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繋がる道、別れる道

第五十一話 繋がる道、別れる道


⸻


 翌朝。


⸻


 シンは、鹿汁の匂いで目を覚ました。


 骨の髄から出た脂。


 柔らかく煮崩れた根菜。


 塩。


 薪の煙。


 昨日は胃を縮ませた匂いが、今日は素直に腹へ届いた。


⸻


 ぐう。


⸻


 腹が鳴った。


 その音を聞いて、シンはしばらく動かなかった。


 腹が減る。


 当たり前のことだった。


 だが、昨日の自分には、その当たり前さえ遠かった。


⸻


 首へ手を当てる。


 傷はない。


 肋の下も痛まない。


 深く息を吸っても、喉から空気は漏れなかった。


 体の奥に残っていた刃の感触も、薄い影になっている。


⸻


(戻ってる)


⸻


 今度は時間ではない。


 体が、生きている方へ戻っていた。


⸻


 肩には、厚い毛皮が掛かっている。


 顔を近づけると、炉の煙に混じって、かすかに甘い匂いが残っていた。


 雨。


 薬草。


 野薔薇の様なアサメの匂い。


⸻


 背中が、急に昨日の温度を思い出した。


 腹へ回された腕。


 肩へ触れた息。


 柔らかな熱。


 眠りへ落ちる寸前、肌へ触れたようなもの。


⸻


(いや)


(最後のは、たぶん夢だ)


⸻


 夢であってほしいのか。


 夢であってほしくないのか。


 考えかけて、毛皮を顔まで被った。


⸻


「起きてる」


⸻


 毛皮の外から、カンの声がした。


 シンは固まった。


「寝てる」


 トンが言う。


「腹が鳴った」


 チンが言う。


「腹だけ起きた」


 カンが結論を出した。


⸻


 毛皮が三方から引かれた。


「やめろ!」


 シンは端を掴む。


 三人も離さない。


「朝飯!」


「鹿汁!」


「冷める!」


「起きるから引っ張るな!」


⸻


 毛皮の下で攻防が続いた。


 やがて、縫い合わせた部分が嫌な音を立てる。


 全員が止まった。


⸻


「破れたら、誰が怒られる」


 シンが聞いた。


「シン」


 トンが答えた。


「俺なの!?」


「一番大きいから」


 チンが答えた。


「毛皮を使った人」


 カンが答えた。


「お前らも引っ張っただろ」


「証拠がない」


「三人いることが証拠だよ!」


⸻


 外で、ナギが吹き出した。


「朝から元気だねぇ」


「助けてくれ」


「嫌だよ。そっちの方が面白い」


⸻


 シンは毛皮を抱えたまま起き上がった。


 少しだけ眩暈がした。


 だが、昨日のように床は傾かない。


 脚へ力が入る。


⸻


「治った?」


 トンが聞く。


「だいぶ」


「もう吐かない?」


 チンが聞く。


「たぶん」


「アサメ、すごい」


 カンが言った。


「温めたら治った」


⸻


 三人が同時に頷いた。


 嫌な予感がした。


「何を聞いた」


「シンは冷たい」


「アサメは温かい」


「二人で毛皮に入る」


⸻


「誰から聞いた!」


⸻


 三本の指が、戸口のナギを指した。


「お前か!」


「俺は見たままを話しただけ」


「見てたのかよ!」


「途中までね」


「どこまで!」


「アサメが、タダに子供を連れていけって言うところまで」


「それなら、ほとんど見てないだろ!」


「見てないから、想像する余地がある」


「余地を埋めるな!」


⸻


 ナギは腹を抱えて笑った。


 トン、チン、カンも意味を分からないまま笑っている。


⸻


 そこへ、タダが入ってきた。


 大きな土器の椀を両手に持っている。


 一つをシンへ差し出した。


「食え」


「ありがとう」


「温かいうちに」


「そうする」


「冷えたら、またアサメが温める」


⸻


 シンの手が止まった。


 ナギが壁へ手をついて笑い始める。


「タダまで!?」


「何がだ」


「今の、絶対分かって言っただろ!」


「汁は温かい方がいい」


「俺の話だ!」


「お前も温かい方がいい」


「そうだけど!」


⸻


 言い返した後で、自分の言葉に気づいた。


 ナギがしゃがみ込んだ。


 トンが首を傾げる。


「シン、アサメがいいの?」


「今その話はしてない!」


「嫌なの?」


 チンが聞く。


「そういう話もしてない!」


「分からない」


 カンが言う。


「俺も分からない!」


⸻


「何が分からない」


⸻


 背後から声がした。


⸻


 シンは動きを止めた。


 アサメが立っていた。


 朝の水汲みから戻ったらしい。


 髪は高く束ねられ、首筋に残った短い毛だけが濡れている。


 肩には水の入った土器。


 昨日と同じ顔で、こちらを見ていた。


⸻


「何でもない」


 シンは即答した。


「アサメがいいかどうか」


 トンが正直に答えた。


「トン!」


⸻


 アサメはシンを見る。


 顔。


 手。


 足元。


 体調を確かめる目だった。


「もう冷たくないか」


「大丈夫」


「震えは」


「止まった」


「そうか」


⸻


 アサメは少し頷いた。


「また冷えたら言え」


「言わない」


「なぜだ」


「自分で火に当たる」


「それで足りなければ、また温める」


⸻


 ナギが、ついに声を出さずに笑い始めた。


 肩だけが激しく動いている。


 タダは鹿汁を飲んでいた。


 トンたちは、新しい遊びを見つけた顔をした。


「アサメが温める!」


「毛皮で!」


「二人で!」


「お前ら、外へ行けぇ!」


⸻


 三人が笑いながら逃げていく。


 ナギも、その後を追うふりをして逃げた。


 タダだけが残った。


「タダも行け」


「まだ食っている」


「早く食え!」


⸻


 アサメは本当に意味が分からない顔をしていた。


 それが余計に困る。


 シンは鹿汁へ顔を近づけた。


 湯気で顔の赤さを隠す。


⸻


 一口飲んだ。


 うまかった。


 鹿の骨から出た旨味が濃い。


 根菜は形が崩れるほど柔らかく、脂と塩を吸っている。


 昨日、飲み込むだけで精一杯だった味が、今日は舌の上で一つずつ分かった。


⸻


「うまい」


 シンは言った。


「なら、もう大丈夫だ」


 アサメが答えた。


⸻


 その声が少し柔らかく聞こえた。


 顔を上げる。


 アサメはもう、水を運ぶために背を向けている。


 昨日、シンを包んだ背中。


 衣の下にある身体の線を思い出しかけ、慌てて汁へ視線を戻した。


⸻


「赤い」


 タダが言った。


「汁が熱い」


「そうか」


「それ以外に何がある」


「知らない」


「絶対知ってるだろ」


⸻


 タダは、二杯目の汁をよそった。


⸻


⸻


 朝の集落には、昨日と同じ音が戻っていた。


⸻


 トン、チン、カンは、流れの中へ小石を並べている。


 今度は舟ではなく、堰を作るつもりらしい。


 トンが大きな石を置く。


 水が止まる。


 チンが隙間へ泥を詰める。


 水が横へ逃げる。


 カンが、その先へ別の溝を掘る。


 最初とは違う場所に、新しい流れが生まれる。


⸻


「こっち行った!」


「道、変わった!」


「水は低い方へ行く」


⸻


 シンは、その言葉へ耳を止めた。


⸻


 道。


 流れ。


 変わる。


⸻


 サルの声が蘇る。


『同じ道を避けても、次の道はある』


⸻


 死ねば戻れる。


 戻れば違う道を選べる。


 そう思った。


 実際、最初の刃は避けた。


 だが、次の刃が来た。


⸻


(変えるって、何だ)


⸻


 戻ることか。


 避けることか。


 別の誰かを動かすことか。


 それとも、まだ見えていない何かなのか。


⸻


 考えていると、光が目へ入った。


⸻


 緑だった。


⸻


 集落の外。


 木々の間。


 朝の光が枝の隙間から落ち、一瞬だけ、深い緑の石を透かした。


 水の底へ陽を閉じ込めたような色だった。


⸻


(ヒスイ)


⸻


 シンは立ち上がった。


 椀の中で汁が揺れる。


⸻


 緑の光の下に、人がいた。


 白い髪。


 細い体。


 古びた衣。


 一本の杖。


 人の輪へ入らず、木と木の境に立っている。


⸻


 顔は遠くてよく見えない。


 それでも、立ち方を知っていた。


 道の途中でありながら、そこが最初から終着点だったように立つ男。


⸻


(まさか)


⸻


 数百年前。


 北の集落と西の森の間。


 人の通らない古い道。


 首にヒスイを下げ、道を示した男。


⸻


「ミチヌシ……」


⸻


 名前を口にした瞬間、人影が森の奥へ向きを変えた。


 逃げるようには見えない。


 ただ、ついて来いと言うように歩き始める。


⸻


 シンは椀を置いた。


「どこへ行く」


 タダが聞いた。


「知ってる奴がいた」


「森に?」


「いるはずのない奴が」


⸻


 タダは、木々の間を見た。


 緑の光は、もう見えない。


「行くのか」


「確かめる」


「昨日は、森へ行かなかった」


「昨日は行かなかった」


「今日は」


「行く」


⸻


 タダは少し黙った。


「一人で?」


「たぶん、一人じゃない」


⸻


 意味の分からない答えだった。


 それでもタダは止めなかった。


「昼までに戻れ」


「分かった」


「戻らなければ、アサメが探しに行く」


「それは怖いな」


「温められる」


「まだ続けるの!?」


⸻


 ナギの笑い声が、また遠くから聞こえた。


 シンは逃げるように森へ入った。


⸻


⸻


 白い髪は、時々見えた。


 追いつけそうな距離にある。


 だが、シンが速く歩けば、その分だけ先へ進む。


 走れば枝に隠れ、立ち止まれば次の木の向こうに現れた。


⸻


 足跡はない。


 昨夜の雨で柔らかくなった土に、シンの足跡だけが残っていく。


 男が踏んだはずの苔は沈まず、枯葉も裏返っていない。


⸻


 それでも、幻ではなかった。


 風が吹くたび、首元のヒスイが光る。


 遠い海の色。


 山の中にはない、深く澄んだ緑。


⸻


 やがて、木々が途切れた。


 岩の多い斜面だった。


 二本の獣道が、そこで一つになっている。


 片方は谷から上がり、もう片方は尾根から下りてくる。


 人が作った道ではない。


 それでも、何度も何かが通った跡があった。


⸻


 男は、二つの道が重なる場所に立っていた。


⸻


「久しぶりだな」


⸻


 先に言ったのは男だった。


 声も変わっていない。


 低くも高くもない。


 遠くから聞こえるのに、すぐ隣へ届く声。


⸻


 シンは息を整えた。


「久しぶり、でいいのか?」


「お前にとっては」


「あんたにとっては?」


「少し前だ」


⸻


 シンの背筋が冷えた。


「少しって、どのくらいだ」


「山の木が、幾つか入れ替わった」


「それは数百年って言うんだよ」


「そう呼ぶ者もいる」


⸻


 男は少し笑った。


 皺は増えていない。


 白髪の長さも、目の静けさも変わらない。


 前の時代で見た時と、何一つ違わなかった。


⸻


「ミチヌシ」


 シンは確かめるように呼んだ。


「そう呼ばれている」


「人間なのか」


「人の形には見えるだろう」


「答えになってない」


「答えを持っていない問いもある」


⸻


 ミチヌシは杖へ両手を重ねた。


 曲がった木を削っただけの杖だった。


 飾りはない。


 武器にも見えない。


「あんたは、何者なんだ」


 シンは聞いた。


「前も聞いた」


「前は、まともに答えなかった」


「今も同じだ」


「先に言うなよ」


⸻


 ミチヌシは、二つの獣道を見た。


「道を見る者だ」


「それだけか」


「今は、それでいい」


「今は?」


「長く歩けば、問いの形が変わる」


⸻


 シンは男を見た。


 何も明かしていない。


 それでも、人間ではないと否定もしなかった。


「俺がここにいることも、知ってたのか」


「見た」


「いつ」


「お前が来る前に」


「どこで」


「道で」


「全部それで済ませる気だな」


「便利な言葉だ」


⸻


 ミチヌシの口元が、ほんの少し緩んだ。


 からかわれている。


 数百年ぶりに会った得体の知れない男に、確実にからかわれている。


⸻


「俺は、戻る」


 シンは言った。


 ミチヌシの目が、シンへ戻る。


「死ぬと、少し前へ戻る。同じ時間へ。そこで違うことをすれば、先も変わると思ってた」


「思っていた」


「二度、同じ男に殺された」


「それで、違うと思ったか」


「分からなくなった」


⸻


 正直に答えた。


「戻ることと、変えることは同じじゃないのか」


 ミチヌシはすぐには答えなかった。


 杖の先で、二つの道が重なる土へ触れる。


「同じ場所へ戻っても、同じ者が歩くとは限らない」


「俺は俺だ」


「死ぬ前と同じか」


⸻


 シンは黙った。


 同じではない。


 刃の冷たさを知った。


 モモが自分の死を嫌がることを知った。


 死ねばやり直せるという考えが、少しずつ自分の中へ入り込んでいる。


⸻


「道は、歩いた者も変える」


 ミチヌシが言った。


「戻った先が同じでも、お前はもう同じではない」


「じゃあ、どうすれば変えられる」


「それを他の者に聞いているうちは、変えられない」


「厳しいな」


「道は優しくない」


⸻


 その時だった。


⸻


 木漏れ日の中で、小さな光が生まれた。


⸻


 シンには、それが何か分からなかった。


 音も聞こえない。


 ただ、ミチヌシの杖が動いた。


⸻


 速くはなかった。


⸻


 杖を土から上げる。


 水面へ浮いた葉を端へ寄せるような、緩やかな動きだった。


 その先が、シンの頬の横へ来る。


⸻


 ちん。


⸻


 乾いた音がした。


 小さな鉄の刃が、弾かれて岩へ落ちる。


 刃先は、シンの目へ向いていた。


⸻


「伏せろ!」


 シンが叫ぶ。


 だが、叫び終える前に、金色の髪が木々の間から落ちてきた。


⸻


 サル。


⸻


 声はなかった。


 笑ってもいない。


 地面へ着く前に、右手の短い刃がミチヌシの首へ走る。


⸻


 速い。


 シンの目には、腕が途中から消えたように見えた。


⸻


 ミチヌシは、半歩だけ後ろへ下がった。


 老人が道を譲るような、ごく普通の一歩だった。


 刃は首へ届かない。


 その位置へ、杖の中ほどが既にあった。


 鉄と木が触れる。


 鈍い音。


⸻


 サルは止まらない。


 刃を引く前に体を沈める。


 足を払う。


 左手が地面へ触れる。


 体を軸にして回り、逆の手からもう一枚の刃が出た。


 低い場所から、脇腹へ入る。


⸻


 ミチヌシは杖の先を土へ置いた。


 それだけに見えた。


 だが、サルの足が杖へ当たり、体の向きがわずかにずれる。


 脇腹を狙った刃は、衣の端だけを切った。


⸻


 サルは切れた布を見ない。


 木の幹を蹴る。


 地面と平行に飛び、今度は背後から首を狙う。


⸻


 ミチヌシは振り返らなかった。


 杖を肩へ担ぐ。


 薪を運ぶ者のような動きだった。


 杖の端が、背後の刃を正確に打つ。


⸻


 ちん。


⸻


 また、小さな音。


 サルの手が弾かれる。


 その勢いを使い、空中で体を捻る。


 着地した時には、もう次の刃がミチヌシの胸へ向いていた。


⸻


 速い。


 速すぎる。


 一つの攻撃が終わる前に、次が始まっている。


 前。


 下。


 後ろ。


 右。


 サルの姿が、幾つも同時にあるように見えた。


⸻


 それなのに。


⸻


 ミチヌシは一度も急がなかった。


⸻


 杖を置く。


 半歩退く。


 肩を傾ける。


 道の端へ避ける。


⸻


 どの動きも遅い。


 遅く見えるのに、全て間に合っている。


⸻


 サルが着くより先に、杖がある。


 刃が走るより先に、体がその場所からいない。


 攻撃を見て避けているのではない。


 サルが選ぶ場所を、選ぶ前から知っているようだった。


⸻


(何だ、これ)


⸻


 シンは動けなかった。


 助けるという考えすら浮かばない。


 速いものと遅いものが戦っているのに、遅い方へ一度も追いつけない。


 目の前の出来事だけ、時間の流れ方が二つに分かれていた。


⸻


 サルが初めて大きく踏み込んだ。


 土が跳ねる。


 右の刃を上から振る。


 ミチヌシの杖が上がる。


 受ける。


⸻


 その瞬間、サルは右の刃を捨てた。


 左手が、ミチヌシの喉へ伸びる。


 指の間に、細い鉄の針。


⸻


 ミチヌシは杖から片手を離した。


 サルの手首を掴む。


⸻


 速くはない。


 ただ、そこへ手を置いた。


 サルの手首の方が、待っていた手の中へ飛び込んだように見えた。


⸻


 二人が止まる。


⸻


 細い針は、ミチヌシの喉まで指一本。


 杖の先は、サルの肋へ触れている。


 どちらかが少し動けば、どちらにも届く距離だった。


⸻


 長いようで、短い沈黙。


⸻


 先に息を吐いたのは、サルだった。


 口元へ、いつもの笑みが戻る。


「相変わらず、やりにくいなぁ」


 ミチヌシは手を離した。


 サルも針を引く。


 互いに一歩ずつ離れた。


⸻


「久しぶりだな、ワカレ」


⸻


 ミチヌシが言った。


⸻


 シンはサルを見る。


「ワカレ……?」


⸻


 金色の髪の男が、少し嫌そうに笑った。


「その名で呼ぶ?」


「お前の名だ」


「今はサルで通してるんだけど」


「役は名にならない」


「長く呼ばれれば、何でも名になるよ」


⸻


 ワカレ。


 分かれる。


 道。


⸻


 あまりにも、その男に似合う名だった。


⸻


 サル――ワカレは、ミチヌシの杖を見た。


「人に手を貸すなんて珍しいじゃん、ミチヌシ」


「道の上で刃を投げる者がいた」


「拾えばいいだけだろ」


「目に刺されば拾えない」


「優しくなった?」


「お前が変わらないだけだ」


⸻


 ワカレは肩をすくめた。


「そっちも変わってないよ。昔から、来た道へ帰したがる」


「お前は、先ばかりを選ばせる」


「進まなきゃ道じゃない」


「帰れなければ、道とは呼べない」


「またそれ?」


⸻


 二人の会話には、シンの知らない時間があった。


 数年ではない。


 数十年でもない。


 人の国が名を持つより前から、同じ話を繰り返してきたような古さがある。


⸻


「二人とも、何歳なんだ」


 シンは思わず聞いた。


 ワカレが笑う。


「それ、聞く?」


「聞くだろ。ミチヌシは数百年前から同じ顔だ。お前らは昔から知り合いみたいに話してる」


「知り合いだよ」


「いつから」


「人が道を数える前から」


⸻


 軽い声だった。


 冗談にも聞こえる。


 だが、ミチヌシは否定しなかった。


⸻


「何者なんだ、お前ら」


 シンが聞く。


 ワカレはミチヌシを見る。


「言ってないの?」


「今は必要ない」


「相変わらず秘密が多いねぇ」


「お前は余計なことを話しすぎる」


「聞かれたら答える方なんだよ」


「嘘も混ぜる」


「道は混じるものだから」


⸻


 ワカレがシンへ向き直った。


「今は、こう思っておけばいいよ」


 自分を指す。


「俺は、分かれる方」


 次に、ミチヌシを指す。


「こっちは、繋げる方」


「何を」


「道を」


⸻


 それ以上は言わなかった。


 ミチヌシも止めない。


 答えのようで、何も分からない。


 だが、二人の立つ場所だけは見えた気がした。


⸻


 同じ道を見ている。


 一人は、どこへ続くかを見る。


 一人は、どこで分かれるかを見る。


⸻


「どうして俺を殺した」


 シンは聞いた。


⸻


 空気が少し変わった。


 ワカレの笑みは消えない。


「ヤマトにとって邪魔になりそうだったから」


「それだけ?」


「十分だろ」


「俺が何をするかも分からないのに」


「分からないからだよ」


⸻


 ワカレは、岩に落ちた小さな刃を拾った。


 指先で泥を拭う。


「ヤマトは北へ道を通したい。白桃は、その真ん中を歩く。イヌは外れかけても戻る。そこまでは読めた」


 刃を光へかざす。


「でも君が入ると、白桃が止まる。イヌが余計なことをする。知らないはずの話が、山側へ流れる」


「だから切った」


「うん。繋がる前にね」


⸻


 シンの首が、記憶だけで冷えた。


 無意識に手を当てる。


 ワカレは、その動きを見逃さなかった。


「首、まだ痛い?」


「次は腹だった」


「ああ。そっちも覚えてるんだ」


「お前は覚えてないのか」


「覚えてはいない」


 ワカレは少し考えた。


「でも、道に跡が残る」


⸻


 前にも会った気がした。


 もっと後で会うはずだった気がした。


 ワカレはそう言っていた。


「殺しても、君は消えなかった」


「戻ったからな」


「違うよ」


⸻


 ワカレの声から、笑いが少し薄れた。


「殺す前より、増えた」


「何が」


「選ぶ道が」


⸻


 シンは答えなかった。


「最初は森で、何も知らずに死んだ。次は先回りして、俺の最初の刃を避けた。殺すたびに君は別の道から来て、前より多くのものを持ってる」


「だったら、もう殺さないのか」


「今はね」


「信用できない」


「正しい」


⸻


 ワカレは楽しそうに笑った。


「君は、死ねば変えられると思い始めてる」


「実際、変わった」


「少しはね」


「なら」


「だから面白い」


⸻


 ワカレは刃を懐へ戻した。


「邪魔だから切った。切ったら、分かれ道が増えた。だったら、もう少し残して見たくなる」


「人の命を、道みたいに言うな」


「人が歩かなければ、道は生まれないよ」


⸻


 ミチヌシの杖が、土を一度打った。


 低い音がした。


「面白がるな、ワカレ」


「そっちは心配しすぎ」


「死を道具にすれば、帰る道を失う」


⸻


 その言葉は、ワカレではなくシンへ向いていた。


 シンはミチヌシを見る。


「戻れなくなるのか」


「戻ることを選ばなくなる」


「同じじゃないのか」


「違う」


⸻


 ミチヌシは静かに言った。


「死ぬ覚悟と、死ねばいいという考えは、似ているようで反対だ」


⸻


 昨日の自分が蘇る。


 先回りすれば変えられる。


 失敗しても、また戻るかもしれない。


 そう考えなかったとは言えない。


⸻


「俺は、何回戻れる」


 シンは聞いた。


 ミチヌシは答えなかった。


 ワカレも笑わない。


 その沈黙が、答えより怖かった。


⸻


「それは、自分で数えた方がいい」


 ワカレが言った。


「お前は知ってるのか」


「知っていても、言わない」


「何で」


「分かれ道が減るから」


⸻


 いつもの軽い調子に戻っていた。


 だが、完全な冗談には聞こえない。


⸻


 ワカレは後ろへ一歩下がった。


 木の影が、半身へかかる。


「今日は帰るよ」


「ヤマトへ?」


「さあね」


「俺を生かすって、本当に決めたのか」


「決めてない」


「今、残すって言っただろ」


「今の分かれ道ではね」


⸻


 ワカレが笑った。


「次に会う君が、同じ道にいるとは限らない」


⸻


 木々の間へ下がる。


 足音はしない。


 金色の髪だけが一度、光を受けた。


「じゃあ、シン」


 声が少し遠くなる。


「死なない道も、ちゃんと残しておきなよ」


⸻


 気配が消えた。


 最初からいなかったように。


 落ちた葉一枚さえ、動いていなかった。


⸻


 後には、シンとミチヌシだけが残った。


 二つの獣道が重なる場所。


 岩へ弾かれた小さな傷。


 ミチヌシの衣に入った、細い切れ目。


 戦いが本当にあった証拠は、それだけだった。


⸻


「あいつを信用していいのか」


 シンが聞く。


「信用する必要はない」


「敵か」


「違う」


「味方か」


「違う」


「じゃあ何なんだ」


「ワカレだ」


⸻


 名前で答えた。


 それ以上でも、それ以下でもないように。


⸻


 シンは二つの道を見た。


 片方は谷へ下る。


 片方は尾根へ上がる。


 どちらも木々の奥へ消え、先は見えない。


「ミチヌシ」


「なんだ」


「あんたは、俺をどっちへ行かせたい」


⸻


 ミチヌシは杖を持ち上げた。


 どちらの道も指ささない。


「私が決めれば、お前の道ではなくなる」


⸻


 そう言って、二つの道の間を歩き始めた。


 道のない場所だった。


 だが、ミチヌシが一歩進むと、そこに以前から道があったように見えた。


⸻


「待て」


 シンはその背を追う。


「まだ聞きたいことがある」


「問いは、歩きながらでも持てる」


「答えは?」


「必要になれば、道にある」


「またそれかよ」


⸻


 ミチヌシは振り返らなかった。


 首元のヒスイだけが、木漏れ日を受けて緑に光った。


⸻


 繋がる道。


 別れる道。


 そして、まだ誰も歩いていない道。


⸻


 シンは、今度こそ死なずに変える方法を探すため、その後を歩いた。


⸻


(第五十二話へ)


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