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春泥

第四十三話 春泥



 翌朝、目が覚めると、水音がした。



 ぽた。


 ぽた。


 ぽた。



 屋根から落ちる雫の音だった。



 一定のリズムで、続いている。


 時々、少し大きな音が混じる。



 どこかで、まとまった雪が屋根から滑り落ちたのだろう。


 どさ、と鈍い音がして、その後に細かな水滴がばらばらと続いた。



(雪解けの音だ)



 シンは起き上がった。



 頭は少し重い。


 腕もまだ重い。


 昨日の山歩きと、その前の薪運びのせいだ。



 それでも、起きた瞬間から空気が違うのは分かった。



 冷たい。



 でも、硬くない。



 冬の冷たさではない。


 鋭く刺してくるような冷たさではなく、濡れた布が肌に触れるような、やわらかい冷たさだった。



 外へ出た。



 空が高かった。



 昨日より、確かに高い。


 雲は薄く、端が白くほどけている。


 山の稜線にはまだ雪が残っているが、その下の斜面には黒い土が見え始めていた。



 白。


 黒。


 茶。


 濡れた灰色。



 そして、ほんのわずかな緑。



 枯れ葉の間から、小さな芽が出ている。


 雪の下でずっと待っていたものが、ようやく息を吸い始めたようだった。



 木の枝からは、水滴が落ちる。


 軒の下には、昨夜まで凍っていた細い氷が、もう半分透けた水になっていた。


 踏みしめる雪も、音が違う。



 きし、ではない。



 ぐしゅ。



 足が沈む。


 雪の下で、土が濡れている。



(春泥だ)



 その言葉が浮かんだ。



 春の泥。



 きれいではない。


 歩きやすくもない。


 むしろ最悪だ。


 足にまとわりつく。


 滑る。


 服を汚す。


 水が跳ねる。



 でも、これも春なのだ。



 花が咲いて、鳥が歌って、柔らかな風が吹く。


 そういう綺麗な春だけではない。



 溶ける。


 濡れる。


 腐った葉が匂う。


 土が黒くなる。


 足元が悪くなる。



 その全部が、春だった。



 炉のそばに、アサメが立っていた。



 いつも通り、紅い衣。


 だが、今日は炉ではなく山を見ている。


 火を見る目ではない。


 もっと遠く、山全体を読む目だった。



「アサメ」


「見てみろ」



 シンはアサメの隣に立った。



 山の下の方だけ、色が変わっている。


 雪が薄くなり、斜面の筋が見え始めていた。


 黒い沢筋。


 茶色い尾根。


 わずかに緑を含む、湿った谷。



「雪が解けてきてる」


「そうだ」


「山の上はまだ白いな」


「下から順番に解ける」


「それを見てたのか」


「毎年見る」



 アサメは答えながら、炉の方へ少しだけ視線を戻した。


 炎の先を見る。


 煙の流れを見る。


 薪の弾け方を見る。



 いつもの、読む目。



「炉は何か言ってる?」


「空気が動き始めた」


「春の空気か」


「そうだ。今日から、山が変わる」


「どんな風に」



 アサメは少しだけ黙った。



「雪の下にあったものが出る。水が増える。獣が動く。草が出る。山菜が出る。泥が深くなる」


「良いことばかりじゃないな」


「良いことも、悪いこともない。ただ変わる」



 アサメは山を見たまま言った。



「ヤマトも動きやすくなる」



 シンは黙った。



 その言葉は、もう何度も聞いた。


 イヌも言った。


 ナギも言った。


 オキも、言葉を変えて言っていた。



 雪が消えれば、道が開く。


 川が落ち着けば、舟が上る。


 泥が乾けば、人が歩く。



 春は、命が動く季節だ。



 同時に、軍が動く季節でもある。



「怖いか」


 アサメが聞いた。



「またそれ聞くのか」


「聞く」


「怖いよ」


「そうか」


「アサメは?」


「怖い」



 即答だった。



 いつも通り、ぶれない。



「でも動く」


「そうだ」


「怖くても?」


「怖くても」



 アサメは炉へ向き直った。



「怖いから、見る。怖いから、覚える。怖いから、動けるうちに動く」



 昨日、山の奥で子供たちに言ったことと同じだった。



 怖くても足を置け。


 怖くても見ろ。


 怖くても覚えろ。



 春泥の中で、その言葉がもう一度沈んでいく。



「今日も山に行くのか」


 シンは聞いた。



「行く」


「俺も?」


「お前は、後で来い」


「後で?」


「先に働け」



 アサメはそう言って、炉の横に置かれた薪を指した。



 シンはその量を見た。



「多くない?」


「春は薪が濡れる。乾いた薪を分けておく」


「なるほど、実務」


「実務?」


「いや、暮らしの知恵というか」


「暮らしだ」



 アサメは短く言った。



 それから少しだけ、シンの方を見る。



「昼過ぎに、川へ行く」


「川?」


「水浴び」



 シンは固まった。



 アサメの顔は平然としている。



 あまりにも平然としている。



「この気温で?」


「春だぞ」


「その基準、やっぱりおかしいだろ」


「冬より温かい」


「冬より、という比較なら何でも許されると思うなよ」



 アサメは少しだけ口元を動かした。



 笑ったような気がした。



「覗くなよ」



 シンは肉も食べていないのに、むせそうになった。



「覗かねぇよ!」


「この前、転がってきた」


「あれはトリビックリクンのせいだ!」


「シンは何も悪くないのか」


「はぃ……ぃえ」



 逃げ場はなかった。



 アサメは何もなかったように炉へ向かった。


 シンはしばらくその場に立っていた。



(今日、水浴び行くのか)


(いや、だから何だ)


(関係ない)


(関係ないけど)



 春泥より、頭の中が泥になりそうだった。




 午前中、シンは薪を運んだ。



 乾いた薪。


 半乾きの薪。


 まだ湿っている薪。


 炉に入れるもの。


 住居の火に使うもの。


 煙を出したい時に使うもの。


 煙を出したくない時に使うもの。



 ただの木ではない。



 木にも役割がある。



 この集落で働くようになってから、シンはそのことを少しずつ知った。



 タダは薪の山を見て、無言で分ける。


 シンはそれを真似する。



「これは乾いてる」


「違う」


「違うのか」


「外だけ乾いてる。中は湿ってる」


「分かるのか」


「重い」



 タダは一本渡した。



 シンは受け取った。



 確かに少し重い。



 でも、それが水の重さなのか、木の重さなのか、まだよく分からない。



「これは?」


「乾いてる」


「なぜ」


「軽い。音が高い」



 タダは木を軽く叩いた。



 こん。



 乾いた音がした。



 シンも別の木を叩く。



 こつ。



 鈍い。



「違う」


「違うな」


「木にも声があるのか」


「ある」



 タダは当然のように言った。



 山には山の声。


 炉には炉の声。


 木には木の声。


 火には火の周り。



 この集落の者たちは、何でも聞く。



 シンはまだ、ほとんど聞き取れない。



 だが、少しだけ分かるようになってきた気がした。



 トン、チン、カンも途中で来た。



 手伝うと言いながら、半分は遊んでいる。


 トンは薪を多く持ちすぎて落とす。


 チンは乾いた薪だけをうまく選んで自分の手柄にする。


 カンは濡れた薪を嗅いで「これは嫌な火」と言った。



 タダが頷いた。



「嫌な火になる」


「分かるのかよ」



 カンは胸を張った。



「勘」



 シンはもう驚かなくなってきた。



 昼前には、手が泥だらけになっていた。



 薪に付いた土。


 溶けた雪。


 踏み荒らした春泥。



 足元はぐちゃぐちゃだ。



 トンが滑って転んだ。


 チンが笑った。


 カンも滑った。


 シンも笑った。


 次の瞬間、自分も滑った。



 全員、泥になった。



「ガキ大将、泥」


「お前らも泥」


「泥大将」


「やめろ。役職が汚い」



 子供たちは笑った。



 タダは無言で見ていた。



「洗え」



 それだけ言った。



 そして、アサメが戻ってきた。



 桶を持っていた。


 布も持っていた。



 シンは一瞬で硬直した。



 アサメがシンを見た。



「泥だな」


「春泥です」


「洗え」


「どこで」


「川」



 シンの脳内で、危険信号が鳴った。



「いや、俺は集落の水で……」


「川の方が早い」


「でも」


「怖いか」



 その言い方。



 シンは眉を寄せた。



「その怖いは、さっきの怖いと違うだろ」


「違うな」


「認めるんだな」



 アサメは少しだけ笑った。



「ついてこい。逃げるな」



 トンたちが目を輝かせた。



「俺たちも!」


「駄目」


 アサメとシンが同時に言った。



 今度は、二人の声がぴったり重なった。



 トンが不満そうにした。



「なんで」


「お前らは泥だけ落とせ。下の沢で。タダと行け」



 タダが頷いた。



 トンたちの顔から血の気が引いた。



「タダと?」


「静かに洗え」


 タダが言った。



 三人はおとなしくなった。



 シンは少しだけ勝った気分になった。



 だが、すぐに自分の状況を思い出した。



 アサメと川へ行く。



 泥を落とすため。



 そう。


 泥を落とすためだ。



 水浴びを見るためではない。



 違う。


 断じて違う。



(この言い訳、前もしたな)



 シンは自分に呆れながら、アサメの後を追った。




 川辺には、春の匂いがあった。



 雪解け水が増えている。


 昨日までより、水音が大きい。



 流れは速い。


 岩に当たり、白く泡立ち、細い霧のような冷気を川面から立ちのぼらせていた。



 水辺の土は柔らかい。


 足を置くと沈む。


 葦の枯れた茎が折れて、湿った匂いが立つ。



 木の根元では、雪が丸く溶けている。


 そこから黒い土が出ていた。



 春は、きれいなだけではない。


 冷たく、濡れて、ぬかるんで、少し腐った匂いがする。



 でも、その奥に、確かに新しい匂いがあった。



 アサメは川辺に桶を置いた。



「そこに立て」


「はい」



 シンは岩の上に立った。



「泥を落とせ」


「はい」



 手を川に入れた。



 冷たかった。



「ひゃっけぇっ」



 思わず声が出た。



 アサメが見た。



「弱い」


「これは弱さじゃなくて正常な反応だ」


「春だぞ」


「その言葉で全てを押し切るな」



 アサメは布を解き始めた。



 シンは即座に反対を向いた。



 早かった。


 自分でも驚くほど早かった。



「まだ何もしていない」


「予防です」


「見たいか」



 シンは固まった。



 川の音が、急に大きくなった気がした。



「……はい?」


「見たいか、と聞いた」



 後ろから、アサメの声。



 いつもと同じように平らだ。


 だが、ほんの少しだけ、何かが混じっている。



 からかい。



 いや、挑発。



 いや。



 もっと面倒な何か。



「いや、そういう問題じゃなくて」


「昨日は覗こうとした」


「止めに行ったんだよ!」


「一緒に転がった」


「それは事実だけど、意図は違う!」


「なら、今日は見てもいい」



 シンの頭が止まった。



 見てもいい。



 その言葉が、川の冷気より鋭く入ってきた。



「いや、あの、許可制にされると逆に困るというか」


「困るのか」


「困る」


「なぜ」


「なぜって……」



 答えられない。



 見たいか見たくないかで言えば、見たい。



 それは嘘ではない。


 シンは聖人ではない。


 前の時代も含めて、いろいろなものを見て、いろいろな欲を持っている。



 だが、見たいから見る、で済むほど単純でもない。



 アサメは、強い。


 山を歩く。


 火を読む。


 人を射る。


 ヤマトを恐れながら、恐れに食われない。



 そのアサメの身体を、ただ目の欲で見るのは違う気がした。



 でも、アサメ本人が見てもいいと言うなら。



 いや、違う。


 いや、違わない。



(やめろ脳内会議!)



 童貞には難易度の高すぎる問題だった。


 シンは川の水で手を洗いながら、必死に前を見ていた。



 背後で、水音がした。



 布が岩に置かれる音。


 足が水に入る音。


 息を吐く音。



 ばしゃ。



 水が跳ねる。



「冷たくないのか」


「冷たい」


「平然としてるな」


「冷たいだけだ」


「その精神構造が強い」



 アサメは水を浴びている。



 シンは見ないようにしていた。



 だが、見ないようにすると、逆に全部が気になる。



 水音。


 髪を絞る音。


 肌に水が流れる音。


 息遣い。


 川の音。


 布が濡れる音。



 視覚を閉じると、他が強くなる。



(これはこれで拷問では?)



「シン」


「はい!」


「まだ見ないのか」



 声が近かった。



 シンは変な声を出しそうになった。



「見るなって言われたら見ない。見てもいいって言われても見ない。俺は、どういう扱いなんだ」


「面倒な男だな」


「自分でもそう思う」



 アサメは小さく笑った。



 その笑いが、いつもより柔らかかった。



「少しだけ見ろ」



 シンは固まった。



「何の試練?」


「私が言っている」


「そういう問題じゃ……」


「怖いか」



 また、その言葉。



 シンは深く息を吸った。



 そして、ゆっくり振り返った。



 ほんの少しだけ。



 視界に入ったのは、アサメの背中だった。



 川の浅瀬に立つ、紅のないアサメ。



 濡れた黒髪が背中に貼りつき、その下に肩甲骨の線が見えた。


 広い肩。


 しなやかな背。


 水を受ける筋肉の起伏。



 それでも間違いなく、女の身体だった。


 だが、ただ柔らかいだけの身体ではない。



 弓を引く背中。


 山を登る脚。


 獣の気配に反応する腰。


 炉の火の前に立ち続ける体幹。



 生きるために鍛えられた身体だった。



 白くはない。


 弱くもない。


 雪のように儚いものでもない。



 陽に焼け、火に照らされ、山の風に晒された肌。


 水に濡れると、その肌の下にある力がはっきり見えた。



 腕には、赤い文様。


 水を受けて、その赤が濃く見える。


 皮膚の上に描かれたものというより、血の下から浮かび上がっているようだった。



 アサメが片腕を上げ、髪を絞る。



 肩の線が動いた。


 背中の筋が滑る。


 脇腹のあたりが、水と一緒にしなった。



 美しい、と思った。



 それは、飾られた美しさではない。


 守られるための美しさでもない。



 山で生きるものの美しさ。


 獣を追い、火を読み、弓を引き、泥を踏み、寒い水を浴びても呼吸を乱さない身体の美しさだった。



 シンは、息をするのを忘れた。



 アサメが振り返らずに言った。



「見たか」


「……見た」


「どうだ」



 どうだ。



 聞くのか。



 シンは喉を鳴らした。



「きれいだと思った」



 言ってから、顔が熱くなった。



 言葉にしてしまった。



 アサメは少し黙った。



 川の音が続く。


 水滴が落ちる。


 春の匂いがする。



「そうか」



 それだけだった。



 怒らない。


 笑わない。


 否定しない。



 ただ受け取った。



 それが、逆にシンをさらに困らせた。



「シン」


「はい」


「今の顔は、昨日より怪しい」


「あやしぐねぇ、とは言い切れない」



 アサメが笑った。



 はっきり笑った。



 その瞬間。



 甘い匂いがした。



 シンの背筋が凍った。



 川の水より冷たいものが、背中を走る。



(うわ)



 最悪のタイミング。



 いや、最高に最悪なタイミング。



 桃の匂い。



 モモだ。



 シンはゆっくり顔を上げた。



 川辺の木の間。


 白い姿が立っていた。



 モモ。



 黒い髪。


 桃色の飾り。


 白い衣。



 刀は抜いていない。



 だが、いつもより近い。



 木陰に隠れるのではなく、川辺の開けた場所に立っている。


 水音の届く距離。


 アサメの姿が見える距離。


 シンの顔が見える距離。



 モモは、シンを見た。


 次に、アサメを見た。


 それから、またシンを見た。



「……確認」


「俺です」


「……認識済み」


「だよな」



 シンの声は情けなかった。



 アサメは振り返り、モモを見た。



 水に濡れたまま。


 髪から水を落としながら。


 布を取るでもなく、隠すでもなく。



 ただ、そこに立つ。



 山の女として。


 水を浴びる身体のまま。


 何も恥じていないように。



 モモの目が、わずかに動いた。



「……対象アサメ」


「桃色」



 アサメはいつも通り呼んだ。



「……水中行動」


「水浴びだ」


「……摂食同様、生存維持行動」


「そうだな」


「……対象シン、顔面温度上昇」


「そこ確認しなくていい!」



 モモはシンを見た。



「……異常反応」


「異常じゃない。いや、異常かもしれないけど、こういうものなんだよ」


「……こういうもの」


「人間的な、あれだよ」


「……定義不能」


「俺も上手く定義できない」



 アサメが少し笑った。



「シンは、アタシの裸を見た」



「アサメ!?」



 モモの視線が、シンへ戻った。



「……対象シン、対象アサメの裸体を観察」


「言い方が嫌すぎる!」


「……敵性確認か」


「違う!」



 アサメは水を払いながら言った。



「見たいか、と聞いた。見た」


「情報が正確すぎて逃げ場がない!」



 モモは沈黙した。



 長い沈黙だった。



 川の水音が、その間を埋める。



 モモはアサメを見ている。



 濡れた髪。


 水を弾く肩。


 赤い文様。


 生きた筋肉の動き。



 シンは、その視線の意味が分からなかった。



 敵を見る目か。


 女を見る目か。


 対象を解析する目か。


 自分にないものを見る目か。



 モモは、わずかに首を傾けた。



「……対象アサメ、身体機能、高」


「高いぞ」


 シンは思わず言った。



 アサメがシンを見た。



「お前が言うな」


「すみません」



 モモは続けた。



「……戦闘能力、高」


「そうだな」


 アサメが答えた。



「……対象シン、防衛能力、低」


「そこは今関係ないだろ!」



 モモは無表情だった。



 だが、どこか混乱しているように見えた。



 シンはその変化に気づいた。



 以前のモモなら、即座に「鬼」「討つ」だった。


 今は違う。



 水浴び。


 身体。


 視線。


 恥。


 からかい。


 人間の距離。



 そういう、戦闘にも任務にも関係のないものに、処理が引っかかっている。



「モモ」



 シンは呼んだ。



 モモはシンを見た。



「……確認」


「桃色は、水浴びしないのか」



 アサメが言った。



 シンは目を丸くした。



「アサメ!?」


「聞いただけだ」



 モモはアサメを見た。



「……不要」


「なぜ」


「……汚染、該当なし。体温維持、該当なし。摂食同様、生存維持不要」


「水は、生きるためだけに浴びるものではない」



 アサメは川の水をすくった。



 手から水が落ちる。



「冬の匂いを落とす。血の匂いを落とす。山の埃を落とす。火の煙を落とす。身体を、今の季節に戻す」



 モモは黙った。



「……季節に戻す」


「そうだ」



 アサメは言った。



「春の水だ」



 モモの視線が、川へ落ちた。



 水を見ている。


 流れを見ている。


 白い泡を見ている。



 シンはその横顔を見た。



 寂しそう。



 ナギの言葉を思い出した。



 今のモモは、寂しそうなのだろうか。


 分からない。



 だが、何かを見ている。



 ただの情報としてではなく。



 何かを、受け取ろうとしているように。



 アサメは岸へ上がった。



 布を取り、体に巻く。


 濡れた髪を絞る。



 その動作に無駄がない。



 モモはそれを見ていた。



 シンも見ていた。



 途中でアサメが振り向いた。



「見すぎだ」


「すみません」



 今度は素直に謝った。



 アサメは少し笑った。



 モモが言った。



「……謝罪発生」


「発生とか言うな」


「……対象シン、対象アサメへの視線量過多」


「ログ取るな!」



 アサメは桶を持った。



「戻るぞ」



 そう言って歩き始めた。



 シンも慌ててついていく。



 モモは少し遅れて歩き出した。



 三人で川から戻る。



 意味が分からない。



 女戦士。


 保留中の鬼討ち。


 保育士兼ガキ大将。



 そして、春泥。



 足元はぐちゃぐちゃだ。


 歩くたびに泥が跳ねる。


 アサメの足取りは変わらない。


 モモの足元は、泥を踏んでいるのに汚れが少ないように見える。



(なんかずるいな)



 シンだけが普通に泥を跳ね上げていた。



「シン」


 アサメが言った。



「はい」


「怪しい顔をするな」


「今日は、もう怪しい顔しかできない」



 アサメは笑った。



 モモは沈黙したまま、二人を見ていた。




 集落へ戻ると、トン、チン、カンが下の沢で泥を落としていた。



 タダが見張っている。



 見張り、というより岩だった。



 三人は普段よりおとなしい。


 タダの前では、さすがに無茶をしない。



 ただ、シンたちが戻ってくると、トンがすぐに叫んだ。



「シン、見た?」


「何を?」


「アサメ」



 シンは固まった。



 チンが言った。



「顔赤い」



 カンが言った。



「見た」



「勘で断定するな!」



 アサメは何も言わない。



 何も言わないまま、炉のそばに座った。


 髪の先が少し濡れている。


 水滴が、首筋から布の下へ消える。



 春の光が、その濡れた髪に当たる。



 炉の熱で、薄い湯気が上がっていた。



 シンは見ないようにした。



 だが、見ないようにしたせいで、逆に視界の端に入る。



「シン」


「はい」


「怪しい目をするな」


「あやしぐねぇ!」



 反射で言った。



 アサメが笑った。



 トンたちも笑った。



 モモは、炉の見える位置に立っていた。



 今日は近い。


 かなり近い。



 集落の外れではなく、炉の光が届く場所にいる。


 火が、モモの瞳に映っている。



 タダが戻ってきた。



 手に、緑色のものを持っていた。



 山菜だ。



「採れた」


「もう採れたのか。早いな」


「南向きの斜面に出てた」


「うまい?」


「苦い」


「あ、例の体に良さそうな苦さか」


「そうだ」



 タダはモモを見た。



 少しだけ、目が動いた。



「また来てるな」


「そうみたい」


「害があるか」


「今日は、来てない」


「そうか」



 タダはそれ以上、何も言わなかった。



 モモも何も言わない。



 ただ、炉と山菜を見ている。



 緑。



 それは、これまでの冬の食べ物とは違った。



 肉。


 干し魚。


 根。


 燻したもの。


 塩。



 そこへ、春の緑が来た。



 小さい。


 苦い。


 弱そう。



 でも、確かに季節を変えるものだった。




 夕方。



 タダが山菜を炉で炙った。



 苦い匂いが広がった。



 青い匂い。


 土の匂い。


 雪の下にいたものが、火にあぶられて出す匂い。



 春の匂いだった。



 シンは一口食べた。



 苦い。



 かなり苦い。



 だが、うまかった。



 冬の肉と燻製とは違う。


 体が、違うものを求めていたらしい。



(春って、こういう味がするのか)



 トンは顔をしかめた。



「苦い」


 チンは渋い顔をした。



「肉がいい」


 カンは少し考えてから言った。



「でも、食える」



 タダが頷いた。



「食え」



 結局、それだった。



 食えるものは食う。


 苦くても食う。


 春の体には、春の苦さが必要なのかもしれない。



 シンは山菜をもう一口食べた。



 やはり苦かった。



 でも、二口目は少しだけうまかった。



 モモは、炉から少し離れた場所に立っていた。



 今夜はずっとそこにいる。



 集落の外れではない。


 完全に中でもない。



 その境目のような場所にいる。



 シンは山菜を食べながら、モモの方を見た。



 モモも、少しこちらを見た。



 視線が合う。



 すぐに、モモは炉の方へ戻した。



「山菜も確認してるな」



 小さく言ったつもりだった。



 だが、モモには聞こえたらしい。



「……確認」


「苦いぞ」


「……摂食、不要」


「今日もそれか」


「……生存維持、不要」


「生きるためだけに食うんじゃないって、前も言っただろ」



 モモは黙った。



 アサメが炉を見ながら口を開いた。



「春の苦さだ」



 モモの視線が、アサメへ動いた。



「……春の苦さ」


「冬の体を起こす」


「……体を、起こす」



 モモは反復した。



 さっきの川と同じだ。



 季節に戻す。


 体を起こす。



 モモにとって、生存に不要なもの。



 だが、人間にとっては、暮らしの中で必要なもの。



 水。


 苦味。


 匂い。


 視線。


 恥。


 笑い。


 泥。



 それらを、モモはひとつずつ確認している。



 処理している。


 あるいは、処理しきれずに止まっている。



 シンは山菜を少しだけ持ち上げた。



「食う?」



 モモは見た。



 緑の小さな葉。


 火に炙られ、少ししんなりした春。



「……不要」


「はいはい」



 シンは自分で食べた。



 苦かった。



 思わず顔が歪む。



 トンたちが笑う。



「シン、山菜に負けた」


「今日は負けじゃない。苦いだけだ」


「負け」


「苦味に負け」


「春に負け」



「春に負けるのは、ちょっと詩的だな」



 シンは苦笑した。



 その時、アサメが言った。



「シン」


「なんだ」


「春になると、タダが良い肉を取ってくる」



 シンは反射的にタダを見た。



「そうなのか」


「雪解けと同時に、獣が動き始める」


「じゃあ、そろそろか」


「そうだ」



 タダは静かに頷いた。



 もう考えていたらしい。



(タダって、いつの間にか準備してるんだよな)



 炉の火が、少し大きくなった。



 春の空気が、炎に何かを届けているみたいだった。


 アサメがそれを見て、小さく頷く。



 モモはまだいた。



 今夜は、長かった。



 いつもより、長く留まっていた。



 炉の火。


 山菜の苦味。


 アサメの濡れた髪。


 子供たちの笑い。


 タダの肉の予感。


 春泥の匂い。



 全部を見ているようだった。



 シンは、その白い横顔を見た。



 怖いほど整っている。


 冷たいほど美しい。



 でも、そこに何かが重なり始めている。



 寂しそう。


 感じている目。


 理解不能。


 保留中。



 どれも正しくて、どれも足りない。



 シンは山菜を飲み込んだ。



 苦味が、舌の奥に残る。



 春の味だった。



 そして、桃の匂いが、夜の中に漂っていた。



(第四十四話へ)

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