タケミカヅチ
第五十六話 タケミカヅチ
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「白い雷が来る」
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沢の水が流れていた。
オキは動かない。
胸へ置かれたアサメの髪だけが、風に揺れている。
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「いつ」
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アサメが聞いた。
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「炉へ戻った直後だ。日が山へ触れる前」
「どこから」
「分からない。尾根の向こうにモモがいた。遠すぎて、刀を抜いたかも見えなかった。でも、白いものが山を越えてきた」
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ナギが空を見た。
日はまだ高い。
木々の影も短い。
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「同じ道で戻れば、間に合わないね」
「道を変えても来た」
「じゃあ、道を見てるんじゃない」
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ナギの目が、シンへ戻る。
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「シンを見てる」
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胸の奥が冷えた。
前の時代から、そうだった。
モモはいつもシンの前へ現れた。
逃げる道を変えても。
隠れる場所を変えても。
最後には見つけた。
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「俺が集落へ戻らなければ」
「一人で残るつもりか」
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アサメの声が低くなる。
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「違う。先にみんなを動かす。俺は別の場所から戻る」
「白いものが、お前を追って向きを変えたら?」
「それも分からない」
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分からないことが多すぎた。
モモが何を見ているのか。
タケミカヅチが、どこまでモモを使えるのか。
人の目を通しているのか。
名前を知れば届くのか。
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タケミカヅチ。
聞き覚えはあった。
何か、雷の神だった気がする。
それ以上は出てこない。
昔話で聞いたのか。
授業で名前だけ覚えたのか。
漫画か何かに出てきたのかもしれない。
どれも分からなかった。
自分が何者だったかは何一つ残っていない。
残っている知識も、いつ、どこで覚えたものなのかまでは教えてくれない。
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ただ、その名の一部には聞き覚えがあった。
ミカヅチ。
コトたちと暮らした北の火で、何度も聞いた名だ。
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最初にその名を口にしたのは、タケヒコだった。
南の大きな火へ、北の小さな火を入れようとした男。
小さな火はばらばらに残すより、一つへ寄せた方が多くを生かせる。本気でそう信じていた男。
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その男が、自分の上にも声があると言った。
雷の御名を聞く者たちが、その声を南へ流しているのだと。
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『ミカヅチ』
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当時のシンに分かったのは、雷の名だということだけだった。
白い雷は、カガチの判断を曲げ、モモの声に別の音を重ね、傷を負った人間を痛みより早く立たせた。
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タケヒコは、それを神として崇めていたのではない。
下品で、荒く、人の腹も順番も見ない力だと分かっていた。
それでも人を同じ方へ向けられるから、使った。
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その時、シンは死んだ。
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ミカヅチ。
タケミカヅチ。
同じものかは、まだ分からない。
ただ、同じ白が動いている。
今度は南の列だけではない。
ミサネの口と、モモの目と手へ繋がろうとしている。
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「シン」
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小さな声がした。
ミコが赤い石を握ったまま、シンを見ている。
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「その時、私もいたの?」
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ミコは、シンが先ほど話した白い光のことを聞いていた。
あの白いものが炉の集落へ来た時、誰がそこにいたのか。
ミコはそれを聞いている。
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「いた」
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シンは答えた。
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「白いのが来て、私も消えた?」
「俺には、そう見えた」
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ミコは自分の腕を見る。
指を動かす。
赤い石を握り直す。
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「でも、私は覚えてない」
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ミコが覚えているのは、オキと根の下に隠れ、シンたちに見つけられ、今ここにいるまでのことだ。
オキの最後の声。
止まった呼吸。
炉の集落が白に消えた時間を覚えているのは、シン一人だった。
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「覚えているのは、俺だけだ」
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ミコはオキを見る。
泣かなかった。
分かった顔もしなかった。
ただ、赤い石をオキの胸へもう一度置いた。
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「オキは、白いのより前に死んだの」
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「そうだ」
「じゃあ、戻らない?」
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オキが残した言葉。
焼けた家の名。
死んだ者の名。
道の名。
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「戻らない」
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「俺が死んでも、今はオキが死んだ後へ戻る」
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シンが死ねばオキが戻る、という意味でもない。
次もまた、この死の後へ戻る。
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ミコは頷かなかった。
それでも、赤い石を拾った。
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「じゃあ、覚える」
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短く言った。
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「みんなの名前」
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ナギが目を伏せた。
手は、腰の袋の上にあった。
その中には、欠けた青い勾玉がある。
鬼の島で、子供を抱いていた女が持っていたもの。
母が持っていたものと同じ、海の青だった。
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白桃が斬り、ヤマトが焼いた。
自分が見たものを手放せば、本当に消える。
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「ナギ」
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アサメが呼んだ。
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「何?」
「イヌを呼ぶ合図は、ここからでも送れるか」
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ナギが木々の間から尾根を見る。
川下へ開いた場所。
煙なら、風に押されても見える。
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「送れる。濡れた枝が要る」
「何と伝える」
「会いたい、くらいかな。煙だけで長い話はできないよ」
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「罠ではないと分かるのか」
タダが聞いた。
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「分からない」
「なら、来ないかもしれない」
「来るよ」
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ナギは腰の袋から火打石を出した。
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「イヌは、呼ばれたら来る」
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その言い方が、シンには少し悲しく聞こえた。
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枯れた杉葉へ火を移す。
乾いた枝を重ね、その上へ濡れた葉を置く。
白い煙が上がった。
ナギは枝で煙を一度切る。
少し待ち、もう一つ煙を上げる。
同じ長さではない。
決められた言葉でもない。
昔、同じ舟に乗った者だけが気づく、二つの煙だった。
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「これで来る?」
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ミコが聞く。
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「気づけばね」
「気づかなかったら」
「その時は、鳥になる」
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ナギは唇へ指を当てた。
細く息を吸う。
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ケン。
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山鳥に似た声が、沢を越えた。
少し間を置いて、もう一度。
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ケン。
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返事はなかった。
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「先にミコを戻す」
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アサメが言った。
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「タダ。炭焼きの古道を使え。集落へ入る前に、子供と年寄りを西の岩場へ移せ」
「アサメは」
「ここで待つ」
「俺も待つ」
「お前はミコを運べ」
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タダの顔が険しくなる。
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「俺だけか」
「お前だから頼む」
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アサメはタダの目を見る。
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「着くまで、この子を地面へ下ろすな」
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タダは何も言わなかった。
やがて、ミコへ背を向けてしゃがむ。
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「乗れ」
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ミコが背へ腕を回した。
赤い石は手に持ったままだった。
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「オキは」
タダが聞いた。
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「あとで迎えに来る」
アサメが答えた。
「必ず」
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前の周では言えなかった言葉だった。
今度は、戻る場所がここにある。
オキの体をどこへ置いたかも覚えている。
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タダとミコが斜面へ消えた。
足音が聞こえなくなるまで、三人は見送った。
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「アサメ」
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ナギが呼んだ。
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「何だ」
「俺を、まだ歩かせるの?」
「歩けないのか」
「そうじゃない」
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ナギは消えかけた火を枝で崩した。
煙が細くなる。
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「俺がいない方が、みんな安心するんじゃない?」
「誰が決めた」
「俺なら、そう思う」
「お前の考えを、みんなの考えにするな」
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ナギの指が止まった。
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「許すとは言っていない」
アサメは続けた。
「オキは死んだ。お前が道を渡した相手に追われ、ミコを守って死んだ」
「分かってる」
「分かっているなら、死ぬ方へ逃げるな」
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昨夜と同じ言葉だった。
ナギは苦そうに笑った。
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「山の人は、逃げるのを許さないね」
「逃げるなら、生きる方へ逃げろ」
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沢の水が石へ当たる。
同じ場所に留まらず、下へ流れていく。
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「海は、誰のものでもない」
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ナギが言った。
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「だから俺は、道を渡しても海を売ったことにはならないって思ってた」
「山も、誰のものでもない」
「うん」
「だが、山で生きる者はいる」
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アサメは沢の下流を見る。
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「お前は海を売っていない」
「優しいね」
「海の上で生きる者を売った」
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ナギの笑みが消えた。
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「全然、優しくない」
「優しく言えば、死んだ者が戻るのか」
「戻らない」
「なら、戻らない者の分まで覚えろ」
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ミコが握っていた赤い石。
オキの最後の息。
鬼と呼ばれた島の人々。
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「名を呼ぶ者がいなければ、名も死ぬ」
ナギが言った。
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「母さんは、勝った者は名前を一つにしたがるって言ってた」
「一つに?」
「負けた者は、名前を増やす。海へ降れば海の名。山へ入れば山の名。土地を追われても、歌になれば歌の名。そうやって残るんだって」
「それが、お前のやり方か」
「そうしたかった」
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ナギは笑えなかった。
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「勝たない。逆らわない。強い方の船に乗って、見たものを覚える。消された名を、どこかへ流す。そうすれば、俺は勝つ側にならずに残せると思った」
「残せたか」
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ナギは答えなかった。
桃が鬼を討ったという話なら残る。
イヌも、サルも、キジも桃に従ったという形で残る。
だが、島の名も、女の名も、あの日の歌も残せていない。
道を渡した手だけが、今も残っている。
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「残したのは、勝った者の話だった」
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ナギは、自分で言った。
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「キジという役はやめる」
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アサメの目が細くなる。
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「役だけか」
「鬼の島で鳴いた鳥まで、消したくない」
「どういう鳥だ」
「桃に従った鳥じゃない」
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ナギは顔を上げた。
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「鬼の側で、子供に逃げろって鳴いた鳥」
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沢の下にも、まだ捕らえられた人々がいる。
鬼の名は与えられていない。
だから、今なら間に合う。
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「これから渡す道は、俺が決める」
「誰のために」
「売るためじゃない」
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ナギは、沢の下を見た。
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「名を残すために、先に人を残す」
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アサメは頷かなかった。
許したとも言わなかった。
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「なら、歩け」
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それだけ言った。
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鳥が鳴いた。
本物の鳥ではない。
沢の下から、一度。
少し間を置いて、もう一度。
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ケン。
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ナギが立ち上がった。
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「来た」
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木々の間から、男が一人現れた。
細身の体。
肩から腕へ巻いた布には、まだ乾いていない血がついている。
腰の剣へ手を置いたまま、足音を殺して近づいてくる。
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「止まれ」
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ハヤセが言った。
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「手を見せろ」
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ナギが両手を開いた。
アサメは動かない。
ハヤセの視線が、二人の手と腰へ一度ずつ落ちる。
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「何の合図だ」
「話したいって合図」
「話せ」
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乾いた声だった。
呼ばれた理由も、相手を信じているかも聞かない。
必要な言葉だけを求めている。
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「林で待っていただろ」
シンが言った。
「なぜ知っている」
「一度、あそこへ入った。赤い石の罠に掛かって、槍で刺された」
「傷は」
「今はない」
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ハヤセの目が、シンの肋の下へ落ちる。
そこに傷はない。
体だけが、まだ槍を覚えている。
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「死んで、朝へ戻った」
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ハヤセの手が、剣の柄を握り直した。
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「戯言なら帰る」
「『子供は餌じゃない』と怒鳴った。その後、角笛を短く鳴らした。振り返った者も、止まらない者もいた」
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ハヤセの目が細くなる。
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「誰に聞いた」
「誰にも」
「キジか」
「俺は林に入ってないよ」
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ナギは開いた手をそのままにしている。
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「信じろと?」
「信じなくていい。次を止めたい」
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ハヤセはしばらくシンを見ていた。
信じた顔ではない。
信じるかどうかの答えを、今ここで出すつもりもない。
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「その話は保留だ」
剣の柄から手を離す。
「見たものを言え」
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「ミコを連れて炉へ戻った。空が白くなった。尾根にモモがいた」
「モモは、お前を見たか」
「分からない」
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ハヤセの表情が硬くなった。
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「白いものは、ミサネを通って出ている」
「ミサネがいるのか」
「いる。だが、ずっと同じではない」
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「タケミカヅチ」
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シンがその名を置くと、ハヤセの目が止まった。
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「どこで聞いた」
「モモが言った。俺が前にいた山では、南の者たちがミカヅチと呼んでいた」
「ヤマトは、使える神を残す」
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ハヤセの声に敬いはなかった。
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「ミカヅチとタケミカヅチは、同じものなのか」
「おそらく、な」
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ハヤセは、言葉を選ぶように一度間を置いた。
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「兵を従える雷の力。一つの命令、それだけ分かればいい。神託を扱う者は、タケミカヅチと呼ぶ。大王の近くでは、土地と人を従える、天から下る意思だと教えられる」
「本当に神なのか」
「知らん」
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ハヤセは即答した。
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「名を知っている者も、声を運ぶ者も、その顔は見ていない。神でも、神の名を使う何かでも、俺たちに来るものは同じだ」
「何が来る」
「命令だ」
ハヤセはミサネのいる方角へ目を向けた。
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「神託として降りる。ミサネが聞き、人へ伝える。俺たちは従う。それだけだった」
「だった?」
「今までは、ミサネの言葉に間があった。聞いて、考えて、自分の口で言い直していた」
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沢の流れが石へ当たった。
同じ音を繰り返す。
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「今は違う。問い掛ける前に答える。誰も見ていない場所を知っている。ミサネが知らない兵の傷も、山の道も、白桃が見たものも」
「モモの目と繋がってる?」
「そうとしか思えない」
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シンの中で、離れていたものが一本の線になった。
ミサネは、声を人へ渡す口。
白桃は、見つけたものを斬る手。
その口と手を同時に使うもの。
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タケミカヅチ。
⸻
神なのか、神の名を使う何かなのかは分からない。
だが、見たことは残っている。
前の時代では、タケヒコとカガチの命令の上から白が入り、人の足と声を別の方向へ揃えた。
今は、ミサネの口を奪い、モモの目で見て、モモの手で斬ろうとしている。
人の口と目と手へ入り込み、人が決めた流れを内側から書き換える。
名と時代は違っても、あの白がすることは同じだった。
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ハヤセが沢の水を手ですくう。
口をすすぎ、血の混じった唾を吐いた。
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「朝までの命令は捕縛だ。鉄を押さえ、長を連れていく。従わない者だけ斬る」
「それで、家を焼いた」
アサメの声が冷える。
「着いた時には燃えていた」
「言い訳か」
「言い訳だ」
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ハヤセは目を逸らさなかった。
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「ミサネが一度倒れた。その後、立ち方が変わった」
「立ち方?」
「人は立つ時、どこかを庇う。疲れた足。古い傷。寒さ。だが、あれには何もなかった」
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モモと同じだった。
無駄のない姿勢。
痛みを持つ体を、痛みのないものが使う立ち方。
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「声も違った。道の確保より、観測する男を消せと言った」
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ハヤセがシンを見る。
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「お前だ」
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人の狩りではない。
鉄でも、土地でも、服従でもない。
シン一人を消すために、流れが変わった。
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「捕らえられた人は」
「生きている」
「何人」
「歩けるのが七人。二人は運ばないと動けない」
「子供は」
「いない。ミコだけ逃げたと聞いた」
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オキが守ったからだ。
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「返してくれ」
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シンが言った。
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「俺一人では出せない」
「もう命令に逆らった」
「子供を餌にする命令は受けていない」
「捕らえた人を殺す命令も受けてないだろ」
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ハヤセの顎が動く。
奥歯を噛んでいた。
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「ミサネは、何て言ってる」
「何も」
「話せないのか」
「時々、戻る」
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ハヤセの声が少しだけ低くなった。
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「戻ると、逃がせと言う」
「誰を」
「全員だ」
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ミサネも、自分の口から出た神託に抗っている。
完全に消えたわけではない。
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「モモは」
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シンは聞いた。
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「何か言ってたか」
「名前を呼んでいた」
「誰の」
「お前の」
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風が沢を抜けた。
濡れた衣が肌へ張りつく。
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「白桃の時にか」
「分からない。幕の奥で一人だった。シンと、それだけ言った」
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シンは目を閉じた。
鹿肉を受け取った指。
遊びを見ていた目。
白い光の向こうで、逃げてと動いた唇。
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まだいる。
白桃の中に、モモがいる。
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「ハヤセ」
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ナギが呼んだ。
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「捕虜を移す話、作れる?」
「作れる」
「川下。白桃が山へ入るなら、邪魔になるって言えばいい」
「白桃の進路から外すと言う。見張りは二人だ」
「一人は俺が道を間違える。もう一人は君が何とかして」
「キジの仕事か」
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ナギは少し笑った。
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「ヤマトの役は、もうやめた」
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ハヤセがナギを見る。
驚きは短かった。
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「役は、やめられるのか」
「今、試してるところ」
「殺されるぞ」
「知ってる」
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「お前も来い」
シンがハヤセへ言った。
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「捕虜を逃がしたら、そのまま戻るな」
「戻る」
「なぜ」
「ミサネとモモがいる」
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ハヤセは二人の名を、役目ではなく呼んだ。
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「置いていかない」
「置いていけば、死なずに済む」
「知っている」
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短い言葉だった。
シンには、返す言葉がなかった。
モモを置いて逃げろと言われても、自分も同じ答えを出す。
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「俺はまだイヌだ」
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ハヤセは言った。
⸻
「呼ばれた場所へ戻る。誰を噛むかは俺が決める」
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ナギが立ち上がる。
⸻
「じゃあ行こうか」
「今から?」
「日が落ちたら白いのが来る。のんびりしてる時間、ないでしょ」
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ハヤセが先に林へ入った。
ナギが続く。
⸻
「ナギ」
⸻
シンが呼び止める。
ナギは振り返った。
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「戻ってこい」
「努力するよ」
「軽いな」
「重く言えば、戻りやすくなる?」
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いつものナギの声だった。
だが、笑みは薄かった。
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「戻る」
⸻
今度は、はっきり言った。
二人の姿が木々の間へ消えた。
⸻
⸻
日が西へ傾いた。
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シンとアサメは、炭焼きの古道から炉の集落へ戻った。
煙は上げていない。
炉の火も灰で覆われ、赤だけを内側へ隠している。
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家の前に人はいなかった。
子供と年寄りは西の岩場へ移した。
歩ける者は荷をまとめ、弓と槍を持って林へ散っている。
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ミコは炉のそばにいた。
トン、チン、カンと一緒に、小さな布へ石を並べている。
白。
黒。
緑。
赤。
⸻
「何してる」
⸻
シンが聞く。
⸻
「名前を決めてる」
ミコが答えた。
「これは、オキの家」
⸻
赤い石を指す。
⸻
「これは水を汲む道。これは鉄を置いた小屋。これは、父さんを流した川」
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一つずつ、石へ名前を置いている。
子供の遊びに見えた。
だが、焼けた集落の地図だった。
失われたものを、もう一度呼ぶための地図。
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「覚えられるか」
シンが聞く。
⸻
「私が忘れても、三人が覚える」
「俺も覚える!」
トンが言う。
「俺も」
チンが続く。
「もう覚えた」
カンが言った。
⸻
ミコは少しだけ頷いた。
⸻
アサメが集落の外を見る。
日はまだ山へ触れていない。
前の周で白いものが来た時刻まで、長くはなかった。
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「来ると思うか」
アサメが聞く。
⸻
「分からない」
「また、それか」
「でも、来るつもりで動く」
⸻
シンは炉の外へ立つ。
集落へ入る道を見渡す。
桃の匂いはしない。
白い光もない。
⸻
「シン」
⸻
アサメが隣へ来た。
⸻
「お前が言ったことを、全部信じたわけではない」
「分かってる」
「死んで戻ることも、白い雷も、アタシには見えない」
「ああ」
「だが、お前が怯えているのは分かる」
⸻
アサメの手が、シンの肋の下へ触れた。
槍が入った場所。
傷はない。
⸻
「ここか」
「そこ」
「まだ痛むか」
「触られると」
⸻
アサメが手を離す。
⸻
「悪い」
「いや」
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離れた手の温度だけが残った。
⸻
「今度は、死ぬ前に言え」
「何を」
「怖いと」
⸻
シンは答えようとした。
林で枝が鳴った。
⸻
アサメが山刀へ手を掛ける。
シンも身構えた。
⸻
「待って!」
⸻
ナギの声だった。
⸻
木々の間から、人が出てくる。
一人。
二人。
さらに続く。
⸻
手を縛っていた縄は切られている。
歩けない二人は、枝と衣で作った担架へ乗せられていた。
顔には泥と煤がつき、腕や頭へ布を巻いている。
それでも、生きていた。
⸻
「みんな」
⸻
ミコが立ち上がった。
石が布の上で転がる。
⸻
戻ってきた者たちがミコを見る。
最初は、誰も動かなかった。
見間違いではないか確かめるように、小さな姿を見ていた。
⸻
「ミコ」
⸻
一人が呼んだ。
それを合図に、全員の顔が崩れた。
⸻
ミコが走る。
生き残った者たちの中へ飛び込む。
幾つもの手が、頭と背中へ触れた。
⸻
「オキは」
⸻
誰かが聞いた。
ミコは顔を伏せた。
⸻
「死んだ」
⸻
同じ言葉を、今度も自分で言った。
⸻
「私を隠して、死んだ」
⸻
戻った者たちは泣かなかった。
泣く力が残っていない者もいた。
ただ、一人ずつ目を閉じた。
オキの名を胸の中で呼んでいた。
⸻
ナギが最後に林から出た。
頬が腫れている。
口の端に血があった。
⸻
「ハヤセは」
シンが聞く。
⸻
「戻った」
「ヤマトへ?」
「うん。見張りを一人殴って、もう一人には蹴られてた」
「それで、その顔か」
「俺も少し手伝ったからね」
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ナギは笑った。
痛みで、すぐ顔を歪めた。
⸻
「見つかる」
アサメが言った。
⸻
「もう見つかってると思う」
ナギの笑みが消える。
「ハヤセが別の道へ連れていった。でも、長くは持たない」
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「今夜、動かす」
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アサメが決めた。
⸻
「歩けない者を先に岩場へ。食べ物は持てる分だけ。炉は消さない。灰の中へ火を残す」
「戻るのか」
シンが聞く。
「戻る場所を残す」
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逃げると決めたわけではない。
戦うと決めたわけでもない。
今夜を生きるために、人を散らす。
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タダが担架を持ち上げた。
炉の者たちが、戻った人々へ水と食べ物を渡す。
子供たちは石を布ごと包んだ。
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日が山へ触れた。
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前の周では、その直前に白い雷が来た。
シンは空を見る。
⸻
白くならない。
⸻
風が吹く。
木々が揺れる。
鳥が一羽、尾根を越える。
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何も起きない。
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息を吐いた。
胸に溜めていたものが、少しだけ外へ出る。
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「変わった」
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シンが言った。
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「何が?」
ナギが聞く。
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「前は、もう白くなってた」
「じゃあ、成功?」
「分からない」
「そればっかりだね」
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ナギが少し笑った。
今度は、顔を歪めなかった。
⸻
夜が来る。
炉へ火を戻した。
大きくはしない。
戻ってきた者へ温かい汁を渡すための火だった。
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ミコは椀を両手で持ち、一口ずつ飲んだ。
トン、チン、カンは隣に座っている。
誰も遊ばなかった。
誰も離れなかった。
⸻
シンは火の外へ座った。
モモがいつもいた場所だった。
地面には、乾いた桃の種が一つ落ちている。
いつからあったのか分からない。
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拾い上げる。
硬い。
掌の中で、赤い石とは違う重さがあった。
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桃太郎。
桃から生まれ、イヌとサルとキジを連れ、鬼を討伐するもの。
正しい者として残った名前。
誰に聞いた話かは思い出せない。
どこで覚えたのかもない。
それでも、話だけは知っていた。
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白桃。
人の道を奪った後、最後に入る者。
モモから、人の名前を奪う役目。
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「モモ」
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声に出した。
返事はない。
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「聞こえてるなら、そっちじゃない」
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誰へ言っているのか、自分でも分からなかった。
山の向こうにいる少女か。
その内側へ沈んでいるものか。
話の中で英雄になった白桃か。
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「お前の名前は、そっちじゃない」
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桃の種を握る。
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「モモだ」
⸻
⸻
甘い匂いがした。
⸻
シンは顔を上げた。
炉の煙。
煮た根菜。
濡れた毛皮。
そのどれでもない。
⸻
桃。
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火の向こうで、アサメが立った。
タダも汁の椀を置く。
ナギの目から笑みが消えた。
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足音はしなかった。
人の気配もなかった。
それでも、集落の外に誰かいる。
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白に近い薄桃色の衣。
長い黒髪。
左の低い位置で結ばれた髪に、桃の飾りがある。
右手には、鞘へ収まったままの刀。フツ。
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モモが立っていた。
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炉の輪の外。
以前と同じ場所。
だが、以前と同じではなかった。
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背筋が真っ直ぐすぎる。
呼吸が浅すぎる。
瞬きの間が同じすぎる。
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人が立っているのではない。
人の形を、何かが正しく置いている。
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「モモ」
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シンが呼んだ。
モモの瞳が動いた。
ほんの少しだけ。
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「……シン」
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声がした。
小さい。
確かにモモの声だった。
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シンが一歩進む。
モモの指が動いた。
刀から離れようとした。
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「観測対象を確認」
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別の声が重なった。
同じ口から出ている。
高さも音も同じなのに、モモの声ではなかった。
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「タケミカヅチ」
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シンが呼んだ。
返事はない。
モモの瞳も動かなかった。
名を呼ばれて振り向くものではない。
モモの口を使っていても、その声は人の輪の外にある。
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指が鞘へ戻る。
シンの足が止まった。
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「モモ。俺を見ろ」
「見てる」
「白桃じゃない。モモだ」
「……モモ」
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自分の名を確かめるように、唇が動いた。
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「そうだ」
「シン」
「ここにいる」
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モモの目が揺れた。
火を見た。
汁を飲むミコを見た。
石を抱えた子供たちを見た。
最後に、シンへ戻る。
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フツを握る指から、わずかに力が抜けた。
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「逃げて」
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モモが言った。
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「どこへ」
「わからない」
「行ったら、みんなはどうなる」
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モモは答えない。
答えられないのかもしれない。
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「捕らえられた人は戻した。誰も戦ってない」
「関係、ない」
「ある」
「ない」
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声が二つにずれる。
一つはシンに生きてほしいと願う。
もう一つは、シンの存在を抹消しようと動く。
モモと、タケミカヅチ。
一つの口から、別の意思が同時にシンを呼んでいた。
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「俺は行かない」
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シンが言った。
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「モモも、こっちへ来い」
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モモの肩が動いた。
一歩。
こちらへ出ようとした。
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鞘の中で、刃が鳴った。
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モモの体が止まる。
目から温度が消えた。
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アサメがシンの前へ出た。
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「下がれ」
「でも」
「今、お前が近づけば、あいつは刀を抜く」
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アサメは山刀を抜かなかった。
両手を下げたまま、モモとシンの間へ立つ。
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「その名で、こいつを見るな」
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モモの視線が、初めてシンから外れた。
アサメへ向く。
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「誰」
「アサメだ」
「否」
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モモの右手が、刀の柄を握った。
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「敵性個体」
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モモが選んだ言葉ではない。
タケミカヅチが、アサメへ与えた役だった。
名を剥がし、斬る理由だけを残す。
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鯉口が切られる。
桃の匂いへ、鉄の匂いが混じった。
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「認定、鬼女」
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刃が抜かれた。
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(第五十七話へ)




