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キジ

第五十五話 キジ



「何を教えた」



 アサメが聞いた。


 声は低かった。


 怒鳴ってはいない。



 膝の上には、オキの折れた杖がある。


 黒く艶の出た握りを、右手が包んでいた。


 ナギは火を見ていた。



「道だよ」


「どの道だ」


「川から上がる道。見張りに見えない沢。鉄を置く小屋。山へ逃げるなら、どこで三つに分かれるか」



 火が小さく鳴った。



「水場も?」


「教えた」


「子供が逃げる方も?」



 ナギはすぐには答えなかった。



「教えた」



 タダが立ち上がった。


 岩屋の天井近くで、影が大きく動く。



「お前」



 太い腕が伸びた。


 ナギの胸元を掴む前に、アサメが言った。



「座れ」


「でも」


「今、殴って道が戻るか」



 タダの手が止まった。



 戻らない。


 焼けた家も。

 奪われた鉄も。

 地面へ落ちた血も。



 ナギを殺しても、ミコのいる場所は分からない。



 タダは拳を握ったまま座った。


 ナギは礼を言わなかった。



「キジって、何だ」


 シンは聞いた。


 手の中には、川辺で拾った赤い石がある。


 握り続けたせいで、角が掌へ食い込んでいた。



「鳥の名前だけじゃないんだろ」


「ヤマトで使う役目の名だ」



 ナギは自分の膝を見た。



「先に行って、見る。水がある場所。舟を着けられる場所。人が集まる日。争えば誰が前へ出て、誰が子供を連れて逃げるか。見たものを持ち帰る」


「それで、後から兵が来る」


「そうだ」


「どれくらい続けてた」


「お前らと会うより、ずっと前から」



 シンは、ナギが炉のそばで笑っていた顔を思い出した。



 魚の食べ方を子供へ教えた。


 火の外へ座るモモにも、何も聞かず一尾を置いた。


 道で会えば、知らない土地の話をした。


 誰とでも話せる男だと思っていた。



 違う。


 誰とでも話し、覚え、別の誰かへ渡す男だった。



「最初は、島だった」



 ナギが言った。



「海の向こうに小さな島があった。ヤマトの連中は、そこを鬼の島と呼んだ」


「鬼がいたのか」


「人がいた」



 ナギの口元が歪んだ。


 笑おうとした形に似ていた。


 笑いにはならなかった。



「魚を捕る奴。塩を焼く奴。貝を拾う子供。どこにでもいる人だ。ヤマトへ膝をつかなかった。それだけで鬼になった」



 波の向こうにある島。


 シンは見たことがない。


 それでも、焼けたオキの集落と同じ煙が上がるのを想像できた。



「俺は舟が入れる潮を教えた。井戸の位置を教えた。夜に見張りが薄くなる浜を教えた」


「ほかにもいたのか」


「イヌと、サル。それから白桃」



 シンの指が動いた。


 赤い石が掌の中で擦れた。



「白桃」


「モモの、ヤマトでの名前だ」



 ナギは初めてシンを見た。



「イヌはハヤセ。サルはワカレ。俺がキジ。白桃が最後に入る」


「最後に?」


「道も、水も、逃げる先もなくなった後だ。残った者を斬る」



 岩屋の奥で、水が一滴落ちた。



 桃。


 イヌ。


 サル。


 キジ。


 鬼の島。



 ばらばらだった言葉が、シンの中で一つの形になった。


 思い出したのではない。


 初めから知っていた。



「桃太郎」



 三人がシンを見た。


 ナギが眉を寄せる。



「何、それ」



「俺が知ってる話だ」



 口にした途端、その話の形だけが頭の中へ浮かんだ。



 川を流れてくる大きな桃。


 桃から生まれた子供。


 イヌと、サルと、キジ。


 海の向こうにある鬼の島。



「桃から生まれた男が、イヌとサルとキジを連れて鬼の島へ行く。鬼を倒して、宝を持ち帰る」


「白桃と、俺たちみたいに?」


「同じだ」



 言い切ってから、喉の奥が冷えた。


 同じはずがない。


 シンの知る話では、桃太郎は人を救う側だった。


 鬼は人を苦しめる悪者で、退治されれば話はめでたく終わった。



 だが、ナギが見た島に鬼はいない。



 魚を捕る者がいた。


 塩を焼く者がいた。


 貝を拾う子供がいた。



「その話では、島にいた奴らはどうなるの?」



 ナギが聞いた。



「鬼は退治される」


「名前は?」


「ない」


「どうしてヤマトへ従わなかったかは?」


「出てこない」


「何を宝って呼んでた?」



 シンは答えられなかった。


 金銀。


 珊瑚。


 俵。


 絵の中に積み上げられていたような気がする。


 だが、それをどこで見たのかは分からない。



 本だったのか。


 誰かの声で聞いたのか。


 子供の頃に見たのか。


 その子供が、どこで暮らしていたのか。


 誰と一緒にいたのか。


 何一つ思い出せない。



 自分の父親も、母親も分からない。


 家の形も知らない。


 どんな声で自分の名を呼ばれていたのかも残っていない。


 それなのに、桃太郎の話だけは知っていた。



 自分の暮らしは消えている。


 勝った者の話は残っている。



「俺の知ってる話では、桃太郎が正しい」



 シンは言った。


 声が掠れた。



「鬼を倒して、奪われていた宝を取り返す。みんな、それで喜ぶ」


「奪われてた?」



 ナギの口元が、わずかに曲がった。


 笑みではなかった。



「島の奴らは、ヤマトから何も奪ってないよ」



 火が爆ぜた。


 小さな火の粉が上がり、すぐに消えた。



「あったのは魚と塩と、あいつらが暮らしてた土地だけ。ヤマトが持って帰ったなら、それを宝って呼んだんじゃない?」



 シンは何も言えなかった。


 鬼から宝を取り戻したのではない。


 人を鬼と呼び、持っていたものを奪い、それを取り戻した話へ変えた。


 そうすれば、奪った側は英雄になれる。



「モモが、その桃太郎なのか」



「桃太郎って名前は知らない」



 ナギは火を見た。



「でも、島で最後に立ってたのは白桃だよ」



 桃から生まれた英雄。


 白桃と呼ばれ、人を斬る少女。


 二つの像が重なった。


 同じにはならなかった。


 重なった場所から、血だけが滲んだ。



 モモの白い衣。


 細い指。


 鹿肉を受け取った時の、わずかな迷い。


 それより前に、何度も人を斬ってきた。


 本人が望んだのか。

 白桃として命じられたのか。


 今は分からない。



「島はどうなった」


「なくなった」


「島が?」


「島の名が」



 家も舟も焼かれた。


 生き残った者は南へ連れていかれ、別の場所で別の名を与えられた。


 島そのものは、今も海の上にある。


 だが、そこにいた人々の呼び名を口にする者はいない。



「子供まで死ぬとは思わなかった」



 ナギが言った。


 タダの顔が動く。



「言い訳か」


「そうだ」



 ナギは否定しなかった。



「殺せとは言ってない。焼けとも、連れていけとも言ってない。俺は道を教えただけだ。ずっと、そう言ってきた」



 自分へ言い聞かせてきた言葉なのだと分かった。


 アサメが折れた杖を持ち上げた。



「子供が逃げる道を、誰かへ渡した」


「……ああ」


「その先で何をするか知らなくても、お前は子供を渡した」



 ナギは目を閉じた。



「ああ」


「オキの集落もか」


「道を渡した」


「いつ」


「冬の前だ」



 炉の集落へ来るより前ではない。


 ナギは既にアサメたちを知っていた。


 火を囲み、同じものを食べ、子供たちの名を呼んだ後で、続きを渡した。



「なぜだ」



 アサメの声が、初めて少し揺れた。


 ナギは長く息を吐いた。



「渡さない海人から沈められる」


「誰に」


「南だけじゃない。北でも、東でも同じだ。舟を通したい者は、先に流れを持ってる奴を飼う。飼えなきゃ殺す。俺は、飼われる方を選んだ」


「生きるためか」


「最初はね」



 ナギが火へ枯れ枝を一本入れた。



「途中からは、選ばなくて済むから続けた」



 枝の先が赤くなる。



「右へ行くか、左へ行くか。誰を助けて、誰を見捨てるか。俺が決めなくても、見たものを渡せば向こうが決める。俺は海へ戻れる」


「今回も、そうなると思ったのか」



 シンが聞いた。



「鉄を取る。何人か連れていく。残った者へ、次は従えと言う。そういう話だった」


「話と違った」


「早すぎる」



 ナギは顔を上げた。



「あの人数を動かすには、もっと日が要る。川下から来るはずだった。火をつける話も聞いてない」


「じゃあ、誰が変えた」


「分からない」



 ナギの答えは短かった。


 だが、シンの中には一つの白い像があった。



 神託。白雷。ミカヅチ。

 

 モモの刀から溢れた白。


 人が決めた流れへ、別のものが手を入れた。


 前の時代でも見たモノだ。



「ミコは生きてると思うか」



 ナギは赤い石を見た。



「石を置けたなら、焼かれた時は生きてた」


「今は」


「分からない」


「連れていかれた者は、どこを通る」



 ナギが岩屋の外を見た。


 空はまだ暗い。

 雲の切れ目に、薄い月が残っている。



「川沿いを南へ下る。大人数なら、細い崖道は使わない。夜は水場の近くで止まる」


「追いつけるか」


「夜明けに出れば」


「今出る」


「暗い沢で足を折ったら、誰も助からない」



 シンは立ち上がりかけた。


 アサメの手が腕を掴む。



「待て」


「待ってる間に遠くなる」


「焦って死ねば、もっと遠くなる」



 死ねば戻る。


 その言葉は喉まで来た。

 口にはしなかった。


 死んで確かめることを、最初から道へ入れてはいけない。



「夜明けまでに、通る道を全部聞く」



 アサメはナギを見た。



「今度は隠すな」


「分かった」


「分かったではない」



 折れた杖の先が、ナギの胸へ向いた。



「お前が渡した道で追う。お前が先を歩け」



 ナギは杖を見た。



「それでミコが死んでたら」


「歩け」


「俺が死んだ方がいいと思ったら」


「歩け」



 アサメは同じ声で言った。



「死ぬ方へ逃げるな」



 ナギはしばらく動かなかった。



 やがて、膝の上で両手を開いた。



「分かった」



 今度の声は、先ほどより小さかった。




 夜明け。



 四人は岩屋を出た。


 雨は止んでいた。

 枝から落ちる雫が、土へ小さな穴を作っている。


 ナギが先頭を歩く。

 その後ろをアサメ、シン、タダが続いた。


 誰も話さない。



 沢へ下りる。


 水は膝より浅い。


 石の上には薄く苔がつき、踏む場所を誤れば足を取られる。


 ナギは迷わなかった。


 右岸の倒木を越え、岩の裂け目を通り、流れが二つに分かれる場所で左へ入る。



「この道も教えたのか」


 タダが聞いた。


「教えた」


「俺たちが今から行くことも、向こうは分かるのか」


「分かる」


「なら、なぜ使う」


「追いつく道が、これしかない」



 答えながらも、ナギの目は動いていた。


 水面。

 折れた草。

 泥のへこみ。


「昨夜、ここを通ってる」


 岸の土に、幾つもの足跡があった。



 裸足。

 草鞋。

 革で足を巻いた者。


 大きさも形も違う。

 ヤマトから来た者だけではない。



 その中に、小さな裸足の跡があった。



「ミコ」



 アサメがしゃがむ。


 足跡の脇に、白い石が置かれていた。


 少し先には黒。

 さらに先に赤。


 シンの胸が強く鳴った。



「生きてる」



 石を追った。


 沢から離れ、低い林へ入る。

 赤い石が一つ。


 十歩ほど先に、また赤。


 さらに同じくらい先に、赤。


 並び方が変わった。



「待って」



 ナギが止まった。



 遅かった。


 林の左右で、鳥が一斉に飛んだ。


 羽音の下から、人が立ち上がる。



 丸い木盾。

 細長い盾。

 石の刃をつけた槍。

 鉄の穂先。


 装いは揃っていない。


 揃っていたのは、槍の向きだけだった。



「伏せろ!」



 アサメがシンを引いた。


 頭のあった場所を槍が通る。


 タダが前へ出た。

 太い槍を横へ振り、二人まとめて押し返す。


 ナギは後ろを見た。



「早い」


「何がだ!」


「ここで待つ話じゃない!」



 木々の向こうで、誰かが怒鳴った。



「止めろ! 子供は餌じゃない!」



 聞いたことのある声だった。



「ハヤセ!」



 シンが呼ぶ。


 返事の代わりに、角笛が鳴った。


 短い音。


 兵の何人かが振り返る。

 別の者たちは止まらない。


 命令が一つではない。



「戻るぞ!」



 ナギが沢を指した。


 アサメが後ろへ下がる。

 タダが盾代わりになり、シンはその背へ続いた。


 赤いものが視界の端に見えた。


 木の根元。



 小さな布袋だった。


 ミコが石を入れていた袋。



「ミコ!」


 足が止まった。


「行くな!」


 誰かの声がした。


 シンは袋へ手を伸ばした。


 土の中から紐が引かれた。


 布袋が跳ねる。



 同時に、低く伏せていた男が立った。


 槍の穂先が近かった。


 避けようとした。


 体は動いた。


 間に合わなかった。


 肋の下へ、硬いものが入った。



「あ」



 痛みより先に、息が抜けた。


 槍が背中側へ抜ける。


 足が地面から離れた。


 男が槍を捻る。


 腹の中で、何かが切れた。



 赤い石が手から落ちた。


 泥の上を一度跳ねる。


 偽物の石の列へ混じった。



 アサメがシンの名を呼んだ。


 タダが吠えた。


 ナギの顔が見えた。


 驚いていた。



 自分が教えた場所に罠があることを、本当に知らなかった顔だった。


 それで何かが変わるわけではない。



 シンは地面へ落ちた。


 冷たい泥が頬へつく。


 赤い石。

 赤い血。


 どちらがどちらか分からなくなった。


 暗くなった。




 雫が落ちた。


 シンは息を吸った。



「っ……!」



 腹を押さえる。


 槍はない。

 血も出ていない。


 それでも体の中が裂けたままだった。



 膝が折れる。



「シン」



 アサメが腕を掴んだ。


 朝の光が、岩屋の入口から差している。


 夜は終わっていた。


 ナギは水筒の口を締めている。

 タダは槍の石突きを確かめている。


 二人とも、先ほどより前ではなかった。



「どうした」



 タダが聞いた。


 ナギの顔には、夜の間に消えなかった疲れがある。


 告白した後の顔だった。



「覚えてるか」



 シンは息を整えながら聞いた。


「何をだ」


「鬼ヶ島。白桃。お前が道を売ったこと」



 ナギの目が細くなる。


「忘れられると思う?」



 戻った。



 だが、岩屋へ入った時ではない。

 ナギが告白する前でもない。


 全部を話した後の朝へ戻った。


 同じ説明を、もう一度させる必要はなかった。



「林の石は罠だ」



 シンは言った。


 三人が黙る。



「白、黒、赤まではミコが置いた。その後の赤は違う。歩幅みたいに同じ間で並んでる。袋も紐で引かれる」



「見たのか」


 アサメが聞いた。



「見て、死んだ」



 言葉にすると、腹の奥が縮んだ。


「槍で刺された。ここを」


 肋の下へ触れる。


 タダがシンの手をどけ、衣の上から確かめた。


 傷はない。



「夢ではない」


 アサメが言った。


「ああ」


「何度目だ」


「六度目」


 ナギがゆっくり立った。



「俺の話も、聞いたの?」


「聞いた。だから繰り返さなくていい」



 シンも立つ。


 足は震えた。

 一歩目だけだった。



「本物の石は、林へ入る前に途切れる。最後の白い石の近くに、小さな裸足の跡があった」



 頭の中で、先ほどの道を戻る。


 沢。

 岸の泥。

 白い石。


 小さな足跡は、途中で一度だけ流れへ向いていた。



「ミコは、沢から外れてない」


「捕まえた者が石を置き、林へ誘った可能性は」


「ある。でも、罠を作った奴はミコの石を全部赤だと思ってる」



 白。

 黒。

 緑。

 赤。



 役に立つから拾うのではない。

 ミコは、その時に目へ入った色を拾う。


 同じ大きさの赤だけを、同じ間隔では置かない。



「沢を探す」


 アサメは迷わなかった。


 ナギを見る。



「別の道で行け」


「ある」


「それも教えたか」



 ナギは一瞬だけ黙った。



「教えてない」


「なぜだ」


「俺しか通れないと思ってた」


「今日は四人で通る」


「そうする」




 二度目は、沢へ下りなかった。


 岩屋の裏から斜面を上がり、尾根の半ばを横へ進んだ。



 道には見えない。


 獣が腹を擦って通るほどの隙間を、ナギは枝を持ち上げながら進む。



 下に、先ほど死んだ沢が見えた。


 誰もいない。


 まだ罠を張る者たちは林で待っている。


 シンたちはその上を越えた。



 一度目より早く、白い石の場所へ着いた。


 岸の泥に、小さな足跡がある。


 流れへ二歩。

 水の中で消える。


 対岸にはない。



「川を歩いたんじゃない」



 アサメが水へ手を入れた。


 上流を見る。


 岸が少しだけ抉れている。


 倒れた木の根が、水の上へ張り出していた。

 根の下は暗い。


 人が一人、横になれるほどの空洞がある。



「ミコ」



 アサメが呼んだ。


 返事はなかった。


 シンは水へ入った。


 膝までの冷たさを進み、根の前へしゃがむ。



 暗がりの中で、何かが動いた。


 小さな目が二つ、こちらを見た。



「ミコ」



 今度は、名を呼ぶだけにした。


 近づかない。

 手も伸ばさない。


 暗がりから、細い声がした。



「……シン?」



 胸の奥がほどけた。



「そうだ」


「アサメも?」


「いる」


 アサメがシンの隣へ来た。



「ここだ」


 ミコが動いた。


 その下に、別のものが見えた。


 布ではない。



 人の腕だった。



「オキ」



 アサメが水の中へ膝をついた。


 二人で根の下へ手を入れる。


 オキの体を引き出した。



 ミコを胸の下へ抱き込むように伏せていた。


 背中には乾きかけた血が広がっている。

 脇腹の衣も黒く濡れていた。


 息はあった。


 浅い。

 長い間隔を置いて、かすかに胸が動く。



「オキ」



 アサメが頬へ触れた。


 オキの目が開いた。



「……遅い」


 声はほとんど息だった。



「悪い」


「本当に、遅い」



 口元が少し動いた。


 笑ったのだと、しばらくして分かった。



「ミコは」


「いる」



 ミコがオキの腕へしがみついた。



「ここにいる」


「そうか」



 オキは目を閉じた。


 安心したのではない。


 残っていた力を、そこで使い切ったように見えた。



「誰にやられた」


 タダが聞く。



「家が燃えた後……ミコを連れて、川へ出た」


 言葉の間に、何度も息が混じる。


「杖を折られた。追ってきたのが、一人。ここへ隠した。見つかった」



 オキの右手には、何かが握られていた。


 指を開く。


 短い鉄の欠片だった。

 刃にも道具にも足りない、小さな破片。



 血がついている。



「そいつは」


「川の下」



 オキは鉄の欠片で追手を刺した。


 流れには、ここへ来る途中で気づかなかった濁りがある。



 守ったのだ。


 集落を焼かれた後も。


 杖を折られ、背中を裂かれた後も。


 ミコが息を潜められる場所へ入るまで、オキは死ななかった。



「運ぶ」



 タダがオキの肩へ手を入れた。


 オキが首を振る。



「揺らすな。もう、漏れすぎた」


「塞げば」


「自分の血の量くらい、分かる」



 アサメは傷を見た。


 否定しなかった。



「アサメ」



「いる」


「この子に、山の名を教えろ」



 ミコが顔を上げる。



「知ってる」



 涙で濡れた声だった。



「山も、川も、みんな知ってる」


「もっとだ」



 オキの手が動いた。


 ミコの頭へ届く前に落ちる。


 アサメがその手を取り、ミコの髪へ置いた。



「焼けた家の名。死んだ者の名。道の名。誰も呼ばなくなったら、なくなる」



 ナギの顔が強張った。



 海の島。


 名を失った人々。



 昨夜、自分が話したことと同じだった。


 オキはナギを見ていない。


 それでも、その言葉はナギの胸へ入った。



「教える」



 アサメが答えた。



「アタシが知るものは、全部」


「足りない」


「なら、この子と探す」



 オキは、また少し笑った。



「それがいい」



 ミコがオキの衣を掴んだ。



「起きて」



 オキは答えない。



「石、まだあるよ」



 腰の袋を外す。


 中から、濡れた石を一つずつ出した。



 白。

 黒。

 緑。


 最後に、小さな赤い石。



「父さんの色」



 オキの目が、赤い石へ向いた。



「夕焼けだ」


「うん」


「朝にも、見える」



 それが最後だった。


 次の息は来なかった。



 ミコはしばらく待った。



「オキ」


 呼ぶ。



「朝にも見えるって、何」



 返事はない。



 ミコはオキの胸へ耳をつけた。


 自分で分かった。


 声を上げて泣かなかった。



 赤い石を握り、オキの胸へ額をつけた。


 肩だけが何度も震えた。


 アサメは抱き上げなかった。


 泣き終えるまで、隣に膝をついていた。




 オキを、根の下より高い場所へ運んだ。


 石を積む時間はなかった。


 獣に荒らされないよう枝で覆い、アサメが髪を一本切って胸へ置いた。



「戻る」


 アサメが言った。



 ミコはタダの背に負われている。


 泣き疲れ、目を閉じていた。


 右手だけは開かない。


 赤い石を握っている。



「捕らえられた者は」



 シンが聞いた。



「今追えば、同じ林へ出る」



 ナギは答えた。



「罠があると分かってても?」


「向こうも、罠が知られたと分かる。次は場所を変える」



 タダが振り返った。


「見捨てるのか」


 ナギはすぐに答えなかった。



「今、ミコを連れて入れば、この子も取られる」


「だからって」



「見捨てない」


 シンが言った。



「一度戻る。向こうの命令が一つじゃないなら、止めようとしてる奴がいる」


「イヌか」


「ハヤセと話す。捕らえられた人の場所も、誰が火をつけさせたのかも聞く」


 ナギがシンを見る。



「会えると思う?」


「会う方法を、お前が知ってる」



 ナギは何も言わなかった。



「道を売るために覚えたことを、今度は助けるために使え」



 沢の水が、二人の間を流れていた。



「そんなに簡単に変われるかな」


「簡単じゃない」



 シンはオキを覆った枝を見る。



「もう一人死んだ」



 ナギも見た。


 長く息を吐く。



「……イヌを呼ぶ合図がある」



「どこで使う」


「炉へ戻ってから。煙が見える場所で上げる」



 アサメが立った。



「行くぞ」




 林の罠を大きく迂回した。


 日が傾く前に、炉の集落が見える尾根まで戻った。


 煙が上がっている。


 朝と同じ細い煙。

 家は焼けていない。


 シンは息を吐いた。



 トンたちが最初に気づいた。


 斜面を駆け上がってくる。



「ミコ!」


「いた!」


「オキは?」



 ミコが目を開けた。


 タダの背から下りる。


 足が地面へつくと、三人の前に立った。



「死んだ」



 自分で言った。



 トンが口を閉じる。


 チンが何かを言おうとして、やめる。


 カンがミコの手を握った。



 赤い石ごと握った。


 ミコは振りほどかなかった。



 集落へ入った時。


 空気の匂いが変わった。


 煙。

 濡れた土。

 煮炊きの湯気。



 その奥に、甘いものが混じる。



 桃。



 シンは止まった。



「伏せろ!」



 叫ぶ。



 空が白くなった。


 雲が光ったのではない。

 日の残りでもない。


 山の向こうから、白い線が走ってくる。


 木々の先が消えた。

 尾根の輪郭が削られた。



「早すぎる」


 ナギが言った。



 林で聞いたのと同じ声だった。


 人の足ではない。

 兵の速さでもない。



 道を変えたから。


 罠を避けたから。


 ミコを取り戻したから。



 人が決めた狩りとは別のものが、こちらを見つけた。



 シンはミコの前へ出た。


 アサメも並ぶ。


 タダが子供たちを抱える。



 ナギだけが、白の来る方を見ていた。


 遠い尾根に、人影がある。



 薄桃色の衣。


 長い黒髪。


 左で結ばれた髪に、桃の飾りが小さく見える。



「モモ!」



 声は届かない。


 人影の顔が、こちらを向いた。


 唇が動いた。



 逃げて。



 そう見えた。



 次の瞬間、白が全てを埋めた。


 熱はなかった。


 痛みも遅れてこなかった。



 ミコの手の赤い石だけが、白の中に一瞬残った。


 それも消えた。




「朝にもあるって、何」



 声がした。


 シンは息を吸った。



 沢の音。


 濡れた根。


 血の匂い。



 目の前に、オキがいた。


 もう息をしていない。



 その胸へ、ミコが額をつけている。


 小さな手には赤い石があった。



 白い光はまだ来ていない。



 林の罠も、もう越えている。


 ミコも見つけている。


 オキの死も、なかったことにはなっていない。



 戻る場所が、また動いた。


 シンは自分の手を見た。


 消えたはずの指がある。

 握れる。


 七度目だった。



「シン?」



 アサメがこちらを見る。


 オキの胸には、アサメが置いた髪がある。


 ナギも、タダも、何が起きたか知らない。

 だが、夜の告白は知っている。


 同じ話を、やり直す必要はない。


 救うところから、やり直す必要もない。



 オキだけは、もう戻らない。



 シンは立ち上がった。



「ナギ」


「なんだ」


「炉へ戻ったら、白い雷が来る」



 ナギの顔から、残っていた色が消えた。



「人の足より早い。道を変えても来る。モモがいる」


「白桃が」


「モモだ」



 シンは言い直した。



「その名前で呼ぶ」



 ミコが顔を上げた。


 目は赤い。


 それでも、石を握って立とうとしている。



 シンは手を差し出した。



「帰ろう」



 ミコはその手を見た。



「どこに」



 焼けた集落には戻れない。


 オキのいる暮らしにも戻れない。


 それでも、行く場所は作らなければならない。



「みんなのいるところへ」



 ミコはシンの手を取った。


 もう片方の手には、赤い石を持っていた。


 オキが守ったものを連れ、五人は沢を上り始た。



 今度は白が来る前に、人の側から流れを変えるために。



(第五十六話へ)


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