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モモと鹿肉

第四十五話 モモと鹿肉



 春の雨が降っていた。



 強い雨じゃない。


 細かい雨だ。


 山に染み込むような雨だった。



 炉の煙が、少し低く流れている。


 空気が湿っているせいだ。



 シンは炉のそばに座っていた。


 手には椀。


 中身は昨日の貝汁の残りだ。


 温め直している。



(こういう次の日の汁、うまいんだよな〜)



 山菜の苦味が少し落ちている。


 貝の出汁が強くなっている。


 昨日と味が違う。さいこう。



 タダは外で鹿を解体していた。


 雨の中でも気にしない。


 淡々としている。


 肉を分けている。


 骨を外している。


 皮を剥いでいる。



(ほんと何でもできるな、この人)



 ナギは軒下で干物を並べていた。


 雨を避けながら、風に当てている。



「湿気るとまずいんだよね〜」


「海の人って感じだな」


「山の人って感じって何?」


「熊とか素手で倒しそう」


「アサメならやりそう!」



 少し離れた場所で、アサメが薪を運んでいた。


 聞こえていたらしい。



「やらない」


「やらないよねぇ」


「面倒だ」



(つよいっ!!)



 雨音が続いていた。


 ぱた、ぱた、と屋根を叩いている。



 集落の奥で、子供たちの声がした。


 春になってから、少し騒がしい。


 雪が解けると、外を走れるからだ。



 泥を踏む音がする。


 笑い声がする。


 転んだ声もする。



「うわっ!」


「転んだ〜!」


「立て立てー!」



(平和だなぁ)



 そう思った。


 思ってしまった。



 この山には、ヤマトが来る。


 イヌはそう言った。


 アサメも知っている。


 ナギも分かっている。


 たぶんタダも分かっている。



 でも今は、子供が泥で転んで笑っている。


 春の雨が降っている。


 肉が焼かれる匂いがする。



 それだけだった。



 甘い匂いがした。



(来た)



 もう、誰も驚かなくなっていた。



 モモがいた。


 今日は軒の下だ。


 雨を避けている。


 炉から少し離れている。


 でも、昨日より自然だった。



 ナギが小声で言った。


「普通にいるなぁ…」


「そうなんだよ」


「慣れてきたの怖いな」


「俺もそう思う」



 モモは炉を見ていた。


 火を見ていた。


 鍋を見ていた。


 それから、タダを見た。



 タダが鹿肉を持って戻ってきた。


 赤い肉だ。


 湯気が出ている。



「今日は焼く」


「おっ!」


「脂が良い」


「春だから?」


「そうだ」



 タダは肉を炉へかけた。


 じゅう、と音がした。



 脂が落ちる。


 火が揺れる。


 煙が立つ。



 春の湿った空気に、肉の匂いが広がった。



 その瞬間。



 モモの視線が止まった。



(あ)



 肉を見ている。


 かなり見ている。



 ナギも気づいたらしい。



「桃色、肉好きなのかな…」


「まだ分からん…」


「でも昨日汁飲んでたし…」


「飲んでたな…」



 モモは動かなかった。


 でも、消えなかった。



 その時。



 集落の子供が走ってきた。


 まだ小さい。


 六つくらいだ。



「タダー!」


「なんだ」


「肉!?」


「肉だ」


「でかい!!」



 子供は笑った。


 それから、モモを見た。



 止まった。



 少しだけ、空気が変わった。



(あ)



 シンは少し身構えた。


 モモは鬼討ちだ。


 子供でも、それは知っている。



 子供はモモを見た。


 モモも子供を見た。



 沈黙。



 雨音だけが聞こえる。



 やがて、子供が言った。



「……鬼?」



 モモは答えなかった。



 子供は次に、シンを見た。



「シン、あれ鬼?」



 シンは少し黙った。



(鬼)



 簡単な言葉だ。


 でも、この山では曖昧だった。



 オキも鬼と呼ばれた。


 ミコの父も鬼だった。


 ヤマトは鬼を討つと言う。


 でも、ここにいる人たちは普通に生きている。



 鬼って、何だ。



 シンが答える前に、アサメが言った。



「鬼は、鬼と決められた側だ」



 静かな声だった。


 雨の音に混ざる声だ。



 子供は少し首を傾げた。


「きめられた?」


「そうだ」


「だれに?」


「強いやつに」



 アサメは薪を置いた。


 濡れた手を払った。



「山にいるから鬼?」


「違う」


「鉄を持ってるから鬼?」


「違う」


「じゃあなんで?」



 アサメは少し間を置いた。



「邪魔だからだ」



 雨音が続いていた。



 シンは黙っていた。


 ナギも黙っていた。


 タダだけが、肉を焼いていた。



 じゅう、と音がする。


 脂の音だ。



 子供はまだよく分かっていない顔をしていた。


 でも、なんとなく考えていた。



 モモは、動かなかった。



 でも。



 その言葉を、聞いていた。



 シンは、少しだけモモを見た。


 モモは炉を見ていた。


 でも、いつもより長く止まっていた。



 火を見ているのか。


 言葉を見ているのか。


 もう、分からなかった。



 雨が少し強くなった。


 軒へ当たる音が増える。


 春の雨だ。


 冷たい。


 でも冬ほど痛くない。



 子供がタダのそばへ行った。


「なにしてるの?」


「焼いてる」


「なんで回すの?」


「焦げるからだ」


「焦げるとまずい?」


「まずい」


「そっか〜」



 タダは真面目に全部答えていた。



(子供相手でも変わらんなぁ)



 ナギが横から笑った。



「タダ、何聞いてもちゃんと考えるんだよ」


「そうなのか」


「前に“海ってどこまで海?”って聞いたら、ずっと黙ってた」


「考えてたんだね」


「あとで“向こうまで”って言われた」


「雑ゥ!!」



 タダは少しだけ考えてから言った。



「難しかった」


「やっぱし考えてたんだ!?」



 ナギが吹き出した。


 アサメも少し笑った。



 モモだけが静かだった。


 でも。


 前より、静けさが柔らかい気がした。



 タダが肉を切った。


 湯気が立ち上がる。



「焼けた」


「おぉ!」



 ナギが即座に反応した。


 空気が少し緩む。



 タダは肉を分けた。


 シンへ。


 ナギへ。


 アサメへ。


 子供へ。



 それから。



 少し止まった。



 モモを見た。



「食うか」



 ナギがまた固まった。



(シビれるぜこの集落!!)



 モモは肉を見た。


 湯気を見た。


 タダを見た。



 長い沈黙。



 それから。



 小さく頷いた。



(うなずいた)



 シンは固まった。


 ナギも固まった。


 子供は普通に笑っていた。



「鬼も肉食うんだね!」



 モモは答えなかった。



 でも。



 今日は、受け取った。



 湯気が、ゆっくり立ち上っていた。


 春の雨の中で。


 炉の火だけが、静かに揺れていた。



 しばらく、誰も喋らなかった。


 肉を食べる音だけがする。


 雨音がする。


 炉が鳴っている。



 アサメが、ふとシンを見た。



「シン」


「ん?」


「お前、春のうちにアタシと子を作れ」



 シンは止まった。



「…………は?」



 ナギが吹き出した。


 子供は意味が分かっていなかった。


 タダは肉を切っていた。



 モモだけが、ゆっくりシンを見た。



「山は春に命を増やす」


 アサメは普通に続けた。


「獣もそうする」


「いや待て待て待て!!」


「何を待つ」


「急に何の話!?」


「大事な話だ」



 アサメは本気だった。



(この人本気だ!!)



「お前は強い」


 アサメが言った。


「強い者は、残した方がいい」


「いやそんな生き物みたいに言われても!!」


「生き物だ」


「そうだけどぉ!!」



 ナギが腹を抱えて笑っていた。



「アサメ直球だなぁ!!」


「回りくどいのは嫌いだ」


「いや俺の心の準備とか!!」


「必要か?」


「いるよ!?」



 アサメは少し考えた。



「今した」


「今かぁ〜〜〜〜〜!!」



 ナギがとうとう転げた。


 子供もつられて笑っていた。


 タダだけが通常営業だった。



「肉、冷める」


「空気読んでタダ!!」



 雨音の中。


 モモだけが静かだった。



 でも。



 その視線だけが、ずっとシンへ向いていた。



(第四十六話へ)

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