」


「重大誤差確認」


「感情発生源、排除」



 モモの目が変わった。



 泣きそうだった目が、固まる。


 焦点が消える。


 人間ではない目になる。



 シンは、それを見ていた。



 見ないでと言われたのに、見ていた。



 白が来た。



 刃ではなかった。


 モモの刀ではなかった。



 世界そのものが白くなった。



 見られた。



 シンは、そう思った。



 タケミカヅチが直接、こちらを見た。


 人としてではない。


 敵としてでもない。


 ただ、不要なものとして。



 数えられた。


 選ばれた。


 消される。



 熱が消えた。


 音が消えた。


 足の感覚が消えた。


 指先が消えた。


 輪郭が消えた。



 遠くで、タダが叫んでいた。


 ナギが子供を抱えて走っていた。


 ハヤセが兵を押し返していた。


 ミサネが空を見ていた。


 アサメが、土の上に倒れていた。



 全部が遠い。



 モモだけが、近かった。



 白の中で、モモの手が伸びた。



 刀を持つ手ではない。


 左手だった。


 細い手。


 震えている手。


 いつも、椀を受け取る時に少し迷う手。


 熱い汁に息を吹いた時の手。


 シンへ届かなかった手。



 その手が、また伸びていた。



 命令ではない。


 修正でもない。


 排除でもない。



 なら、何だ。



(愛まで)



 シンは、薄くなりながら思った。



(誤差なのか)



 モモの手は、届かなかった。



 白の中で、手だけが見えた。


 震えていた。


 泣いていた。


 泣けないまま、泣いていた。



 消えた。



 ――死んだ。




 暗転。



 息が入った。



 岩屋だった。



 小さい火。


 朝霧の匂い。


 雪解けの冷気。


 石の壁。



 アサメの体温が、そばにある。



 野薔薇の香りがした。



 全部、まだある。


 まだ失われていない。



 シンは長い間、動かなかった。



 炉の残り火が揺れている。


 虫が鳴いている。


 タダが外で薪を探している音がする。


 ナギが水を汲んでいる音がする。



 アサメが、隣で眠っている。


 肩が触れている。


 生きている。



 シンは、アサメの横顔を見た。



 眠っている顔だった。


 山のような顔ではなかった。


 今は、ただ眠っている人間の顔だった。


 息をしている。


 まぶたが少し動く。


 頬に朝の薄い光が乗っている。



 生きている。



(生きろ)


(逃げろ)



 その声が、まだ耳に残っていた。


 記憶の中のアサメの声が。



 シンは、ゆっくり息を吐いた。



 長い息だった。


 死ぬ時に奪われた息を、少しずつ取り戻すような息だった。



「……逃げる」



 小さく言った。



 誰にも聞こえない声だった。


 でも、言った。



 勝てない。


 戦えない。


 タケミカヅチには、人間の力では届かない。


 和睦も、偽情報も、足止めも、夜まで待てば全部遅い。



 アサメでも勝てなかった。


 タダでも全部は止められなかった。


 ナギが流れを変えても、ハヤセが兵を止めても、上から見られたら終わる。



 見られてからでは遅い。



 なら。



 見られる前に、動くしかない。



 戦ってからじゃない。


 話し合ってからじゃない。


 夜になってからじゃない。



 火ごと。


 名を呼ぶ者ごと。


 子供の笑い声ごと。


 アサメの野薔薇の匂いごと。



 ここにあるものを、ここから動かす。



 それは、山を捨てることではない。


 山を生きたまま運ぶことだ。



 シンはそう思った。


 そう思わなければ、立てなかった。



 アサメが、少し動いた。


 寝返りを打った。


 シンの肩に、額が触れた。



 まだ眠っていた。



 淡い野薔薇の香りがした。



 シンは動かなかった。


 そのまま、岩屋の天井を見ていた。



 小さな炉の火が、静かに揺れていた。



(第五十八話へ)

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