表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
54/62

狩り

第五十四話 狩り



 煙は、朝より先に空へ上がっていた。



 青黒い山の影から、黒い筋が伸びている。


 炉の煙とは違う。

 飯を炊く火とも、湿った薪を燃やした煙とも違う。


 太く、重い。

 風に押されても千切れず、山の向こうから次々と湧いていた。


「オキの集落」


 ナギの声は低かった。


 いつものように笑っていない。

 目だけが、煙の根を測っていた。



 アサメが動いた。


 寝床へ戻り、弓を取る。

 弦を指で弾き、腰へ刃を差す。矢筒の中身を数える時間まで含めて、動きに迷いがなかった。


「タダ」


「行く」


 タダはすでに槍を持っていた。


「ナギ」


「道を案内する」


「シン」


「行く」


 答える前から、シンは水筒と布袋を肩へ掛けていた。


 炉の脇を見る。


 昨夜、モモが座っていた場所には、乾いた布が畳んで置かれている。

 モモも、フツもいない。


 いつ去ったのか、誰も見ていなかった。



「俺たちも行く!」


 トンが言った。


「鬼の家の続きは後!」


 チンが言った。


「ミコ、探す」


 カンだけが、遊びとは違う顔をしていた。


 アサメは三人の前へしゃがんだ。


「お前たちは残れ」


「でも」


「集落を守る者も要る」


 三人が黙る。


「煙が増えたら、子供と年寄りを川上へ連れていけ。二度、鳥の声がしたら、何も持たずに走れ」


「アサメたちは?」


「戻る」


「いつ?」


「戻れる限り、早く」


 嘘は言わなかった。

 必ずとも、すぐとも言わない。


 トンは唇を噛んだ。

 チンは地面を見た。

 カンだけがアサメを見続けた。


「……分かった」


 最後に、三人が同時に頷いた。



 空が白み始める前に、四人は集落を出た。


 山はまだ夜の冷たさを抱えていた。


 雪解け水が斜面を走り、濡れた根が土から浮いている。

 一歩踏み外せば足首まで泥へ沈んだ。


 先頭はナギだった。


 迷わない。


 獣道が二つに分かれる前から細い方へ入り、倒木を越えず、その根元を回る。沢へ出ると水際を避け、少し上の岩を選んだ。


「そっちは遠回りじゃないのか」


 シンが聞いた。


「沢沿いは速い。でも、向こうから来た奴が残ってたら見つかる」


「向こうから?」


「川下から入るなら、あそこを使う」


 ナギは振り返らなかった。


 知っている者の言い方だった。


 シンはそれ以上聞けなかった。


 今は、オキの集落へ着く方が先だった。



 歩きながら、オキの声を思い出した。


『ここはずっと危ない。それでもここにいる』


 低い声だった。


 オキは多くを話さなかった。

 こちらが問いを一つ置けば、必要な分だけ答えた。


 山で作られた鉄を受け取る。

 同じ長さに整えられた小さな鉄の刃を、川へ流す。

 下流から塩と布と牛の皮が上がり、時には海や南の話も一緒に届く。


 鉄を作る者ではない。

 鉄が通る場所を守る者だった。


 だからヤマトは欲しがる。


 鉄そのものだけではない。

 誰が作り、誰が運び、どこで荷を替え、どの道なら冬にも通れるのか。


 流れを知る者ごと、流れを奪う。



『また来る』


 シンは、そう言った。


『来なくていい』


 オキは答えた。


『それでも来る』


 あの時は、次に来る日があると思っていた。


 ミコもいる。

 川辺で石を拾い、袖を泥で汚し、何事もなかったように赤い石を見せてくると思っていた。


『父さん、赤い石が好きだった。夕焼けみたいだから』


 父の骨を川へ送った後、ミコはそう言った。


『悲しいよ。泣いたよ。もう泣いた。だから今は石を集める』


 あの小さな手を思い出した。


 白い石。

 黒い石。

 緑の石。

 夕焼け色の赤い石。


 どれも何かの役に立つわけではない。

 それでもミコは拾った。


 昨日までのシンなら、それを遊びと呼ばなかったかもしれない。



 風向きが変わった。


 最初に来たのは、濡れた灰の匂いだった。


 次に、焼けた藁。

 焦げた穀。

 魚の脂。


 その奥に、髪や皮を焼いた時の、覚えたくない臭いが混じっていた。


 アサメの足が速くなる。


「近い」


 タダが言った。


 ナギは答えなかった。


 四人は最後の斜面を下った。



 オキの集落は、そこにあった。


 形だけは。



 入口の目印になっていた二本の曲がり木は、片方が折れていた。


 その先に並んでいた竪穴の家は、半分以上が焼け落ちている。


 土を掘り下げた床へ、屋根が落ちていた。

 炭になった垂木が折り重なり、灰の下ではまだ赤い火が息をしている。


 風が吹くたび、屋根を葺いていた草の灰が浮いた。


 春の雪のように見えた。


 白くはなかった。



 魚を干していた棚が倒れている。


 縄は焼け、魚は黒く縮み、地面へ貼りついていた。


 機織りの道具は、柱ごと踏み折られていた。

 織りかけの布が泥の中へ引きずり出され、何人もの足で踏まれている。


 籠は裂かれた。

 土器は割られた。

 蓄えていた木の実は灰と混ざり、雨水の溜まった窪みへ流れ込んでいた。


 ただ壊したのではない。


 ここで明日も暮らすために必要なものが、選んで壊されていた。



「ミコ!」


 アサメが呼んだ。


 返事はない。


「ミコ!」


 焼け残った壁の向こうへ回る。

 崩れた屋根を持ち上げ、灰の中を探る。


「オキ!」


 声が集落の奥まで抜けていく。


 誰も答えない。


 生きた者の声が、一つもなかった。



 シンは、以前オキと話した家へ向かった。


 低い入口は残っていた。

 中へ入ると、焦げた梁が斜めに落ちている。


 オキが座っていた場所には、割れた椀があった。


 縁の一部が欠けている。

 初めから欠けていた椀だ。


 オキは、客へ欠けていない方を出し、自分ではいつもそれを使っていた。


 シンは椀へ触れた。


 まだ温かかった。


 火の熱だった。


 人の温度ではない。



「こっちだ」


 タダの声がした。


 家の裏手。


 オキが鉄を置いていた小さな建物だった。


 地面から少し上げた床は焼かれていない。

 太い柱も残っている。


 だが、戸は外されていた。


 中の棚は空だった。


 短い鉄の刃を包んでいた布だけが、床へ散らばっている。

 結び目は解かれていない。刃物で一直線に切られていた。


 数を確かめ、持ち運ぶために、手早く中身だけを抜いた跡だった。


「焼け残ったんじゃない」


 シンが言った。


「焼かなかった」


 アサメが答えた。


 鉄を傷めずに持ち出すために。


 ここに何があり、どこへ置かれているのか知っていた者の仕事だった。



 ナギが入口に立っていた。


 顔から血の気が引いている。


「全部、持っていった」


 呟くように言った。


「なぜ分かる」


 アサメが聞いた。


「布の数」


「数えたことがあるのか」


 ナギは答えなかった。


 しゃがみ、切られた布を一枚拾う。


 指が震えていた。



 集落の中央に、大人が三人倒れていた。


 一人は背に矢を受けている。

 一人は頭を割られていた。

 もう一人は、焼けた家の入口で腕を伸ばしたまま動かない。


 武器を持つ者だけではなかった。


 逃げようとした者。

 火を消そうとした者。

 誰かを庇おうとした者。


 その違いを、襲った側は数えなかった。


 けれど、死体は少なかった。


 集落には、もっと多くの人がいた。


 年寄りもいた。

 女もいた。

 子供もいた。


 皆が逃げきったとは思えない。



 タダが地面へ膝をついた。


 泥の上に残った跡を見る。


「集められた」


「どこへ」


 シンが聞いた。


 タダは集落の北側を指した。


 何人もの足跡が同じ方向へ伸びている。


 歩幅が揃っていない。

 滑った跡がある。

 膝をついた者を引き起こした跡もある。


 その両側に、一定の間隔で深い足跡が並んでいた。


 槍を持つ者が、列の外を歩いた跡だった。


「連れていったのか」


「何人かは」


「何のために」


「道を作らせる。荷を運ばせる。山を案内させる」


 タダは足跡を見たまま言った。


「それが終われば、また別の役に使う」


 声に怒りはなかった。


 怒りより深いところで、硬くなっていた。



 アサメは水場へ向かった。


 集落の端から湧く細い泉は、埋められていなかった。

 水を溜める木の槽も残っている。


「水は殺していない」


 アサメが言った。


「戻るつもりか」


「違う」


 泉の脇に残った足跡へ触れる。


「ここを、次に来る者が使う」


 集落を滅ぼした後、ヤマトの側の者が水場を使う。

 兵が飲む。

 荷を運ぶ者が飲む。

 ここを次の道の途中にする。


 人の暮らしを消し、その場所だけを使う。



「戦じゃない」


 タダが言った。


 槍の石突きで、泥に残った跡を示す。


「戦なら、向かう者同士がいる」


 焼けた家を見る。

 縛られて連れられた列を見る。


「これは狩りだ」


 逃げ道を塞ぐ。

 使えるものを選ぶ。

 抵抗するものを殺す。

 残りを追い立てる。


 獣を狩る時と同じだった。


 違うのは、狩られた側も人だったことだけだ。



「ミコ」


 アサメが、もう一度呼んだ。


 先ほどより小さな声だった。


 返事を恐れているようにも聞こえた。

 返事がないことを恐れているようにも聞こえた。



 シンは、川の方へ歩いた。


 ミコなら、川へ行く。


 理由ではなかった。

 ただ、そう思った。


 川辺には、昨日までと同じ水が流れている。


 集落が焼けても、水は止まらない。

 灰を浮かべ、細い木片を運び、それでも低い方へ流れていく。


 岸の泥に、小さな足跡があった。


 一つ。

 二つ。

 三つ。


 走っている。


 その後ろに、大人の足跡が重なっていた。

 追っているのか、同じ方向へ逃げたのかは分からない。


 途中で土が崩れ、跡は消えた。



 足元に、白い石が落ちていた。


 少し先に、黒い石。


 さらに先に、緑の石。


 シンの心臓が強く打った。


「ミコ」


 声に出した。


 川音が返る。


 石を追った。


 ミコの袋が破れ、逃げる間にこぼれたのかもしれない。

 あるいは、自分の通った道を知らせようと置いたのかもしれない。


 どちらとも決められなかった。


 最後の石は、川が大きく曲がる場所にあった。


 赤かった。


 濡れた表面が、雲の切れ間から差した朝日を受けている。

 夕焼けを小さく固めたような色だった。


 その先に、足跡はなかった。


 川へ入ったのか。

 誰かに抱えられたのか。

 石が、ただここまで流されたのか。


 分からなかった。


 シンは赤い石を握った。


 冷たかった。



 オキの姿も見つからなかった。


 鉄を置いていた建物の裏に、古い杖が折れていた。


 オキの杖だった。


 先端は長い年月で丸くなり、握る場所だけが黒く艶を持っていた。


 その近くに血がある。


 多くはない。

 だが、雨で薄まっても見える程度には残っていた。


 血の跡は、連れ去られた列へ続いていた。


「生きている」


 シンが言った。


 自分へ言い聞かせる声だった。


「少なくとも、ここでは死んでいない」


 アサメは折れた杖を拾った。


「ここでは、な」


 希望を否定しなかった。

 希望だけにも縋らなかった。



 四人は日が傾くまで周囲を探した。


 アサメは尾根へ上がった。

 タダは連れ去られた列を追った。

 ナギは川下を見た。

 シンは川上を探した。


 何度も名を呼んだ。


 オキ。

 ミコ。

 知っている者。

 知らない者。


 返事はなかった。



 夕方、タダが戻った。


「追えない」


 短く言った。


「岩場で三つに分かれている」


「三つ?」


「縛った者を分けた。足跡を消すために水も使っている」


 偶然ではない。

 追う者がいると知っていた動きだった。


「ハヤセは」


 シンは言いかけた。


 最後まで続けなかった。


 ハヤセなら、もっと殺さずに済む道を選んだかもしれない。

 逃げられる隙を残したかもしれない。


 だが、ここには死者がいる。

 家は焼けている。

 人は連れ去られている。


 減らした罪が、消えるわけではなかった。



 日が沈む前に、死者を並べた。


 焼け残った布で、一人ずつ包んだ。


 今すぐ骨を川へ送ることはできない。

 火を焚けば、まだ近くにいるかもしれない兵へ居場所を知らせる。


 アサメは三人の胸元へ、小さな石を一つずつ置いた。


 山の石。

 川の石。

 集落の地面から拾った石。


「戻ってくる」


 誰へともなく言った。


「必ず、送る」


 風が布の端を揺らした。



 夜は、集落から少し離れた岩屋で過ごした。


 火は小さくした。


 煙が岩肌を這い、外へ出る前に薄くなる。


 誰も腹が減ったと言わなかった。

 それでもタダは干し肉を四つに割り、一つずつ渡した。


 生きている者は食わなければならない。


 シンは噛んだ。


 塩の味がした。


 オキの集落へ、川下から運ばれていた塩と同じ味だった。



 アサメは岩壁へ背を預け、折れた杖を膝へ置いていた。


 火を見ていない。

 何もない暗がりを見ている。


「ミコの事は、いつから知ってる」


 シンが聞いた。


「生まれた時から」


「ずっと?」


「オキが山へ来る時、あの子もついてきた。歩けるようになる前は、背負われていた」


 アサメの指が、杖の折れたところをなぞる。


「初めて歩いた時も、石を拾った。口へ入れた。オキが取り上げると泣いた」


「今と変わらないな」


「今は、口には入れない」


「そこは変わったか」


 わずかな沈黙。


 アサメの口元が、動きかけた。

 笑みにはならなかった。


「父親が死んでから、泣かなくなった」


「泣いたって言ってた」


「人のいないところでな」


 シンは手の中の赤い石を見た。


 ミコは泣いた。

 泣き終えたから石を拾った。


 悲しくなくなったわけではない。

 それでも次の日を生きるために、石を拾った。



「怖いか」


 シンが聞いた。


 アサメはすぐに答えなかった。


 火の向こうで、タダが顔を上げる。

 ナギは俯いたまま動かない。


「怖い」


 やがて、アサメが言った。


 声は静かだった。


「敵が来ることではない」


 膝の上の杖を見る。


「生きていた山が、消えることが怖い」


 道が消える。

 火の焚き方が消える。

 誰がどの石を好んだか、どの魚をどの季節に獲ったか、誰が笑う時に鼻を鳴らしたか。


 人が死ねば、そういうものまで消える。


「ヤマトは、土地を取ったと言うだろう」


 アサメは続けた。


「だが土地だけが残っても、山は同じではない」


 泉は残っている。

 川も流れている。

 木々も立っている。


 それでも、オキの集落はもう昨日と同じ場所ではなかった。



「取り戻す」


 シンが言った。


「何を」


「オキも、ミコも。連れていかれた人も」


「道が分からない」


「探す」


「敵の数も分からない」


「それも調べる」


「死ぬかもしれない」


 シンは、そこで言葉を止めた。


 死ねば戻れる。


 その考えが浮かんだ。


 すぐに消した。


『死ぬ覚悟と、死ねばいいという考えは、似ているようで反対だ』


 ミチヌシの声が残っている。


「死なない道を探す」


 シンは言い直した。


「一人で無理なら、皆で探す」


 アサメはシンを見た。


 しばらく見た後、小さく頷いた。



「道なら」


 ナギが言った。


 火の向こうで、顔を上げる。


「俺が知ってる」


 声が掠れていた。


 アサメがナギを見る。


「どの道だ」


「ヤマトが入った道」


 岩屋の中が静かになった。


「さっきの沢を使えば、見張りから見えない。集落の裏へ出る。鉄を置く小屋にも近い」


 ナギの指が、自分の膝を強く掴んでいる。


「水場を残せば、後から来る兵が使える。人を連れ出すなら北の岩場で三つに分ける。あそこからなら、川道と尾根道と、古い塩の道へ出られる」


「なぜ知っている」


 アサメの声は低かった。


 ナギは答えない。


 火が小さく爆ぜた。


 シンは、朝から積み重なっていた違和感を思い出した。


 迷わず選んだ道。

 空の鉄包みを見て、全部持っていったと断じたこと。

 追跡を防ぐ分かれ道。


 ナギは知りすぎていた。


「ナギ」


 シンが呼んだ。


「お前、誰から聞いた」


 ナギは目を閉じた。


 いつもの笑いはない。


 海の言葉を幾つも知り、誰とでも話し、道と道の間を軽く渡っていた男。


 その口が、今は開かなかった。


 長い沈黙の後。


「聞いたんじゃない」


 ナギは言った。


「俺が、教えた」


 シンの手の中で、赤い石が冷たくなった。


「俺、キジなんだ」



(第五十五話へ)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ