桃
第百話 桃
⸻
また、シンを殺した。
⸻
山道に、少女が立っていた。
春の夕暮れだった。土はまだ冷たく、木々の影は長い。水の音は遠く、鳥も鳴かない。
少女の手には、刀があった。
刃に血は残っていない。
それなのに、斬った感触だけが手の内に残っていた。
⸻
そう思ったのは、少女自身だった。
名はモモ。
それだけは分かる。
シンがそう呼んだからだ。
⸻
何度目なのか、数えることはできた。
年も測れる。
季節も、月も、日も、時も。
知らないはずのことが、知らない場所から出てくる。土の名。石の名。国の名。後の人間が付ける時代の名。出土物の年代。文字資料の偏り。伝承が作られる時期。
けれど、自分がどこから来たのかは分からない。
未来。
その言葉だけが、白い霧の手前に置かれている。
そこから先へ行こうとすると、音が壊れる。
⸻
繧キ繝ウ。
繝「繝「。
⸻
名前まで、ただの記号になりかける。
モモは瞬きをした。
頬が濡れていた。
涙だ、と知識は告げる。
なぜ涙が出るのかは、少し遅れてしか分からなかった。
⸻
BC377からAD1189。
1565年。
13,718,508時間。
⸻
その全部を、彼女は生きたわけではない。
眠っていた時間がある。
白く押し込まれていた時間がある。
誰かに起こされ、誰かの命令で歩かされ、誰かの神の名を着せられていた時間がある。
それでも、シンを殺したことだけは残る。
残ってしまう。
⸻
記録。
⸻
そう呼べば、まだ耐えられる気がした。
思い出ではない。
思い出と言えば、白が近づく。
だから記録でいい。
記録を、たどる。
⸻
⸻
BC377。
北の集落。
⸻
少女は、見知らぬ時代に降り立った。
そこには火があった。
火と、血と、濡れた土があった。
雨ではなかった。
人が流したものだった。
⸻
寒い。
煙たい。
血は鉄の味がする。
⸻
身体が先にそう知った。
それとは別に、頭の奥で情報が並ぶ。
BC4世紀後半。
後の日本列島。
現代の東北地方に位置する小集落。
この土地ではまだ、西日本で進む変化がそのままの形では届かない。稲だけで人が生きる段階ではない。狩り、採集、川、火、貯蔵、土器。水辺を巡る争いと、南から押し出される人の流れ。
モモはそれを照合できた。
なのに、自分がなぜそこにいるのかは分からなかった。
⸻
手には刀があった。
なぜ持っているのかは分からない。
この時代のものではない。
それも分かる。
けれど、名だけは分かった。
⸻
フツ。
⸻
刀の名だった。
どういうわけか頭に浮かんだ個体名称。
持ち物と呼ぶにも違和感がある。与えられたものなのか、自分で持ってきたものなのかも分からない。ただ手の中にあり、抜けば斬れる。
それだけだった。
⸻
目の前に、少年がいた。
シン。
その名も、なぜか分かった。
少年自身は、まだ自分のことをうまく持てていなかった。ここがどこかも、何を食べればいいかも、寒さをどうしのげばいいかも知らない。
それでも、火を見ていた。
火の向こうにいる人を見ていた。
死体ではなく、人を見ていた。
⸻
少女は少年を斬り殺した。
何度も。
⸻
命令があった。
誤差を消せ。
火を消せ。
揺れを消せ。
そういう白いものが、頭の奥から手を伸ばした。
身体が勝手に動く。
フツが抜けた。
シンが倒れた。
⸻
その顔が、消えなかった。
⸻
死因。
位置。
傷の深さ。
血の量。
そういうものは畳めた。
白へ戻せた。
でも、顔だけが残った。
自分を殺した相手を、まだ分からないものとして見ている顔。
痛みより先に、名前を探している顔。
⸻
削除不能。
⸻
そんな言葉が浮かんだ。
モモはそれを嫌だと思った。
その時はまだ、嫌という言葉を、自分の胸に置くことがうまくできなかった。
フツはただ、手の中で冷たかった。
⸻
だが、シンは戻ってきた。
⸻
同じ森。
同じ朝。
同じ湿った土。
モモから見れば、それは繰り返しではなく、記録の上書きに近かった。
けれど、シンは違った。
死んだことを覚えたまま、また立っていた。
⸻
丘の上で会ったことがある。
シンは集落へ行かなかった。
逃げた。
だからモモは追った。
⸻
「逃げても、意味ない」
⸻
自分の声だった。
平らで、冷たい声。
今思い返すと、嫌な声だった。
⸻
「なんでここにいる」
「追跡している」
「俺を?」
「そう」
「なんで追跡してる」
「任務だから」
⸻
言葉は出た。
意味も通った。
けれど、その時のモモは、会話をしているつもりではなかった。
問いに対して、必要な値を返しているだけだった。
⸻
シンは草の上に座り込んだ。
戦うでもなく、逃げるでもなく、少し考えた。
そして、なぜか聞いた。
⸻
「お前、名前は」
⸻
モモは答えた。
「モモ」
シンは、その名を繰り返した。
その声の中に、殺される相手を呼ぶ硬さだけではないものが混じっていた。
⸻
「俺はシン」
「知っている」
「なんで知ってる」
「対象の情報は把握している」
「対象って俺か」
「そう」
⸻
対象。
その言葉は白い命令には馴染んだ。
でも、シンには馴染まなかった。
⸻
彼は聞いた。
何回殺すつもりだ。
必要って誰にとってだ。
お前にとってはどうなんだ。
⸻
モモは、関係ない、と答えた。
そう答えるしかなかった。
けれど、関係ないはずの問いが、胸の奥で少しだけ残った。
⸻
別の記録では、シンが名前を呼んだ。
戦いの中で。
火と石と叫び声の間で。
⸻
「モモ!」
⸻
止まった。
ほんの一瞬。
フツを握る指が、わずかに遅れた。
シンだけでなく、あの大きい男もそれを見ていた。
⸻
「対象名、確認」
「対象じゃない。シンだ」
「……シン」
⸻
名前を呼んだ。
殺す相手の名を。
呼んだ瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
モモには、それが何か分からなかった。
⸻
花の記録もある。
⸻
小さな白い花だった。
丘へ来る途中で、シンが摘んだもの。
食料にはならない。
役に立つかも分からない。
すぐ折れそうで、白くて、小さくて、それでも咲いていた。
⸻
「また待機」
「待ってた」
「非効率」
「はい、これ」
⸻
シンは花を差し出した。
モモは動かなかった。
花を見る。
シンを見る。
また花を見る。
⸻
「何」
「花」
「用途は」
「渡す」
「渡した後の用途は」
「特にない」
「非効率」
⸻
その答えは正しかった。
任務には不要。
追跡にも不要。
排除にも不要。
不要なものだった。
⸻
なのに、シンは言った。
綺麗だろ、と。
⸻
モモには分からなかった。
白い。
小さい。
脆い。
そこまでは分かった。
けれど、それがなぜ綺麗なのかは分からない。
分からないことが、消えなかった。
⸻
「処理に時間がかかる」
⸻
そう答えるしかなかった。
シンは少し笑った。
それ、結構いい答えだと思う、と言った。
⸻
モモは花を受け取らなかった。
でも、斬りもしなかった。
しばらくして刃は出た。
命令は戻った。
シンは逃げなかった。
⸻
「お前が、花を斬らなかったから」
⸻
そう言って、シンは花を握ったまま死んだ。
最後にモモが見ていたのは、花ではなかった。
シンだった。
⸻
また別の記録では、モモの方から森へ行った。
目覚めたばかりのシンの前に立った。
任務だから、ではなかった。
そう言い切ろうとすると白が来る。
けれど、足は先に動いていた。
⸻
「シンは、なぜ諦めない」
⸻
モモは聞いた。
シンは少し考えて、諦めたら終わるから、と答えた。
終わってもまた始まる、とモモは言った。
それは俺じゃない、とシンは言った。
⸻
「記憶があるから、俺だ」
⸻
モモは、その言葉を覚えている。
⸻
「お前は、七回分の俺を覚えてるか」
⸻
長い沈黙があった。
森の奥で鳥が鳴った。
風が草を揺らした。
そして、モモは答えた。
⸻
「覚えている」
⸻
それは命令の返答ではなかった。
報告でもなかった。
自分の中に残ってしまったものを、初めて認める言葉だった。
⸻
シンは言った。
なら、お前も同じだ。
俺たちは同じ時間を持っている。
⸻
違う、と言うべきだった。
同じではない。
モモは実行する。
シンは死ぬ。
そういう関係だ。
そういう命令だ。
⸻
けれど、その言い分はすぐに崩れた。
⸻
「俺を殺したくないなら、殺さなくていい」
⸻
空気が変わった。
森の音が遠くなった。
白が来た。
命令が腕を吊った。
フツが重くなった。
それでも、声が漏れた。
⸻
「逃げて、シン」
⸻
願いだった。
たぶん、初めての。
⸻
シンは逃げなかった。
お前も来い、と言った。
無理なら、いつか来い、と言った。
俺、覚えてるから、と言った。
⸻
そして、死のすぐ前。
シンは妙なことを言った。
⸻
「ハートに火をつけてやる」
⸻
意味は分からなかった。
言葉としては不明だった。
でも、胸の奥が熱くなった。
⸻
「熱い」
⸻
モモはそう言った。
それだけは覚えている。
最後に、シンが名を呼んだ。
モモの口は、勝手に動いた。
⸻
「りょ」
⸻
意味は分からない。
どこから来た言葉かも分からない。
けれど、その短い返事だけは、白へ渡せなかった。
⸻
⸻
BC377からAD108。
484年。
4,242,657時間後。
⸻
AD108。
川の集落。
⸻
モモは気づくとそこにいた。
水の匂いがした。
泥。
魚。
濡れた木。
焼けた肉。
子供の声。
火の周りで、誰かが笑っていた。
ユナが水を汲んでいた。
木の器に揺れる水を、シンはうまそうに飲んだ。
水だけで、人は少し戻るのだとモモは知った。
⸻
シンがいた。
⸻
それだけで、白い霧に小さな穴が開いた。
モモの中では、また情報が並ぶ。
AD2世紀初頭。
弥生後期相当。
前回より少し北西に位置する川沿いの集落。交易。石材。外から来る技術。まだ国家と呼ぶには早いが、稲作集団の人と物の流れはもう線になっている。南の力は、武器や言葉だけでなく、道具と交換と便利さの顔をして入ってくる。
シンはその中で、土を掘っていた。
指を汚し、小さな種を埋めて、翌朝からそれを見に行った。まだ出ない芽を、子供と一緒に見ていた。
コトは土を睨んでいた。
ユナは呆れた顔で笑っていた。
シンは、出所の分からない知識をどうにか言葉にしていた。
種は寝起きが悪い。
そんなことを言った。
モモは、ひどい説明だと思った。
でもコトには通じていた。
⸻
シンの知識は、いつも少しおかしい。
正しいこともある。
でも言い方がおかしい。
その曖昧な知識は、いつの間にかウロオボエ様と呼ばれていた。
弱い神。
頼りない神。
たぶん、強い神よりずっとましな神。
⸻
芽が出た。
緑は小さかった。
頼りなかった。
指で摘めば終わる。
鳥がついばめば終わる。
それでも、シンは笑った。
コトは跳ねた。
ユナの顔が緩んだ。
モモの胸の奥にも、何かが灯った。
名前はまだ遠い。
でも、それは悪い熱ではなかった。
⸻
鳥よけも作った。
骨と貝殻を吊るし、風で鳴るもの。
シンはそれに、トリビックリクンという名を付けた。
モモは、シンの名付けの感覚を疑った。
コトは気に入った。
ユナは笑った。
シンは自分で付けたくせに、少し後悔していた。
からから、と頼りない音が鳴った。
その頼りなさまで、モモは覚えている。
⸻
見ているだけでよかった。
けれど、白はそれを許さなかった。
⸻
囲いを倒した。
鳥よけを外した。
穂を散らした。
骨と貝殻が、地面で軽く鳴った。
軽すぎる音だった。
⸻
嫌。
⸻
その時、初めて、その言葉が胸の内側に落ちた。
これは嫌だ。
コトが泣く。
ユナが叫ぶ。
シンが見る。
それが嫌だ。
⸻
でも足は止まらなかった。
手も止まらなかった。
フツは手の中で重くなった。
錯覚かもしれない。
けれどモモには、ほんの一瞬だけ、刃が遅れたように感じられた。
斬るべきでないものを前にした沈黙。
その頃のモモは、まだそれをフツの意思とは思えなかった。
ただ、手の中の冷たいものが、自分と同じように嫌がっている気がした。
⸻
シンは言った。
泣けるなら、また会える。
⸻
根拠はなかった。
たぶん、シンにもなかった。
けれどモモは、その言葉だけを白へ渡さなかった。
⸻
この頃、白い命令には名が混じり始めていた。
ミカヅチ。
雷。
神。
まだ形を固定しきっていない信仰。
定住と開墾が広がれば、土地を広げる理由が要る。
その理由として、神の名は使いやすい。
だが、分からなくはないからこそ、おかしかった。
神の名が、あまりに都合よく刃へ巻きつく。
誰が巻いているのか。
そう考えた瞬間、白い音がした。
⸻
繧ソ繧ア繝溘き繝・メ。
繧ォ繧キ繝槭・。
⸻
思考が途切れた。
問いだけが残り、答えには届かなかった。
⸻
川の集落が遠くなった後、白頭巾の者たちが現れた。
⸻
いつ捕まったのかは、よく分からない。
縄ではなかった。
檻でもなかった。
けれど、目を開けると、いつも白頭巾がいた。
骨を焼く匂い。
湿った祈り。
薬草。
船の軋み。
鉄の音。
同じところから命令を聞いているらしい、気味の悪い集団だった。
彼らはモモを人として見なかった。
神の器と呼んだ。
桃と呼んだ。
白いものと呼んだ。
モモは返事をしなかった。
返事をしたのかもしれないが、覚えていない。
⸻
その間、フツはいつも近くにあった。
白頭巾の者たちは、刀を取り上げなかった。
神の器には神の刃が要る。
そういう顔をしていた。
モモには、その理由は分からない。
ただ、目を覚ました時、膝の近くに鞘があると、自分の形が少し戻った。
手を伸ばす。
冷たい。
重い。
名を呼ぶ。
返事はない。
それでも、何もないよりずっとましだった。
⸻
灰の降る里があった。
そこにサクという名の少女がいたことを、モモは後で知った。
直接会った記憶はない。
声も知らない。
顔も知らない。
ただ、兄であるハヤセがその名へ向かって立ち上がり続けたことだけは覚えている。
時代としては、ヤマト王権が外縁を測り始める前の、小さな線のひとつだった。人口。薬。鉄。若い男。海へ出る道。そうしたものを数える目が、里の上を通っていた。
ハヤセは何度倒れても立った。
妹のところへ戻るために。
守れるか分からないものを守るために。
その在り方は、少しシンに似ていた。
何度倒されても、理由が残っている限り立つ。
モモは彼を斬るはずだった。
けれど一度だけ、声が出た。
「逃げて」
ハヤセは逃げなかった。
⸻
鬼の島にも行った。
そこは鬼の島ではなかった。
塩を焼く島だった。
船を守る島だった。
歌を持つ島だった。
後の世なら、きっと話は整えられる。
桃。
イヌ。
サル。
鳥。
鬼退治。
桃が進み、イヌが押さえ、サルが忍び、鳥が声を運ぶ。
後の人は、その鳥をキジにするのかもしれない。
語りやすい形へ削られ、歌いやすい形へ並べ替えられ、やがて子供が笑って聞く話になる。中世から近世にかけて、鬼を退治する桃の子の物語として磨かれていく。
モモは、その流れまで知識として見通せた。
だから余計に、何とも言えなかった。
自分は桃太郎になってしまった。
鬼を討つ側の、明るい名前になってしまった。
でも、モモが見たものは、砂にこぼれた塩水と、青い玉を握る少年と、燃える小屋だった。
モモは歩いた。
歩きたくないのに、歩いた。
白い命令は、いつも足から始まる。
足が出る。
手が動く。
心だけが遅れてついてくる。
⸻
⸻
AD108からAD404。
296年。
2,594,683時間後。
⸻
AD404。
炉の集落。
⸻
火の匂いがした。
鉄の匂いがした。
赤い土。
煙。
濡れた山。
春の泥。
⸻
シンがいた。
⸻
その瞬間、長い白が少し割れた。
川の音が戻った。
骨と貝殻がからから鳴る、あの変な鳥よけの音まで、なぜか戻った。
⸻
モモの中では、年代と資料が照合されていた。
AD5世紀初頭。
古墳時代の只中。
ヤマト王権は東へ手を伸ばしつつある。鉄と祭祀と武力が、山の民をただの隣人ではなく、名付けるべき外部へ変えていく。鬼という語は、まだ物語の形を取る前から、人を外へ置くための便利な言葉になりつつある。
そう分かる。
分かるのに、火のそばの匂いはただ腹を空かせた。
⸻
アサメがいた。
炉の前に座り、山菜を裂いていた。
指が速い。
でも雑ではない。
茎の硬いところを捨てる。
柔らかい葉だけを残す。
匂いを嗅ぐ。
葉の裏を撫でる。
草にも耳を澄ましているようだった。
⸻
これは食う。
これは薬。
これは毒。
⸻
アサメは短く分けた。
シンには、どれも同じ緑に見えていた。
トンとチンとカンが笑った。
誰かが苦い葉を噛んで、顔を変にした。
誰かが腹を押さえた。
アサメは呆れた。
シンは学習した顔をした。
次の瞬間には、また食べたそうな目をしていた。
⸻
モモはそれを見ていた。
炉の煙。
山菜の苦み。
焼いた肉の脂。
子供の手の泥。
シンが食べ物を見る時の、少し馬鹿みたいな明るさ。
それらは、白い命令の中へ入れるには、あまりに温かかった。
⸻
大きい男が肉を焼いたこともあった。
名は、思い出そうとするとぼやける。
ただ、大きい。
火のそばにいる。
飯をくれる。
それくらいの印象だけが残っている。
十分だった。
⸻
この時代、フツを一度なくした。
トンとチンとカンの遊びの中で、川へ流された。
ほんの短い間だった。
けれどモモの膝の上が空になった。
鞘の冷たさが消えた。
名前を呼んでも、そこに重さがない。
その時、モモは初めて知った。
これはただの刀ではなかった。
命令で動く時にも、白に沈む時にも、ほんの少しだけ自分をこちら側へ引き戻していたもの。
言葉はない。
返事もない。
でも、いつも手の中にいたもの。
⸻
戻ってきたフツを、モモは拭いた。
濡れた飾りを直した。
名を呼んだ。
フツは返事をしなかった。
それでよかった。
その頃から、モモはフツを友人に近いものとして感じ始めた。
⸻
アサメは火のような女だった。
強いだけの女ではない。
怖いまま立つ女だった。
山も、死も、居場所を失うことも、火が絶えることも、きっと怖がっていた。
それでも立った。
モモは、怖い時に白くなる。
白くなれば、怖さは遠ざかる。
けれど、それは強さではなかった。
アサメは怖いまま赤く立っていた。
⸻
うらやましい。
⸻
その言葉を、モモはこの時代に覚えた。
シンがアサメを見る。
アサメがシンの横に立つ。
火と煙の中で、二人が同じものを見る。
それが痛い。
でも、嫌いではない。
嫌いになれなかった。
⸻
白い命令は、やがて山へ降りた。
鬼を討て。
火を消せ。
山を黙らせろ。
白頭巾の者たちは、その声を神の名で包んだ。
武甕雷。
雷と剣の名。
国を譲らせる神。
モモは、その神の知識を持っていた。鹿島、剣、雷、東へ伸びる力。
征服と秩序の名として使うなら、分からなくはない。
この時代に、鬼を討つ力として置かれるなら、筋は通る。ヤマトが外の者へ名を与え、外の者を討つ。その語りの中で、雷の神は使いやすい。
使いやすい。
その言葉が、モモには嫌だった。
神の知識は合っている。
時代の流れにも合っている。
なのに、奥にある白だけが同じだった。
同じ冷たさが、神の名だけを着替えている。
では、その同じものは何か。
⸻
繝溘き繝・メ。
繧ェ繝九・。
⸻
そこから先は、また壊れた。
意識が一瞬、白へ持っていかれた。
戻った時には、足がもう動いていた。
包めば、人は恐れる。
恐れれば、道ができる。
道ができれば、モモの足が動く。
⸻
ハヤセがいた。
灰の里で逃げなかった男。
サクという名へ、何度倒れても戻ろうとした男。
その男が、イヌと呼ばれていた。
彼はモモを憎んでよかった。
けれど、憎しみだけでは動かなかった。
子供を見ると、声が少し低くなる。
逃げ道を見ると、兵の目をわずかに逸らす。
命令を守る顔で、少しだけ命令を曲げる。
その曲げ方も、どこかシンに似ていた。
大きな理屈ではなく、目の前にいる一人を理由にするところが。
⸻
そういう男に、モモはしてしまった。
⸻
そのハヤセを、斬った。
逃げてと言った男を、逃げられないところまで連れてきて、最後に斬った。
⸻
かなしい。
⸻
その言葉は、もう分かった。
損失ではない。
失敗でもない。
ただ、消えてほしくないものが消える。
それが、かなしい。
⸻
アサメも消えた。
火の中で、まだ立っているように見えた。
シンは名を呼んだ。
何度も呼んだ。
死んで、戻って、また死んで、それでも見ようとした。
火を。
アサメを。
消えていく山を。
⸻
シンは、モモに頼んだ。
殺してくれと。
⸻
モモは言った。
「不同意」
嫌だった。
シンがいなくなるのは嫌だった。
シンの目から、自分を見ている光が消えるのは嫌だった。
フツは重かった。
抜きたくない、と沈黙していた。
それでも白が強くなった。
手が動いた。
シンが倒れた。
⸻
はじめて、涙が出た。
⸻
泣けるなら、また会える。
川のそばでシンが言った言葉が、火の中で開いた。
⸻
⸻
AD404からAD802。
398年。
3,488,796時間後。
⸻
AD802。
胆沢。
⸻
雪があった。
墨があった。
紙があった。
消えていくものを、誰かが書き留めようとしていた。
スズリという名の書記官がいた。
細い手で、丁寧に書いた。
間違えないように。
でも、間違えないだけでは足りないと、もう知っている手だった。
⸻
モモは年代を照合する。
延暦21年。
胆沢城。
蝦夷征討。
坂上田村麻呂。
阿弖流爲。
母禮。
公的な記録には、服属、処断、夷、賊。
後の語りには、鬼。
そういう語が残る。
だが紙は、人の息を残すのが苦手だ。
だからスズリの筆が必要だったのだろう。
⸻
シンがいた。
⸻
それだけで、モモの中の白が少し薄くなった。
この時代にも、飯の匂いがあった。
胆沢の火は大きく、寒い朝ほど湯気が白かった。
椀の中の汁。
干した肉。
炭の熱。
シンが食べる時の顔。
アテルイが、腹が減れば動けないと言う声。
モレが怒る声。
そういうものが、紙には乗りにくい。
でも、確かにあった。
⸻
都の奥では、別の白が動いていた。
香の煙。
経の声。
灯籠の火。
藤原薬子という女が、誰にも触れられない場所を求めて座っていた。
薬子の名も、モモは知識として知っている。
後の政変。
平城上皇。
藤原仲成。
朝廷の権力と、愛と、噂と、祈り。
けれど、知識にある名と、目の前の女は少し違った。
薬子は、ただ使われるために生まれた女ではなかった。
祈りの場所で、誰かに救われたいと願った女だった。
白頭巾の者たちは、その隙間に立っていた。
薬子の涙と、誰かを愛する心と、国を恐れる心を、神の名へ結んでいく。
毘沙門天。
北方の守護。
仏法を守る武神。
この時代なら、毘沙門天の名はあまりに馴染む。
馴染みすぎていた。
モモはその知識を持っていた。
だから、なおさら怖かった。
武甕雷の時と同じ冷たさが、今は毘沙門天の衣を着ている。
神も仏も違うはずだった。
信じる人も、祈る場も、時代も違うはずだった。
なのに、奥から来る命令だけが同じ匂いをしていた。
薬子は救われたと感じているようだった。
モモには、それが縄に見えた。
首にかかる、見えない縄。
⸻
あの白頭巾たちは、どの時代にもいる。
同じ顔ではない。
同じ声でもない。
けれど、同じところを見ている。
変わらないもの。
立ち続ける国。
流れない川。
燃え尽きない火。
そんなものを、正しいと信じている。
武甕雷。
毘沙門天。
名は変わった。
でも、命令の芯は変わらない。
同じものが、時代に合わせて神仏の皮を替えている。
モモは、そう推察しかけた。
⸻
繧ウ繝ウ――
⸻
そこで音が割れた。
頭の奥に白い針が入る。
照合が止まる。
文字が溶ける。
自分の輪郭まで薄くなる。
真相へ近づくほど、意識は奪われた。
⸻
モモは、何度かシンの前に立った。
命令を聞いた。
フツを握った。
白は冷たかった。
それでも、最後に斬らなかった。
⸻
斬らずに済んだ。
⸻
それは小さなことだった。
死んだ人が戻るわけではない。
奪われた名が戻るわけでもない。
都の紙に負けた声が、全部救われるわけでもない。
それでも、シンは生きていた。
モモは、シンを斬らずに、時代の終わりを見た。
⸻
シンが言った。
火は残った。
人は残った。
全部消えたわけじゃない。
⸻
モモは、その言葉をすぐには信じられなかった。
確認できないものは、ないものに近い。
そう考える癖がある。
けれど、シンは言った。
確認できないから、なかったことにはならない。
⸻
乱暴な言葉だった。
でも、乱暴なまま残った。
⸻
また会えるか、とシンが聞いた。
モモは答えた。
「不明。でも、探す」
⸻
そのあと、白が来た。
⸻
いつもの白なら冷たい。
身体をほどく白。
記録を畳む白。
ひとりに戻す白。
けれど、その時だけ違った。
白は、少し温かかった。
炉の煙が混じっていた。
墨の匂いがした。
雪の光が、肌を刺さずに包んだ。
シンが消える方へ、細い糸が伸びている気がした。
⸻
モモは、置いていかれなかった。
⸻
それが何なのかは分からない。
初めてのことだった。
いつもなら、時代の終わりは冷たい。
白に押し込まれ、眠らされ、またどこかで起こされる。
でも、その時だけは、シンの背中に引かれるようだった。
フツも、手の中で静かだった。
抜けない。
でも、重くもない。
まるで、今は斬る時ではない、と言っているようだった。
⸻
温かい白の中で、モモは目を閉じた。
探す。
そう言った自分の声だけが、最後まで残った。
⸻
⸻
AD802からAD1189。
387年。
3,392,372時間後。
⸻
AD1189。
奥州。平泉。
⸻
春だった。
雪の残る山。
川の光。
魚を焼く匂い。
人の声。
⸻
モモは照合する。
文治5年。
奥州藤原氏。
平泉。
源義経。
源頼朝。
後白河。
この先に来る戦の名も、滅びの形も、知識としては知っている。
だが、目の前の義経は年表ではなかった。
よく喋り、よく笑い、神の声を聞いても面倒くさそうにする男だった。
⸻
シンがいた。
⸻
モモは、うれしい、と思った。
その言葉はもう分かった。
シンがいる。
それだけで、胸の奥が少し熱くなる。
痛みではない。
命令でもない。
うれしい。
⸻
義経という男は、妙だった。
声を聞く。
けれど従わない。
神の名を聞いても、面倒な音のように扱う。
恐れない。
欲しがらない。
祈らない。
そういう人間を、モモはあまり知らなかった。
⸻
黒い影が出た。
シンには見えた。
見えてしまった。
だから死んだ。
何度も。
⸻
モモは説明した。
言っていいところまで。
白い壁に触れないところまで。
神託は声だけではない。
人の恐れや願いや責任を通って形になる。
無視されると、余ったものが外へ漏れる。
それだけを言った。
それ以上へ行くと、また文字が壊れる。
私が私ではなくなる。
⸻
義経は、聞いた上で断った。
黒い影は消えた。
シンは生きていた。
⸻
ありがとう、と言われた。
⸻
たったそれだけで、白が少し遠くなった。
けれど、別の名が来た。
熊野権現。
勅。
命令。
院政の執念。
後白河という男の戯れ。
この時代にその名が来ること自体は、むしろ自然だった。
自然すぎた。
だから、モモは恐れた。
武甕雷。
毘沙門天。
熊野権現。
時代も、神仏も、信じる人間も違う。
なのに、命令の根だけが同じ場所から伸びている。
その根の名を探ろうとすると、また白が鳴った。
⸻
繧ッ繝槭ヮ。
繧エ繝ウ。
繧キ繝ウ。
⸻
違う、と言った。
まだ、と言った。
見ないで、と言った。
シンに見られたくなかった。
自分ではない自分になるところを。
刃になるところを。
泣く前に殺すものになるところを。
⸻
そして、山道。
⸻
白い命令は、最初、義経を見ていた。
けれどすぐに変わった。
シンへ。
⸻
見る者。
誤差。
消せ。
⸻
モモには、その言葉の全部が分かる。
分かるのに、認めたくなかった。
⸻
嫌。
⸻
体が動く。
足が距離を詰める。
手がフツを握る。
フツは重い。
抜きたくない時の重さだった。
けれど、白の力は強かった。
⸻
逃げて。
⸻
声にした。
届いたかどうかは分からない。
届いていても、遅かった。
シンの手首に、藍色の紐があった。
いつ手に入れたのか、モモは知らない。
誰と選んだのかも知らない。
でも、その小さな色だけが、妙に平和だった。
モモのいない一日の匂いがした。
⸻
刃が遅れた。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
⸻
その一瞬で、謝ろうとした。
「ご、め」
最後まで言えなかった。
フツが通った。
シンが消えた。
⸻
白。
⸻
⸻
そして、今。
⸻
山道から、シンは消えた。
義経の声がする。
ユウガオの叫びがする。
土佐坊の壊れた足音が、まだ土をこすっている。
春の風は戻らない。
鳥も鳴かない。
⸻
モモは立っていた。
頬が濡れていた。
指で触れる。
涙だった。
⸻
理由は、もう分かる。
⸻
シンが消えた。
消えてほしくなかった。
斬りたくなかった。
逃げてほしかった。
ごめんと言いたかった。
⸻
記録なら消せる。
白い命令なら上書きできる。
けれど、これは消えない。
⸻
火。
川。
小さな白い花。
芽。
変な名の鳥よけ。
弱い神の名前。
灰の空。
サクを呼ぶハヤセの声。
桃太郎になってしまった自分。
塩の島の青い玉。
山菜の苦み。
フツの冷たい鞘。
ユナの水。
アサメの火。
スズリの墨。
ユウガオの声。
暖かい白。
シンの顔。
⸻
消えない。
⸻
これは記録ではない。
⸻
記憶だった。
⸻
そう思った瞬間、また白が近づいた。
思うな。
名付けるな。
戻るな。
そんな声がする。
けれど、もう遅かった。
モモは泣いていた。
⸻
泣けるなら、また会える。
⸻
シンが言った。
ずっと前に。
川のそばで。
⸻
義経が一歩近づいた。
刃を構えている。
怒っている。
けれど、斬るだけの目ではなかった。
何かを見ようとしていた。
⸻
ユウガオがシンの名を呼ぶ。
その声で、胸がまた痛んだ。
⸻
モモは口を動かした。
「シン」
声は小さかった。
風より小さかった。
「ごめ」
また、最後まで言えなかった。
白が喉を塞いだ。
命令が戻る。
体が冷える。
⸻
だから、別の言葉を出した。
雪と墨の中で、一度だけ言えた言葉。
不明でも。
根拠がなくても。
1565年の向こうでも。
⸻
「探す」
⸻
シンはいない。
でも、消えていない。
モモの中にいる。
消せないまま、痛んでいる。
⸻
それを、たぶん。
人は記憶と呼ぶ。
⸻
⸻
(第百一話へ)




