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繋がる道、別れる道

第五十一話 繋がる道、別れる道



 翌朝。



 シンは、鹿汁の匂いで目を覚ました。


 骨の髄から出た脂。


 柔らかく煮崩れた根菜。


 塩。


 薪の煙。


 昨日は胃を縮ませた匂いが、今日は素直に腹へ届いた。



 ぐう。



 腹が鳴った。


 その音を聞いて、シンはしばらく動かなかった。


 腹が減る。


 当たり前のことだった。


 だが、昨日の自分には、その当たり前さえ遠かった。



 首へ手を当てる。


 傷はない。


 肋の下も痛まない。


 深く息を吸っても、喉から空気は漏れなかった。


 体の奥に残っていた刃の感触も、薄い影になっている。



(戻ってる)



 今度は時間ではない。


 体が、生きている方へ戻っていた。



 肩には、厚い毛皮が掛かっている。


 顔を近づけると、炉の煙に混じって、かすかに甘い匂いが残っていた。


 雨。


 薬草。


 野薔薇の様なアサメの匂い。



 背中が、急に昨日の温度を思い出した。


 腹へ回された腕。


 肩へ触れた息。


 柔らかな熱。


 眠りへ落ちる寸前、肌へ触れたようなもの。



(いや)


(最後のは、たぶん夢だ)



 夢であってほしいのか。


 夢であってほしくないのか。


 考えかけて、毛皮を顔まで被った。



「起きてる」



 毛皮の外から、カンの声がした。


 シンは固まった。


「寝てる」


 トンが言う。


「腹が鳴った」


 チンが言う。


「腹だけ起きた」


 カンが結論を出した。



 毛皮が三方から引かれた。


「やめろ!」


 シンは端を掴む。


 三人も離さない。


「朝飯!」


「鹿汁!」


「冷める!」


「起きるから引っ張るな!」



 毛皮の下で攻防が続いた。


 やがて、縫い合わせた部分が嫌な音を立てる。


 全員が止まった。



「破れたら、誰が怒られる」


 シンが聞いた。


「シン」


 トンが答えた。


「俺なの!?」


「一番大きいから」


 チンが答えた。


「毛皮を使った人」


 カンが答えた。


「お前らも引っ張っただろ」


「証拠がない」


「三人いることが証拠だよ!」



 外で、ナギが吹き出した。


「朝から元気だねぇ」


「助けてくれ」


「嫌だよ。そっちの方が面白い」



 シンは毛皮を抱えたまま起き上がった。


 少しだけ眩暈がした。


 だが、昨日のように床は傾かない。


 脚へ力が入る。



「治った?」


 トンが聞く。


「だいぶ」


「もう吐かない?」


 チンが聞く。


「たぶん」


「アサメ、すごい」


 カンが言った。


「温めたら治った」



 三人が同時に頷いた。


 嫌な予感がした。


「何を聞いた」


「シンは冷たい」


「アサメは温かい」


「二人で毛皮に入る」



「誰から聞いた!」



 三本の指が、戸口のナギを指した。


「お前か!」


「俺は見たままを話しただけ」


「見てたのかよ!」


「途中までね」


「どこまで!」


「アサメが、タダに子供を連れていけって言うところまで」


「それなら、ほとんど見てないだろ!」


「見てないから、想像する余地がある」


「余地を埋めるな!」



 ナギは腹を抱えて笑った。


 トン、チン、カンも意味を分からないまま笑っている。



 そこへ、タダが入ってきた。


 大きな土器の椀を両手に持っている。


 一つをシンへ差し出した。


「食え」


「ありがとう」


「温かいうちに」


「そうする」


「冷えたら、またアサメが温める」



 シンの手が止まった。


 ナギが壁へ手をついて笑い始める。


「タダまで!?」


「何がだ」


「今の、絶対分かって言っただろ!」


「汁は温かい方がいい」


「俺の話だ!」


「お前も温かい方がいい」


「そうだけど!」



 言い返した後で、自分の言葉に気づいた。


 ナギがしゃがみ込んだ。


 トンが首を傾げる。


「シン、アサメがいいの?」


「今その話はしてない!」


「嫌なの?」


 チンが聞く。


「そういう話もしてない!」


「分からない」


 カンが言う。


「俺も分からない!」



「何が分からない」



 背後から声がした。



 シンは動きを止めた。


 アサメが立っていた。


 朝の水汲みから戻ったらしい。


 髪は高く束ねられ、首筋に残った短い毛だけが濡れている。


 肩には水の入った土器。


 昨日と同じ顔で、こちらを見ていた。



「何でもない」


 シンは即答した。


「アサメがいいかどうか」


 トンが正直に答えた。


「トン!」



 アサメはシンを見る。


 顔。


 手。


 足元。


 体調を確かめる目だった。


「もう冷たくないか」


「大丈夫」


「震えは」


「止まった」


「そうか」



 アサメは少し頷いた。


「また冷えたら言え」


「言わない」


「なぜだ」


「自分で火に当たる」


「それで足りなければ、また温める」



 ナギが、ついに声を出さずに笑い始めた。


 肩だけが激しく動いている。


 タダは鹿汁を飲んでいた。


 トンたちは、新しい遊びを見つけた顔をした。


「アサメが温める!」


「毛皮で!」


「二人で!」


「お前ら、外へ行けぇ!」



 三人が笑いながら逃げていく。


 ナギも、その後を追うふりをして逃げた。


 タダだけが残った。


「タダも行け」


「まだ食っている」


「早く食え!」



 アサメは本当に意味が分からない顔をしていた。


 それが余計に困る。


 シンは鹿汁へ顔を近づけた。


 湯気で顔の赤さを隠す。



 一口飲んだ。


 うまかった。


 鹿の骨から出た旨味が濃い。


 根菜は形が崩れるほど柔らかく、脂と塩を吸っている。


 昨日、飲み込むだけで精一杯だった味が、今日は舌の上で一つずつ分かった。



「うまい」


 シンは言った。


「なら、もう大丈夫だ」


 アサメが答えた。



 その声が少し柔らかく聞こえた。


 顔を上げる。


 アサメはもう、水を運ぶために背を向けている。


 昨日、シンを包んだ背中。


 衣の下にある身体の線を思い出しかけ、慌てて汁へ視線を戻した。



「赤い」


 タダが言った。


「汁が熱い」


「そうか」


「それ以外に何がある」


「知らない」


「絶対知ってるだろ」



 タダは、二杯目の汁をよそった。




 朝の集落には、昨日と同じ音が戻っていた。



 トン、チン、カンは、流れの中へ小石を並べている。


 今度は舟ではなく、堰を作るつもりらしい。


 トンが大きな石を置く。


 水が止まる。


 チンが隙間へ泥を詰める。


 水が横へ逃げる。


 カンが、その先へ別の溝を掘る。


 最初とは違う場所に、新しい流れが生まれる。



「こっち行った!」


「道、変わった!」


「水は低い方へ行く」



 シンは、その言葉へ耳を止めた。



 道。


 流れ。


 変わる。



 サルの声が蘇る。


『同じ道を避けても、次の道はある』



 死ねば戻れる。


 戻れば違う道を選べる。


 そう思った。


 実際、最初の刃は避けた。


 だが、次の刃が来た。



(変えるって、何だ)



 戻ることか。


 避けることか。


 別の誰かを動かすことか。


 それとも、まだ見えていない何かなのか。



 考えていると、光が目へ入った。



 緑だった。



 集落の外。


 木々の間。


 朝の光が枝の隙間から落ち、一瞬だけ、深い緑の石を透かした。


 水の底へ陽を閉じ込めたような色だった。



(ヒスイ)



 シンは立ち上がった。


 椀の中で汁が揺れる。



 緑の光の下に、人がいた。


 白い髪。


 細い体。


 古びた衣。


 一本の杖。


 人の輪へ入らず、木と木の境に立っている。



 顔は遠くてよく見えない。


 それでも、立ち方を知っていた。


 道の途中でありながら、そこが最初から終着点だったように立つ男。



(まさか)



 数百年前。


 北の集落と西の森の間。


 人の通らない古い道。


 首にヒスイを下げ、道を示した男。



「ミチヌシ……」



 名前を口にした瞬間、人影が森の奥へ向きを変えた。


 逃げるようには見えない。


 ただ、ついて来いと言うように歩き始める。



 シンは椀を置いた。


「どこへ行く」


 タダが聞いた。


「知ってる奴がいた」


「森に?」


「いるはずのない奴が」



 タダは、木々の間を見た。


 緑の光は、もう見えない。


「行くのか」


「確かめる」


「昨日は、森へ行かなかった」


「昨日は行かなかった」


「今日は」


「行く」



 タダは少し黙った。


「一人で?」


「たぶん、一人じゃない」



 意味の分からない答えだった。


 それでもタダは止めなかった。


「昼までに戻れ」


「分かった」


「戻らなければ、アサメが探しに行く」


「それは怖いな」


「温められる」


「まだ続けるの!?」



 ナギの笑い声が、また遠くから聞こえた。


 シンは逃げるように森へ入った。




 白い髪は、時々見えた。


 追いつけそうな距離にある。


 だが、シンが速く歩けば、その分だけ先へ進む。


 走れば枝に隠れ、立ち止まれば次の木の向こうに現れた。



 足跡はない。


 昨夜の雨で柔らかくなった土に、シンの足跡だけが残っていく。


 男が踏んだはずの苔は沈まず、枯葉も裏返っていない。



 それでも、幻ではなかった。


 風が吹くたび、首元のヒスイが光る。


 遠い海の色。


 山の中にはない、深く澄んだ緑。



 やがて、木々が途切れた。


 岩の多い斜面だった。


 二本の獣道が、そこで一つになっている。


 片方は谷から上がり、もう片方は尾根から下りてくる。


 人が作った道ではない。


 それでも、何度も何かが通った跡があった。



 男は、二つの道が重なる場所に立っていた。



「久しぶりだな」



 先に言ったのは男だった。


 声も変わっていない。


 低くも高くもない。


 遠くから聞こえるのに、すぐ隣へ届く声。



 シンは息を整えた。


「久しぶり、でいいのか?」


「お前にとっては」


「あんたにとっては?」


「少し前だ」



 シンの背筋が冷えた。


「少しって、どのくらいだ」


「山の木が、幾つか入れ替わった」


「それは数百年って言うんだよ」


「そう呼ぶ者もいる」



 男は少し笑った。


 皺は増えていない。


 白髪の長さも、目の静けさも変わらない。


 前の時代で見た時と、何一つ違わなかった。



「ミチヌシ」


 シンは確かめるように呼んだ。


「そう呼ばれている」


「人間なのか」


「人の形には見えるだろう」


「答えになってない」


「答えを持っていない問いもある」



 ミチヌシは杖へ両手を重ねた。


 曲がった木を削っただけの杖だった。


 飾りはない。


 武器にも見えない。


「あんたは、何者なんだ」


 シンは聞いた。


「前も聞いた」


「前は、まともに答えなかった」


「今も同じだ」


「先に言うなよ」



 ミチヌシは、二つの獣道を見た。


「道を見る者だ」


「それだけか」


「今は、それでいい」


「今は?」


「長く歩けば、問いの形が変わる」



 シンは男を見た。


 何も明かしていない。


 それでも、人間ではないと否定もしなかった。


「俺がここにいることも、知ってたのか」


「見た」


「いつ」


「お前が来る前に」


「どこで」


「道で」


「全部それで済ませる気だな」


「便利な言葉だ」



 ミチヌシの口元が、ほんの少し緩んだ。


 からかわれている。


 数百年ぶりに会った得体の知れない男に、確実にからかわれている。



「俺は、戻る」


 シンは言った。


 ミチヌシの目が、シンへ戻る。


「死ぬと、少し前へ戻る。同じ時間へ。そこで違うことをすれば、先も変わると思ってた」


「思っていた」


「二度、同じ男に殺された」


「それで、違うと思ったか」


「分からなくなった」



 正直に答えた。


「戻ることと、変えることは同じじゃないのか」


 ミチヌシはすぐには答えなかった。


 杖の先で、二つの道が重なる土へ触れる。


「同じ場所へ戻っても、同じ者が歩くとは限らない」


「俺は俺だ」


「死ぬ前と同じか」



 シンは黙った。


 同じではない。


 刃の冷たさを知った。


 モモが自分の死を嫌がることを知った。


 死ねばやり直せるという考えが、少しずつ自分の中へ入り込んでいる。



「道は、歩いた者も変える」


 ミチヌシが言った。


「戻った先が同じでも、お前はもう同じではない」


「じゃあ、どうすれば変えられる」


「それを他の者に聞いているうちは、変えられない」


「厳しいな」


「道は優しくない」



 その時だった。



 木漏れ日の中で、小さな光が生まれた。



 シンには、それが何か分からなかった。


 音も聞こえない。


 ただ、ミチヌシの杖が動いた。



 速くはなかった。



 杖を土から上げる。


 水面へ浮いた葉を端へ寄せるような、緩やかな動きだった。


 その先が、シンの頬の横へ来る。



 ちん。



 乾いた音がした。


 小さな鉄の刃が、弾かれて岩へ落ちる。


 刃先は、シンの目へ向いていた。



「伏せろ!」


 シンが叫ぶ。


 だが、叫び終える前に、金色の髪が木々の間から落ちてきた。



 サル。



 声はなかった。


 笑ってもいない。


 地面へ着く前に、右手の短い刃がミチヌシの首へ走る。



 速い。


 シンの目には、腕が途中から消えたように見えた。



 ミチヌシは、半歩だけ後ろへ下がった。


 老人が道を譲るような、ごく普通の一歩だった。


 刃は首へ届かない。


 その位置へ、杖の中ほどが既にあった。


 鉄と木が触れる。


 鈍い音。



 サルは止まらない。


 刃を引く前に体を沈める。


 足を払う。


 左手が地面へ触れる。


 体を軸にして回り、逆の手からもう一枚の刃が出た。


 低い場所から、脇腹へ入る。



 ミチヌシは杖の先を土へ置いた。


 それだけに見えた。


 だが、サルの足が杖へ当たり、体の向きがわずかにずれる。


 脇腹を狙った刃は、衣の端だけを切った。



 サルは切れた布を見ない。


 木の幹を蹴る。


 地面と平行に飛び、今度は背後から首を狙う。



 ミチヌシは振り返らなかった。


 杖を肩へ担ぐ。


 薪を運ぶ者のような動きだった。


 杖の端が、背後の刃を正確に打つ。



 ちん。



 また、小さな音。


 サルの手が弾かれる。


 その勢いを使い、空中で体を捻る。


 着地した時には、もう次の刃がミチヌシの胸へ向いていた。



 速い。


 速すぎる。


 一つの攻撃が終わる前に、次が始まっている。


 前。


 下。


 後ろ。


 右。


 サルの姿が、幾つも同時にあるように見えた。



 それなのに。



 ミチヌシは一度も急がなかった。



 杖を置く。


 半歩退く。


 肩を傾ける。


 道の端へ避ける。



 どの動きも遅い。


 遅く見えるのに、全て間に合っている。



 サルが着くより先に、杖がある。


 刃が走るより先に、体がその場所からいない。


 攻撃を見て避けているのではない。


 サルが選ぶ場所を、選ぶ前から知っているようだった。



(何だ、これ)



 シンは動けなかった。


 助けるという考えすら浮かばない。


 速いものと遅いものが戦っているのに、遅い方へ一度も追いつけない。


 目の前の出来事だけ、時間の流れ方が二つに分かれていた。



 サルが初めて大きく踏み込んだ。


 土が跳ねる。


 右の刃を上から振る。


 ミチヌシの杖が上がる。


 受ける。



 その瞬間、サルは右の刃を捨てた。


 左手が、ミチヌシの喉へ伸びる。


 指の間に、細い鉄の針。



 ミチヌシは杖から片手を離した。


 サルの手首を掴む。



 速くはない。


 ただ、そこへ手を置いた。


 サルの手首の方が、待っていた手の中へ飛び込んだように見えた。



 二人が止まる。



 細い針は、ミチヌシの喉まで指一本。


 杖の先は、サルの肋へ触れている。


 どちらかが少し動けば、どちらにも届く距離だった。



 長いようで、短い沈黙。



 先に息を吐いたのは、サルだった。


 口元へ、いつもの笑みが戻る。


「相変わらず、やりにくいなぁ」


 ミチヌシは手を離した。


 サルも針を引く。


 互いに一歩ずつ離れた。



「久しぶりだな、ワカレ」



 ミチヌシが言った。



 シンはサルを見る。


「ワカレ……?」



 金色の髪の男が、少し嫌そうに笑った。


「その名で呼ぶ?」


「お前の名だ」


「今はサルで通してるんだけど」


「役は名にならない」


「長く呼ばれれば、何でも名になるよ」



 ワカレ。


 分かれる。


 道。



 あまりにも、その男に似合う名だった。



 サル――ワカレは、ミチヌシの杖を見た。


「人に手を貸すなんて珍しいじゃん、ミチヌシ」


「道の上で刃を投げる者がいた」


「拾えばいいだけだろ」


「目に刺されば拾えない」


「優しくなった?」


「お前が変わらないだけだ」



 ワカレは肩をすくめた。


「そっちも変わってないよ。昔から、来た道へ帰したがる」


「お前は、先ばかりを選ばせる」


「進まなきゃ道じゃない」


「帰れなければ、道とは呼べない」


「またそれ?」



 二人の会話には、シンの知らない時間があった。


 数年ではない。


 数十年でもない。


 人の国が名を持つより前から、同じ話を繰り返してきたような古さがある。



「二人とも、何歳なんだ」


 シンは思わず聞いた。


 ワカレが笑う。


「それ、聞く?」


「聞くだろ。ミチヌシは数百年前から同じ顔だ。お前らは昔から知り合いみたいに話してる」


「知り合いだよ」


「いつから」


「人が道を数える前から」



 軽い声だった。


 冗談にも聞こえる。


 だが、ミチヌシは否定しなかった。



「何者なんだ、お前ら」


 シンが聞く。


 ワカレはミチヌシを見る。


「言ってないの?」


「今は必要ない」


「相変わらず秘密が多いねぇ」


「お前は余計なことを話しすぎる」


「聞かれたら答える方なんだよ」


「嘘も混ぜる」


「道は混じるものだから」



 ワカレがシンへ向き直った。


「今は、こう思っておけばいいよ」


 自分を指す。


「俺は、分かれる方」


 次に、ミチヌシを指す。


「こっちは、繋げる方」


「何を」


「道を」



 それ以上は言わなかった。


 ミチヌシも止めない。


 答えのようで、何も分からない。


 だが、二人の立つ場所だけは見えた気がした。



 同じ道を見ている。


 一人は、どこへ続くかを見る。


 一人は、どこで分かれるかを見る。



「どうして俺を殺した」


 シンは聞いた。



 空気が少し変わった。


 ワカレの笑みは消えない。


「ヤマトにとって邪魔になりそうだったから」


「それだけ?」


「十分だろ」


「俺が何をするかも分からないのに」


「分からないからだよ」



 ワカレは、岩に落ちた小さな刃を拾った。


 指先で泥を拭う。


「ヤマトは北へ道を通したい。白桃は、その真ん中を歩く。イヌは外れかけても戻る。そこまでは読めた」


 刃を光へかざす。


「でも君が入ると、白桃が止まる。イヌが余計なことをする。知らないはずの話が、山側へ流れる」


「だから切った」


「うん。繋がる前にね」



 シンの首が、記憶だけで冷えた。


 無意識に手を当てる。


 ワカレは、その動きを見逃さなかった。


「首、まだ痛い?」


「次は腹だった」


「ああ。そっちも覚えてるんだ」


「お前は覚えてないのか」


「覚えてはいない」


 ワカレは少し考えた。


「でも、道に跡が残る」



 前にも会った気がした。


 もっと後で会うはずだった気がした。


 ワカレはそう言っていた。


「殺しても、君は消えなかった」


「戻ったからな」


「違うよ」



 ワカレの声から、笑いが少し薄れた。


「殺す前より、増えた」


「何が」


「選ぶ道が」



 シンは答えなかった。


「最初は森で、何も知らずに死んだ。次は先回りして、俺の最初の刃を避けた。殺すたびに君は別の道から来て、前より多くのものを持ってる」


「だったら、もう殺さないのか」


「今はね」


「信用できない」


「正しい」



 ワカレは楽しそうに笑った。


「君は、死ねば変えられると思い始めてる」


「実際、変わった」


「少しはね」


「なら」


「だから面白い」



 ワカレは刃を懐へ戻した。


「邪魔だから切った。切ったら、分かれ道が増えた。だったら、もう少し残して見たくなる」


「人の命を、道みたいに言うな」


「人が歩かなければ、道は生まれないよ」



 ミチヌシの杖が、土を一度打った。


 低い音がした。


「面白がるな、ワカレ」


「そっちは心配しすぎ」


「死を道具にすれば、帰る道を失う」



 その言葉は、ワカレではなくシンへ向いていた。


 シンはミチヌシを見る。


「戻れなくなるのか」


「戻ることを選ばなくなる」


「同じじゃないのか」


「違う」



 ミチヌシは静かに言った。


「死ぬ覚悟と、死ねばいいという考えは、似ているようで反対だ」



 昨日の自分が蘇る。


 先回りすれば変えられる。


 失敗しても、また戻るかもしれない。


 そう考えなかったとは言えない。



「俺は、何回戻れる」


 シンは聞いた。


 ミチヌシは答えなかった。


 ワカレも笑わない。


 その沈黙が、答えより怖かった。



「それは、自分で数えた方がいい」


 ワカレが言った。


「お前は知ってるのか」


「知っていても、言わない」


「何で」


「分かれ道が減るから」



 いつもの軽い調子に戻っていた。


 だが、完全な冗談には聞こえない。



 ワカレは後ろへ一歩下がった。


 木の影が、半身へかかる。


「今日は帰るよ」


「ヤマトへ?」


「さあね」


「俺を生かすって、本当に決めたのか」


「決めてない」


「今、残すって言っただろ」


「今の分かれ道ではね」



 ワカレが笑った。


「次に会う君が、同じ道にいるとは限らない」



 木々の間へ下がる。


 足音はしない。


 金色の髪だけが一度、光を受けた。


「じゃあ、シン」


 声が少し遠くなる。


「死なない道も、ちゃんと残しておきなよ」



 気配が消えた。


 最初からいなかったように。


 落ちた葉一枚さえ、動いていなかった。



 後には、シンとミチヌシだけが残った。


 二つの獣道が重なる場所。


 岩へ弾かれた小さな傷。


 ミチヌシの衣に入った、細い切れ目。


 戦いが本当にあった証拠は、それだけだった。



「あいつを信用していいのか」


 シンが聞く。


「信用する必要はない」


「敵か」


「違う」


「味方か」


「違う」


「じゃあ何なんだ」


「ワカレだ」



 名前で答えた。


 それ以上でも、それ以下でもないように。



 シンは二つの道を見た。


 片方は谷へ下る。


 片方は尾根へ上がる。


 どちらも木々の奥へ消え、先は見えない。


「ミチヌシ」


「なんだ」


「あんたは、俺をどっちへ行かせたい」



 ミチヌシは杖を持ち上げた。


 どちらの道も指ささない。


「私が決めれば、お前の道ではなくなる」



 そう言って、二つの道の間を歩き始めた。


 道のない場所だった。


 だが、ミチヌシが一歩進むと、そこに以前から道があったように見えた。



「待て」


 シンはその背を追う。


「まだ聞きたいことがある」


「問いは、歩きながらでも持てる」


「答えは?」


「必要になれば、道にある」


「またそれかよ」



 ミチヌシは振り返らなかった。


 首元のヒスイだけが、木漏れ日を受けて緑に光った。



 繋がる道。


 別れる道。


 そして、まだ誰も歩いていない道。



 シンは、今度こそ死なずに変える方法を探すため、その後を歩いた。



(第五十二話へ)


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