表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
56/62

タケミカヅチ

第五十六話 タケミカヅチ



「白い雷が来る」



 沢の水が流れていた。


 オキは動かない。


 胸へ置かれたアサメの髪だけが、風に揺れている。



「いつ」



 アサメが聞いた。



「炉へ戻った直後だ。日が山へ触れる前」


「どこから」


「分からない。尾根の向こうにモモがいた。遠すぎて、刀を抜いたかも見えなかった。でも、白いものが山を越えてきた」



 ナギが空を見た。


 日はまだ高い。


 木々の影も短い。



「同じ道で戻れば、間に合わないね」


「道を変えても来た」


「じゃあ、道を見てるんじゃない」



 ナギの目が、シンへ戻る。



「シンを見てる」



 胸の奥が冷えた。


 前の時代から、そうだった。


 モモはいつもシンの前へ現れた。


 逃げる道を変えても。


 隠れる場所を変えても。


 最後には見つけた。



「俺が集落へ戻らなければ」


「一人で残るつもりか」



 アサメの声が低くなる。



「違う。先にみんなを動かす。俺は別の場所から戻る」


「白いものが、お前を追って向きを変えたら?」


「それも分からない」



 分からないことが多すぎた。


 モモが何を見ているのか。


 タケミカヅチが、どこまでモモを使えるのか。


 人の目を通しているのか。


 名前を知れば届くのか。




 タケミカヅチ。


 聞き覚えはあった。


 何か、雷の神だった気がする。


 それ以上は出てこない。


 昔話で聞いたのか。


 授業で名前だけ覚えたのか。


 漫画か何かに出てきたのかもしれない。


 どれも分からなかった。


 自分が何者だったかは何一つ残っていない。


 残っている知識も、いつ、どこで覚えたものなのかまでは教えてくれない。



 ただ、その名の一部には聞き覚えがあった。


 ミカヅチ。


 コトたちと暮らした北の火で、何度も聞いた名だ。



 最初にその名を口にしたのは、タケヒコだった。


 南の大きな火へ、北の小さな火を入れようとした男。


 小さな火はばらばらに残すより、一つへ寄せた方が多くを生かせる。本気でそう信じていた男。



 その男が、自分の上にも声があると言った。


 雷の御名を聞く者たちが、その声を南へ流しているのだと。



『ミカヅチ』



 当時のシンに分かったのは、雷の名だということだけだった。


 白い雷は、カガチの判断を曲げ、モモの声に別の音を重ね、傷を負った人間を痛みより早く立たせた。



 タケヒコは、それを神として崇めていたのではない。


 下品で、荒く、人の腹も順番も見ない力だと分かっていた。


 それでも人を同じ方へ向けられるから、使った。



 その時、シンは死んだ。



 ミカヅチ。


 タケミカヅチ。


 同じものかは、まだ分からない。


 ただ、同じ白が動いている。


 今度は南の列だけではない。


 ミサネの口と、モモの目と手へ繋がろうとしている。




「シン」



 小さな声がした。


 ミコが赤い石を握ったまま、シンを見ている。



「その時、私もいたの?」



 ミコは、シンが先ほど話した白い光のことを聞いていた。


 あの白いものが炉の集落へ来た時、誰がそこにいたのか。


 ミコはそれを聞いている。



「いた」



 シンは答えた。



「白いのが来て、私も消えた?」


「俺には、そう見えた」



 ミコは自分の腕を見る。


 指を動かす。


 赤い石を握り直す。



「でも、私は覚えてない」



 ミコが覚えているのは、オキと根の下に隠れ、シンたちに見つけられ、今ここにいるまでのことだ。


 オキの最後の声。


 止まった呼吸。


 炉の集落が白に消えた時間を覚えているのは、シン一人だった。



「覚えているのは、俺だけだ」



 ミコはオキを見る。


 泣かなかった。


 分かった顔もしなかった。


 ただ、赤い石をオキの胸へもう一度置いた。



「オキは、白いのより前に死んだの」



「そうだ」


「じゃあ、戻らない?」



 オキが残した言葉。


 焼けた家の名。


 死んだ者の名。


 道の名。



「戻らない」



「俺が死んでも、今はオキが死んだ後へ戻る」



 シンが死ねばオキが戻る、という意味でもない。


 次もまた、この死の後へ戻る。



 ミコは頷かなかった。


 それでも、赤い石を拾った。



「じゃあ、覚える」



 短く言った。



「みんなの名前」



 ナギが目を伏せた。


 手は、腰の袋の上にあった。


 その中には、欠けた青い勾玉がある。


 鬼の島で、子供を抱いていた女が持っていたもの。


 母が持っていたものと同じ、海の青だった。



 白桃が斬り、ヤマトが焼いた。


 自分が見たものを手放せば、本当に消える。



「ナギ」



 アサメが呼んだ。



「何?」


「イヌを呼ぶ合図は、ここからでも送れるか」



 ナギが木々の間から尾根を見る。


 川下へ開いた場所。


 煙なら、風に押されても見える。



「送れる。濡れた枝が要る」


「何と伝える」


「会いたい、くらいかな。煙だけで長い話はできないよ」



「罠ではないと分かるのか」


 タダが聞いた。



「分からない」


「なら、来ないかもしれない」


「来るよ」



 ナギは腰の袋から火打石を出した。



「イヌは、呼ばれたら来る」



 その言い方が、シンには少し悲しく聞こえた。




 枯れた杉葉へ火を移す。


 乾いた枝を重ね、その上へ濡れた葉を置く。


 白い煙が上がった。


 ナギは枝で煙を一度切る。


 少し待ち、もう一つ煙を上げる。


 同じ長さではない。


 決められた言葉でもない。


 昔、同じ舟に乗った者だけが気づく、二つの煙だった。



「これで来る?」



 ミコが聞く。



「気づけばね」


「気づかなかったら」


「その時は、鳥になる」



 ナギは唇へ指を当てた。


 細く息を吸う。



 ケン。



 山鳥に似た声が、沢を越えた。


 少し間を置いて、もう一度。



 ケン。



 返事はなかった。



「先にミコを戻す」



 アサメが言った。



「タダ。炭焼きの古道を使え。集落へ入る前に、子供と年寄りを西の岩場へ移せ」


「アサメは」


「ここで待つ」


「俺も待つ」


「お前はミコを運べ」



 タダの顔が険しくなる。



「俺だけか」


「お前だから頼む」



 アサメはタダの目を見る。



「着くまで、この子を地面へ下ろすな」



 タダは何も言わなかった。


 やがて、ミコへ背を向けてしゃがむ。



「乗れ」



 ミコが背へ腕を回した。


 赤い石は手に持ったままだった。



「オキは」


 タダが聞いた。



「あとで迎えに来る」


 アサメが答えた。


「必ず」



 前の周では言えなかった言葉だった。


 今度は、戻る場所がここにある。


 オキの体をどこへ置いたかも覚えている。



 タダとミコが斜面へ消えた。


 足音が聞こえなくなるまで、三人は見送った。



「アサメ」



 ナギが呼んだ。



「何だ」


「俺を、まだ歩かせるの?」


「歩けないのか」


「そうじゃない」



 ナギは消えかけた火を枝で崩した。


 煙が細くなる。



「俺がいない方が、みんな安心するんじゃない?」


「誰が決めた」


「俺なら、そう思う」


「お前の考えを、みんなの考えにするな」



 ナギの指が止まった。



「許すとは言っていない」


 アサメは続けた。


「オキは死んだ。お前が道を渡した相手に追われ、ミコを守って死んだ」


「分かってる」


「分かっているなら、死ぬ方へ逃げるな」



 昨夜と同じ言葉だった。


 ナギは苦そうに笑った。



「山の人は、逃げるのを許さないね」


「逃げるなら、生きる方へ逃げろ」



 沢の水が石へ当たる。


 同じ場所に留まらず、下へ流れていく。



「海は、誰のものでもない」



 ナギが言った。



「だから俺は、道を渡しても海を売ったことにはならないって思ってた」


「山も、誰のものでもない」


「うん」


「だが、山で生きる者はいる」



 アサメは沢の下流を見る。



「お前は海を売っていない」


「優しいね」


「海の上で生きる者を売った」



 ナギの笑みが消えた。



「全然、優しくない」


「優しく言えば、死んだ者が戻るのか」


「戻らない」


「なら、戻らない者の分まで覚えろ」



 ミコが握っていた赤い石。


 オキの最後の息。


 鬼と呼ばれた島の人々。



「名を呼ぶ者がいなければ、名も死ぬ」


 ナギが言った。



「母さんは、勝った者は名前を一つにしたがるって言ってた」


「一つに?」


「負けた者は、名前を増やす。海へ降れば海の名。山へ入れば山の名。土地を追われても、歌になれば歌の名。そうやって残るんだって」


「それが、お前のやり方か」


「そうしたかった」



 ナギは笑えなかった。



「勝たない。逆らわない。強い方の船に乗って、見たものを覚える。消された名を、どこかへ流す。そうすれば、俺は勝つ側にならずに残せると思った」


「残せたか」



 ナギは答えなかった。


 桃が鬼を討ったという話なら残る。


 イヌも、サルも、キジも桃に従ったという形で残る。


 だが、島の名も、女の名も、あの日の歌も残せていない。


 道を渡した手だけが、今も残っている。



「残したのは、勝った者の話だった」



 ナギは、自分で言った。



「キジという役はやめる」



 アサメの目が細くなる。



「役だけか」


「鬼の島で鳴いた鳥まで、消したくない」


「どういう鳥だ」


「桃に従った鳥じゃない」



 ナギは顔を上げた。



「鬼の側で、子供に逃げろって鳴いた鳥」



 沢の下にも、まだ捕らえられた人々がいる。


 鬼の名は与えられていない。


 だから、今なら間に合う。



「これから渡す道は、俺が決める」


「誰のために」


「売るためじゃない」



 ナギは、沢の下を見た。



「名を残すために、先に人を残す」



 アサメは頷かなかった。


 許したとも言わなかった。



「なら、歩け」



 それだけ言った。




 鳥が鳴いた。


 本物の鳥ではない。


 沢の下から、一度。


 少し間を置いて、もう一度。



 ケン。



 ナギが立ち上がった。



「来た」



 木々の間から、男が一人現れた。


 細身の体。


 肩から腕へ巻いた布には、まだ乾いていない血がついている。


 腰の剣へ手を置いたまま、足音を殺して近づいてくる。



「止まれ」



 ハヤセが言った。



「手を見せろ」



 ナギが両手を開いた。


 アサメは動かない。


 ハヤセの視線が、二人の手と腰へ一度ずつ落ちる。



「何の合図だ」


「話したいって合図」


「話せ」



 乾いた声だった。


 呼ばれた理由も、相手を信じているかも聞かない。


 必要な言葉だけを求めている。



「林で待っていただろ」


 シンが言った。


「なぜ知っている」


「一度、あそこへ入った。赤い石の罠に掛かって、槍で刺された」


「傷は」


「今はない」



 ハヤセの目が、シンの肋の下へ落ちる。


 そこに傷はない。


 体だけが、まだ槍を覚えている。



「死んで、朝へ戻った」



 ハヤセの手が、剣の柄を握り直した。



「戯言なら帰る」


「『子供は餌じゃない』と怒鳴った。その後、角笛を短く鳴らした。振り返った者も、止まらない者もいた」



 ハヤセの目が細くなる。



「誰に聞いた」


「誰にも」


「キジか」


「俺は林に入ってないよ」



 ナギは開いた手をそのままにしている。



「信じろと?」


「信じなくていい。次を止めたい」



 ハヤセはしばらくシンを見ていた。


 信じた顔ではない。


 信じるかどうかの答えを、今ここで出すつもりもない。



「その話は保留だ」


 剣の柄から手を離す。


「見たものを言え」



「ミコを連れて炉へ戻った。空が白くなった。尾根にモモがいた」


「モモは、お前を見たか」


「分からない」



 ハヤセの表情が硬くなった。



「白いものは、ミサネを通って出ている」


「ミサネがいるのか」


「いる。だが、ずっと同じではない」



「タケミカヅチ」



 シンがその名を置くと、ハヤセの目が止まった。



「どこで聞いた」


「モモが言った。俺が前にいた山では、南の者たちがミカヅチと呼んでいた」


「ヤマトは、使える神を残す」



 ハヤセの声に敬いはなかった。



「ミカヅチとタケミカヅチは、同じものなのか」


「おそらく、な」



 ハヤセは、言葉を選ぶように一度間を置いた。



「兵を従える雷の力。一つの命令、それだけ分かればいい。神託を扱う者は、タケミカヅチと呼ぶ。大王の近くでは、土地と人を従える、天から下る意思だと教えられる」


「本当に神なのか」


「知らん」



 ハヤセは即答した。



「名を知っている者も、声を運ぶ者も、その顔は見ていない。神でも、神の名を使う何かでも、俺たちに来るものは同じだ」


「何が来る」


「命令だ」


 ハヤセはミサネのいる方角へ目を向けた。



「神託として降りる。ミサネが聞き、人へ伝える。俺たちは従う。それだけだった」


「だった?」


「今までは、ミサネの言葉に間があった。聞いて、考えて、自分の口で言い直していた」



 沢の流れが石へ当たった。


 同じ音を繰り返す。



「今は違う。問い掛ける前に答える。誰も見ていない場所を知っている。ミサネが知らない兵の傷も、山の道も、白桃が見たものも」


「モモの目と繋がってる?」


「そうとしか思えない」



 シンの中で、離れていたものが一本の線になった。


 ミサネは、声を人へ渡す口。


 白桃は、見つけたものを斬る手。


 その口と手を同時に使うもの。



 タケミカヅチ。



 神なのか、神の名を使う何かなのかは分からない。


 だが、見たことは残っている。


 前の時代では、タケヒコとカガチの命令の上から白が入り、人の足と声を別の方向へ揃えた。


 今は、ミサネの口を奪い、モモの目で見て、モモの手で斬ろうとしている。


 人の口と目と手へ入り込み、人が決めた流れを内側から書き換える。


 名と時代は違っても、あの白がすることは同じだった。



 ハヤセが沢の水を手ですくう。


 口をすすぎ、血の混じった唾を吐いた。



「朝までの命令は捕縛だ。鉄を押さえ、長を連れていく。従わない者だけ斬る」


「それで、家を焼いた」


 アサメの声が冷える。


「着いた時には燃えていた」


「言い訳か」


「言い訳だ」



 ハヤセは目を逸らさなかった。



「ミサネが一度倒れた。その後、立ち方が変わった」


「立ち方?」


「人は立つ時、どこかを庇う。疲れた足。古い傷。寒さ。だが、あれには何もなかった」



 モモと同じだった。


 無駄のない姿勢。


 痛みを持つ体を、痛みのないものが使う立ち方。



「声も違った。道の確保より、観測する男を消せと言った」



 ハヤセがシンを見る。



「お前だ」



 人の狩りではない。


 鉄でも、土地でも、服従でもない。


 シン一人を消すために、流れが変わった。



「捕らえられた人は」


「生きている」


「何人」


「歩けるのが七人。二人は運ばないと動けない」


「子供は」


「いない。ミコだけ逃げたと聞いた」



 オキが守ったからだ。



「返してくれ」



 シンが言った。



「俺一人では出せない」


「もう命令に逆らった」


「子供を餌にする命令は受けていない」


「捕らえた人を殺す命令も受けてないだろ」



 ハヤセの顎が動く。


 奥歯を噛んでいた。



「ミサネは、何て言ってる」


「何も」


「話せないのか」


「時々、戻る」



 ハヤセの声が少しだけ低くなった。



「戻ると、逃がせと言う」


「誰を」


「全員だ」



 ミサネも、自分の口から出た神託に抗っている。


 完全に消えたわけではない。



「モモは」



 シンは聞いた。



「何か言ってたか」


「名前を呼んでいた」


「誰の」


「お前の」



 風が沢を抜けた。


 濡れた衣が肌へ張りつく。



「白桃の時にか」


「分からない。幕の奥で一人だった。シンと、それだけ言った」



 シンは目を閉じた。


 鹿肉を受け取った指。


 遊びを見ていた目。


 白い光の向こうで、逃げてと動いた唇。



 まだいる。


 白桃の中に、モモがいる。



「ハヤセ」



 ナギが呼んだ。



「捕虜を移す話、作れる?」


「作れる」


「川下。白桃が山へ入るなら、邪魔になるって言えばいい」


「白桃の進路から外すと言う。見張りは二人だ」


「一人は俺が道を間違える。もう一人は君が何とかして」


「キジの仕事か」



 ナギは少し笑った。



「ヤマトの役は、もうやめた」



 ハヤセがナギを見る。


 驚きは短かった。



「役は、やめられるのか」


「今、試してるところ」


「殺されるぞ」


「知ってる」



「お前も来い」


 シンがハヤセへ言った。



「捕虜を逃がしたら、そのまま戻るな」


「戻る」


「なぜ」


「ミサネとモモがいる」



 ハヤセは二人の名を、役目ではなく呼んだ。



「置いていかない」


「置いていけば、死なずに済む」


「知っている」



 短い言葉だった。


 シンには、返す言葉がなかった。


 モモを置いて逃げろと言われても、自分も同じ答えを出す。



「俺はまだイヌだ」



 ハヤセは言った。



「呼ばれた場所へ戻る。誰を噛むかは俺が決める」



 ナギが立ち上がる。



「じゃあ行こうか」


「今から?」


「日が落ちたら白いのが来る。のんびりしてる時間、ないでしょ」



 ハヤセが先に林へ入った。


 ナギが続く。



「ナギ」



 シンが呼び止める。


 ナギは振り返った。



「戻ってこい」


「努力するよ」


「軽いな」


「重く言えば、戻りやすくなる?」



 いつものナギの声だった。


 だが、笑みは薄かった。



「戻る」



 今度は、はっきり言った。


 二人の姿が木々の間へ消えた。




 日が西へ傾いた。



 シンとアサメは、炭焼きの古道から炉の集落へ戻った。


 煙は上げていない。


 炉の火も灰で覆われ、赤だけを内側へ隠している。



 家の前に人はいなかった。


 子供と年寄りは西の岩場へ移した。


 歩ける者は荷をまとめ、弓と槍を持って林へ散っている。



 ミコは炉のそばにいた。


 トン、チン、カンと一緒に、小さな布へ石を並べている。


 白。


 黒。


 緑。


 赤。



「何してる」



 シンが聞く。



「名前を決めてる」


 ミコが答えた。


「これは、オキの家」



 赤い石を指す。



「これは水を汲む道。これは鉄を置いた小屋。これは、父さんを流した川」



 一つずつ、石へ名前を置いている。


 子供の遊びに見えた。


 だが、焼けた集落の地図だった。


 失われたものを、もう一度呼ぶための地図。



「覚えられるか」


 シンが聞く。



「私が忘れても、三人が覚える」


「俺も覚える!」


 トンが言う。


「俺も」


 チンが続く。


「もう覚えた」


 カンが言った。



 ミコは少しだけ頷いた。



 アサメが集落の外を見る。


 日はまだ山へ触れていない。


 前の周で白いものが来た時刻まで、長くはなかった。



「来ると思うか」


 アサメが聞く。



「分からない」


「また、それか」


「でも、来るつもりで動く」



 シンは炉の外へ立つ。


 集落へ入る道を見渡す。


 桃の匂いはしない。


 白い光もない。



「シン」



 アサメが隣へ来た。



「お前が言ったことを、全部信じたわけではない」


「分かってる」


「死んで戻ることも、白い雷も、アタシには見えない」


「ああ」


「だが、お前が怯えているのは分かる」



 アサメの手が、シンの肋の下へ触れた。


 槍が入った場所。


 傷はない。



「ここか」


「そこ」


「まだ痛むか」


「触られると」



 アサメが手を離す。



「悪い」


「いや」



 離れた手の温度だけが残った。



「今度は、死ぬ前に言え」


「何を」


「怖いと」



 シンは答えようとした。


 林で枝が鳴った。



 アサメが山刀へ手を掛ける。


 シンも身構えた。



「待って!」



 ナギの声だった。



 木々の間から、人が出てくる。


 一人。


 二人。


 さらに続く。



 手を縛っていた縄は切られている。


 歩けない二人は、枝と衣で作った担架へ乗せられていた。


 顔には泥と煤がつき、腕や頭へ布を巻いている。


 それでも、生きていた。



「みんな」



 ミコが立ち上がった。


 石が布の上で転がる。



 戻ってきた者たちがミコを見る。


 最初は、誰も動かなかった。


 見間違いではないか確かめるように、小さな姿を見ていた。



「ミコ」



 一人が呼んだ。


 それを合図に、全員の顔が崩れた。



 ミコが走る。


 生き残った者たちの中へ飛び込む。


 幾つもの手が、頭と背中へ触れた。



「オキは」



 誰かが聞いた。


 ミコは顔を伏せた。



「死んだ」



 同じ言葉を、今度も自分で言った。



「私を隠して、死んだ」



 戻った者たちは泣かなかった。


 泣く力が残っていない者もいた。


 ただ、一人ずつ目を閉じた。


 オキの名を胸の中で呼んでいた。



 ナギが最後に林から出た。


 頬が腫れている。


 口の端に血があった。



「ハヤセは」


 シンが聞く。



「戻った」


「ヤマトへ?」


「うん。見張りを一人殴って、もう一人には蹴られてた」


「それで、その顔か」


「俺も少し手伝ったからね」



 ナギは笑った。


 痛みで、すぐ顔を歪めた。



「見つかる」


 アサメが言った。



「もう見つかってると思う」


 ナギの笑みが消える。


「ハヤセが別の道へ連れていった。でも、長くは持たない」



「今夜、動かす」



 アサメが決めた。



「歩けない者を先に岩場へ。食べ物は持てる分だけ。炉は消さない。灰の中へ火を残す」


「戻るのか」


 シンが聞く。


「戻る場所を残す」



 逃げると決めたわけではない。


 戦うと決めたわけでもない。


 今夜を生きるために、人を散らす。



 タダが担架を持ち上げた。


 炉の者たちが、戻った人々へ水と食べ物を渡す。


 子供たちは石を布ごと包んだ。



 日が山へ触れた。



 前の周では、その直前に白い雷が来た。


 シンは空を見る。



 白くならない。



 風が吹く。


 木々が揺れる。


 鳥が一羽、尾根を越える。



 何も起きない。



 息を吐いた。


 胸に溜めていたものが、少しだけ外へ出る。



「変わった」



 シンが言った。



「何が?」


 ナギが聞く。



「前は、もう白くなってた」


「じゃあ、成功?」


「分からない」


「そればっかりだね」



 ナギが少し笑った。


 今度は、顔を歪めなかった。



 夜が来る。


 炉へ火を戻した。


 大きくはしない。


 戻ってきた者へ温かい汁を渡すための火だった。



 ミコは椀を両手で持ち、一口ずつ飲んだ。


 トン、チン、カンは隣に座っている。


 誰も遊ばなかった。


 誰も離れなかった。



 シンは火の外へ座った。


 モモがいつもいた場所だった。


 地面には、乾いた桃の種が一つ落ちている。


 いつからあったのか分からない。



 拾い上げる。


 硬い。


 掌の中で、赤い石とは違う重さがあった。



 桃太郎。


 桃から生まれ、イヌとサルとキジを連れ、鬼を討伐するもの。


 正しい者として残った名前。


 誰に聞いた話かは思い出せない。


 どこで覚えたのかもない。


 それでも、話だけは知っていた。



 白桃。


 人の道を奪った後、最後に入る者。


 モモから、人の名前を奪う役目。



「モモ」



 声に出した。


 返事はない。



「聞こえてるなら、そっちじゃない」



 誰へ言っているのか、自分でも分からなかった。


 山の向こうにいる少女か。


 その内側へ沈んでいるものか。


 話の中で英雄になった白桃か。



「お前の名前は、そっちじゃない」



 桃の種を握る。



「モモだ」




 甘い匂いがした。



 シンは顔を上げた。


 炉の煙。


 煮た根菜。


 濡れた毛皮。


 そのどれでもない。



 桃。



 火の向こうで、アサメが立った。


 タダも汁の椀を置く。


 ナギの目から笑みが消えた。



 足音はしなかった。


 人の気配もなかった。


 それでも、集落の外に誰かいる。



 白に近い薄桃色の衣。


 長い黒髪。


 左の低い位置で結ばれた髪に、桃の飾りがある。


 右手には、鞘へ収まったままの刀。フツ。



 モモが立っていた。



 炉の輪の外。


 以前と同じ場所。


 だが、以前と同じではなかった。



 背筋が真っ直ぐすぎる。


 呼吸が浅すぎる。


 瞬きの間が同じすぎる。



 人が立っているのではない。


 人の形を、何かが正しく置いている。



「モモ」



 シンが呼んだ。


 モモの瞳が動いた。


 ほんの少しだけ。



「……シン」



 声がした。


 小さい。


 確かにモモの声だった。



 シンが一歩進む。


 モモの指が動いた。


 刀から離れようとした。



「観測対象を確認」



 別の声が重なった。


 同じ口から出ている。


 高さも音も同じなのに、モモの声ではなかった。



「タケミカヅチ」



 シンが呼んだ。


 返事はない。


 モモの瞳も動かなかった。


 名を呼ばれて振り向くものではない。


 モモの口を使っていても、その声は人の輪の外にある。



 指が鞘へ戻る。


 シンの足が止まった。



「モモ。俺を見ろ」


「見てる」


「白桃じゃない。モモだ」


「……モモ」



 自分の名を確かめるように、唇が動いた。



「そうだ」


「シン」


「ここにいる」



 モモの目が揺れた。


 火を見た。


 汁を飲むミコを見た。


 石を抱えた子供たちを見た。


 最後に、シンへ戻る。



 フツを握る指から、わずかに力が抜けた。



「逃げて」



 モモが言った。



「どこへ」


「わからない」


「行ったら、みんなはどうなる」



 モモは答えない。


 答えられないのかもしれない。



「捕らえられた人は戻した。誰も戦ってない」


「関係、ない」


「ある」


「ない」



 声が二つにずれる。


 一つはシンに生きてほしいと願う。


 もう一つは、シンの存在を抹消しようと動く。


 モモと、タケミカヅチ。


 一つの口から、別の意思が同時にシンを呼んでいた。



「俺は行かない」



 シンが言った。



「モモも、こっちへ来い」



 モモの肩が動いた。


 一歩。


 こちらへ出ようとした。



 鞘の中で、刃が鳴った。



 モモの体が止まる。


 目から温度が消えた。



 アサメがシンの前へ出た。



「下がれ」


「でも」


「今、お前が近づけば、あいつは刀を抜く」



 アサメは山刀を抜かなかった。


 両手を下げたまま、モモとシンの間へ立つ。



「その名で、こいつを見るな」



 モモの視線が、初めてシンから外れた。


 アサメへ向く。



「誰」


「アサメだ」


「否」



 モモの右手が、刀の柄を握った。



「敵性個体」



 モモが選んだ言葉ではない。


 タケミカヅチが、アサメへ与えた役だった。


 名を剥がし、斬る理由だけを残す。



 鯉口が切られる。


 桃の匂いへ、鉄の匂いが混じった。



「認定、鬼女」



 刃が抜かれた。



(第五十七話へ)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ