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終わった朝、終わらぬ戦

第百五話 終わった朝、終わらぬ戦


⸻


 霧だった。


 山が白かった。


 雨上がりの朝で、木々がまだ濡れていた。


 遠くの尾根が霞んで見えない。


⸻


 囲炉裏の煙が真上に立っていた。


 風がない。


 軒から雫が落ちる。


 ぽつり。


 また、ぽつり。


 山の音は、それくらいしかなかった。


⸻


 タダが魚を焼いていた。


⸻


 朝から焼いていた。


 川で取ってきた魚に串を打ち、火の脇へ並べている。


 山菜を刻む。


 味噌の椀を覗く。


 少し足す。


 干し肉の束を軒先へ吊るす。


 また魚を見る。


 ひっくり返す。


 戻る。


⸻


 シンは土間の端に座っていた。


 眺めていた。


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(少し前まで戦争してたよな)


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 少し考えた。


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(なんで一番元気なんだ)


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 タダの肩には布が巻かれている。


 血は止まっていた。


 顔色も悪くない。


 昨日、土佐坊と地面ごと殴り合っていた男とは思えなかった。


 いや、あれもタダなら、これもタダなのだろう。


 戦が終われば飯を作る。


 誰かが起きれば椀を出す。


 火が弱ければ薪を足す。


 そういう男だ。


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「痛くないのか」


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 シンが聞いた。


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「痛い」


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「痛いのかよ」


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「でも魚は焼ける」


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「基準がおかしい」


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 タダは魚を見た。


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「これはもう少し」


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「聞いてない」


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 奥からユウガオが出てきた。


 髪が少し乱れていた。


 まだ眠そうな顔をしている。


 それでも目だけは、眠りから戻りきっていない人間のものではない。


 夜の奥を見てきた目をしていた。


⸻


 タダが椀を渡す。


 ユウガオは受け取った。


 山菜を一口食べる。


 少し目を細めた。


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「美味い」


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「そうか」


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 タダは魚をもう一枚、火の近くへ寄せた。


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「増えた」


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 シンが言うと、ユウガオが小さく笑った。


 笑っただけで、家の中が少し軽くなる。


 ひどく頼りない軽さだ。


 でも、今はそれでもよかった。


⸻


 シンも椀を受け取った。


 魚の匂いがした。


 味噌の匂いがした。


 山の朝の匂いがした。


 火は静かに燃えていた。


 衣川とはちがう。


 何も焼き尽くさない。


 飯を作るためだけに燃えている。


 それが、かえって胸に刺さった。


⸻


⸻


 夜になった。


⸻


 雨音が戻ってきていた。


 屋根を叩く細い音が続く。


 山がまた白く沈む。


 囲炉裏の火だけが、家の中を小さく照らしている。


⸻


 ユウガオが火の前にいた。


 シンが隣にいた。


 タダは少し離れた場所で目を閉じている。


 寝ているのか、起きているのか、よく分からない。


 たぶん寝ている。


 たぶん、で済ませておく。


⸻


 ユウガオは膝を抱えたまま、炎を見ていた。


 何も言わない。


 シンも言わない。


 雨音だけが続く。


⸻


 衣川の夜のことを思い出していた。


⸻


⸻


 義経が消えた後のことだ。


 森を走った。


 兵の声が散っていた。


 モモが下がって消えた。


 崖際で足が止まった。


 ユウガオが転んだ。


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 引き起こした瞬間。


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 そのまま来た。


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 ユウガオが体を預けてきた。


 震えていた。


 声を殺して泣いていた。


 シンの胸に頭がついていた。


 衣が濡れている。


 雨なのか、涙なのか分からなかった。


 近かった。


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 シンは固まった。


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(近い)


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(いや近い)


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(でも今それじゃない)


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(義経、戻ってない)


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(モモもいない)


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(どうすればいい)


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 抱き返せなかった。


 離れることもできない。


 ユウガオが「少しだけ」と言った。


 ほとんど音にならなかった。


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「このまま」


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 そのままにした。


 それ以外に、できることがなかった。


 雨が枝を打つ。


 遠くで、まだ何かが燃えている。


 シンはただ立っていた。


 ユウガオが泣き止むまで。


 泣き止んだ後も、少しの間。


⸻


⸻


 囲炉裏に戻る。


⸻


 ユウガオの肩が近かった。


 触れそうで、触れない。


 シンは炎を見ていた。


 ユウガオも見ていた。


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「大将さ」


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 ユウガオが言った。


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「あれで死ぬと思う?」


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 シンはすぐに答えられなかった。


 義経の笑い声を思い出す。


 火の中で、まだ次の足場を探しているような顔。


 待ってろ、と言った声。


 それを信じたい。


 信じないと、ここに座っていられない。


⸻


「死ぬヤツじゃない」


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 言ってから、少し息を吸った。


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「でも、分からない」


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 ユウガオは笑った。


 泣きそうな顔で笑った。


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「ずるい答え」


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「今はそれしかない」


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「じゃあ、私もそれにする」


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 炎が揺れた。


 ユウガオの目に火が映る。


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「大将は死なない」


 少しだけ間を置いた。


「でも、分からない」


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 シンは頷いた。


 それ以上は何も言えなかった。


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⸻


 翌日の夕方。


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 馬の音が来た。


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 タダが先に立った。


 何も言わずに戸口へ向かう。


 得物は持っていない。


 それでも、家の中の空気が少しだけ硬くなる。


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 霧の奥から馬影が出た。


 国衡だ。


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 泥がついていた。


 鎧の縁も汚れている。


 目の下が深かった。


 寝ていない顔だ。


 馬から降りる動きに、わずかな重さがある。


 それでも背筋は崩れていなかった。


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 国衡は囲炉裏の前に座った。


 タダが椀を出す。


 国衡は受け取り、一口飲んだ。


 もう一口飲む。


 しばらく黙った。


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「義経殿の遺体は見つかっていない」


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 報告は短かった。


⸻


「首も確認できていない」


「衣川の館は焼けた」


「土佐坊も消えた」


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 間があった。


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「当主の状態が悪い」


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 また間があった。


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「死体があれば終われた」


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 声は静かで。


 静かすぎて、火の音まで遠くなる。


⸻


「無いから終われん」


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 シンは何も言えなかった。


 ユウガオも黙っていた。


 タダが火を見ていた。


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 国衡は椀を置いた。


⸻


「鎌倉へは、形がいる」


⸻


「形?」


⸻


 シンが聞く。


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「首だ」


⸻


 国衡の声に揺れはなかった。


⸻


「義経殿を討った。そう示すものがいる」


⸻


 シンの腹が冷えた。


 義経の首。


 言葉だけで、息が詰まる。


 ユウガオは目を伏せた。


 タダも何も言わない。


⸻


「でも見つかってないんだろ」


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「ああ」


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「じゃあ、まだ」


⸻


 まだ生きているかもしれない。


 まだ終わっていない。


 そう続けようとした。


 国衡が首を振った。


⸻


「だから当主は追い詰められている」


⸻


 その言い方で、シンは続きを飲み込んだ。


⸻


「今の平泉は、義経殿を探しているのではない」


⸻


 国衡は火を見た。


⸻


「義経殿が終わったと言えるものを、探している」


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 ユウガオが小さく息を呑んだ。


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「それ、違うじゃない」


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「違う」


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 国衡は即座に言った。


⸻


「だが、違うことを、違うと言える者ばかりではない」


⸻


 シンは国衡を見た。


 疲れている。


 怒ってもいる。


 けれど怒りに任せて喋る人間ではなかった。


 言葉を選んでいる。


 選ばなければ、何かを壊すからだ。


⸻


「国衡はどうするんだ」


⸻


 国衡は少しだけ目を伏せた。


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「山を見る」


⸻


「山?」


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「奥州だ」


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 それだけ言うと、国衡は立った。


⸻


「また来る」


「何か分かれば知らせる」


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 引き止めなかった。


 引き止められなかった。


 馬の音が霧の中へ消える。


 消えた後も、家の中はしばらく黙っていた。


⸻


⸻


 夜になった。


⸻


 タダが寝落ちていた。


 本当に寝ていた。


 仰向けで、静かに呼吸している。


 大きい。


 安定している。


 この男がいると、夜が少しだけ重くならない。


⸻


 ユウガオが言った。


⸻


「……ねえ」


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 間があった。


⸻


「このままでもいいんじゃない?」


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 シンは答えなかった。


 ユウガオは炎を見たまま続けた。


⸻


「大将はいない」


「戦も遠い」


「ここには火がある」


「飯もある」


⸻


 少しだけ声が細くなる。


⸻


「待ちながら生きてもいい」


「帰るなら帰るまで」


⸻


 最後まで言わなかった。


 でも意味は分かった。


 義経が帰るまで。


 モモが戻るまで。


 シンがこの時代から消えるまで。


 何も選ばず、火の近くにいる。


 それも、たぶん生き方なのだろう。


⸻


 シンは炎を見ていた。


 義経の顔がある。


 モモの声がある。


 国衡の沈んだ目がある。


 火は静かで、飯は温かい。


 だから余計に、ここにいていいのか分からなくなる。


⸻


「……分からない」


⸻


 それだけ言った。


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 ユウガオは少し笑った。


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「またそれ」


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「今それしかない」


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「うん」


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 ユウガオは怒らなかった。


 ただ火を見ていた。


 その横顔が近かった。


 手を伸ばせば触れられる。


 伸ばさなかった。


⸻


 外へ出た。


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⸻


 霧だった。


 山が白かった。


 夜の霧だ。


 木がぼんやりしていた。


 遠くの尾根が消えていた。


⸻


 義経。


 モモ。


 国衡。


⸻


 捨てられなかった。


 捨て方が分からなかった。


⸻


 風が来た。


⸻


 桃の香りがした。


⸻


 誰もいなかった。


 気配だけがある。


 木の向こう。


 霧の奥。


 確かめなかった。


 確かめたら、消える気がした。


⸻


「モモ」


⸻


 返事はない。


 でも香りは、すぐには消えなかった。


 シンは少し息を吐いた。


 山が白かった。


⸻


⸻


 平泉。


 政務所。


⸻


 灯火が揺れていた。


 書状の山がある。


 人の出入りが途切れない。


 誰も大声を出さない。


 そのせいで、かえって部屋の中が騒がしかった。


⸻


 泰衡が座っていた。


 顔色が悪い。


 指先が小さく震えている。


 書状を持っていた。


 読んでいなかった。


⸻


「見つからない」


⸻


 独り言に近かった。


⸻


「どこにも無い」


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 衣川からの報告は同じ。


 館は焼けた。


 遺体は見つからない。


 兵は散った。


 土佐坊は消えた。


 義経の首は、無い。


⸻


 それでも鎌倉は待っている。


 義経を討ったという証を。


 泰衡が奥州を守ったという形を。


 形が無ければ、平泉は義経を匿ったままだ。


 そう見られる。


 そう見られたら、終わる。


⸻


 遠い声が来た。


⸻


 北から来る。


 いや、北のような場所から来る。


 泰衡には、それが本当に外から来ているのか、自分の中から出ているのか、もう分からない。


⸻


 奥州を守れ。


 義経を終わらせろ。


 火を残すな。


 山を折るな。


⸻


 言葉だけが残る。


 意味はほどけない。


 ほどけないまま、頭の奥で鳴り続ける。


⸻


 使者が膝をついた。


⸻


「衣川より、改めて」


⸻


 泰衡が顔を上げた。


⸻


「見つかったか」


⸻


 使者は伏せた。


 それで分かった。


⸻


「焼け跡より、首級に相当するものは幾つか」


⸻


「義経か」


⸻


「判じかねます」


⸻


 泰衡は目を閉じた。


 怒鳴らなかった。


 怒鳴る力も残っていない。


 ただ、手の中の書状が潰れた。


⸻


 部屋の隅で、老いた家人が言った。


⸻


「鎌倉は、首を見ます」


⸻


 泰衡は目を開けた。


⸻


「首さえあれば、終わります」


⸻


 誰も咎めなかった。


 咎める者がいなかったわけではない。


 声に出せなかった。


 皆、終わりを欲しがっていた。


 義経の終わりではない。


 自分たちの恐怖の終わりを。


⸻


 泰衡はしばらく黙っていた。


 父の顔を思い出そうとした。


 浮かばない。


 国衡の顔を思い出した。


 すぐ浮かんだ。


 あの兄なら、止めるだろう。


 探せと言うだろう。


 だが兄はここにいない。


 今、座っているのは自分だ。


 当主は自分だ。


⸻


「……送れ」


⸻


 声は小さかった。


 それでも部屋の全員に届いた。


⸻


「義経の首として、鎌倉へ」


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 誰もすぐには動けなかった。


 泰衡はもう一度言った。


⸻


「送れ」


⸻


 今度は人が動いた。


 火が揺れた。


 書状が揺れた。


 部屋の中の空気だけが、ひどく冷たくなった。


⸻


⸻


 国衡が戻ったのは、夜更け。


⸻


 雨が降っていた。


 松明の火が濡れている。


 国衡は馬を降り、そのまま政務所へ入った。


⸻


「当主は」


⸻


 返事はすぐに来なかった。


 顔色の悪い使者が一人、膝をついた。


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「先ほど、お休みになられました」


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 国衡は使者を見た。


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「何があった」


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 使者は喉を鳴らした。


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「首を」


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 国衡の目が細くなる。


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「首?」


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「鎌倉へ」


⸻


 雨音が強くなった。


⸻


「誰の首だ」


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「義経殿の御首として」


⸻


 国衡は動かなかった。


 動かないまま、使者を見ていた。


⸻


「見つかったのか」


⸻


 使者は答えない。


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「誰が確かめた」


⸻


「焼け跡より」


⸻


「誰が確かめた」


⸻


 使者は床へ額を近づけた。


⸻


「当主の御沙汰にございます」


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 国衡は息を止めた。


 ほんの一瞬。


 次の息は、低く、長かった。


⸻


 義経の遺体は見つかっていない。


 それでも送った。


 誰ぞわからぬ者の首を。


 義経の首級として。


 鎌倉へ。


⸻


 国衡は外を見た。


 雨の向こうに山がある。


 見えない。


 だが、ある。


⸻


 奥州の山だ。


 守るべき山だ。


⸻


 国衡は拳を握った。


 爪が掌に食い込む。


⸻


「……早まられた」


⸻


 声は低かった。


 誰に聞かせるためでもない声だ。


⸻


「これは、戦になる」


⸻


⸻


 (第百六話へ)


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