雨の前
第百一話 雨の前
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目が覚めた。
板の天井だった。
板の目を数える。
十一。
前にも数えた。
だから、ここは朝だった。
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生きている。
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シンは息を吸った。
喉が鳴った。
胸の奥に、まだ刃の通った感触が残っていた。痛みそのものではない。痛みになる寸前、体の形が白にほどける時の、冷たい空白だった。
春の山道。
止まった風。
桃の香り。
泣いているモモの顔。
白い刃。
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「ご、め」
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最後まで言えなかった声が、耳の奥に残っている。
シンは布団の上でしばらく動けなかった。
外から薪を割る音がする。
規則正しい。
タダの音だった。
生きている音だった。
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廊下の向こうで、義経の声がした。
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「腹が減った!」
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いつも通りだった。
あまりにも、いつも通りだった。
その後にユウガオの笑い声が続いた。
シンはようやく起き上がった。
足の裏が板を踏む。
冷たい。
冷たいのに、そこに体がある。
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(戻った)
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また戻ってきた。
死ぬ前の朝。
魚と汁と山菜が出た、あの朝だ。
義経が「今日は何もない!」と言い、ユウガオが平泉へ行くと言い、シンが断り損ね、昼前に館を出た朝。
その日の夕方、山道でモモが来た。
土佐坊も来た。
最初は義経を回収するはずだった命令が、途中で変わった。
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観測者、排除、最優先。
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シンは唇を噛んだ。
あの言葉は、ただの脅しではなかった。
白桃は迷わなかった。いや、モモは迷っていた。泣いて、逃げろと言って、謝ろうとしていた。
それでも白は動いた。
あれは、外で食らっていいものではない。
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飯の匂いが来た。
魚。
汁。
山菜。
腹が鳴った。
この体は本当に、こういう時でも裏切らない。
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「……最低だな、俺の腹」
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だが、その音で少しだけ戻れた。
死んだ記憶だけで体を満たすと、次に動くべき足まで白くなる。
シンは顔を洗い、食事の間へ向かった。
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朝に飯があった。
魚だった。
汁があった。
山菜が少し入っていた。
タダが作った。
湯気の向こうで、義経が箸を持ったまま言った。
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「今日は何も無い!」
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来た。
シンは箸を止めた。
同じ声。
同じ顔。
同じ、根拠のない宣言。
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「何を根拠に」
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聞き返したのも、ほとんど同じだった。
義経は魚の身をむしりながら、当然のように答える。
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「朝飯がうまい」
「それは根拠か」
「根拠だ。飯がうまい日は、だいたい良い日だ」
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タダが無言で汁をよそった。
否定しない。
前と同じだ。
けれど、今日は同じにしてはいけない。
ユウガオが隣へ来る。肩が触れる。夜花の香りがした。
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「ねえ、今日どこか行く?」
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前回なら、ここでシンは平泉と言いかけた。
言い切る前に、ユウガオが一緒に行くと決めた。
義経が笑った。
それで外へ出た。
平泉で紐飾りを買い、山道で死んだ。
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(外に出るな)
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頭の奥で、はっきり鳴った。
シンは汁椀を置いた。
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「行かない」
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ユウガオが瞬きをした。
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「まだ場所も言ってない」
「今日は何もない日なんだろ」
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シンは義経を見た。
義経は嬉しそうに頷いた。
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「うむ!」
「なら何もしない」
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場が少し止まった。
ユウガオの目が、面白いものを見つけた目になった。
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「何それ。アンタが言うと、すごく怪しい」
「怪しくない。今日は何もない。何もない日には、何もしないのが一番だ」
「屁理屈」
「生存戦略だ」
「生存?」
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しまった。
シンは魚を口へ運んだ。
熱い。
熱さで言葉を誤魔化す。
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「……腹が空いてると死ぬ」
「それはそうだな!」
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義経が即座に乗った。
助かった。
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「飯がうまい日に外へ出る必要はない。家で食う。昼も食う。夜も食う。タダ、何かあるか」
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タダは少しだけシンを見た。
その目は、前回の朝にはなかった何かを拾っていた。
だが、何も聞かなかった。
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「肉ならある」
「ほら」
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シンは勝ち誇った顔をした。
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「肉がある」
「肉があるなら仕方ないな!」
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義経が真顔で頷いた。
ユウガオが呆れたように息を吐く。
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「大将、簡単すぎ」
「肉は大事だ」
「タダまで」
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タダはまた汁をよそった。
否定しない。
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シンは内心で息を吐いた。
ひとつ、ずらした。
だが、それだけだ。
問題は、どこで迎えるかだった。
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酒の席で、義経が話していたことを思い出す。
いつだったかは曖昧だ。
夜だった。
義経は鵯越や壇ノ浦の話をしていた。敵の嫌がることをやる。それが戦だと、盃を振りながら笑っていた。
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「奇襲が一番強いのは、相手が動いてる時だけだ」
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道。
山。
川。
知らない足場。
死角。
逃げ道の分からない場所。
そこでは、先に待つ者が強い。
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けれど家は違う、と義経は言った。
柱の位置も、戸の開き方も、逃げ道も、踏むと鳴る板も知っている。
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「それに、タダがいる!」
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最後はだいたいそれだった。
シンはその時、笑った。
今は笑えない。
山道で義経は一拍遅れた。
土佐坊が、その一拍を作った。
白桃はそこへ入ってきた。
なら、山道へ出なければいい。
相手が奇襲に選んだ盤面に乗らなければいい。
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(今日は、ここにいる)
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シンは箸を握り直した。
手が少し震えていた。
ユウガオはそれを見ていた。
何も言わなかった。
ただ、さりげなくシンの椀へ山菜を少し移した。
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「食べな」
「子供扱いか」
「死にそうな顔してる男扱い」
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シンは返す言葉を失った。
義経がまた笑う。
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「仲良いな!」
「今日はその話も何もない」
「何もない日に仲が良いのはよいことだ!」
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義経は強かった。
あらゆる意味で強かった。
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昼になった。
外へは出なかった。
ユウガオは最初、露骨につまらなそうだった。
それでも庭に出て、乾ききらない土を見て、空を見て、少しだけ眉を寄せた。
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「雨、来るかもね」
「だから出なかった」
「後付けで賢そうにしない」
「賢いから先に気づいた」
「嘘」
「嘘です」
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すぐばれた。
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義経は縁側で弓の弦を見ていた。
何もない日と言ったくせに、何もしていないわけではない。指で弦を弾き、音を聞き、矢を一本ずつ確かめる。
遊んでいるようで、体のどこかは常に戦へ繋がっている。
タダは薪を運び、肉を切り、火の具合を見た。
シンはその近くにいた。
離れすぎない。
戸口からも離れすぎない。
庭から見えすぎる位置にも立たない。
自分でも馬鹿みたいだと思うほど、館の中を測った。
どこならタダが間に合うか。
どこなら義経が抜けるか。
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「忍びごっこ?」
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背後からユウガオが言った。
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「違う」
「じゃあ泥棒?」
「家主側だ」
「家主みたいな顔してる?」
「してない」
「うん」
「否定が早い」
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ユウガオは笑った。
その笑い声で、シンの肩からほんの少し力が抜ける。
だが抜けきらない。
夕方が近づくにつれて、前回の山道が胸の奥で冷えていく。
シンは何度も庭の先を見た。
白はない。
土佐坊の足音もない。
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何も起きなかった。
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夕方になっても、何も起きなかった。
夜が来ても、何も起きなかった。
それがかえって怖かった。
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夜になった。
結局、宴のようになった。
誰かが始めたわけではない。義経がいると、飯と酒と火があるだけで宴になる。
タダの焼いた肉はうまかった。
脂が落ち、火が鳴り、煙に春の草の匂いが混じる。
義経は上機嫌だった。
昼に外へ出なかった反動なのか、普段よりよく喋った。
やがて縁側に転がり、空を見上げたまま、まだ飲むと言い、誰にも相手にされなくなった。
タダは片付けに回った。
火のそばに、シンとユウガオが残った。
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「飲も」
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ユウガオが盃を持って来た。
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「いい」
「飲め」
「命令形」
「今日は逃げ回ってた罰」
「逃げてない」
「逃げてた」
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断れなかった。
盃を受け取る。
ユウガオの袖が腕に触れた。
薄い布だった。
夜花の香りがした。
いつもの匂いだった。
ダメにされそうなやつ。
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藍色の紐飾り。
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手首を見た。
何もない。
当たり前だ。
今日は平泉へ行っていない。
露店でユウガオが薄紫と藍の紐を取ることもなかった。
お揃いと言うこともなかった。
シンが金を払うことも、道の真ん中で焼き餅を食わされることもなかった。
あの馬鹿みたいに平和な一日は、なかったことになった。
シンだけが覚えている。
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「何見てるの」
「手首」
「自分の?」
「俺の」
「何か付いてる?」
「付いてない」
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ユウガオは首を傾げた。
シンは笑おうとして、うまくいかなかった。
付いていないことが、こんなに重いとは思わなかった。
ユウガオは知らない。
知らなくていい。
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「……何か、欲しいものあるか」
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口から出ていた。
ユウガオの目が止まる。
それから、ゆっくり細くなった。
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「何。急に」
「別に」
「別に、で女に欲しいもの聞く男はいないよ」
「そういうものか」
「そういうもの」
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ユウガオは盃を置いた。
座るというより、寄るように隣へ来る。
肩が触れた。
近い。
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「欲しいもの、ね」
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声が変わった。
白拍子の声だった。
舞台の上で、男たちの息を奪ってきた声。
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「都じゃ、男がそういうことを言う時、だいたい欲しいものは決まってた」
「参考にならない都だな」
「参考になる都だよ」
「ならない」
「怖い?」
「怖くない」
「嘘」
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ユウガオが笑う。
少し酔っていた。
目尻が柔らかかった。
だが、その奥は酔っていない。
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「私ね、近づいてくる男は珍しくなかった」
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風が通った。
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「近づいてくる理由も、だいたい同じ」
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軽く笑う。
でもその笑いは軽くない。
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「でもアンタは逃げる」
「逃げてない」
「逃げてる」
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さらに寄った。
膝が触れた。
香りが近くなった。
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「なのに急に、何か欲しいものあるか、なんて言う」
「言った」
「待ってたみたいに聞こえた?」
「言ってない」
「私は待ってた」
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シンは固まった。
ユウガオは楽しそうに笑った。
この女は、シンの逃げ道をかなり覚えてきている。
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「じゃあ、くれる?」
「何を」
「何だと思う?」
「金」
「情緒がない」
「肉」
「犬か何か?」
「酒」
「今ある」
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ユウガオの指が、シンの空の手首に触れた。
何もない場所をなぞる。
シンの胸が跳ねた。
そこに本当は、藍色の紐があった。
彼女は知らない。
知らないまま、同じ場所に触れている。
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「何か、無くした顔してる」
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シンは返せなかった。
ユウガオの笑みが、少しだけ消える。
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「何を無くしたの」
「……まだ、無くしてない」
「じゃあ、何を怖がってるの」
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そこまで聞かれると、もう逃げ場がなかった。
だからシンは盃を持った。
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「飲む」
「逃げた」
「飲むんだ」
「ほら、逃げてる」
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ユウガオが笑う。
シンは盃を一息で干した。
喉が焼ける。
腹が熱くなる。
頭の奥が少し遅れて揺れた。
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「もう一杯」
「弱いくせに?」
「弱いからだ」
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注がれる前に、シンは酒器を取った。
自分で注ぎ、また飲んだ。
ユウガオが声を上げて笑った。
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「やっぱり逃げてる」
「違う。戦略的撤退」
「同じ」
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ぐっと飲んだ。
世界が少し柔らかくなり、ユウガオの手が倒れそうになったシンの肩を支えた。
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「……馬鹿」
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その声は、さっきよりずっと近かった。
でも、妖艶ではなかった。
少しだけ困っていた。
少しだけ優しかった。
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「何かしてあげたいなら、生きてなよ」
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シンは返事をしようとした。
できなかった。
酒と疲れと死の記憶が、まとめて体を沈めた。
眠りに落ちる直前、空の手首にまだ指の感触が残っていた。
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翌朝だった。
無事だった。
起きた瞬間、シンはまず自分の胸に手を当てた。
傷はない。
体はある。
白は来ていない。
頭は割れそうに痛かった。
死の代わりに二日酔いを手に入れたらしい。
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「最悪だ……」
「生きてるだけ上等だ」
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廊下の向こうでタダが言った。
聞こえていたらしい。
否定できなかった。
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シンが外へ出ると、国衡が来ていた。
館の前に立っていた。
前に平泉で見た時より、疲れている。
目の下が重い。
朝の光の中でも、顔色が暗かった。
義経は縁側に転がっていた。
昨日の酒が残っているはずなのに、片目だけ開けて国衡を見ている。
ユウガオは少し離れたところで様子を見ていた。
昨夜のことは、何も言わない顔だった。
それが余計に怖い。
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「……もしもの話だ」
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国衡は静かな声で言った。
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「当主が、弟が駄目になった時」
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言葉を選んでいた。
選んでも、痛い言葉だった。
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「義経殿が衣川を離れねばならぬ時」
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紙を差し出した。
山の絵だった。
道が記されている。
沢。
尾根。
人目を避ける抜け道。
旧安倍氏側の隠れ里だと国衡は言った。
奥地だと言った。
人があまり知らない場所だと言った。
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「行かん」
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縁側から声がした。
義経だった。
目も開けずに、簡潔に答えた。
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「負けんしな」
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国衡は笑った。
疲れた笑いだった。
少しだけ寂しかった。
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「でしょうな」
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それでも、紙は下げなかった。
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「知っておいてください」
「俺は道を覚えるのが苦手だ」
「覚えるのは、そちらの方でもよい」
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国衡の目がシンへ向いた。
シンは紙を受け取った。
重かった。
紙一枚なのに、逃げるという選択の重さが乗っていた。
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「逃げる道を知るのも戦です」
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義経が目を開けた。
天井ではなく、空を見ていた。
何も言わなかった。
だが、目だけが少し変わった。
笑っていない。
国衡の疲れも、泰衡の異変も、奥州の空気の変わり目も、全部見えている目だった。
それでも逃げない男の目だった。
国衡は深く頭を下げた。
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「では」
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何も言わずに帰っていった。
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シンは紙を見た。
山の線が、昨夕死んだ道とは別の方へ伸びている。
知っておくべき道。
使いたくない道。
たぶん、いつか使う道。
雨の前の空気が、少しずつ重くなっていた。
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夜になった。
また宴になった。
誰が始めたわけでもなかった。
義経がいれば宴になる。
火があった。
肉があった。
酒があった。
だが、昨夜とは違った。
義経がかなり飲んでいた。
珍しかった。
酒が入るほど騒ぐ日ではなく、酒が入るほど静かになる日だった。
国衡の紙は、シンの荷の中にしまってある。
しまっても、そこにあることは分かった。
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「母上は綺麗だったぞ」
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唐突だった。
義経は火を見ていた。
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「常盤っていう」
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盃を回す。
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「俺は顔、あんまり覚えてないけど」
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火が揺れた。
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「でも寒かったのは覚えてる」
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少し間があった。
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「逃げてた」
「雪あった」
「俺、小さかった」
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淡々としていた。
昔話みたいに喋っていた。
でもどこか遠かった。
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「清盛公は怖かったな」
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義経が笑った。
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「でも優しかった」
「だから余計よく分からん」
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盃の酒を見た。
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「殺すなら最初から殺せばいい」
「生かすなら最後まで生かせばいい」
「途中で優しくするのは困る」
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火が小さく鳴った。
ユウガオが盃を止めた。
タダは黙って火を見ていた。
シンは何も言えなかった。
源義経。
名前だけなら知っている。
英雄。
悲劇の武将。
伝説。
けれど、目の前にいる男は、名前になる前に寒さを覚えていた。
母の顔より、逃げる雪の冷たさを覚えていた。
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「鞍馬は嫌いじゃなかった」
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義経は続けた。
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「山あるし」
「鹿いるし」
「師匠いたし」
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少し笑う。
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「でも俺、人じゃなかった」
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シンが顔を上げた。
義経はいつもの顔で笑っていた。
いつもの顔だから、余計に痛かった。
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「牛若」
「沙那王」
「鬼」
「源氏」
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指を折るように名を数える。
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「義経には、誰もならせてくれなかった」
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少し静かになった。
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「だから戦した」
「戦なら俺は俺でいられた」
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壇ノ浦の話になった。
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「赤い旗が沈んだ」
「海が赤かった」
「綺麗だった」
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義経は盃を見た。
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「勝ったと思った」
「これで兄上と笑えると思った」
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間があった。
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「違った」
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短かった。
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「兄上は怒った」
「俺は逃げた」
「今ここ」
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それだけだった。
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でも、義経は笑った。
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「まあいい!」
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急に声が戻った。
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「館燃えたら逃げる!」
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全員が顔を上げた。
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「海渡る!」
「馬賊やる!」
「子分いっぱい作る!」
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義経が指をさした。
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「シンも来い!」
「夕顔も!」
「タダは絶対来る!」
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タダが少し笑った。
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「俺は荷物か」
「柱だ!」
「余計に運びにくいな」
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ユウガオが笑った。
シンも笑った。
笑えた。
笑いながら、朝の紙を思い出した。
国衡の目を思い出した。
疲れた笑いを思い出した。
義経は盃を掲げた。
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「兄上びっくりさせてやる」
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火がその横顔を赤くした。
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「その時は、ちゃんと義経って呼ばせる」
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夕顔が笑った。
タダが少し笑った。
シンも笑った。
けれど、胸は重かった。
雨の前の空気が、また深く沈んだ。
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夜更けだった。
外に出た。
雨はまだ来ていなかった。
空気だけが重かった。
梅雨の前の重さだった。
遠くに平泉があった。
金の屋根は見えなかった。
暗かった。
シンは庭先に立ち、耳を澄ませた。
昨日はここで死ななかった。
だが、何かが遅れているだけかもしれない。
白桃は来なかった。
土佐坊も来なかった。
それで終わるはずがない。
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火がみえた。
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一本。
遠くに。
また一本。
次の一本。
また次の一本。
火は止まらなかった。
山の縁を伝うように、少しずつこちらへ寄っていた。
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(来た)
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前回とは違う。
山道の奇襲ではない。
だが、来た。
形を変えて、ちゃんと来た。
シンの喉が乾いた。
手首を見る。
やはり何もない。
藍色の紐はない。
けれど、無かったことになった一日の重さだけが、そこに巻きついている。
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足音が来た。
馬だった。
山道を潰すような勢いだった。
一人の男が駆け込んでくる。
国衡付きの使者だった。
衣に泥がついていた。
息が切れて、顔が青かった。
男は止まらず叫んだ。
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「衣川へ!」
「急げ!」
「兵が来る!」
「平泉が動いた!」
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内側から義経が出てきた。
酔っていたはずだった。
笑っていたはずだった。
笑顔はなかった。
立っていた。
静かだった。
さっきまで火の前で母の話をしていた男と、同じ男だった。
でも違った。
戦でしか自分になれなかった男の目が、夜の火を見ていた。
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「そうか」
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短く言った。
ユウガオが戸口に立つ。
タダが奥から大きな得物を取ってくる。
シンは国衡の紙を思い出した。
逃げ道。
知っておくのも戦。
そして、昨日の山道を思い出した。
泣きながら刃を振ったモモを思い出した。
彼女は探すと言ったのだろうか。
シンには分からない。
だが、消えていない。
それだけは、なぜか分かった。
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雨はまだ降らなかった。
ただ、来る前の重さだけが、館の上に沈んでいた。
シンは息を吸った。
今度は山道ではない。
今度は、家から始まる。
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(第百二話へ)




