先回り
第四十九話 先回り
⸻
息が入った。
「っ……は、ぁ……!」
シンは跳ね起きた。
⸻
首へ手を当てる。
傷はない。
血もない。
皮膚は繋がっている。
それでも、指先には刃の冷たさが残っていた。
喉の奥には、裂けた隙間から空気が漏れる音が残っている。
⸻
「……戻った」
⸻
ぽつ。
ぽつ。
軒から雫が落ちている。
外では、薪を割る音がした。
ざく。
少し間を置いて、また、ざく。
同じ朝だった。
ハヤセが夜明け前に去った朝。
アサメの顔をまともに見られず、頭を冷やすために森へ入った朝。
そこでモモとハヤセの話を聞き、サルに首を斬られた朝。
⸻
全部、まだ起きていない。
⸻
だが、これから起きる。
何もしなければ。
⸻
シンは立ち上がった。
足が寝床の縁へ引っかかり、危うく転びかける。
手をつく。
腕が震えていた。
寒くはない。
怖いのだと認めるより先に、拳を握った。
⸻
(後で震えろ)
(今は動け)
⸻
聞いたことは残っている。
日高見を、今年のうちに服させる。
春のうちに先の者が入り、道が固まれば大きな軍が動く。
山の集落を一つずつ従わせ、川筋と鉄の流れを押さえる。
大王の近くでは、北へ兵を出すか、海の道へ回すかで考えが分かれている。
それでも神託が、流れを北へ向けた。
⸻
そして。
その神託のさらに奥に、タケミカヅチがいる。
⸻
シン一人に、ヤマトの軍を止められるとは思わない。
だが、止める方法がないと決まったわけでもない。
軍は道を通る。
食を運ぶ。
川を渡る。
人が動かすなら、どこかに継ぎ目がある。
その継ぎ目を知る男が、今朝、この山を下りている。
⸻
ハヤセ。
⸻
シンは外へ出た。
⸻
朝の光は白かった。
夜の雨を吸った雲が山の肩へ低く垂れている。
木々の枝には雫が並び、風が触れるたび、遅れて細かな雨が落ちた。
集落の間には、昨日生まれた水の道が残っている。
雪解け水と雨水を集め、赤い土を削り、谷へ向かって流れていた。
⸻
タダが炉の前にいた。
火へ細い枝を足している。
「ハヤセは」
挨拶より先に聞いた。
タダが顔を上げる。
「夜明け前に出た」
「どっちへ」
「川下」
「一人で?」
「一人で」
⸻
知っていた通りだった。
それでも、答えを聞くと胸が強く打った。
未来が一つ、同じ場所へ嵌まった音だった。
⸻
「シン」
アサメの声がした。
体が勝手に強張る。
昨日と同じ声。
昨日と同じ朝。
この後、顔を赤くして逃げれば、同じ森へ入る。
同じ木の陰へ隠れる。
同じ刃が首へ来る。
⸻
シンは振り返った。
アサメが薪を抱えて立っている。
濡れた髪の先が頬へ張りついていた。
「顔色が悪い」
「大丈夫」
「手が震えている」
見られていた。
シンは手を背へ隠した。
「少し、確かめたいことがある」
「何を」
「ハヤセに聞く」
「昨日聞かなかったのか」
「昨日は、知らなかった」
⸻
アサメの目が細くなる。
シンは言葉を間違えたと気づいた。
だが、言い直している時間はなかった。
「すぐ戻る」
「待て」
「ごめん」
⸻
走り出そうとした袖を、横から掴まれた。
ナギだった。
干し魚を入れた籠を片腕に抱えている。
いつもの笑い顔ではなかった。
「川下へ行くの」
「ああ」
「一人で?」
「その方が速い」
⸻
ナギはシンの顔を見た。
次に、首を見る。
傷などない場所を、妙に長く見ていた。
⸻
「気をつけて」
「何に」
「分かれ道」
「道なら、ハヤセが泥に描いてた」
「そうじゃない」
⸻
ナギは袖から手を離した。
「道の方が、人を選ぶ朝がある」
「何だ、それ」
「海の言い方」
「海に道は見えないだろ」
「だから怖いんだよ」
⸻
ナギは森を見た。
濡れた木々の奥。
川下へ続く、まだ薄暗い方角。
「鳥が一度だけ鳴いたら、伏せて」
「鳥?」
「こんなふうに」
⸻
ナギが短く息を鳴らした。
⸻
ケン。
⸻
細く、鋭い声だった。
鳥の声に似ている。
だが、鳥より近く、人の声より遠く聞こえた。
⸻
「何の鳥だ」
「知らない」
「知らないのかよ」
「でも、逃げろって声だ」
⸻
ナギは笑わなかった。
シンも笑えなかった。
「分かった」
「本当に?」
「一度鳴いたら伏せる」
「二度鳴いたら」
「戻る」
「そうして」
⸻
アサメが何か言おうとした。
シンはそれより先に、集落を出た。
今度は、頭を冷やすためではなかった。
同じ場所へ、同じ時刻に着かないためだった。
⸻
⸻
森の土は、水を含んで柔らかかった。
一歩ごとに足が沈む。
泥が踵へ吸いつき、離れるたび鈍い音を立てる。
走れば滑る。
ゆっくり進めば間に合わない。
シンは木の根を踏み、岩を選び、時折枝を掴んで斜面を下った。
⸻
前の自分が通った森の奥へは入らない。
川音を右に置き、ハヤセが地面へ描いた線を思い出しながら進む。
昨日、泥の上に引かれた簡単な地図。
川。
岩。
水の多い時だけ現れる割れ目。
ハヤセは、自分が戻る道まで描かなかった。
だが、指が最初に触れた場所と、線を引き終えた向きは覚えている。
⸻
(こっちだ)
⸻
水が二つに分かれる場所へ出た。
太い流れは谷へ下る。
細い流れは倒木の下へ潜り、その先で一度見えなくなる。
普通なら、太い方を道だと思う。
だが、ハヤセは人に見つからない道を選ぶ。
シンは細い水を追った。
⸻
しばらく進むと、前方で水を踏む音がした。
一歩。
間が空く。
また一歩。
右脚を運ぶたび、少し遅れる。
⸻
「ハヤセ!」
⸻
人影が止まった。
赤黒い装束。
片手が、すぐに腰の刃へ下がる。
振り返った顔には、驚きより先に警戒があった。
「なぜいる」
「追ってきた」
「見れば分かる」
「話がある」
「俺にはない」
⸻
ハヤセは歩き出した。
シンは横へ並ぶ。
顔色は昨日より悪い。
脇腹の布には、既に新しい血が滲んでいた。
「その傷で、どこまで行くつもりだ」
「お前に関係ない」
「ヤマトへ戻るんだろ」
ハヤセの足が止まる。
「誰に聞いた」
「誰にも」
「なら、なぜ知っている」
⸻
答えられない。
死んで聞いた。
死にかけた体で、お前たちの話を盗んだ。
そんなことを言って、信じてもらえるはずがない。
⸻
「昨日、お前は言った。イヌは役だって」
「言った」
「なら、役を外せ」
「それを言いに来たのか」
「ヤマトを止めたい」
⸻
ハヤセの目が冷えた。
「戻れ」
「戻らない」
「お前一人が走ってきて、止まるものではない」
「一人じゃなければ止まるのか」
「そういう話でもない」
「じゃあ、どういう話だ」
⸻
声が大きくなった。
鳥が枝から飛び立つ。
羽音が濡れた森を横切り、すぐに消えた。
ハヤセは周囲を確かめてから、低く言った。
「軍はもう動いている」
「まだ先の者だけだ」
⸻
ハヤセの目が鋭くなる。
「それを、どこで聞いた」
⸻
まただ。
知っていることが、口から先に出る。
シンは息を整えた。
「答えられない」
「では、俺も答えない」
「待ってくれ」
「待つ時間はない」
「だから来た!」
⸻
シンはハヤセの前へ回った。
「春のうちに先の者が入る。雪が消えて道が固まれば、本隊が来る。川筋と鉄の流れを押さえるために、山の集落を一つずつ従わせる」
ハヤセの表情が消えた。
「韓へ回す兵を惜しむ者もいる。それでも北へ来る。ミサネの神託があったからだ」
「……誰から聞いた」
「それでも、答えられない」
⸻
ハヤセの手が、刃の柄へ触れた。
敵を見る目ではない。
正体の分からないものを測る目だった。
「お前は何者だ」
「分からない」
「ふざけるな」
「俺だって知りたい」
⸻
水が流れている。
二人の足元を通り、枝の下へ消え、また少し先で姿を現す。
シンは拳を握った。
「でも、軍を止めたいのは本当だ」
「止めれば、別の軍が来る」
「何度でも止める」
「言葉なら簡単だ」
「簡単じゃない!」
⸻
首が熱くなった。
傷はないのに、斬られた場所が焼けるように痛んだ。
「一度、殺された」
言いかけて、飲み込む。
ハヤセは聞き逃さなかった。
「何だ」
「……何でもない」
「今、殺されたと言ったか」
「言ってない」
「言った」
⸻
ハヤセが一歩近づく。
「誰にだ」
シンは答えなかった。
答えれば、サルを知っていることまで伝わる。
この時刻のハヤセは、まだサルと会っていない。
⸻
「先の者が入る道を変えられないか」
シンは無理やり話を戻した。
「人のいない場所へ。集落を避ける道へ」
「ある」
「なら」
「そこを通せば、兵が減る」
「山が険しいから?」
「水がない。荷が通らない。傷んだ者を運べない」
「それでも、人は死なない」
「兵も人だ」
⸻
言葉が詰まった。
ハヤセは続ける。
「村を避ければ、運ぶ食が足りなくなる。食が足りなければ、別の村から奪う。道を長くすれば、道沿いを守る兵が増える。兵が増えれば、また食が要る」
「じゃあ、どうすればいい」
「分からない」
「道を知ってるんだろ」
「道を知っていても、行き先まで変えられるわけじゃない」
⸻
ハヤセは川下を見た。
「俺が外れれば、別の者が来る」
「お前より酷い奴が?」
「山を知らない者だ」
「知らない方が、入れないんじゃないか」
「知らない者は、迷わないために焼く」
⸻
静かな声だった。
「森を焼く。家を焼く。隠れられる場所を消す。道を作るために、道の外にあるものを全部退ける」
「だから、お前が行く」
「減らせるものは減らす」
「それで自分を納得させられるのか」
「納得などしていない」
⸻
初めて、ハヤセの声に怒りが混じった。
「納得していなければ役を捨てていいなら、とっくに捨てている」
⸻
シンは黙った。
シンはハヤセの過去を知らない。
ハヤセが何を失い、なぜ白桃のそばへ残ったのかも知らない。
今のシンには、まだ何も見えていない。
ただ、目の前の男が自分を正しいと思っていないことだけは分かった。
⸻
「他の土地でも、同じことをしたのか」
シンが聞いた。
ハヤセの眉が動く。
「なぜ、そう思う」
「ヤマトは、従わない者を鬼と呼ぶ」
返事はない。
「山でも。海でも。欲しいものがある場所に人がいて、従わなければ鬼にする」
⸻
長い沈黙の後、ハヤセが言った。
「鬼は、どこにでも作れる」
⸻
水音の中へ、低い声が落ちた。
「鉄がある。塩がある。道がある。従わない理由がある。それで十分だ」
「お前も、鬼だったのか」
「違う」
ハヤセはすぐに答えた。
⸻
「鬼にされた」
⸻
その言葉の後に、遠くで枝が揺れた。
風ではなかった。
重いものが触れた音でもない。
ほんの小さな葉擦れだった。
⸻
ハヤセの顔が変わる。
「伏せろ」
同時に。
森の奥で、声がした。
⸻
ケン。
⸻
鳥の声。
いや。
ナギが教えた、逃げろの声。
⸻
シンは考えなかった。
膝を折り、泥へ伏せた。
頭のあった場所を、冷たいものが通り過ぎる。
髪が数本、遅れて落ちた。
⸻
「おや」
⸻
軽い声がした。
すぐ後ろ。
前と同じ場所ではない。
前と同じ時刻でもない。
それでも、その声だった。
⸻
「今のを避けるんだ」
⸻
シンは泥を蹴り、ハヤセの側へ転がった。
ハヤセの刃が抜かれる。
赤黒い装束の前へ、鈍い銀色が走った。
金色の髪の男は、いつの間にか倒木の上へ立っていた。
手には短い刃がある。
刃先に、シンの髪が一本だけ張りついていた。
⸻
「サル」
ハヤセが呼ぶ。
「怖いなぁ。挨拶もなし?」
⸻
サルは笑っている。
だが、その目はシンだけを見ていた。
「初めまして」
シンが言った。
声が震えた。
サルの笑みが、少し深くなる。
「うん。初めまして」
言葉とは反対に、再会を面白がる目だった。
⸻
「君、今のは俺を見てから伏せたんじゃないよね」
「鳥が鳴いた」
「鳥?」
「逃げろって」
⸻
サルは森の奥を見た。
そこには誰もいない。
鳴いたものの姿もない。
「鳥に道を教わったのか」
「海の奴に教わった」
「へえ」
⸻
その一言だけ、笑いが薄れた。
だが、すぐに元へ戻る。
「今日は、ずいぶん早いね」
シンの背が冷えた。
「何が」
「分からない」
サルは本当に不思議そうに首を傾げた。
「君と会うのは初めてのはずなのに、もっと後で会う気がしてた」
⸻
ハヤセが一歩前へ出る。
「何をしに来た」
「道を外れたイヌを見に」
「俺は戻る」
「知ってる。でも、戻る前に余計な話をした」
⸻
サルの視線が、二人の足元へ落ちる。
泥には、踏み荒らされた跡がある。
シンが追いつき、前へ回り、何度も足を止めた跡。
「山側の男が、ずいぶん物知りになった」
「俺は何も話していない」
「じゃあ、どこで覚えたんだろうね」
⸻
サルがシンを見る。
「韓」
シンは言った。
先に、言葉を置いた。
サルの目が止まる。
「日高見。ミサネの神託。タケミカヅチ」
「……それを、誰に聞いたの」
「お前だ」
⸻
森が静かになった。
水だけが流れている。
サルの口元には笑みが残っている。
だが、目からは笑いが消えていた。
「いつ?」
「これから」
⸻
ハヤセがシンを見る。
理解できないものを見る目だった。
サルは違った。
理解できないからこそ、近づこうとする目だった。
⸻
「なるほど」
サルが倒木から降りた。
音がしない。
濡れた土にも、足跡がつかない。
「流れがおかしいと思った」
「流れ?」
「水は上から下へ行く。人は知らないことを後から知る。死んだ者は黙る」
⸻
一歩。
距離が縮む。
「でも君は、下から流れてきたみたいだ」
⸻
ハヤセが斬り込んだ。
傷を負っているとは思えない速さだった。
刃が横へ走る。
サルは半歩だけ下がる。
布が裂けた。
胸元の薄い布だけが切れ、血は出ない。
「危ないなぁ」
「下がれ、シン!」
⸻
シンは下がった。
今度は森へ背を向けない。
木を背にし、サルの両手を見る。
短い刃は右手。
左手は空いている。
前は、その右手で首を斬られた。
なら、右を見ていればいい。
⸻
甘い匂いがした。
⸻
モモが来る。
前より早い。
先回りしたシンを追って、ここへ向かっている。
⸻
(間に合う)
⸻
そう思った。
その瞬間。
サルの左手が動いた。
⸻
「余所見したね」
⸻
小さな光が跳ねた。
刃ではない。
指先ほどの鉄の針だった。
シンは顔を庇う。
針は腕へ刺さった。
痛みは小さい。
だが、反射で目を閉じた。
それで十分だった。
⸻
次に目を開いた時、サルが目の前にいた。
「同じ道を避けても」
腹の横へ、冷たいものが入った。
「次の道はある」
⸻
短い刃が、肋の下へ深く沈んでいた。
一瞬、何も感じなかった。
サルが刃を抜く。
遅れて、体の内側から熱が溢れた。
⸻
「シン!」
ハヤセが叫ぶ。
刃を振るう。
サルはシンの肩を押し、倒れる体を間へ入れた。
ハヤセの刃が止まる。
その隙に、金色の髪が木々の間へ滑った。
⸻
シンは膝をついた。
腹を押さえる。
指の間から、温かいものが溢れた。
首ではない。
息はできる。
声も出る。
それなのに、体の奥で何かが急速に崩れていくのが分かった。
⸻
「サル!」
ハヤセが追おうとする。
「行くな……」
シンは言った。
ハヤセの足が止まる。
「モモが、来る」
「喋るな」
「あいつを……一人に、するな」
「黙れ!」
⸻
ハヤセがシンを抱え起こした。
傷へ布を押し当てる。
だが、首の時とは違う。
押さえても、血は体の中へ逃げていく。
口の奥に、鉄の味が広がった。
⸻
甘い匂いが濃くなる。
白い姿が木々の間から現れた。
「……シン」
⸻
モモが止まった。
前と同じだった。
シンを見る。
血を見る。
ハヤセの手を見る。
何が起きたのか理解するまでの、短い沈黙。
理解した後の、長すぎる沈黙。
⸻
「……また」
⸻
モモが呟いた。
シンの意識が、その一語へ引っかかった。
「……また?」
⸻
モモ自身も、言葉の意味を測れない顔をしていた。
覚えているはずがない。
あの死は消えた。
モモが血に濡れた指で首を押さえ、「いかないで」と言った時間は、もうどこにもない。
それでも、何かが残っている。
記憶ではない場所に。
⸻
モモはシンの前へ膝をついた。
白い手が傷へ伸びる。
触れる寸前で、一度止まる。
前に触れた血の熱を、指が知っているようだった。
「……不同意」
「何に……」
「……これ」
⸻
言葉にならない。
だが、シンには分かった。
死ぬこと。
いなくなること。
同じものを、また見せること。
その全部に、モモは同意していない。
⸻
「ごめん……」
シンは言った。
「先に、来れば……変えられると……」
「……発話停止」
「でも、少し……変わった」
⸻
一度目は、何もできずに首を斬られた。
二度目は、最初の刃を避けた。
ハヤセへ言葉を渡した。
サルに、自分が流れの外から来たと気づかせた。
何も同じではない。
結末だけが、同じだった。
⸻
モモの手が、シンの頬へ触れる。
冷たい指だった。
だが、その指は震えていた。
「……戻って」
⸻
前と同じ言葉。
今度は、シンの耳がはっきり拾った。
⸻
「分かった……」
息を吐く。
「戻る」
⸻
約束できることではない。
戻れる保証などない。
それでも、そう答えたかった。
モモの目が、ほんの少し見開かれる。
⸻
その向こうで、森が傾いた。
水の音が遠ざかる。
痛みが消える。
甘い匂いだけが、最後まで残った。
⸻
世界が落ちた。
⸻
⸻
息が入った。
「っ……!」
シンは起き上がれなかった。
横になったまま、首へ手を当てる。
次に、肋の下へ手を当てる。
どちらにも傷はない。
血も出ていない。
⸻
ぽつ。
ぽつ。
軒から雫が落ちている。
外では、薪を割る音がした。
ざく。
少し間を置いて、また、ざく。
⸻
同じ朝だった。
⸻
シンは息を吸った。
首は塞がっている。
腹も裂けていない。
それなのに、体は死んだ時の形を覚えていた。
喉が閉じる。
腹の奥が攣る。
胃の中のものが逆流し、シンは寝床の脇へ身を折った。
何も出ない。
ただ、体だけが吐こうとする。
⸻
手の震えが止まらなかった。
⸻
(第五十話へ)




