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義経

第百四話 義経


⸻


 死


⸻


⸻


 ……んでなかった。


⸻


 シンは、しばらくそれが分からなかった。


 視界は白い。


 耳の奥で、ユウガオの悲鳴がまだ割れている。


 遠くでタダと土佐坊のぶつかる音が鳴っている。


 雨は、まだ降っていない。


 桃の香りがした。


 死ぬ時の匂いだと思った。


⸻


 けれど、痛みがなかった。


⸻


 喉がある。


 息がある。


 膝が震えている。


 土の冷たさが足の裏にある。


 血の熱さは、ない。


⸻


 頸筋に刃が置かれていた。


 冷い。


 薄い。


 まるで最初からそこにあったみたいだった。


 それだけだった。


⸻


 義経の刀だった。


⸻


 落ちてきたはずの刃。


 止まるはずがなかった刃。


 止まれる距離ではなかった刃。


 それが、シンの頸筋に、ただ置かれている。


 皮一枚。


 触れているだけ。


 斬っていない。


⸻


 義経がケラケラと笑った。


⸻


「桃女のゴンゲンは追い払えたかな?」


⸻


 声が軽い。


 いつもの声だ。


 あまりにもいつも通りで、シンはかえって何も分からなくなった。


⸻


「……え」


⸻


 それだけしか出ない。


 死んだと思った。


 死んだと確信した。


 今度こそ首が落ちると思った。


 なのに、首はまだついている。


 義経の刀は止まっている。


 しかも義経は笑っている。


⸻


 シンは何も言えなかった。


 生きていた。


 生きているのが分からなかった。


⸻


 義経が刀を引いた。


 ゆっくりだった。


 刃が離れた瞬間、頸筋に遅れて冷たさだけが残る。


 シンはそこでようやく、膝から崩れかけた。


 義経の手が襟を掴む。


 倒れなかった。


⸻


「おいおい。勝手に死ぬな」


⸻


「……死んだかと」


⸻


「死んでない」


⸻


「なんで止まれるんだよ」


⸻


 義経は、少しだけ考えた。


 本当に少しだけだった。


⸻


「止めたからだ」


⸻


「説明になってない」


⸻


「俺にはなってる!」


⸻


 シンは返せなかった。


 体の奥が震えていた。


 怖さが遅れて来た。


 死ななかったことが、怖かった。


 何度死んでも、やはり怖かった。


⸻


 白桃が止まっていた。


⸻


 少し離れた場所に立っている。


 頭を押さえていた。


 膝が折れかけていた。


 白い気配が薄くなっている。


 さっきまで空気を殺していた冷たさが、ところどころ剥がれていた。


 雪の下から、春の泥が覗くみたいに。


⸻


 白桃はシンを見た。


⸻


 その目が一瞬だけ動いた。


⸻


 白ではなかった。


 白の前の、何かだった。


 機械みたいな冷たさの奥に、何かが浮いた。


 瞳の色が戻ったわけではない。


 完全にモモになったわけでもない。


 でも、そこに命令以外のものがあった。


⸻


「………シン?」


⸻


 小さかった。


 ほとんど音にならなかった。


 でも確かだった。


⸻


 それだけだった。


 白桃は膝をついた。


 刀の切っ先が土を擦る。


 白い肩が震えた。


 頭を押さえる指に力が入る。


 何かを拒んでいる。


 何かを押し戻している。


 それでも、もう一度名前は出なかった。


⸻


 シンは動けなかった。


 その声がまだ耳の中にあった。


 名前を呼んだ声だった。


 命令ではなかった。


 座標を読み上げる声ではなかった。


 回収でも修正でもなかった。


 モモだった。


⸻


 一歩踏み出そうとした。


⸻


 義経が静かに言った。


⸻


「今じゃない」


⸻


 シンは止まった。


⸻


 義経は笑っていなかった。


 珍しかった。


 刀を下げ、白桃ではなく、斜面の下を見ている。


 そこから、まだ轟音が響いていた。


 木が倒れる音。


 土が裂ける音。


 山が削れるような音。


 そして、タダの声ではない低い声。


 土佐坊のものでもない、混ざった声。


⸻


「タダの方を」


「桃女は大丈夫だ」


「たぶん」


⸻


 間があった。


⸻


「たぶんって何だ」


⸻


「たぶんは、たぶんだ」


⸻


 義経はもう一度だけ白桃を見た。


 白桃は膝をついたまま、頭を押さえていた。


 動かない。


 だが呼吸はある。


 浅い。


 乱れている。


 それでも、死んではいない。


 シンを見ることもない。


 ただ、何かに耐えている。


⸻


 シンは唇を噛んだ。


⸻


(モモ……)


⸻


 走った。


⸻


⸻


 戦闘の跡だった。


⸻


 館の外に出た瞬間、景色が変わった。


 庭ではなかった。


 山肌だった。


 土塀は割れている。


 杉は根から倒れている。


 地面は抉れ、低い斜面が大きな爪で掻き回されたみたいになっていた。


 兵の松明が何本も落ちている。


 火が草を舐めている。


 踏み潰された足跡が、普通の人のものではなかった。


 大きい。


 深い。


 二つの巨体が転がり、殴り合い、地面ごと押し潰した跡だ。


⸻


 土佐坊が膝をついていた。


⸻


 片膝。


 頭を垂れている。


 肩は上下していない。


 手も動かない。


 周りの兵は近づけずにいる。


 土佐坊の背中に、折れた枝が何本も刺さっていた。


 それでも死んだのか眠っているのか分からない。


 ただ、そこだけ空気が重かった。


⸻


「タダ!!」


⸻


 その少し先に、タダがいた。


⸻


 立っていた。


 武器を持ったままだった。


 目が閉じていた。


 微動だにしなかった。


 返事がない。


⸻


「……タダ?」


⸻


 シンは止まった。


⸻


 息が喉の奥で詰まる。


 足が動かない。


 すぐ近くでユウガオが息を呑んだ。


 その音がひどく遠く聞こえた。


⸻


 タダは立っている。


 なのに、帰ってこない。


 いつもなら、シンが近づけば目だけ動く。


 腹が減ったか、火を見ろ、足元気をつけろ。


 そんなことを言う。


 でも今は何も言わない。


 顔も動かない。


 得物を持つ手だけが、夜の中で黒く固まっている。


⸻


 シンは何も言えなかった。


 あの大きさだった。


 あの静かさだった。


 火の前で揺れない背中だった。


 誰かの腹が減れば飯を作り、誰かが転べば手を出し、誰かが死にそうになれば体ごと前に出る背中だった。


⸻


 その背中が、動かない。


⸻


(そうか)


⸻


 思ってしまった。


⸻


(そういうことか)


⸻


 何かが胸の中で崩れた。


 悲しいより先に、腹が冷えた。


 次に、喉が熱くなった。


 目の奥が痛くなる。


 抑えようとした。


 無理だった。


⸻


「……タダ」


⸻


 声が壊れた。


 返事はない。


⸻


「タダ、なあ」


⸻


 シンは一歩近づいた。


 足元の土が崩れる。


 膝が笑う。


 それでも近づいた。


⸻


「……ふざけんなよ」


⸻


 声が大きくなった。


 自分でも驚くほど大きかった。


⸻


「なんでだよ」


⸻


 タダは動かない。


⸻


「さっきまで飯の話してただろ」


「お前、いつもそうだろ」


「死ぬとか、そういう顔しないだろ」


⸻


 涙が出た。


 止まらなかった。


 熱い。


 汚い。


 鼻水まで出る。


 格好悪い。


 でも止まらない。


⸻


「やだ」


⸻


 小さくなった。


⸻


「タダ、やだ」


⸻


 ユウガオが何も言わずに口元を押さえた。


 目を伏せる。


 肩が震えている。


 彼女も笑わない。


 いつもの調子で茶化さない。


⸻


 シンはタダの足元まで来た。


 見上げる。


 大きい。


 本当に大きい。


 石みたいに動かない。


⸻


「……やっぱり」


⸻


 声が出た。


 震えていた。


⸻


「弁慶だったんだ……」


⸻


 言った瞬間、涙がさらに出た。


 理屈ではなかった。


 歴史の知識でもなかった。


 目の前の光景が、あまりにもそれに見えた。


 立ったまま死ぬ男。


 主を守って戦場をずらし、敵を止め、最後まで倒れない男。


 タダが、そう見えた。


⸻


 ユウガオも静かに目を伏せた。


⸻


「……大将を、守ったんだね」


⸻


 声がかすれていた。


⸻


「嫌だ」


⸻


 シンは首を振った。


⸻


「嫌だ、そういうの」


⸻


「いや死んでないぞ」


⸻


 間があった。


⸻


「え」


⸻


 シンが振り返った。


⸻


 義経が来ていた。


⸻


 シンの顔は涙でぐちゃぐちゃだった。


 義経はそれを見て、少しだけ口元を引きつらせた。


 笑いを堪えている顔だった。


⸻


「泣きすぎだろ」


⸻


「だってお前、タダが……!」


⸻


 義経は返事をせず、刀の腹でタダの尻をピシャリと叩いた。


⸻


「ん」


⸻


 タダが目を開けた。


⸻


 シンの顔が止まった。


 涙も止まった。


 口だけが開いた。


⸻


「タダ!」


⸻


 シンはほとんど飛びついた。


 タダの腹に顔からぶつかる。


 硬い。


 痛い。


 でも温かかった。


 生きている温かさだった。


⸻


「痛い」


⸻


「こっちの台詞だ馬鹿!」


⸻


 シンはタダの腹を何度も叩いた。


 叩いてもほとんど響かない。


 余計に腹が立つ。


 余計に泣ける。


⸻


 ユウガオがへなへなと膝をついた。


⸻


「ああもう……本当に……」


⸻


 言葉にならなかった。


 そのまま笑った。


 笑いながら泣いた。


⸻


 義経が腹を抱えた。


⸻


「立ったまま寝る癖あるんだ、こいつ」


「門番やらせすぎた」


⸻


 タダが少し考えた。


⸻


「そういえばたまにある」


⸻


「たまにで済ますな!」


⸻


 シンの声が裏返った。


 義経がさらに笑った。


 ユウガオも笑った。


 タダだけ無表情だった。


 それがまた可笑しかった。


⸻


 シンは少し間を置いた。


 真顔になった。


 涙で顔はぐちゃぐちゃのままだった。


⸻


(……立ち往生伝説って)


⸻


 少し考えた。


⸻


(もしかしてこれ?)


⸻


 間があった。


⸻


「いや、んなワケあるかッ!!!」


⸻


 自分で叫んだ。


 義経が地面を叩いて笑った。


 ユウガオもつられて笑う。


 タダは何が可笑しいのか分からない顔をしている。


 それでシンは、また少し泣いた。


 今度はさっきとは違う涙だった。


⸻


⸻


 土佐坊が立った。


⸻


 笑いが止まる。


⸻


 ゆっくりだった。


 片膝が上がる。


 折れた枝が背中から落ちる。


 肩が鳴る。


 首が、ありえない角度から戻る。


⸻


 土佐坊の顔は土で汚れていた。


 口の端から血が垂れている。


 それでも痛そうではなかった。


 怒ってもいない。


 目が変わっていた。


⸻


「我は……熊野、権現……」


⸻


 声が混ざっていた。


 土佐坊の声ではなかった。


 だが、土佐坊の声も混ざっている。


 山の奥から響くような声。


 御簾の向こうから下るような声。


 命令の形をした声。


 その全部が、一人の喉で擦れていた。


⸻


「修正」


「回収」


「義経」


「不許可」


「再実行」


⸻


 シンの背中が冷える。


 白桃の気配とは違う。


 でも似ている。


 人の中に、人ではない指示が入っている。


 土佐坊という男の形を使って、何かが喋っている。


⸻


 義経が見た。


 少し考えた。


⸻


「……誰だお前」


⸻


 もう少し考えた。


⸻


「知らん!」


⸻


 踏み込んだ。


⸻


「とりあえず死ね」


⸻


 軽かった。


 速かった。


 怖くなかった。


 義経だった。


⸻


 土佐坊が腕を振る。


 義経はその下を通る。


 白桃戦の後なのに、動きが鈍っていない。


 むしろ軽い。


 山の空気を吸った子供が、そのまま戦場に立っているみたいだった。


⸻


 また戦闘が始まる。


⸻


 義経が振り向かずに言った。


⸻


「タダ、二人守れ」


⸻


 タダが得物を握り直す。


⸻


「分かった」


⸻


「俺も残る」


⸻


 シンが言った。


 義経に即座に却下された。


⸻


「いい」


⸻


「しかし」


⸻


「邪魔だ」


⸻


「言い方!」


⸻


 義経は笑った。


 土佐坊の拳を避けながら笑った。


⸻


「やはり負ける気がしない」


⸻


 強がりではなかった。


 本気だった。


 本当に本気だった。


 この状況で、本気でそう思っている顔だった。


⸻


 シンは言葉を失った。


 土佐坊の背後では、兵たちがざわめいている。


 白桃はまだ膝をついている。


 遠くの松明は増えている。


 館は傾き、火が回り始めている。


 普通なら終わりだ。


 誰が見ても終わりだ。


⸻


 でも義経だけが、終わりを終わりとして扱っていなかった。


⸻


⸻


 義経がシンを見た。


⸻


 ほんの一瞬だけだった。


 土佐坊の拳を刀の峰で受け、横へ流し、そのまま膝の裏を蹴る。


 土佐坊の巨体が傾いた。


 倒れはしない。


 だが、一歩だけ遅れる。


 義経はその一歩を、会話に使った。


⸻


「兄上はたぶん怒る」


⸻


 少し笑った。


 その間にも、義経の足は止まっていない。


 土佐坊が掴みに来る。


 義経は半身でかわし、すれ違いざまに腕を打つ。


 骨が鳴る。


 それでも土佐坊は止まらない。


 熊野権現の声が、喉の奥で濁っている。


⸻


「まあ、死ぬほど怒る」


「手紙三十通くらい来る」


「説教も長い」


⸻


 冗談みたいな声だった。


 けれど、言葉と言葉の間には、刃の音が挟まっていた。


 笑いながら喋っているのではない。


 斬り結びながら、笑っている。


 それが義経だった。


⸻


 シンは笑えなかった。


 義経は笑っていた。


⸻


「でもそのうち笑う」


「そのうち、きっとな」


⸻


 土佐坊が踏み込む。


 地面が沈む。


 義経は跳ばずに、逆へ沈んだ。


 拳が頭上を通り過ぎる。


 義経の刀が土佐坊の脇を打つ。


 斬ったのではない。


 押し戻した。


 ほんの数歩。


 シンたちが山道へ入るための、ほんの数歩だった。


⸻


「……戻れなかったら」


⸻


 義経は遠くを見た。


 川の向こうではなく、もっと遠く。


 海の方を見ているようだった。


 まだ見えない海。


 行けたかもしれない海。


 行くと言って笑った海。


⸻


「やっぱり海渡る」


「面白そうなの集める」


「んで帰る」


⸻


 土佐坊が吼えた。


 義経の声が、その吼え声の合間を縫う。


⸻


「その時また飲もう」


⸻


 その声が、妙に普通だった。


 明日の約束みたいだった。


 だから余計に胸に刺さった。


⸻


 ユウガオを見た。


⸻


「酒残しとけよ」


⸻


 ユウガオは唇を噛んだ。


 でも泣かなかった。


 泣けば、義経が困る。


 そう分かっている顔だった。


⸻


「高い酒しか残さないよ」


⸻


 義経が土佐坊の拳をかわす。


 かわしながら笑う。


⸻


「いい女だ」


⸻


「今さらだね」


⸻


 義経が笑う。


 ユウガオも笑う。


 笑っているのに、目が濡れていた。


⸻


 タダを見た。


⸻


「山、頼む」


⸻


 タダは頷いた。


⸻


「任せろ」


⸻


「あと飯」


⸻


「それも任せろ」


⸻


「よし」


⸻


 そこで、土佐坊が完全に体勢を戻した。


 熊野権現の声が太くなる。


 もう、これ以上は話せない。


 義経にも、それが分かった。


⸻


 最後に義経は、もう一度シンを見た。


 あの縁側の夜と同じ顔だった。


 肉があって、酒があって、火があって、全員いた夜。


 海を渡るだの、馬賊をやるだの、馬鹿みたいなことを言っていた顔。


 それと同じ顔だった。


 同じだから、苦しかった。


⸻


「待ってろ!」


⸻


 それが最後だった。


⸻


 義経は向き直った。


 もう振り返らない。


⸻


 土佐坊が吼える。


 熊野権現の声が混ざる。


 義経の刀が月のない夜を走る。


 白桃が遠くで頭を押さえる。


 館が軋む。


 火が上がる。


⸻


 義経は義経だった。


⸻


 逃亡者でも、敗者でも、悲劇の名でもない。


 最後まで、ひとつの場所に留まらない男だった。


 追われても、囲まれても、火の中でも、次にどこへ跳ぶかだけを見ている。


 そんな男だった。


⸻


⸻


 山道に向かう。


⸻


 タダが先頭を走った。


 ユウガオが続く。


 シンが最後尾だった。


 何度か後ろを見た。


 衣川が見えた。


 もう義経は見えない。


 見えないのに、まだ声が聞こえる気がした。


 笑い声。


 刀の音。


 待ってろ、という声。


⸻


 手の中には、国衡の紙があった。


 汗と泥で柔らかくなっている。


 それでも道は読めた。


 沢を越え、倒木を回り、古い獣道へ入る。


 旧安倍氏側の隠れ里へ向かう道。


 国衡がくれた道。


 義経が使わなかった道。


 今、シンたちだけが使っている道。


⸻


 その事実が、痛かった。


⸻


 中腹へ差し掛かった頃だった。


⸻


 声が来た。


⸻


「毘沙門天!」


⸻


 木の向こうから兵が出てきた。


 奥州の服だった。


 奥州の鎧だった。


 顔は奥州の人間だった。


 平泉で見た顔もある。


 館の周りにいた者もいる。


 薪を運んでいた若い男の顔もあった。


⸻


 でも目が違った。


⸻


「義経を差し出せ!」


「奥州を守れ!」


「毘沙門天!」


⸻


 彼らはシンたちを見ていた。


 いや、見ているようで、見ていない。


 目の奥に別のものがある。


 声だけが命令を叫んでいる。


⸻


 タダが前へ出た。


 得物を構える。


⸻


「下がれ」


⸻


 シンとユウガオが下がる。


 だが背後にも足音があった。


 別の兵だ。


 こちらは奥州の鎧ではない。


 衣の着方が違う。


 都の匂いがする。


 鎧の合わせも、掲げている旗も、平泉のものではなかった。


 土佐坊の背後にいた者たちだ。


⸻


「熊野権現!」


「勅命!」


「義経回収!」


「誤差修正!」


⸻


 前から奥州。


 後ろから朝廷。


 だが、どちらも同じ義経を狙っているはずだった。


 同じシンたちを邪魔者として見ているはずだった。


⸻


 なのに、ぶつかった。


⸻


 奥州の兵が、朝廷の兵を突いた。


 朝廷の兵が、奥州の兵を斬った。


 互いに驚かない。


 怒りもしない。


 ただ別々の神の名を叫びながら、目の前のものを敵として処理している。


⸻


「毘沙門天!」


「熊野権現!」


「守れ!」


「回収!」


「焼け!」


「止めろ!」


「修正!」


「討て!」


⸻


 混ざっていた。


 叫ぶ声が違う声を呼んでいた。


 隣の兵を突いた。


 気づいていなかった。


 また叫んだ。


 別の名前を叫んだ。


⸻


 人が消えていた。


 声だけが残っていた。


 体だけが残っていた。


 命令だけが、別々の神の名をかぶって歩いていた。


⸻


 シンは見た。


 奥州の兵が涙を流していた。


 泣きながら槍を突いている。


 朝廷の兵が笑っていた。


 笑いながら、仲間の腕を斬っている。


 どちらも自分でそうしている顔ではなかった。


 どこか遠くから引かれている。


 見えない糸が絡まり、結び目がほどけず、そのまま互いを裂いている。


⸻


(混線してる)


⸻


 言葉だけが浮かんだ。


⸻


(命令が、混ざってる)


⸻


 白桃が義経に破られた。


 正面から。


 完璧に。


 たぶん、それで何かが狂った。


 神託と呼ばれるもの。


 命令と呼ばれるもの。


 熊野も、毘沙門も、同じ場所へ義経を求めたまま、互いを敵と認識し始めている。


 人間の戦ではない。


 人間の体を使った、命令同士の衝突だった。


⸻


 タダが前へ出た。


⸻


 一人を押し返す。


 二人目の槍を払う。


 三人目の腕を掴んで木へ投げる。


 殺してはいない。


 でも全員を止めるには多すぎる。


⸻


 三人来た。


 また来た。


 数が多かった。


 タダでも押される。


 さっき土佐坊と戦ったばかりだ。


 立ったまま寝ていたとはいえ、無傷ではない。


 肩から血が流れている。


 腹を押さえる瞬間がある。


 それでもタダは前にいる。


⸻


 ユウガオが転んだ。


⸻


 木の根に足を取られた。


 シンが引き起こす。


 足元は崖だった。


 下は黒い。


 落ちれば助からない。


 前も塞がれている。


 後ろも塞がれている。


 右から奥州兵。


 左から熊野権現兵。


 その二つが互いに斬り合いながら、シンたちも巻き込もうとしている。


⸻


 タダの得物が弾かれた。


 シンの目の前に、槍の穂先が来る。


 冷たい光。


 避けられない。


⸻


 白い影が来た。


⸻


 モモだった。


⸻


 白かった。


 でも完全ではなかった。


 揺れていた。


 頭を押さえている。


 息が乱れている。


 足元も少しだけふらついていた。


⸻


 それでも、刀を抜いた。


⸻


 走った。


⸻


 人外の速さで兵列へ入った。


 止める間もなかった。


 槍を弾く。


 腕を打つ。


 膝を払う。


 斬る。


 流す。


 崩す。


 殺すための刃ではない。


 道を作るための刃だった。


⸻


 白桃なら、全員を一瞬で殺したかもしれない。


 でも今のモモはそうしなかった。


 刃の角度が違う。


 首ではなく柄。


 胸ではなく肩。


 胴ではなく足。


 命令の線から、ほんの少しずつ外している。


 外しながら、無理やり動いている。


⸻


 兵が散った。


 道ができていた。


⸻


 モモが立っていた。


 息が乱れていた。


 刀を持ったまま動かない。


 白い袖に泥がついている。


 頬の傷から、赤が細く流れている。


⸻


「……今の、うち」


⸻


 頭を押さえた。


 白桃が戻ろうとしていた。


 それに抗っていた。


 指が髪を掴む。


 爪が肌に食い込む。


 それでも、モモは膝をつかない。


⸻


「行って……」


⸻


 シンは動けなかった。


⸻


「モモ」


⸻


 声が出た。


 情けない声だった。


⸻


 モモはシンを見なかった。


 見れば戻れなくなると分かっているみたいだった。


 振り返らなかった。


 ただ、少しだけ肩が震えた。


⸻


「だい、じょうぶ」


⸻


 嘘だった。


 誰が聞いても嘘だった。


 でもモモはそう言った。


⸻


「りょ……」


⸻


 そこで声が割れた。


 白い声が混ざる。


 モモは唇を噛んだ。


⸻


「……まだ、りょ、じゃない」


⸻


 それだけ言うと、自分から一歩下がった。


 木の向こうへ消える。


 白い袖が闇に溶けた。


 追おうとしたシンの肩を、タダが掴んだ。


⸻


 シンは見ていた。


 追えなかった。


 追わせてもらえなかった。


⸻


(……モモ)


⸻


「行くぞ」


⸻


 タダが短く言った。


⸻


「でも」


⸻


「今は行く」


⸻


 タダの声は硬かった。


 その硬さに、シンは従うしかなかった。


⸻


 走った。


⸻


⸻


 山の中腹に出た。


⸻


 三人いた。


 息が上がっていた。


 ユウガオが膝に手をついている。


 タダが立っている。


 シンも立っている。


 でも誰も、無事という顔ではなかった。


⸻


 遠くが見えた。


⸻


 衣川が燃えていた。


⸻


 白い光が何本も落ちていた。


 止まらなかった。


 空が白かった。


 神が多すぎた。


 人の戦ではなかった。


⸻


 館から煙が上がり始めていた。


⸻


 一本。


 また一本。


 また一本。


⸻


 炎が見えた。


 黄色かった。


 赤かった。


 衣川の水に揺れていた。


 黒い煙が夜に貼りつき、風にちぎれて山へ流れる。


 そこに、笑い声はもう届かない。


 刀の音も届かない。


 ただ、時々、白い光が走る。


 そのたびに、燃える館の輪郭が浮かび上がる。


⸻


 義経は見えなかった。


 戦だけが見えた。


⸻


 長い沈黙があった。


⸻


 シンは思った。


⸻


(義経は死なない)


⸻


(死ぬヤツじゃない)


⸻


(今も笑ってる)


(たぶん、今も)


⸻


 そう思わないと、立っていられなかった。


 義経が死ぬところを想像できない。


 あの男が終わるところを、どうしても思い浮かべられない。


 燃えている館の中で、まだ別の足場を見つけ、誰も見えない場所へ跳んでいる気がした。


 海へ行く道を、今この瞬間にも探している気がした。


⸻


 ユウガオは何も言わなかった。


 黙って見ていた。


 目が濡れていた。


 拭わなかった。


⸻


 やがて、彼女が小さく笑った。


⸻


「酒、残しとけってさ」


⸻


 声が震えていた。


⸻


「ほんと、勝手な大将だね」


⸻


 シンは答えられなかった。


 答えたら泣きそうだった。


⸻


 タダが火を見ていた。


 表情は動かない。


 でも火を見る目が、いつもとは違った。


 いつも火を見る時、タダは飯のことを考えている。


 焼き加減。


 薪の湿り。


 鍋の位置。


 食べる者の腹。


 今は違う。


 今のタダは、何かを送るように火を見ていた。


⸻


 風が来た。


⸻


 煙の匂いだった。


 義経がいた場所の煙だった。


 肉の匂いがした。


 酒の匂いがした。


 焼けた木の匂いに混じって、あの夜の匂いがした。


 縁側で笑っていた匂い。


 飯があり、酒があり、馬鹿な話があり、誰もまだいなくなっていなかった匂い。


⸻


 シンは拳を握った。


⸻


 戻れるなら、戻したい。


 救えるなら、救いたい。


 何度死んでも、そう思う。


 けれど今は、走るしかなかった。


 義経が残ったから。


 モモが道を開けたから。


 タダが行けと言ったから。


 ユウガオが泣かずに立っているから。


⸻


 衣川が燃えていた。


⸻


 その火の中で、義経はまだ笑っている気がした。


⸻


⸻


 (第百五話へ)

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