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モモと山菜

第四十四話 モモと山菜


⸻


 翌朝。


⸻


 タダが、もういなかった。


⸻


 炉の火は残っている。


 灰の下に、赤い芯が静かに眠っている。


 薪も足されている。


 昨夜のうちに濡れない場所へ移した乾いた薪が、炉の脇にきちんと積まれていた。


⸻


 でも、タダ本人だけがいない。


⸻


(早起きだなぁ)


⸻


 シンは欠伸をしながら外へ出た。


⸻


 朝の空気は、まだ冷たい。


 だが、もう刺さらない。


 湿り気がある。


 鼻の奥に、土と水と、まだ目を出したばかりの草の匂いが入ってくる。


⸻


 春の匂いだ。


⸻


 山の斜面には、薄く雪が残っている。


 その雪の縁が、日差しを受けて少しずつ痩せていた。


 白いものが後退し、黒い土が姿を出す。


 その土の上に、枯れ葉が濡れて貼りついている。


⸻


 どこかで、鳥が鳴いた。


⸻


 トリビックリクンではなかった。


⸻


 それだけで、少し安心した。


⸻


 炉の前に、アサメがいた。


⸻


 今日は立っていない。


 低い丸太に腰を下ろし、膝の上に草を広げている。


 薬草なのか、山菜なのか、シンにはまだ分からない。


⸻


 アサメはそれを、一本ずつ細かく裂いていた。


⸻


 指が速い。


 だが、雑ではない。


⸻


 茎の硬いところを捨てる。


 柔らかい葉だけを残す。


 匂いを嗅ぐ。


 ときどき、指先で葉の裏を撫でる。


⸻


 アサメは、草にも耳を澄ましているように見えた。


⸻


「タダは?」


「山」


「狩りか」


「そうだ」


「朝早いな」


「春は獣が動く」


⸻


 アサメは草を裂きながら言った。


⸻


「冬の間、山は静かだ」


「うん」


「春になると、腹を空かせた獣が動く」


「じゃあ、獲りやすい?」


「獲りやすい。だが、向こうも必死だ」


⸻


 アサメはそこで手を止めた。


⸻


「春の獣は、人も襲う」


「おぉぅ……」


「飢えているからだ」


⸻


 シンは山を見た。


⸻


 雪が解ける。


 山菜が出る。


 魚が動く。


 獣も動く。


 ヤマトも動く。


⸻


 全部、同じ春だ。


⸻


 美しいものだけが起きるわけではない。


 腹を空かせたものも起きる。


 隠れていたものも出る。


 眠っていた火も、泥も、匂いも、飢えも、道も、全部動き出す。


⸻


 シンは炉のそばへ座った。


⸻


 火を見る。


⸻


 灰の下の赤が、ゆっくり息をしている。


 上の薪はまだ燃えていない。


 細い煙だけが、炉の口から低く出ていた。


⸻


 昨日から、少しだけ分かるようになってきた。


⸻


 火だけを見るな。


 火の周りを見ろ。


⸻


 灰。


 薪。


 空気。


 土。


 湿り。


 人の手。


⸻


 全部で燃える。


⸻


「……アサメ」


「なんだ」


「炉って、本当に喋ってるみたいだな」


「喋ってはいない」


「じゃあ何なんだ」


「炉だ」


⸻


(つよい)


(会話が終わった)


⸻


 シンは少し笑った。


⸻


 この人は、時々天然なのか何なのか分からない。


⸻


 でも、アサメにとってはそれが正確なのだ。


 山は山。


 炉は炉。


 火は火。


 名前を重ねすぎると、かえって見えなくなるものがあるのかもしれない。


⸻


 アサメは草を裂き終えると、土器の浅い皿へ入れた。


⸻


「それ、食うやつ?」


「これは食う」


「これは?」


 シンは脇に置かれた、別の草を指した。


⸻


「薬」


「これは?」


「毒」


「なんで同じ場所に置いてるんだよ!」


「見れば違う」


「見ても同じ緑!」


⸻


 アサメは少しだけ口元を動かした。


⸻


「シンは触るな」


「はい」


⸻


 もう反論しなかった。


⸻


 山菜採りで毒草に負けた男に、発言権はあまりない。


⸻


 そこへ、トン、チン、カンが来た。


⸻


 朝から元気だった。


 昨日あれだけ薪を運んだのに、なぜもう走れるのか分からない。


⸻


「シン、山菜食う?」


「食う」


「また負ける?」


「負けない」


「前は負けた」


「それは毒草」


「草に負けた」


「ええい、やかましい」


⸻


 チンがアサメの皿を覗き込む。


⸻


「これは苦いやつ」


「そうだ」


 アサメが言った。


⸻


 カンが匂いを嗅いだ。


⸻


「目が覚める匂い」


⸻


 アサメが頷いた。


⸻


「そうだ」


「また正解してる」


⸻


 シンはカンを見た。


⸻


 カンは胸を張った。


⸻


「勘」


「もう名前じゃなくて能力名だな」


⸻


 トンが手を伸ばそうとした。


⸻


「待て」


 アサメが言った。


⸻


 トンはぴたりと止まった。


⸻


「生で食うな」


「なんで」


「苦すぎる」


「苦すぎると?」


「顔が変になる」


⸻


 シンは少し気になった。


⸻


「それだけ?」


「腹も少し怒る」


「やっぱり怖いじゃん」


⸻


 アサメは淡々としていた。


⸻


 春の山は、うまいものと危ないものの距離が近い。


 ほんの少し間違えるだけで、食べ物が毒になる。


⸻


 この集落の人間は、それを身体で知っている。


⸻


 シンはまだ、知らない。


⸻


 だから、見て、聞いて、覚えるしかない。


⸻


 その時だった。


⸻


 集落の入り口の方から、明るい声がした。


⸻


「おはよー!」


⸻


 ナギだった。


⸻


 今日は一人だった。


 鳥の羽根の外套を揺らし、背中に大きな袋を負っている。


 袋の口からは、湿った草と、塩と、海に近い川の匂いがした。


⸻


「はやいな」


 シンが言った。


⸻


「潮が良かったから!」


「意味は分からんが元気だな」


「元気だよ!」


⸻


 ナギは袋を下ろした。


⸻


 塩。


 干し魚。


 小さな貝殻。


 それから、湿った草に包まれた何か。


⸻


 トンたちが一斉に寄った。


⸻


「何!」


「魚!」


「貝!」


「食える?」


⸻


「食えるよー」


 ナギが得意げに言った。


⸻


 湿った草を開く。


⸻


 中から、小さな貝が出てきた。


⸻


 茶色い殻。


 丸みのあるもの。


 細長いもの。


 殻の表面には、川の泥が少しついている。


⸻


 完全な海の貝ではないらしい。


 下流の、川が広がるあたりで採れるものだとナギは言った。


⸻


「春のやつ。水がぬるみ始めると、よく採れる」


「生きてる?」


 カンが聞いた。


⸻


「生きてる。ほら」


⸻


 ナギが一つを指で触ると、貝がわずかに口を閉じた。


⸻


 トンが叫んだ。


⸻


「石が動いた!」


「生きてた石だって言ったでしょ」


「嘘じゃなかったのか」


 シンが言った。


⸻


「半分ほんと」


「その表現、便利だな」


⸻


 アサメが貝を見た。


⸻


「今年は早いな」


「海が暖かいんだと思う」


「変な流れか」


「たぶんね」


⸻


 流れ。


⸻


 海にも流れがある。


 川にも流れがある。


 山にも流れがある。


 人にも流れがある。


⸻


(この時代の人、みんな流れで生きてるな)


⸻


 ナギは袋から塩も出した。


 白い塊ではなく、少し灰色がかった粗い塩だ。


 指でつまむと、粒が不揃いだった。


⸻


「今日はこれで、汁にしよう」


 ナギが言った。


⸻


「汁?」


「貝汁」


⸻


 その言葉に、シンの腹が鳴った。


⸻


 トンたちが即座に見た。


⸻


「シン、腹」


「鳴った」


「貝に負けた」


⸻


「まだ食べてないのに負け判定するな」


⸻


 アサメは立ち上がった。


⸻


「山菜も入れる」


「春だなー!」


 ナギが笑った。


⸻


「貝と山菜か」


 シンは思わず呟いた。


⸻


 現代なら、味噌が欲しい。


 醤油が欲しい。


 昆布が欲しい。


 酒が欲しい。


⸻


 だが、この時代にはない。


⸻


 あるのは、貝。


 山菜。


 干し魚。


 塩。


 水。


 火。


 土器。


⸻


 それだけだ。


⸻


 でも、その「それだけ」が、妙にうまそうだった。


⸻


⸻


 料理は、昼前から始まった。


⸻


 アサメはまず、貝を選り分けた。


⸻


 割れているもの。


 口が開いたままのもの。


 匂いの悪いもの。


 泥が強すぎるもの。


⸻


 そういうものを、迷いなく外していく。


⸻


 チンが一つを拾おうとした。


⸻


「触るな」


 アサメが言った。


⸻


「なんで」


「腹を壊す」


⸻


 チンはすぐ手を引っ込めた。


⸻


 シンも思わず一歩下がった。


⸻


「見分けられるのか」


「匂いと、殻の閉じ方」


 アサメが言った。


⸻


 ナギが頷いた。


⸻


「死んでるやつはだめ。汁が全部だめになる」


「全部?」


「全部。貝は偉いけど、悪くなるとすごい」


⸻


 シンはぞっとした。


⸻


 春の味には、春の危険がある。


⸻


 ナギは選んだ貝を、沢の水で洗った。


⸻


 泥を落とす。


 殻をこすり合わせる。


 指で表面を撫でる。


 細かい砂が水の中に落ちていく。


⸻


 トンが手伝おうとしたが、力が強すぎて貝を割りかけた。


⸻


「優しく」


 ナギが言った。


⸻


「優しくって、どれくらい」


「チンが干し肉を盗むくらい」


「盗んでない」


 チンが言った。


⸻


「口が肉」


 カンが言った。


⸻


「今は食べてない!」


⸻


 シンは笑いながら、洗われた貝を見た。


⸻


 殻についた泥が落ちると、貝は少し光った。


⸻


 派手な美しさではない。


 白い皿に盛るような、綺麗な食材でもない。


⸻


 泥の中から来たもの。


 川と海の境目から、ナギが背負ってきたもの。


 まだ少し土臭く、でも確かに春の水を含んだもの。


⸻


 アサメは別の場所で山菜の下ごしらえをしていた。


⸻


 昨日の苦い葉。


 細い茎。


 少し丸まった若芽。


 赤みのある柔らかい芽。


⸻


 それらを、食べやすい長さに折る。


⸻


 刃物をあまり使わない。


 指で折る。


 硬いところで自然に折れる。


⸻


 折れた断面から、青い匂いが立った。


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 シンはそれだけで唾が出た。


⸻


 山菜の匂いは、不思議だ。


⸻


 肉のように、腹の底から獣を起こす匂いではない。


 干し魚のように、塩と煙で喉を鳴らす匂いでもない。


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 もっと上に来る。


⸻


 鼻の奥。


 舌の付け根。


 頭の後ろ。


⸻


 苦いぞ、と先に言ってくる匂いだ。


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 でも、なぜか食べたくなる。


⸻


「それ、全部入れるのか」


「全部ではない」


「どれを入れる」


「苦すぎるものは、あと」


「あと?」


「湯が変わってから」


⸻


 シンには分からない。


⸻


 山菜にも順番があるらしい。


⸻


 アサメは一部の葉を水にさらした。


 土器の器に冷たい水を張り、その中に若芽を沈める。


 水の表面に、小さな泡がついた。


⸻


「苦味を抜くのか」


「少しだけ」


「全部じゃないんだ」


「全部抜いたら、春ではない」


⸻


 シンはその言葉に感心した。


⸻


 全部抜いたら、春ではない。


⸻


 苦すぎれば食えない。


 でも、苦味を消しすぎれば、そのものではなくなる。


⸻


 料理の話なのに、何か別のことを言われた気がした。


⸻


 アサメは土器の深い鍋を炉へ置いた。


⸻


 鍋、とシンは頭の中で呼んでいる。


 だが、鉄の鍋ではない。


 焼いた土の器だ。


 分厚く、黒く煤けている。


 底には何度も火にかけられた跡がある。


⸻


 水を入れる。


⸻


 透明な水が、土器の内側に当たって低い音を立てた。


⸻


 最初に入れたのは、干し魚だった。


⸻


 小さな干し魚を、手で二つに折る。


 内臓の苦いところを少し外し、身と骨を鍋へ入れる。


⸻


 水の中で、干し魚がゆっくり沈んだ。


⸻


 火は強すぎない。


⸻


 タダがいれば、もっと重い火にするのかもしれない。


 だが、アサメは土器が割れないように、火をゆっくり育てている。


⸻


 乾いた薪を少し。


 細い枝を少し。


 炭の位置を変える。


⸻


 鍋の底から、小さな泡が出始めるまで待つ。


⸻


 待つ時間も料理だった。


⸻


 シンは炉の前に座り、その匂いが変わるのを見ていた。


⸻


 最初は水の匂いだった。


 次に、土器の温まる匂い。


 その後、干し魚の匂いが出てきた。


⸻


 燻された魚の匂いが、水にほどける。


 塩気のある煙。


 魚の骨から出る淡い脂。


 少しだけ、苦い内臓の名残。


⸻


 それが湯に移っていく。


⸻


「うわ、もううまそう」


 シンは言った。


⸻


「まだ早い」


 アサメが言った。


⸻


「匂いだけでいける」


「匂いだけ食え」


「いや、それは難しい」


⸻


 ナギが笑った。


⸻


「シン、汁好き?」


「好き」


「まだ飲んでないのに?」


「匂いで分かる」


「分かってきたねぇ」


⸻


 干し魚の湯が少し色づいたところで、アサメは貝を入れた。


⸻


 ごろ。


 ごろ。


 ごろ。


⸻


 殻が土器の底に当たる。


⸻


 最初、貝は沈黙していた。


⸻


 湯が温まる。


 泡が増える。


 干し魚の匂いに、貝の匂いが混ざる。


⸻


 潮。


⸻


 いや、完全な潮ではない。


 海と川と泥の間の匂い。


⸻


 水の底にある、丸い甘さ。


 石の隙間に残っていた塩気。


 貝殻の内側に閉じ込められていた春。


⸻


 やがて、一つ目の貝が開いた。


⸻


 かち。


⸻


 小さな音だった。


⸻


 だが、シンには聞こえた気がした。


⸻


「開いた!」


 トンが叫んだ。


⸻


 続いて、別の貝も開く。


⸻


 かち。


 かち。


 かち。


⸻


 まるで土器の中で、小さな扉が次々開くようだった。


⸻


 湯の匂いが、一気に変わった。


⸻


 シンの腹がまた鳴った。


⸻


 今度は、誰も笑わなかった。


⸻


 トンの腹も鳴ったからだ。


⸻


 チンも鳴った。


⸻


 カンは真顔で腹を押さえた。


⸻


「貝、強い」


「貝に負けたな」


 シンが言った。


⸻


「みんな負けた」


 カンが言った。


⸻


 鍋の中では、貝の口が開き、白い身が見え始めている。


 小さく縮み、ぷっくりと膨らんでいる。


 湯は少し白く濁った。


⸻


 そこへ、アサメが塩を入れた。


⸻


 ほんの少し。


⸻


 指先でつまみ、散らす。


⸻


 粗い塩の粒が湯に落ち、すぐに見えなくなる。


⸻


「それだけ?」


 シンが聞いた。


⸻


「足りなければ、あとで足す」


「最初から多く入れないのか」


「戻せない」


⸻


 シンは頷いた。


⸻


 それは料理の真理だ。


⸻


 塩は戻せない。


⸻


 この時代でも、現代でも、同じだ。


⸻


 アサメは湯を一口、木の匙で取った。


 少し冷まして、舌に乗せる。


⸻


 目を閉じない。


 大きな反応もしない。


⸻


 ただ、少しだけ頷いた。


⸻


「まだ薄い」


⸻


 塩を、もう少し。


⸻


 ナギが横から言った。


⸻


「貝はあとで強くなるよ」


「分かっている」


「だよね」


⸻


 アサメは干し魚の骨を一部取り出した。


 湯の中に残したままだと苦くなりすぎるらしい。


⸻


 それから、水にさらしていた山菜を入れた。


⸻


 まず、硬い茎。


 次に、丸まった若芽。


 最後に、柔らかい葉。


⸻


 緑が湯の中に落ちる。


⸻


 その瞬間、匂いがまた変わった。


⸻


 貝と魚の丸い匂いの上に、青い線が一本走る。


⸻


 鋭い。


 苦い。


 若い。


⸻


 雪の下から出てきたばかりの緑が、熱でふっと開く。


 葉が少し濃い色になる。


 茎の赤みが鮮やかになる。


⸻


 湯気に、春が立った。


⸻


 シンは本気で感動した。


⸻


「やばい」


「何が」


 アサメが聞いた。


⸻


「これは、やばい」


「言葉を使え」


「貝の甘い匂いと、魚の煙っぽい匂いと、山菜の青い匂いが、全部来てる」


「そうだな」


「これ、めちゃくちゃうまいやつだ」


「食ってから言え」


⸻


 アサメは淡々としていた。


⸻


 でも、口元が少しだけ緩んでいる。


⸻


 ナギは完全に笑っていた。


⸻


「シン、食べ物の時だけ言葉が多いよね」


「食は大事だからな」


「うん。大事」


⸻


 ナギは、珍しく軽くない声で言った。


⸻


「食べてる間は、だいたい生きてるから」


⸻


 その言葉は、炉の湯気の中へ静かに混ざった。


⸻


 食べている間は、生きている。


⸻


 当たり前すぎる言葉。


⸻


 でも、この時代では、当たり前ではない。


⸻


 食べるものがある。


 火がある。


 器がある。


 誰かが採ってきた山菜がある。


 誰かが運んできた貝がある。


 誰かが残した塩がある。


⸻


 それは、全部、生きている証拠だった。


⸻


⸻


 昼頃。


⸻


 甘い匂いがした。


⸻


 シンはもう驚かなかった。


⸻


(今日も来た)


⸻


 顔を上げる。


⸻


 モモがいた。


⸻


 今日は昨日より近い。


⸻


 炉から、かなり近い。


⸻


 まだ火の輪の中には入っていない。


 だが、集落の外れではない。


 子供たちが少し振り返れば見える場所。


 ナギが少し身を引く場所。


 アサメが弓を取らずに見られる場所。


⸻


 そこに、白い姿が立っていた。


⸻


 ナギが固まった。


⸻


「わ、桃色……」


「静かに」


 シンは言った。


⸻


「いやでも怖いって」


「静かに」


「近いって」


「静かに」


⸻


 ナギは口を閉じた。


⸻


 でも、足は一歩だけ後ろへ下がっている。


⸻


 モモはナギを見た。


 それから、炉を見た。


 またナギを見た。


⸻


 ナギが小声で言った。


⸻


「……ほんとに鬼討ち?」


「そう言われてる」


「でも全然斬ってこないじゃん」


「そうなんだよな」


⸻


 モモは動かなかった。


⸻


 ただ、立っている。


⸻


 春の風が、ふわりとモモの黒髪を揺らした。


 桃色の飾りが、小さく光る。


⸻


 白い衣は、炉の煙をまだ受けていない。


 汚れていない。


 濡れていない。


 泥もついていない。


⸻


 だが、モモの視線は、完全に炉へ向いていた。


⸻


 湯気を見ている。


 煙を見ている。


 鍋の中を見ている。


⸻


 匂いを見ている。


⸻


(来た)


⸻


 シンは静かに息を吸った。


⸻


 モモは今、明らかに「炉の外側」ではなくなっていた。


⸻


 昨日まで、モモは見ていた。


 火を見る。


 肉を見る。


 山菜を見る。


 水を見る。


⸻


 でも、少し離れていた。


⸻


 今日は違う。


⸻


 湯気に誘われている。


⸻


 貝の甘さ。


 干し魚の煙。


 山菜の青い苦味。


 塩の輪郭。


⸻


 その全部が、白い鬼討ちの足を、ほんの少しずつ炉へ近づけている。


⸻


 アサメが立ち上がった。


⸻


 何も言わず、鍋の中を木の匙で一度混ぜる。


⸻


 貝殻がぶつかる。


 山菜が湯の中で揺れる。


 干し魚の小さな身がほぐれ、汁に浮かぶ。


⸻


 アサメは土器の椀を取った。


 木の匙で、汁をよそう。


⸻


 まず、汁。


⸻


 透明ではない。


 少し白く濁り、そこに魚の煙色が混じっている。


 光に当たると、表面に細かな脂が浮いていた。


⸻


 次に、貝。


⸻


 小さな殻ごと二つ。


 口を開いた貝の中に、白い身が丸く収まっている。


⸻


 それから、山菜。


⸻


 緑の葉。


 赤みのある茎。


 丸まった若芽。


⸻


 最後に、塩をほんの少しだけ、指先で足した。


⸻


 椀から、湯気が上がる。


⸻


 シンは立ち上がった。


⸻


 ナギが息を止めた。


 トン、チン、カンも静かになった。


 アサメは何も言わなかった。


⸻


 シンは椀を両手で持った。


⸻


 熱い。


⸻


 指先に、土器の熱がじんわり伝わる。


⸻


「モモ」


⸻


 呼んだ。


⸻


 モモの視線がシンへ向く。


⸻


「……確認」


「食うか?」


⸻


 ナギが変な顔になった。


 声は出さない。


 でも、顔が全部言っていた。


⸻


 正気か。


⸻


 シンも、正気かどうか少し分からなかった。


⸻


 でも、言った。


⸻


 モモは椀を見た。


 湯気を見た。


 山菜を見た。


 貝を見た。


 シンを見た。


⸻


 長い沈黙。


⸻


 炉の火が、ぱち、と鳴った。


⸻


 トンが息を飲む音がした。


 チンがチンのくせに何も言わない。


 カンはただ、じっと見ていた。


⸻


 モモが、一歩近づいた。


⸻


 泥を踏む音がした。


⸻


 一歩。


⸻


 また一歩。


⸻


 炉の光が、モモの白い衣を照らす。


 黒髪の端に、火の赤が映る。


 桃色の飾りが、揺れた。


⸻


 シンは椀を差し出した。


⸻


 モモは、その椀を見つめた。


⸻


 熱。


 湯気。


 匂い。


 器。


 人の手。


⸻


 その全部を、確認している。


⸻


 シンの腕が少し震えた。


⸻


 熱いからではない。


⸻


 モモが、手を伸ばした。


⸻


 細い指。


 白い指。


 刀を握るはずの手。


 鬼を討つはずの手。


⸻


 その手が、椀を受け取った。


⸻


 ナギが変な声を出した。


⸻


「うぉっ!?」


「静かに!」


「いや今のは無理だって!」


⸻


 トンが口を開けたまま固まっている。


 チンは目を丸くしている。


 カンは小さく「受けた」と呟いた。


⸻


 アサメだけが、静かだった。


⸻


 でも、その目は炉ではなく、モモの手を見ている。


⸻


 モモは椀を持ったまま止まっていた。


⸻


 熱を見ているようだった。


⸻


「……熱い」


「そうだな」


 シンは言った。


⸻


「……器表面温度、高」


「持てないか?」


「……保持可能」


「無理するなよ」


「……保持可能」


「強情」


⸻


 モモは椀を見た。


⸻


 湯気が顔にかかる。


 白い頬に、春の汁の湯気が触れる。


⸻


 シンは少し迷ってから言った。


⸻


「吹けば冷める」


⸻


 モモは止まった。


⸻


「……吹く」


「こう」


⸻


 シンは自分の椀を取り、湯気に向かって軽く息を吹いた。


⸻


 ふう。


⸻


 湯気が揺れる。


⸻


「熱いものは、少し冷ましてから飲む」


「……冷却行動」


「そう。冷却行動」


⸻


 モモは椀を見る。


⸻


 それから、ほんの少しだけ顔を近づけた。


⸻


 唇が開く。


⸻


 ふっ。


⸻


 短い息だった。


⸻


 だが、確かに吹いた。


⸻


 湯気が揺れた。


⸻


 シンは固まった。


⸻


(吹いた)


⸻


 ナギも固まっていた。


⸻


 トン、チン、カンも固まっていた。


⸻


 アサメだけが、静かだった。


⸻


 だが、その口元が少しだけ動いた。


⸻


 モモは、もう一度、ふっと息を吹いた。


⸻


 湯気が薄くなる。


⸻


 それから、椀に口をつけた。


⸻


 ほんの少し。


⸻


 本当に、少しだけ。


⸻


 汁が、モモの唇に触れた。


⸻


 モモは動かない。


⸻


 飲んだのか。


 触れただけなのか。


⸻


 シンには分からなかった。


⸻


 だが、次の瞬間。


⸻


 喉が、わずかに動いた。


⸻


 飲んだ。


⸻


 モモが、貝汁を飲んだ。


⸻


 沈黙。


⸻


 長い沈黙。


⸻


 春の風が吹く。


 炉の煙が揺れる。


 貝の湯気が、モモの顔の前で薄く広がる。


⸻


 モモは椀を見た。


⸻


「……塩」


「入ってる」


 アサメが言った。


⸻


「……魚」


「干し魚」


 ナギが言った。


⸻


「……貝」


「それが主役」


 シンが言った。


⸻


 モモは、また少しだけ飲んだ。


⸻


 今度は、さっきより長く。


⸻


 貝の汁。


 干し魚の煙。


 塩。


 山菜の青い匂い。


⸻


 それらが、モモの中へ入っていく。


⸻


 必要ないはずのもの。


 生存維持に関係ないはずのもの。


 栄養摂取の必要がないはずの存在が、それを受け取っている。


⸻


 モモは山菜を見た。


⸻


 椀の中で、緑の葉が湯に沈んでいる。


⸻


 細い指で、山菜を一つつまむ。


⸻


 かなりぎこちない。


⸻


 箸などない。


 指でつまむのも、慣れていない。


⸻


 だが、モモはそれを持ち上げた。


⸻


 湯気をまとった緑。


⸻


 春の苦味。


⸻


 それを、口へ運ぶ。


⸻


 シンは息を止めた。


⸻


 ナギも息を止めた。


⸻


 トンは自分の口を押さえた。


 チンは目を閉じかけて、結局見た。


 カンはじっと見ている。


⸻


 モモが、山菜を食べた。


⸻


 小さく噛む。


⸻


 一度。


 二度。


⸻


 止まる。


⸻


「……」


⸻


 長い沈黙。


⸻


 それから。


⸻


「……苦い」


⸻


 モモが言った。


⸻


 シンは吹き出した。


⸻


「山菜だからな!」


⸻


 ナギが腹を抱えた。


⸻


「桃色が苦いって言った!」


「静かにしろって!」


「無理だって! 怖いけど面白いって!」


⸻


 トン、チン、カンも笑った。


⸻


「苦い!」


「モモ、春に負けた!」


「春、強い!」


⸻


 モモは子供たちを見た。


⸻


 笑いの意味を処理しているようだった。


⸻


「……春、強い」


「真に受けなくていい」


 シンは言った。


⸻


 アサメが口を開いた。


⸻


「春の苦さだ」


⸻


 昨日と同じ言葉。


⸻


 モモはアサメを見た。


⸻


「……春の苦さ」


「冬の体を起こす」


「……体を、起こす」


「そうだ」


⸻


 モモは椀を見た。


⸻


 椀の中の山菜を見る。


 湯を見る。


 貝を見る。


⸻


「……対象モモ、冬の体、該当なし」


「それでも飲んだ」


 アサメが言った。


⸻


 モモは黙った。


⸻


「不要なのだろう」


「……不要」


「だが、飲んだ」


「……」


⸻


 アサメの言葉は、責めているのではなかった。


⸻


 ただ、事実を置いている。


⸻


 モモは反論しなかった。


⸻


 できなかったのかもしれない。


⸻


 シンは、静かにその横顔を見た。


⸻


 必要ない。


 不要。


 生存維持に関係ない。


⸻


 それでも、受け取った。


⸻


 熱い、と言った。


 吹いた。


 飲んだ。


 苦い、と言った。


⸻


 それは、たぶん大事件だった。


⸻


 世界が変わるほどの大事件ではない。


 ヤマトの軍が止まるわけでもない。


 鬼という名が消えるわけでもない。


⸻


 でも、シンにとっては大事件だった。


⸻


 モモが、春の苦さを知った。


⸻


 それだけで、何かが少し変わった気がした。


⸻


「うまいか?」


 シンは聞いた。


⸻


 モモは椀を見た。


⸻


「……判定不能」


「だろうな」


「……塩。魚。貝。苦味。熱。煙」


「そうだ」


「……情報過多」


「料理ってそういうものだ」


⸻


 ナギが頷いた。


⸻


「そうそう。うまいものは、だいたい情報が多い」


「名言みたいに言うな」


⸻


 ナギは自分の椀を持って、汁を飲んだ。


⸻


「うっま」


⸻


 その声は、本気だった。


⸻


 シンも椀を受け取った。


⸻


 ようやく、自分の番だ。


⸻


 土器の椀は熱い。


 両手で持つと、手のひらがじんわり温まる。


⸻


 湯気に顔を近づける。


⸻


 まず、貝。


⸻


 丸い甘さ。


 塩の尖り。


 干し魚の燻香。


 山菜の青い苦味。


⸻


 全部が湯気になって上がってくる。


⸻


 シンは、少し息を吹いた。


⸻


 モモがそれを見ていた。


⸻


 気づいて、少し笑いそうになった。


⸻


 飲む。


⸻


 熱い。


⸻


 舌先に塩が来る。


 その後に、貝の甘みが来る。


 貝の身から出た汁は、肉の脂とは違う。


 軽いのに深い。


 水そのものが少し丸くなったような甘さだ。


⸻


 そこへ干し魚の煙が底から支える。


⸻


 ただの貝汁なら、澄んだ味で終わる。


 だが、干し魚が入ると、山の炉の匂いが混ざる。


 海と川から来た貝が、炉の中で山の食べ物になる。


⸻


 そこへ山菜だ。


⸻


 最初は邪魔かと思うほど、苦い。


⸻


 だが、飲み込んだ後に分かる。


⸻


 苦味があるから、貝の甘みが戻ってくる。


 苦味が舌を一度起こし、その後に塩と魚の味をもう一度感じさせる。


⸻


 二口目。


⸻


 うまい。


⸻


 はっきり、うまい。


⸻


 味噌も醤油もない。


 昆布も酒もない。


 だが、足りないとは思わなかった。


⸻


 この山で、この春に、この炉の前で食べるには、これが正しい味だった。


⸻


「うま……」


⸻


 シンは目を閉じた。


⸻


「これ、うまいな」


⸻


 トンが汁を飲み、顔をしかめた。


⸻


「苦い」


⸻


 チンが貝の身を噛んだ。


⸻


「貝、うまい」


⸻


 カンが山菜を噛んだ。


⸻


「春、強い」


⸻


 シンは笑った。


⸻


 ナギは貝殻を器用に外しながら食べている。


 小さな身を逃さない。


 殻の内側に残った汁まで舐める。


⸻


「ナギ、食べ方うまいな」


「貝は最後まで食べないと怒る」


「貝が?」


「俺が」


「お前かよ」


⸻


 アサメは静かに食べていた。


⸻


 表情は大きく変わらない。


 だが、匙の動きが止まらない。


⸻


 アサメも、この味を気に入っているのだと分かった。


⸻


 モモは、まだ椀を持っていた。


⸻


 ゆっくり、もう一度汁を飲む。


⸻


 そして、山菜をまた一つ食べる。


⸻


 今度は、すぐには「苦い」と言わなかった。


⸻


 噛む。


 止まる。


 飲み込む。


⸻


「……苦い」


「二回目でも苦いか」


「……苦い」


「でも食べたな」


「……確認継続」


「そっか」


⸻


 確認継続。


⸻


 それが、モモなりの「もう一口」なのかもしれなかった。


⸻


 シンはそれを見て、胸が少し熱くなった。


⸻


 炉のせいだけではない。


⸻


⸻


 食事が終わる頃、集落は妙な空気になっていた。


⸻


 誰も、モモに慣れたわけではない。


 怖くないわけでもない。


⸻


 ナギはまだ距離を取っている。


 子供たちも、近づきすぎない。


 アサメはずっと見ている。


⸻


 だが、モモが椀を持っている。


⸻


 それだけで、世界が少しずれていた。


⸻


 鬼討ちと呼ばれた白い女が、炉のそばで、春の貝汁を持っている。


⸻


 その光景は、怖い。


 でも、少しおかしい。


 そして、なぜか少し優しかった。


⸻


 トンが小声で言った。


⸻


「モモ、汁持ってる」


「静かに」


 シンが言った。


⸻


 チンが言った。


⸻


「飲んだ」


「見た」


 カンが言った。


⸻


「春に負けた」


「お前ら、全員春に負けてるからな」


⸻


 その時だった。


⸻


「体に良さそうな苦さだ」


⸻


 低い声がした。


⸻


 タダだった。


⸻


 全員が振り返る。


⸻


 タダが山の方から戻ってきていた。


⸻


 大きな鹿を担いでいた。


⸻


(でっっっっっっっか)


⸻


 シンは心の中で叫んだ。


⸻


 鹿も大きい。


 タダも大きい。


 全部大きい。


⸻


 タダは鹿を下ろした。


⸻


 地面が少し揺れた。


⸻


 気がした。


⸻


 実際に揺れたかもしれない。


⸻


「良い肉だ」


 タダが言った。


⸻


「いやそれ以前にデカい!!」


「春の鹿だ」


「春の鹿ってそんな強そうなの!?」


⸻


 ナギが笑った。


 トンたちは目を輝かせた。


 チンはもう肉の場所を見ている。


 カンは鹿を見て、静かに言った。


⸻


「これは、勝てない」


「何と比べてるんだ」


⸻


 アサメも少し笑った。


⸻


 タダはモモを見た。


⸻


 モモは椀を持ったまま止まっていた。


⸻


 タダの視線が、椀へ行く。


 モモの顔へ行く。


 もう一度、椀へ行く。


⸻


「飲んだか」


「飲んだ」


 シンが答えた。


⸻


 タダは少し頷いた。


⸻


「そうか」


⸻


 それだけだった。


⸻


 驚かない。


 騒がない。


 怖がらない。


⸻


 タダは、ただ受け取った。


⸻


 モモが飲んだ。


⸻


 そうか。


⸻


 それで十分だった。


⸻


 モモはまだ消えなかった。


⸻


 椀を持ったまま、タダの鹿を見ている。


⸻


 シンはその横顔を見た。


⸻


 椀の中には、まだ少し汁が残っている。


 山菜も、貝も、少し残っている。


⸻


 モモはそれを捨てない。


 手放さない。


⸻


 ただ持っている。


⸻


 白い鬼討ちが、春の汁を持っている。


⸻


 それは、とても小さな変化だった。


⸻


 でも、シンには分かった。


⸻


 今日は、消えなかった。


⸻


 モモは、まだそこにいた。


⸻


 炉の火のそばに。


 春の匂いの中に。


 苦味を知ったまま。


⸻


(第四十五話へ)

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