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神託

第五十二話 神託


⸻


 夜明け前。


⸻


 大きな淡水湖は、霧の底に沈んでいた。


 対岸は見えない。


 岸近くに立つ杭も、葦の穂も、半ばから先を白く失っている。


 水と空の境はなく、湖面だけが時折、眠るものの胸のようにゆっくり上下した。


⸻


 風はなかった。


 それでも霧は動いている。


 水の上を這い、岸へ寄り、また湖の奥へほどけていく。


 その白さの中で、鈴が一つ鳴った。


⸻


 りん。


⸻


 高く澄んだ音ではない。


 小さな青銅の鈴が、湿った空気を震わせる低い音だった。


 音は霧へ吸われながら、それでも水の上を遠くまで渡っていった。


⸻


 湖畔には、夜のうちに設けられた斎場があった。


 生木の杭を四方へ立て、その間へ細く裂いた麻を渡してある。


 地面には新しい砂が敷かれ、その上へ編み目の細かな筵が置かれていた。


 恒久の社ではない。


 屋根も壁も持たず、祭りが終われば枝も布も器も片づけられる、一夜だけの清い場所だった。


⸻


 その斎場から少し離れた浅瀬に、ミサネは立っていた。


 胸の下まで水へ入っている。


 衣は何もつけていない。


 黒髪が濡れて肩と背へ張りつき、先端を水面へ漂わせていた。


 夜明け前の水にさらされた肌は、霧より白く見える。


 しかし白いだけではなかった。


 肩は細いが脆くない。


 腕にも、腰にも、長く水の中で姿勢を保つための静かな力があった。


 湖の冷たさを拒まず、歯を鳴らすことも、肩を縮めることもなく受け入れている。


⸻


 冷たくないわけではない。


 足先から熱が奪われる。


 膝が痛み、腹の奥が締まり、息を吸うたび胸の内側まで冷える。


 それを感じた上で、動かない。


 祭りとは、感じなくなることではなかった。


 感じてなお、形を崩さないことだった。


⸻


 ミサネは目を閉じていた。


 両手を水へ沈める。


 指を開く。


 掌を返し、水を掬って額へ触れさせる。


 口。


 胸。


 最後に、髪の生え際から水を流す。


⸻


 輪が生まれた。


 ミサネを中心に広がる。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 霧の中へ入り、見えなくなる。


⸻


 岸には、祭りに仕える女が二人待っていた。


 声を出さない。


 視線も必要以上に上げない。


 一人は晒した麻布を持ち、もう一人は白い衣と玉の緒を両腕に載せている。


 さらにその後ろには、鹿の肩甲骨を包んだ布、炭火を入れた土器、清水を張るための浅い盤が並べられていた。


 盤の向こうには、磨かれた青銅鏡が立てられている。


 水だけを見るのではない。


 火だけを読むのでもない。


 骨へ走る割れ目。


 鏡が返す光。


 水へ映る空。


 それらが重なった時に現れるものを、ミサネは神の言葉として受け取ってきた。


⸻


 幼い時から。


 飢えが来る前も。


 病が来る前も。


 里が焼かれる前も。


⸻


 見えた。


 告げた。


 それでも、変えられなかった。


⸻


 ミサネは最後に一度、深く沈んだ。


 水が頭を越える。


 湖の中から空を見ると、霧の白さがさらに遠かった。


 音が消える。


 鈴も、火も、岸に並ぶ兵の息遣いも聞こえない。


 自分の心臓だけが、水の中で鈍く鳴っていた。


⸻


 その暗がりに、炉が見えた。


⸻


 小さな火だった。


 土器から湯気が立ち、子供の手が椀を奪い合う。


 大きな男が薪を足し、海の匂いを持つ若者が笑っている。


 弓を使う女が、誰かの背へ腕を回していた。


 その近くに、白い姿が立っている。


⸻


 白桃。


⸻


 白桃は炉を見ていた。


 鬼を探す目ではない。


 火を、食事を、人の輪を、そこへ自分が入れる距離を測る目だった。


 薄桃の衣の袖口に煤がついている。


 白桃が、それを払わない。


⸻


(また、炉)


⸻


 昨夜も見た。


 その前の夜も見た。


 神託の形になる前、眠りと覚醒の狭間へ、同じ火が何度も入り込んできた。


 本来なら見えるはずのないものだった。


 白桃は見る側だ。


 見られる側ではない。


 まして人の炉へ入り、その匂いを衣へ移す存在ではなかった。


⸻


 湖の底で、別の像が重なった。


 血に濡れた白い手。


 震える指。


 聞き取れない名を、何度も呼ぶ声。


⸻


 ミサネは水を蹴った。


 顔を水面へ出す。


 初めて、呼吸が乱れた。


⸻


「……っ」


⸻


 冷たい空気が肺へ入った。


 霧が動く。


 岸の女たちが一歩進み、しかし手を出す前に止まる。


 ミサネは自分の足で岸へ上がった。


⸻


 濡れた足が新しい砂へ跡を残す。


 一歩。


 また一歩。


 女たちは麻布で水を拭った。


 髪。


 肩。


 背。


 手際は素早く、触れる時間は短い。


 白い衣を肩へ掛け、前を合わせ、細い帯で結ぶ。


 首へ碧玉と淡い緑の玉を連ねた緒を掛ける。


 腰には、小さな鈴を三つ結んだ。


⸻


「昨夜も、ご覧になりましたか」


 一人が尋ねた。


 声は、湖へ届かないほど小さい。


⸻


「少し」


「何を」


⸻


 ミサネは答えるまでに、わずかな間を置いた。


「山の炉を」


⸻


 女は頭を下げた。


 それ以上は聞かなかった。


 聞かないよう教えられているからではない。


 聞いても、ミサネを軽くする言葉がないと知っているからだった。


⸻


 ミサネは湖へ振り返った。


 霧の下に、先ほど自分が作った波紋はもうない。


 何もなかったように白い。


⸻


(白桃が、揺れている)


⸻


 三年前から感じていた。


 泣く子供へ意識を向けた時。


 風に散る花を見上げた時。


 灰の里で、一人の男を前に刃を止めた時。


 白桃の奥には、誰かがいる。


 封じられ、名を奪われ、それでも完全には消えなかった誰かが。


⸻


 今、その誰かが炉の火で目を覚ましかけている。


 白桃という白い牢の内側から、指を掛けている。


⸻


 ミサネは腰の鈴へ触れた。


 冷たかった。


 湖の水よりも、冷たく感じた。


⸻


⸻


 朝日が霧を薄くする頃、斎場の外へ一人の男が戻ってきた。


⸻


 泥の匂いがした。


 濡れた革。


 血止めに使った草。


 何日も煙を吸った布。


 清められた砂と香木の匂いが満ちる場所へ、山そのものを引きずって入ってきたようだった。


⸻


 ハヤセは麻の境の手前で止まった。


 片膝をつく。


 脇腹には新しい布が巻かれている。


 縫われた傷を庇っているのが、立ち方だけで分かった。


 顔色は悪い。


 目の下も暗い。


 それでも背は曲がっていなかった。


⸻


「ミサネ様」


⸻


 ミサネは、浅い盤へ湖の水を注いでいた。


 手を止めない。


「戻りましたか、イヌ」


「はい」


「追う者は」


「撒きました」


「その傷は、追う者から受けたものですか」


⸻


 ハヤセは答えなかった。


 ミサネは水を注ぎ終えた。


 盤を置く。


 ようやく男を見る。


⸻


「縫われていますね」


「山の者に」


「敵と告げられている者に、傷を閉じてもらったのですか」


「……はい」


「食も受けましたか」


⸻


 ハヤセの目が動いた。


「なぜ、それを」


「顔に書いてあります」


「そのような顔はしていません」


「では、匂いでしょう」


⸻


 ミサネの声は静かだった。


 責めてはいない。


 ハヤセも、それが分かっている。


 だから余計に、答えにくそうだった。


⸻


「鹿の骨と、根菜の汁でした」


「美味しかったですか」


「報告に必要ですか」


「必要ではありません」


「……美味かったです」


「そうですか」


⸻


 ミサネはほんの少し目を伏せた。


 炉の像が、また胸の奥へ浮かんだ。


 白桃も、同じものを口にしたのだろうか。


 熱い汁へ、息を吹いたのだろうか。


⸻


「山域の様子を」


 ミサネが言った。


 ハヤセの顔から、わずかな人間らしさが消えた。


 役へ戻る顔だった。


⸻


「雪解けは進んでいます。川は増水。南の斜面は崩れやすい。荷を伴う列は、今入れば三日に一度は止まります」


「人は」


「山を離れる気はありません」


「説得を」


「しました」


「聞かなかった」


「はい」


⸻


「白桃は」


⸻


 短い問いだった。


 ハヤセの沈黙は、少し長かった。


⸻


「山域にいます」


「任務は継続していますか」


「継続している、と本人は答えます」


「本人は」


⸻


 ミサネはその言葉を繰り返した。


「あなたは、どう見ました」


⸻


 ハヤセの泥に汚れた指が、膝の上でわずかに曲がる。


「白桃は、炉のそばにいました」


「それだけですか」


「汁を飲んだそうです」


「そうですか」


「山菜も」


「苦かったでしょうね」


⸻


 今度こそ、ハヤセが顔を上げた。


「ご存じなのですか」


「見ただけです」


⸻


 神託で。


 夢で。


 どちらともつかない場所で。


⸻


「白桃は、何と呼ばれていましたか」


「……モモ」


「本人は、その呼び名を」


「受け入れています」


「白桃と呼んだ時は」


「自分はモモだと訂正しました」


⸻


 斎場の外で、火が小さく爆ぜた。


 鹿の肩甲骨を温めるための炭火だった。


 まだ骨は置かれていない。


 それでもミサネには、割れる音のように聞こえた。


⸻


「ほかには」


「俺を見て、昔の呼び方で呼びました」


⸻


 ハヤセの声が低くなる。


「ハヤ、と」


⸻


 ミサネは目を閉じた。


 数年前。


 灰の中を歩いていた白桃が、突然立ち止まった。


 ハヤセを振り返り、同じ音を口にした。


 誰にも教えられていないはずの呼び方だった。


 あれは一度きりではなかった。


 消えずに残っていた。


⸻


「あなたは、何と答えました」


「久しぶりだと」


「そうですか」


⸻


 ミサネは目を開けた。


「報告は、それで終わりですか」


「はい」


⸻


 嘘だった。


 正確には、すべてではなかった。


 ハヤセは何かを置いてきている。


 誰かの名か。


 教えた道か。


 炉のそばで交わした言葉か。


⸻


 ミサネは追及しなかった。


 見えることと、暴くことは違う。


 それだけは、牢の中で覚えた。


⸻


「ハヤセ」


 役ではなく、名で呼んだ。


 男の肩が、わずかに動く。


「休みなさい」


「戻る準備をします」


「その前に休みなさい」


「問題ありません」


「問題がない者は、自分の血で砂を汚しません」


⸻


 ハヤセは自分の脇腹を見た。


 布の端から、新しい赤が滲んでいる。


 砂へ一滴落ちていた。


⸻


「命令ですか」


「お願いです」


「命令より断りにくい」


「知っています」


⸻


 ハヤセは、ほんの少しだけ苦い顔をした。


 頭を下げる。


 立ち上がる時、一度だけ体が傾いた。


 それでも手を借りず、斎場の外へ歩いていった。


⸻


 ミサネは、その背を見送った。


⸻


(また、戻らせる)


⸻


 灰の里から連れ出した男を。


 白桃を止められるかもしれないと言って、生きる理由を失った男へ役を与えた。


 そして今も、その役を外してやれない。


⸻


 神託は牢だった。


 だが、その牢へ他人を入れているのは、もう神だけではなかった。


 自分も、その一人だった。


⸻


⸻


 昼前。


⸻


「邪魔するよ」


⸻


 清めの境を、断りもなく跨ぐ声がした。


 祭りに仕える女が二人固まる。


 兵の一人が剣へ手を掛ける。


 別の兵が止めた。


 抜いても意味がないと知っていた。


⸻


 金色の髪が、白い麻布の間から現れた。


 ワカレだった。


 朝露の残る草を踏んできたはずなのに、足が濡れていない。


 砂にも跡がつかない。


 散歩の途中で、面白そうなものを見つけた顔をしている。


⸻


「また来たのですか」


 ミサネが言った。


「その言い方、歓迎されてないね」


「歓迎していません」


「正直だなぁ」


「ここは斎場です」


「知ってる。だから来た」


「出てください」


「入ったばかりなのに?」


⸻


 ワカレは中央へ置かれた浅い盤を覗いた。


 湖の水には、青銅鏡が返す薄い光が浮かんでいる。


 金色の髪と、笑った顔が、波もないのに少し歪んで映った。


⸻


「相変わらず、きれいに整えるね」


「触れないでください」


「触ってないよ」


「あなたは、触れなくても乱します」


⸻


 ワカレは水面の上で指を止めた。


 本当に触れてはいない。


 だが、指先の真下から小さな輪が広がった。


⸻


「乱す、は言い過ぎじゃない?」


「では、何をしていると」


「混ぜてる」


「同じことです」


「違うよ。水へ泥を入れれば濁る。でも、別の流れを入れれば川になる」


「私は川を作っているのではありません」


「じゃあ、何を作ってるの」


「人が渡れる流れを」


⸻


 ワカレの笑みが、ほんの少し薄くなった。


「渡れないものは?」


「流されます」


「人も?」


⸻


 ミサネは答えなかった。


 答えないことが答えになる時もある。


⸻


「ミサネ」


「なんですか」


「川は、人が整える前から川だよ」


「暴れる川は、人を殺します」


「堰き止めた水も、いつか人を殺す」


「それでも、今日を生きる水は要ります」


⸻


 ワカレは盤の向こうからミサネを見た。


 いつもの軽さが少し消えていた。


「それ、自分で選んだ答え?」


⸻


 ミサネの指が、腰の鈴へ触れる。


「私が告げなければ、助かった者も死にます」


「うん」


「薬を運ぶ道も、病を避ける道も、神託から生まれました」


「うん」


「だから私は見ます」


「見えた後で、誰が道を一本にしてる?」


⸻


 ミサネは黙った。


 大王の近くへ座る者。


 軍を数える者。


 鉄を欲しがる者。


 神の声を、人を動かす言葉へ変える者。


 そして、見えたものを告げる自分。


⸻


「あなたは、何を見に来たのです」


 ミサネは問いを変えた。


「白桃ちゃん」


⸻


 ワカレは即答した。


「揺れてるよ」


⸻


 ミサネの目がわずかに動いた。


「それを、あなたが言いますか」


「俺が揺らしたみたいに言わないでよ」


「違うのですか」


「少しは混ぜた。でも、最初に火を入れたのは俺じゃない」


「では、誰です」


「本人たちじゃない?」


⸻


 ワカレは水面へ映る空を見た。


「白桃ちゃんは、鬼を名前で呼び始めた。熱いものへ息を吹く。苦い山菜を二度食べる。鹿肉は二枚」


「よく見ていますね」


「道を見るのが役だから」


「あなたの役は、人を斬ることでは」


「それも道を切る仕事」


⸻


 軽く言った。


 ミサネは、その軽さの下に血があることを知っている。


 ワカレは、誰より人に近い顔で笑い、誰より簡単に人を道の一部として扱う。


⸻


「それで、どう見えました」


「きれいだった」


「何が」


「乱れ方が」


⸻


 ミサネの胸の奥で、湖中に見た炉が揺れた。


 自分も同じことを思った。


 混ざっている。


 定められた流れから外れている。


 それなのに、壊れたものには見えなかった。


⸻


「神託の刻が来ます」


「うん」


「出てください」


「見てていい?」


「駄目です」


「何も触らないよ」


「いるだけで乱します」


「ひどいなぁ」


⸻


 ワカレは盤から離れた。


 麻の境を跨ぐ前に、足を止める。


 振り返らないまま言った。


⸻


「ミサネ」


「なんですか」


「今日の神託、気をつけて」


「いつも通り見ます」


「見えるものより、見せられるものの方にね」


⸻


 ミサネは答えなかった。


 金色の髪が麻布の向こうへ消える。


 足音は、最後までしなかった。


⸻


 浅い盤の水には、ミサネの顔だけが残った。


 静かな顔だった。


 乱れていない。


⸻


(乱れていない)


⸻


 そう思った時、腰の鈴が一度だけ鳴った。


 触れていないのに。


⸻


⸻


 神託の刻は、日が西へ傾き始めた頃に来た。


⸻


 朝の霧は消えていた。


 湖は青黒く、傾いた陽を細長く返している。


 岸には兵が列を作った。


 槍を伏せ、弓を地へ置き、刃の柄へ触れない。


 祭りに仕える者たちは麻の境の内側へ座った。


 誰も話さない。


 言葉を覚える役の者だけが、ミサネの正面より少し外れた場所に控えている。


 神託を一語も変えず、三度唱えて人の記憶へ残すためだった。


⸻


 ミサネは浅い盤の前へ座った。


 その向こうに青銅鏡。


 右に鈴。


 左に鹿の肩甲骨。


 骨には小さな窪みが幾つも刻まれている。


 炭火で熱した硬い木の先を、その窪みへ押し当てる。


⸻


 じゅ。


⸻


 骨の脂が焦げる匂いがした。


 甘くない。


 肉を焼く匂いとも違う。


 乾いた獣の内側が、火で開かれていく匂いだった。


⸻


 もう一度。


⸻


 じゅ。


⸻


 細い亀裂が走る。


 乾いた音。


 ミサネは骨を見た。


 次に鏡を見る。


 最後に、水を見る。


⸻


 鈴を振る。


⸻


 りん。


⸻


 湖面へ風が走った。


 葦が一度だけ鳴る。


 火が低くなる。


 兵の呼吸が揃う。


⸻


 ミサネは目を閉じた。


 来るものを待つ。


 求めない。


 選ばない。


 形を与えない。


 そう教えられてきた。


⸻


 しかし今日は、待つ前から炉があった。


⸻


 火。


 湯気。


 笑う子供。


 白い女。


 黒い衣の男。


⸻


 水が光った。


 鏡がその光を返す。


 光は空からではなく、盤の底から湧いたように見えた。


 ミサネの閉じた瞼を、白く透かす。


⸻


 目が開いた。


 だが、湖畔を見てはいなかった。


⸻


「……北」


⸻


 ミサネの声に、別の響きが重なった。


 男とも女ともつかない。


 遠い。


 冷たい。


 言葉が声になるより前から、意味だけが頭蓋の内側へ入ってくる。


⸻


「……日高見、揺らぎあり」


「……北つ流れ、未統合」


「……白桃、定まらず」


⸻


 控えていた者が、その言葉を低く繰り返す。


 一度。


 二度。


 三度。


 忘れないために。


 後で、神の言葉へ人の都合を足す者へ渡すために。


⸻


 ミサネの右手が水へ触れた。


 水面に輪が広がる。


 青銅鏡の中で、輪は逆向きに進んでいるように見えた。


⸻


 そこで、像が割れた。


⸻


 泥。


 黒い土。


 炉の火。


 鹿の骨。


 割れた土器。


⸻


 朝に見た炉ではない。


 燃えている。


 薪ではないものまで燃えている。


 家の柱。


 毛皮。


 人の髪。


 白い灰の中に、骨が混じっている。


⸻


 ミサネの呼吸が乱れた。


 神託の最中に息を乱したことはない。


 それでも、胸が一度大きく持ち上がった。


⸻


 像が変わる。


⸻


 白桃がいた。


 刀を持っている。


 刃から白い光が消えずに残っている。


 足元に、黒い衣の男が倒れている。


 顔は見えない。


 だが、白桃の血に濡れた手が、その頬へ触れていた。


⸻


 白桃は泣いていた。


⸻


 声を上げない。


 顔も大きくは変わらない。


 ただ、目から涙が落ちている。


 何が起きたのか理解できず、それでも失ったことだけを体が知っている泣き方だった。


⸻


「……違う」


⸻


 ミサネ自身の声が漏れた。


 重なっていた声が、一瞬だけ途切れる。


 周囲の者が顔を上げる。


⸻


 男の周囲で、見えない流れが幾つも折り重なっていた。


 死んでいる男。


 生きている男。


 首から血を流す男。


 腹を刺される男。


 炉の前で笑う男。


 白桃に名を呼ばれる男。


⸻


 同じ顔が、違う道の上にいる。


 一つの未来ではない。


 選ばれなかったものまで、水の底から浮かび上がっている。


⸻


(観測者)


⸻


 言葉を教えられたわけではない。


 それでも、そうだと分かった。


 あの男が見ているから、消えた道が完全には消えない。


 白桃が感じているから、失われた時間の痛みだけが残る。


⸻


 そして、その重なりは。


⸻


(きれいだ)


⸻


 ミサネは思った。


 思ってはいけないことだった。


 整わない流れ。


 定まらない白桃。


 神託に従わない未来。


 それを美しいと思えば、自分がこれまで選び、切り捨ててきたものまで揺らぐ。


⸻


 それでも、思った。


⸻


 水面が激しく揺れた。


 無風の湖に波が立つ。


 腰の鈴が鳴る。


 一つではない。


 三つすべてが、乱暴にぶつかり合った。


⸻


 りん。


 りん。


 りん。


⸻


 冷たい意味が、頭の奥へ押し込まれる。


⸻


「……誤差、確認」


「……観測個体、歴史分岐を誘発」


「……白桃、深層記録汚染」


「……同期を実行」


「……修正せよ」


⸻


 ミサネの喉が、勝手に言葉を作った。


 止めようとした。


 舌が動く。


 声が出る。


 自分の体なのに、自分の言葉ではない。


⸻


(見えるだけではない)


⸻


 初めて理解した。


 これは神託ではない。


 少なくとも、今来ているものは違う。


 未来を見せる声ではない。


 未来を一つへ狭める命令だった。


⸻


 ワカレの声が蘇る。


⸻


『見えるものより、見せられるものの方にね』


⸻


 ミサネは水へ入れた手を握った。


 爪が掌へ食い込む。


 水中で血が滲む。


 それでも、声は止まらない。


⸻


「……優先度、最大化」


「……白桃、定まれ」


⸻


 最後の言葉が出た瞬間、ミサネは盤を倒した。


⸻


 水が砂へ広がる。


 鏡が倒れる。


 骨が割れる。


 祭りに仕える者たちが息を呑んだ。


 兵が動きかけ、しかし誰もミサネへ触れられない。


⸻


 ミサネは両手を地へついた。


 吐く。


 何も出ない。


 湖の水と、焦げた骨の匂いだけが喉へ戻ってきた。


⸻


「ミサネ様!」


⸻


 女たちが駆け寄る。


 ミサネは片手を上げた。


 一人で立つという合図だった。


 だが、腕が震えている。


 膝にも力が入らない。


⸻


「……問題、ありません」


⸻


 自分で言って、その言葉が誰のものか分からなくなった。


⸻


 麻の境の外から、ハヤセが来た。


 休めと言われた男が、既に剣を帯び、旅の装束へ戻っている。


 倒れた鏡。


 割れた骨。


 砂へ広がる水。


 それらを一度に見る。


⸻


「何が見えました」


⸻


 ミサネは答えなかった。


 答えれば、男をまた牢へ送る。


 答えなくても、白桃は既に同期される。


⸻


「ミサネ様」


「ハヤセ」


 名で呼ぶ。


「今夜、山へ戻れますか」


「戻ります」


「傷が」


「歩けます」


⸻


 昨日と同じ答えだった。


 歩けるから歩く。


 戻る場所があるからではない。


 戻らなければ、誰かが余計に死ぬから歩く。


⸻


「白桃を」


 ミサネの声が止まる。


 何を命じる。


 止めろと言うのか。


 見張れと言うのか。


 シンという男を守れと言うのか。


 それは、自分が見た神託への反逆になる。


⸻


「……見ていてください」


⸻


 灰の里で頼んだのと同じ言葉だった。


 ハヤセの目が細くなる。


「何が起きます」


「分かりません」


「見えたのでしょう」


「見えたものが、起きることなのか、起こさせるものなのか、分からないのです」


⸻


 ハヤセは、長くミサネを見た。


 やがて頭を下げる。


「分かりました」


「それから」


⸻


 ミサネは、砂へ落ちた鈴を拾った。


 濡れた指で握る。


「もし白桃が、誰かを名前で呼んだら」


「はい」


「その名を、忘れないでください」


⸻


 ハヤセは答えなかった。


 答える代わりに、もう一度深く頭を下げた。


 そして背を向けた。


 今朝戻ったばかりの山へ、また歩き始めた。


⸻


 ミサネは追わなかった。


 止めることもできなかった。


 湖の水面は、もう静かになっている。


 倒れた鏡には、白い空だけが映っていた。


⸻


⸻


 その日の昼。


⸻


 シンは約束どおり、日が真上へ来る前に炉の集落へ戻った。


⸻


 ミチヌシは、集落の見える場所まで来なかった。


 森の途中で足を止めた。


 道のない斜面を杖で一度示し、そのまま木々の間へ溶けるように消えた。


⸻


「また会えるか」


 シンが聞いた時、返ってきたのは短い言葉だけだった。


⸻


「道があれば」


⸻


 相変わらず、答えになっているようでなっていない。


 だが、今度は少しだけ分かった。


 会うための道は、待っているだけでは現れない。


⸻


 集落へ戻ると、タダが入口に立っていた。


 腕を組み、何も言わない。


 その後ろにナギ。


 さらに後ろから、トン、チン、カンが顔を出している。


⸻


「昼前」


 シンが言った。


「まだ日は真上じゃない」


「戻った」


 タダが言った。


「戻った」


 トンが繰り返す。


「死んでない」


 チンが確認する。


「温めなくていい」


 カンが結論を出した。


「その話、まだ続いてるのか」


⸻


 ナギが笑った。


 だが、その目はシンの顔色と手足を確かめていた。


 冗談の形で、戻ったことを確認している。


⸻


「誰に会ったの」


「昔の知り合い」


「シンの昔って、どのくらい昔?」


「説明すると長い」


「じゃあ飯の時に聞く」


「話すとは言ってない」


「聞くだけなら出来る」


「それ、会話じゃないだろ」


⸻


 ナギは笑った。


 トンたちはミチヌシの杖を真似し、枝を持ってゆっくり歩き始めた。


 何を見たのか知らないのに、動きだけ妙にそれらしい。


⸻


 その平和が、夕方まで続いた。


⸻


 鹿の皮を干す。


 罠を直す。


 雨で崩れた水の道へ石を置く。


 根菜を刻む。


 子供が笑う。


 炉へ火が入る。


⸻


 ヤマトが動いている。


 神託が軍を北へ向ける。


 ワカレはシンを生かして道の先を見ようとしている。


 ミチヌシは答えをくれない。


⸻


 それでも、夕餉の匂いがした。


 人は、世界の行き先が決まらない時でも腹が減る。


 火を囲む。


 食べる。


 今日を終わらせる。


⸻


 その当たり前さが、シンにはひどく大切に思えた。


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 夜。


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 空は晴れていた。


 雨に洗われた星が、春の山の上へ細かく散っている。


 炉の火は小さくなり、赤い炭が時折内側で崩れた。


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 トン、チン、カンはもう眠っている。


 ナギも毛皮へ潜った。


 タダは集落の外周を見に行っていた。


 アサメは炉の向こうで、弓弦へ脂を薄く塗っている。


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 シンは火を見ていた。


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『死ぬ覚悟と、死ねばいいという考えは、似ているようで反対だ』


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 ミチヌシの言葉が残っている。


 ワカレの言葉も残っている。


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『死なない道も、ちゃんと残しておきなよ』


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 死なずに変える。


 その方法を探す。


 そう決めたばかりだった。


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 甘い匂いがした。


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 桃。


 雨の後の土と、炉の煙の中でも分かる匂い。


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 シンは顔を上げた。


 モモがいた。


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 集落の外ではない。


 家々の間に立っている。


 炉の光が顔へ届くほど近い。


 白い衣の裾には泥がついていた。


 いつもなら汚れ一つない姿で現れるモモが、足元を選ぶ余裕もなく来たことが分かる。


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「モモ」


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 呼ぶ。


 モモの目が、すぐにシンを捉えた。


「……シン」


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 返事が速い。


 確認する間がない。


 呼ばれる前から、名前を用意していた声だった。


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 アサメの手が止まる。


 弓弦から指を離し、立ち上がった。


「どうした」


 シンが聞いた。


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 モモは一歩近づいた。


 すぐに、また一歩下がった。


 自分の体を、シンへ近づけてはいけないもののように扱っている。


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「……逃げて」


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 炉の炭が、ぱち、と鳴った。


 シンは動けなかった。


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 逃げて。


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 前にも聞いた。


 灰の里で、ハヤセへ向けて漏れた言葉。


 そして、自分が死ぬ時、戻って、と言った声。


 命令ではない。


 誰かに与えられた言葉でもない。


 モモ自身が、何かを失わないために選んだ言葉だった。


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「何が来る」


「……神託」


「神託が、ここへ来るのか」


「……命令情報、接近」


 モモは自分の胸元を押さえた。


「……同期が始まる」


「止められないのか」


「……遅延中」


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 モモの右手が震えている。


 刀を握る手だった。


 その手を、左手で強く押さえている。


 指が白くなるほど力を入れていた。


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「お前が、自分で来たのか」


「……そう」


「命令される前に」


「……そう」


「俺を逃がすために」


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 モモは答えなかった。


 目が揺れる。


 問いの意味は分かっている。


 答えに使う言葉だけが見つからない。


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「……シンが」


 一度、止まる。


「……いなくなるのは」


 また止まる。


「……不同意」


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 シンの胸が強く打った。


 覚えていないはずの言葉だった。


 死んだ時間で、モモが何度も口にした言葉。


 記憶ではない場所から、また出てきた。


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「分かった」


 シンは立ち上がった。


「一緒に逃げよう」


「……不可」


「なんで」


「……私が、来る」


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 意味を理解するまでに、一拍かかった。


 追手が来るのではない。


 軍が来るのでもない。


 今ここにいるモモ自身が、白桃として襲ってくる。


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 アサメがシンの横へ立った。


 腰の刃へ手を置く。


「どのくらいある」


 モモはアサメを見る。


「……不明」


「子供を動かす時間は」


「……ある。たぶん」


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 アサメは迷わなかった。


 指を口へ当て、短く鋭い音を出した。


 タダを呼ぶ合図だった。


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 すぐに足音が来る。


 タダが外周から戻る。


 ナギも毛皮を跳ね上げて起きた。


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「子供を谷の割れ目へ」


 アサメが言う。


「今すぐ」


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 タダは理由を聞かない。


 トンとチンを両腕へ抱え、カンを背へ乗せる。


 ナギが水と干し肉を掴む。


 寝起きの子供たちが声を上げかける。


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「静かに」


 ナギが言った。


 いつもの軽さはなかった。


「鳥になれ。鳴かずに飛ぶ鳥」


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 三人は口を押さえた。


 タダが森へ走る。


 ナギも続く。


 だが途中で一度だけ振り返った。


 モモを見る。


 白い衣。


 桃の飾り。


 鬼の島へ来た時と同じ姿。


 それでも、今は違う。


 逃げろと知らせに来た白桃を、ナギは何と呼べばいいのか分からない顔をしていた。


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「ナギ!」


 アサメが呼ぶ。


 ナギは走り出した。


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 シンはモモへ手を伸ばした。


 触れる前に、モモが下がる。


「近づくな」


 今度は、機械のような区切りがなかった。


 短く、切迫した人の声だった。


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「まだ、お前だろ」


「……まだ」


「なら、一緒に止める」


「……できない」


「やる前から決めるな」


「……シン」


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 モモの目が大きく揺れた。


「……私は、あなたを斬る」


「お前は斬りたくない」


「……任務は実行される」


「それは白桃だ」


「……同一個体」


「違う」


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 シンは即座に言った。


「白桃の戻る場所はヤマトだ。モモには戻る場所がない。お前がハヤセにそう言った」


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 モモの呼吸が止まる。


 それは、シンが聞いてはいないはずの言葉だった。


 消えた時間で、木の陰から聞いた言葉。


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「……なぜ」


「聞いた」


「……記録なし」


「俺には残ってる」


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 モモの左手が、自分の胸を掴んだ。


「……私にも」


 小さな声。


「……ないのに、ある」


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 首を押さえた血の感触。


 腹から流れた熱。


 戻って、と呼んだ声。


 記録にはない。


 それでも、感情だけが傷跡のように残っている。


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「なら、そっちを選べ」


 シンが言った。


「俺を斬りたくない方を」


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 空が白くなった。


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 雷鳴はない。


 雲もない。


 星の間を、一本の白い筋が走った。


 それは空を照らしたのではなく、夜の色そのものを一瞬だけ消した。


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 モモの体が止まった。


 右手を左手で押さえたまま。


 逃げろと告げようと口を開いたまま。


 呼吸の途中で、ぴたりと止まる。


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「モモ」


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 返事はない。


 黒い瞳の奥から色が抜ける。


 焦点が、目の前のシンから遠い場所へ引かれていく。


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「……同期、開始」


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 声が二重になった。


 モモの声。


 その下へ重なる、遠く冷たい声。


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「……白桃、定まれ」


「……優先度、最大化」


「……観測個体を修正」


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 モモの右手が動く。


 左手が、それを止める。


 自分の腕と自分の腕が、刀の柄の上で争っていた。


 細い指の関節が白くなる。


 爪が皮膚へ食い込む。


 腕が震える。


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「……逃げて」


 モモの声が、二重の声の下から漏れた。


「……早く」


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 シンは動かなかった。


 死ねば戻れるからではない。


 今度こそ、死なずに変えると決めたからだった。


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「モモ、聞け」


「……対象、誤差」


「俺はシンだ」


「……排除」


「お前が名前で呼んだ、シンだ」


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 白桃の目が、ほんの少し揺れた。


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「……シン」


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 二重ではない。


 一瞬だけ、モモの声だった。


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 しかし右手が左手を振りほどいた。


 刃が鞘から抜かれる。


 桃色の光ではない。


 色を持たない白さが、刀身の縁へ集まっていく。


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 アサメがシンの前へ出た。


 弓を持っている。


 矢を番える。


 狙いはモモではない。


 刀を持つ手。


 放つ。


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 矢が飛ぶ。


 白桃は見もしなかった。


 刃の周囲へ集まる白さへ触れた瞬間、木の軸も石の鏃も細かな粉になって消えた。


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 アサメはもう一本を番えない。


 弓を捨て、腰の刃を抜いた。


「シン、走れ」


「アサメも」


「アタシは後から行く」


「それ、行かない奴の言い方だ」


「なら、一緒に死ぬか」


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 その言葉に、体が止まった。


 死ぬ。


 アサメが。


 タダが。


 ナギが。


 子供たちが。


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 自分は戻るかもしれない。


 だが、この枝に残される者たちは戻らない。


 死ねば変えられるのではない。


 死ねば、変えられなかった世界を一度作る。


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 ミチヌシの言葉が、ようやく腹の底へ落ちた。


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「アサメ、退け!」


 シンはアサメの腕を掴んだ。


 引く。


 アサメは動かない。


 山に根を下ろした木のようだった。


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「お前が先だ」


「嫌だ」


「聞き分けろ」


「嫌だ!」


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 白桃が刀を上げた。


 夜が、刀身の周囲から消えていく。


 星が見えなくなる。


 炉の赤が白へ吸われる。


 音が遠ざかる。


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「……修正、実行」


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 アサメが振り返った。


 シンの胸へ両手を当てる。


 昨日、冷えきった体を包んだ手。


 熱を分けた手。


 今はその手で、全力で突き飛ばす。


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「走れぇッ!」


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 シンの体が炉の外へ飛んだ。


 背中から泥へ落ちる。


 息が詰まる。


 起き上がろうとする。


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 白い線が走った。


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 光ではない。


 火でもない。


 熱より先に、そこにあるものの輪郭を奪う白だった。


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 炉が消える。


 石が消える。


 土器の半分が、割れることさえなく失われる。


 木々の幹へ、真っ白な切断面が走る。


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 アサメの影が、白の中にあった。


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「アサメ!」


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 シンは泥を蹴った。


 逃げるのではなく、戻った。


 白の中へ手を伸ばす。


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 指先から感覚が消えた。


 焼けるのではない。


 凍るのでもない。


 自分の体が、初めからそこになかったことにされていく。


 皮膚。


 血。


 骨。


 順番すらなく、輪郭ごと削られる。


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 声が出ない。


 喉がない。


 痛みを伝える道さえ消えていく。


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 白桃の顔が見えた。


 瞳は白く光っている。


 何も見ていない。


 それでも、その目から一筋だけ、透明なものが落ちた。


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「……嫌」


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 二重の声が崩れる。


「……違う」


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 刀を持つ腕が下がる。


 白桃の左手が、自分の右手首を掴む。


 遅い。


 それでも止めようとしている。


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「シン!!」


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 モモだけの声だった。


 確認でも、命令でもない。


 失うものを呼び止める声だった。


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 シンは答えようとした。


 口がない。


 手も届かない。


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 最後に残ったのは、桃の匂いだった。


 春の雨。


 炉の煙。


 苦い山菜。


 鹿肉の脂。


 モモが、この時代で知ったもの全部を抱えた匂いだった。


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 世界が、白く落ちた。


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 ――死んだ。


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 湖畔。


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 日は沈みきっていた。


 水面には星が映っている。


 神託の斎場は崩れたままだった。


 倒れた鏡。


 割れた鹿の骨。


 砂へ乾き始めた水の跡。


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 ミサネは一人で立っていた。


 祭りに仕える女たちも、兵も、遠ざけている。


 腰の鈴を手に握ったまま、北の山を見ていた。


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 稜線の向こうが白くなった。


 雷ではない。


 夜の一部だけが、一瞬消えた。


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 遅れて、湖面が震えた。


 風のない水へ、幾つもの輪が生まれる。


 一つの中心からではない。


 あちこちで生まれ、重なり、互いの形を壊していく。


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 ミサネは鈴を握りしめた。


 縁が掌へ食い込む。


 痛みがある。


 それで、自分の体がまだ自分のものだと確かめた。


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「……観測者」


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 小さく言った。


 誰にも届かない声だった。


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 あの男は死んだ。


 白桃が殺した。


 神託が殺させた。


 自分の口が、その命令を通した。


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 だが、水面の輪は消えない。


 一つが消える前に、別の輪が生まれている。


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「……戻るのですか」


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 問いへ答える者はいない。


 湖だけが、無数の道を描いていた。


 広がり。


 重なり。


 消えたように見えて、また別の場所から始まる。


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 ミサネは、その水を見つめた。


 初めて、神託の続きを待つのではなく。


 神託から外れるものが戻ることを、待っていた。


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(第五十三話へ)


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