アサメの温度
第五十話 アサメの温度
⸻
手の震えが止まらなかった。
⸻
首に傷はない。
肋の下にもない。
指で何度なぞっても、皮膚は繋がっている。
血も出ていない。
それなのに、体は二つの死を同時に覚えていた。
⸻
喉が狭い。
息を吸うたび、首の横から空気が漏れる気がする。
腹へ力を入れると、肋の下へ沈んだ刃が、もう一度ゆっくり中を掻く。
傷などない場所が痛んだ。
痛むはずのない場所から、熱が流れ出ていく。
⸻
「う……っ」
⸻
胃が持ち上がった。
シンは寝床の脇へ身を折る。
何も出ない。
まだ朝の飯を食べていない。
唾液と、酸っぱい息だけが口から落ちた。
腹は何度も縮み、空になった体から、さらに何かを吐き出そうとする。
⸻
(もう、ない)
(血も、傷も、何もない)
⸻
そう言い聞かせる。
体は聞かなかった。
⸻
外では、薪を割る音がしていた。
ざく。
少し間を置いて、また、ざく。
タダの音だった。
同じ太さの薪を、同じ力で割る音。
世界が一度も途切れていないことを、規則正しく教えてくる。
⸻
やがて、別の音が混じった。
子供の足音だった。
一人ではない。
泥を跳ね、滑り、ぶつかり合いながら近づいてくる。
⸻
「シン、起きた?」
トンの声。
「起きてない」
チンの声。
「今、音した」
カンの声。
「じゃあ起きてる」
「吐いてる」
「何を?」
「朝飯」
「まだ食ってない」
「じゃあ昨日の鹿」
⸻
戸口から、三つの顔が覗いた。
上。
中。
下。
縦に並んでいる。
⸻
「何してる」
シンは掠れた声で聞いた。
「見てる」
「見れば分かる」
「何で並ぶ」
「入ると怒られるから」
「誰に」
「みんなに」
⸻
カンが答えた。
もっともだった。
⸻
「シン、鹿に負けた?」
トンが聞く。
「負けてない」
「春に負けた?」
チンが聞く。
「それも違う」
「じゃあ、何に負けた」
カンが聞く。
⸻
答えが出なかった。
刃か。
サルか。
時間か。
自分の考えの浅さか。
⸻
「まだ負けてない」
少し考えて、そう答えた。
三人は顔を見合わせた。
「でも、吐いてる」
「吐いたら負け?」
「まだ決まってない」
⸻
カンが静かに結論を保留した。
その真剣さがおかしくて、シンは少し笑った。
笑うと腹が痛んだ。
傷のない場所を押さえ、息を止める。
⸻
カンの目が細くなった。
「やっぱり負けてる」
「……アサメ呼んで」
⸻
三人が一斉に消えた。
「アサメー!」
「シンが負けた!」
「まだ決まってない!」
⸻
声が集落を横切っていく。
シンは額を寝床へ押しつけた。
「言い方……」
⸻
⸻
朝の集落は、何も知らずに動いていた。
⸻
夜の雨が作った細い流れへ、子供たちが樹皮の舟を浮かべている。
トンの舟は大きすぎて、最初の曲がり角で木の根へ引っかかった。
チンの舟は細すぎて、水を吸うと横倒しになった。
カンの舟だけが流れに乗ったが、本人は舟を見ず、二人の失敗した理由を泥へ線で描いている。
⸻
女たちは濡れた薪を軒下へ移し、男たちは雨で緩んだ柵を直していた。
誰かが干し肉を高い場所へ吊り直す。
誰かが土器へ水を汲む。
炉の煙は、湿った空気へ押し戻されながらも、細く立ち続けていた。
⸻
ナギが、昨夜の汁を温め直していた。
鹿の骨と根菜が残った汁だった。
表面に固まっていた脂が火に近づくにつれ溶け、薄い金色の輪になって広がっている。
⸻
「シン、腹減った?」
ナギが戸口から聞いた。
「今は、あんまり」
「重症だね」
「何で」
「シンが鹿汁を断るなんて」
「断ってない。あとで食う」
「じゃあ、軽症」
⸻
いつもの軽い声だった。
前の時間で、分かれ道を警告したことを知らない声。
ケン、と鳴いたことも。
その声に従って、シンが最初の刃を避けたことも。
何も知らない。
⸻
シンはナギの喉を見た。
あの鋭い声が生まれた場所。
「何?」
ナギが首を押さえた。
「いや」
「喉、欲しい?」
「どういう意味だよ」
「シン、たまに食べ物を見る目で人を見るから」
「見てない」
「今、見てた」
⸻
ナギは笑った。
シンも笑おうとした。
今度は、うまく笑えなかった。
⸻
ナギの背後で、トンが叫ぶ。
「流れた!」
見ると、木の根に詰まっていた大きな舟が、水を堰き止めた末に一気に外れていた。
溜まった水ごと、チンの倒れた舟を押し流す。
カンの舟へ追いつき、三つまとめて泥の穴へ落ちた。
⸻
「全部沈んだ!」
「トンのせい!」
「川のせい」
「川は謝らない」
⸻
三人が泥の中へ手を突っ込む。
袖も、膝も、頬まで汚して、沈んだ樹皮を探している。
その向こうで、大人が笑った。
別の誰かも笑った。
⸻
平和だった。
⸻
ヤマトが来る。
道を通す。
森を焼く。
家を焼く。
この炉のそばにいる者を、鬼と呼ぶ。
⸻
その未来を、まだ誰も知らない。
知らないまま、舟が沈んだことを笑っている。
⸻
(止めないと)
⸻
シンは起き上がろうとした。
腕へ力を入れる。
視界が急に暗くなった。
床が傾く。
体が前へ落ちる。
⸻
倒れる前に、肩を掴まれた。
⸻
「どこへ行く」
⸻
アサメだった。
⸻
いつ来たのか分からなかった。
片腕でシンの体を支え、もう一方の手を額へ当てている。
手のひらは、外気に触れて少し冷たかった。
乾いた硬さがある。
弓弦と刃を扱う手。
指の付け根には薄い皮の盛り上がりがあり、それが熱を測るように、額から頬へゆっくり滑った。
⸻
「ハヤセのところへ」
シンは答えた。
「行かせない」
「行かないと」
「その脚でか」
「歩ける」
「今、倒れた」
「床が動いた」
「動いていない」
「じゃあ、俺が動いた」
「知っている」
⸻
言い逃れが、すべて事実で返される。
アサメはシンの腕を肩へ回した。
「炉へ行く」
「大丈夫」
「聞いていない」
「まだ話が」
「後で聞く」
⸻
有無を言わせない声だった。
シンは立たされた。
脚に力が入らない。
アサメの肩へ体重を預ける。
細く見えるのに、揺れなかった。
弓を引く背と、山を歩く腰が、シンの重さをまっすぐ受け止めている。
⸻
炉までの距離は短い。
それでも、途中で二度休んだ。
一度目は、子供たちの泥の穴の前。
二度目は、干し肉を吊った柱の横。
⸻
「シン、歩くの下手になった」
トンが言った。
「昨日までは、もう少しましだった」
チンが言った。
「脚が二本あるのを忘れてる」
カンが言った。
「忘れてない……」
⸻
アサメが三人を見る。
「湯を持ってこい」
三人の顔が引き締まった。
「熱いの?」
「温かいものだ」
「どれくらい?」
「手を入れられるくらい」
「ずっと?」
「長くは入れるな」
「どっち?」
⸻
アサメが少し考えた。
「タダに聞け」
「分かった!」
⸻
三人が走っていく。
最も確実な指示だった。
⸻
炉の前へ座らされる。
火は近い。
赤い炭の上で、細い炎が薪の表面を舐めている。
熱は頬へ届く。
だが、体の芯は冷たいままだった。
火へ手をかざしても、自分の手ではないように遠い。
⸻
アサメがシンの手首を取った。
親指を内側へ当て、黙って脈を数える。
伏せた睫毛が、火の色を受けて濃く見えた。
濡れた髪の先から、雫が一つ落ちる。
シンの手の甲へ当たり、冷たく弾けた。
⸻
「速い」
「走ってないのに」
「速い」
「そうか」
「息も浅い」
⸻
アサメの指が、シンの首へ移った。
脈を探す指が、刃の通った場所へ触れる。
⸻
「っ!」
⸻
シンは反射的に身を引いた。
アサメの手が止まる。
「痛むのか」
「……痛くない」
「今、逃げた」
「触られると思ってなかった」
「触ると言った方がよかったか」
「そういう問題じゃない」
⸻
アサメは首を見た。
傷のない皮膚。
次に、シンが無意識に押さえている肋の下を見る。
「そこも痛むのか」
「痛くない」
「なら、なぜ押さえる」
⸻
シンは手を離した。
指が震えている。
隠せなかった。
⸻
「夢を見た」
やっと、それだけ言った。
「悪い夢か」
「二回、死んだ」
⸻
アサメは笑わなかった。
夢だとも言わない。
ただ、首と肋の下をもう一度見た。
「首を斬られた」
「そうか」
「次は、ここを刺された」
「そうか」
「夢なのに、まだ痛い」
⸻
声が震えた。
それが自分の声だと、少し遅れて分かった。
⸻
「夢ではない」と言えばいい。
本当に死んだ。
モモが血を押さえた。
ハヤセが叫んだ。
サルが笑った。
全部、本当にあった。
⸻
だが、証拠はどこにもない。
傷も。
血も。
モモの震えた指も。
⸻
アサメは、震える手を両手で包んだ。
「山で獣に追われた者は、里へ戻った後も走る」
「戻ってるのに?」
「体が、まだ戻っていない」
⸻
アサメの手は温かかった。
最初に額へ触れた時は冷たかったのに、炉のそばで熱を含み始めている。
「お前の体は、まだ死んだ場所にいる」
⸻
シンは顔を上げた。
アサメは何も知らない。
知らないのに、正しいことを言った。
⸻
トン、チン、カンが湯を運んできた。
三人で一つの土器を抱えている。
歩調が合わず、湯が縁から何度も零れた。
「持ってきた!」
「半分になった!」
「最初から半分だったことにする」
⸻
後ろからタダも来た。
湯気の立つ別の器と、厚い毛皮を抱えている。
「こっちを使う」
「俺たちのは?」
「足を洗う」
「誰の?」
「お前たちの」
⸻
三人が自分たちの泥だらけの脚を見た。
「仕事、増えた」
カンが言った。
「自分たちで増やした」
タダが答えた。
⸻
ナギが鹿汁の椀を持ってくる。
「少し飲める?」
湯気と一緒に、鹿の骨の濃い匂いが上がった。
根菜の甘さ。
脂。
塩。
昨日なら、それだけで腹が鳴った。
今は胃が縮んだ。
⸻
「無理そうだね」
「少しなら」
⸻
椀を受け取ろうとした。
手が震え、縁が歯へ当たった。
汁が指へ零れる。
熱いはずなのに、熱さが分からない。
⸻
アサメが椀を取った。
「アタシが持つ」
「自分で飲める」
「飲めていない」
⸻
椀が口元へ来る。
シンは諦めて、少しだけ啜った。
塩気が舌へ触れる。
鹿の脂が喉を通る。
温かいものが胸へ落ちた。
だが、すぐに震えで押し戻されそうになる。
「もういい」
「あと一口」
「子供じゃない」
「子供でも、もう少し素直に飲む」
⸻
トンが大きく頷いた。
「飲む」
チンも頷いた。
「鹿なら飲む」
カンは少し考えた。
「苦くなければ」
「お前らは向こうへ行け」
シンが言った。
⸻
アサメが振り返る。
「タダ」
「分かった」
⸻
タダは三人をまとめて抱えた。
トンを左腕。
チンを右腕。
カンを肩へ乗せる。
「待って、まだ見てる!」
「何を!」
「シンが飲むところ!」
「見なくていい!」
⸻
三人の声が遠ざかる。
ナギも笑いながら外へ出た。
入口へ厚い布が下ろされる。
炉の小屋の中には、火の爆ぜる音だけが残った。
⸻
アサメは、もう一口だけ汁を飲ませた。
それから椀を置く。
厚い毛皮を取り、シンの肩へ掛けた。
「まだ震えている」
「止めようとはしてる」
「震えは、止めるものではない」
「じゃあ、どうする」
「温める」
⸻
アサメはシンの衣へ手を掛けた。
「脱げ」
「え」
「上だけだ」
「いや、何で」
「衣が冷えている」
「乾いてる」
「お前の汗を吸っている」
⸻
言われて初めて気づいた。
背中も、胸も、冷たい汗で濡れている。
布が肌へ貼りつき、体温を奪っていた。
⸻
「自分で脱ぐ」
「そうしろ」
⸻
震える指で結び目を解く。
うまくいかない。
紐を摘まんだつもりが、何度も空を掴む。
アサメの手が重なった。
「貸せ」
⸻
固くなった結び目が、細い指の間で解ける。
指先には弓弦でできた硬さがある。
それでも動きは乱暴ではなかった。
濡れた布を肌から少しずつ剥がし、首を通し、腕から抜く。
冷たい空気が、裸の上半身へ触れた。
震えが一段強くなる。
⸻
「寒い」
「知っている」
「早く毛皮を」
「毛皮だけでは遅い」
⸻
アサメは炉へ背を向けた。
自分の上衣の結びを解く。
⸻
シンは動けなかった。
意味を理解するまでに、少し時間がかかった。
「待って」
「待たない」
「何をする気だ」
「体温を移す」
「他にやり方あるだろ」
「火は前にある」
アサメは淡々と言った。
「後ろが冷たい」
⸻
肩から衣が落ちる。
火の明かりが、アサメの肌へ触れた。
⸻
山を歩き、弓を引く体だった。
肩はなだらかだが、薄くはない。
背には、肩甲骨から腕へ続くしなやかな筋が浮かんでいる。
日に焼けた首筋と、衣に隠れていた肌の色には、わずかな境があった。
古い傷が一つ、肩の後ろへ白く残っている。
生きてきた体だった。
戦うためだけではない。
水を汲み、薪を抱き、子供を抱え、眠り、汗をかく体。
それでもアサメの身体は、艶やかな女性の身体だった。
⸻
アサメは、シンの後ろへ回った。
厚い毛皮を二人の肩から被せる。
「前を向け」
「向いてる」
「体を固くするな」
「無理だろ」
「なぜだ」
「分からないなら、そのままでいてくれ」
⸻
アサメが少し首を傾げた気配がした。
次の瞬間、背中へ温かさが触れた。
⸻
最初に触れたのは、腹だった。
シンの腰の少し上へ、滑らかな肌が重なる。
山を歩く体の芯には強さがある。
けれど、触れた表面は驚くほど柔らかい。
呼吸のたび、腹が静かに膨らみ、シンの背へ温度を押し当てた。
⸻
次に、胸の柔らかな重みが背中へ触れた。
冷えたシンの背中に押しつぶされる様に密着する。
形だけではなく、そこに蓄えられた熱がはっきり分かった。
硬くなっていた背の筋肉へ、やわらかな温度がゆっくり馴染んでいく。
⸻
アサメの腕が、前からシンを包んだ。
片腕は胸の上。
もう片方は腹の上。
弓を引く腕には細い筋が通っている。
だが、内側の肌は滑らかで、汗に冷えたシンの皮膚へ吸いつくように温かかった。
⸻
「動くな」
⸻
耳のすぐ後ろで声がした。
吐息が、濡れた髪をわずかに揺らす。
アサメの髪がシンの首へ触れた。
雨の匂いがした。
炉の煙。
乾かした薬草。
日に温められた獣皮。
その奥に、野薔薇を思わせる淡い甘さがあった。
花を焚き染めた強い香りではない。
肌が温まり、汗がほどけた時にだけ分かる、生きた人の匂いだった。
アサメの肌の匂いだった。
⸻
心臓が速くなる。
死の恐怖とは、違う速さだった。
違うはずなのに、体はどちらも震えにして返した。
⸻
「さらに速くなった」
アサメが言った。
「分かるのか」
「背で打っている」
「これは……」
「怖いのか」
⸻
シンは答えに詰まった。
「いろいろ」
「そうか」
⸻
アサメは追及しなかった。
腕へ少し力を込める。
抱き締めるというより、ばらばらになった体を一つの場所へ留める力だった。
⸻
前からは炉の熱。
後ろからはアサメの体温。
毛皮が、その両方を逃がさず包んでいる。
⸻
火の熱は強い。
近づきすぎれば痛い。
アサメの温度は、それより低い。
だが、途切れなかった。
背中。
脇腹。
腕。
首筋へかかる息。
触れている場所から、少しずつ体の内側へ入ってくる。
⸻
シンは自分の手を見た。
まだ震えている。
アサメが腹の前にあるその手を取り、自分の手で包んだ。
掌の硬いところと、指の柔らかいところが同時に触れる。
「止まらない」
シンが言った。
「止めなくていい」
「でも」
「震えるのは、生きている体のすることだ」
⸻
アサメの親指が、シンの手の甲を一度だけ撫でた。
慰めるためなのか、血が戻ったか確かめるためなのか分からない。
「死んだ体は、震えない」
⸻
その言葉に、息が詰まった。
喉の奥で、刃の記憶が戻る。
シンの体が強張った。
アサメは離れなかった。
むしろ、背中へ頬を寄せた。
⸻
「ここにいる」
短い言葉だった。
⸻
シンは目を閉じた。
暗くなる。
一瞬、死んだ時の暗闇が戻った。
だが今は、水の音ではなく火の音がする。
泥の冷たさではなく、肌の温かさがある。
サルの笑い声ではなく、アサメの呼吸が聞こえる。
⸻
吸う。
吐く。
ゆっくり。
一定の呼吸だった。
⸻
シンは、その速さへ自分の息を合わせた。
一度目は失敗した。
二度目は途中で咳き込んだ。
三度目で、少し長く吐けた。
⸻
アサメの腹が背中で膨らむ。
それに合わせて吸う。
柔らかく沈むのに合わせて吐く。
⸻
いつの間にか、二人の呼吸が同じになった。
⸻
「アサメは」
「なんだ」
「死ぬのが、怖くないのか」
⸻
アサメはすぐには答えなかった。
その間にも、体温は変わらず背から伝わってくる。
「怖い」
やがて言った。
「お前でも?」
「アタシを何だと思っている」
「何でも怖がらない人」
「そんな者はいない」
⸻
アサメの声は静かだった。
「怖いから、山の音を聞く。獣の跡を見る。矢を数える。帰る道を覚える」
「怖くなかったら?」
「すぐ死ぬ」
⸻
少しだけ、シンの口元が緩んだ。
「じゃあ、震えてもいいのか」
「いい」
「逃げても」
「逃げる場所を選べ」
「動けなくなったら」
「誰かに運ばせろ」
「今みたいに?」
「そうだ」
⸻
答えに迷いがない。
シンは、アサメの腕へ自分の指を重ねた。
意識して触れたのは初めてだった。
腕の外側は締まり、内側には確かな柔らかさがある。
皮膚の下を血が通っている。
生きている温度だった。
⸻
「この場所を、死なせたくない」
シンは言った。
「知っている」
「まだ何も言ってない」
「顔が言っている」
「そんなに分かりやすい?」
「食い物と、守りたいものの時だけは」
「同じ顔なのか」
「似ている」
⸻
アサメの声が、少し笑った。
胸元から背へ、その小さな振動が伝わる。
シンの頬が熱くなった。
今度は、体調のせいではなかった。
⸻
「勘違いするな」
アサメが耳元で言った。
「今は、お前の命を温めているだけだ」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「なら、体を固くするな」
「それは無理」
⸻
アサメが、また少し笑った。
普段は短く結ばれている声が、近い場所でほどける。
その笑いは、外にいる者には聞こえないほど小さかった。
⸻
時間がゆっくり流れた。
薪が一つ崩れる。
火の粉が上がる。
外では、トンたちがまた何かを流している。
「今度は沈まない!」
「それ、舟じゃない!」
「鹿の骨!」
「食べた後のやつ!」
⸻
ナギの笑い声がした。
タダが、骨を川へ流すなと言っている。
誰かが根菜を刻む音。
土器の蓋が鳴る音。
濡れた薪が爆ぜる音。
⸻
まだ、平和な集落の音だった。
⸻
シンはその全てを聞いた。
先ほどまでは、失われる前の音に聞こえていた。
今は、ここにある音として聞こえた。
⸻
震えが少しずつ小さくなる。
指先へ感覚が戻る。
腹の奥に残っていた刃が、ゆっくり薄くなる。
喉から漏れていたはずの空気も、いつの間にか消えていた。
⸻
「温かくなった」
アサメが言った。
頬をシンの肩へ寄せたまま、首筋へ指を当てる。
今度は逃げなかった。
脈を数える指が、ゆっくり動く。
「まだ速い」
「それは、たぶん治らない」
「なぜだ」
「言わせる気か?」
⸻
アサメは少し考えた。
「分からない」
「分からなくていい」
⸻
眠気が来た。
急だった。
体が温まり、張りつめていたものが緩むと、意識の底が一気に重くなる。
⸻
「寝るな」
シンが自分へ言った。
「眠れ」
アサメが言った。
「時間がない」
「今のお前が行っても、足手まといになる」
「でも、ハヤセが」
「ハヤセは、自分で行くと決めた」
「モモも」
「モモも、自分で決める」
「俺は」
「今日は、ここにいろ」
⸻
命令だった。
だが、押さえつける声ではなかった。
帰る場所を示す声だった。
⸻
「……分かった」
シンは目を閉じた。
「今日は、森へ行かない」
「そうしろ」
「ハヤセを追わない」
「そうしろ」
「死なない」
⸻
アサメの腕が、ほんの少し強くなる。
「それがいい」
⸻
炉の熱がある。
厚い毛皮がある。
煙と、雨と、野薔薇に似た香りがある。
⸻
背中には、アサメの温度があった。
強い腕。
硬い掌。
柔らかな肌。
同じ速さになった呼吸。
⸻
死の冷たさは、まだ完全には消えていない。
それでも今は、その冷たさより近い場所に、別の温度がある。
⸻
シンは、その温度へ体を預けた。
眠りへ落ちる直前。
肩へ、アサメの唇が触れた気がした。
確かめようと思った。
だが、目を開ける前に眠りが来た。
⸻
アサメは、シンの震えが完全に止まるまで離れなかった。
⸻
(第五十一話へ)




