モモと犬
第四十六話 モモと犬
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朝になると、雨は上がっていた。
空はまだ白い。
雲が山の肩へ低く垂れ、夜の雨を抱えたまま動かずにいる。
それでも、昨日までの空とは違った。
雪を降らせる白さではない。
水を落とし終えた、春の白さだった。
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木々は濡れていた。
幹も、枝も、芽吹く前の硬い蕾も、朝の光を薄く返している。
軒からは、昨夜の雨がまだ一滴ずつ落ちていた。
ぽつ。
ぽつ。
一定ではない。
忘れた頃に落ちて、下の泥へ小さな穴を作る。
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集落のあちこちに、昨日まではなかった流れが生まれていた。
雪解け水と雨水が合わさり、家と家の間を避け、木の根を回り込み、低い方へ走っていく。
澄んでいる流れもあれば、赤い土を抱えて濁った流れもある。
どれも最後には同じ谷へ向かっていた。
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シンは炉のそばに座り、その流れを眺めていた。
正確には。
流れを見ているふりをしていた。
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(春のうちに、アタシと子を作れ)
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昨日の言葉が、頭から離れない。
アサメは冗談を言う顔ではなかった。
いや、そもそもあの女は、ああいう冗談を言わない。
必要だと思った。
だから言った。
それだけだ。
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(それだけで済むか!!)
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シンは両手で顔を覆った。
炉の向こうで、薪を組み直していたアサメが顔を上げる。
「具合が悪いのか」
「違う……」
「顔が赤い」
「火のせいっ」
「火から離れている」
「こ、心の火」
「何だ、それは」
「俺にも分からない……」
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ナギが、干し魚を抱えて通りかかった。
「春だねぇ」
「その言い方やめろぉ」
「まだ何も言ってないけど」
「顔が言ってる」
「シンも顔に出てるよ」
「うるさいっ」
ナギは声を立てて笑った。
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昨日までなら、そのまま笑っていられた。
だが、ナギの笑いが途中で止まった。
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甘い匂いがした。
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シンは顔を上げた。
モモがいた。
今日は炉のそばではない。
集落の外れ。
木々の間から、川下の方を見ている。
昨夜の雨に濡れた白い衣は乾いていた。
黒髪も、桃色の飾りも、いつもの形へ戻っている。
それなのに、昨日より遠く見えた。
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シンは立ち上がった。
「モモ」
「……確認」
「今日は肉、焼いてないぞ」
「……認識済み」
「じゃあ、何を見てる」
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モモは答えなかった。
川下を見る。
視線が止まっている。
何かを探している目ではない。
もう見つけている目だった。
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「誰か来るのか」
「……接近を確認」
「何人」
「……一体」
「敵か」
モモは、ほんの少し首を傾けた。
「……個体識別、既知。敵対分類、保留」
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その答えに、シンは眉を寄せた。
敵なら敵と言う。
鬼なら鬼と言う。
モモが分類を保留する相手。
それは、少なくとも初めて見る誰かではない。
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後ろで、重いものが地面へ置かれた。
タダだった。
抱えていた薪を下ろし、モモと同じ方角を見ている。
顔は変わらない。
だが、肩から余分な力が抜けていた。
いつでも動ける体だ。
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「タダも分かるのか」
「足音がある」
シンは耳を澄ませた。
水の音しか聞こえない。
幾つもの細い流れが泥を削り、谷へ落ちていく音。
時折、枝の雫が葉を打つ音。
その奥に。
確かに、何かがあった。
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ざっ。
間が空く。
また、ざっ。
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歩く音だった。
だが、左右が揃っていない。
片方を踏むたび、少し遅れる。
歩いているというより、歩き続けることを体へ命じている音だった。
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アサメも来た。
手に弓はない。
だが、腰の刃へすぐ届く場所に手を置いている。
「一人か」
「一人だ」
タダが答えた。
「隠す気は」
「ない」
「戦う気は」
「今はない」
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今は。
その二文字に、シンは息を詰めた。
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人影は、川沿いの木々の間から現れた。
赤黒い装束。
細身の体。
余分な肉がなく、立っているだけで刃物のように見える男。
オキの集落で会った男だった。
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(イヌ)
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男は、まっすぐ歩いてきた。
いつものように軽い足取りではなかった。
右脚を運ぶたび、わずかに体が傾く。
装束の脇腹が黒く濡れている。
雨ではない。
乾きかけた血へ、また新しい血が滲んでいた。
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「怪我してる」
シンが言った。
「見れば分かる」
男は答えた。
声は乾いていた。
弱っていることを認めない声だった。
「血、結構出てるぞ」
「まだ歩ける」
「歩けるかどうかを聞いてない」
「なら、聞くな」
「感じ悪い……」
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男は集落の境で止まった。
タダを見る。
アサメを見る。
シンを見る。
最後に、ナギを見た。
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ナギは笑っていなかった。
干し魚を胸へ抱えたまま、一歩だけ下がっている。
男も何も言わなかった。
二人の間を、春の水の音だけが流れた。
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「イヌ」
アサメが呼んだ。
「それが名か」
「役だ」
「では、役が何の用だ」
「知らせに来た」
「何を」
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イヌは一度、後ろを見た。
自分が来た道。
川下。
南。
そこに追手がいないことを、もう一度確かめる目だった。
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「ヤマトが動く」
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朝の空気から、昨日までのものが消えた。
鹿肉の匂い。
笑い声。
春の雨を口で受けようとしていた子供たち。
全部が、ほんの少し遠くなった。
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アサメの顔は変わらない。
「いつだ」
「雪が消えきる前に先の者が入る。本隊は、その後だ」
「春の終わりか」
「早ければ」
「数は」
「前に見た者たちとは違う」
イヌは短く息を吸った。
脇腹が痛んだのか、言葉が一度止まる。
「兵だけじゃない。道を測る者、食を運ぶ者、鉄を扱う者、祈る者も来る」
「祈る者?」
シンが聞いた。
「ヤマトの神を連れてくる」
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風が吹いた。
濡れた枝が揺れ、溜まっていた雫が一斉に落ちる。
小さな雨が、もう一度だけ降った。
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「戦をしに来るのか」
シンが聞いた。
「向こうは、戦とは呼ばない」
「じゃあ、何と呼ぶ」
「道を通す」
「人が住んでる」
「知っている」
「知ってて通すのか」
「知っているから通す」
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イヌの声に怒りはなかった。
諦めでもない。
何度も見たものを、また見る者の声だった。
その乾き方が、シンには怖かった。
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アサメが、イヌの脇腹を見た。
「誰にやられた」
「斜面で落ちた」
「斜面は刃を持たない」
「尖った石がある」
「傷は横に走っている」
「よく見るな」
「嘘が下手だ」
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イヌは黙った。
アサメも、それ以上は聞かなかった。
ただ顎で炉を示す。
「座れ」
「必要ない」
「血を落とす者を立たせておくと、土が汚れる」
「土はもう泥だ」
「では、アタシが気に入らない」
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イヌが初めて、少しだけ言葉に詰まった。
シンはアサメを見た。
(強い)
戦わずに勝った。
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イヌは炉へ近づかなかった。
軒の端。
集落の外へすぐ戻れる場所へ腰を下ろした。
座るというより、片膝をついただけだった。
タダが近づく。
「見る」
「浅い」
「見る」
「……勝手にしろ」
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タダは血で固まった布を剥がした。
イヌの顎が、わずかに強張る。
声は出さなかった。
傷は浅くなかった。
脇腹から背へ、刃が長く走っている。
深いところは自分で布を詰め、上から強く縛っていた。
それでも歩き続けたせいで、開きかけている。
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「塞ぐ」
タダが言った。
「時間がない」
「このままなら、もっと時間がなくなる」
「死なない」
「そういう者ほど死ぬ」
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タダの声は低く、静かだった。
イヌは反論しなかった。
できなかったのかもしれない。
タダは湯を用意し、傷を洗い始めた。
赤い血が薄まり、泥へ流れていく。
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アサメはその横へしゃがんだ。
「知らせるだけなら、他の者でもよかった」
「他の者は、この山を知らない」
「お前は知っている」
「知っている」
「だから使われるか」
イヌの目が、少しだけ動いた。
「……そうだ」
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「なぜ、使われる側がこちらへ知らせる」
アサメが聞いた。
イヌは答えなかった。
タダが傷へ湯を流す。
指が一度、土を掴んだ。
痛みが過ぎるまで待ってから、イヌは言った。
「同じになってほしくない」
「何と」
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長い沈黙があった。
イヌは濡れた地面を見ていた。
泥の上を、血の混じった水が細く流れていく。
赤はすぐに薄くなった。
消えたように見えた。
「……俺がいた場所と」
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それ以上は言わなかった。
アサメも追わなかった。
ここにいる誰にも、まだ問う権利がなかった。
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「山を離れろ」
イヌが言った。
「断る」
アサメはすぐに答えた。
「まだ何も説明していない」
「聞いても同じだ」
「死ぬぞ」
「生きていれば死ぬ」
「そういう話をしているんじゃない」
「どういう話でも同じだ」
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イヌの眉が、初めてはっきり動いた。
「戦うのか」
「戦わない」
「なら逃げろ」
「逃げない」
「では、どうする」
「いる」
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春の水が流れていた。
小さな流れは石に当たり、二つに分かれ、また少し先で一つになる。
どちらが正しい道なのかなど、水は考えていない。
ただ低い方へ進んでいく。
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「意味が分からない」
イヌが言った。
「山に聞け」
「山は喋らない」
「だから、よく聞け」
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イヌはアサメを見た。
アサメも見返した。
二人とも譲らない。
けれど、敵を見ている目ではなかった。
逃げられない者と、逃げない者が、互いの立つ場所を測っている目だった。
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その時。
タダの手が止まった。
イヌの体が硬くなった。
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甘い匂いが近づいていた。
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ナギが息を呑む音がした。
シンが振り返る。
モモが、集落の中へ入ってきていた。
昨日と同じ白い衣。
昨日と同じ黒髪。
昨日、春の鹿肉を受け取った女。
だが、イヌが見たのは別の何かだった。
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イヌの腰が落ちる。
片膝をついた姿勢から、音もなく立ち上がった。
傷が開く。
新しい血が布へ滲む。
それでも手は、迷わず刃へ向かった。
半ばまで抜く。
冷たい光が、朝の白い空を映した。
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「待て!」
シンが二人の間へ入った。
「モモは斬らない!」
「お前に分かるのか」
「少なくとも昨日は、鹿を斬らずに食った!」
「何の話だ」
「大事な話!」
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モモは止まっていた。
イヌを見る。
抜かれかけた刃を見る。
傷を見る。
その目が、わずかに細くなった。
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「……生存、確認」
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イヌの手が止まった。
「お前が、それを言うのか」
「……発話内容に異常なし」
「そういう意味じゃない」
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モモは少し首を傾けた。
いつもの仕草だった。
けれどイヌは、その仕草を見て息を止めた。
刃を持つ手から、ほんの少し力が抜ける。
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「……ハヤ」
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誰も動かなかった。
水の音だけがした。
軒から、最後の大きな雫が落ちた。
泥の上で弾けた。
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イヌの顔から、乾いたものが消えていた。
驚きとも、怒りとも違う。
古い傷へ、突然指を入れられたような顔だった。
「……久しぶりだな」
「同意」
「元気にしていたか」
「……機能的問題点、特になし」
「そうか」
「りょ」
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イヌはモモを見ていた。
モモも見ていた。
二人の間に、シンの知らない時間がある。
少なくとも、モモはその時間を覚えているらしい。
それでも、シンには何も分からなかった。
どこで出会ったのか。
何を見てきたのか。
なぜモモだけが、この男を「ハヤ」と呼ぶのか。
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「ハヤは、名か」
シンが聞いた。
イヌはしばらく答えなかった。
やがて刃を鞘へ戻した。
「昔の呼び方だ」
「本当の名前は」
「……ハヤセ」
「ハヤセ」
「好きに呼べ」
「じゃあ、ハヤセ」
「本当に好きに呼ぶな」
「どっちだよ」
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ほんの少しだけ、空気が緩んだ。
緩んだのはシンだけだった。
ナギはまだ、干し魚を抱えたまま立っている。
その目はモモとハヤセの間を行き来していた。
笑わない。
口を挟まない。
いつものナギなら、何か言うはずだった。
それでも何も言わなかった。
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「白桃」
ハヤセが言った。
「ハクトウ?」
シンが聞き返す。
「ヤマトが、この女を呼ぶ名だ」
「モモだ」
「お前にとってはな」
「モモにとってもだ」
「……対象呼称、モモ」
モモが言った。
ハヤセは黙った。
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「白桃が、なぜここにいる」
「毎日来る」
「何をしている」
「炉を見てる」
「それだけか」
「汁を飲んだ」
「……何?」
「山菜も食った」
「……」
「昨日は鹿肉を二枚」
「二枚目は追加確認」
モモが訂正した。
「食ったことは否定しないんだな」
「……摂取事実、あり」
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ハヤセは、本当に言葉を失っていた。
傷を洗われた時も顔を変えなかった男が、鹿肉二枚で動かなくなった。
シンは少しだけ誇らしくなった。
「うまかったぞ」
「お前には聞いていない」
「モモも二枚食った」
「聞いた」
「二枚目は確認継続」
「それも聞いた」
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ハヤセはモモの白い袖を見た。
袖口に、ごく薄い煤の色が残っている。
昨日、炉の近くへ入った時についたものだ。
白桃と呼ばれる女の衣に、人の火の煙がついていた。
ハヤセは、その小さな汚れから目を離せなかった。
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「……変わったのか」
ハヤセが言った。
「……誤差あり」
「戻れるのか」
「……戻る、定義不明」
「そうか」
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ハヤセはそれ以上聞かなかった。
聞けば何かが壊れると知っているようだった。
モモも何も言わない。
ただ、ハヤセの脇腹を見た。
「……損傷」
「見れば分かる」
「……処置、不十分」
「今、されている」
「……なら、座れ」
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ハヤセがモモを見た。
シンもモモを見た。
アサメの口元が、ほんの少し動いた。
「同じことを言われた」
ハヤセが答えた。
「……妥当」
「お前まで言うのか」
「……誤差なし」
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ハヤセは諦めたように、もう一度片膝をついた。
タダが傷の処置を再開する。
骨の針が火で炙られ、細い腱が通される。
ハヤセは一度も声を出さなかった。
ただ、モモが近くに立っている間だけ、呼吸の間が少しずつ狂った。
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処置が終わると、ハヤセは川上を指した。
「二日ほど上がったところに、広い岩場がある」
アサメが頷く。
「知っている」
「その先に、細い道がある」
「道はない」
「ある。水が多い時だけ出る」
「水の下か」
「岩の割れ目だ。大軍は通れない。荷を抱えた列も無理だ」
「追う者は」
「山を知らなければ、入口も見つけられない」
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ハヤセは指で、濡れた地面へ線を引いた。
川。
岩。
斜面。
雪解けの時だけ現れる細い流れ。
簡単な線だった。
それでも、道を知る者の指だった。
迷いがない。
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「なぜ、そこまで教える」
アサメが聞いた。
「道は、知っている者がいなければ消える」
「答えになっていない」
「それでいい」
ハヤセは線の終わりを指で潰した。
「使うかどうかは、お前が決めろ」
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アサメは泥の線を見た。
それから山を見る。
炉を見る。
子供たちの声がする方を見る。
「覚えておく」
「それでいい」
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ハヤセは立とうとした。
立てなかった。
膝が、一度だけ崩れた。
タダが肩を掴む。
「離せ」
「歩けない」
「歩ける」
「今、歩けなかった」
「足場が悪い」
「座っていた」
「……」
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シンは思った。
(タダも強い)
今日は、皆が戦わずに勝っている。
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「飯を作る」
タダが言った。
「必要ない」
「食わないと血が戻らない」
「急ぐ」
「煮えるまでいろ」
「どのくらいだ」
「根菜が柔らかくなるまで」
「分からん」
「なら、待て」
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完全に封じられた。
ハヤセは目を閉じた。
諦めた顔だった。
イヌと呼ばれる男が、根菜に負けた。
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タダは土器へ水を入れた。
昨日の鹿の骨を入れる。
骨のまわりに残った肉と、割った骨の中の髄が、ゆっくり湯へほどけていく。
そこへ根菜を入れた。
白いもの。
赤いもの。
土の匂いが強いもの。
塩を少し。
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火が土器の底を舐めた。
濡れた朝の中へ、湯気が立ち始める。
鹿の骨の匂い。
根菜の甘い匂い。
薪の煙。
昨日までなら、それだけでシンの腹が鳴った。
今日は鳴らなかった。
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ヤマトが来る。
道を通すために。
人が住んでいる場所へ。
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その事実が、炉のそばに座っていた。
負傷した男の形をして。
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タダは椀を並べた。
アサメ。
ナギ。
シン。
自分。
それから、一つ増やす。
ハヤセの分だった。
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もう一つ増やした。
モモの分だった。
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ハヤセがそれを見た。
何も言わなかった。
モモも何も言わない。
ただ、昨日より自然に炉の近くへ立っている。
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やがて汁が煮えた。
タダがハヤセへ椀を渡す。
「熱い」
「分かる」
「吹けば冷める」
シンが言った。
「知っている」
「一応な」
「子供扱いするな」
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その横で、モモが自分の椀へ息を吹いた。
ふう。
湯気が揺れた。
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ハヤセの手が止まった。
ほんの一瞬だった。
すぐに、自分の椀へ視線を戻す。
だが、その一瞬をシンは見た。
ナギも見ていた。
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ハヤセは炉へ背を向けて座った。
いつでも外を見られる向きだった。
モモは炉の火を見ていた。
二人は隣ではない。
近くもない。
会話もしない。
それでも、同じ湯気の中にいた。
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シンは根菜を噛んだ。
柔らかかった。
鹿の骨の旨味を吸い、土の匂いを残したまま、舌の上で崩れた。
うまい。
だが昨日のように、声にはならなかった。
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春の水は、集落の外を流れ続けている。
細い道を作りながら。
まだ誰も選んでいない方へ。
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(第四十七話へ)




