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モモと鹿肉

第四十五話 モモと鹿肉


⸻


 夜のうちに、雨が来た。


 冬の雨とは違う。


 雪へ変わることを迷っている、重たい雨ではない。


 細く、柔らかく、土へ帰ることしか考えていない雨だった。


⸻


 山の梢を濡らし、芽吹く前の枝を一本ずつ黒くして、残っていた雪の上へ無数の小さなくぼみを穿っている。


 雨粒を抱いた枝先は、朝の白い空を映して銀色に光った。


 雫が膨らむ。


 耐えきれなくなる。


 落ちる。


 下の枯葉に当たり、砕けた粒がまた光る。


⸻


 山じゅうで、それが繰り返されていた。


 空から落ちた水が、枝から枝へ渡り、苔へ染み、雪を解かし、最後には細い流れになって谷へ下っていく。


 世界が、静かに水を飲んでいた。


⸻


 シンは軒の下に座り、しばらくそれを眺めていた。


「きれいだな」


 隣にいたナギが、意外そうな顔をした。


「雨が?」


「うん」


「濡れるよ」


「それは知ってる」


「干し魚もしける」


「急に現実的だな」


「雨は見てるだけならきれいなんだよ」


⸻


 ナギは軒際へ並べていた魚を、もう一度奥へ寄せた。


⸻


 その横では、トンとチンとカンが、屋根から落ちる雫を口で受け止めようとしている。


 トンが先に成功した。


「入った!」


「ずるい!」


「何がずるいんだ」


 シンが言った直後、チンの額に大粒の雫が落ちた。


「冷たっ!」


 カンは口を開けたまま、真剣に空を見ている。


「雨、難しい」


「そんな競技みたいに言うな」


⸻


 春の雨は、炉の煙を低くした。


 濡れた空気の中を、白い煙が這うように流れていく。


 焚き木の匂いも、いつもより濃かった。


 湿った樹皮。


 熾火の熱。


 雨に洗われた土。


 溶けかけた雪の、冷たい匂い。


 それらが軒の下で混じり合っている。


⸻


 そして、その真ん中に。


 鹿がいた。


⸻


 昨日、タダが担いできた大きな鹿だ。


 血抜きを済ませ、皮を剥ぎ、夜の冷気に当てておいた肉を、タダとアサメが朝から切り分けていた。


 前脚。


 後脚。


 肋。


⸻


 骨に沿って刃が走るたび、濃い赤の肉が大きな塊になって外されていく。


 タダの手にかかると、あれほど大きかった鹿が、肉と骨と皮と腱へ、迷いなく分かれていった。


⸻


 捨てるところは、ほとんどない。


 皮はなめす。


 腱は束ねる。


 角と骨は削って道具にする。


 内臓も、食えるものは食う。


 命が、次の命の暮らしへ形を変えていく。


⸻


 シンは感心しながら見ていた。


 見ていたのだが。


「そこ、今日食う?」


 背骨の両側から外された、細長い肉を指した。


 きめの細かい赤身だった。


 切り口は雨空の下でも艶を失わず、刃を入れるたび、内側から暗い紅色が現れる。


⸻


「食う」


 タダが答えた。


「よし」


「さっきからそれしか見てないね」


 ナギが笑う。


「命が暮らしへ形を変えるところを見てた」


「肉を見てた顔だったよ」


「肉も暮らしだ」


「急に深そうなこと言っても駄目」


⸻


 アサメが肉を手に取り、匂いを確かめた。


「これは、すぐ焼く」


「保存しないのか?」


「柔らかいところは、柔らかいうちに食う」


「好き、その考え方」


⸻


 アサメは答えず、肉を厚い指ほどの幅に切った。


 薄すぎない。


 厚すぎない。


 火を通しても硬くならず、噛めば肉の汁が残る厚さを、手が知っている。


⸻


 粗い塩を振る。


 白い粒が赤身の表面へ落ち、すぐに水気を吸って透き通った。


⸻


 タダは炉の脇から、平たく割れた石を取り出した。


 昨夜から火のそばで乾かしていたものだ。


 急に熱すれば、石の中の水が暴れて割れる。


 だから遠火で温め、少しずつ熾火へ近づける。


⸻


 十分に熱くなった石へ、タダが鹿の腎のまわりから取った白い脂を置いた。


 じっ。


 小さな音がした。


 脂の角が、見る間に透き通る。


⸻


 石の上へ滑り出した脂を、タダは木べらで薄く広げた。


 甘い匂いが、最初の一筋だけ立ち上る。


⸻


 それだけで、トンたちが集まってきた。


「まだ?」


「まだだ」


「もう匂う」


「脂の匂いだ」


「脂、食べる」


「肉を待て」


 タダはいつも通り、全てに真面目に答えた。


 シンは笑った。


「タダ、三人相手だと大変だな」


「四人だ」


「俺も数に入ってる?」


「入っている」


「否定できない」


⸻


 アサメが肉を石へ置いた。


 じゅううっ。


⸻


 今度は、さっきよりずっと太い音がした。


 赤い肉の縁から、細かな泡が一斉に湧く。


 塩で浮いた水気と鹿の脂が熱い石の上で弾け、熾火へ一滴落ちた。


 炎が、ぼっ、と起き上がる。


 煙が肉をひと撫でして、低い雨空へ流れていった。


⸻


「うわ」


 シンの口から、勝手に声が出た。


 匂いが来た。


⸻


 昨日の貝汁のような、少しずつ重なっていく匂いではない。


 焼けた肉の匂いは、速い。


⸻


 考えるより先に鼻へ入り、鼻から頭へ抜け、そのまま腹を掴んだ。


⸻


 表面を焼く脂の甘さ。


 焦げた塩の香ばしさ。


 赤身の中にある、鉄を思わせる濃い匂い。


 そこへ薪の煙がまとわりつく。


 雨で冷えた空気の中、その熱い匂いだけが輪郭を持っていた。


⸻


 シンの腹が鳴った。


 トンの腹も鳴った。


 少し遅れて、ナギの腹も鳴った。


⸻


「今のは俺じゃないよ」


「鳴っただろ」


「雨の音」


「雨は、ぐうって鳴らない」


「春の雨は鳴るかも」


「春を便利に使うな」


⸻


 肉の下面に焼き色がつく。


 赤かった縁が褐色へ変わり、脂の細い線が浮き上がる。


⸻


 アサメはすぐには触らなかった。


 シンには待つしかできない時間が、ひどく長く感じられた。


⸻


「もう返していいんじゃないか」


「まだだ」


「今ならいける」


「まだだ」


「肉の声が聞こえる」


「黙れと言っている」


⸻


 ナギが吹き出した。


⸻


 やがてアサメが肉を返す。


 石から離れた面は、こんがりと濃い茶色に焼けていた。


 ところどころに焦げ目がつき、浮いた脂が火の光を受けて照っている。


 裏返された途端、閉じ込められていた香りがまた弾けた。


⸻


 シンは両手で顔を覆った。


「これは駄目だ」


「何が?」


「待てない」


「待って」


「はい」


 ナギにまで叱られた。


⸻


 雨脚が少し強くなった。


 茅を葺いた屋根へ、細かな音が幾重にも重なる。


 ぱらぱら。


 さあさあ。


 ぽつん。


 屋根の厚いところ、薄いところ、軒先から落ちるところで、全部違う音がする。


⸻


 向こうの山は、白い雨に薄く隠れていた。


 木々の黒い幹だけが霞の中に浮き、谷を流れる雪解け水は、昨日より太く、明るく光っている。


⸻


 灰色の空の下で、芽吹く前の山は色がないように見えた。


 けれど、よく見れば違う。


 濡れた樹皮の黒。


 苔の深い緑。


 雪の青白さ。


 水を吸った土の赤。


 そして炉の橙。


⸻


 春は花から始まるのではない。


 雪の下に隠れていた色を、雨が一つずつ洗い出していくところから始まるのだ。


⸻


 その雨の向こうに、白い影があった。


⸻


 シンは、匂いより先に気づいた。


「モモ」


 モモが立っていた。


⸻


 木々の間を抜け、集落の縁まで来ている。


 白い衣の肩に、細かな雨粒が乗っていた。


 黒い髪は濡れ、いつもより重く背へ沿っている。


 左の耳の後ろで束ねた髪と桃色の飾りから、雫が一つ、ゆっくり落ちた。


⸻


 昨日より、ずっと人らしく見えた。


⸻


 雨に濡れている。


 ただ、それだけのことで。


⸻


「入れよ」


 シンは軒の内側を指した。


「そこにいたら濡れる」


「……現状、濡れている」


「見れば分かる」


「……機能上の問題なし」


「そういう話じゃない」


 モモは少し首を傾けた。


 その間にも、頬を雨粒が伝っていく。


⸻


 ナギが小声で言った。


「鬼討ちって、雨宿りするの?」


「させればするかもしれない」


「昨日、汁も飲んだしね」


「苦いって言ってたな」


「二回も食べてたよ」


「確認継続だそうだ」


 モモの目が二人へ向いた。


「聞こえてた」


「……聴取している」


 ナギが、そっとシンの後ろへ半分隠れた。


⸻


「やっぱりちょっと怖い」


「今さらだろ」


⸻


 アサメが軒先へ敷皮を一枚放った。


「入れ」


⸻


 短い言葉だった。


 だが、モモはアサメを見た。


 敷皮を見た。


 それから、雨と軒下の境を見下ろした。


⸻


 一歩、入る。


 モモが雨の外へ出た。


⸻


 濡れた白い衣から、雫が土へ落ちた。


 ぽつ。


⸻


 昨日は、椀を受け取った。


 今日は、雨宿りをした。


⸻


 どちらも、世界から見れば何でもない。


 でも、シンはまた少し嬉しくなった。


⸻


 モモは敷皮へ座らなかった。


 立ったまま、石の上の肉を見ている。


 かなり見ている。


⸻


「肉だ」


 シンが言った。


「……視認済み」


「鹿」


「……個体識別済み」


「焼くとうまい」


「……未判定」


「じゃあ確認しないとな」


⸻


 モモは答えなかった。


 ただ、肉から目を逸らさない。


 焼けた赤身から上がる湯気が、低く流れる煙と一緒にモモの方へ届いた。


⸻


 モモの鼻先が、ほんのわずかに動いた。


⸻


 シンは見逃さなかった。


「今、嗅いだ」


「……空気を吸入した」


「それを嗅いだって言うんだよ」


「……訂正不要」


「負けず嫌いだな」


⸻


 肉が焼き上がった。


⸻


 タダが一枚を木の板へ取り、石の刃で中央を切った。


 さく、と焼けた表面を刃が割る。


 中から、透明な肉汁が滲み出した。


⸻


 赤身は芯まで熱を通しているのに、乾いていない。


 切り口はしっとりと艶を持ち、立ち上る湯気に、焼けた外側の香りとは違う、柔らかな甘い匂いが混じる。


⸻


「食っていい!?」


 シンとトンが同時に聞いた。


「熱い」


 タダが言った。


「待てる!」


「待てない!」


 シンとトンは顔を見合わせた。


「どっちだ」


 カンが真顔で聞いた。


⸻


「熱いまま食う」


「口、焼ける」


「それでも食う」


 最初の一切れを受け取った。


⸻


 指が熱い。


 脂がつく。


 表面はかすかに硬く、焦げ目のところだけが乾いている。


 だが、指で押すと、内側から肉汁が戻ってくるのが分かった。


⸻


 シンは一度だけ息を吹きかけた。


 待てなかった。


 噛んだ。


⸻


 最初に、焼けた縁が歯へ当たった。


 香ばしい。


 塩の粒が舌の上でほどけ、そのすぐ後から、熱い肉汁が溢れた。


⸻


 脂の多い肉ではない。


 柔らかな脂が舌を覆う味でもない。


 噛むほどに、赤身そのものの旨味が出てくる。


 濃い。


⸻


 牛とも豚とも違う。


 山の草と木の芽を食い、雪の冬を越えてきた獣の味がする。


 わずかに鉄のような香りがある。


 けれど臭くはない。


⸻


 その野の香りを、表面の焦げと薪の煙が包み、粗い塩が肉の甘さを押し出している。


 もう一度噛む。


 繊維が歯の間でほどける。


 飲み込む前から、次の一切れが欲しくなった。


⸻


「うっま」


 それしか出なかった。


⸻


 昨日は、貝、魚、山菜、塩、煙を一つずつ言葉にできた。


 今日は無理だった。


 肉だった。


 圧倒的に、肉だった。


⸻


「うまい。これ、うまい。タダ、鹿すごい。アサメ、焼き方すごい。山すごい」


「言葉が減ったね」


 ナギが言った。


 自分も肉を口へ入れる。


 途端に黙った。


⸻


「どうした?」


 シンが聞く。


 ナギは噛みながら、片手を上げて待たせた。


 飲み込む。


「……山、すごい」


「言葉減ったな」


⸻


 トンは熱さに跳ねた。


「あつっ、うまっ、あつっ!」


 チンは両頬を膨らませて、必死に噛んでいる。


 カンは目を閉じた。


「鹿、強い」


「それは食う前から強かった」


⸻


 アサメも肉を食べた。


⸻


 静かに噛む。


 頷く。


「良い肉だ」


 タダが言った。


「良い鹿だった」


 アサメは言い直した。


⸻


 タダは鹿の骨と皮を見た。


 少し間を置き、頷いた。


「そうだな」


 肉は、次々に焼かれた。


⸻


 少し焼きすぎて端の硬くなったものは、子供たちがよく噛んで食べた。


 骨の近くから外した肉は薄く切り、石の一番熱いところへ広げる。


 じゅっ、と縮んだところをすぐ返す。


 両面に塩と焦げ目がつけば、噛み応えはあるが、旨味が強い。


⸻


 肋についた肉は骨ごと火へかざした。


 脂が熾火へ落ちるたび、炎が上がり、煙の香りが深くなる。


⸻


 皆の指が脂で光った。


 口のまわりにも煤と肉汁がついた。


 誰も気にしない。


 雨の音より、肉を焼く音の方が大事だった。


⸻


 タダは焼けた肉を順に配った。


 アサメ。


 ナギ。


 子供たち。


 シン。


 それから。


 モモの前で、手を止めた。


⸻


 木の葉を二枚重ねた上に、一切れの肉が乗っている。


 焼けた表面から、まだ細い湯気が立っていた。


 モモは肉を見た。


 タダを見た。


 周りを見た。


 皆の手には、同じ肉がある。


⸻


 形も大きさも少しずつ違う。


 でも、同じ鹿から分けられ、同じ石で焼かれ、同じ火のそばで渡されたものだった。


⸻


「食うか」


 タダが聞いた。


⸻


 昨日、シンが椀を差し出した時と同じように。


 ただ、それだけを聞いた。


 モモの指が動いた。


 葉ごと、肉を受け取る。


「……受領」


⸻


 ナギが小さく息を呑んだ。


 トンがシンの裾を引く。


「モモ、肉もらった」


「見てた」


「食べる?」


「静かに見てろ」


「シンも喋ってる」


「そうだった」


⸻


 モモは肉を持ったまま、しばらく止まっていた。


 昨日の山菜より大きい。


 指でつまむには、少し熱い。


 表面には脂が浮き、雨空の光を小さく映している。


 モモは顔へ近づけた。


 息を吹く。


 ふう。


 昨日より、少し上手だった。


⸻


 湯気がモモの唇を避けるように揺れた。


 それから、小さく噛んだ。


 肉が、白い歯の間で切れる。


 噛む。


 一度。


 二度。


 三度。


 シンは、モモの顔を見ていた。


 ナギも見ていた。


 子供たちも見ていた。


 アサメは見ていないふりをして、見ていた。


 タダは次の肉を返しながら、待っていた。


 モモの喉が動いた。


⸻


「どうだ?」


 シンが聞いた。


「……熱」


「うん」


「……塩」


「うん」


「……煙。脂。筋繊維。血液由来の鉄臭」


「急に食べ物じゃなくなったな」


「……咀嚼による、味覚情報の増加」


「それで?」


「……」


 モモは手の中の肉を見た。


 もう一度、食べた。


 今度は、一口目より大きかった。


⸻


「確認継続だ」


 ナギが囁いた。


「確認継続だな」


 シンも囁いた。


 モモの目が二人へ向く。


「……聴取している」


⸻


「知ってる」


「……鹿肉。情報量、多」


「料理はだいたいそういうものだ」


「……前回と同一回答」


「でも、それしか言いようがない」


 モモは、また肉を噛んだ。


 ほんのわずかに、眉間の力が抜けている。


 笑ってはいない。


 うまいとも言わない。


 それでも、一切れを食べ終えるまで、葉を置かなかった。


⸻


 食べ終わると、葉の上に残った肉汁を見た。


 指先についた脂も見た。


「もう一つ食うか」


 タダが聞いた。


 モモは止まった。


「……必要量、零」


「そうか」


 タダは手を引こうとした。


「……ただし」


 手が止まる。


「……確認は、一度では不足」


⸻


 タダは頷いた。


 もう一切れ、葉へ置いた。


 シンは、笑わないように口を結んだ。


 結んだが、無理だった。


「何だ」


 モモが聞いた。


「いや。良かったなと思って」


「……何が」


「鹿が、うまくて」


「……判定は未確定」


「二枚目を食う時は、だいたいうまいんだよ」


「……根拠薄弱」


「じゃあ三枚目で確かめる?」


「……誘導を検出」


「ばれた」


 ナギが笑った。


 トンたちも笑った。


 何が面白いのか分かっていないはずなのに、つられて笑う。


 雨の中へ、笑い声が広がった。


⸻


 向こうの山が、白く霞んでいる。


 軒から落ちる雫は、細い玉の連なりになっていた。


 炉の火は橙色に揺れ、石の上では鹿肉が焼け続けている。


 モモはその輪の端にいた。


 まだ、皆と同じようには座らない。


 まだ、何を考えているのか分からない。


 怖がる者もいる。


 目を離さない者もいる。


 それでもモモは、同じ雨を避け、同じ火に手を照らされ、同じ鹿を食べていた。


⸻


 春の雨が、世界の境目をぼかしていた。


 空と山。


 雪と水。


 煙と霧。


 人と鬼。


 鬼と鬼討ち。


 昨日までは、もっとはっきり分かれていたはずのものが、雨の向こうで少しずつ混じっていく。


⸻


 シンは三枚目の肉へ手を伸ばした。


 その手を、アサメが叩いた。


「痛っ」


「それは子供の分だ」


「ごめん」


「シン、食べすぎ」


 トンに言われた。


「お前にだけは言われたくない」


 トンの両手にも肉がある。


「これはチンの」


「嘘つけ」


「チン、食べる?」


「食べる!」


「本当になった」


⸻


 ナギが腹を抱えて笑った。


 アサメも肩を揺らした。


 タダは真面目な顔で、残りの肉を数えている。


「まだある」


「タダ!」


 シンは感動した。


「一生ついていく」


「肉がある間だけだよね、それ」


「失礼な。食べ終わって少しするまではついていく」


「短いなぁ」


 また笑いが起きた。


⸻


 その笑いが静まるより先に、アサメが肉を噛みながら言った。


「シン」


「ん?」


「春のうちに、アタシと子を作れ」


⸻


 シンの口から、肉が落ちかけた。


「…………は?」


 ナギが噴き出した。


 トンとチンとカンは、何の話か分からず、肉を食べ続けている。


 タダは石の上の肉を返した。


 モモだけが止まった。


 持っていた二枚目の肉を、口へ運ぶ直前で。


「山は春に命を増やす」


 アサメは平然と続けた。


「獣も鳥も、人もだ」


「いや、待って。何で今!?」


「前から考えていた」


「そうじゃなくて、話す時と場所!」


 アサメは周囲を見た。


 雨。


 炉。


 肉。


「悪くない」


「俺には悪い!」


「シンは強い。よく食う。子も丈夫になる」


「判断基準に食欲が入ってる!」


「大事だ」


「大事だけど!」


 ナギはもう声も出せずに笑っていた。


 アサメは真剣だった。


「嫌か」


「その聞き方も真っ直ぐすぎる!」


「回りくどいのは嫌いだ」


「俺の心の準備は!?」


「今した」


「今かぁぁぁ!」


⸻


 シンの声が雨の山へ響いた。


 子供たちが笑った。


 ナギは敷皮の上へ転がった。


 アサメも、とうとう声を立てて笑った。


 タダだけが石から肉を下ろし、静かに言った。


「冷める」


「今それ言う!?」


「肉は熱いうちがいい」


「正しい! 正しいけど!」


 また皆が笑った。


⸻


 モモは笑わなかった。


 二枚目の鹿肉を持ったまま、アサメを見た。


 次に、シンを見る。


「……子を作る」


「確認しなくていい!」


「……春のうちに」


「繰り返さなくていい!」


「……重要事項として記録」


「消して! 今すぐ消して!」


「……却下」


「何で!?」


⸻


 ナギが地面を叩いて笑った。


⸻


 雨はまだ降っていた。


 細く、柔らかく、山の隅々へ染み込む雨だった。


 枝の雫が光っている。


 雪の下から、土の色が現れている。


 炉の煙は低く流れ、その中に鹿肉の匂いと、笑い声がいつまでも残っていた。


⸻


(第四十六話へ)


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