神託
第五十二話 神託
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夜明け前。
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大きな淡水湖は、霧の底に沈んでいた。
対岸は見えない。
岸近くに立つ杭も、葦の穂も、半ばから先を白く失っている。
水と空の境はなく、湖面だけが時折、眠るものの胸のようにゆっくり上下した。
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風はなかった。
それでも霧は動いている。
水の上を這い、岸へ寄り、また湖の奥へほどけていく。
その白さの中で、鈴が一つ鳴った。
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りん。
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高く澄んだ音ではない。
小さな青銅の鈴が、湿った空気を震わせる低い音だった。
音は霧へ吸われながら、それでも水の上を遠くまで渡っていった。
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湖畔には、夜のうちに設けられた斎場があった。
生木の杭を四方へ立て、その間へ細く裂いた麻を渡してある。
地面には新しい砂が敷かれ、その上へ編み目の細かな筵が置かれていた。
恒久の社ではない。
屋根も壁も持たず、祭りが終われば枝も布も器も片づけられる、一夜だけの清い場所だった。
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その斎場から少し離れた浅瀬に、ミサネは立っていた。
胸の下まで水へ入っている。
衣は何もつけていない。
黒髪が濡れて肩と背へ張りつき、先端を水面へ漂わせていた。
夜明け前の水にさらされた肌は、霧より白く見える。
しかし白いだけではなかった。
肩は細いが脆くない。
腕にも、腰にも、長く水の中で姿勢を保つための静かな力があった。
湖の冷たさを拒まず、歯を鳴らすことも、肩を縮めることもなく受け入れている。
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冷たくないわけではない。
足先から熱が奪われる。
膝が痛み、腹の奥が締まり、息を吸うたび胸の内側まで冷える。
それを感じた上で、動かない。
祭りとは、感じなくなることではなかった。
感じてなお、形を崩さないことだった。
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ミサネは目を閉じていた。
両手を水へ沈める。
指を開く。
掌を返し、水を掬って額へ触れさせる。
口。
胸。
最後に、髪の生え際から水を流す。
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輪が生まれた。
ミサネを中心に広がる。
一つ。
二つ。
三つ。
霧の中へ入り、見えなくなる。
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岸には、祭りに仕える女が二人待っていた。
声を出さない。
視線も必要以上に上げない。
一人は晒した麻布を持ち、もう一人は白い衣と玉の緒を両腕に載せている。
さらにその後ろには、鹿の肩甲骨を包んだ布、炭火を入れた土器、清水を張るための浅い盤が並べられていた。
盤の向こうには、磨かれた青銅鏡が立てられている。
水だけを見るのではない。
火だけを読むのでもない。
骨へ走る割れ目。
鏡が返す光。
水へ映る空。
それらが重なった時に現れるものを、ミサネは神の言葉として受け取ってきた。
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幼い時から。
飢えが来る前も。
病が来る前も。
里が焼かれる前も。
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見えた。
告げた。
それでも、変えられなかった。
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ミサネは最後に一度、深く沈んだ。
水が頭を越える。
湖の中から空を見ると、霧の白さがさらに遠かった。
音が消える。
鈴も、火も、岸に並ぶ兵の息遣いも聞こえない。
自分の心臓だけが、水の中で鈍く鳴っていた。
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その暗がりに、炉が見えた。
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小さな火だった。
土器から湯気が立ち、子供の手が椀を奪い合う。
大きな男が薪を足し、海の匂いを持つ若者が笑っている。
弓を使う女が、誰かの背へ腕を回していた。
その近くに、白い姿が立っている。
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白桃。
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白桃は炉を見ていた。
鬼を探す目ではない。
火を、食事を、人の輪を、そこへ自分が入れる距離を測る目だった。
薄桃の衣の袖口に煤がついている。
白桃が、それを払わない。
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(また、炉)
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昨夜も見た。
その前の夜も見た。
神託の形になる前、眠りと覚醒の狭間へ、同じ火が何度も入り込んできた。
本来なら見えるはずのないものだった。
白桃は見る側だ。
見られる側ではない。
まして人の炉へ入り、その匂いを衣へ移す存在ではなかった。
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湖の底で、別の像が重なった。
血に濡れた白い手。
震える指。
聞き取れない名を、何度も呼ぶ声。
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ミサネは水を蹴った。
顔を水面へ出す。
初めて、呼吸が乱れた。
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「……っ」
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冷たい空気が肺へ入った。
霧が動く。
岸の女たちが一歩進み、しかし手を出す前に止まる。
ミサネは自分の足で岸へ上がった。
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濡れた足が新しい砂へ跡を残す。
一歩。
また一歩。
女たちは麻布で水を拭った。
髪。
肩。
背。
手際は素早く、触れる時間は短い。
白い衣を肩へ掛け、前を合わせ、細い帯で結ぶ。
首へ碧玉と淡い緑の玉を連ねた緒を掛ける。
腰には、小さな鈴を三つ結んだ。
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「昨夜も、ご覧になりましたか」
一人が尋ねた。
声は、湖へ届かないほど小さい。
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「少し」
「何を」
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ミサネは答えるまでに、わずかな間を置いた。
「山の炉を」
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女は頭を下げた。
それ以上は聞かなかった。
聞かないよう教えられているからではない。
聞いても、ミサネを軽くする言葉がないと知っているからだった。
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ミサネは湖へ振り返った。
霧の下に、先ほど自分が作った波紋はもうない。
何もなかったように白い。
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(白桃が、揺れている)
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三年前から感じていた。
泣く子供へ意識を向けた時。
風に散る花を見上げた時。
灰の里で、一人の男を前に刃を止めた時。
白桃の奥には、誰かがいる。
封じられ、名を奪われ、それでも完全には消えなかった誰かが。
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今、その誰かが炉の火で目を覚ましかけている。
白桃という白い牢の内側から、指を掛けている。
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ミサネは腰の鈴へ触れた。
冷たかった。
湖の水よりも、冷たく感じた。
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朝日が霧を薄くする頃、斎場の外へ一人の男が戻ってきた。
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泥の匂いがした。
濡れた革。
血止めに使った草。
何日も煙を吸った布。
清められた砂と香木の匂いが満ちる場所へ、山そのものを引きずって入ってきたようだった。
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ハヤセは麻の境の手前で止まった。
片膝をつく。
脇腹には新しい布が巻かれている。
縫われた傷を庇っているのが、立ち方だけで分かった。
顔色は悪い。
目の下も暗い。
それでも背は曲がっていなかった。
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「ミサネ様」
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ミサネは、浅い盤へ湖の水を注いでいた。
手を止めない。
「戻りましたか、イヌ」
「はい」
「追う者は」
「撒きました」
「その傷は、追う者から受けたものですか」
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ハヤセは答えなかった。
ミサネは水を注ぎ終えた。
盤を置く。
ようやく男を見る。
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「縫われていますね」
「山の者に」
「敵と告げられている者に、傷を閉じてもらったのですか」
「……はい」
「食も受けましたか」
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ハヤセの目が動いた。
「なぜ、それを」
「顔に書いてあります」
「そのような顔はしていません」
「では、匂いでしょう」
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ミサネの声は静かだった。
責めてはいない。
ハヤセも、それが分かっている。
だから余計に、答えにくそうだった。
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「鹿の骨と、根菜の汁でした」
「美味しかったですか」
「報告に必要ですか」
「必要ではありません」
「……美味かったです」
「そうですか」
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ミサネはほんの少し目を伏せた。
炉の像が、また胸の奥へ浮かんだ。
白桃も、同じものを口にしたのだろうか。
熱い汁へ、息を吹いたのだろうか。
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「山域の様子を」
ミサネが言った。
ハヤセの顔から、わずかな人間らしさが消えた。
役へ戻る顔だった。
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「雪解けは進んでいます。川は増水。南の斜面は崩れやすい。荷を伴う列は、今入れば三日に一度は止まります」
「人は」
「山を離れる気はありません」
「説得を」
「しました」
「聞かなかった」
「はい」
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「白桃は」
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短い問いだった。
ハヤセの沈黙は、少し長かった。
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「山域にいます」
「任務は継続していますか」
「継続している、と本人は答えます」
「本人は」
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ミサネはその言葉を繰り返した。
「あなたは、どう見ました」
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ハヤセの泥に汚れた指が、膝の上でわずかに曲がる。
「白桃は、炉のそばにいました」
「それだけですか」
「汁を飲んだそうです」
「そうですか」
「山菜も」
「苦かったでしょうね」
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今度こそ、ハヤセが顔を上げた。
「ご存じなのですか」
「見ただけです」
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神託で。
夢で。
どちらともつかない場所で。
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「白桃は、何と呼ばれていましたか」
「……モモ」
「本人は、その呼び名を」
「受け入れています」
「白桃と呼んだ時は」
「自分はモモだと訂正しました」
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斎場の外で、火が小さく爆ぜた。
鹿の肩甲骨を温めるための炭火だった。
まだ骨は置かれていない。
それでもミサネには、割れる音のように聞こえた。
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「ほかには」
「俺を見て、昔の呼び方で呼びました」
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ハヤセの声が低くなる。
「ハヤ、と」
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ミサネは目を閉じた。
数年前。
灰の中を歩いていた白桃が、突然立ち止まった。
ハヤセを振り返り、同じ音を口にした。
誰にも教えられていないはずの呼び方だった。
あれは一度きりではなかった。
消えずに残っていた。
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「あなたは、何と答えました」
「久しぶりだと」
「そうですか」
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ミサネは目を開けた。
「報告は、それで終わりですか」
「はい」
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嘘だった。
正確には、すべてではなかった。
ハヤセは何かを置いてきている。
誰かの名か。
教えた道か。
炉のそばで交わした言葉か。
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ミサネは追及しなかった。
見えることと、暴くことは違う。
それだけは、牢の中で覚えた。
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「ハヤセ」
役ではなく、名で呼んだ。
男の肩が、わずかに動く。
「休みなさい」
「戻る準備をします」
「その前に休みなさい」
「問題ありません」
「問題がない者は、自分の血で砂を汚しません」
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ハヤセは自分の脇腹を見た。
布の端から、新しい赤が滲んでいる。
砂へ一滴落ちていた。
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「命令ですか」
「お願いです」
「命令より断りにくい」
「知っています」
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ハヤセは、ほんの少しだけ苦い顔をした。
頭を下げる。
立ち上がる時、一度だけ体が傾いた。
それでも手を借りず、斎場の外へ歩いていった。
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ミサネは、その背を見送った。
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(また、戻らせる)
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灰の里から連れ出した男を。
白桃を止められるかもしれないと言って、生きる理由を失った男へ役を与えた。
そして今も、その役を外してやれない。
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神託は牢だった。
だが、その牢へ他人を入れているのは、もう神だけではなかった。
自分も、その一人だった。
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昼前。
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「邪魔するよ」
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清めの境を、断りもなく跨ぐ声がした。
祭りに仕える女が二人固まる。
兵の一人が剣へ手を掛ける。
別の兵が止めた。
抜いても意味がないと知っていた。
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金色の髪が、白い麻布の間から現れた。
ワカレだった。
朝露の残る草を踏んできたはずなのに、足が濡れていない。
砂にも跡がつかない。
散歩の途中で、面白そうなものを見つけた顔をしている。
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「また来たのですか」
ミサネが言った。
「その言い方、歓迎されてないね」
「歓迎していません」
「正直だなぁ」
「ここは斎場です」
「知ってる。だから来た」
「出てください」
「入ったばかりなのに?」
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ワカレは中央へ置かれた浅い盤を覗いた。
湖の水には、青銅鏡が返す薄い光が浮かんでいる。
金色の髪と、笑った顔が、波もないのに少し歪んで映った。
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「相変わらず、きれいに整えるね」
「触れないでください」
「触ってないよ」
「あなたは、触れなくても乱します」
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ワカレは水面の上で指を止めた。
本当に触れてはいない。
だが、指先の真下から小さな輪が広がった。
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「乱す、は言い過ぎじゃない?」
「では、何をしていると」
「混ぜてる」
「同じことです」
「違うよ。水へ泥を入れれば濁る。でも、別の流れを入れれば川になる」
「私は川を作っているのではありません」
「じゃあ、何を作ってるの」
「人が渡れる流れを」
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ワカレの笑みが、ほんの少し薄くなった。
「渡れないものは?」
「流されます」
「人も?」
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ミサネは答えなかった。
答えないことが答えになる時もある。
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「ミサネ」
「なんですか」
「川は、人が整える前から川だよ」
「暴れる川は、人を殺します」
「堰き止めた水も、いつか人を殺す」
「それでも、今日を生きる水は要ります」
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ワカレは盤の向こうからミサネを見た。
いつもの軽さが少し消えていた。
「それ、自分で選んだ答え?」
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ミサネの指が、腰の鈴へ触れる。
「私が告げなければ、助かった者も死にます」
「うん」
「薬を運ぶ道も、病を避ける道も、神託から生まれました」
「うん」
「だから私は見ます」
「見えた後で、誰が道を一本にしてる?」
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ミサネは黙った。
大王の近くへ座る者。
軍を数える者。
鉄を欲しがる者。
神の声を、人を動かす言葉へ変える者。
そして、見えたものを告げる自分。
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「あなたは、何を見に来たのです」
ミサネは問いを変えた。
「白桃ちゃん」
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ワカレは即答した。
「揺れてるよ」
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ミサネの目がわずかに動いた。
「それを、あなたが言いますか」
「俺が揺らしたみたいに言わないでよ」
「違うのですか」
「少しは混ぜた。でも、最初に火を入れたのは俺じゃない」
「では、誰です」
「本人たちじゃない?」
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ワカレは水面へ映る空を見た。
「白桃ちゃんは、鬼を名前で呼び始めた。熱いものへ息を吹く。苦い山菜を二度食べる。鹿肉は二枚」
「よく見ていますね」
「道を見るのが役だから」
「あなたの役は、人を斬ることでは」
「それも道を切る仕事」
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軽く言った。
ミサネは、その軽さの下に血があることを知っている。
ワカレは、誰より人に近い顔で笑い、誰より簡単に人を道の一部として扱う。
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「それで、どう見えました」
「きれいだった」
「何が」
「乱れ方が」
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ミサネの胸の奥で、湖中に見た炉が揺れた。
自分も同じことを思った。
混ざっている。
定められた流れから外れている。
それなのに、壊れたものには見えなかった。
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「神託の刻が来ます」
「うん」
「出てください」
「見てていい?」
「駄目です」
「何も触らないよ」
「いるだけで乱します」
「ひどいなぁ」
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ワカレは盤から離れた。
麻の境を跨ぐ前に、足を止める。
振り返らないまま言った。
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「ミサネ」
「なんですか」
「今日の神託、気をつけて」
「いつも通り見ます」
「見えるものより、見せられるものの方にね」
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ミサネは答えなかった。
金色の髪が麻布の向こうへ消える。
足音は、最後までしなかった。
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浅い盤の水には、ミサネの顔だけが残った。
静かな顔だった。
乱れていない。
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(乱れていない)
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そう思った時、腰の鈴が一度だけ鳴った。
触れていないのに。
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神託の刻は、日が西へ傾き始めた頃に来た。
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朝の霧は消えていた。
湖は青黒く、傾いた陽を細長く返している。
岸には兵が列を作った。
槍を伏せ、弓を地へ置き、刃の柄へ触れない。
祭りに仕える者たちは麻の境の内側へ座った。
誰も話さない。
言葉を覚える役の者だけが、ミサネの正面より少し外れた場所に控えている。
神託を一語も変えず、三度唱えて人の記憶へ残すためだった。
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ミサネは浅い盤の前へ座った。
その向こうに青銅鏡。
右に鈴。
左に鹿の肩甲骨。
骨には小さな窪みが幾つも刻まれている。
炭火で熱した硬い木の先を、その窪みへ押し当てる。
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じゅ。
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骨の脂が焦げる匂いがした。
甘くない。
肉を焼く匂いとも違う。
乾いた獣の内側が、火で開かれていく匂いだった。
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もう一度。
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じゅ。
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細い亀裂が走る。
乾いた音。
ミサネは骨を見た。
次に鏡を見る。
最後に、水を見る。
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鈴を振る。
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りん。
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湖面へ風が走った。
葦が一度だけ鳴る。
火が低くなる。
兵の呼吸が揃う。
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ミサネは目を閉じた。
来るものを待つ。
求めない。
選ばない。
形を与えない。
そう教えられてきた。
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しかし今日は、待つ前から炉があった。
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火。
湯気。
笑う子供。
白い女。
黒い衣の男。
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水が光った。
鏡がその光を返す。
光は空からではなく、盤の底から湧いたように見えた。
ミサネの閉じた瞼を、白く透かす。
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目が開いた。
だが、湖畔を見てはいなかった。
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「……北」
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ミサネの声に、別の響きが重なった。
男とも女ともつかない。
遠い。
冷たい。
言葉が声になるより前から、意味だけが頭蓋の内側へ入ってくる。
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「……日高見、揺らぎあり」
「……北つ流れ、未統合」
「……白桃、定まらず」
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控えていた者が、その言葉を低く繰り返す。
一度。
二度。
三度。
忘れないために。
後で、神の言葉へ人の都合を足す者へ渡すために。
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ミサネの右手が水へ触れた。
水面に輪が広がる。
青銅鏡の中で、輪は逆向きに進んでいるように見えた。
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そこで、像が割れた。
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泥。
黒い土。
炉の火。
鹿の骨。
割れた土器。
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朝に見た炉ではない。
燃えている。
薪ではないものまで燃えている。
家の柱。
毛皮。
人の髪。
白い灰の中に、骨が混じっている。
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ミサネの呼吸が乱れた。
神託の最中に息を乱したことはない。
それでも、胸が一度大きく持ち上がった。
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像が変わる。
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白桃がいた。
刀を持っている。
刃から白い光が消えずに残っている。
足元に、黒い衣の男が倒れている。
顔は見えない。
だが、白桃の血に濡れた手が、その頬へ触れていた。
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白桃は泣いていた。
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声を上げない。
顔も大きくは変わらない。
ただ、目から涙が落ちている。
何が起きたのか理解できず、それでも失ったことだけを体が知っている泣き方だった。
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「……違う」
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ミサネ自身の声が漏れた。
重なっていた声が、一瞬だけ途切れる。
周囲の者が顔を上げる。
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男の周囲で、見えない流れが幾つも折り重なっていた。
死んでいる男。
生きている男。
首から血を流す男。
腹を刺される男。
炉の前で笑う男。
白桃に名を呼ばれる男。
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同じ顔が、違う道の上にいる。
一つの未来ではない。
選ばれなかったものまで、水の底から浮かび上がっている。
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(観測者)
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言葉を教えられたわけではない。
それでも、そうだと分かった。
あの男が見ているから、消えた道が完全には消えない。
白桃が感じているから、失われた時間の痛みだけが残る。
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そして、その重なりは。
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(きれいだ)
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ミサネは思った。
思ってはいけないことだった。
整わない流れ。
定まらない白桃。
神託に従わない未来。
それを美しいと思えば、自分がこれまで選び、切り捨ててきたものまで揺らぐ。
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それでも、思った。
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水面が激しく揺れた。
無風の湖に波が立つ。
腰の鈴が鳴る。
一つではない。
三つすべてが、乱暴にぶつかり合った。
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りん。
りん。
りん。
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冷たい意味が、頭の奥へ押し込まれる。
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「……誤差、確認」
「……観測個体、歴史分岐を誘発」
「……白桃、深層記録汚染」
「……同期を実行」
「……修正せよ」
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ミサネの喉が、勝手に言葉を作った。
止めようとした。
舌が動く。
声が出る。
自分の体なのに、自分の言葉ではない。
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(見えるだけではない)
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初めて理解した。
これは神託ではない。
少なくとも、今来ているものは違う。
未来を見せる声ではない。
未来を一つへ狭める命令だった。
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ワカレの声が蘇る。
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『見えるものより、見せられるものの方にね』
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ミサネは水へ入れた手を握った。
爪が掌へ食い込む。
水中で血が滲む。
それでも、声は止まらない。
⸻
「……優先度、最大化」
「……白桃、定まれ」
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最後の言葉が出た瞬間、ミサネは盤を倒した。
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水が砂へ広がる。
鏡が倒れる。
骨が割れる。
祭りに仕える者たちが息を呑んだ。
兵が動きかけ、しかし誰もミサネへ触れられない。
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ミサネは両手を地へついた。
吐く。
何も出ない。
湖の水と、焦げた骨の匂いだけが喉へ戻ってきた。
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「ミサネ様!」
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女たちが駆け寄る。
ミサネは片手を上げた。
一人で立つという合図だった。
だが、腕が震えている。
膝にも力が入らない。
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「……問題、ありません」
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自分で言って、その言葉が誰のものか分からなくなった。
⸻
麻の境の外から、ハヤセが来た。
休めと言われた男が、既に剣を帯び、旅の装束へ戻っている。
倒れた鏡。
割れた骨。
砂へ広がる水。
それらを一度に見る。
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「何が見えました」
⸻
ミサネは答えなかった。
答えれば、男をまた牢へ送る。
答えなくても、白桃は既に同期される。
⸻
「ミサネ様」
「ハヤセ」
名で呼ぶ。
「今夜、山へ戻れますか」
「戻ります」
「傷が」
「歩けます」
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昨日と同じ答えだった。
歩けるから歩く。
戻る場所があるからではない。
戻らなければ、誰かが余計に死ぬから歩く。
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「白桃を」
ミサネの声が止まる。
何を命じる。
止めろと言うのか。
見張れと言うのか。
シンという男を守れと言うのか。
それは、自分が見た神託への反逆になる。
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「……見ていてください」
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灰の里で頼んだのと同じ言葉だった。
ハヤセの目が細くなる。
「何が起きます」
「分かりません」
「見えたのでしょう」
「見えたものが、起きることなのか、起こさせるものなのか、分からないのです」
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ハヤセは、長くミサネを見た。
やがて頭を下げる。
「分かりました」
「それから」
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ミサネは、砂へ落ちた鈴を拾った。
濡れた指で握る。
「もし白桃が、誰かを名前で呼んだら」
「はい」
「その名を、忘れないでください」
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ハヤセは答えなかった。
答える代わりに、もう一度深く頭を下げた。
そして背を向けた。
今朝戻ったばかりの山へ、また歩き始めた。
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ミサネは追わなかった。
止めることもできなかった。
湖の水面は、もう静かになっている。
倒れた鏡には、白い空だけが映っていた。
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その日の昼。
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シンは約束どおり、日が真上へ来る前に炉の集落へ戻った。
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ミチヌシは、集落の見える場所まで来なかった。
森の途中で足を止めた。
道のない斜面を杖で一度示し、そのまま木々の間へ溶けるように消えた。
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「また会えるか」
シンが聞いた時、返ってきたのは短い言葉だけだった。
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「道があれば」
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相変わらず、答えになっているようでなっていない。
だが、今度は少しだけ分かった。
会うための道は、待っているだけでは現れない。
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集落へ戻ると、タダが入口に立っていた。
腕を組み、何も言わない。
その後ろにナギ。
さらに後ろから、トン、チン、カンが顔を出している。
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「昼前」
シンが言った。
「まだ日は真上じゃない」
「戻った」
タダが言った。
「戻った」
トンが繰り返す。
「死んでない」
チンが確認する。
「温めなくていい」
カンが結論を出した。
「その話、まだ続いてるのか」
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ナギが笑った。
だが、その目はシンの顔色と手足を確かめていた。
冗談の形で、戻ったことを確認している。
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「誰に会ったの」
「昔の知り合い」
「シンの昔って、どのくらい昔?」
「説明すると長い」
「じゃあ飯の時に聞く」
「話すとは言ってない」
「聞くだけなら出来る」
「それ、会話じゃないだろ」
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ナギは笑った。
トンたちはミチヌシの杖を真似し、枝を持ってゆっくり歩き始めた。
何を見たのか知らないのに、動きだけ妙にそれらしい。
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その平和が、夕方まで続いた。
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鹿の皮を干す。
罠を直す。
雨で崩れた水の道へ石を置く。
根菜を刻む。
子供が笑う。
炉へ火が入る。
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ヤマトが動いている。
神託が軍を北へ向ける。
ワカレはシンを生かして道の先を見ようとしている。
ミチヌシは答えをくれない。
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それでも、夕餉の匂いがした。
人は、世界の行き先が決まらない時でも腹が減る。
火を囲む。
食べる。
今日を終わらせる。
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その当たり前さが、シンにはひどく大切に思えた。
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夜。
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空は晴れていた。
雨に洗われた星が、春の山の上へ細かく散っている。
炉の火は小さくなり、赤い炭が時折内側で崩れた。
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トン、チン、カンはもう眠っている。
ナギも毛皮へ潜った。
タダは集落の外周を見に行っていた。
アサメは炉の向こうで、弓弦へ脂を薄く塗っている。
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シンは火を見ていた。
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『死ぬ覚悟と、死ねばいいという考えは、似ているようで反対だ』
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ミチヌシの言葉が残っている。
ワカレの言葉も残っている。
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『死なない道も、ちゃんと残しておきなよ』
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死なずに変える。
その方法を探す。
そう決めたばかりだった。
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甘い匂いがした。
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桃。
雨の後の土と、炉の煙の中でも分かる匂い。
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シンは顔を上げた。
モモがいた。
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集落の外ではない。
家々の間に立っている。
炉の光が顔へ届くほど近い。
白い衣の裾には泥がついていた。
いつもなら汚れ一つない姿で現れるモモが、足元を選ぶ余裕もなく来たことが分かる。
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「モモ」
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呼ぶ。
モモの目が、すぐにシンを捉えた。
「……シン」
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返事が速い。
確認する間がない。
呼ばれる前から、名前を用意していた声だった。
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アサメの手が止まる。
弓弦から指を離し、立ち上がった。
「どうした」
シンが聞いた。
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モモは一歩近づいた。
すぐに、また一歩下がった。
自分の体を、シンへ近づけてはいけないもののように扱っている。
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「……逃げて」
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炉の炭が、ぱち、と鳴った。
シンは動けなかった。
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逃げて。
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前にも聞いた。
灰の里で、ハヤセへ向けて漏れた言葉。
そして、自分が死ぬ時、戻って、と言った声。
命令ではない。
誰かに与えられた言葉でもない。
モモ自身が、何かを失わないために選んだ言葉だった。
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「何が来る」
「……神託」
「神託が、ここへ来るのか」
「……命令情報、接近」
モモは自分の胸元を押さえた。
「……同期が始まる」
「止められないのか」
「……遅延中」
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モモの右手が震えている。
刀を握る手だった。
その手を、左手で強く押さえている。
指が白くなるほど力を入れていた。
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「お前が、自分で来たのか」
「……そう」
「命令される前に」
「……そう」
「俺を逃がすために」
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モモは答えなかった。
目が揺れる。
問いの意味は分かっている。
答えに使う言葉だけが見つからない。
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「……シンが」
一度、止まる。
「……いなくなるのは」
また止まる。
「……不同意」
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シンの胸が強く打った。
覚えていないはずの言葉だった。
死んだ時間で、モモが何度も口にした言葉。
記憶ではない場所から、また出てきた。
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「分かった」
シンは立ち上がった。
「一緒に逃げよう」
「……不可」
「なんで」
「……私が、来る」
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意味を理解するまでに、一拍かかった。
追手が来るのではない。
軍が来るのでもない。
今ここにいるモモ自身が、白桃として襲ってくる。
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アサメがシンの横へ立った。
腰の刃へ手を置く。
「どのくらいある」
モモはアサメを見る。
「……不明」
「子供を動かす時間は」
「……ある。たぶん」
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アサメは迷わなかった。
指を口へ当て、短く鋭い音を出した。
タダを呼ぶ合図だった。
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すぐに足音が来る。
タダが外周から戻る。
ナギも毛皮を跳ね上げて起きた。
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「子供を谷の割れ目へ」
アサメが言う。
「今すぐ」
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タダは理由を聞かない。
トンとチンを両腕へ抱え、カンを背へ乗せる。
ナギが水と干し肉を掴む。
寝起きの子供たちが声を上げかける。
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「静かに」
ナギが言った。
いつもの軽さはなかった。
「鳥になれ。鳴かずに飛ぶ鳥」
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三人は口を押さえた。
タダが森へ走る。
ナギも続く。
だが途中で一度だけ振り返った。
モモを見る。
白い衣。
桃の飾り。
鬼の島へ来た時と同じ姿。
それでも、今は違う。
逃げろと知らせに来た白桃を、ナギは何と呼べばいいのか分からない顔をしていた。
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「ナギ!」
アサメが呼ぶ。
ナギは走り出した。
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シンはモモへ手を伸ばした。
触れる前に、モモが下がる。
「近づくな」
今度は、機械のような区切りがなかった。
短く、切迫した人の声だった。
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「まだ、お前だろ」
「……まだ」
「なら、一緒に止める」
「……できない」
「やる前から決めるな」
「……シン」
⸻
モモの目が大きく揺れた。
「……私は、あなたを斬る」
「お前は斬りたくない」
「……任務は実行される」
「それは白桃だ」
「……同一個体」
「違う」
⸻
シンは即座に言った。
「白桃の戻る場所はヤマトだ。モモには戻る場所がない。お前がハヤセにそう言った」
⸻
モモの呼吸が止まる。
それは、シンが聞いてはいないはずの言葉だった。
消えた時間で、木の陰から聞いた言葉。
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「……なぜ」
「聞いた」
「……記録なし」
「俺には残ってる」
⸻
モモの左手が、自分の胸を掴んだ。
「……私にも」
小さな声。
「……ないのに、ある」
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首を押さえた血の感触。
腹から流れた熱。
戻って、と呼んだ声。
記録にはない。
それでも、感情だけが傷跡のように残っている。
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「なら、そっちを選べ」
シンが言った。
「俺を斬りたくない方を」
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空が白くなった。
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雷鳴はない。
雲もない。
星の間を、一本の白い筋が走った。
それは空を照らしたのではなく、夜の色そのものを一瞬だけ消した。
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モモの体が止まった。
右手を左手で押さえたまま。
逃げろと告げようと口を開いたまま。
呼吸の途中で、ぴたりと止まる。
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「モモ」
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返事はない。
黒い瞳の奥から色が抜ける。
焦点が、目の前のシンから遠い場所へ引かれていく。
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「……同期、開始」
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声が二重になった。
モモの声。
その下へ重なる、遠く冷たい声。
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「……白桃、定まれ」
「……優先度、最大化」
「……観測個体を修正」
⸻
モモの右手が動く。
左手が、それを止める。
自分の腕と自分の腕が、刀の柄の上で争っていた。
細い指の関節が白くなる。
爪が皮膚へ食い込む。
腕が震える。
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「……逃げて」
モモの声が、二重の声の下から漏れた。
「……早く」
⸻
シンは動かなかった。
死ねば戻れるからではない。
今度こそ、死なずに変えると決めたからだった。
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「モモ、聞け」
「……対象、誤差」
「俺はシンだ」
「……排除」
「お前が名前で呼んだ、シンだ」
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白桃の目が、ほんの少し揺れた。
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「……シン」
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二重ではない。
一瞬だけ、モモの声だった。
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しかし右手が左手を振りほどいた。
刃が鞘から抜かれる。
桃色の光ではない。
色を持たない白さが、刀身の縁へ集まっていく。
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アサメがシンの前へ出た。
弓を持っている。
矢を番える。
狙いはモモではない。
刀を持つ手。
放つ。
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矢が飛ぶ。
白桃は見もしなかった。
刃の周囲へ集まる白さへ触れた瞬間、木の軸も石の鏃も細かな粉になって消えた。
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アサメはもう一本を番えない。
弓を捨て、腰の刃を抜いた。
「シン、走れ」
「アサメも」
「アタシは後から行く」
「それ、行かない奴の言い方だ」
「なら、一緒に死ぬか」
⸻
その言葉に、体が止まった。
死ぬ。
アサメが。
タダが。
ナギが。
子供たちが。
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自分は戻るかもしれない。
だが、この枝に残される者たちは戻らない。
死ねば変えられるのではない。
死ねば、変えられなかった世界を一度作る。
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ミチヌシの言葉が、ようやく腹の底へ落ちた。
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「アサメ、退け!」
シンはアサメの腕を掴んだ。
引く。
アサメは動かない。
山に根を下ろした木のようだった。
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「お前が先だ」
「嫌だ」
「聞き分けろ」
「嫌だ!」
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白桃が刀を上げた。
夜が、刀身の周囲から消えていく。
星が見えなくなる。
炉の赤が白へ吸われる。
音が遠ざかる。
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「……修正、実行」
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アサメが振り返った。
シンの胸へ両手を当てる。
昨日、冷えきった体を包んだ手。
熱を分けた手。
今はその手で、全力で突き飛ばす。
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「走れぇッ!」
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シンの体が炉の外へ飛んだ。
背中から泥へ落ちる。
息が詰まる。
起き上がろうとする。
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白い線が走った。
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光ではない。
火でもない。
熱より先に、そこにあるものの輪郭を奪う白だった。
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炉が消える。
石が消える。
土器の半分が、割れることさえなく失われる。
木々の幹へ、真っ白な切断面が走る。
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アサメの影が、白の中にあった。
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「アサメ!」
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シンは泥を蹴った。
逃げるのではなく、戻った。
白の中へ手を伸ばす。
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指先から感覚が消えた。
焼けるのではない。
凍るのでもない。
自分の体が、初めからそこになかったことにされていく。
皮膚。
血。
骨。
順番すらなく、輪郭ごと削られる。
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声が出ない。
喉がない。
痛みを伝える道さえ消えていく。
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白桃の顔が見えた。
瞳は白く光っている。
何も見ていない。
それでも、その目から一筋だけ、透明なものが落ちた。
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「……嫌」
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二重の声が崩れる。
「……違う」
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刀を持つ腕が下がる。
白桃の左手が、自分の右手首を掴む。
遅い。
それでも止めようとしている。
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「シン!!」
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モモだけの声だった。
確認でも、命令でもない。
失うものを呼び止める声だった。
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シンは答えようとした。
口がない。
手も届かない。
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最後に残ったのは、桃の匂いだった。
春の雨。
炉の煙。
苦い山菜。
鹿肉の脂。
モモが、この時代で知ったもの全部を抱えた匂いだった。
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世界が、白く落ちた。
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――死んだ。
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湖畔。
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日は沈みきっていた。
水面には星が映っている。
神託の斎場は崩れたままだった。
倒れた鏡。
割れた鹿の骨。
砂へ乾き始めた水の跡。
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ミサネは一人で立っていた。
祭りに仕える女たちも、兵も、遠ざけている。
腰の鈴を手に握ったまま、北の山を見ていた。
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稜線の向こうが白くなった。
雷ではない。
夜の一部だけが、一瞬消えた。
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遅れて、湖面が震えた。
風のない水へ、幾つもの輪が生まれる。
一つの中心からではない。
あちこちで生まれ、重なり、互いの形を壊していく。
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ミサネは鈴を握りしめた。
縁が掌へ食い込む。
痛みがある。
それで、自分の体がまだ自分のものだと確かめた。
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「……観測者」
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小さく言った。
誰にも届かない声だった。
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あの男は死んだ。
白桃が殺した。
神託が殺させた。
自分の口が、その命令を通した。
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だが、水面の輪は消えない。
一つが消える前に、別の輪が生まれている。
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「……戻るのですか」
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問いへ答える者はいない。
湖だけが、無数の道を描いていた。
広がり。
重なり。
消えたように見えて、また別の場所から始まる。
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ミサネは、その水を見つめた。
初めて、神託の続きを待つのではなく。
神託から外れるものが戻ることを、待っていた。
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(第五十三話へ)




