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モモと犬

第四十六話 モモと犬



 翌朝、雨は上がっていた。



 空が白い。


 雲が残っている。


 でも、雨はない。


 雪解け水が地面を流れていた。


 小さな流れが、あちこちで生まれている。



 シンは炉のそばに座っていた。


 昨夜のことを、まだ引きずっていた。



(子を作れ…って)



 アサメは本気だった。


 真顔だった。


 回りくどいのが嫌いだと言った。


 だから、そのまま言った。


 それだけの事だ。



(いや、それだけの事じゃないわい!!)



 シンは炉を見た。


 火が揺れている。


 今日は少し、揺れが大きい。



 甘い匂いがした。



(来た)



 でも今日は、少し違う気がした。


 昨日より、遠い。


 集落の中ではなく、外縁に近い。



 モモがいた。


 炉の光が届かない、少し外。


 でも今日は、こちらをじっと見ていた。



(どうした)



 シンはモモの方へ歩いた。


 近づくほど、何かが違うと分かった。



 モモの目が、揺れていない。


 固まってもいない。


 いつもとは別の何かだ。



 読んでいる目だ。


 計算している目だ。



「モモ」


「……確認」


「今日は遠いな」


「……」


「何かあったか」


「……別の観測値が、入った」


「別の?」


「……接近している個体がある」



 シンは少し止まった。



「何か来る、ということか」


「……そう」


「誰だ」



 モモは答えなかった。


 でも、目が一瞬だけ動いた。


 南の方へ。


 川下の方へ。



(南か)


(ヤマトの誰かが来る)



「どのくらいで来る」


「……今日中」



 シンがアサメを呼ぼうとした。


 その時。



 タダが先に動いていた。



 集落の外周を確認していたタダが、南の方を向いて止まっている。


 無言で立っている。


 手に薪を持ったまま。


 放さない。


 でも、目が変わっている。



「タダ、来るのか」


「……一人だ」


「一人?」


「攻めに来る気配じゃない」



 タダは短く言った。


 それから、薪を下ろした。


 腕を解いた。


 準備はしている。


 でも、迎える体勢だ。



 アサメが炉から出てきた。


 気づいていたらしい。


 何も言わず、タダの横に立った。



 川沿いの道から、人影が来た。



 一人だった。


 タダより少し背が低い。


 でも、体が削ぎ落とされている。


 余分なものが何もない体だ。


 軽い。


 速い。


 疲れているのに、疲れを見せない歩き方だ。



(この人、前に会った)



 オキの集落で会った男だ。


 イヌ、と名乗った男だ。


 まだ違う、と言った男だ。


 集落が燃えた男だ。



 イヌは集落の前で止まった。


 アサメを見た。


 タダを見た。


 それから、シンを見た。



「イヌ、か」


「そうだ」


「オキの集落から来たのか」


「……通り道だ」



 イヌの声は変わっていなかった。


 乾いた声だ。


 感情が薄い。


 でも、冷たくはない。


 ただ、消耗している。



 アサメが前に出た。


「何用だ」


「話がある」


「オキから聞いたか」


「少し。後は、自分で見てきた」


「何を見た」



 イヌは少し間を置いた。



「川沿いを、南に下った」


「ヤマトの動きか」


「春になって、動きが変わっている」


「早いか」


「早い」



 アサメは表情を変えなかった。


 でも、炉の方を一瞬見た。


 炉が何かを言っているのか、確認するような目だった。



「中で話すか」


「外でいい」


「そうか」



 イヌは集落の端に立った。


 塀はない。


 ただ、少し離れた場所だ。


 話を聞かせたくない相手がいる場合の立ち方だ。


 でも、シンには聞かせるつもりらしかった。



「春の終わりに、本隊が動く」



 イヌが言った。



「本隊、というのは」


 シンが聞いた。


「ヤマトの遠征軍だ。北つ方へ向かう」


「どのくらいの規模だ」


「観測部隊の十倍以上はある」



 タダが静かに立っていた。


 何も言わなかった。


 でも、手が少しだけ動いた。


 準備している手の動き方だ。



「なんでここへ来た」


 アサメが聞いた。


「……山側に、知らせた方がいいと思った」


「俺の集落のようになるな、と言っていたな」


「そうだ」


「お前の集落は、どうなった」



 イヌは少し黙った。



「残った者もいる。散り散りになった者もいる」


「お前は」


「まだ決めていない」


「どちらにするかを」


「そうだ」



 アサメは炉の方を見た。


 それから、イヌを見た。



「山は逃げない」


「知っている」


「戦う気もない」


「……」



 イヌは少し意外そうな顔をした。


 戦う気もないのに逃げない。


 その答えが、理解できないらしい。



「逃げなくて、戦わなくて、どうする」


「いる」


「いるだけか」


「そうだ」



 イヌは少し黙った。


 シンもその答えを、前に聞いたことがある。


 アサメはいつも、そう言う。


 山は動かない。


 ただ、いる。



「意味が分からん」


 イヌが言った。


「山に聞け」


 アサメが返した。



 静かな間があった。


 川の音が聞こえる。


 雪解け水が流れている。



 その時。



 甘い匂いが、少し強くなった。



(モモ)



 シンは気づいた。


 モモが、近づいていた。


 いや、近づいてはいない。


 でも、匂いが濃くなっている。


 何かに反応している。



 イヌが止まった。



 空気が変わった。


 一瞬で変わった。


 戦士が敵を察知した時の変わり方だ。



 イヌの目が、モモのいる方向を向いた。


 モモは木の陰に立っていた。


 距離がある。


 でも、いる。



 イヌの体が、わずかに変わった。


 腰が少し落ちた。


 手が刃に近づいた。


 でも、抜かなかった。



「……いたのか」



 イヌが言った。


 シンに向かってではない。


 空気に向かって言った。



「……確認」



 モモが答えた。



 イヌは少し目を細めた。


 それから、手を刃から離した。


 ゆっくりと。


 でも、完全には気を抜いていない。



「……元気だったか」



 その言葉が、シンには意外だった。



(知り合いだ)


(ただの知り合いじゃない)



 モモは少し間を置いた。



「……定義による」


「そうか」


「……ハヤは」



 ハヤ。



(その呼び方)


(イヌの、本当の名前か)



「……変わらない」


 イヌが答えた。


「……そうか」


「お前は」


「……誤差あり」


「……そうか」



 二人の会話は短かった。


 でも、その短さの中に長い時間があった。


 たくさんのことを経験してきた二人が、それを全部省略して話している感じだった。



 シンは黙って聞いていた。


 アサメも黙っていた。


 タダは外周の方を向いていた。


 でも、耳はこちらへ向いていると分かった。



「白桃が、ここにいるのか」


 イヌが、シンに向かって言った。


「ハクトウ?」


「モモ…桃色の、ヤマト側の呼称だ。」


「……来てるよ。毎日」


「来て、どうしている」


「炉を見たり。汁を飲んだり肉も食った。」



 イヌは少し黙った。



「……炉のものを?」


「春の鹿だ。タダが焼いた。うまかった」


「……」



 イヌの顔に、何かが混じった。


 驚きではない。


 でも、計算が外れた顔だ。



「お前は、何者だ」


 イヌがシンを見た。


「また聞かれた。遠くから来た者だ」


「ヤマトか」


「違う」


「鬼か」


「そう言われた」


「……白桃が、鬼を殺していない」


「ああ。俺も生きてる」


「なぜだ」


「分からない。でも、来てる。食ってる」



 イヌは少し止まった。


 それから、モモの方を見た。


 モモは、炉の煙の方を見ていた。


 イヌを見ていない。



「……変わったんだな」



 イヌが、小さく言った。


 モモに向かって言ったのか、独り言なのか、分からなかった。



 モモは答えなかった。


 でも、消えなかった。



「名前」


 シンは言った。



 イヌが、少しだけこちらを見た。



「前は、イヌと覚えておけ、と言った」


「そうだ」


「今、モモがハヤって呼んだ」


「……」


「どっちで呼べばいい」



 少し間があった。



 イヌは川の方を見た。


 雪解け水が流れている。


 その音を聞いているようだった。



「イヌは役だ」


「役」


「ハヤは……昔の呼び方だ」


「本当の名前は」



 イヌはしばらく黙った。



「ハヤセ」



 短く言った。



「ハヤセ」


 シンは繰り返した。



「呼び方は好きにしろ」


「じゃあ、ハヤセ」


「……勝手にしろ」



 ハヤセはそう言って、またアサメを見た。


 話は終わりだ、という顔だった。



「本隊が来る前に、山を離れろ」


 ハヤセがアサメに向かって言った。


「さっき答えた」


「離れないな」


「そうだ」


「……」



 ハヤセは少し息を吐いた。


 諦めたのか、納得したのか、判断がつかなかった。



「道を、一つ教える」


「なぜ」


「俺の集落のようになってほしくない」


「情けか」


「違う」


「なら」


「ただの道だ。知っていれば、使えるかもしれない」



 アサメは少し間を置いた。


 炉を一瞬見た。


 それから、頷いた。



「聞く」



 ハヤセは川上の方向を指した。



「二日ほど山を上がると、岩場がある。広い岩場だ。そこから先は、ヤマトの部隊は来ない」


「なぜ来ない」


「道がないからだ。俺たちが通れるが、大軍は無理だ」


「そこまで逃げれば、助かるか」


「助かるかは分からない。でも、追われない」



 アサメはそれを聞いていた。


 聞いて、何かを考えていた。


 炉の方を向いた。


 それから、山の方を向いた。


 両方見た。



「……覚えておく」


「それだけでいい」



 ハヤセは踵を返した。


 来た方向へ戻っていく。


 川下の方へ。



 シンは後ろから声をかけた。



「ハヤセ!」



 男は止まった。


 振り返らなかった。



「また来るか」



 少し間を置いて、ハヤセが答えた。



「……分からん」



 それだけ言って、歩いていった。


 川沿いの道に消えた。


 音がしなくなった。



 シンは、その方向を見ていた。



(燃えた後みたいな顔だった)


(前に会った時と、変わっていない)


(何を、見てきた人なんだろう)



 アサメが炉へ戻った。


 炎を確認した。


 何かを読んでいる。



「アサメ」


「なんだ」


「その道、使うか」


「……考える」


「それは、逃げるかもしれない、ということか」


「……その時に決める」



 アサメはそれだけ言った。


 炉の方を向いたまま。



 タダが戻ってきた。


 手に水を汲んだ桶を持っている。


 いつの間にか、水を汲みに行っていたらしい。



「飯を作る」


「おっ」


「根菜がある」


「あの苦いやつか」


「今日は煮る」


「煮る!」


「少し柔らかくなる」


「おいしい??」


「……食えば分かる」



(タダの料理への信頼が最近すごい)



 桃の匂いが、また少し動いた。



 モモが、集落の中へ入ってきていた。


 炉に近い場所に立っていた。


 昨日より、ずっと近い。


 もう、誰も追い払わなくなっていた。



 タダが桶を置いた。


 モモを見た。


 何も言わなかった。


 でも、根菜を一本多く出した。



(タダ……!)



 それだけで、シンの胸に何かが来た。


 言葉じゃない。


 行動だけだ。


 でも、それで全部伝わる。



 春の空気が、また少し動いた。


 山から吹いてくる風だ。


 雪と土と、木の匂いがする。



 炉が揺れた。


 静かに、揺れた。



(第四十七話へ)

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