聞こえてる
第四十八話 聞こえてる
⸻
暗かった。
⸻
だが、消えてはいなかった。
意識が、泥の底へ沈みきらずに残っている。
目は開かない。
指も動かない。
息を吸うたび、裂けた首の奥で空気が細く鳴った。
それでも、聞こえた。
⸻
(生きてる)
(まだ、少しだけ)
⸻
頬に冷たい水が触れていた。
春の泥。
雪解け水。
流れへ混じった自分の血。
土と苔の匂いの中に、鉄臭さが濃く沈んでいる。
心臓が打つたび、体のどこかから熱が抜けた。
どく。
どく。
少し間が空く。
また、どく。
その間が、次第に長くなっていく。
⸻
「……サル、貴様」
⸻
ハヤセの声だった。
低い。
いつものように乾いている。
だが、その底に剥き出しの怒りがあった。
「なんだ、ワンコ」
軽い声が答える。
サル。
シンの首を斬った男。
「なぜ斬った」
「山側の人間だろ。この話を全部聞いた。イヌが余計なところで鳴いたせいで、もう向こうへ道が繋がってる」
「だから殺すのか」
「繋がった道を切るのも、俺の役だからねぇ」
⸻
悪びれていない。
誇ってもいない。
倒れた枝を道の端へ退けたとでも言うような声だった。
⸻
「白桃ちゃんも、そう思うよね?」
⸻
返事はなかった。
だが、近くで衣の擦れる音がした。
水を踏んだのではない。
誰かが動きかけて、止まった音だった。
「あれ。この男、そんなに大事だった?」
「……」
「白桃ちゃん?」
「……判定、不能」
「不能か。珍しいね」
⸻
サルの声が少し遠ざかった。
軽い足音が、シンの頭の向こうへ回る。
逃げたのではない。
モモの顔を、違う角度から見ている。
そう思えた。
⸻
(動けない)
(でも、聞こえる)
⸻
死ぬ。
それは分かっていた。
この冷え方を、シンはもう知っている。
なら、せめて持って帰る。
声を。
名前を。
こいつらが、何のためにこの山へ来るのかを。
⸻
「それじゃ、仕事の話をしようか」
サルが言った。
「イヌ。お前にも伝えるよう言われてる」
「誰からだ」
「ミサネの神託を聞いた連中から」
⸻
ハヤセの気配が固くなった。
「ここで話すのか」
「白桃ちゃんもいる。イヌもいる。二度言わずに済む」
「その男が聞いている」
「もうすぐ聞こえなくなるよ」
⸻
シンは心の中で舌を出した。
(残念)
(まだ聞こえてる)
⸻
「日高見を、今年のうちに服させる」
サルの声から、笑いが少し薄れた。
「春のうちに先の者を入れる。雪が消え、荷の通る道が固まったら、大きな軍を動かす。山の集落を一つずつ従わせ、川筋と鉄の流れを押さえる」
「昨日、聞いた」
「それは入口だけ。なぜ今年なのかまでは聞いてないだろ?」
⸻
ハヤセは答えなかった。
サルは勝手に続けた。
「大王の近くに座る連中が、皆、北つ方を欲しがってるわけじゃない」
「どういう意味だ」
「遠いんだよ。山は深い。川は雪解けのたびに姿を変える。兵を一人送れば、そいつが食う粟と塩を運ぶ人間が要る。荷を運ぶ人間にも飯が要る。道を守る兵にも、また飯が要る」
⸻
小石が、水へ落ちた。
サルが蹴ったのだろう。
「ようやく着いても、鉄も毛皮も塩も、持って帰る道で減る。北は、取るまでより、取った後の方が手間なんだ」
「だから、割に合わない」
「そういうこと。少なくとも今まではね」
⸻
サルは一度、言葉を切った。
風が濡れた枝を揺らす。
雫が幾つも落ち、水面を細かく叩いた。
「ヤマトの目は、ずっと海の向こうにも向いてる」
「韓か」
「うん」
⸻
韓。
シンの頭に、古い地図の輪郭が浮かんだ。
だが、この時代の海の向こうは、教科書の線のようには分かれていない。
国があり、邑があり、港ごとに違う長がいる。
争い、結び、裏切り、婚姻し、また船を出す。
ヤマトが一つの名で呼んでも、向こう側まで一つになるわけではない。
⸻
「韓の諸国からは、鍛えるための鉄が来る。硬い器を焼く手を持つ者も、堤や炉を作る者も海を渡る。玉や布や、こっちでは作れない物も来る」
サルが言った。
「戦うだけじゃない。物を替える。人を預ける。娘を嫁がせる。昨日まで敵だった港と、明日は同じ船を出す。海の道は、山の道よりよほど多くのものを運ぶ」
「だから、北へ回す兵が惜しい」
「大王の近くには、そう考える者もいる。北の山を焼くより、海の道へ兵と船を回したい。鉄が欲しいなら、まず韓との繋がりを太くしろ、ってね」
⸻
海の向こうにあるのは、奪う物だけではない。
鉄だけでもない。
物と、人と、技。
それを運ぶ海の流れそのものを、ヤマトは欲しがっている。
そして同時に、北の流れも手放したくない。
⸻
「それでも、今年は北へ来る」
ハヤセが言った。
「来る。神託が下りたから」
「ミサネが、北を討てと言ったのか」
「少し違う」
⸻
サルの声が、初めて真面目になった。
「ミサネは軍を動かす者じゃない。あの人は、見えたものを告げる。骨の割れ目と、火と、水へ映ったものを読む。その言葉を神の声として受け取って、軍を動かすと決めたのは大王の近くにいる者たちだ」
「何が見えた」
「日高見を服させろ。北の乱れを残すな。今年のうちに流れを一つにしろ」
「それだけか」
「神託なんて、大事なところほど短いものだよ。後から人が、都合のいい意味をたくさん足す」
⸻
風の音が止まった。
水だけが流れている。
「……ミサネは、なぜそれを見た」
ハヤセが聞いた。
「さあね」
サルは軽く答えた。
「でも、あの娘だけの声じゃない気がする」
「どういう意味だ」
「もっと遠いところから来てる」
⸻
声が少し近づいた。
サルが誰かの耳元へ秘密を置くように、静かに言った。
「ミサネより遠い。大王より高い。人の祈りを使って、人の歩く道を一本に決めたがる何かがいる」
「……遠い、ところ」
モモが呟いた。
「白桃ちゃんには、心当たりがある?」
⸻
長い沈黙。
その後。
「……タケミカヅチ」
⸻
サルの足音が止まった。
ハヤセの呼吸も止まる。
流れていた水まで、一瞬だけ音を失った気がした。
「へえ」
サルが言った。
笑っていない声だった。
「白桃ちゃんが、自分でその名を口にするんだ」
「……記録に存在」
「どんな記録?」
「……開示不可」
「今度、見せてよ」
「……拒否」
「だよねぇ」
⸻
サルはまた歩き出した。
たった今聞いた名を、土の上で転がして感触を確かめているような足音だった。
「とにかく、本隊は来る。白桃も呼ばれる。イヌも戻る。俺も、その流れのどこかにいる」
足音が止まる。
「そして、この山も呑まれる」
⸻
誰も答えなかった。
春の水だけが、まだ何も知らずに流れていた。
⸻
「白桃ちゃん」
「……何」
「君、本当に今まで通り鬼を討てる?」
「……任務は継続」
「聞いてるのは、任務があるかじゃない」
⸻
サルの声が、シンの頭上を通り過ぎた。
「炉を見た。飯を食った。熱い汁へ息を吹いた。人が笑うのも、腹を空かせるのも覚えた」
「……」
「それでもヤマトが、あの炉のそばにいる者を鬼だと言えば、斬れる?」
⸻
モモは答えなかった。
沈黙が長くなる。
以前なら、答える必要すらなかった問いだった。
今は、その問いがモモの中に残っている。
外からは見えない場所で、何かとぶつかっている。
⸻
「まあ、俺にはどっちでもいいんだけどね」
サルが急に明るく言った。
「お前の目的は何だ」
ハヤセが聞く。
「目的?」
「ミサネの使いだけなら、余計なことを喋りすぎだ」
「俺は、道がどっちへ転ぶか見たいだけ」
「いつからだ」
「何が?」
「いつから、そうしている」
⸻
サルが黙った。
短い沈黙だった。
けれど、その短さの奥に、山より古い何かが隠れた気がした。
「長い話になるねぇ」
いつもの笑いが戻る。
「それは、また今度」
⸻
草を踏む音が遠ざかり始めた。
帰る。
シンを死んだものとして置き去りにし、モモの揺らぎをヤマトへ持ち帰る。
そう気づいた。
⸻
(それは、まずい)
⸻
腕へ力を入れた。
動かない。
泥を掻くことさえできない。
喉の奥に残った空気を、無理やり傷の横へ押し上げた。
「……ま、て」
⸻
声になった。
潰れ、擦れた音だった。
だが、足音は止まった。
「お」
⸻
サルの声から、初めて余裕が消えた。
「聞こえてたの?」
「……全部」
「うわ。本当に?」
足音が戻ってくる。
「ごめん。首、浅かった?」
「十分……深い」
「だよね。そこまで喋れる方がおかしいなぁ」
⸻
シンは泥へ手をついた。
指が、ほんの少しだけ動いた。
それだけで首の傷が開く。
熱い血が、また一筋流れた。
「お前……喋りすぎ……」
「死んだと思ってたからさ」
「確認……しろよ……」
「次からそうする」
「次を……作るな……」
⸻
少し笑った。
口の端から血が落ちた。
視界は開かない。
それでも、ハヤセが駆け寄る振動は分かった。
「喋るな」
首へ強い圧がかかる。
痛みで意識が一瞬浮いた。
「傷を押さえる。息だけしろ」
「命令……多いな……」
「黙れ」
⸻
ハヤセの手は震えていなかった。
傷の位置を探り、流れ出る血を指と布で押さえている。
その手際が、これまで何度も同じ傷を見てきた者のものだと分かった。
「助けるの?」
サルが聞いた。
「山側の男だよ」
「だから何だ」
「さっきまで、そいつを逃がすための道を教えてたもんねぇ」
「サル」
「はいはい。怖いなぁ」
⸻
その時。
水を踏む音がした。
一歩。
もう一歩。
モモが近づいてくる。
⸻
「白桃ちゃん」
サルが呼んだ。
「この男、もう死ぬよ」
「……不同意」
⸻
短い言葉だった。
サルが黙る。
ハヤセの手も、ほんの一瞬だけ止まりかけた。
「何に?」
「……シンの死亡」
「死ぬのに、君の同意が要るの?」
「……要否、不明」
モモの声が、わずかに乱れた。
「……ただし、不同意」
⸻
また一歩。
今度はすぐ近くで、膝が泥へ触れた。
甘い匂いが、血の匂いを押し退けるように濃くなる。
冷たい指が、シンの手首へ触れた。
脈を探している。
「……脈拍、低下」
「分かっている」
ハヤセが言った。
「押さえるなら、ここだ」
⸻
ハヤセがモモの手を取り、布の上へ重ねた。
白い指が、シンの血へ沈む。
モモは力を入れた。
強すぎた。
傷だけでなく、喉まで潰れそうになる。
「強すぎる。少し抜け」
「……出血、継続」
「止まるまで押さえる。だが息はさせろ」
「……調整」
⸻
指の力が少し緩んだ。
だが、震えは止まらなかった。
寒さではない。
モモの指が震えていた。
⸻
「へえ」
サルの声が低くなる。
「本気なんだ」
⸻
モモは答えない。
ただ、シンの首を押さえている。
血に濡れた指が滑るたび、もう片方の手で押さえ直す。
何度やっても血は止まらない。
モモの呼吸だけが、少しずつ速くなっていった。
「白桃ちゃん」
サルが言う。
「それ、鬼だよ」
⸻
空気が変わった。
桃の匂いが一瞬、刃のように鋭くなる。
モモは顔を上げたのだろう。
首を押さえる手は離さない。
もう一方の手だけが、刀へ伸びた。
「……シン」
モモが言った。
「……対象呼称、シン」
⸻
サルは笑わなかった。
少なくとも、すぐには。
「それ、答えになってないよ」
「……回答、不要」
「それ、ヤマトへ持って帰っていい答え?」
「……」
「白桃が鬼を庇った。鬼を名前で呼び直した。報告したら、君を使う連中は喜ばないだろうね」
⸻
鞘の中で、刀がわずかに鳴った。
「……報告を、拒否」
「俺に命令する?」
「……サル」
モモの声から、平坦さが消えた。
「……消えて」
⸻
サルが小さく息を呑んだ。
次に笑った時、その声には先ほどまでなかった警戒が混じっていた。
「怖いなぁ。イヌだけじゃなく、白桃ちゃんにまで睨まれた」
ハヤセの重心が低くなる。
片手はシンの傷へ当てたまま。
もう片方の手が、刃へ届く位置へ下がる。
「帰れ、サル」
「二人がかりは割に合わないね」
⸻
一歩、草を踏む音。
次の一歩は聞こえなかった。
声だけが、木々の向こうから飛んでくる。
「じゃあ、今日はここまで」
さらに遠く。
「次は、聞こえてないか確かめるよ」
⸻
気配が消えた。
本当に、何も残さずに。
後には水の音と、ハヤセの荒い呼吸だけが残った。
「……最悪だ」
ハヤセが低く吐き捨てた。
⸻
シンは目を開けようとした。
できなかった。
瞼の裏に、白い空の明るさだけが透けている。
モモの指は、まだ首を押さえていた。
細い指。
刀を握るための手。
その手が今は、流れ出る命を体の中へ押し戻そうとしている。
⸻
「……シン」
⸻
近い声だった。
名前を確かめる声ではない。
ここにいろと、呼び止める声だった。
「……死ぬな」
「むちゃ……言うな……」
「……命令」
「権限……ないだろ……」
⸻
モモは答えなかった。
いつもなら「確認できず」と返すところだった。
返さないまま、指へ力を込める。
「シン、喋るな」
ハヤセが言った。
「意識を保て。目を開けろ」
「開か……ない……」
「なら声を聞け」
「聞こえてる……」
⸻
聞こえていた。
水の音。
ハヤセの声。
そして、モモの乱れた呼吸。
必要のないはずの呼吸を、モモは何度も繰り返していた。
⸻
「……出血、停止しない」
「分かっている」
「……体温、低下」
「分かっている」
「……脈拍、消失に接近」
「モモ」
ハヤセが、初めて白桃ではなくその名で呼んだ。
「手を離すな」
「……離さない」
⸻
その声が震えた。
ほんのわずかだった。
だが、シンには聞こえた。
⸻
寒さが深くなる。
泥の冷たさも、傷の痛みも、少しずつ遠ざかる。
音だけが残る。
以前にもあった。
世界から自分だけが切り離されていく感覚。
(ああ)
(今度こそ、死ぬ)
⸻
「……嫌」
⸻
聞き間違いかと思った。
モモの声だった。
「……シンの死亡を、拒否」
機械のような言葉。
けれど、その声はもう機械ではなかった。
「……消失、不要」
言葉を探している。
知っている語を並べ、それでも足りず、何度も言い直そうとしている。
「……シン」
⸻
血で滑る手が、シンの頬へ触れた。
形を確かめるように。
失う前に覚えようとするように。
「……いかないで」
⸻
シンは、目を開けられなかった。
それでも分かった。
モモは泣いていない。
泣き方を知らない。
悲しいという言葉も、怖いという言葉も、まだ自分のものにできていない。
だから、拒否と言った。
不要と言った。
いかないで、と言った。
⸻
(モモは)
(俺が死ぬのを、嫌がってる)
⸻
その事実だけが、冷えきった胸の中へ熱を残した。
モモが顔を寄せる気配がした。
額へ、黒髪の先が触れた。
「……戻って」
⸻
小さな声だった。
命令でもない。
確認でもない。
祈りに似ていた。
⸻
戻る。
どこへ。
考えるより先に、最後の音が遠ざかった。
モモの指の震えも。
甘い匂いも。
全部が暗闇へ沈んだ。
⸻
世界が、落ちた。
⸻
⸻
息が入った。
「っ……は、ぁ……!」
シンは跳ねるように起き上がった。
⸻
ぽつ。
ぽつ。
⸻
屋根から雫が落ちている。
見覚えのある朝。
見覚えのある寝床。
首へ手を当てる。
傷はない。
血もない。
だが、指先にはまだ、刃の冷たさが残っていた。
⸻
(戻った)
⸻
外から、薪を割る音がした。
ざく。
少し間を置いて、また、ざく。
同じ朝だった。
ハヤセが夜明け前に去り、アサメに呼ばれ、シンが森へ逃げる朝。
⸻
サル。
ミサネの神託。
日高見。
韓の諸国。
タケミカヅチ。
聞いたことは、すべて残っている。
最後の声も。
⸻
「……戻って」
⸻
シンは、傷のない首を押さえた。
手が震えている。
それでも、息は入る。
心臓は動いている。
⸻
(戻ったぞ、モモ)
⸻
誰にも聞こえない声で答えた。
⸻
(第四十九話へ)




