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家の山

第四十二話 家の山



 翌朝、アサメが言った。



「山道を見せる。来い」



 シンは、火のそばで朝の肉を噛んでいた。



 正確には、噛もうとしていた。


 まだ少し眠い。


 腕も昨日の薪運びで痛い。


 口に入れた肉を、どうにか噛みながら顔を上げる。



「今から?」


「今から」


「準備とか……」


「足がある。それだけで十分だ」



 アサメはいつも通りだった。



 短い。


 説明が少ない。


 こちらの心の準備を待たない。



 シンはタダに目で聞いた。



 タダは肉を焼きながら頷いた。



 行くと良い、ということらしい。



「いや、タダも止めないんだな」


「山は覚えろ」


「タダも短いな」


「山は逃げない。だが、迷う」


「なるほど。分かったような、分からないような」



 その時、背後で声がした。



「俺も行く」


「俺も」


「俺も」



 トン、チン、カンだった。



 三人は、すでに行く気満々の顔をしている。


 トンは木の枝を持ち、チンは小さな袋を腰に下げ、カンはなぜか石を二つ握っていた。



「お前らも来るの?」


「行く」


「山の奥」


「アサメが言った」



 シンはアサメを見た。



「そうなのか」


「そろそろ教える時期だ」


「何を」


「山の奥。逃げ道。水場。戻る目印。死なない場所」



 言い方が重い。



 トンたちは気にしていない。



「死なない場所!」


「強そう」


「水もある」



「お前ら、軽いな」



 シンは呆れた。



 だが、アサメは真面目だった。



「子供も、山を知らなければ死ぬ」



 その声で、三人の顔が少しだけ引き締まった。



 やはり彼らも、この山の子供なのだ。


 ふざけている。


 走る。


 嘘をつく。


 アサメの水浴びを覗こうとする。



 でも、死というものが何なのかを、完全には遠くに置いていない。



 この時代の子供は、死と同じ地面を走っている。



 シンはそのことを、改めて思った。



「シンも覚えろ」


 アサメが言った。



「俺はついでか」


「そうだ」


「否定してくれてもいいんだぞ」


「ついでだが、必要だ」



 アサメはシンを見た。



「お前は、山で迷う」


「自信満々に言うな」


「すぐ迷う」


「否定できないのがつらい」



 トンが言った。



「ガキ大将、迷う」


「ガキ大将、草食う」


 チンが言った。



「ガキ大将、鳥に負ける」


 カンが言った。



「お前ら、山に出る前から俺の士気を削るな」



 三人は笑った。



 タダが肉を一切れ、シンの手に乗せた。



「食ってから行け」


「ありがとう」


「腹が鳴ると、獣に笑われる」


「獣にまで笑われるのは嫌だな」



 シンは肉を食べた。



 うまかった。


 朝からうまかった。



 働く前に肉。


 山に入る前に肉。


 罰の後にも肉。



 この集落は、だいたい肉で何とかしようとする。


 そして、だいたい何とかなっている気がする。




 集落を出て、山の中に入った。



 最初は、普通の道だった。



 踏み固められた土の道。


 人が何度も通り、足で作った道。


 ところどころに雪が残り、雪解けの水が細く流れている。



 トンが先に行こうとする。



「先へ行くな」


 アサメが言った。



 トンは止まった。



「なんで」


「先に罠があれば、お前が落ちる」


「罠あるの?」


「あると思って歩け」



 トンは少し真面目な顔になった。



 チンが木の枝を拾おうとした。



「拾うな」


 アサメが言った。



「なんで」


「目印かもしれない」


「ただの枝かも」


「ただの枝と目印の違いを知らない者は触るな」



 チンは手を引っ込めた。



 カンは足元を見ていた。



「ここ、沈む」



 アサメが少しだけ目を向けた。



「そうだ。よく見た」



 カンは小さく胸を張った。



 シンは少し感心した。



 カンは危ないところへ行く。


 だが、危ないところを見つけるのも早い。



 名前通り、勘がいい。



 道はすぐに、道ではなくなった。



 岩。


 木の根。


 雪解け水が流れている細い溝。


 落ち葉の下のぬかるみ。


 古い倒木。


 獣の足跡。



 シンには、どこを歩けばいいのか分からない。



 アサメは止まらない。



 速くもない。


 でも、迷わない。



 岩と岩の間をすり抜ける。


 根を踏まずに避ける。


 水の流れをまたぐ。


 斜面の硬いところだけを選ぶ。



 考えていないみたいに、自然に動く。



(すごいな)



 シンはついていくだけで精一杯だった。



 トンたちは、シンよりはずっと身軽だ。



 だが、アサメほどではない。



 トンは勢いで進んで滑る。


 チンは慎重だが、余計なものを見つけて寄り道する。


 カンは突然立ち止まる。



 そのたびに、シンは声をかける。



「トン、走るな」


「チン、それ触るな」


「カン、止まるなら言え。俺がぶつかる」



「ガキ大将、うるさい」


 トンが言った。



「うるさいのが仕事なんだよ」



 シンは息を切らしながら返した。



 後ろから聞くと、アサメが少しだけ笑ったような気がした。



 たぶん気のせいだ。



 少し登ったところで、アサメが止まった。



 振り返る。



「ここを覚えろ」


「何が?」


「あの岩だ」



 大きな岩があった。



 形が変わっている。


 上の部分が鳥の嘴みたいに突き出ている。



 シンはそれを見て、すぐ分かった。



「前にも見た。鳥の嘴みたいな岩」


「見れば、ここだと分かる」


「目印か」


「道に迷ったら、高い場所へ行け。あの岩が見えれば、ここへ戻れる」



 トンが岩を見上げた。



「トン岩」


「違う」


 アサメが即答した。



 チンが言った。



「鳥の口」


「鳥の嘴」


 シンが訂正した。



 カンが言った。



「くちばし岩」



 アサメは少し考えた。



「それでいい」


「いいんだ」



 シンは少し笑った。



 くちばし岩。



 子供が覚えるには、その方がいいのかもしれない。



「なぜここが重要なんだ」


 シンが聞いた。



「分岐点だ」



 アサメは二つの方向を指した。



「南西は下り。川へ出る」


「オキの方か」


「続けばな。途中でいくつか道が分かれる」


「北東は?」


「山の奥。知っている者しか進めない」


「その先に何がある」



 アサメは少しだけ黙った。



「避難できる場所がある」



 トンたちが静かになった。



 さっきまでの軽さが消える。



 シンも少し間を置いた。



「最悪の時用か」


「そうだ」


「いつから準備していたんだ」


「ずっと前から」


「ヤマトが来る前から?」


「ヤマトが来る、と気づいた時から」



 アサメはくちばし岩を見た。



「山は、一日で覚えられない。逃げる時に初めて道を探す者は、逃げられない」



 その言葉は、子供たちへ向けたものでもあった。



 トンは黙って岩を見ている。


 チンは足元の小石を見ている。


 カンはアサメを見ている。



 シンは、イヌの言葉を思い出した。



 道を一つにするな。


 老人と子供を、川沿いだけに置くな。


 火は、消す火と残す火を分けろ。



 それは、今この山で、形になっている。



 アサメたちは、何もしていないわけではない。



 暮らしながら、備えている。



 シンは、その意味を少しずつ理解し始めていた。




 次の目印は、川沿いの大きな木だった。



 山の中をしばらく進むと、細い沢が現れた。


 その沢をたどった先に、一本だけ太い木が立っている。



 幹に古い傷があった。



 上から下へ、黒く裂けた跡。


 焼けたようにも見える。



「稲妻の木」


 アサメが言った。



「見れば分かるな」


「分かる。ここで川を渡る」


「渡れるのか?」


「今は浅い。雨の後は駄目だ」



 アサメは沢の石を指した。



「足は、白い石に置け。黒い石は滑る。苔のある石は踏むな」



 トンがすぐに黒い石を踏もうとした。



「踏むな」


 シンとアサメが同時に言った。



 トンが足を引っ込める。



「二人で言うな」


「二人に言われることをするな」


 シンは言った。



 チンは白い石を選んで渡った。



 カンは一度、沢を見てから言った。



「水、多い時は、あそこ?」



 カンが少し上流を指した。



 木の根が張り出していて、石が大きい場所だった。



 アサメが頷いた。



「そうだ。水が増えたら、上を渡る」


「下じゃないのか」


 シンが言った。



「下は流れが強い。見えない石が動く」


「なるほど」



 シンは沢を見た。



 水はきれいだ。


 冷たい。


 小さな魚もいる。



 でも、昨日の沢遊びとは違う。



 ここは、道だ。



 渡れるかどうかで、生きるか死ぬかが変わる場所だ。



「どこまで続くんだ」


「対岸に、別の集落がある」


「山の民か」


「そうだ」


「つながりがあるのか」


「鉄を分けてきた。信用がある」



 アサメの言葉は短い。



 だが、その短い言葉の中に、長い時間がある。



 鉄を分ける。


 それは、ただ物を渡すということではない。



 炉の火を分けること。


 山の力を分けること。


 困った時に助け合える関係を作ること。



 オキが言っていた。



 鉄は流れる。


 水のように。



 ここでは、その鉄が山と山をつないでいる。



 シンは、胸元にある赤い石に触れた。



 ミコの石。


 川から来た赤。



 川は流す。


 山は留める。


 炉は変える。



 そんな言葉が、頭の中にぼんやり浮かんだ。



「何を持っている」


 アサメが言った。



 シンは少し驚いた。



「これか」



 懐から布を出す。


 包みを開く。



 赤い石が出た。



 濡れていないので、川で見た時より少し暗い。


 だが、光に当たると、奥に赤が残っている。



「ミコにもらった」


「オキの所か」


「うん。山へ行くなら、赤が見える方がいいって」



 アサメは石を見た。



 少しだけ、目が柔らかくなった。



「良い赤だ」


「分かるのか」


「山の赤ではない。川の赤だ」


「そんなのも分かるのか」


「全部ではない。だが、少し分かる」



 トンが石を覗き込んだ。



「食える?」


「食えない」


 シンが言った。



 チンが言った。



「投げる?」


「投げない」



 カンが言った。



「持ってると、戻れる?」



 シンは少し黙った。



「たぶん」


「また、たぶん」


「大事なことは、だいたいたぶんなんだよ」



 カンは真剣に頷いた。



 アサメが言った。



「持っていろ」


「いいのか」


「川からもらったなら、山でなくすな」



 シンは石を包み直し、懐へ戻した。



 胸の近くに、小さな重みが戻る。



 忘れない者は重くなる。



 でも、この重さは嫌ではなかった。




 三つ目の目印は、細い滝だった。



 岩の隙間から水が流れている。


 音は小さい。


 近づかなければ気づかない。



 水は透明だった。



 雪の冷たさをまだ持っている。


 岩の奥から出てきたばかりのような水だった。



「この水は、飲める」


 アサメが言った。



「おぉ」


 シンは思わず声を出した。



「山の深いところから来ている。汚れていない」


「逃げる時に使えるってことか」


「水場を知っているか知らないかで、全然違う」



 トンがすぐ水を飲もうとした。



 アサメが肩を掴んだ。



「先に見ろ」


「きれい」


「足跡」



 トンは足元を見た。



 水場の周りに、獣の跡があった。



 鹿のような跡。


 小さな獣の跡。


 鳥の足跡。



「獣も飲む」


 アサメが言った。



「人だけの水ではない」



 チンが水面を見た。



「濁ってない」


「だから飲める」



 カンが鼻を近づけた。



「臭くない」


「それも見る」



 アサメは頷いた。



 シンは手で水をすくった。



 冷たい。



 かなり冷たい。



 でも、うまかった。



 川の水とは違う。


 沢の水とも違う。



 体の中に、細い冷たさが通っていく。



「うまい」


「うまい」


 トンが真似した。



「冷たい」


 チンが言った。



「歯が痛い」


 カンが言った。



「分かる」


 シンは頷いた。



 四人で水を飲んでいると、アサメが少し離れた場所に立った。



 山を見ている。



 シンは水を拭いながら聞いた。



「アサメはいつ、山に入り始めたんだ」


「子供の時から」


「ここで生まれたのか」


「そうだ」


「怖くなかったのか、山が」



 アサメはすぐには答えなかった。



 木々の間に風が通る。


 雪解けの水が、細い音を立てて落ちる。



「最初は怖かった」



 その答えは、少し意外だった。



「今は?」


「家だ」



 家。



 アサメがそう言った。



 その言葉が、山の中で不思議に響いた。



「山が家か」


「集落が家ではない。山が家だ。集落は、山の中に置いた囲いのようなものだ」


「壁のない家か」


「そうだ。壁はない。だが、山全体が守っている」



 シンは周りを見た。



 木。


 岩。


 水。


 根。


 苔。


 雪。


 鳥の声。


 獣の跡。



 壁はない。



 だが、確かに何かに囲まれている。



 知っている者には、道が見える。


 知らない者には、ただの山だ。



 同じ場所なのに、見えるものが違う。



「ヤマトが来ても、山なら逃げられるのか」


 シンは聞いた。



「逃げられる者もいる」


「全員じゃないのか」


「全員は難しい。老人。幼い者。怪我人。火を運ぶ者。鉄を隠す者。足の遅い者」



 アサメはシンを見た。



「お前も遅い」


「はい」



 素直に認めた。



 トンが笑った。



「シン、遅い」


「お前も昨日薪運び遅かっただろ」


「シンより速い」


「それはそう」



 チンが水を見ながら言った。



「じゃあ、どうするの」



 アサメは答えた。



「全員が同じ道を行かない」



 イヌの言葉と同じだった。



 道を一つにするな。



「強い者は、遠くへ行く。弱い者は、近い隠れ場へ行く。火は一つ残し、いくつか消す。鉄は分ける。子供は、知っている大人について行く」



 トン、チン、カンが真面目に聞いていた。



 シンも聞いた。



 これは、遊びではない。



 だが、遊びの延長でもある。



 魚の道を狭める。


 火が寝たで止まる。


 石、刃、葉で勝ち負けを覚える。


 山で足場を覚える。



 子供たちは、こうして少しずつ死なない方法を覚えていく。



「怖くないのか」


 シンは言った。



 誰に向けたのか、自分でも分からなかった。



 アサメか。


 子供たちか。


 自分か。



 アサメは答えた。



「怖い」



 短い答えだった。



「怖いから覚える。怖くない者は、先に死ぬ」



 トンが小さく言った。



「じゃあ、怖くていいのか」


「いい」



 アサメはトンを見た。



「怖くても足を置け。怖くても見ろ。怖くても覚えろ」



 その言葉で、ミコを思い出した。



 怖くても逃げないところは真似したい。



 ミコはそう言っていた。



 怖くても、逃げない。


 怖くても、覚える。



 それは似ている。



 山と川は、違う。


 でも、同じ水を持っている。




 さらに奥へ進んだ。



 アサメは、山の境界を教えた。



 ここから先は、子供だけで入るな。


 この木を越えたら、声を出すな。


 この斜面は、雪の下が空いている。


 この岩の裏は、風を避けられる。


 この倒木は、動かすな。目印になる。


 この赤い布は、戻る道。


 この白い石は、死んだ者を山へ返した場所。



 シンは、白い石の前で足を止めた。



 小さな石がいくつか積まれていた。


 祠ではない。


 形が整っているわけでもない。



 ただ、誰かの手で置かれた石だと分かる。



「墓か」


「違う」


 アサメが言った。



「山へ返した場所だ」



 シンは、オキの集落の骨流しを思い出した。



 川へ流した骨。


 木の皮の皿。


 小さな火。


 夕暮れの水。



 川は流す。



 山は、留める。



「ここにも、死んだ人がいるんだな」


「いる」


「怖い場所か」


「違う」



 アサメは石を見た。



「戻った場所だ」



 その言葉は、オキの「戻った」と似ていた。



 火が川の曲がり角へ消えた時、オキはそう言った。



 戻った。



 川も、山も、死をどこかへ返す。


 ただ、返し方が違う。



 シンは石の前で軽く頭を下げた。



 トンたちも真似をした。



 カンは一つだけ、落ちていた小さな葉を石のそばに置いた。



 アサメは何も言わなかった。



 それでいい、ということらしかった。




 帰り道、アサメがふと言った。



「シンは、どこかに帰りたい場所があるか」



 シンは少し息を止めた。



 前にも、似たことを考えた。



 帰る場所。



 この言葉は、最近やけに胸に引っかかる。



 オキの集落。


 ミコの赤い石。


 白い煙。


 川の音。



 炉の集落。


 タダの肉。


 子供たちの笑い声。


 アサメの赤。


 トリビックリクンの羽音。



 モモの白い姿。



 どれも、完全な帰る場所ではない。


 でも、どれももう、ただの通過点ではない。



「……今は、あそこが帰りたい場所だ」


 シンは言った。



「集落か」


「そう感じている」


「初めてか」


「初めてだと思う」



 アサメは少し間を置いた。



「ならば、覚えておけ」


「何を」


「帰れる場所がある、ということを」



 それだけ言って、先に歩いた。



 シンはその背中を見た。



 アサメは山を歩く。


 山の中を、迷わず進む。



 この人にとって、山は家だ。



 だから、山を守る。


 山に残す。


 山から逃がす。



 戦うことだけではない。



 帰れる場所を守ること。



 それが、アサメの戦いなのかもしれなかった。



 トンが横から言った。



「シン、帰る?」


「帰る」


「肉ある?」


「たぶん」


「じゃあ早く」



 チンが言った。



「魚も焼く?」


「二匹しかないけどな」



 カンが言った。



「ナギ、来てるかも」


「なんで分かるんだ」


「勘」



 シンは笑った。



「当たったら、すごいな」



 カンは真剣に頷いた。



「当たる」




 集落へ戻ると、本当にナギがいた。



 シンは思わずカンを見た。



 カンは胸を張った。



「勘」


「お前、ちょっと怖いな」



 ナギは集落の中央で、子供たちに囲まれていた。



 袋を背負い、鳥の羽根の外套を揺らしている。


 塩と魚と、海の匂いがした。



 トンが走った。



「ナギ!」


「お、トン!」



 チンも走る。



「何持ってきた」


「挨拶より早いねぇ」



 カンがナギの袋を見た。



「魚」


「当たり」



 ナギは笑って、小さな干し魚を三つ投げた。



 トンが口で受けようとして失敗した。


 チンは手で取った。


 カンは落ちる前に拾った。



「食べ物で遊ぶな」


 シンが言った。



 ナギが振り向いた。



「お、シン! なんか馴染んでるね」


「保育士になった」


「何それ」


「俺にもよく分からない」



 ナギは笑った。



「ガキ大将だよ」


 トンが言った。



「弱いけど」


 チンが言った。



「鳥に負ける」


 カンが言った。



「情報共有が早い」



 ナギは腹を抱えて笑った。



「いいじゃん。シン、ガキ大将似合うよ」


「褒められてる気がしない」


「大丈夫。俺も子供の頃、そういう兄ちゃん欲しかった」


「兄ちゃん扱いなら、まあ」


「弱いけど」


「ナギまで言うな」



 アサメが戻ってきた。



「ナギ」


「アサメ。山の奥、見せてた?」


「そうだ」


「そろそろだもんね」



 ナギは軽く言った。



 しかし、その声の奥には、少しだけ重さがあった。



「海が動き始めたから」


 ナギは袋を下ろした。



「春の荷が増えてる。塩、布、干し魚。あと、少しだけ変な貝。子供に見せると喜ぶ」


「貝!」


 トンが叫んだ。



「海の石?」


 カンが聞いた。



「生きてた石」


 ナギが言った。



「嘘つけ」


 シンが言った。



「半分ほんと」



 ナギは袋から小さな貝殻を出した。


 白く、薄く、内側に少しだけ光がある。



 子供たちが群がった。



「白い!」


「軽い!」


「割れる?」


「割るな」


 シンとナギが同時に言った。



 ナギはシンを見て笑った。



「保育士してるねぇ」


「してるよ。大変だよ」


「海の子も大変だよ。すぐ水に入るし、すぐ魚の骨飲むし、すぐ変な貝を耳に入れる」


「どこも同じか」


「子供はだいたい同じ」



 ナギは肩をすくめた。



 その軽さに、シンは少し救われた。



 ナギは、どこへ行ってもナギだ。



 軽い。


 早い。


 よく喋る。


 でも、見ていないわけではない。



「ヤマトの方、どうだ」


 シンは聞いた。



 ナギの顔が、少しだけ変わった。



「うーん。少し動きが速くなってる気がする。舟が増えた」


「舟」


「川へ入る舟。海から川へ。川から、もっと上へ」


「春か」


「そう。春になったら山へ、って話が出てるらしいよ」



 シンはイヌの言葉を思い出した。



 道が乾く。


 雪が消える。


 川沿いを上る。



「イヌが言っていた通りだ」


「イヌ?」


「川下から来た男。赤黒い。南の果てから来たって、オキが看破してた」


「あー、あの人」



 ナギはあっさり言った。



「聞いたことある。南から来た人だろ」


「詳しいな」


「海だと情報が早いんだよ。川より早い。嘘も早いけどね」


「どんな人間だ」


「詳しくは知らない。でも、ヤマトに反感持ってる人らしい。集落が燃えたって話は聞いた」



 シンは黙った。



 もうない。



 イヌの声が蘇る。



「そうか」


「たぶん、あの人はまだあちこち走ってる。捕まらないようにね」


「犬みたいだな」


「うん。犬みたい。でも、飼われてない犬」



 ナギはそう言って、少しだけ空を見た。



「厄介だよ。飼われてない犬は、誰より先に火事の匂いに気づく」



 シンはナギを見た。



 軽い顔をしている。


 でも、言葉は軽くなかった。



「ナギ」


「ん?」


「怖いか」


「怖いよ」



 ナギは即答した。



「でも、怖いから走る。止まってたらもっと怖い」



 アサメの言葉と似ている。



 怖いから覚える。


 怖いから走る。



 みんな、怖くないわけではない。



 ただ、怖さの扱い方が違う。



 シンはそれを少しだけ覚えた。




 その夜、タダが肉と魚を両方焼いた。



 最高だった。



 山の肉。


 川の魚。


 海から来た干し魚。



 煙の匂いが混ざる。


 脂が落ちる。


 子供たちが騒ぐ。


 ナギが大げさに手を合わせる。



「天才だぁ!」



 タダは無視した。



 ナギは気にしない。



「肉も魚も焼けるなんて、タダはもう山と海の真ん中だね」



 タダは無視した。



 シンは焼けた魚を食べて、少し泣きそうになった。



「うま……」


「シンも泣きそう」


 トンが言った。



「泣いてない」


「泣いてる」


 チンが言った。



「魚に負けた」


 カンが言った。



「今日は魚に負けてもいい」



 シンは魚を食べた。



 うまいものには、負けてもいい。



 そういう日もある。



 ナギは子供たちに海の話をした。



 波が立つ話。


 舟がきしむ話。


 大きな魚の背が水面で光る話。


 海の鳥が魚を奪って逃げる話。


 塩を作る者の手が白くなる話。



 トン、チン、カンは夢中で聞いた。



「海、でかい?」


「でかい」


「山より?」


「見えないくらい」


「嘘」


「ほんと」


「全部水?」


「だいたい水」


「飲める?」


「飲んだら死ぬほどしょっぱい」


「死ぬ?」


「死にはしない。たぶん」


「たぶんばっかだな」



 シンは思わず笑った。



 たぶんが増えている。



 ナギは子供たちに囲まれながら、器用に魚を食べていた。


 小骨を出すのがうまい。


 手が早い。


 話も早い。



 鳥みたいだ。



 やはりそう思った。



 火の向こうで、アサメが山を見ていた。



 ナギの海の話を聞いているのか、聞いていないのか分からない。



 だが、時々、目が動く。



 海から来る話。


 川から来る話。


 山で感じる変化。



 それらを全部、アサメは火の向こうで聞いている。



 暮らしながら、備える。



 この夜の笑いの中にも、春への備えが混ざっていた。



 そして、夜が深くなった頃。



 甘い匂いがした。



 シンは顔を上げた。



 集落の外れ。


 炉の光が届く、その手前。



 モモが立っていた。



 白い衣。


 黒い髪。


 桃色の飾り。



 今夜は、ナギが先に気づいた。



「あれ、誰?」



 声が出る前に、シンが小さく止めた。



「静かに」


「え?」


「声を出すと消える」


「え、どーゆー仕組みで?」


「静かにしてろ」



 ナギは口を閉じた。



 でも、目が大きくなっていた。



 モモは気づいていた。



 ナギを見る。


 シンを見る。


 炉を見る。


 子供たちを見る。


 また、ナギを見る。



 ナギが小声で聞いた。



「誰あれ」


「桃色だ」


「えっ、あの鬼討ちじゃないの」


「静かに」


「え、でも」


「静かに」



 ナギは黙った。



 震えていた。



 怖いのか、驚いているのか、判断がつかない。



 モモはナギを見て、少し止まった。



 また炉を見る。


 シンを見る。


 アサメを見る。



 アサメは弓を取らない。


 ただ、モモを見ている。



 トン、チン、カンはもうほとんど眠っている。



 タダは肉を焼く手を止めていない。



 モモの視線が、肉の煙へ動いた。



 シンは気づいた。



 だが、今夜は言わなかった。



 ナギがいる。



 ナギは、モモを鬼討ちとして知っている。


 噂で知っている。


 恐れている。



 そのナギの前で、モモに「肉の煙を見てるな」と言うのは、少し違う気がした。



 モモは、しばらくそこに立っていた。



 以前より、長い。



 それから、ゆっくり外へ出ていった。



 今日も、少しゆっくりだった。



 昨日より、少しだけゆっくりだった。



 桃の匂いが残った。



 ナギが、ようやく息を吐いた。



「いやぁ、怖かった……」



 それから、少し首を傾げた。



「でも、なんか」


「なんか?」


「なんか、寂しそうにも見えた」



 シンは少し間を置いた。



 寂しそう。



 その言葉は、シンの中に静かに落ちた。



 アサメは前に言った。



 感じている目だ、と。



 ナギは言った。



 寂しそう、と。



 二人が違う言葉で、同じものを見ていた。



 モモは、ただの鬼討ちではない。



 ただの白い刃ではない。



 何かを感じている。


 あるいは、感じ始めている。



 それが何なのか、まだ分からない。



 だが、今夜もモモは斬らなかった。



 見ていた。



 山の炉を。


 子供たちを。


 ナギを。


 アサメを。


 タダの肉の煙を。


 そして、シンを。



 シンは炉の火を見た。



 火だけではなく、その周りを。



 くちばし岩。


 稲妻の木。


 細い滝。


 山へ返した白い石。


 ミコの赤い石。


 ナギの海の話。


 モモの白い姿。



 山は家だ。



 アサメはそう言った。



 シンにとっても、この山は少しずつ、ただの隠れ場所ではなくなっていた。



 帰れる場所。



 まだ、そう言い切るには怖い。



 けれど、その怖さごと覚えておけ。



 そう言われた気がした。



 桃の香りが、夜の中にまだあった。



(第四十三話へ)

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