サル
第四十七話 サル
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翌朝。
シンが目を覚ました時、ハヤセはいなくなっていた。
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昨夜、男が横になっていた軒の端には、踏み潰された藁が残っている。
血の滲んだ古い布も、タダが掛けた毛皮もない。
ただ一つ。
鹿骨の汁を入れていた椀だけが、水で洗われ、伏せて置かれていた。
借りたものを返し、痕跡まで持っていった置き方だった。
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「いつ出た?」
シンが聞くと、火を起こしていたタダが答えた。
「夜明け前」
「止めなかったのか」
「止めた」
「それで?」
「行った」
「止められてないじゃん」
「歩けていた」
「昨日、立てなかっただろ」
「今日は立った」
「そういう問題か?」
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タダは答えず、火口へ細い枝を足した。
濡れた薪は、すぐには燃えない。
白い煙を吐き、何度か小さく爆ぜてから、ようやく赤い火を抱いた。
ハヤセも、きっと同じように歩き始めたのだろう。
傷が塞がったからではない。
戻らなければならない場所があるから、体へ歩けと命じた。
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朝の山は、まだ濡れていた。
雲の切れ間から、時々だけ光が落ちる。
光が当たった場所から順に、枝の雫が白く光り、風が触れると細かな雨になって落ちた。
集落の間には、昨日生まれた水の道が残っている。
雪解け水と雨水を集め、赤い土を削り、低い方へ流れていく。
ヤマトも、ああして来るのかもしれない。
道がなければ作る。
何かに塞がれれば回り込む。
人が住んでいても、低い方、通れる方へ流れ込む。
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シンは炉のそばへ座った。
ヤマトが動く。
雪が消えきる前に、先の者が入る。
本隊は、その後。
ハヤセが運んできた言葉は、一晩眠っても腹の底に残っていた。
だが、その朝のシンには、もう一つ直視できない問題があった。
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「シン」
「ハィっ?」
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呼ばれただけで、声が裏返った。
アサメが、炉の向こうからシンを見る。
朝の仕事を終えたばかりらしい。
濡れた髪の先が頬へ張りつき、腕には薪が抱えられている。
いつもと何も変わらない。
変わってしまったのは、シンの方だった。
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(春のうちに、アタシと子を作れ)
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言葉が蘇る。
昨日より鮮明に。
無駄に鮮明に。
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「まだ心の準備をしているのか」
「その確認、毎朝するつもり!?」
「必要なら」
「必要ない!」
「嫌なのか」
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返事が喉へ詰まった。
嫌なのか。
そう聞かれると、違う。
違うからこそ困っている。
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「……いや」
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口から出た。
出てから、シンは両手で顔を覆った。
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「今のなし!」
「なぜだ」
「なしだから!」
「嫌ではないのだろう」
「確認するなぁ!」
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ナギが、干し魚を並べながら吹き出した。
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「朝から元気だねぇ」
「誰のせいだと思ってる」
「少なくとも俺じゃないよ」
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タダは火を見ている。
何も聞いていない顔だった。
だが、薪を持つ肩が一度だけ動いた。
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「タダ、今笑った?」
「煙が目に入った」
「肩に?」
「入った」
「どんな体してるんだよ!」
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もう駄目だった。
ヤマトのことを考えれば腹が重い。
アサメを見れば顔が熱い。
ハヤセのことも、モモのことも、何一つ頭の中で形にならない。
モモの白い姿も、今朝は炉のそばになかった。
だが、それを確かめようとすれば、アサメの視線とぶつかる。
今のシンには、それだけで限界だった。
「少し外へ行ってくる」
シンは立ち上がった。
「もう外だよ」
ナギが言う。
「もっと外!」
「どこまで?」
「顔が冷えるところまで!」
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アサメが不思議そうに首を傾げた。
その仕草まで妙に意識してしまい、シンは逃げるように集落を出た。
頭を冷やすためだった。
他に理由はなかった。
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森へ入ると、昨日より土の匂いが強かった。
濡れた樹皮。
苔。
雪の下から現れた枯葉。
それらの匂いを、冷たい空気と一緒に胸いっぱい吸い込む。
熱くなった顔には心地よかった。
何度か深く息をして、ようやく少し落ち着く。
その時だった。
濡れた土と苔の奥に、桃の甘い匂いが混じった。
細く、けれどはっきりと、森の奥から流れてくる。
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足元には、水が走っている。
大きな流れではない。
跨げば越えられる。
だが、その細い水が幾つも山へ線を引いていた。
道のように見える。
道ではない。
昨日までは、存在しなかった線だった。
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少し進むと、集落の音が遠くなった。
子供の声が消える。
薪の割れる音が消える。
炉の煙の匂いも薄くなる。
代わりに、水の音が増えた。
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声が聞こえた。
低い声だった。
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シンは足を止めた。
木々の向こうに、少し開けた場所がある。
雪解け水が岩の間を流れ、浅い淵を作っていた。
その傍らに、二つの姿があった。
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モモ。
ハヤセ。
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ハヤセは立っていた。
右手で木の幹へ触れ、傷を庇うように体を少し傾けている。
顔色は悪い。
それでも、炉のそばにいた時より、立ち姿は鋭かった。
人の輪から外れた方が、この男は立ちやすいらしい。
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モモは、その少し前にいた。
ハヤセの進む道を塞いでいるようにも見える。
見送っているようにも見える。
二人の間には、シンの知らない時間があった。
昨日の再会だけでは作れない沈黙だった。
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シンは木の陰へ身を寄せた。
盗み聞きをするつもりはなかった。
ただ、声をかけるには少し遅かった。
一言目が、もう始まっていた。
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「戻れ」
ハヤセが言った。
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乾いた声だった。
命令のように聞こえた。
けれど、命令できる相手ではないと本人が一番よく知っている声だった。
「……命令権限、確認できず」
「分かっている」
「……では、却下」
「そう言うと思った」
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ハヤセは息を吐いた。
脇腹へ手を当てる。
布には、また薄く血が滲んでいた。
「このままここにいれば、お前は壊れる」
「……損傷なし」
「体の話じゃない」
「……定義不明」
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水が岩を洗っていた。
澄んだ水だ。
けれど底の砂を巻き上げるたび、一瞬だけ濁る。
すぐに澄み、また濁る。
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「白桃は、北つ方への行軍から外れない」
ハヤセが言った。
「本隊が動けば、お前も呼ばれる」
「……認識済み」
「ここで何を食おうが、何を見ようが、向こうには関係ない」
「……」
「鬼を討てと言われれば、お前は動く」
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モモは答えなかった。
風が来る。
黒髪が揺れ、桃色の飾りが小さく光った。
昨日までなら、その沈黙は肯定だった。
今は違う。
答えがないのではない。
二つ以上の答えが、同じ場所にある沈黙だった。
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「ハヤは」
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モモが言った。
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「……戻るの」
「戻る」
「……ヤマトへ」
「そうだ」
「……なぜ」
「イヌだからだ」
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短い答えだった。
だが、昨日より重かった。
役だと名乗った男。
名ではなく、役だけを残した男。
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「……役なら、外せる」
「外せない役もある」
「……誰が決定」
「俺だ」
モモの目が、わずかに動いた。
「……自己決定」
「そうだ」
「……なら、変更可能」
「変えない」
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モモは黙った。
ハヤセは川下を見た。
流れの先。
ヤマトのいる方角。
「俺は道を知っている」
ハヤセが言った。
「山を知っている。川を知っている。人がどこに住み、どこへ逃げるかも知っている」
「……だから、使われる」
「そうだ」
「……拒否は」
「できる」
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モモが顔を上げた。
シンも、木の陰で息を止めた。
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「拒めば、別の者が行く」
ハヤセは続けた。
「そいつは山を知らない。道を知らない。人のいる場所も知らない」
「……」
「だから、余計に焼く。余計に殺す」
「……ハヤが行けば、減少する」
「そうする」
「……保証なし」
「知っている」
「……ハヤも、死亡可能性あり」
「それも知っている」
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モモの指が、わずかに動いた。
刀へ向かったのではない。
何かを掴もうとして、何もないことに気づいたような動きだった。
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「……生存を優先」
モモが言った。
ハヤセは目を閉じた。
ほんの短い間。
「その命令は、まだ生きているのか」
「……有効」
「そうか」
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それが、いつ交わされた言葉なのか。
シンには分からない。
ただ、イヌという役よりも古くから続いている言葉のように聞こえた。
古く、短く、捨てられずに残った約束。
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「白桃」
ハヤセが呼んだ。
モモの目が、少しだけ固くなる。
「お前は、なぜここにいる」
「……観測」
「何を」
「……炉。食事。春。人」
「それだけか」
モモは答えなかった。
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「鬼を斬らない」
ハヤセが言った。
「炉を見る。飯を食う。熱いものへ息を吹く」
「……学習」
「白桃に必要な学習か」
「……モモに必要」
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ハヤセが止まった。
水の音が、急に大きく聞こえた。
白桃ではなく、モモ。
ヤマトが与えた役ではなく、自分で選んだ呼び名。
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「モモ」
ハヤセが呼び直した。
声が少しだけ変わった。
「ここにいると、戻れなくなる」
「……戻る場所、該当なし」
「ヤマトがある」
「……白桃の所属先」
「同じだ」
「……不同意」
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ハヤセは何も言わなかった。
モモの声は平坦だった。
それでも、拒絶だけははっきりしていた。
白桃の戻る場所はある。
モモの戻る場所はない。
同じ体の中で、二つの名が別の場所を見ている。
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「では、どこへ行く」
ハヤセが聞いた。
「……未決定」
「あの男のところか」
モモは答えなかった。
だが、ほんの少しだけ視線が動いた。
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シンのいる木の方へ。
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(え)
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目が合った気がした。
いや、合った。
モモは最初から、シンがいることに気づいていた。
甘い匂いに気づいた時から。
木の陰へ隠れた時から。
ずっと。
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(言ってよ!)
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シンは声を出さずに訴えた。
モモは何も言わない。
わずかに目を細めただけだった。
見逃す、という意味にも見えた。
続きを聞け、という意味にも見えた。
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ハヤセの目が動く。
シンは慌てて身を引いた。
その時、踵が小枝へ触れた。
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ぱき。
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(終わった)
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ハヤセがこちらを向いた。
「出てこい」
低い声だった。
シンは両手を上げ、木の陰から出た。
「すまん」
「どこから聞いていた」
「戻れ、の辺り」
「最初からか」
「結果的には」
「卑怯な言い方だ」
「本当にごめん」
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ハヤセは深く息を吐いた。
傷が痛んだのか、片手で脇腹を押さえる。
ハヤセの目が、シンの赤い顔へ止まった。
「なぜ森に来た」
「頭を冷やしに」
「熱があるのか」
「そういうんじゃない」
「では何だ」
「それは言えない」
「俺たちの話は聞いたのに?」
「本当に悪かった!」
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シンが頭を下げた、その時だった。
ハヤセの顔から、呆れが消えた。
視線が、シンの向こうへ移る。
刃へ手を伸ばし、傷の痛みを忘れたように腰を落とす。
モモも森の奥を見た。
「シン」
モモが言った。
「……動くな」
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遅かった。
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「あれれ」
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声は、シンのすぐ後ろからした。
軽い声だった。
笑う直前のような声。
集落で聞く誰の声より明るいのに、背中だけが冷えた。
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楽しそうな声が、耳元へ息を落とした。
「盗み聞きは、感心しないなぁ」
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シンは振り返ろうとした。
肩へ、誰かの顎が乗りそうなほど近い。
いつからいた。
足音はなかった。
草の擦れる音も、息遣いもなかった。
甘い匂いばかり追っていて、別の何かが近づいたことに気づかなかった。
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モモの目が細くなる。
「……サル」
「うれしいねぇ。白桃ちゃんは、ちゃんと覚えてる」
「何をしに来た」
ハヤセが低く言った。
「イヌは相変わらず愛想がないなぁ」
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男は、シンの肩越しに笑った。
金色の髪。
日に焼けた肌。
高い鼻筋。
口元だけを見ると、旅の途中で冗談を言いに来た男にしか見えない。
だが、目が笑っていなかった。
静かだった。
誰をどこから斬れば倒れるのか、もう見終えた目だった。
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シンは動かないまま聞いた。
「サルが名か」
「偉い人が呼ぶ役。身軽そうだからって。雑だよねぇ」
「本当の名は」
「初対面でそこまで聞く?」
「お前も役か」
「俺は大体、どこにいても俺だよ」
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軽い。
会話だけなら、ナギに少し似ている。
だが違う。
ナギの言葉は、相手との距離を近づける。
この男の言葉は、距離がなくなったことを気づかせない。
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「どこから聞いていた」
ハヤセが聞いた。
「拒めば別の者が行く、辺りかな」
「お前も盗み聞きか」
「俺は仕事」
「何の」
「道を外れたイヌを見に来た」
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サルは笑ったままだった。
「いやあ、見事に外れてるね。山側へ警告。退き道まで教えた。怪我までして、汁まで飲んでる」
「監視か」
「見物」
「同じだ」
「全然違うよ。監視は止める。見物は面白くなるまで待つ」
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ハヤセの刃が、少しだけ鞘から出た。
「シンから離れろ」
「シンっていうの、この子」
サルの顔が、シンの横へ出た。
本当に近い。
笑った口元から、硬い穀物を噛んだような匂いがした。
「初めまして、シン」
「どうも」
「礼儀正しいね」
「刃物を離してくれたら、もっと丁寧にできる」
「あれ。見えてないのに分かる?」
「首が冷たい」
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いつの間にか、冷たいものが首筋へ触れていた。
強くは当たっていない。
皮膚が切れる、ほんの少し手前。
呼吸をすれば、喉が動く。
その動きだけで刃へ近づく。
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「盗み聞きは良くないよ」
サルが言った。
「お前もしてただろ」
「俺は仕事だって」
「俺は事故」
「事故なら仕方ないなぁ」
「じゃあ離してくれ」
「でも、聞いたよね」
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声の軽さが変わらない。
それが一番怖かった。
殺すと決めた者の声ではない。
朝から決まっていた仕事を、順番通り片づける声だった。
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「何を聞いた?」
「ハヤセが被害を減らすために軍へ戻る」
「うん」
「モモは白桃へ戻りたくない」
「うんうん」
「お前は感じが悪い」
「最後のは秘密じゃないね」
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サルが笑った。
その瞬間だけ、刃が首から離れる。
シンは前へ出ようとした。
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「動くな!」
ハヤセが叫んだ。
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再び冷たさが戻る。
今度は、皮膚が薄く切れた。
熱いものが一筋、首を伝う。
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「山側へ話が漏れた」
サルが言った。
「イヌが鳴いた。白桃が揺れた。知らない男が全部聞いた」
「俺が連れて帰る」
ハヤセが言う。
「誰を?」
「シンをだ」
「どこへ」
「俺が見張る」
「怪我したワンコが?」
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サルは本当に楽しそうに笑った。
「優しいねぇ」
「違う」
「違わないよ。そういうのは、役じゃなくて性分って言うんだ」
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モモが、一歩動いた。
サルの刃が、シンの首へ沈む。
「白桃ちゃん」
声だけが笑っていた。
「君なら間に合うかな」
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モモの姿が消えた。
いや。
速すぎて、消えたように見えた。
白い袖が視界の端で翻る。
桃の甘い匂いが、一気に濃くなる。
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サルの目が、初めて笑った。
この瞬間を待っていた。
どちらが速いか。
白桃が、鬼のために動くか。
それを見たかったのだと、シンは遅れて気づいた。
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「誤差、確認」
サルが囁いた。
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刃が走った。
冷たかったのは、最初だけだった。
次に来たのは熱だった。
首の横から、燃えるような熱が溢れる。
息を吸おうとした。
入らない。
声も出ない。
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(速っ――)
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世界が傾いた。
空と地面が入れ替わる。
濡れた枝。
白い空。
飛び散る雫。
全部が横へ流れた。
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モモの手が、届かなかった。
指先がシンの衣へ触れた。
ほんの少し。
掴む前に、体から力が抜けた。
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ハヤセが何かを叫んだ。
モモも、何かを言った。
声は聞こえた。
言葉にならなかった。
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泥が近づく。
冷たい春の水が、頬へ触れた。
血が流れへ混じった。
赤い筋はすぐに薄くなり、消えたように見えた。
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甘い匂いがした。
血の匂いがした。
最後に、遠くから炉の煙が届いた。
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それも、消えた。
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(第四十八話へ)




