モモと山菜
第四十四話 モモと山菜
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翌朝。
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タダが、もういなかった。
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炉の火は残っている。
灰の下に、赤い芯が静かに眠っている。
薪も足されている。
昨夜のうちに濡れない場所へ移した乾いた薪が、炉の脇にきちんと積まれていた。
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でも、タダ本人だけがいない。
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(早起きだなぁ)
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シンは欠伸をしながら外へ出た。
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朝の空気は、まだ冷たい。
だが、もう刺さらない。
湿り気がある。
鼻の奥に、土と水と、まだ目を出したばかりの草の匂いが入ってくる。
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春の匂いだ。
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山の斜面には、薄く雪が残っている。
その雪の縁が、日差しを受けて少しずつ痩せていた。
白いものが後退し、黒い土が姿を出す。
その土の上に、枯れ葉が濡れて貼りついている。
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どこかで、鳥が鳴いた。
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トリビックリクンではなかった。
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それだけで、少し安心した。
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炉の前に、アサメがいた。
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今日は立っていない。
低い丸太に腰を下ろし、膝の上に草を広げている。
薬草なのか、山菜なのか、シンにはまだ分からない。
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アサメはそれを、一本ずつ細かく裂いていた。
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指が速い。
だが、雑ではない。
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茎の硬いところを捨てる。
柔らかい葉だけを残す。
匂いを嗅ぐ。
ときどき、指先で葉の裏を撫でる。
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アサメは、草にも耳を澄ましているように見えた。
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「タダは?」
「山」
「狩りか」
「そうだ」
「朝早いな」
「春は獣が動く」
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アサメは草を裂きながら言った。
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「冬の間、山は静かだ」
「うん」
「春になると、腹を空かせた獣が動く」
「じゃあ、獲りやすい?」
「獲りやすい。だが、向こうも必死だ」
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アサメはそこで手を止めた。
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「春の獣は、人も襲う」
「おぉぅ……」
「飢えているからだ」
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シンは山を見た。
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雪が解ける。
山菜が出る。
魚が動く。
獣も動く。
ヤマトも動く。
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全部、同じ春だ。
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美しいものだけが起きるわけではない。
腹を空かせたものも起きる。
隠れていたものも出る。
眠っていた火も、泥も、匂いも、飢えも、道も、全部動き出す。
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シンは炉のそばへ座った。
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火を見る。
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灰の下の赤が、ゆっくり息をしている。
上の薪はまだ燃えていない。
細い煙だけが、炉の口から低く出ていた。
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昨日から、少しだけ分かるようになってきた。
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火だけを見るな。
火の周りを見ろ。
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灰。
薪。
空気。
土。
湿り。
人の手。
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全部で燃える。
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「……アサメ」
「なんだ」
「炉って、本当に喋ってるみたいだな」
「喋ってはいない」
「じゃあ何なんだ」
「炉だ」
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(つよい)
(会話が終わった)
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シンは少し笑った。
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この人は、時々天然なのか何なのか分からない。
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でも、アサメにとってはそれが正確なのだ。
山は山。
炉は炉。
火は火。
名前を重ねすぎると、かえって見えなくなるものがあるのかもしれない。
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アサメは草を裂き終えると、土器の浅い皿へ入れた。
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「それ、食うやつ?」
「これは食う」
「これは?」
シンは脇に置かれた、別の草を指した。
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「薬」
「これは?」
「毒」
「なんで同じ場所に置いてるんだよ!」
「見れば違う」
「見ても同じ緑!」
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アサメは少しだけ口元を動かした。
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「シンは触るな」
「はい」
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もう反論しなかった。
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山菜採りで毒草に負けた男に、発言権はあまりない。
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そこへ、トン、チン、カンが来た。
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朝から元気だった。
昨日あれだけ薪を運んだのに、なぜもう走れるのか分からない。
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「シン、山菜食う?」
「食う」
「また負ける?」
「負けない」
「前は負けた」
「それは毒草」
「草に負けた」
「ええい、やかましい」
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チンがアサメの皿を覗き込む。
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「これは苦いやつ」
「そうだ」
アサメが言った。
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カンが匂いを嗅いだ。
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「目が覚める匂い」
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アサメが頷いた。
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「そうだ」
「また正解してる」
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シンはカンを見た。
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カンは胸を張った。
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「勘」
「もう名前じゃなくて能力名だな」
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トンが手を伸ばそうとした。
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「待て」
アサメが言った。
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トンはぴたりと止まった。
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「生で食うな」
「なんで」
「苦すぎる」
「苦すぎると?」
「顔が変になる」
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シンは少し気になった。
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「それだけ?」
「腹も少し怒る」
「やっぱり怖いじゃん」
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アサメは淡々としていた。
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春の山は、うまいものと危ないものの距離が近い。
ほんの少し間違えるだけで、食べ物が毒になる。
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この集落の人間は、それを身体で知っている。
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シンはまだ、知らない。
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だから、見て、聞いて、覚えるしかない。
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その時だった。
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集落の入り口の方から、明るい声がした。
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「おはよー!」
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ナギだった。
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今日は一人だった。
鳥の羽根の外套を揺らし、背中に大きな袋を負っている。
袋の口からは、湿った草と、塩と、海に近い川の匂いがした。
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「はやいな」
シンが言った。
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「潮が良かったから!」
「意味は分からんが元気だな」
「元気だよ!」
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ナギは袋を下ろした。
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塩。
干し魚。
小さな貝殻。
それから、湿った草に包まれた何か。
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トンたちが一斉に寄った。
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「何!」
「魚!」
「貝!」
「食える?」
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「食えるよー」
ナギが得意げに言った。
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湿った草を開く。
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中から、小さな貝が出てきた。
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茶色い殻。
丸みのあるもの。
細長いもの。
殻の表面には、川の泥が少しついている。
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完全な海の貝ではないらしい。
下流の、川が広がるあたりで採れるものだとナギは言った。
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「春のやつ。水がぬるみ始めると、よく採れる」
「生きてる?」
カンが聞いた。
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「生きてる。ほら」
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ナギが一つを指で触ると、貝がわずかに口を閉じた。
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トンが叫んだ。
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「石が動いた!」
「生きてた石だって言ったでしょ」
「嘘じゃなかったのか」
シンが言った。
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「半分ほんと」
「その表現、便利だな」
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アサメが貝を見た。
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「今年は早いな」
「海が暖かいんだと思う」
「変な流れか」
「たぶんね」
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流れ。
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海にも流れがある。
川にも流れがある。
山にも流れがある。
人にも流れがある。
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(この時代の人、みんな流れで生きてるな)
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ナギは袋から塩も出した。
白い塊ではなく、少し灰色がかった粗い塩だ。
指でつまむと、粒が不揃いだった。
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「今日はこれで、汁にしよう」
ナギが言った。
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「汁?」
「貝汁」
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その言葉に、シンの腹が鳴った。
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トンたちが即座に見た。
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「シン、腹」
「鳴った」
「貝に負けた」
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「まだ食べてないのに負け判定するな」
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アサメは立ち上がった。
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「山菜も入れる」
「春だなー!」
ナギが笑った。
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「貝と山菜か」
シンは思わず呟いた。
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現代なら、味噌が欲しい。
醤油が欲しい。
昆布が欲しい。
酒が欲しい。
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だが、この時代にはない。
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あるのは、貝。
山菜。
干し魚。
塩。
水。
火。
土器。
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それだけだ。
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でも、その「それだけ」が、妙にうまそうだった。
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料理は、昼前から始まった。
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アサメはまず、貝を選り分けた。
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割れているもの。
口が開いたままのもの。
匂いの悪いもの。
泥が強すぎるもの。
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そういうものを、迷いなく外していく。
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チンが一つを拾おうとした。
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「触るな」
アサメが言った。
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「なんで」
「腹を壊す」
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チンはすぐ手を引っ込めた。
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シンも思わず一歩下がった。
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「見分けられるのか」
「匂いと、殻の閉じ方」
アサメが言った。
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ナギが頷いた。
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「死んでるやつはだめ。汁が全部だめになる」
「全部?」
「全部。貝は偉いけど、悪くなるとすごい」
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シンはぞっとした。
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春の味には、春の危険がある。
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ナギは選んだ貝を、沢の水で洗った。
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泥を落とす。
殻をこすり合わせる。
指で表面を撫でる。
細かい砂が水の中に落ちていく。
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トンが手伝おうとしたが、力が強すぎて貝を割りかけた。
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「優しく」
ナギが言った。
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「優しくって、どれくらい」
「チンが干し肉を盗むくらい」
「盗んでない」
チンが言った。
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「口が肉」
カンが言った。
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「今は食べてない!」
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シンは笑いながら、洗われた貝を見た。
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殻についた泥が落ちると、貝は少し光った。
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派手な美しさではない。
白い皿に盛るような、綺麗な食材でもない。
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泥の中から来たもの。
川と海の境目から、ナギが背負ってきたもの。
まだ少し土臭く、でも確かに春の水を含んだもの。
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アサメは別の場所で山菜の下ごしらえをしていた。
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昨日の苦い葉。
細い茎。
少し丸まった若芽。
赤みのある柔らかい芽。
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それらを、食べやすい長さに折る。
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刃物をあまり使わない。
指で折る。
硬いところで自然に折れる。
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折れた断面から、青い匂いが立った。
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シンはそれだけで唾が出た。
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山菜の匂いは、不思議だ。
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肉のように、腹の底から獣を起こす匂いではない。
干し魚のように、塩と煙で喉を鳴らす匂いでもない。
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もっと上に来る。
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鼻の奥。
舌の付け根。
頭の後ろ。
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苦いぞ、と先に言ってくる匂いだ。
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でも、なぜか食べたくなる。
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「それ、全部入れるのか」
「全部ではない」
「どれを入れる」
「苦すぎるものは、あと」
「あと?」
「湯が変わってから」
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シンには分からない。
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山菜にも順番があるらしい。
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アサメは一部の葉を水にさらした。
土器の器に冷たい水を張り、その中に若芽を沈める。
水の表面に、小さな泡がついた。
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「苦味を抜くのか」
「少しだけ」
「全部じゃないんだ」
「全部抜いたら、春ではない」
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シンはその言葉に感心した。
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全部抜いたら、春ではない。
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苦すぎれば食えない。
でも、苦味を消しすぎれば、そのものではなくなる。
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料理の話なのに、何か別のことを言われた気がした。
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アサメは土器の深い鍋を炉へ置いた。
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鍋、とシンは頭の中で呼んでいる。
だが、鉄の鍋ではない。
焼いた土の器だ。
分厚く、黒く煤けている。
底には何度も火にかけられた跡がある。
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水を入れる。
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透明な水が、土器の内側に当たって低い音を立てた。
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最初に入れたのは、干し魚だった。
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小さな干し魚を、手で二つに折る。
内臓の苦いところを少し外し、身と骨を鍋へ入れる。
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水の中で、干し魚がゆっくり沈んだ。
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火は強すぎない。
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タダがいれば、もっと重い火にするのかもしれない。
だが、アサメは土器が割れないように、火をゆっくり育てている。
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乾いた薪を少し。
細い枝を少し。
炭の位置を変える。
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鍋の底から、小さな泡が出始めるまで待つ。
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待つ時間も料理だった。
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シンは炉の前に座り、その匂いが変わるのを見ていた。
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最初は水の匂いだった。
次に、土器の温まる匂い。
その後、干し魚の匂いが出てきた。
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燻された魚の匂いが、水にほどける。
塩気のある煙。
魚の骨から出る淡い脂。
少しだけ、苦い内臓の名残。
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それが湯に移っていく。
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「うわ、もううまそう」
シンは言った。
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「まだ早い」
アサメが言った。
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「匂いだけでいける」
「匂いだけ食え」
「いや、それは難しい」
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ナギが笑った。
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「シン、汁好き?」
「好き」
「まだ飲んでないのに?」
「匂いで分かる」
「分かってきたねぇ」
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干し魚の湯が少し色づいたところで、アサメは貝を入れた。
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ごろ。
ごろ。
ごろ。
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殻が土器の底に当たる。
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最初、貝は沈黙していた。
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湯が温まる。
泡が増える。
干し魚の匂いに、貝の匂いが混ざる。
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潮。
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いや、完全な潮ではない。
海と川と泥の間の匂い。
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水の底にある、丸い甘さ。
石の隙間に残っていた塩気。
貝殻の内側に閉じ込められていた春。
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やがて、一つ目の貝が開いた。
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かち。
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小さな音だった。
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だが、シンには聞こえた気がした。
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「開いた!」
トンが叫んだ。
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続いて、別の貝も開く。
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かち。
かち。
かち。
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まるで土器の中で、小さな扉が次々開くようだった。
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湯の匂いが、一気に変わった。
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シンの腹がまた鳴った。
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今度は、誰も笑わなかった。
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トンの腹も鳴ったからだ。
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チンも鳴った。
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カンは真顔で腹を押さえた。
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「貝、強い」
「貝に負けたな」
シンが言った。
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「みんな負けた」
カンが言った。
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鍋の中では、貝の口が開き、白い身が見え始めている。
小さく縮み、ぷっくりと膨らんでいる。
湯は少し白く濁った。
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そこへ、アサメが塩を入れた。
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ほんの少し。
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指先でつまみ、散らす。
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粗い塩の粒が湯に落ち、すぐに見えなくなる。
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「それだけ?」
シンが聞いた。
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「足りなければ、あとで足す」
「最初から多く入れないのか」
「戻せない」
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シンは頷いた。
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それは料理の真理だ。
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塩は戻せない。
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この時代でも、現代でも、同じだ。
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アサメは湯を一口、木の匙で取った。
少し冷まして、舌に乗せる。
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目を閉じない。
大きな反応もしない。
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ただ、少しだけ頷いた。
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「まだ薄い」
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塩を、もう少し。
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ナギが横から言った。
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「貝はあとで強くなるよ」
「分かっている」
「だよね」
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アサメは干し魚の骨を一部取り出した。
湯の中に残したままだと苦くなりすぎるらしい。
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それから、水にさらしていた山菜を入れた。
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まず、硬い茎。
次に、丸まった若芽。
最後に、柔らかい葉。
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緑が湯の中に落ちる。
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その瞬間、匂いがまた変わった。
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貝と魚の丸い匂いの上に、青い線が一本走る。
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鋭い。
苦い。
若い。
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雪の下から出てきたばかりの緑が、熱でふっと開く。
葉が少し濃い色になる。
茎の赤みが鮮やかになる。
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湯気に、春が立った。
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シンは本気で感動した。
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「やばい」
「何が」
アサメが聞いた。
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「これは、やばい」
「言葉を使え」
「貝の甘い匂いと、魚の煙っぽい匂いと、山菜の青い匂いが、全部来てる」
「そうだな」
「これ、めちゃくちゃうまいやつだ」
「食ってから言え」
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アサメは淡々としていた。
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でも、口元が少しだけ緩んでいる。
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ナギは完全に笑っていた。
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「シン、食べ物の時だけ言葉が多いよね」
「食は大事だからな」
「うん。大事」
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ナギは、珍しく軽くない声で言った。
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「食べてる間は、だいたい生きてるから」
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その言葉は、炉の湯気の中へ静かに混ざった。
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食べている間は、生きている。
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当たり前すぎる言葉。
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でも、この時代では、当たり前ではない。
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食べるものがある。
火がある。
器がある。
誰かが採ってきた山菜がある。
誰かが運んできた貝がある。
誰かが残した塩がある。
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それは、全部、生きている証拠だった。
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昼頃。
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甘い匂いがした。
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シンはもう驚かなかった。
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(今日も来た)
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顔を上げる。
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モモがいた。
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今日は昨日より近い。
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炉から、かなり近い。
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まだ火の輪の中には入っていない。
だが、集落の外れではない。
子供たちが少し振り返れば見える場所。
ナギが少し身を引く場所。
アサメが弓を取らずに見られる場所。
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そこに、白い姿が立っていた。
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ナギが固まった。
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「わ、桃色……」
「静かに」
シンは言った。
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「いやでも怖いって」
「静かに」
「近いって」
「静かに」
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ナギは口を閉じた。
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でも、足は一歩だけ後ろへ下がっている。
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モモはナギを見た。
それから、炉を見た。
またナギを見た。
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ナギが小声で言った。
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「……ほんとに鬼討ち?」
「そう言われてる」
「でも全然斬ってこないじゃん」
「そうなんだよな」
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モモは動かなかった。
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ただ、立っている。
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春の風が、ふわりとモモの黒髪を揺らした。
桃色の飾りが、小さく光る。
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白い衣は、炉の煙をまだ受けていない。
汚れていない。
濡れていない。
泥もついていない。
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だが、モモの視線は、完全に炉へ向いていた。
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湯気を見ている。
煙を見ている。
鍋の中を見ている。
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匂いを見ている。
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(来た)
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シンは静かに息を吸った。
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モモは今、明らかに「炉の外側」ではなくなっていた。
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昨日まで、モモは見ていた。
火を見る。
肉を見る。
山菜を見る。
水を見る。
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でも、少し離れていた。
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今日は違う。
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湯気に誘われている。
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貝の甘さ。
干し魚の煙。
山菜の青い苦味。
塩の輪郭。
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その全部が、白い鬼討ちの足を、ほんの少しずつ炉へ近づけている。
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アサメが立ち上がった。
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何も言わず、鍋の中を木の匙で一度混ぜる。
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貝殻がぶつかる。
山菜が湯の中で揺れる。
干し魚の小さな身がほぐれ、汁に浮かぶ。
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アサメは土器の椀を取った。
木の匙で、汁をよそう。
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まず、汁。
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透明ではない。
少し白く濁り、そこに魚の煙色が混じっている。
光に当たると、表面に細かな脂が浮いていた。
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次に、貝。
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小さな殻ごと二つ。
口を開いた貝の中に、白い身が丸く収まっている。
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それから、山菜。
⸻
緑の葉。
赤みのある茎。
丸まった若芽。
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最後に、塩をほんの少しだけ、指先で足した。
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椀から、湯気が上がる。
⸻
シンは立ち上がった。
⸻
ナギが息を止めた。
トン、チン、カンも静かになった。
アサメは何も言わなかった。
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シンは椀を両手で持った。
⸻
熱い。
⸻
指先に、土器の熱がじんわり伝わる。
⸻
「モモ」
⸻
呼んだ。
⸻
モモの視線がシンへ向く。
⸻
「……確認」
「食うか?」
⸻
ナギが変な顔になった。
声は出さない。
でも、顔が全部言っていた。
⸻
正気か。
⸻
シンも、正気かどうか少し分からなかった。
⸻
でも、言った。
⸻
モモは椀を見た。
湯気を見た。
山菜を見た。
貝を見た。
シンを見た。
⸻
長い沈黙。
⸻
炉の火が、ぱち、と鳴った。
⸻
トンが息を飲む音がした。
チンがチンのくせに何も言わない。
カンはただ、じっと見ていた。
⸻
モモが、一歩近づいた。
⸻
泥を踏む音がした。
⸻
一歩。
⸻
また一歩。
⸻
炉の光が、モモの白い衣を照らす。
黒髪の端に、火の赤が映る。
桃色の飾りが、揺れた。
⸻
シンは椀を差し出した。
⸻
モモは、その椀を見つめた。
⸻
熱。
湯気。
匂い。
器。
人の手。
⸻
その全部を、確認している。
⸻
シンの腕が少し震えた。
⸻
熱いからではない。
⸻
モモが、手を伸ばした。
⸻
細い指。
白い指。
刀を握るはずの手。
鬼を討つはずの手。
⸻
その手が、椀を受け取った。
⸻
ナギが変な声を出した。
⸻
「うぉっ!?」
「静かに!」
「いや今のは無理だって!」
⸻
トンが口を開けたまま固まっている。
チンは目を丸くしている。
カンは小さく「受けた」と呟いた。
⸻
アサメだけが、静かだった。
⸻
でも、その目は炉ではなく、モモの手を見ている。
⸻
モモは椀を持ったまま止まっていた。
⸻
熱を見ているようだった。
⸻
「……熱い」
「そうだな」
シンは言った。
⸻
「……器表面温度、高」
「持てないか?」
「……保持可能」
「無理するなよ」
「……保持可能」
「強情」
⸻
モモは椀を見た。
⸻
湯気が顔にかかる。
白い頬に、春の汁の湯気が触れる。
⸻
シンは少し迷ってから言った。
⸻
「吹けば冷める」
⸻
モモは止まった。
⸻
「……吹く」
「こう」
⸻
シンは自分の椀を取り、湯気に向かって軽く息を吹いた。
⸻
ふう。
⸻
湯気が揺れる。
⸻
「熱いものは、少し冷ましてから飲む」
「……冷却行動」
「そう。冷却行動」
⸻
モモは椀を見る。
⸻
それから、ほんの少しだけ顔を近づけた。
⸻
唇が開く。
⸻
ふっ。
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短い息だった。
⸻
だが、確かに吹いた。
⸻
湯気が揺れた。
⸻
シンは固まった。
⸻
(吹いた)
⸻
ナギも固まっていた。
⸻
トン、チン、カンも固まっていた。
⸻
アサメだけが、静かだった。
⸻
だが、その口元が少しだけ動いた。
⸻
モモは、もう一度、ふっと息を吹いた。
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湯気が薄くなる。
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それから、椀に口をつけた。
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ほんの少し。
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本当に、少しだけ。
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汁が、モモの唇に触れた。
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モモは動かない。
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飲んだのか。
触れただけなのか。
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シンには分からなかった。
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だが、次の瞬間。
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喉が、わずかに動いた。
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飲んだ。
⸻
モモが、貝汁を飲んだ。
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沈黙。
⸻
長い沈黙。
⸻
春の風が吹く。
炉の煙が揺れる。
貝の湯気が、モモの顔の前で薄く広がる。
⸻
モモは椀を見た。
⸻
「……塩」
「入ってる」
アサメが言った。
⸻
「……魚」
「干し魚」
ナギが言った。
⸻
「……貝」
「それが主役」
シンが言った。
⸻
モモは、また少しだけ飲んだ。
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今度は、さっきより長く。
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貝の汁。
干し魚の煙。
塩。
山菜の青い匂い。
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それらが、モモの中へ入っていく。
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必要ないはずのもの。
生存維持に関係ないはずのもの。
栄養摂取の必要がないはずの存在が、それを受け取っている。
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モモは山菜を見た。
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椀の中で、緑の葉が湯に沈んでいる。
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細い指で、山菜を一つつまむ。
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かなりぎこちない。
⸻
箸などない。
指でつまむのも、慣れていない。
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だが、モモはそれを持ち上げた。
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湯気をまとった緑。
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春の苦味。
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それを、口へ運ぶ。
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シンは息を止めた。
⸻
ナギも息を止めた。
⸻
トンは自分の口を押さえた。
チンは目を閉じかけて、結局見た。
カンはじっと見ている。
⸻
モモが、山菜を食べた。
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小さく噛む。
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一度。
二度。
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止まる。
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「……」
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長い沈黙。
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それから。
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「……苦い」
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モモが言った。
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シンは吹き出した。
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「山菜だからな!」
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ナギが腹を抱えた。
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「桃色が苦いって言った!」
「静かにしろって!」
「無理だって! 怖いけど面白いって!」
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トン、チン、カンも笑った。
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「苦い!」
「モモ、春に負けた!」
「春、強い!」
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モモは子供たちを見た。
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笑いの意味を処理しているようだった。
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「……春、強い」
「真に受けなくていい」
シンは言った。
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アサメが口を開いた。
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「春の苦さだ」
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昨日と同じ言葉。
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モモはアサメを見た。
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「……春の苦さ」
「冬の体を起こす」
「……体を、起こす」
「そうだ」
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モモは椀を見た。
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椀の中の山菜を見る。
湯を見る。
貝を見る。
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「……対象モモ、冬の体、該当なし」
「それでも飲んだ」
アサメが言った。
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モモは黙った。
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「不要なのだろう」
「……不要」
「だが、飲んだ」
「……」
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アサメの言葉は、責めているのではなかった。
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ただ、事実を置いている。
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モモは反論しなかった。
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できなかったのかもしれない。
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シンは、静かにその横顔を見た。
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必要ない。
不要。
生存維持に関係ない。
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それでも、受け取った。
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熱い、と言った。
吹いた。
飲んだ。
苦い、と言った。
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それは、たぶん大事件だった。
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世界が変わるほどの大事件ではない。
ヤマトの軍が止まるわけでもない。
鬼という名が消えるわけでもない。
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でも、シンにとっては大事件だった。
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モモが、春の苦さを知った。
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それだけで、何かが少し変わった気がした。
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「うまいか?」
シンは聞いた。
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モモは椀を見た。
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「……判定不能」
「だろうな」
「……塩。魚。貝。苦味。熱。煙」
「そうだ」
「……情報過多」
「料理ってそういうものだ」
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ナギが頷いた。
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「そうそう。うまいものは、だいたい情報が多い」
「名言みたいに言うな」
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ナギは自分の椀を持って、汁を飲んだ。
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「うっま」
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その声は、本気だった。
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シンも椀を受け取った。
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ようやく、自分の番だ。
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土器の椀は熱い。
両手で持つと、手のひらがじんわり温まる。
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湯気に顔を近づける。
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まず、貝。
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丸い甘さ。
塩の尖り。
干し魚の燻香。
山菜の青い苦味。
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全部が湯気になって上がってくる。
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シンは、少し息を吹いた。
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モモがそれを見ていた。
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気づいて、少し笑いそうになった。
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飲む。
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熱い。
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舌先に塩が来る。
その後に、貝の甘みが来る。
貝の身から出た汁は、肉の脂とは違う。
軽いのに深い。
水そのものが少し丸くなったような甘さだ。
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そこへ干し魚の煙が底から支える。
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ただの貝汁なら、澄んだ味で終わる。
だが、干し魚が入ると、山の炉の匂いが混ざる。
海と川から来た貝が、炉の中で山の食べ物になる。
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そこへ山菜だ。
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最初は邪魔かと思うほど、苦い。
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だが、飲み込んだ後に分かる。
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苦味があるから、貝の甘みが戻ってくる。
苦味が舌を一度起こし、その後に塩と魚の味をもう一度感じさせる。
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二口目。
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うまい。
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はっきり、うまい。
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味噌も醤油もない。
昆布も酒もない。
だが、足りないとは思わなかった。
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この山で、この春に、この炉の前で食べるには、これが正しい味だった。
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「うま……」
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シンは目を閉じた。
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「これ、うまいな」
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トンが汁を飲み、顔をしかめた。
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「苦い」
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チンが貝の身を噛んだ。
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「貝、うまい」
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カンが山菜を噛んだ。
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「春、強い」
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シンは笑った。
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ナギは貝殻を器用に外しながら食べている。
小さな身を逃さない。
殻の内側に残った汁まで舐める。
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「ナギ、食べ方うまいな」
「貝は最後まで食べないと怒る」
「貝が?」
「俺が」
「お前かよ」
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アサメは静かに食べていた。
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表情は大きく変わらない。
だが、匙の動きが止まらない。
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アサメも、この味を気に入っているのだと分かった。
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モモは、まだ椀を持っていた。
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ゆっくり、もう一度汁を飲む。
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そして、山菜をまた一つ食べる。
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今度は、すぐには「苦い」と言わなかった。
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噛む。
止まる。
飲み込む。
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「……苦い」
「二回目でも苦いか」
「……苦い」
「でも食べたな」
「……確認継続」
「そっか」
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確認継続。
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それが、モモなりの「もう一口」なのかもしれなかった。
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シンはそれを見て、胸が少し熱くなった。
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炉のせいだけではない。
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食事が終わる頃、集落は妙な空気になっていた。
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誰も、モモに慣れたわけではない。
怖くないわけでもない。
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ナギはまだ距離を取っている。
子供たちも、近づきすぎない。
アサメはずっと見ている。
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だが、モモが椀を持っている。
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それだけで、世界が少しずれていた。
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鬼討ちと呼ばれた白い女が、炉のそばで、春の貝汁を持っている。
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その光景は、怖い。
でも、少しおかしい。
そして、なぜか少し優しかった。
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トンが小声で言った。
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「モモ、汁持ってる」
「静かに」
シンが言った。
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チンが言った。
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「飲んだ」
「見た」
カンが言った。
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「春に負けた」
「お前ら、全員春に負けてるからな」
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その時だった。
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「体に良さそうな苦さだ」
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低い声がした。
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タダだった。
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全員が振り返る。
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タダが山の方から戻ってきていた。
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大きな鹿を担いでいた。
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(でっっっっっっっか)
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シンは心の中で叫んだ。
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鹿も大きい。
タダも大きい。
全部大きい。
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タダは鹿を下ろした。
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地面が少し揺れた。
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気がした。
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実際に揺れたかもしれない。
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「良い肉だ」
タダが言った。
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「いやそれ以前にデカい!!」
「春の鹿だ」
「春の鹿ってそんな強そうなの!?」
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ナギが笑った。
トンたちは目を輝かせた。
チンはもう肉の場所を見ている。
カンは鹿を見て、静かに言った。
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「これは、勝てない」
「何と比べてるんだ」
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アサメも少し笑った。
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タダはモモを見た。
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モモは椀を持ったまま止まっていた。
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タダの視線が、椀へ行く。
モモの顔へ行く。
もう一度、椀へ行く。
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「飲んだか」
「飲んだ」
シンが答えた。
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タダは少し頷いた。
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「そうか」
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それだけだった。
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驚かない。
騒がない。
怖がらない。
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タダは、ただ受け取った。
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モモが飲んだ。
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そうか。
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それで十分だった。
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モモはまだ消えなかった。
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椀を持ったまま、タダの鹿を見ている。
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シンはその横顔を見た。
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椀の中には、まだ少し汁が残っている。
山菜も、貝も、少し残っている。
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モモはそれを捨てない。
手放さない。
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ただ持っている。
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白い鬼討ちが、春の汁を持っている。
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それは、とても小さな変化だった。
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でも、シンには分かった。
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今日は、消えなかった。
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モモは、まだそこにいた。
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炉の火のそばに。
春の匂いの中に。
苦味を知ったまま。
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(第四十五話へ)




