衣川
第百二話 衣川
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使者が倒れた。
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膝から崩れた。
泥まみれの手が地面をつかんだ。
肩が上下していた。
息が続かない。
山道を潰すように馬を走らせてきたのだろう。息だけでなく、体の芯まで削れていた。衣には泥が跳ね、袖は裂け、片方の草鞋は半分ほど脱げかけている。
それでも男は顔を上げた。
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「兵が……」
「此方へ……向かっている」
「止まらん……止まらんのです」
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誰も動かなかった。
一瞬だけ、全員が止まった。
夜そのものが息を止めたようだった。
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ユウガオの顔から色が消えた。
タダが静かに立ち上がった。
シンは使者を見て、それから遠くの火を見た。
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増えていた。
さっきより増えていた。
山の端を伝って、こちらへ寄っていた。
火は叫ばない。
火は走らない。
ただ、増える。
一本ずつ増え、線になり、こちらへ近づく。
その静けさが、かえって恐ろしかった。
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義経だけが動かなかった。
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立っていた。
腕を組んでいた。
外を見ていた。
静かだった。
さっきまで母の話をして、海を渡って馬賊をやると言って、シンも夕顔もタダも来いと笑っていた男と同じ顔ではなかった。
同じ顔なのに、違っていた。
笑いの奥にしまわれていた刃が、すっと表へ出てきたようだった。
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(来た)
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シンの胸の中で、前の死が蘇った。
山道。
閃光。
白桃の目。
桃の匂い。
泣いていたモモ。
白い刃。
今回は山道ではない。
土佐坊の足音も、白桃の気配もまだない。
けれど、死が形を変えて近づいていることだけは分かった。
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(来た)
(とうとう来た)
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シンの手首には、やはり何もない。
藍色の紐も、薄紫の紐もない。
前の一日で手に入れた、あの小さな平和だけが、存在しなかったことになっている。
でも、火は存在した。
消えなかった。
変えたはずの今日の先で、別の形をして現れた。
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「鎌倉か」
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シンが言った。
言ってから、少し後悔した。
その名は、今ここで口にするには鋭すぎた。
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「違う」
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義経が即答した。
振り返らなかった。
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「なんで分かる」
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「兄上なら先に手紙が来る」
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間があった。
火の光が遠くで揺れた。
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「怒鳴る」
「説教する」
「使者を三回出す」
「ねちっこいからな」
「それからやっと動く」
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もう一度、間があった。
風が吹いた。
湿っていた。
火の匂いがした。
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「源頼朝は、黙って燃やさん」
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それだけだった。
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シンは言えなかった。
何も言えなかった。
義経はまだ頼朝を信じていた。
いや、違う。
信じているというより、兄のやり方を知っていた。
知りすぎていた。
怒る時の顔も、筋を通す時の面倒くささも、黙って人を刺す時の冷たさも、全部知っているからこそ、今夜の火は頼朝ではないと言い切った。
それは頼朝への信頼であり、同時に奥州への絶望でもあった。
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義経は、兵がどこから来ているのか分かっている。
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シンはそう思った。
それでも義経は、まだ名を出さなかった。
出せば終わる。
名を与えれば、敵になる。
友だったものが、守ってくれたものが、同じ釜の飯を食ったものが、敵になる。
だから義経は言わなかった。
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シンだけが苦しくなった。
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タダが使者の脇へ膝をついた。
大きな手で肩を支え、水を含ませる。
使者は飲むというより、こぼすように水を受けた。
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「国衡は」
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タダが聞いた。
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「こちらへ……」
「別路から……馬を……」
「当主を止めに戻ると……」
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使者の声はそこで潰れた。
国衡。
その名が出た瞬間、シンは朝の紙を思い出した。
山の絵。
沢。
尾根。
人目を避ける抜け道。
旧安倍氏側の隠れ里。
逃げる道を知るのも戦です。
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シンは懐を探った。
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紙だった。
朝に国衡から受け取った紙だった。
折り目がついていた。
手の中で少し湿っている。
雨はまだ降っていない。
汗だった。
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「……まだ行ける」
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声が出た。
出るつもりではなかった。
出た。
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「今なら逃げられる。山へ入れる」
「古い隠れ里だ。人が少ない。追えない」
「国衡が言ってた。逃げる道を知るのも戦だって」
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義経は振り返らなかった。
火を見ていた。
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「……行こう」
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ユウガオが言った。
普通の声のつもりだったのかもしれなかった。
でも震えていた。
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「今なら間に合う」
「ねえ、大将。行こう」
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怒っていなかった。
煽っていなかった。
いつものように笑ってもいなかった。
ただ怖かった。
失いたくなかった。
それだけだった。
白拍子の声ではなかった。
都で男を黙らせてきた声でもなかった。
この館で、義経の馬鹿な話に笑い、酒を注ぎ、シンをからかっていた女の声だった。
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タダが短く言った。
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「行け」
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静かだった。
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シンはタダを見た。
タダは義経を見ていた。
表情は動かなかった。
ただそれだけを言った。
行け。
大男の声は低く、揺れなかった。
それは願いではなく、判断だった。
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(本当に終わる)
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その声を聞いて、シンは思った。
タダがそう言うなら、終わる。
タダが食わせることではなく、逃がすことを選ぶなら、もう食卓の時間ではない。
肉も魚も汁も山菜も、今夜は何の役にも立たない。
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「俺は駄目だ」
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義経が言った。
静かだった。
怒ってもいなかった。
いつもと同じ声だった。
だから余計に、変えられない声だった。
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「俺が逃げれば兵は追ってくる」
「山へ入れば山ごと焼く」
「俺がいなくなれば、追う理由だけ残る」
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シンが反論した。
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「それはそうかもしれないけど」
「でも今逃げれば時間が稼げる」
「逃げ続ければ追いきれない」
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「俺が逃げ続けたら奥州は?」
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言葉が止まった。
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「国衡は?」
「泰衡は?」
「ここに残った人間は?」
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シンは言えなかった。
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逃げればいい。
そう言うのは簡単だった。
シンは何度も死んで、何度も戻ってきた。だから、生き延びることがどれほど大事か知っている。
でも、義経は戻らない。
ここで義経が逃げた場合、残された者たちも戻らない。
追われる者が増え、焼かれる山が増え、疑われる里が増えるだけかもしれない。
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「俺だけが終われば終わる」
「でも俺が逃げたら終わらん」
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義経が初めてシンを見た。
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「俺が残る方が早い」
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戦の話ではなかった。
奇襲の話でも、逆落としの話でも、壇ノ浦の話でもなかった。
将の話だった。
どこで自分を使い切るかという、静かな計算だった。
逃げる才能なら、義経にはある。
山も川も海も、たぶん人よりずっと上手く抜ける。
けれど、逃げた先に誰の火がつくかまで見えてしまった時、この男は逃げ道を道として見なくなる。
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シンは答えられなかった。
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「大将」
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ユウガオが小さく呼んだ。
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「悪いな」
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義経はそう言った。
それだけだった。
謝る声ではなかった。
でも、謝っていた。
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蹄の音がした。
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激しかった。
飛ぶような速さで来た。
馬が止まった。
人が降りた。
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国衡だった。
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服が汚れていた。
目の下が落ちていた。
馬を飛ばして来たのが分かった。
身体が疲れ切っていた。
だが腰の刀は抜かれていない。
誰かを斬って来た顔でもなかった。
止められなかった者の顔だった。
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国衡は館を見た。
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まだ残っていた。
火がなかった。
義経がいた。
ユウガオがいた。
タダがいた。
シンがいた。
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国衡の肩から力が抜けた。
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「……間に合った」
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小さかった。
本当に小さかった。
でもシンには聞こえた。
その声には、安堵よりも悔しさが混じっていた。
間に合った。
けれど、止めるには間に合っていない。
守るには間に合っていない。
ただ、最後の言葉を届ける時間だけには、かろうじて間に合った。
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国衡が義経へ近づいた。
立った。
深く頭を下げた。
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「申し訳ない」
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「謝るな」
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「ですが」
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「お前は悪くない」
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国衡は頭を上げなかった。
当主を止められなかった。
弟を止められなかった。
義経も守れなかった。
間に合わなかった。
全部分かっていた。
それでも来た。
それでも、来るしかなかった。
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「泰衡殿は」
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シンが聞いた。
聞くべきではないかもしれなかった。
でも聞いた。
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国衡の肩がわずかに動いた。
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「当主は、当主の顔をしていた」
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それは答えになっていなかった。
だが、十分だった。
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「怯えていた」
「怒っていた」
「奥州を守ると言っていた」
「義経殿を差し出さねば、すべてが焼かれると言っていた」
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国衡はようやく頭を上げた。
目が赤かった。
泣いた目ではない。
眠らず、怒りを飲み、言葉を削り尽くした目だった。
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「兄として止めた」
「臣として諫めた」
「藤原の血として、秀衡公の遺命を申した」
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そこで一度、息が詰まった。
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「何も届かなかった」
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国衡の声は静かだった。
静かすぎた。
叫ぶよりも苦しかった。
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義経が国衡の肩に手を置いた。
短かった。
一瞬だった。
でも確かだった。
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「お前は来た」
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義経が言った。
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「それでいい」
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国衡が初めて視線を落とした。
シンは見ていた。
兄として間に合わなかった顔だった。
家臣として守れなかった顔だった。
でも諦めた顔ではなかった。
何かをまだ、背負おうとしている顔だった。
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国衡が頭を上げた。
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「まだ間に合います」
「山へ入ってください」
「道は分かります」
「どうか」
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義経が少し笑った。
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「ありがとな、国」
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それだけだった。
返答はなかった。
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国。
その呼び方だけで、二人の間にあった時間が少し見えた。
客将と奥州の武者。
逃亡者と受け入れ側。
源氏と藤原。
そんな言葉では足りない何かが、そこにあった。
酒を飲み、馬の話をし、戦の話をし、兄弟の話はあまりしなかった二人。
国衡は義経を英雄として見ていた。
けれどそれだけではなかった。
たぶん、友でもあった。
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「義経殿」
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国衡が言った。
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「一度だけ、聞かせてください」
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「なんだ」
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「貴方が私を斬れと命じられたら」
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風が止まった。
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「貴方は、どうなさる」
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ユウガオが息を呑んだ。
シンも動けなかった。
タダだけが黙って国衡を見ていた。
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義経は少し考えた。
本当に少しだけだった。
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「逃げる」
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国衡が目を見開いた。
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「……逃げる、のですか」
「お前は斬りにくい」
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義経は真顔だった。
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「腕があるし、義理もあるし、顔が暗い」
「顔は関係ありませぬ」
「ある。斬りにくい顔だ」
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場違いなことを言っているはずなのに、誰も笑えなかった。
けれど国衡の口元だけが、ほんの少し動いた。
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「では、逃げてください」
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義経は首を振った。
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「お前が来るなら逃げる」
「兵が来るなら残る」
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国衡は黙った。
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それが、義経の答えだった。
友とは戦わない。
だが、兵と戦うか、兵の前で終わるかは別の話だ。
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シンだけが分かった。
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(使わない)
(最初から残るつもりだ)
(ずっと、そのつもりだった)
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胸が重くなった。
いつもの夜の笑い声が戻ってきた。
館燃えたら逃げると言っていた。
海を渡ると言っていた。
馬賊をやると言っていた。
子分をいっぱい作ると言っていた。
笑いながら言っていた。
嘘ではなかった。
でも本気でもなかった。
義経はただ、あの場を笑わせたかっただけだった。
最後の夜になるかもしれないと、どこかで分かっていたから。
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国衡が帰る前に、もう一度口を開いた。
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「当主を頼むとは言えん」
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声が少し乱れた。
でも続けた。
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「もう頼む資格も無い」
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「分かってる」
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義経が答えた。
短かった。
でも優しかった。
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「泰衡は」
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義経が珍しく名を出した。
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「奥州を守ろうとしているんだろ」
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国衡は答えなかった。
答えれば肯定になる。
肯定すれば、あの兵の火にも理由が生まれてしまう。
理由があることと、正しいことは同じではない。
国衡は、それを知っている顔だった。
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「俺はあいつを恨まん」
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義経が言った。
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「だが、褒めてもやらん」
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国衡は目を閉じた。
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「十分です」
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深く頭を下げた。
そのまま馬に戻った。
背中が重かった。
敗者の背中ではなかった。
何かを背負い直した背中だった。
奥州。
藤原。
弟。
当主。
そして、友を見捨てる罪。
全部背負って、国衡は馬に乗った。
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「国」
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義経が呼んだ。
国衡が振り返る。
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「生きろ」
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国衡の顔が歪んだ。
一瞬だけだった。
すぐに武者の顔へ戻った。
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「貴方も」
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義経は笑った。
答えなかった。
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蹄の音が遠くなった。
消えた。
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夜が深くなった。
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雨はまだ来なかった。
空気だけが重かった。
息を吸うと、湿った土の匂いがした。
館の中では誰も大きな声を出さなかった。
タダは使者を奥へ運び、寝かせた。
ユウガオは水を汲み、布を絞った。
シンは紙を握ったまま、しばらく動けなかった。
逃げ道はある。
手の中にある。
でも、手の中にあるだけだった。
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義経が縁側へ出た。
酒を持っていなかった。
ただ外を見ていた。
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シンが隣へ来た。
何も言わなかった。
義経も何も言わなかった。
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火が見えた。
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一本。
また一本。
また一本。
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増えていた。
確実に増えていた。
山の端を舐めるように、静かに近づいていた。
叫ばなかった。
走らなかった。
ただ近づいていた。
その静かさの中で、虫の声だけが聞こえた。
どこかで水が落ちる音がした。
風が木の葉を撫でた。
世界はまだ普通の夜を続けようとしていた。
人だけが、終わりを始めようとしていた。
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長い沈黙があった。
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義経が小さく言った。
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「雨、来そうだな」
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シンは答えられなかった。
昨日、ユウガオも同じようなことを言った。
雨、来るかもね。
あの時はまだ笑えた。
後付けで賢そうにするなと言われ、嘘ですと返せた。
たった一日前なのに、ずっと昔のことみたいだった。
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「シン」
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義経が呼んだ。
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「なんだ」
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「お前、死にそうな顔をしている」
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シンは少し笑った。
笑えたことに、自分で驚いた。
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「それ、最近よく言われる」
「なら飯を食え」
「今その話か」
「今だからだ」
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義経は火を見たまま言った。
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「腹が空いたまま死ぬのは嫌だろ」
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シンは返事に困った。
その理屈は、あまりにも義経で、あまりにもタダで、少しだけシンでもあった。
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「死ぬ前提で話すな」
「では生きる前提で食え」
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義経は簡単に言った。
簡単に言うことで、重さを少しだけ持ち上げた。
この人はたぶん、そうやってずっと生きてきた。
どうにもならないものを、笑いと飯と無茶で少しだけ軽くして、誰かが息を吸える隙間を作ってきた。
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ユウガオが後ろから二人を見ていた。
口を開かなかった。
静の顔が重なっているのかもしれなかった。
見届けてと言われた、その顔が。
でも今のユウガオは、ただ見届けるだけの女ではなかった。
逃げようと言った。
失いたくないと、震えた声で言った。
それでも義経の背中を見て、黙っていた。
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タダが火を見ていた。
今夜は何も焼かなかった。
遠くの火だけを見ていた。
あの大きな手が、いつもなら肉を裂き、魚を返し、椀を差し出す。
今はただ、得物の柄に添えられていた。
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誰も笑わなかった。
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シンは思った。
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(逃げ道はある)
(地図は持っている)
(使えば間に合うかもしれない)
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(でもこの人は使わない)
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(もう決めている)
(ずっと決めていた)
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風が来た。
湿っていた。
雨の匂いがした。
まだ降らなかった。
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「義経」
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シンは言った。
呼び捨てだった。
義経が少しだけ目を動かした。
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「なんだ」
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「俺はまだ諦めてない」
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義経は笑わなかった。
驚きもしなかった。
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「知ってる」
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短く言った。
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「お前はそういう顔だ」
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それだけで、なぜか胸が詰まった。
義経は逃げない。
でも、シンの諦めないことまでは止めない。
たぶん、そこに二人の道がある。
同じ方へ走れなくても、同じ火を見ている。
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衣川へ、火が近づいていた。
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(第百三話へ)




