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神託

第五十二話 神託



 夜明け前。



 大きな淡水湖は、霧の底に沈んでいた。


 対岸は見えない。


 岸近くに立つ杭も、葦の穂も、半ばから先を白く失っている。


 水と空の境はなく、湖面だけが時折、眠るものの胸のようにゆっくり上下した。



 風はなかった。


 それでも霧は動いている。


 水の上を這い、岸へ寄り、また湖の奥へほどけていく。


 その白さの中で、鈴が一つ鳴った。



 りん。



 高く澄んだ音ではない。


 小さな青銅の鈴が、湿った空気を震わせる低い音だった。


 音は霧へ吸われながら、それでも水の上を遠くまで渡っていった。



 湖畔には、夜のうちに設けられた斎場があった。


 生木の杭を四方へ立て、その間へ細く裂いた麻を渡してある。


 地面には新しい砂が敷かれ、その上へ編み目の細かな筵が置かれていた。


 恒久の社ではない。


 屋根も壁も持たず、祭りが終われば枝も布も器も片づけられる、一夜だけの清い場所だった。



 その斎場から少し離れた浅瀬に、ミサネは立っていた。


 胸の下まで水へ入っている。


 衣は何もつけていない。


 黒髪が濡れて肩と背へ張りつき、先端を水面へ漂わせていた。


 夜明け前の水にさらされた肌は、霧より白く見える。


 しかし白いだけではなかった。


 肩は細いが脆くない。


 腕にも、腰にも、長く水の中で姿勢を保つための静かな力があった。


 湖の冷たさを拒まず、歯を鳴らすことも、肩を縮めることもなく受け入れている。



 冷たくないわけではない。


 足先から熱が奪われる。


 膝が痛み、腹の奥が締まり、息を吸うたび胸の内側まで冷える。


 それを感じた上で、動かない。


 祭りとは、感じなくなることではなかった。


 感じてなお、形を崩さないことだった。



 ミサネは目を閉じていた。


 両手を水へ沈める。


 指を開く。


 掌を返し、水を掬って額へ触れさせる。


 口。


 胸。


 最後に、髪の生え際から水を流す。



 輪が生まれた。


 ミサネを中心に広がる。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 霧の中へ入り、見えなくなる。



 岸には、祭りに仕える女が二人待っていた。


 声を出さない。


 視線も必要以上に上げない。


 一人は晒した麻布を持ち、もう一人は白い衣と玉の緒を両腕に載せている。


 さらにその後ろには、鹿の肩甲骨を包んだ布、炭火を入れた土器、清水を張るための浅い盤が並べられていた。


 盤の向こうには、磨かれた青銅鏡が立てられている。


 水だけを見るのではない。


 火だけを読むのでもない。


 骨へ走る割れ目。


 鏡が返す光。


 水へ映る空。


 それらが重なった時に現れるものを、ミサネは神の言葉として受け取ってきた。



 幼い時から。


 飢えが来る前も。


 病が来る前も。


 里が焼かれる前も。



 見えた。


 告げた。


 それでも、変えられなかった。



 ミサネは最後に一度、深く沈んだ。


 水が頭を越える。


 湖の中から空を見ると、霧の白さがさらに遠かった。


 音が消える。


 鈴も、火も、岸に並ぶ兵の息遣いも聞こえない。


 自分の心臓だけが、水の中で鈍く鳴っていた。



 その暗がりに、炉が見えた。



 小さな火だった。


 土器から湯気が立ち、子供の手が椀を奪い合う。


 大きな男が薪を足し、海の匂いを持つ若者が笑っている。


 弓を使う女が、誰かの背へ腕を回していた。


 その近くに、白い姿が立っている。



 白桃。



 白桃は炉を見ていた。


 鬼を探す目ではない。


 火を、食事を、人の輪を、そこへ自分が入れる距離を測る目だった。


 薄桃の衣の袖口に煤がついている。


 白桃が、それを払わない。



(また、炉)



 昨夜も見た。


 その前の夜も見た。


 神託の形になる前、眠りと覚醒の狭間へ、同じ火が何度も入り込んできた。


 本来なら見えるはずのないものだった。


 白桃は見る側だ。


 見られる側ではない。


 まして人の炉へ入り、その匂いを衣へ移す存在ではなかった。



 湖の底で、別の像が重なった。


 血に濡れた白い手。


 震える指。


 聞き取れない名を、何度も呼ぶ声。



 ミサネは水を蹴った。


 顔を水面へ出す。


 初めて、呼吸が乱れた。



「……っ」



 冷たい空気が肺へ入った。


 霧が動く。


 岸の女たちが一歩進み、しかし手を出す前に止まる。


 ミサネは自分の足で岸へ上がった。



 濡れた足が新しい砂へ跡を残す。


 一歩。


 また一歩。


 女たちは麻布で水を拭った。


 髪。


 肩。


 背。


 手際は素早く、触れる時間は短い。


 白い衣を肩へ掛け、前を合わせ、細い帯で結ぶ。


 首へ碧玉と淡い緑の玉を連ねた緒を掛ける。


 腰には、小さな鈴を三つ結んだ。



「昨夜も、ご覧になりましたか」


 一人が尋ねた。


 声は、湖へ届かないほど小さい。



「少し」


「何を」



 ミサネは答えるまでに、わずかな間を置いた。


「山の炉を」



 女は頭を下げた。


 それ以上は聞かなかった。


 聞かないよう教えられているからではない。


 聞いても、ミサネを軽くする言葉がないと知っているからだった。



 ミサネは湖へ振り返った。


 霧の下に、先ほど自分が作った波紋はもうない。


 何もなかったように白い。



(白桃が、揺れている)



 三年前から感じていた。


 泣く子供へ意識を向けた時。


 風に散る花を見上げた時。


 灰の里で、一人の男を前に刃を止めた時。


 白桃の奥には、誰かがいる。


 封じられ、名を奪われ、それでも完全には消えなかった誰かが。



 今、その誰かが炉の火で目を覚ましかけている。


 白桃という白い牢の内側から、指を掛けている。



 ミサネは腰の鈴へ触れた。


 冷たかった。


 湖の水よりも、冷たく感じた。




 朝日が霧を薄くする頃、斎場の外へ一人の男が戻ってきた。



 泥の匂いがした。


 濡れた革。


 血止めに使った草。


 何日も煙を吸った布。


 清められた砂と香木の匂いが満ちる場所へ、山そのものを引きずって入ってきたようだった。



 ハヤセは麻の境の手前で止まった。


 片膝をつく。


 脇腹には新しい布が巻かれている。


 縫われた傷を庇っているのが、立ち方だけで分かった。


 顔色は悪い。


 目の下も暗い。


 それでも背は曲がっていなかった。



「ミサネ様」



 ミサネは、浅い盤へ湖の水を注いでいた。


 手を止めない。


「戻りましたか、イヌ」


「はい」


「追う者は」


「撒きました」


「その傷は、追う者から受けたものですか」



 ハヤセは答えなかった。


 ミサネは水を注ぎ終えた。


 盤を置く。


 ようやく男を見る。



「縫われていますね」


「山の者に」


「敵と告げられている者に、傷を閉じてもらったのですか」


「……はい」


「食も受けましたか」



 ハヤセの目が動いた。


「なぜ、それを」


「顔に書いてあります」


「そのような顔はしていません」


「では、匂いでしょう」



 ミサネの声は静かだった。


 責めてはいない。


 ハヤセも、それが分かっている。


 だから余計に、答えにくそうだった。



「鹿の骨と、根菜の汁でした」


「美味しかったですか」


「報告に必要ですか」


「必要ではありません」


「……美味かったです」


「そうですか」



 ミサネはほんの少し目を伏せた。


 炉の像が、また胸の奥へ浮かんだ。


 白桃も、同じものを口にしたのだろうか。


 熱い汁へ、息を吹いたのだろうか。



「山域の様子を」


 ミサネが言った。


 ハヤセの顔から、わずかな人間らしさが消えた。


 役へ戻る顔だった。



「雪解けは進んでいます。川は増水。南の斜面は崩れやすい。荷を伴う列は、今入れば三日に一度は止まります」


「人は」


「山を離れる気はありません」


「説得を」


「しました」


「聞かなかった」


「はい」



「白桃は」



 短い問いだった。


 ハヤセの沈黙は、少し長かった。



「山域にいます」


「任務は継続していますか」


「継続している、と本人は答えます」


「本人は」



 ミサネはその言葉を繰り返した。


「あなたは、どう見ました」



 ハヤセの泥に汚れた指が、膝の上でわずかに曲がる。


「白桃は、炉のそばにいました」


「それだけですか」


「汁を飲んだそうです」


「そうですか」


「山菜も」


「苦かったでしょうね」



 今度こそ、ハヤセが顔を上げた。


「ご存じなのですか」


「見ただけです」



 神託で。


 夢で。


 どちらともつかない場所で。



「白桃は、何と呼ばれていましたか」


「……モモ」


「本人は、その呼び名を」


「受け入れています」


「白桃と呼んだ時は」


「自分はモモだと訂正しました」



 斎場の外で、火が小さく爆ぜた。


 鹿の肩甲骨を温めるための炭火だった。


 まだ骨は置かれていない。


 それでもミサネには、割れる音のように聞こえた。



「ほかには」


「俺を見て、昔の呼び方で呼びました」



 ハヤセの声が低くなる。


「ハヤ、と」



 ミサネは目を閉じた。


 数年前。


 灰の中を歩いていた白桃が、突然立ち止まった。


 ハヤセを振り返り、同じ音を口にした。


 誰にも教えられていないはずの呼び方だった。


 あれは一度きりではなかった。


 消えずに残っていた。



「あなたは、何と答えました」


「久しぶりだと」


「そうですか」



 ミサネは目を開けた。


「報告は、それで終わりですか」


「はい」



 嘘だった。


 正確には、すべてではなかった。


 ハヤセは何かを置いてきている。


 誰かの名か。


 教えた道か。


 炉のそばで交わした言葉か。



 ミサネは追及しなかった。


 見えることと、暴くことは違う。


 それだけは、牢の中で覚えた。



「ハヤセ」


 役ではなく、名で呼んだ。


 男の肩が、わずかに動く。


「休みなさい」


「戻る準備をします」


「その前に休みなさい」


「問題ありません」


「問題がない者は、自分の血で砂を汚しません」



 ハヤセは自分の脇腹を見た。


 布の端から、新しい赤が滲んでいる。


 砂へ一滴落ちていた。



「命令ですか」


「お願いです」


「命令より断りにくい」


「知っています」



 ハヤセは、ほんの少しだけ苦い顔をした。


 頭を下げる。


 立ち上がる時、一度だけ体が傾いた。


 それでも手を借りず、斎場の外へ歩いていった。



 ミサネは、その背を見送った。



(また、戻らせる)



 灰の里から連れ出した男を。


 白桃を止められるかもしれないと言って、生きる理由を失った男へ役を与えた。


 そして今も、その役を外してやれない。



 神託は牢だった。


 だが、その牢へ他人を入れているのは、もう神だけではなかった。


 自分も、その一人だった。




 昼前。



「邪魔するよ」



 清めの境を、断りもなく跨ぐ声がした。


 祭りに仕える女が二人固まる。


 兵の一人が剣へ手を掛ける。


 別の兵が止めた。


 抜いても意味がないと知っていた。



 金色の髪が、白い麻布の間から現れた。


 ワカレだった。


 朝露の残る草を踏んできたはずなのに、足が濡れていない。


 砂にも跡がつかない。


 散歩の途中で、面白そうなものを見つけた顔をしている。



「また来たのですか」


 ミサネが言った。


「その言い方、歓迎されてないね」


「歓迎していません」


「正直だなぁ」


「ここは斎場です」


「知ってる。だから来た」


「出てください」


「入ったばかりなのに?」



 ワカレは中央へ置かれた浅い盤を覗いた。


 湖の水には、青銅鏡が返す薄い光が浮かんでいる。


 金色の髪と、笑った顔が、波もないのに少し歪んで映った。



「相変わらず、きれいに整えるね」


「触れないでください」


「触ってないよ」


「あなたは、触れなくても乱します」



 ワカレは水面の上で指を止めた。


 本当に触れてはいない。


 だが、指先の真下から小さな輪が広がった。



「乱す、は言い過ぎじゃない?」


「では、何をしていると」


「混ぜてる」


「同じことです」


「違うよ。水へ泥を入れれば濁る。でも、別の流れを入れれば川になる」


「私は川を作っているのではありません」


「じゃあ、何を作ってるの」


「人が渡れる流れを」



 ワカレの笑みが、ほんの少し薄くなった。


「渡れないものは?」


「流されます」


「人も?」



 ミサネは答えなかった。


 答えないことが答えになる時もある。



「ミサネ」


「なんですか」


「川は、人が整える前から川だよ」


「暴れる川は、人を殺します」


「堰き止めた水も、いつか人を殺す」


「それでも、今日を生きる水は要ります」



 ワカレは盤の向こうからミサネを見た。


 いつもの軽さが少し消えていた。


「それ、自分で選んだ答え?」



 ミサネの指が、腰の鈴へ触れる。


「私が告げなければ、助かった者も死にます」


「うん」


「薬を運ぶ道も、病を避ける道も、神託から生まれました」


「うん」


「だから私は見ます」


「見えた後で、誰が道を一本にしてる?」



 ミサネは黙った。


 大王の近くへ座る者。


 軍を数える者。


 鉄を欲しがる者。


 神の声を、人を動かす言葉へ変える者。


 そして、見えたものを告げる自分。



「あなたは、何を見に来たのです」


 ミサネは問いを変えた。


「白桃ちゃん」



 ワカレは即答した。


「揺れてるよ」



 ミサネの目がわずかに動いた。


「それを、あなたが言いますか」


「俺が揺らしたみたいに言わないでよ」


「違うのですか」


「少しは混ぜた。でも、最初に火を入れたのは俺じゃない」


「では、誰です」


「本人たちじゃない?」



 ワカレは水面へ映る空を見た。


「白桃ちゃんは、鬼を名前で呼び始めた。熱いものへ息を吹く。苦い山菜を二度食べる。鹿肉は二枚」


「よく見ていますね」


「道を見るのが役だから」


「あなたの役は、人を斬ることでは」


「それも道を切る仕事」



 軽く言った。


 ミサネは、その軽さの下に血があることを知っている。


 ワカレは、誰より人に近い顔で笑い、誰より簡単に人を道の一部として扱う。



「それで、どう見えました」


「きれいだった」


「何が」


「乱れ方が」



 ミサネの胸の奥で、湖中に見た炉が揺れた。


 自分も同じことを思った。


 混ざっている。


 定められた流れから外れている。


 それなのに、壊れたものには見えなかった。



「神託の刻が来ます」


「うん」


「出てください」


「見てていい?」


「駄目です」


「何も触らないよ」


「いるだけで乱します」


「ひどいなぁ」



 ワカレは盤から離れた。


 麻の境を跨ぐ前に、足を止める。


 振り返らないまま言った。



「ミサネ」


「なんですか」


「今日の神託、気をつけて」


「いつも通り見ます」


「見えるものより、見せられるものの方にね」



 ミサネは答えなかった。


 金色の髪が麻布の向こうへ消える。


 足音は、最後までしなかった。



 浅い盤の水には、ミサネの顔だけが残った。


 静かな顔だった。


 乱れていない。



(乱れていない)



 そう思った時、腰の鈴が一度だけ鳴った。


 触れていないのに。




 神託の刻は、日が西へ傾き始めた頃に来た。



 朝の霧は消えていた。


 湖は青黒く、傾いた陽を細長く返している。


 岸には兵が列を作った。


 槍を伏せ、弓を地へ置き、刃の柄へ触れない。


 祭りに仕える者たちは麻の境の内側へ座った。


 誰も話さない。


 言葉を覚える役の者だけが、ミサネの正面より少し外れた場所に控えている。


 神託を一語も変えず、三度唱えて人の記憶へ残すためだった。



 ミサネは浅い盤の前へ座った。


 その向こうに青銅鏡。


 右に鈴。


 左に鹿の肩甲骨。


 骨には小さな窪みが幾つも刻まれている。


 炭火で熱した硬い木の先を、その窪みへ押し当てる。



 じゅ。



 骨の脂が焦げる匂いがした。


 甘くない。


 肉を焼く匂いとも違う。


 乾いた獣の内側が、火で開かれていく匂いだった。



 もう一度。



 じゅ。



 細い亀裂が走る。


 乾いた音。


 ミサネは骨を見た。


 次に鏡を見る。


 最後に、水を見る。



 鈴を振る。



 りん。



 湖面へ風が走った。


 葦が一度だけ鳴る。


 火が低くなる。


 兵の呼吸が揃う。



 ミサネは目を閉じた。


 来るものを待つ。


 求めない。


 選ばない。


 形を与えない。


 そう教えられてきた。



 しかし今日は、待つ前から炉があった。



 火。


 湯気。


 笑う子供。


 白い女。


 黒い衣の男。



 水が光った。


 鏡がその光を返す。


 光は空からではなく、盤の底から湧いたように見えた。


 ミサネの閉じた瞼を、白く透かす。



 目が開いた。


 だが、湖畔を見てはいなかった。



「……北」



 ミサネの声に、別の響きが重なった。


 男とも女ともつかない。


 遠い。


 冷たい。


 言葉が声になるより前から、意味だけが頭蓋の内側へ入ってくる。



「……日高見、揺らぎあり」


「……北つ流れ、未統合」


「……白桃、定まらず」



 控えていた者が、その言葉を低く繰り返す。


 一度。


 二度。


 三度。


 忘れないために。


 後で、神の言葉へ人の都合を足す者へ渡すために。



 ミサネの右手が水へ触れた。


 水面に輪が広がる。


 青銅鏡の中で、輪は逆向きに進んでいるように見えた。



 そこで、像が割れた。



 泥。


 黒い土。


 炉の火。


 鹿の骨。


 割れた土器。



 朝に見た炉ではない。


 燃えている。


 薪ではないものまで燃えている。


 家の柱。


 毛皮。


 人の髪。


 白い灰の中に、骨が混じっている。



 ミサネの呼吸が乱れた。


 神託の最中に息を乱したことはない。


 それでも、胸が一度大きく持ち上がった。



 像が変わる。



 白桃がいた。


 刀を持っている。


 刃から白い光が消えずに残っている。


 足元に、黒い衣の男が倒れている。


 顔は見えない。


 だが、白桃の血に濡れた手が、その頬へ触れていた。



 白桃は泣いていた。



 声を上げない。


 顔も大きくは変わらない。


 ただ、目から涙が落ちている。


 何が起きたのか理解できず、それでも失ったことだけを体が知っている泣き方だった。



「……違う」



 ミサネ自身の声が漏れた。


 重なっていた声が、一瞬だけ途切れる。


 周囲の者が顔を上げる。



 男の周囲で、見えない流れが幾つも折り重なっていた。


 死んでいる男。


 生きている男。


 首から血を流す男。


 腹を刺される男。


 炉の前で笑う男。


 白桃に名を呼ばれる男。



 同じ顔が、違う道の上にいる。


 一つの未来ではない。


 選ばれなかったものまで、水の底から浮かび上がっている。



(観測者)



 言葉を教えられたわけではない。


 それでも、そうだと分かった。


 あの男が見ているから、消えた道が完全には消えない。


 白桃が感じているから、失われた時間の痛みだけが残る。



 そして、その重なりは。



(きれいだ)



 ミサネは思った。


 思ってはいけないことだった。


 整わない流れ。


 定まらない白桃。


 神託に従わない未来。


 それを美しいと思えば、自分がこれまで選び、切り捨ててきたものまで揺らぐ。



 それでも、思った。



 水面が激しく揺れた。


 無風の湖に波が立つ。


 腰の鈴が鳴る。


 一つではない。


 三つすべてが、乱暴にぶつかり合った。



 りん。


 りん。


 りん。



 冷たい意味が、頭の奥へ押し込まれる。



「……誤差、確認」


「……観測個体、歴史分岐を誘発」


「……白桃、深層記録汚染」


「……同期を実行」


「……修正せよ」



 ミサネの喉が、勝手に言葉を作った。


 止めようとした。


 舌が動く。


 声が出る。


 自分の体なのに、自分の言葉ではない。



(見えるだけではない)



 初めて理解した。


 これは神託ではない。


 少なくとも、今来ているものは違う。


 未来を見せる声ではない。


 未来を一つへ狭める命令だった。



 ワカレの声が蘇る。



『見えるものより、見せられるものの方にね』



 ミサネは水へ入れた手を握った。


 爪が掌へ食い込む。


 水中で血が滲む。


 それでも、声は止まらない。



「……優先度、最大化」


「……白桃、定まれ」



 最後の言葉が出た瞬間、ミサネは盤を倒した。



 水が砂へ広がる。


 鏡が倒れる。


 骨が割れる。


 祭りに仕える者たちが息を呑んだ。


 兵が動きかけ、しかし誰もミサネへ触れられない。



 ミサネは両手を地へついた。


 吐く。


 何も出ない。


 湖の水と、焦げた骨の匂いだけが喉へ戻ってきた。



「ミサネ様!」



 女たちが駆け寄る。


 ミサネは片手を上げた。


 一人で立つという合図だった。


 だが、腕が震えている。


 膝にも力が入らない。



「……問題、ありません」



 自分で言って、その言葉が誰のものか分からなくなった。



 麻の境の外から、ハヤセが来た。


 休めと言われた男が、既に剣を帯び、旅の装束へ戻っている。


 倒れた鏡。


 割れた骨。


 砂へ広がる水。


 それらを一度に見る。



「何が見えました」



 ミサネは答えなかった。


 答えれば、男をまた牢へ送る。


 答えなくても、白桃は既に同期される。



「ミサネ様」


「ハヤセ」


 名で呼ぶ。


「今夜、山へ戻れますか」


「戻ります」


「傷が」


「歩けます」



 昨日と同じ答えだった。


 歩けるから歩く。


 戻る場所があるからではない。


 戻らなければ、誰かが余計に死ぬから歩く。



「白桃を」


 ミサネの声が止まる。


 何を命じる。


 止めろと言うのか。


 見張れと言うのか。


 シンという男を守れと言うのか。


 それは、自分が見た神託への反逆になる。



「……見ていてください」



 灰の里で頼んだのと同じ言葉だった。


 ハヤセの目が細くなる。


「何が起きます」


「分かりません」


「見えたのでしょう」


「見えたものが、起きることなのか、起こさせるものなのか、分からないのです」



 ハヤセは、長くミサネを見た。


 やがて頭を下げる。


「分かりました」


「それから」



 ミサネは、砂へ落ちた鈴を拾った。


 濡れた指で握る。


「もし白桃が、誰かを名前で呼んだら」


「はい」


「その名を、忘れないでください」



 ハヤセは答えなかった。


 答える代わりに、もう一度深く頭を下げた。


 そして背を向けた。


 今朝戻ったばかりの山へ、また歩き始めた。



 ミサネは追わなかった。


 止めることもできなかった。


 湖の水面は、もう静かになっている。


 倒れた鏡には、白い空だけが映っていた。




 その日の昼。



 シンは約束どおり、日が真上へ来る前に炉の集落へ戻った。



 ミチヌシは、集落の見える場所まで来なかった。


 森の途中で足を止めた。


 道のない斜面を杖で一度示し、そのまま木々の間へ溶けるように消えた。



「また会えるか」


 シンが聞いた時、返ってきたのは短い言葉だけだった。



「道があれば」



 相変わらず、答えになっているようでなっていない。


 だが、今度は少しだけ分かった。


 会うための道は、待っているだけでは現れない。



 集落へ戻ると、タダが入口に立っていた。


 腕を組み、何も言わない。


 その後ろにナギ。


 さらに後ろから、トン、チン、カンが顔を出している。



「昼前」


 シンが言った。


「まだ日は真上じゃない」


「戻った」


 タダが言った。


「戻った」


 トンが繰り返す。


「死んでない」


 チンが確認する。


「温めなくていい」


 カンが結論を出した。


「その話、まだ続いてるのか」



 ナギが笑った。


 だが、その目はシンの顔色と手足を確かめていた。


 冗談の形で、戻ったことを確認している。



「誰に会ったの」


「昔の知り合い」


「シンの昔って、どのくらい昔?」


「説明すると長い」


「じゃあ飯の時に聞く」


「話すとは言ってない」


「聞くだけなら出来る」


「それ、会話じゃないだろ」



 ナギは笑った。


 トンたちはミチヌシの杖を真似し、枝を持ってゆっくり歩き始めた。


 何を見たのか知らないのに、動きだけ妙にそれらしい。



 その平和が、夕方まで続いた。



 鹿の皮を干す。


 罠を直す。


 雨で崩れた水の道へ石を置く。


 根菜を刻む。


 子供が笑う。


 炉へ火が入る。



 ヤマトが動いている。


 神託が軍を北へ向ける。


 ワカレはシンを生かして道の先を見ようとしている。


 ミチヌシは答えをくれない。



 それでも、夕餉の匂いがした。


 人は、世界の行き先が決まらない時でも腹が減る。


 火を囲む。


 食べる。


 今日を終わらせる。



 その当たり前さが、シンにはひどく大切に思えた。



 夜。



 空は晴れていた。


 雨に洗われた星が、春の山の上へ細かく散っている。


 炉の火は小さくなり、赤い炭が時折内側で崩れた。



 トン、チン、カンはもう眠っている。


 ナギも毛皮へ潜った。


 タダは集落の外周を見に行っていた。


 アサメは炉の向こうで、弓弦へ脂を薄く塗っている。



 シンは火を見ていた。



『死ぬ覚悟と、死ねばいいという考えは、似ているようで反対だ』



 ミチヌシの言葉が残っている。


 ワカレの言葉も残っている。



『死なない道も、ちゃんと残しておきなよ』



 死なずに変える。


 その方法を探す。


 そう決めたばかりだった。



 甘い匂いがした。



 桃。


 雨の後の土と、炉の煙の中でも分かる匂い。



 シンは顔を上げた。


 モモがいた。



 集落の外ではない。


 家々の間に立っている。


 炉の光が顔へ届くほど近い。


 白い衣の裾には泥がついていた。


 いつもなら汚れ一つない姿で現れるモモが、足元を選ぶ余裕もなく来たことが分かる。



「モモ」



 呼ぶ。


 モモの目が、すぐにシンを捉えた。


「……シン」



 返事が速い。


 確認する間がない。


 呼ばれる前から、名前を用意していた声だった。



 アサメの手が止まる。


 弓弦から指を離し、立ち上がった。


「どうした」


 シンが聞いた。



 モモは一歩近づいた。


 すぐに、また一歩下がった。


 自分の体を、シンへ近づけてはいけないもののように扱っている。



「……逃げて」



 炉の炭が、ぱち、と鳴った。


 シンは動けなかった。



 逃げて。



 前にも聞いた。


 灰の里で、ハヤセへ向けて漏れた言葉。


 そして、自分が死ぬ時、戻って、と言った声。


 命令ではない。


 誰かに与えられた言葉でもない。


 モモ自身が、何かを失わないために選んだ言葉だった。



「何が来る」


「……神託」


「神託が、ここへ来るのか」


「……命令情報、接近」


 モモは自分の胸元を押さえた。


「……同期が始まる」


「止められないのか」


「……遅延中」



 モモの右手が震えている。


 刀を握る手だった。


 その手を、左手で強く押さえている。


 指が白くなるほど力を入れていた。



「お前が、自分で来たのか」


「……そう」


「命令される前に」


「……そう」


「俺を逃がすために」



 モモは答えなかった。


 目が揺れる。


 問いの意味は分かっている。


 答えに使う言葉だけが見つからない。



「……シンが」


 一度、止まる。


「……いなくなるのは」


 また止まる。


「……不同意」



 シンの胸が強く打った。


 覚えていないはずの言葉だった。


 死んだ時間で、モモが何度も口にした言葉。


 記憶ではない場所から、また出てきた。



「分かった」


 シンは立ち上がった。


「一緒に逃げよう」


「……不可」


「なんで」


「……私が、来る」



 意味を理解するまでに、一拍かかった。


 追手が来るのではない。


 軍が来るのでもない。


 今ここにいるモモ自身が、白桃として襲ってくる。



 アサメがシンの横へ立った。


 腰の刃へ手を置く。


「どのくらいある」


 モモはアサメを見る。


「……不明」


「子供を動かす時間は」


「……ある。たぶん」



 アサメは迷わなかった。


 指を口へ当て、短く鋭い音を出した。


 タダを呼ぶ合図だった。



 すぐに足音が来る。


 タダが外周から戻る。


 ナギも毛皮を跳ね上げて起きた。



「子供を谷の割れ目へ」


 アサメが言う。


「今すぐ」



 タダは理由を聞かない。


 トンとチンを両腕へ抱え、カンを背へ乗せる。


 ナギが水と干し肉を掴む。


 寝起きの子供たちが声を上げかける。



「静かに」


 ナギが言った。


 いつもの軽さはなかった。


「鳥になれ。鳴かずに飛ぶ鳥」



 三人は口を押さえた。


 タダが森へ走る。


 ナギも続く。


 だが途中で一度だけ振り返った。


 モモを見る。


 白い衣。


 桃の飾り。


 鬼の島へ来た時と同じ姿。


 それでも、今は違う。


 逃げろと知らせに来た白桃を、ナギは何と呼べばいいのか分からない顔をしていた。



「ナギ!」


 アサメが呼ぶ。


 ナギは走り出した。



 シンはモモへ手を伸ばした。


 触れる前に、モモが下がる。


「近づくな」


 今度は、機械のような区切りがなかった。


 短く、切迫した人の声だった。



「まだ、お前だろ」


「……まだ」


「なら、一緒に止める」


「……できない」


「やる前から決めるな」


「……シン」



 モモの目が大きく揺れた。


「……私は、あなたを斬る」


「お前は斬りたくない」


「……任務は実行される」


「それは白桃だ」


「……同一個体」


「違う」



 シンは即座に言った。


「白桃の戻る場所はヤマトだ。モモには戻る場所がない。お前がハヤセにそう言った」



 モモの呼吸が止まる。


 それは、シンが聞いてはいないはずの言葉だった。


 消えた時間で、木の陰から聞いた言葉。



「……なぜ」


「聞いた」


「……記録なし」


「俺には残ってる」



 モモの左手が、自分の胸を掴んだ。


「……私にも」


 小さな声。


「……ないのに、ある」



 首を押さえた血の感触。


 腹から流れた熱。


 戻って、と呼んだ声。


 記録にはない。


 それでも、感情だけが傷跡のように残っている。



「なら、そっちを選べ」


 シンが言った。


「俺を斬りたくない方を」



 空が白くなった。



 雷鳴はない。


 雲もない。


 星の間を、一本の白い筋が走った。


 それは空を照らしたのではなく、夜の色そのものを一瞬だけ消した。



 モモの体が止まった。


 右手を左手で押さえたまま。


 逃げろと告げようと口を開いたまま。


 呼吸の途中で、ぴたりと止まる。



「モモ」



 返事はない。


 黒い瞳の奥から色が抜ける。


 焦点が、目の前のシンから遠い場所へ引かれていく。



「……同期、開始」



 声が二重になった。


 モモの声。


 その下へ重なる、遠く冷たい声。



「……白桃、定まれ」


「……優先度、最大化」


「……観測個体を修正」



 モモの右手が動く。


 左手が、それを止める。


 自分の腕と自分の腕が、刀の柄の上で争っていた。


 細い指の関節が白くなる。


 爪が皮膚へ食い込む。


 腕が震える。



「……逃げて」


 モモの声が、二重の声の下から漏れた。


「……早く」



 シンは動かなかった。


 死ねば戻れるからではない。


 今度こそ、死なずに変えると決めたからだった。



「モモ、聞け」


「……対象、誤差」


「俺はシンだ」


「……排除」


「お前が名前で呼んだ、シンだ」



 白桃の目が、ほんの少し揺れた。



「……シン」



 二重ではない。


 一瞬だけ、モモの声だった。



 しかし右手が左手を振りほどいた。


 刃が鞘から抜かれる。


 桃色の光ではない。


 色を持たない白さが、刀身の縁へ集まっていく。



 アサメがシンの前へ出た。


 弓を持っている。


 矢を番える。


 狙いはモモではない。


 刀を持つ手。


 放つ。



 矢が飛ぶ。


 白桃は見もしなかった。


 刃の周囲へ集まる白さへ触れた瞬間、木の軸も石の鏃も細かな粉になって消えた。



 アサメはもう一本を番えない。


 弓を捨て、腰の刃を抜いた。


「シン、走れ」


「アサメも」


「アタシは後から行く」


「それ、行かない奴の言い方だ」


「なら、一緒に死ぬか」



 その言葉に、体が止まった。


 死ぬ。


 アサメが。


 タダが。


 ナギが。


 子供たちが。



 自分は戻るかもしれない。


 だが、この枝に残される者たちは戻らない。


 死ねば変えられるのではない。


 死ねば、変えられなかった世界を一度作る。



 ミチヌシの言葉が、ようやく腹の底へ落ちた。



「アサメ、退け!」


 シンはアサメの腕を掴んだ。


 引く。


 アサメは動かない。


 山に根を下ろした木のようだった。



「お前が先だ」


「嫌だ」


「聞き分けろ」


「嫌だ!」



 白桃が刀を上げた。


 夜が、刀身の周囲から消えていく。


 星が見えなくなる。


 炉の赤が白へ吸われる。


 音が遠ざかる。



「……修正、実行」



 アサメが振り返った。


 シンの胸へ両手を当てる。


 昨日、冷えきった体を包んだ手。


 熱を分けた手。


 今はその手で、全力で突き飛ばす。



「走れぇッ!」



 シンの体が炉の外へ飛んだ。


 背中から泥へ落ちる。


 息が詰まる。


 起き上がろうとする。



 白い線が走った。



 光ではない。


 火でもない。


 熱より先に、そこにあるものの輪郭を奪う白だった。



 炉が消える。


 石が消える。


 土器の半分が、割れることさえなく失われる。


 木々の幹へ、真っ白な切断面が走る。



 アサメの影が、白の中にあった。



「アサメ!」



 シンは泥を蹴った。


 逃げるのではなく、戻った。


 白の中へ手を伸ばす。



 指先から感覚が消えた。


 焼けるのではない。


 凍るのでもない。


 自分の体が、初めからそこになかったことにされていく。


 皮膚。


 血。


 骨。


 順番すらなく、輪郭ごと削られる。



 声が出ない。


 喉がない。


 痛みを伝える道さえ消えていく。



 白桃の顔が見えた。


 瞳は白く光っている。


 何も見ていない。


 それでも、その目から一筋だけ、透明なものが落ちた。



「……嫌」



 二重の声が崩れる。


「……違う」



 刀を持つ腕が下がる。


 白桃の左手が、自分の右手首を掴む。


 遅い。


 それでも止めようとしている。



「シン!!」



 モモだけの声だった。


 確認でも、命令でもない。


 失うものを呼び止める声だった。



 シンは答えようとした。


 口がない。


 手も届かない。



 最後に残ったのは、桃の匂いだった。


 春の雨。


 炉の煙。


 苦い山菜。


 鹿肉の脂。


 モモが、この時代で知ったもの全部を抱えた匂いだった。



 世界が、白く落ちた。



 ――死んだ。




 湖畔。



 日は沈みきっていた。


 水面には星が映っている。


 神託の斎場は崩れたままだった。


 倒れた鏡。


 割れた鹿の骨。


 砂へ乾き始めた水の跡。



 ミサネは一人で立っていた。


 祭りに仕える女たちも、兵も、遠ざけている。


 腰の鈴を手に握ったまま、北の山を見ていた。



 稜線の向こうが白くなった。


 雷ではない。


 夜の一部だけが、一瞬消えた。



 遅れて、湖面が震えた。


 風のない水へ、幾つもの輪が生まれる。


 一つの中心からではない。


 あちこちで生まれ、重なり、互いの形を壊していく。



 ミサネは鈴を握りしめた。


 縁が掌へ食い込む。


 痛みがある。


 それで、自分の体がまだ自分のものだと確かめた。



「……観測者」



 小さく言った。


 誰にも届かない声だった。



 あの男は死んだ。


 白桃が殺した。


 神託が殺させた。


 自分の口が、その命令を通した。



 だが、水面の輪は消えない。


 一つが消える前に、別の輪が生まれている。



「……戻るのですか」



 問いへ答える者はいない。


 湖だけが、無数の道を描いていた。


 広がり。


 重なり。


 消えたように見えて、また別の場所から始まる。



 ミサネは、その水を見つめた。


 初めて、神託の続きを待つのではなく。


 神託から外れるものが戻ることを、待っていた。



(第五十三話へ)


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