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先回り

第五十話 先回り



 目が覚めると、炉の火が小さくなっていた。



 朝だ。


 いや、まだ朝だ。


 どれくらい眠ったのか分からない。


 でも、外の光はあまり変わっていなかった。



 アサメはもういない。


 毛皮だけが、肩に残っていた。


 体温と、野薔薇の残り香も。



(眠れた)



 シンは首に触れた。


 傷はない。


 血もない。


 でも、覚えている。



 全部、覚えている。



 外へ出た。



 空が明るい。


 でも、まだ朝の冷たさがある。


 雪解け水が、あちこちで光っていた。



 タダが炉に薪を足していた。


 シンを見た。


 目が、少し動いた。



「顔が良くなった」


「昨日より?」


「昨日は死んだ顔だった」


「アサメにも言われた」


「そうだろう」


「……そうか」



 タダは薪を足して、鍋の確認をした。


 それだけで、もう他のことは言わなかった。


 タダは、こういう人だ。



(今日、決めることがある)



 シンは空を見た。


 晴れている。


 春の空だ。


 前と同じ空だ。


 でも前は、この空の下で死んだ。



 前のシンは、森へ逃げた。


 アサメへの返事が怖くて、逃げた。


 木の陰に隠れて、盗み聞きをした。


 枝を踏んで、見つかった。


 サルに首を斬られた。



(同じことをしても、同じになる)



 変えなければいけない。


 森に行かない。


 枝を踏まない。


 サルに会わない。



 でも、それだけじゃ足りない気がした。



(あいつは、流れを読む)


(違う動きをしても、どこかで現れる)


(なら)



 シンは少し考えた。



 防ぐだけでは駄目だ。


 先に動く必要がある。


 サルより先に、誰かへ接触する。



 ハヤセだ。



 ハヤセは、この山域にいる。


 モモとの密会がある前に、シンが先にハヤセを見つける。


 それしかない。



(あいつなら、何か知っている)


(侵攻を止める方法がなくても)


(道を、ずらす方法くらいは)



 甘い匂いがした。



 集落の外縁に、モモがいた。


 今日も遠い。


 昨日より、少し遠い。


 いや、前と同じなのかもしれない。


 もう距離の感覚が信用できなかった。



 シンはそちらへ歩いた。



「モモ」


「……確認」


「今日、ハヤセがこの辺りにいるか」



 モモは少し間を置いた。



「……なぜ聞く」


「話がある」


「……接触は、推奨しない」


「だろうな」


「……」


「でも、聞く。どこにいる」



 モモは答えなかった。


 ただ、視線だけが動いた。


 南。


 川下の方へ。



(川下か)



「ありがとう」


「……感謝は不要」


「言う。ありがとう」



 モモは黙った。


 でも、消えなかった。



 シンは川下へ向かって歩き始めた。



 川沿いの道は、昨日より土が柔らかかった。


 踏むたびに、ぐ、と沈む。


 音がする。


 足跡が残る。



(こういう道は、気配を消しにくい)



 前回、サルは音もなく現れた。


 シンがどこにいても、気づかれた。


 あいつは、足音よりも別のものを読んでいる。



 流れ。



 そう言っていた。



(急ぐな)


(急ぐと、たぶん変わる)


(変わったら、読まれる)



 自然に歩く。


 そう意識して歩いた。


 意識した時点で不自然な気もしたが、もう仕方がない。



 川の音が大きくなってきた。


 水量が増えている。


 雪解けだ。



 川の折れ曲がった先に、人影があった。



 止まった。



 男だった。


 川辺に立っていた。


 水を見ていた。


 体が削ぎ落とされている。


 余分なものが何もない体だ。



(ハヤセだ)



 近づいた。


 ハヤセは振り返らなかった。


 でも、足音で気づいていた。


 体の向きが、わずかに変わった。



「シン、か」


「そうだ」


「……なぜここが分かった」



 シンは少し間を置いた。



「川下だと思って」


「……」


「当たったか」


「勘がいい」


「モモが教えてくれた」



 ハヤセは少し目を細めた。



「白桃が」


「方向だけ。それだけだ」


「……そうか」



 ハヤセは川に視線を戻した。


 水が光っている。


 速い流れだ。


 雪解け水は止まらない。



「話がある」


「聞こう」


「侵攻を止められないか」



 ハヤセは答えなかった。


 でも、去らなかった。


 川を見たまま、立っていた。



「止められない」


「なぜだ」


「俺には無理だ」


「無理じゃなくて、やらない、じゃないのか」



 ハヤセが少し振り返った。


 目が、少し鋭くなった。



「同じことだ」


「違う」


「お前には分からない」


「分かりたい」



 ハヤセは川を見た。


 しばらく黙っていた。


 それから、短く言った。



「俺は、イヌだ」



 その言葉を聞いた瞬間、シンの胸の奥が少し冷えた。



(聞いた)



 前に聞いた。


 前回の森で。


 モモとハヤセが向かい合っていた時に。



『行く』


『……なぜ』


『イヌだからだ』



 あの時と同じ声だった。


 同じ乾き方だった。



「……役だって、言ってたな」


 シンは言った。



 ハヤセの目が細くなった。


「誰に聞いた」



(しまった)



 この今では、まだ聞いていない言葉だ。



「……そう見えた」


「見えただけで、そこまで言うのか」


「そうだな。変だな」



 ハヤセは黙った。


 完全には納得していない。


 でも、追及もしなかった。



「役だ」


 ハヤセが言った。


「道を知る。山を知る。川を知る。鬼の場所を知る。だから使われる」



(やっぱり、同じだ)



 言葉が、前回と重なる。


 モモに向けて言っていた言葉を、今はシンに向けて言っている。


 それだけで、ハヤセという男の立っている場所が少し分かった気がした。



「それを降りれば」


「降りれば、別の者が来る」



 シンは黙った。



「そいつは山を知らない。道を知らない。だから、余計に焼く。余計に殺す」


「……そういうことか」


「俺がいる方が、被害は少ない。そういう算段だ」



 ハヤセの声は、いつも通り乾いていた。


 でも、その乾き方が、少し違う。


 言い訳ではなかった。


 本当に、そう計算して、そう動いている。


 ずっと、そうしてきた。



「疲れないか」


「疲れる」


「それでも続けるのか」


「続けないと、焼かれる者が増える」



 風が来た。


 川の水が、少し乱れた。


 すぐに整った。


 流れは止まらない。



「ハヤセ」


「なんだ」


「一つ聞いていいか」


「内容による」



 シンは少し迷った。



 前回、倒れながら聞いた話の中に、海の向こうの話はなかった。


 サルは韓の話をした。


 ヤマトの本流は北つ方ではなく韓の方だ、と言った。


 技術。


 鉄。


 渡来の知識。



 でも、海の向こうの島の話は、まだ聞いていない。


 知っているとしても、それは別の知識だ。


 桃太郎。


 鬼ヶ島。


 イヌ、サル、キジ。


 白桃。モモ…。



(出来すぎてる)



 この時代の出来事が、後の物語になったのか。


 それとも、未来の誰かが物語に合わせて役を作ったのか。


 どちらが先なのか分からない。


 でも、今ここで「鬼ヶ島」と言えば、たぶん話がややこしくなる。



「……海の向こうにも、鬼はいるのか」



 だから、そう聞いた。



 ハヤセが止まった。



 川の音だけがした。



「なぜ、それを聞く」


「ヤマトの本流は、韓の方だと聞いた」


「……誰から」


「サルから」


「いつ」



 まただ。


 ハヤセの目が、さらに鋭くなった。



(また、今じゃない話をした)



「……悪い。聞き方が変だった」


「変だな」


「でも、聞きたい。ヤマトは、北つ方だけじゃなく、海の向こうにも鬼を作るのか」



 ハヤセはしばらく黙っていた。


 それから川を見た。



「……鬼は、どこにでも作れる」



 静かな声だった。



「山にも」


 ハヤセが言った。


「川にも。海の向こうにも、ちいさな、島にも…」



 シンは黙った。



「そこに人がいて、鉄があり、道があり、従わない理由があれば、鬼になる」


「鬼だったのか」


「鬼にされた」



 短い答えだった。



 でも、それで十分だった。



(鬼にされた)



 オキもそうだった。


 ミコの父もそうだった。


 アサメたちも、そうされようとしている。


 そして、別の場所でも、同じことがあった。



(桃太郎の物語)


(鬼ヶ島)


(イヌ、サル、キジ)


(白桃)



 頭の中で、後世の形が重なる。


 でも、今ここにいるハヤセは、物語の犬ではない。


 疲れた男だ。


 役から降りられない男だ。



 サルも、ただの陽気な猿ではない。


 人を軽く殺す男だ。



 モモは。



(桃太郎じゃない)



 少なくとも、俺の知っている桃太郎じゃない。


 鬼を倒してめでたし、で終わる話ではない。



「同じことが、またここで起きるんだな」


「起きる」


「止められないのか、本当に」


「俺には、無理だ」


「じゃあ、道をずらせないか。被害を減らせないか」


「……」



 ハヤセは少し間を置いた。



「考えていないわけじゃない」


「なら」


「でも、俺一人でできることは限られている」


「俺も動く」


「お前が動いても」


「足手まといか」


「そうは言っていない」



 ハヤセがシンを見た。


 測るような目だった。


 品定めではなく、可能性を測っている目だ。



 そのとき。



「あれれ〜?」



 声がした。



 後ろからだ。


 川下ではない。


 川の向こうの、岩の上からだ。



(来た)



 シンの背中が冷えた。



 岩の上に、男が立っていた。


 金色の髪が、春の光に光っている。


 笑っている。


 軽い笑い方だ。



 サルだ。



「そっちから来るんだ」



 サルが言った。


 面白そうな声だった。



「今日は、川沿いで来たんだ。珍しい選択だなぁ」


「……」


「前は、森だった気がするんだけど」



 シンは止まった。



(前は)



「知ってるのか」


「知ってる、って何を?」


「俺が、前に…」


「前?」



 サルは首を傾けた。


 不思議そうな顔だ。


 でも、その目は少し笑っている。



「なんか、流れが変なんだよねぇ。昨日と今日で、シンの動き方が違う」


「……」


「何かあった?」


「何もない」


「そう?」



 サルは岩から軽く飛び降りた。


 音がしなかった。


 着地したのに、音がしなかった。



 ハヤセが前に出た。



「サル」


「イヌ、いたのかぃ。気づかなかった」


「嘘をつくな」


「嘘じゃないよ。ほんとに気づかなかった。シンの流れが変で、そっちに気を取られてた」



 サルはシンを見た。


 真っ直ぐに見た。


 笑ってはいるが、目だけは真剣だった。



「シン」


「何だ」


「俺のこと、知ってる?」



 シンは少し考えた。


 前回、サルの声を聞いた。


 殺された。


 首を斬られた。


 でも、それはこの今では起きていない。



「……知らない」


「そう? まあ、いいか」



 サルは少し笑った。


 信じているのか、信じていないのか、分からない笑い方だ。



「で、何を話してたの」


「関係ない」


「侵攻の話?」


「……」


「関係ある話、してたじゃん」



 ハヤセが低く言った。



「サル、今日はここまでにしろ」


「なんで?」


「こいつが死んだら、話が続かない」


「え」



 サルは目を丸くした。


 本当に驚いたような顔だった。



「コイツが死ぬ前提?」


「お前がいる」


「信用ないなぁ」


「ない」



 サルは笑った。


 楽しそうだった。



「でもさ」



 声が少し近くなった。



 シンは目を離していない。


 離していないのに。



 サルが、消えた。



(え)



 次の瞬間。


 横にいた。



「念のため、って大事だよね」



 冷たいものが、脇腹に入った。



 痛みは遅れて来た。



「あ」



 声が漏れた。



 ハヤセが動いた。


 モモの匂いも、遠くで強くなった。



 でも、遅かった。



 サルはもう離れていた。


 刃に血がついている。


 赤い。


 春の光の中で、妙に明るかった。



「ごめんねぇ」



 サルが笑った。



「流れが変なの、放っておくと気持ち悪いんだ」



 膝が崩れた。



 地面が近づく。


 川の音が大きくなる。



 ハヤセが何か叫んだ。


 聞こえない。



 甘い匂いがした。



(モモ)



 来たのか。


 それとも、遠くで見ているだけなのか。


 分からなかった。



 体から熱が抜けていく。


 まただ。


 また、この感覚だ。



(変えた)


(でも、来た)


(やっぱり)


(あいつは、来る)



 サルの声が、遠くで聞こえた。



「じゃあね、シン」



 軽い声だった。



「次は、もっと上手く流れてみてよ」



 川が光っていた。


 流れていた。


 止まらなかった。



 そして。



 世界が、落ちた。



 ――死んだ。



(第五十一話へ)

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