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遊び

第五十三話 遊び



 白が、消えた。


 次の瞬間、息が入った。


「っ……は、ぁっ!」


 シンは寝床の上で身を起こした。


 喉が焼けるように痛み、胸は入ってきた空気を押し返そうとする。


 首、胸、腹、肩に触れる。どこも欠けていない。


 白い光に削り取られた感触は残っていた。


 手を握り、開く。動いた。

 だが、震えは止まらなかった。



 外から、子供の声がした。


「水、こっち!」


「そっちじゃない!」


「低い方に行く!」


 トン、チン、カン。


 朝の光も、屋根から落ちる雫も前と同じだった。


 ハヤセが去り、ミチヌシのヒスイを見つける朝。

 その夜、神託が下り、モモはタケミカヅチの声に塗り潰された。

 アサメが前へ出て、白い光が全てを削った。



「……駄目だ」


 口から漏れた。


 死ねば戻れる。

 戻れば違う道を選べる。


 ワカレの刃は二度目に避けた。それでも死んだ。


 今度は、何を避ければいい。


 モモを来させないのか。自分が山を去るのか。

 ミサネを止めるのか。モモの刀を奪うのか。


 どれも間に合わず、できるとも思えない。


 確かめられる場所は一つあった。


 シンは立ち上がった。



「どこへ行く」


 集落の外れで、タダに呼び止められた。


 腕には、割った薪が抱えられている。


「少し、森へ」


「顔色が悪い」


「すぐ戻る」


「前もそう言った」


 シンは言葉に詰まった。


 タダにとっての昨日と、シンにとっての昨日は違う。


「今度は、戻るために行く」


「分からない」


「俺も分からない」


 タダはしばらくシンを見た。


「昼までに戻れ」


「分かった」


「戻らなければ、アサメが行く」


「それは困る」


「なぜ」


「今は聞くな」


 タダは首を傾げた。

 それ以上は聞かなかった。



 シンは、ヒスイの光を待たなかった。


 前の道で追った白い髪も、二本の獣道が重なる場所も覚えている。


 雨を吸った森では、木の根の間を細い流れが走っていた。

 刃が飛んでくる気がしたが、何も来ない。


 前と同じ場所へ着くと、ミチヌシは、すでにそこにいた。


 二つの道が重なる場所に、杖をついて立っている。

 首元のヒスイが、朝の薄い光を透かしていた。


「早かったな」


 ミチヌシが言った。


「待ってたのか」


「そうとも言える」


「また曖昧な言い方しやがって」


 シンは息を整えた。

 それから、結論から言った。


「俺は、この後にお前と会った」


 ミチヌシは驚かない。


「ワカレも来た。お前と戦った。あいつは、俺をしばらく生かしておくと言った」


「そうか」


「その夜、モモに殺された」


 そこで初めて、ミチヌシの目がわずかに動いた。


「モモは警告しに来た。だが神託と同時に何かがモモを塗り潰した。刀から白いものが出て、俺も、アサメも……炉も全部消えた」


 話しながら、心臓が早くなった。


「どうすればいい」


 シンは聞いた。


「モモを集落へ来させなければいいのか。夜までに俺が山を出るのか。神託を止める道があるのか」


「それを私が決めれば、お前の道ではなくなる」


「またそれかよ!」


 鳥が驚いて飛び立った。


「答えを聞きに来たんだ」


「答えは、起きた後になら言える」


「起きる前に必要なんだよ」


「だから、道は難しい」


「感心してる場合か」


 ミチヌシは怒らなかった。

 杖の先で、道の端に溜まった水を軽く掻き回す。


 波紋が広がる。

 水の中で丸い葉が一枚、波に押されて向きを変えた。


「お前は、起きることを知っている」


「ああ」


「ならば、それまでと同じ道を歩かねばよい」


「だから、違う道を聞いてる」


「道を変えようとする者は、たいてい先の道を見ている」


 ミチヌシがシンを見た。


「見えている方へ行かないことは、思うより難しい」


「じゃあ、どうやって逸れる」


「遊べ」


 シンは黙った。


「……は?」


「遊びは、行く先を決めない」


「何を言ってる」


「食は腹を満たし、狩りは獣を殺す。道はどこかへ至る。だが遊びは、終わっても何も得ないことがある」


「今、そんな無駄をしろって言うのか」

 

「無駄だから、行くべき道から逸れる」


 シンは、真剣に考えた。

 真剣に考えて、やはり分からなかった。


「みんな死ぬかもしれないんだぞ」


「知っているから、お前はその夜へ向かってまっすぐ歩いている」


「止めたいからだ」


「止めるための道も、その夜へ繋がっている」


 ミチヌシは水の中の葉を見た。


「時には、行くべきではない方へ行け」



「シン!」


 声がした。


「いた!」


「見つけた!」


 トン、チン、カンが、三方向から同時に現れた。


 トンは木の枝を剣のように持っている。

 チンの腰には、編んだ草の縄が巻かれていた。

 カンは、両手に平たい石を抱えている。


「何でここにいる」


「遊ぶから!」


「川原に鬼の家を作る!」


「シンは大きい石を運ぶ!」


「勝手に役を決めるな」


 トンがシンの右手を掴んだ。

 チンが左の袖を引いた。

 カンは抱えていた石を一つシンの腕へ乗せた。


「役、決まった」


「これから大事な話があるんだ」


「大事な話、終わった?」


 カンがミチヌシに聞いた。


「終わった」


「おい!」


「じゃあ行こう!」


 三人が同時に引っ張る。


 シンは抵抗した。

 力ならシンの方が強い。だが三人は別々の方向へ進み、どこへ耐えればいいのか分からない。

 結局、シンは前のめりになって後を追った。


「とりあえず、流されてみろ」


 背後からミチヌシの声がした。


「お前、ぜったい適当だろ!」


 返事はなかった。



 シンたちの姿が木々の向こうへ消えた後。


 ミチヌシは、しばらくその方角を見ていた。


「遊びねぇ」


 頭上から声がした。


 大きな木の枝に、ワカレが腰をかけていた。

 いつからいたのか、葉も枝も何も告げていない。


「あれで変わると思う?」


「分からない」


 ミチヌシは答えた。


「ミチヌシ君にも?」


「私にも」


 ワカレは楽しそうに笑った。


「やっぱり、彼は面白いねぇ」


「面白がるな」


「無理だよ。殺すたびに違う道を持ってくるんだ。見たくもなる」


「ヤツの道行は、お前にも見えない」


「そっちは?」


「見えない」


 今度は、ワカレが少しだけ黙った。


 すぐに口元へ笑みを戻す。


「じゃあ、見送ろうか」


「手を出すな」


「今は出さないよ」


「今は、か」


「道は変わるからね」


 ワカレは枝の上へ寝転んだ。

 木の実を一つ取り、後頭部で手を組む。


「遊びの先は、神様にも読めないよ」


 ミチヌシは、その言葉を否定しなかった。



 川原には、それなりの建物ができていた。


 ただし、誰が見ても家とは呼ばない代物だった。


 丸い石を半円に積み、中心の枝には赤い布が結ばれている。


「これ、旗なのか?」


「鬼の舌!」


 トンが言った。


「風を食べる!」


 チンが言った。


「旗でもいい」


 カンが言った。


「じゃあ最初から旗でいいだろ」


「駄目!」


「鬼の舌だから強い!」


「旗だとすぐ負ける!」


「旗の立場が弱すぎる」


 シンは川から拾った石を運び、半円の外側へ並べた。


 仕方なく手を貸したが、石は崩れ、縄は届かず、すぐに見ていられなくなった。


「そこ、下に大きい石を置け」


「これ?」


「それは丸い。流れに押される。平たいのがいい」


「シン、鬼の家作ったことある?」


「ない」


「じゃあ、なんで分かる?」


「分かるんじゃなくて、崩れるのが嫌なんだ」


「シンが一番本気!」


「違う!」


 否定した瞬間、トンが積んだ反対側の壁が崩れた。

 シンは反射的に手を伸ばし、三つの石を支えた。


「ほら、本気!」


「お前らが本気でやれ!」


 チンとカンが笑った。

 トンも笑った。


 シンはため息をついた。

 その口元が、自分で気づかないうちに少し緩んでいた。



「連れてきた!」


 カンの声に振り返ると、モモがいた。


 カンに袖を掴まれたまま、川原の端に立っている。

 薄桃色の衣。

 黒い髪。

 左側で結ばれた髪と、桃色の飾り。


 川原にいるには、あまりにも白く、あまりにも汚れていなかった。


「……どうして」


「近くにいた」


 カンが答えた。


「近くって、どこに」


「分からない」


「分からないのに見つけたのか」


「こっちにいると思った」


 カンはそれで説明が済んだ顔をした。


 勘だった。

 だが、当たっている。


 モモは、カンに引かれた袖を見た。

 次に川原の建築物を見た。

 それからシンを見る。


「……シン」


「ああ」


 白い光が目の裏を走り、シンの肩が強張る。

 モモは、その動きを見ていた。


「……異常」


「何でもない」


「……不同意」


「何に」


「……警戒」


 モモの目が、シンの首と腹を順に見た。


 記憶ではなくとも、モモのどこかにはシンが消えた時間の跡がある。


「モモ」


「……何」


「今夜、何か起きるのか」


 モモの目が止まった。


「……同期予測、あり」


「やっぱりか」


「……なぜ、認識」


「それは……」


「モモの真似!」


 トンが二人の間へ割って入った。


 背を伸ばす。

 両腕を体の横へ揃える。

 顔から無理やり表情を消す。


「……確認」


 似ていなかった。


 チンが続く。


「……誤差」


 声を低くしすぎて、喉が潰れた老人のようになっている。


 カンは、その場で小さく首を傾げた。


「……りょ」


 これだけは、少し似ていた。


 シンは吹き出した。


 白い光へまっすぐ繋がっていた思考が、その瞬間だけ途切れた。


「……笑唱、確認」


 モモが言った。


「笑唱てなんだ。笑いだ」


「……修正」


「モモもやる!」


 トンがモモの右手を掴んだ。


「……何を」


「鬼の家!」


「鬼の舌!」


「石運び!」


「……目的、不明」


「遊びだからな」


 シンが答えた。


「俺も、まだよく分かってない」


 モモはシンを見た。


 シンは石の小さな建物を見た。

 アサメへ話す。モモを拘束する。全員を逃がす。

 どれも白い光へ繋がっている気がした。


 行くべきではない方。


 それがこの石の山だとは、まだ信じられない。


 それでも。


「……仕方ない」


 シンは袖をまくった。


「やるか」



 モモは、遊びが分からなかった。


 石を運ぶのはできた。

 平たい石と丸い石を分け、大きさと厚さの順に並べる。


 やり方は正確だった。

 正確すぎた。


「それ、使えない!」


 トンが言った。


「……平面の歪み、最小」


「きれいすぎる!」


「……不合理」


「鬼の手みたいな石がいい!」


「鬼の手は見たことあるのか」


「ない!」


「ないものみたいにはできない」


「できる!」


 モモが困ったようにシンを見た。


 シンは肩をすくめた。


「無いものを作るのが遊びらしい」


「……定義が広すぎる」


「俺もそう思う」


 チンは、石を並べる二人の周りに草の縄を引いた。


「ここから水!」


「水をどうする」


「流す!」


「すでに流れている」


「違う水!」


「水に違う水があるのか」


「モモ、質問しすぎ!」


 モモは黙った。


 シンはまた笑った。


 モモの視線が、その笑いへ向く。

 わずかに目が細くなった。


「今のは、笑唱か」

 

「笑いだって」


「……記録」


 モモはそれからも間違えた。

 崩す石を直し、水を止める遊びで水抜きを作り、喧嘩では両方の言い分を確認して止めた。


 そのたびに三人は文句を言い、違う方法を思いついた。


 何一つ、最初の予定どおりに進まなかった。



 日が西へ傾き始めた。


 川原の石に伸びた影が、水の揺れと一緒に形を変えている。

 日が沈めば、神託の時刻が近づく。


 シンは何度も空を見た。


 遊びで本当に変わるのか。石を積む間にも神託は近づいている。


 モモも、時々手を止めた。


「……同期までの予測時間、短縮」


「どのくらいだ」


「……日没後、一刻以内」


 遊んでいる場合ではない。


 そう思うと、シンの胸がまた硬くなった。


「モモ、こっち!」


 トンは気にしない。


 川の中心に飛び石を並べ、反対側へ渡ろうとしていた。


「ここを渡る!」


「……必要性、なし」


「渡るから!」


「……対岸に目的、なし」


「戻ってくる!」


「じゃあ渡らなくていいだろ」


「モモ!」


 トンが本気で怒った。


 モモは、再びシンを見た。


「目的なんかなくていい」


 シンは言った。


「渡って、戻ってこい」


「……不合理」


「それでいいんだよ」


 モモは、しばらく川を見た。


 最初の石へ足を置く。

 衣の裾が水面へ触れた。


 二つ目。

 三つ目。


 揺れない。

 腕を広げることもなく、真っ直ぐ渡っていく。


「違う!」


 チンが言った。


「何が」


「落ちそうにする!」


「……落下可能性を増加させる意義、なし」


「モモは上手すぎる!」


 理不尽だった。


 モモは対岸へ着いた。

 振り返る。


 わずかに目を細める。

 それが、モモにできる反論の全てだった。



 トンが渡り始めた。


 一つ目の石を踏む。

 二つ目へ飛ぶ。


 着地と同時に石が傾いた。


「うわ!」


 トンの体が流れの方へ傾く。


 モモが動いた。


 対岸から一歩で流れへ入り、トンの腕を掴む。

 繋がれた刀が大きく揺れ、黒漆の鞘がトンの肩へ当たりかけた。


 モモの反応が止まる。


「……接触危険」


 トンを川岸へ戻す。

 それから、腰から刀を外した。


 子供を傷つける障害を、一時的に除いただけの動きだった。


 鞘に入ったままの刀を、川辺の平たい岩へ置く。


 鞘に結ばれた桃色の飾りと濡れた房が、岩の上へ流れた。


「フツ、そこにいて」


 モモが言った。


 シンは刀を見た。


「フツ?」


「……個体呼称」


「その刀の名か」


「……同意」


 フツ。


 白い光を放った刀。

 モモの手の延長にありながら、独立した名を持つ何か。


 その名を、シンは初めて知った。



 モモは、もう一度渡ることになった。


 今度はトンの手を引いている。

 トンは、わざと体を揺らした。


「おっ、おっ、おっ」


「……自己操作、不安定」


「落ちそう!」

 

「……事実と異なる」


 チンとカンが、川岸で笑っている。


 その足元で、ほとんど完成していた石の堰が、小さく鳴った。


 先ほどから溜まっていた水が、石の隙間を押し広げる。


「チン、そこ踏むな!」


 シンが叫んだ。


「え?」


 チンは踏んだ。


 石が外れた。


 溜まっていた水が、一気に吐き出された。


 普段の川よりわずかに高い波が、川辺の岩へ乗り上げる。


 フツの鞘が濡れた。

 岩の上でわずかに回る。


 桃色の飾りが水へ引かれた。


「あ」


 言ったのはトンだった。


 フツが岩から落ちた。


 黒い鞘は一度、流れの中で立った。

 すぐに横たわり、流れに押されて動き始めた。


「止めろ!」


 シンは川岸を走った。


 手を伸ばす。

 届かない。


 チンも走る。

 カンは川へ入ろうとして、滑った。


 シンがカンの首の後ろを掴む。

 その間に、フツは流れの中心へ入った。


 狭まった流れは速い。黒い鞘は一度浮かび、次の岩を回ると見えなくなった。



 モモが止まっていた。


 川の中。

 トンの腕を掴んだまま、フツが消えた方角を見ている。


 トンも、モモの顔を見上げた。


「……フツ」


 モモが言った。


 いつもと同じ、平らな声だった。

 だが、その後が続かない。


「……流失」


「ごめん」


 トンが言った。

 今までで一番小さな声だった。


「……追跡する」


 モモはトンを抱き上げ、川岸へ戻した。


 次にシンを見る。


「……シン。同期」


「刀を取ってこい」


 モモの目が、わずかに揺れた。


「……予測時刻までに、復帰不可能の可能性」


「それでも、フツは大事なんだろ」


「……同意」


 モモは、流れとシンを交互に見た。


 シンは自分が、モモを死の道具から遠ざけようとしているのか、大切な物を探しに行かせようとしているのか、分からなくなった。


 どちらでもあった。

 どちらでもなかった。


 最初から、こんな結果を狙っていない。


 モモは何かを言いかけた。

 言葉にはしなかった。


 そのまま身を翻した。


 川下へ去る。


 白い衣が木々の間へ消えた。

 桃の甘い香りも、流れを追うように薄くなっていった。



「怒った?」


 トンが聞いた。


「困ったんだと思う」


「同じ?」


「少し違う」


「取りに行く?」


「モモの方が速い」


「じゃあ、待つ?」


 シンは空を見た。


 日が山の端へ触れかけている。

 いつもならば、集落へ戻る時刻だ。


 待てば、夜になる。

 神託が来る。


 モモは川下にいる。

 フツは、そのさらに先だ。


「戻るぞ」


 シンは言った。


「モモは?」


「自分で戻れる」


「フツは?」


「モモが取りに行った」


「鬼の家は?」


 シンは崩れかけた石の山を見た。


「明日、続きをやる」


 トンの顔が少しだけ上がった。


「モモも?」


「フツが見つかったらな」


 チンとカンも頷いた。


 三人の手と膝は泥だらけで、シンの袖にも川砂が付いている。

 何の役にも立たず、完成したものもない時間だった。


 それで、道は逸れた。



 集落へ戻ると、アサメが待っていた。


 炉の脇に立ち、泥だらけの四人を見る。


「何をしていた」


「鬼の家!」


「鬼の舌!」


「フツを流した!」


 カンは正直だった。


 アサメの目がシンへ向く。


「フツとは何だ」


「モモの刀」


「桃色もいたのか」


「いた」


「今は」


「刀を追って川下へ行った」


 アサメは、一度だけ川下の方角を見た。


「そうか」


 それだけだった。


「怒らないのか」


「何に」


「遊んでたことに」


「子供が遊ぶのは普通だ」


「俺もだぞ」


「知っている」


「じゃあ、何で子供って言った」


 アサメは答えず、濡れたシンの袖を掴んだ。


「洗ってこい」


「今日は冷えてない」


「ならば、汚れたままでもいいのか」


「行ってきます」


 背後でナギが笑った。


「遊び帰りの子みたいだね」


「言うと思った!」


「顔色は昨日よりいいよ」


 タダがシンの肩へ手を置いた。


「泥も多い」


「それは見れば分かる」


「洗え」


「分かったよ!」



 日が沈んだ。


 シンは炉のそばに座っていた。


 アサメが炉を読んでいる。

 タダは外周を見に行った。

 ナギは網の切れた場所を繕い、トン、チン、カンは今日の石の家がどれほど強かったかで言い争っている。


 昨夜と同じ時間が近づいていた。


 シンは、炉の対面を見た。

 モモが立っていた場所。


 今夜、そこにモモはいない。


 空を見る。

 星は見えている。

 雲はない。


 それでも、いつ白く塗り潰されるのかと思うと、息が浅くなった。


 枝が爆ぜた。


 シンの体が跳ねた。


「どうした」


 アサメが振り返る。


「……何でもない」


 時間が過ぎる。


 一息。

 もう一息。


 シンは白い光を待った。


 来ない。


 遠くで、山鳥が一度だけ鳴いた。

 水の音がする。

 炉の火は、いつもと同じ赤さで揺れている。


 空は白くならなかった。



 月が木の梢より高くなった頃、甘い匂いがした。


 シンは立ち上がった。


 モモが戻ってきた。

 衣の裾は膝まで濡れ、裸足に泥が付いている。

 長い黒髪にも、木の葉と小さな枝がからんでいた。


 手には、フツがあった。


 黒漆の鞘は傷つき、桃色の飾りから水が落ちている。


「見つけたのか」


「……回収、完了」


 モモは、シンを見た。

 首。

 腹。

 手足。


 無事であることを、一つずつ確かめている。


「……同期、発生済み」


 シンの胸が強く打った。


「何が起きた」


「……上位命令、受信」


「修正しろと言われたか」


「……同意」


 モモはフツを見た。


「……実行器、未接続」


 次に、川下を振り返る。


「……対象、捕捉不能」


「それで、どうなった」


「……再照合、未完了」


 モモは、ごく僅かに首を傾げた。


「……接続、終了」


 終わった。


 神託もタケミカヅチも消えてはいない。今夜の短い接続が、何も終えずに切れただけだ。

 その時フツは水の中にあり、モモは遠く、シンはそこにいなかった。


 それだけだった。


 それだけで、今夜は誰も死ななかった。



「……こんなことでいいのか」


 シンは呻いた。


 モモが、もう一度首を傾げる。


「……何が」


「いや。分からない」


 すると、寝ていたはずのトンが、毛皮の中から顔を出した。


「フツ、あった?」


「……回収済み」


「よかった」


 トンはそれだけ言って、毛皮の中へ戻った。


 チンが、その隣から顔を出す。


「明日も遊ぶ?」


 モモは答えなかった。


 カンも顔を出した。


「流さないようにする」


「まずそれを守れ」


 シンが言った。


 モモは三人を見た。

 手の中のフツを見た。


「……参加、保留」


「来るって!」


「保留だ」


「来るの保留!」


「都合よく言い換えるな」


 ナギが網の向こうで笑った。

 タダも夜回りから戻ってきた。

 アサメは、濡れたモモのために炉の脇を空けた。


 モモはすぐに入らなかった。

 だが、去りもしなかった。


 やがて、炉の光が届く場所へ座った。


 フツを膝の上へ置き、濡れた桃色の飾りを指でほぐし始める。


 アサメが、乾いた布を一枚投げた。

 モモは受け取る。


「拭け」


「……りょ」


 布でフツを拭く。

 次に自分の髪の水を拭く。


 誰かが根菜の入った土器を炉へかけた。

 タダが薪を足した。

 ナギがもうほどけている場所を見つけ、縫い直す。


 トン、チン、カンは、今度こそ寝息を立て始めた。


 何も起きていないように見えた。

 本当は、神の名を被った命令が来て、モモはシンを殺すはずだった。


 だが、その夜は、フツの飾りから落ちる水の音と、炉の中で木が爆ぜる音しかしなかった。


 そして、誰も死ななかった。


 答えのない遊びが、答えの決まっていた夜を、少しだけ違う方へ流した。



 最後の日常は、そうとは知られないまま始まった。


 そして。終わった。



 翌日未明。


 ナギが、鳥の声で全員を起こした。


 ケン。


 一度。

 少し間を置いて、もう一度。


 ケン。


 寝息が止まり、炉の火だけが赤く残る。


 シンは跳ね起きた。


 外へ出る。


 朝になる前の空は青黒く、山の形はまだ影でしかない。


 その影の一つから、煙が上がっていた。


 炉の煙ではない。

 朝飯の火でもない。


 黒く、太い煙だった。

 風に押されても途切れず、山の向こうから空へ流れ続けている。


 アサメが、シンの隣へ立った。


「あの方角は」


 シンは聞いた。


 答えたのはナギだった。


 声が、いつもより低かった。


「オキの集落」


 誰も何も言わなかった。


 遊びで一つの死は逸れた。


 しかし、ヤマトの道は、別の場所ですでに人の暮らしへ踏み込んでいた。


 黒い煙は、何も知らない空へ上がり続けていた。



(第五十四話へ)


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