義経
第百四話 義経
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死
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……んでなかった。
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シンは、しばらくそれが分からなかった。
視界は白い。
耳の奥で、ユウガオの悲鳴がまだ割れている。
遠くでタダと土佐坊のぶつかる音が鳴っている。
雨は、まだ降っていない。
桃の香りがした。
死ぬ時の匂いだと思った。
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けれど、痛みがなかった。
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喉がある。
息がある。
膝が震えている。
土の冷たさが足の裏にある。
血の熱さは、ない。
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頸筋に刃が置かれていた。
冷い。
薄い。
まるで最初からそこにあったみたいだった。
それだけだった。
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義経の刀だった。
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落ちてきたはずの刃。
止まるはずがなかった刃。
止まれる距離ではなかった刃。
それが、シンの頸筋に、ただ置かれている。
皮一枚。
触れているだけ。
斬っていない。
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義経がケラケラと笑った。
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「桃女のゴンゲンは追い払えたかな?」
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声が軽い。
いつもの声だ。
あまりにもいつも通りで、シンはかえって何も分からなくなった。
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「……え」
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それだけしか出ない。
死んだと思った。
死んだと確信した。
今度こそ首が落ちると思った。
なのに、首はまだついている。
義経の刀は止まっている。
しかも義経は笑っている。
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シンは何も言えなかった。
生きていた。
生きているのが分からなかった。
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義経が刀を引いた。
ゆっくりだった。
刃が離れた瞬間、頸筋に遅れて冷たさだけが残る。
シンはそこでようやく、膝から崩れかけた。
義経の手が襟を掴む。
倒れなかった。
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「おいおい。勝手に死ぬな」
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「……死んだかと」
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「死んでない」
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「なんで止まれるんだよ」
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義経は、少しだけ考えた。
本当に少しだけだった。
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「止めたからだ」
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「説明になってない」
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「俺にはなってる!」
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シンは返せなかった。
体の奥が震えていた。
怖さが遅れて来た。
死ななかったことが、怖かった。
何度死んでも、やはり怖かった。
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白桃が止まっていた。
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少し離れた場所に立っている。
頭を押さえていた。
膝が折れかけていた。
白い気配が薄くなっている。
さっきまで空気を殺していた冷たさが、ところどころ剥がれていた。
雪の下から、春の泥が覗くみたいに。
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白桃はシンを見た。
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その目が一瞬だけ動いた。
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白ではなかった。
白の前の、何かだった。
機械みたいな冷たさの奥に、何かが浮いた。
瞳の色が戻ったわけではない。
完全にモモになったわけでもない。
でも、そこに命令以外のものがあった。
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「………シン?」
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小さかった。
ほとんど音にならなかった。
でも確かだった。
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それだけだった。
白桃は膝をついた。
刀の切っ先が土を擦る。
白い肩が震えた。
頭を押さえる指に力が入る。
何かを拒んでいる。
何かを押し戻している。
それでも、もう一度名前は出なかった。
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シンは動けなかった。
その声がまだ耳の中にあった。
名前を呼んだ声だった。
命令ではなかった。
座標を読み上げる声ではなかった。
回収でも修正でもなかった。
モモだった。
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一歩踏み出そうとした。
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義経が静かに言った。
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「今じゃない」
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シンは止まった。
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義経は笑っていなかった。
珍しかった。
刀を下げ、白桃ではなく、斜面の下を見ている。
そこから、まだ轟音が響いていた。
木が倒れる音。
土が裂ける音。
山が削れるような音。
そして、タダの声ではない低い声。
土佐坊のものでもない、混ざった声。
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「タダの方を」
「桃女は大丈夫だ」
「たぶん」
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間があった。
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「たぶんって何だ」
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「たぶんは、たぶんだ」
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義経はもう一度だけ白桃を見た。
白桃は膝をついたまま、頭を押さえていた。
動かない。
だが呼吸はある。
浅い。
乱れている。
それでも、死んではいない。
シンを見ることもない。
ただ、何かに耐えている。
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シンは唇を噛んだ。
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(モモ……)
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走った。
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戦闘の跡だった。
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館の外に出た瞬間、景色が変わった。
庭ではなかった。
山肌だった。
土塀は割れている。
杉は根から倒れている。
地面は抉れ、低い斜面が大きな爪で掻き回されたみたいになっていた。
兵の松明が何本も落ちている。
火が草を舐めている。
踏み潰された足跡が、普通の人のものではなかった。
大きい。
深い。
二つの巨体が転がり、殴り合い、地面ごと押し潰した跡だ。
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土佐坊が膝をついていた。
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片膝。
頭を垂れている。
肩は上下していない。
手も動かない。
周りの兵は近づけずにいる。
土佐坊の背中に、折れた枝が何本も刺さっていた。
それでも死んだのか眠っているのか分からない。
ただ、そこだけ空気が重かった。
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「タダ!!」
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その少し先に、タダがいた。
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立っていた。
武器を持ったままだった。
目が閉じていた。
微動だにしなかった。
返事がない。
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「……タダ?」
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シンは止まった。
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息が喉の奥で詰まる。
足が動かない。
すぐ近くでユウガオが息を呑んだ。
その音がひどく遠く聞こえた。
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タダは立っている。
なのに、帰ってこない。
いつもなら、シンが近づけば目だけ動く。
腹が減ったか、火を見ろ、足元気をつけろ。
そんなことを言う。
でも今は何も言わない。
顔も動かない。
得物を持つ手だけが、夜の中で黒く固まっている。
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シンは何も言えなかった。
あの大きさだった。
あの静かさだった。
火の前で揺れない背中だった。
誰かの腹が減れば飯を作り、誰かが転べば手を出し、誰かが死にそうになれば体ごと前に出る背中だった。
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その背中が、動かない。
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(そうか)
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思ってしまった。
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(そういうことか)
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何かが胸の中で崩れた。
悲しいより先に、腹が冷えた。
次に、喉が熱くなった。
目の奥が痛くなる。
抑えようとした。
無理だった。
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「……タダ」
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声が壊れた。
返事はない。
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「タダ、なあ」
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シンは一歩近づいた。
足元の土が崩れる。
膝が笑う。
それでも近づいた。
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「……ふざけんなよ」
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声が大きくなった。
自分でも驚くほど大きかった。
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「なんでだよ」
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タダは動かない。
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「さっきまで飯の話してただろ」
「お前、いつもそうだろ」
「死ぬとか、そういう顔しないだろ」
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涙が出た。
止まらなかった。
熱い。
汚い。
鼻水まで出る。
格好悪い。
でも止まらない。
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「やだ」
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小さくなった。
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「タダ、やだ」
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ユウガオが何も言わずに口元を押さえた。
目を伏せる。
肩が震えている。
彼女も笑わない。
いつもの調子で茶化さない。
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シンはタダの足元まで来た。
見上げる。
大きい。
本当に大きい。
石みたいに動かない。
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「……やっぱり」
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声が出た。
震えていた。
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「弁慶だったんだ……」
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言った瞬間、涙がさらに出た。
理屈ではなかった。
歴史の知識でもなかった。
目の前の光景が、あまりにもそれに見えた。
立ったまま死ぬ男。
主を守って戦場をずらし、敵を止め、最後まで倒れない男。
タダが、そう見えた。
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ユウガオも静かに目を伏せた。
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「……大将を、守ったんだね」
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声がかすれていた。
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「嫌だ」
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シンは首を振った。
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「嫌だ、そういうの」
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「いや死んでないぞ」
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間があった。
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「え」
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シンが振り返った。
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義経が来ていた。
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シンの顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
義経はそれを見て、少しだけ口元を引きつらせた。
笑いを堪えている顔だった。
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「泣きすぎだろ」
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「だってお前、タダが……!」
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義経は返事をせず、刀の腹でタダの尻をピシャリと叩いた。
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「ん」
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タダが目を開けた。
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シンの顔が止まった。
涙も止まった。
口だけが開いた。
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「タダ!」
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シンはほとんど飛びついた。
タダの腹に顔からぶつかる。
硬い。
痛い。
でも温かかった。
生きている温かさだった。
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「痛い」
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「こっちの台詞だ馬鹿!」
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シンはタダの腹を何度も叩いた。
叩いてもほとんど響かない。
余計に腹が立つ。
余計に泣ける。
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ユウガオがへなへなと膝をついた。
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「ああもう……本当に……」
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言葉にならなかった。
そのまま笑った。
笑いながら泣いた。
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義経が腹を抱えた。
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「立ったまま寝る癖あるんだ、こいつ」
「門番やらせすぎた」
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タダが少し考えた。
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「そういえばたまにある」
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「たまにで済ますな!」
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シンの声が裏返った。
義経がさらに笑った。
ユウガオも笑った。
タダだけ無表情だった。
それがまた可笑しかった。
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シンは少し間を置いた。
真顔になった。
涙で顔はぐちゃぐちゃのままだった。
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(……立ち往生伝説って)
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少し考えた。
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(もしかしてこれ?)
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間があった。
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「いや、んなワケあるかッ!!!」
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自分で叫んだ。
義経が地面を叩いて笑った。
ユウガオもつられて笑う。
タダは何が可笑しいのか分からない顔をしている。
それでシンは、また少し泣いた。
今度はさっきとは違う涙だった。
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⸻
土佐坊が立った。
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笑いが止まる。
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ゆっくりだった。
片膝が上がる。
折れた枝が背中から落ちる。
肩が鳴る。
首が、ありえない角度から戻る。
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土佐坊の顔は土で汚れていた。
口の端から血が垂れている。
それでも痛そうではなかった。
怒ってもいない。
目が変わっていた。
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「我は……熊野、権現……」
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声が混ざっていた。
土佐坊の声ではなかった。
だが、土佐坊の声も混ざっている。
山の奥から響くような声。
御簾の向こうから下るような声。
命令の形をした声。
その全部が、一人の喉で擦れていた。
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「修正」
「回収」
「義経」
「不許可」
「再実行」
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シンの背中が冷える。
白桃の気配とは違う。
でも似ている。
人の中に、人ではない指示が入っている。
土佐坊という男の形を使って、何かが喋っている。
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義経が見た。
少し考えた。
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「……誰だお前」
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もう少し考えた。
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「知らん!」
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踏み込んだ。
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「とりあえず死ね」
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軽かった。
速かった。
怖くなかった。
義経だった。
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土佐坊が腕を振る。
義経はその下を通る。
白桃戦の後なのに、動きが鈍っていない。
むしろ軽い。
山の空気を吸った子供が、そのまま戦場に立っているみたいだった。
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また戦闘が始まる。
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義経が振り向かずに言った。
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「タダ、二人守れ」
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タダが得物を握り直す。
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「分かった」
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「俺も残る」
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シンが言った。
義経に即座に却下された。
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「いい」
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「しかし」
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「邪魔だ」
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「言い方!」
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義経は笑った。
土佐坊の拳を避けながら笑った。
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「やはり負ける気がしない」
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強がりではなかった。
本気だった。
本当に本気だった。
この状況で、本気でそう思っている顔だった。
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シンは言葉を失った。
土佐坊の背後では、兵たちがざわめいている。
白桃はまだ膝をついている。
遠くの松明は増えている。
館は傾き、火が回り始めている。
普通なら終わりだ。
誰が見ても終わりだ。
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でも義経だけが、終わりを終わりとして扱っていなかった。
⸻
⸻
義経がシンを見た。
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ほんの一瞬だけだった。
土佐坊の拳を刀の峰で受け、横へ流し、そのまま膝の裏を蹴る。
土佐坊の巨体が傾いた。
倒れはしない。
だが、一歩だけ遅れる。
義経はその一歩を、会話に使った。
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「兄上はたぶん怒る」
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少し笑った。
その間にも、義経の足は止まっていない。
土佐坊が掴みに来る。
義経は半身でかわし、すれ違いざまに腕を打つ。
骨が鳴る。
それでも土佐坊は止まらない。
熊野権現の声が、喉の奥で濁っている。
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「まあ、死ぬほど怒る」
「手紙三十通くらい来る」
「説教も長い」
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冗談みたいな声だった。
けれど、言葉と言葉の間には、刃の音が挟まっていた。
笑いながら喋っているのではない。
斬り結びながら、笑っている。
それが義経だった。
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シンは笑えなかった。
義経は笑っていた。
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「でもそのうち笑う」
「そのうち、きっとな」
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土佐坊が踏み込む。
地面が沈む。
義経は跳ばずに、逆へ沈んだ。
拳が頭上を通り過ぎる。
義経の刀が土佐坊の脇を打つ。
斬ったのではない。
押し戻した。
ほんの数歩。
シンたちが山道へ入るための、ほんの数歩だった。
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「……戻れなかったら」
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義経は遠くを見た。
川の向こうではなく、もっと遠く。
海の方を見ているようだった。
まだ見えない海。
行けたかもしれない海。
行くと言って笑った海。
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「やっぱり海渡る」
「面白そうなの集める」
「んで帰る」
⸻
土佐坊が吼えた。
義経の声が、その吼え声の合間を縫う。
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「その時また飲もう」
⸻
その声が、妙に普通だった。
明日の約束みたいだった。
だから余計に胸に刺さった。
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ユウガオを見た。
⸻
「酒残しとけよ」
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ユウガオは唇を噛んだ。
でも泣かなかった。
泣けば、義経が困る。
そう分かっている顔だった。
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「高い酒しか残さないよ」
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義経が土佐坊の拳をかわす。
かわしながら笑う。
⸻
「いい女だ」
⸻
「今さらだね」
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義経が笑う。
ユウガオも笑う。
笑っているのに、目が濡れていた。
⸻
タダを見た。
⸻
「山、頼む」
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タダは頷いた。
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「任せろ」
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「あと飯」
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「それも任せろ」
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「よし」
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そこで、土佐坊が完全に体勢を戻した。
熊野権現の声が太くなる。
もう、これ以上は話せない。
義経にも、それが分かった。
⸻
最後に義経は、もう一度シンを見た。
あの縁側の夜と同じ顔だった。
肉があって、酒があって、火があって、全員いた夜。
海を渡るだの、馬賊をやるだの、馬鹿みたいなことを言っていた顔。
それと同じ顔だった。
同じだから、苦しかった。
⸻
「待ってろ!」
⸻
それが最後だった。
⸻
義経は向き直った。
もう振り返らない。
⸻
土佐坊が吼える。
熊野権現の声が混ざる。
義経の刀が月のない夜を走る。
白桃が遠くで頭を押さえる。
館が軋む。
火が上がる。
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義経は義経だった。
⸻
逃亡者でも、敗者でも、悲劇の名でもない。
最後まで、ひとつの場所に留まらない男だった。
追われても、囲まれても、火の中でも、次にどこへ跳ぶかだけを見ている。
そんな男だった。
⸻
⸻
山道に向かう。
⸻
タダが先頭を走った。
ユウガオが続く。
シンが最後尾だった。
何度か後ろを見た。
衣川が見えた。
もう義経は見えない。
見えないのに、まだ声が聞こえる気がした。
笑い声。
刀の音。
待ってろ、という声。
⸻
手の中には、国衡の紙があった。
汗と泥で柔らかくなっている。
それでも道は読めた。
沢を越え、倒木を回り、古い獣道へ入る。
旧安倍氏側の隠れ里へ向かう道。
国衡がくれた道。
義経が使わなかった道。
今、シンたちだけが使っている道。
⸻
その事実が、痛かった。
⸻
中腹へ差し掛かった頃だった。
⸻
声が来た。
⸻
「毘沙門天!」
⸻
木の向こうから兵が出てきた。
奥州の服だった。
奥州の鎧だった。
顔は奥州の人間だった。
平泉で見た顔もある。
館の周りにいた者もいる。
薪を運んでいた若い男の顔もあった。
⸻
でも目が違った。
⸻
「義経を差し出せ!」
「奥州を守れ!」
「毘沙門天!」
⸻
彼らはシンたちを見ていた。
いや、見ているようで、見ていない。
目の奥に別のものがある。
声だけが命令を叫んでいる。
⸻
タダが前へ出た。
得物を構える。
⸻
「下がれ」
⸻
シンとユウガオが下がる。
だが背後にも足音があった。
別の兵だ。
こちらは奥州の鎧ではない。
衣の着方が違う。
都の匂いがする。
鎧の合わせも、掲げている旗も、平泉のものではなかった。
土佐坊の背後にいた者たちだ。
⸻
「熊野権現!」
「勅命!」
「義経回収!」
「誤差修正!」
⸻
前から奥州。
後ろから朝廷。
だが、どちらも同じ義経を狙っているはずだった。
同じシンたちを邪魔者として見ているはずだった。
⸻
なのに、ぶつかった。
⸻
奥州の兵が、朝廷の兵を突いた。
朝廷の兵が、奥州の兵を斬った。
互いに驚かない。
怒りもしない。
ただ別々の神の名を叫びながら、目の前のものを敵として処理している。
⸻
「毘沙門天!」
「熊野権現!」
「守れ!」
「回収!」
「焼け!」
「止めろ!」
「修正!」
「討て!」
⸻
混ざっていた。
叫ぶ声が違う声を呼んでいた。
隣の兵を突いた。
気づいていなかった。
また叫んだ。
別の名前を叫んだ。
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人が消えていた。
声だけが残っていた。
体だけが残っていた。
命令だけが、別々の神の名をかぶって歩いていた。
⸻
シンは見た。
奥州の兵が涙を流していた。
泣きながら槍を突いている。
朝廷の兵が笑っていた。
笑いながら、仲間の腕を斬っている。
どちらも自分でそうしている顔ではなかった。
どこか遠くから引かれている。
見えない糸が絡まり、結び目がほどけず、そのまま互いを裂いている。
⸻
(混線してる)
⸻
言葉だけが浮かんだ。
⸻
(命令が、混ざってる)
⸻
白桃が義経に破られた。
正面から。
完璧に。
たぶん、それで何かが狂った。
神託と呼ばれるもの。
命令と呼ばれるもの。
熊野も、毘沙門も、同じ場所へ義経を求めたまま、互いを敵と認識し始めている。
人間の戦ではない。
人間の体を使った、命令同士の衝突だった。
⸻
タダが前へ出た。
⸻
一人を押し返す。
二人目の槍を払う。
三人目の腕を掴んで木へ投げる。
殺してはいない。
でも全員を止めるには多すぎる。
⸻
三人来た。
また来た。
数が多かった。
タダでも押される。
さっき土佐坊と戦ったばかりだ。
立ったまま寝ていたとはいえ、無傷ではない。
肩から血が流れている。
腹を押さえる瞬間がある。
それでもタダは前にいる。
⸻
ユウガオが転んだ。
⸻
木の根に足を取られた。
シンが引き起こす。
足元は崖だった。
下は黒い。
落ちれば助からない。
前も塞がれている。
後ろも塞がれている。
右から奥州兵。
左から熊野権現兵。
その二つが互いに斬り合いながら、シンたちも巻き込もうとしている。
⸻
タダの得物が弾かれた。
シンの目の前に、槍の穂先が来る。
冷たい光。
避けられない。
⸻
白い影が来た。
⸻
モモだった。
⸻
白かった。
でも完全ではなかった。
揺れていた。
頭を押さえている。
息が乱れている。
足元も少しだけふらついていた。
⸻
それでも、刀を抜いた。
⸻
走った。
⸻
人外の速さで兵列へ入った。
止める間もなかった。
槍を弾く。
腕を打つ。
膝を払う。
斬る。
流す。
崩す。
殺すための刃ではない。
道を作るための刃だった。
⸻
白桃なら、全員を一瞬で殺したかもしれない。
でも今のモモはそうしなかった。
刃の角度が違う。
首ではなく柄。
胸ではなく肩。
胴ではなく足。
命令の線から、ほんの少しずつ外している。
外しながら、無理やり動いている。
⸻
兵が散った。
道ができていた。
⸻
モモが立っていた。
息が乱れていた。
刀を持ったまま動かない。
白い袖に泥がついている。
頬の傷から、赤が細く流れている。
⸻
「……今の、うち」
⸻
頭を押さえた。
白桃が戻ろうとしていた。
それに抗っていた。
指が髪を掴む。
爪が肌に食い込む。
それでも、モモは膝をつかない。
⸻
「行って……」
⸻
シンは動けなかった。
⸻
「モモ」
⸻
声が出た。
情けない声だった。
⸻
モモはシンを見なかった。
見れば戻れなくなると分かっているみたいだった。
振り返らなかった。
ただ、少しだけ肩が震えた。
⸻
「だい、じょうぶ」
⸻
嘘だった。
誰が聞いても嘘だった。
でもモモはそう言った。
⸻
「りょ……」
⸻
そこで声が割れた。
白い声が混ざる。
モモは唇を噛んだ。
⸻
「……まだ、りょ、じゃない」
⸻
それだけ言うと、自分から一歩下がった。
木の向こうへ消える。
白い袖が闇に溶けた。
追おうとしたシンの肩を、タダが掴んだ。
⸻
シンは見ていた。
追えなかった。
追わせてもらえなかった。
⸻
(……モモ)
⸻
「行くぞ」
⸻
タダが短く言った。
⸻
「でも」
⸻
「今は行く」
⸻
タダの声は硬かった。
その硬さに、シンは従うしかなかった。
⸻
走った。
⸻
⸻
山の中腹に出た。
⸻
三人いた。
息が上がっていた。
ユウガオが膝に手をついている。
タダが立っている。
シンも立っている。
でも誰も、無事という顔ではなかった。
⸻
遠くが見えた。
⸻
衣川が燃えていた。
⸻
白い光が何本も落ちていた。
止まらなかった。
空が白かった。
神が多すぎた。
人の戦ではなかった。
⸻
館から煙が上がり始めていた。
⸻
一本。
また一本。
また一本。
⸻
炎が見えた。
黄色かった。
赤かった。
衣川の水に揺れていた。
黒い煙が夜に貼りつき、風にちぎれて山へ流れる。
そこに、笑い声はもう届かない。
刀の音も届かない。
ただ、時々、白い光が走る。
そのたびに、燃える館の輪郭が浮かび上がる。
⸻
義経は見えなかった。
戦だけが見えた。
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長い沈黙があった。
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シンは思った。
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(義経は死なない)
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(死ぬヤツじゃない)
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(今も笑ってる)
(たぶん、今も)
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そう思わないと、立っていられなかった。
義経が死ぬところを想像できない。
あの男が終わるところを、どうしても思い浮かべられない。
燃えている館の中で、まだ別の足場を見つけ、誰も見えない場所へ跳んでいる気がした。
海へ行く道を、今この瞬間にも探している気がした。
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ユウガオは何も言わなかった。
黙って見ていた。
目が濡れていた。
拭わなかった。
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やがて、彼女が小さく笑った。
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「酒、残しとけってさ」
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声が震えていた。
⸻
「ほんと、勝手な大将だね」
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シンは答えられなかった。
答えたら泣きそうだった。
⸻
タダが火を見ていた。
表情は動かない。
でも火を見る目が、いつもとは違った。
いつも火を見る時、タダは飯のことを考えている。
焼き加減。
薪の湿り。
鍋の位置。
食べる者の腹。
今は違う。
今のタダは、何かを送るように火を見ていた。
⸻
風が来た。
⸻
煙の匂いだった。
義経がいた場所の煙だった。
肉の匂いがした。
酒の匂いがした。
焼けた木の匂いに混じって、あの夜の匂いがした。
縁側で笑っていた匂い。
飯があり、酒があり、馬鹿な話があり、誰もまだいなくなっていなかった匂い。
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シンは拳を握った。
⸻
戻れるなら、戻したい。
救えるなら、救いたい。
何度死んでも、そう思う。
けれど今は、走るしかなかった。
義経が残ったから。
モモが道を開けたから。
タダが行けと言ったから。
ユウガオが泣かずに立っているから。
⸻
衣川が燃えていた。
⸻
その火の中で、義経はまだ笑っている気がした。
⸻
⸻
(第百五話へ)




