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白桃 対 遮那王

第百三話 白桃 対 遮那王


⸻


 雨はまだ来なかった。


⸻


 けれど、来ているものはあった。


 兵だ。


⸻


 足音が近づく。


 無数の足音だった。


 一つ一つは小さい。


 合わさると、地面そのものが低く鳴る。


 鎧が擦れ、松明が揺れ、湿った夜気の中に油と汗と鉄の匂いが混じっていく。


 川の向こうの暗がりに、火が列をなして並んでいる。


 一本ではない。


 線だった。


 線になった火が、衣川を包んでいる。


⸻


 ユウガオは外を見ていた。


 言葉が出ない。


 引き戸の縁を掴む指が、白い。


⸻


 シンは懐の紙を握っていた。


 山道の絵。


 逃げ道。


 まだある。


 まだ使えるかもしれない。


 けれど、紙はただの紙だった。


 義経を動かす力はない。


⸻


 義経を見る。


⸻


 縁側にいる。


 動かない。


 遠くの火を見ている。


 怖れてもいない。


 怒ってもいない。


 ただ、見ている。


 近づいてくるものの重さも、そこから逃げない自分の重さも、全部分かっている顔だった。


⸻


 タダが立つ。


 大きな得物を手に取る。


 短く言った。


⸻


「来る」


⸻


 義経が少し笑う。


⸻


「来たな」


⸻


 その瞬間、逃げる時間が終わった。


⸻


⸻


 門の前で兵が割れる。


⸻


 人影が進み出た。


 黒い。


 白い。


 古傷がある。


 静かだ。


 土佐坊だった。


⸻


 その背後に、もう一人。


⸻


 白だった。


⸻


 音がない。


 感情もない。


 けれど、匂いだけはある。


 春の匂い。


 桃の匂い。


 それなのに冷たい。


 霜みたいに冷たい。


 春の形をした、冬より遠いもの。


⸻


 白桃。


⸻


 シンの喉が詰まる。


 足が床に貼り付く。


 体が覚えていた。


 山道。


 止まった風。


 刃が通る寸前の白。


 泣いていたモモ。


⸻


 ユウガオが一歩退く。


 それでも逃げない。


 シンの袖を掴んだまま、白を見ている。


⸻


 義経だけが前へ出た。


⸻


「桃女」


⸻


 返事はない。


 白桃は義経を見ている。


 いや、見ているのかも分からない。


 瞳に映っているのは人ではなく、座標のようだった。


⸻


 義経が少しだけ残念そうな顔をする。


⸻


「今日は喋らんか」


⸻


 白桃は答えない。


 代わりに、土佐坊が口を開いた。


⸻


「勅命だ」


「義経殿を回収する」


⸻


 義経が笑う。


⸻


「便利な言葉だな。勅命」


「何でも入る」


⸻


 土佐坊は笑わない。


 瞳の奥が黒く沈んでいる。


 人の怒りではない。


 人の信念でもない。


 何かを通された目だ。


⸻


 タダが、ずい、と前へ出る。


 縁側の板がわずかに鳴った。


 土佐坊がタダを見る。


⸻


「どけ、山め」


⸻


 タダが言った。


⸻


「山は動かんから山だ」


⸻


 短い。


⸻


 土佐坊の体が低くなった。


 肩が沈む。


 右足が、土を噛む。


 次に来るのは突進だと、シンにも分かった。


 分かった瞬間には、もう土佐坊が前へ出ている。


⸻


 真っ直ぐだった。


 避ける気がない。


 曲がる気もない。


 ただ、門から縁側までを一本の道にして、義経へ向かって来る。


 その進路に、タダが入った。


⸻


 土佐坊の拳が来る。


 タダは得物の柄を横にして受ける。


 拳と柄がぶつかった。


 音が遅れて爆ぜる。


 門脇の松明が消え、火の粉が横へ流れた。


 兵たちが一斉に退く。


 押されたのではない。


 近づけば巻き込まれると、体が勝手に理解したのだ。


⸻


 土佐坊は止まらない。


 受けられた拳をそのまま押し込む。


 タダも退かない。


 二人の足元で土が裂けた。


 裂け目が、門から縁側へ向かって伸びていく。


⸻


「重いな」


「軽いな」


⸻


 タダが押した。


 土佐坊が押し返す。


 力比べだ。


 ただし、人の力比べではない。


 山と山が押しあっているようなものだった。


⸻


 土佐坊が左へ踏み込む。


 義経の方へ抜けようとした。


 タダが横から肩を入れる。


 抜かせない。


 土佐坊の体が半歩ずれ、代わりに館の柱へぶつかった。


 柱が鳴る。


 屋根が揺れる。


 ユウガオが息を呑んだ。


⸻


 次の瞬間、土佐坊は戦い方を変えた。


 義経へ向かうのをやめる。


 タダを潰す方へ切り替えた。


⸻


 土佐坊の両腕が、タダの胴へ回る。


 タダも土佐坊の肩を掴む。


 二人が組み合った。


 近い。


 近すぎる。


 互いの息が顔に当たる距離で、二つの巨体が力を入れる。


 床が沈んだ。


 縁側の板が一枚、二枚、順に割れていく。


⸻


 兵の一人が、その隙に槍を突き出した。


 タダの脇を抜けて、義経へ届くと思ったのだろう。


 届かない。


 タダは土佐坊と組んだまま、片足だけを横へ出した。


 槍の柄を踏む。


 柄が折れる。


 折れた勢いで、兵の腕が地面へ引き込まれた。


 兵が叫ぶ。


⸻


 その一瞬、タダの顎が空いた。


 土佐坊の膝が入る。


 鈍い音。


 普通なら首が飛ぶ。


 タダは飛ばない。


 ただ、奥歯を噛んだ。


⸻


「硬いな」


「よく食ってる」


「答えになっておらん」


「俺にはなってる」


⸻


 タダの腕がさらに太くなる。


 土佐坊の腰が浮いた。


 投げるつもりだ。


 だが土佐坊は、浮きながら右手で館の柱を掴む。


 投げられまいとしたのではない。


 柱ごと、館を引きずり込むためだった。


⸻


 柱が裂けた。


 梁が落ちる。


 落ちる先に、シンとユウガオがいる。


 タダは土佐坊を掴んだまま、片手を離した。


 梁を払う。


 重い木材が横へ飛び、庭石を砕く。


 その代わり、土佐坊の拳がタダの腹へ入った。


 タダの体が、初めて後ろへ滑る。


 床板がまとめて剥がれた。


⸻


 シンにも、そこで分かった。


 タダはただ殴り合っているのではない。


 館を守っている。


 義経の背中を守っている。


 ユウガオのいる戸口を守り、シンの立つ場所を守り、崩れかけた屋根まで見ている。


 だから下がれない。


 だから、受けるしかない。


⸻


 土佐坊も、それに気づいた。


 口が歪む。


⸻


「お前、戦ではなく家を守っているな」


「家に飯がある」


「では、飯ごと潰す」


⸻


 土佐坊がタダを押し込んだ。


 狙いは縁側ではない。


 柱列だ。


 館を支えている柱へ、タダごとぶつける気だった。


⸻


 タダは一歩だけ退いた。


 退いた足で床を踏み抜く。


 踏み抜いた穴に踵を固定する。


 そこで体を捻った。


 土佐坊の突進を、正面から受けず、斜めへ逃がす。


 巨体の進路がずれた。


 柱列ではなく、外壁へ向かう。


⸻


 土佐坊が笑った。


 ずらされたと分かってなお、止まらない。


 むしろ加速する。


 タダも離さない。


 二人は組み合ったまま、壁へ突っ込んだ。


⸻


 壁が割れる。


 外の闇が開く。


 館の半分が、がくんと傾いた。


 畳が跳ね、戸が外れ、火鉢が転がる。


 シンはユウガオの腕を掴み、後ろへ引いた。


 火の粉が足元を走る。


⸻


「タダ!」


⸻


 シンが叫ぶ。


 タダは振り向かない。


 ただ、短く返す。


⸻


「こっちは任せろ」


⸻


 その声ごと、二人の体が館の外へ消えた。


 落ちたのではない。


 タダが、土佐坊を外へ押し出したのだ。


 館の中で戦えば全員が潰れる。


 だから、戦場そのものを移した。


⸻


 二人は庭の端の杉へぶつかった。


 まず、幹が曲がる。


 次に、根元が裂ける。


 最後に、大木が倒れた。


 倒れた杉が兵の列を割り、松明をまとめて押し潰す。


 叫びが上がる。


 火が地面へ散った。


⸻


 タダと土佐坊は止まらない。


 杉を砕いた勢いのまま、庭を越え、土塀を突き破る。


 その先は低い斜面だった。


 二人の巨体が斜面へ落ちる。


 落ちながらも殴り合っている。


 一度、土佐坊が上になる。


 タダが腰を捻り、逆に土佐坊を下へ叩きつける。


 土が噴き、細い木が三本まとめて折れた。


⸻


 そこから先は、姿が見えない。


 でも音は続く。


 木が倒れる音。


 土が崩れる音。


 何かを殴る音。


 何かが殴り返す音。


 遠くなっていくのに、まだ大きい。


⸻


 戦場が、ずれた。


 館の前から、タダと土佐坊が消える。


 その穴を埋めるように、白桃が進んだ。


⸻


⸻


 白桃が先制した。


⸻


 まず、真っ直ぐ。


 門の前から義経の喉まで、一本の白い線が引かれる。


 シンの目には、そう見えた。


 足音はない。


 白い袖が揺れたと思った瞬間、刃はもう義経の喉の前にある。


⸻


 義経が左へ退く。


 半歩だけ。


 本当に半歩。


 白桃の刃は、義経の喉があった場所を通り過ぎた。


 髪が数本、夜へ散る。


⸻


「速い」


⸻


 義経が笑った。


 シンは息を忘れる。


⸻


(今、避けたのか)


⸻


 二撃目。


 今度は横薙ぎ。


 白桃の刃が、義経の右肩から左腰へ抜ける線で走る。


 義経は受けた。


 だが、正面から止めない。


 刀を少しだけ斜めに寝かせる。


 白桃の力が義経の刀を滑り、横へ流れ、背後の柱を斬った。


 柱が一本、根元からずれる。


 義経の足は沈んでいない。


⸻


 三撃目。


 低い。


 足を刈る刃だ。


 義経は跳ばない。


 足を引く。


 引いた足で庭石を踏む。


 その庭石の上へ、体ごと乗った。


 刃は下を通る。


 庭の草が一列で切れた。


⸻


 四撃目。


 白桃はもう向きを変えている。


 低く抜けた刃を、そのまま上へ返した。


 足元から喉へ昇る刃。


 普通なら避けられない。


 義経は庭石を蹴った。


 後ろではない。


 前へ。


 白桃の内側へ入る。


 刃が上がり切る前に、義経の肩が白桃の肩の横をすり抜けた。


⸻


 白桃が振り向く。


 その時には、義経はもう背後にいる。


 刀が返っていた。


 白桃が受ける。


 初めて、受けた。


⸻


 音が夜を裂いた。


⸻


「いいな!」


⸻


 義経の声がした。


 嬉しそうだった。


 本当に嬉しそうだ。


⸻


 シンは困惑する。


⸻


(なんで)


(なんで楽しそうなんだ)


⸻


 白桃は止まらない。


 正面から来る。


 外される。


 横から来る。


 流される。


 低く斬る。


 踏まれる。


 背後を取る。


 義経はそのさらに外にいる。


⸻


 動きが速すぎて、全部は見えない。


 けれど、分かることはあった。


 白桃は線で殺しに来ている。


 義経は、その線の上に立たない。


 白桃が斬る場所に、義経はもういない。


 義経がいた場所だけが、遅れて壊れていく。


⸻


 庭石が割れた。


 松明が消えた。


 崩れかけた屋根の端が白い刃に削られ、板が雨のように落ちる。


 兵たちは後退していく。


 義経を討ちに来たはずの者たちが、もう近づけない。


 火を持つ背景になっている。


⸻


 白桃は人ではない。


 それはシンにも分かる。


 だが義経も、人の形をしているだけで、どこか人ではなかった。


⸻


 白桃は速い。


 義経は、そこにいない。


⸻


 白桃の動きは、見れば見るほど人間から遠い。


 膝を曲げる前に跳んでいる。


 肩が動く前に刃が来る。


 重心が崩れたはずの姿勢から、次の一撃へつながる。


 筋肉で動いているのではない。


 手順で動いている。


 世界を測り、最短を選び、無駄を殺している。


⸻


 なのに義経は、その無駄のなさを踏み台にした。


⸻


 白桃が最短で来るなら、最短の外に立つ。


 白桃が修正するなら、修正した先にもういない。


 白桃が足場を砕くなら、砕かれる前にその足場を使い終える。


 速さではない。


 力でもない。


 たぶん、場の取り方だった。


 山で育った子供が、落ちたら死ぬ枝の上で覚える感覚。


 どこへ足を置けば枝が折れるか。


 どこを蹴れば岩が崩れるか。


 どの瞬間なら、相手の目が自分を見失うか。


 義経はそれを、殺し合いの中で使っている。


⸻


 白桃の刃が届く。


 届いたはずの場所に、義経はいない。


 白桃が追う。


 追われているはずの義経が、いつの間にか白桃の脇へ立っている。


 攻めているのは白桃だ。


 だが、戦場を動かしているのは義経だった。


⸻


 白桃が動きを変える。


 一撃外れる。


 次の一撃で角度が変わる。


 足場を読まれる。


 次には足場そのものを砕く。


 間合いを外される。


 次には、間合いごと潰しに来る。


 学習している。


 この場で、義経に合わせて変わっている。


⸻


 それでも、義経はその先にいた。


⸻


「お前、考えるのが速いな」


⸻


 義経が言った。


 白桃の刃を潜りながら。


⸻


「でも速いだけだ」


⸻


 白桃の目が動く。


 感情ではない。


 照準だ。


⸻


 義経が笑う。


⸻


「考える前に跳べばいい」


⸻


 次の瞬間、義経は地面にいない。


 折れた柱を踏んでいる。


 柱が折れる。


 折れる前に、義経は次へ跳ぶ。


 屋根の残った縁へ。


 そこから真下へ落ちた。


 落ちるというより、降ってくる。


⸻


 白桃が刃を上げる。


 義経の刀が、その刃を上から叩いた。


 白桃の膝が初めて沈む。


⸻


 沈んだ。


⸻


 それだけで、シンには信じられない。


 白桃が押された。


 あの白が。


 シンを一度殺した白が。


 生身の人間に、押された。


⸻


 義経は着地しない。


 白桃の刃を踏んだ。


 刃を足場にした。


 白桃が手首を返すより早く、義経は宙で体を捻る。


 横から蹴るように刀を打ち込んだ。


 白桃が飛ぶ。


 庭石を割って着地した。


⸻


 兵たちがざわめく。


 ユウガオが口を覆った。


 シンは瞬きもできない。


⸻


 シンはまだ知らない。


 この先、白桃を相手にここまで完璧に勝ち切る生身の人間を、彼は見ることがない。


 ただこの夜だけ、衣川の崩れた館の前で、源義経という男だけが、白に届いていた。

⸻


⸻


 義経が変わっていく。


⸻


 少しずつだった。


 気づいた時には変わっている。


⸻


 武士の顔ではない。


 将の顔でもない。


 九郎判官の顔でもない。


 逃亡者の顔でもない。


 奥州を救うために自分を使い切る男の顔でもない。


⸻


 力が抜けていた。


 余分な全部が抜けている。


 残ったのは、ただ速いこと。


 ただ軽いこと。


 ただ楽しむこと。


⸻


 白桃が突撃した。


 義経が回転する。


 枝を踏む。


 倒れかけた杉を蹴る。


 地面から離れる。


 空から落ちるように来た。


 白桃が初めて、ほんの少し対応を遅らせる。


 そこで白桃は戦い方を変えた。


 点で狙うのをやめる。


 線で斬るのもやめる。


 面で潰しに来た。


⸻


 刃が空を横に裂く。


 斬撃ではない。


 白い壁だった。


 庭の草が一斉に倒れる。


 松明の火が横向きに伸び、兵の前髪が焼けた。


 義経の逃げる場所そのものを奪う攻撃だった。


⸻


 義経は笑う。


⸻


「それは困るな」


⸻


 困ると言いながら、困っていない。


 折れた柱の上を走る。


 倒れかけた屋根の端を踏む。


 落ちてきた瓦を、まるで飛び石のように使った。


 瓦は踏まれた瞬間に割れる。


 割れる前に、義経は次へ行く。


⸻


 白桃が追う。


 白桃の刃が屋根を削る。


 館の半分が本当に沈んだ。


 柱が折れ、壁が裂け、部屋の奥にあった膳や壺が夜へこぼれ出る。


 タダが昼に肉を切っていた場所も、さっきまで義経が酒を飲んでいた場所も、ひとつの音になって崩れた。


⸻


 それでも義経は落ちない。


 崩れる家を、足場にしている。


 壊れていく世界の中で、一番自由だった。


⸻


「懐かしいぞ」


⸻


 義経が言った。


 戦いながら。


 息は乱れていない。


 楽しそうだ。


⸻


「子供の時以来だ!」


⸻


 その顔を見て、シンは気づく。


⸻


(ああ)


⸻


(違う)


(義経じゃない)


(もっと前だ)


⸻


 鞍馬。


 木の上。


 夜の山。


 誰にも名前を押しつけられる前の体。


 牛若でも、源氏でも、鬼でも、義経でもない。


 枝を蹴り、岩を跳び、天狗と遊んでいた子供。


⸻


 遮那王。


⸻


 義経が、そこへ戻っていく。


⸻


 シンは震えた。


 でも目が離せない。


 怖いのに、綺麗だった。


 死が近づいているのに、胸のどこかが熱くなる。


 人間が、人間のまま、白に勝っている。


 その事実が、シンの中の何かを殴っていた。


⸻


⸻


 白桃の頬に、細い傷が入る。


 血はほとんど出ない。


 それでも赤い。


 白い頬に、赤が一本だけ走った。


⸻


 シンの胸が痛む。


 勝っている。


 義経は勝っている。


 それなのに、傷ついているのはモモだった。


 当たり前だ。


 白桃の体はモモの体だ。


 どれだけ白く冷えても、どれだけ命令で動いても、刃を受ける肉はモモのものだった。


⸻


 義経はそれを見た。


 見て、ほんの少しだけ目を細める。


 同情ではない。


 迷いでもない。


 相手が何であれ、斬らねばならない時の目だ。


 その目を見て、シンは分かってしまう。


 義経はこのまま勝つ。


 そして、勝ったら斬る。


⸻


 白桃が全開になる。


⸻


 桃の香りが急速に冷えた。


 春ではない。


 冬でもない。


 温度が消えた方向だった。


 匂いだけが甘く、空気だけが死んでいく。


⸻


 白雷が連続で落ちる。


 地面が割れた。


 館の屋根の端が崩れた。


 残っていた壁が、内側へ倒れる。


 ユウガオが叫んだ。


⸻


 シンが走ろうとした。


⸻


 ユウガオが腕を掴む。


⸻


「駄目」


「死ぬ」


⸻


 目が怖い。


 怒ってはいない。


 ただ怖い。


 失う怖さだった。


⸻


「でも」


⸻


 シンの声は掠れた。


⸻


「モモが」


⸻


 ユウガオの手に力が入る。


⸻


「あれは、今、アンタを殺す」


⸻


 分かっている。


 分かっているのに、体の奥が拒む。


⸻


 白桃が地面へ落ちる。


 すぐに起きる。


 また義経へ行く。


 止められる。


 また起きる。


 また行く。


 感情がない。


 痛みもない。


 命令だけがある。


⸻


 だが、あの体はモモだった。


 泣いていた。


 逃げろと言った。


 謝ろうとしていた。


 最後まで言えなかった。


⸻


(りょ)


(いや)


(にげて)


⸻


 全部が蘇る。


⸻


 今この瞬間も、モモはどこかで嫌だと思っているかもしれない。


 止まりたいと思っているかもしれない。


 義経の刃を受けながら、自分の体がまだ誰かを殺そうとしていることに、泣いているかもしれない。


 それでも白は動く。


 動かされている。


⸻


 シンは見ているしかない。


 見ているしかないことが、嫌だった。


⸻


 その時、斜面の下で轟音がした。


⸻


 タダと土佐坊だ。


 姿は見えない。


 だが音だけで分かる。


 何か巨大なものが倒れ、続いて土が噴いた。


 兵の列の一部がそちらへ流れる。


 松明が右へ左へ揺れる。


 庭の端の土塀が、遅れて崩れた。


⸻


「タダ……!」


⸻


 ユウガオが言う。


 答えはない。


 代わりに、土佐坊の怒号が遠くから響いた。


 そこへタダの低い声が重なる。


 内容は聞こえない。


 ただ、まだ戦っている。


 それだけは分かる。


⸻


 白桃はそちらを見ない。


 義経も見ない。


 二人の世界は、もう別のものになっていた。


⸻


 白桃が、シンたちのいる崩れた縁側の前まで押し込まれてきた。


 距離が近い。


 さっきまで庭の中央だった戦いが、いつの間にか目の前にある。


 白い袖が翻るたび、冷たい風がシンの頬を打つ。


 義経の足が、割れた床板の上を踏む。


 床板が折れる。


 折れる前に、義経はもう次の場所へいる。


⸻


 ユウガオはまだシンを掴んでいる。


 だが、その指も震えていた。


 目の前で、人の形をした二つの異常がぶつかっている。


 怖くないはずがなかった。


⸻


 義経が低くなる。


⸻


 初めてだった。


 笑いが消える。


 楽しさが消える。


 子供に戻っていた顔から、さらに何かが消えた。


 残ったのは、終わらせるための静けさ。


⸻


 武士の顔。


 将の顔。


 自分が斬るものを決めた者の顔だった。


⸻


 白桃が来る。


⸻


 今までで一番速い。


 門の方からではない。


 崩れた縁側のすぐ前から、庭石を蹴って、義経の胸へ飛び込んだ。


 白い雷が刃の前に出る。


 地面を裂きながら進む。


 その線上にいれば、人は死ぬ。


 鎧も肉も骨も、何の意味もない。


⸻


 義経が踏み込む。


⸻


 逃げない。


 退かない。


 前へ出る。


 白桃の速さに、さらに内側から入った。


⸻


 今度は、シンにも見えた。


⸻


 まず、義経の左足が動く。


 白桃の踏み込みの、ほんの外側へ置かれる。


 次に刀の峰が、白桃の手首を叩いた。


 白桃の柄がわずかに浮く。


 浮いた瞬間、義経の体は横へ抜ける。


 肩の横。


 背中の斜め後ろ。


 そして、真後ろ。


⸻


 白桃の体が開いた。


 人形の関節が外れたように、ほんの少しだけ軸がずれる。


 それで十分だった。


⸻


 義経の刃が上がる。


 首ではない。


 胴でもない。


 肩から胸へ落とす線。


 動きを止め、命を断つ線。


⸻


 勝ちだった。


⸻


 白桃が振り向く。


 間に合わない。


 義経の刃は、もう落ち始めている。


⸻


 その時、白桃の目が揺れた。


⸻


 本当に揺れたのか、シンの錯覚だったのかは分からない。


 でも、見えた。


 白い瞳の奥。


 冷たい膜の向こう。


 ほんの一瞬だけ、黒い瞳が戻ったように見えた。


⸻


 モモ。


⸻


 シンは、もう近くまで来ていた。


 走ったのではない。


 白桃が押し込まれ、義経が追い詰め、戦いの方がシンの前へ来ていた。


 だから距離は、たった二歩だった。


 ユウガオの指が、まだ袖にかかっている。


 それでも、二歩なら届く。


⸻


 頭は分かっていた。


 飛び込めば邪魔になる。


 義経の完璧な勝ち筋を壊す。


 白桃を助けることにもならない。


 自分だけが死ぬ。


 たぶん、前よりひどく死ぬ。


⸻


 でも、胸の奥で別のものが動いた。


⸻


 記録ではない。


 計算ではない。


 正しさでもない。


 名前のない衝動だった。


 モモを、斬らせたくない。


 それだけだった。


⸻


 シンは袖を振り切った。


⸻


「シン!」


⸻


 ユウガオの叫びが背中で裂ける。


 聞こえているのに、届かない。


 シンは一歩目を踏んだ。


 割れた床板が沈む。


 二歩目で、体ごと前へ投げ出す。


⸻


 白桃の前。


 義経の前。


 その間。


⸻


 シンはそこへ飛び込んだ。


⸻


 白桃を庇ったのではない。


 モモを庇った。


⸻


 義経の目が見開かれる。


 刃はもう落ちている。


 止まるはずがなかった。


 止まれる距離ではなかった。


 止めようと思って止まる速さではない。


⸻


⸻


 その一瞬が、すべてを白くした。


⸻


 白桃の目が、シンを見る。


 冷たい。


 遠い。


 白い。


⸻


 けれど、一瞬だけ揺れた。


⸻


 ユウガオの叫びが遠くで割れる。


 タダの轟音が、もっと遠くで鳴る。


 雨は、まだ降らない。


⸻


 視界が白くなる。


⸻


 桃の香りが、した。


⸻


⸻


 死


⸻


⸻


(第百四話へ)


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