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首実検

第百六話 首実検


⸻


 文治五年六月十三日、腰越浦。


⸻


 海が近かった。


 潮の匂いが、湿った風に混じっている。


 空は低い。


 雲が厚く、沖の色も鈍い。


 波の音がある。


 鎌倉の山から降りてくる湿気とは違う、塩を含んだ重さが肌に貼りついていた。


⸻


 首桶が届いていた。


⸻


 黒漆の桶だ。


 中には酒が満たされているという。


 奥州から長い道を来た。


 藤原泰衡の使者が、腰越浦まで持参した。


 鎌倉の内へはまだ入れられていない。


 そこで止められている。


 そういう扱いを受けている。


⸻


 梶原景時は、少し離れた位置からその桶を見ていた。


⸻


 蓋の合わせ目から、かすかに染みが出ている。


 酒か。


 血か。


 腐ったものの水か。


 分けて考える意味は、もうない。


 蠅が一匹、蓋の縁を歩いた。


 誰も払わなかった。


⸻


 和田義盛が隣に立っていた。


⸻


 大きな男だった。


 海から上がった岩のように見える。


 顔に難しいものはない。


 難しいものを隠している顔でもない。


 悲しい時は悲しむ。


 腹が立てば怒る。


 嬉しければ笑う。


 そういう男だ。


⸻


 その義盛が、今は黙っていた。


⸻


「景時」


⸻


 低い声だった。


⸻


「本当に、九郎殿なのか」


⸻


 景時は答えなかった。


 答えられなかったのではない。


 まだ見る前に、答える言葉はない。


⸻


 義盛は桶を見ていた。


 見ているのに、少しだけ目が泳いでいる。


 怖がっているのではない。


 嫌がっているのでもない。


 ただ、悲しみに追いつけていない。


 九郎義経。


 戦場では化け物のように強く、酒席では子供のように笑い、人の言うことを聞かず、場を壊し、それでも人を惹きつけた男。


 その首が、桶に入っている。


 義盛には、それだけで十分だった。


 十分すぎた。


⸻


「俺は」


⸻


 義盛が言った。


⸻


「あの人のこと、好きだったんだよな」


⸻


 景時は少しだけ義盛を見た。


 義盛は自分でも少し驚いた顔をしていた。


 言ってから、気づいたような顔だ。


⸻


「変な人だったけどな」


「強くて」


「よく笑って」


「たまに何言ってんのか分からなくて」


「でも、嫌いにはなれなかった」


⸻


 景時は目を伏せた。


⸻


 分かる、とは言わなかった。


 言うべきではなかった。


 だが、分からないわけではない。


⸻


 義経には苦労をかけられた。


 勝手に走る。


 勝手に勝つ。


 軍の形を考えない。


 後始末を考えない。


 頼朝の意を待たない。


 景時は幾度も腹を立てた。


 幾度も報告を書いた。


 幾度も、あの男は危ういと思った。


⸻


 それでも。


⸻


 戦場の義経を、景時は見ている。


 海の上で。


 坂で。


 馬で。


 火の中で。


 あの男は、武士の身体をしていながら、武士の決まりの外で戦った。


 強い。


 ただ強いのではない。


 敵の呼吸を奪う強さだ。


 味方の常識まで奪う強さだ。


 あれを見て、何も思わない武士はいない。


⸻


 嫌いではなかった。


⸻


 好きだとも言わない。


 だが、嫌いではなかった。


 武士として、その強さには敬意を抱いていた。


 人としても、憎み切れなかった。


 それが余計に、厄介だった。


⸻


 桶の蓋が外された。


⸻


 義盛が息を止めた。


 景時は止めなかった。


 臭いが来る。


 酒の甘さ。


 腐敗。


 血。


 海風。


 全部が混ざって、鼻の奥に貼りついた。


⸻


 首があった。


⸻


 顔は残っている。


 残っている、と言える程度には。


 損傷がある。


 腐敗もある。


 長い道を来た首だ。


 誰のものでも、見る者の胸は沈む。


⸻


 義盛が見た。


⸻


 見ようとした。


 だが、途中で目が歪んだ。


 眉が寄る。


 口が少し開く。


 何か言いかけた。


 言えなかった。


⸻


「……分からん」


⸻


 義盛は、ひどく小さな声で言った。


⸻


「俺には分からん」


⸻


 それは、首の真偽の話だけではなかった。


 どうしてこうなったのか。


 どうしてあの義経が桶に入るのか。


 どうして兄弟がこうなるのか。


 どうして自分たちが、それを確かめる役になるのか。


 義盛には、たぶん何も分からなかった。


 ただ悲しかった。


 悲しすぎて、ちゃんと見られなかった。


⸻


 景時は前へ出た。


⸻


 見る。


⸻


 額。


 眉骨。


 鼻筋。


 顎。


 頬の肉。


 首のつき方。


 歯。


 耳。


 残っているものを、ひとつずつ拾う。


 拾いたくないものまで拾う。


 景時はそういう役を何度もしてきた。


 頼朝が嫌うこと。


 御家人が避けること。


 誰かがやらねばならないこと。


 それが、気づけば景時のところへ来る。


⸻


 今回も同じだった。


⸻


 実のところ、この首は届いてすぐ、頼朝が見ていた。


 景時だけが、それを知っている。


 いや、正確には、知っていてよい者の中に入れられた。


⸻


 頼朝は見た。


 ほんの一瞬だけだった。


 桶の蓋が開く。


 頼朝の目が落ちる。


 それで終わりだ。


 すぐにしまわせた。


⸻


 その顔には、何もなかった。


⸻


 喜びもない。


 怒りもない。


 悲しみもない。


 安堵もない。


 弟を失った兄の顔ではない。


 敵を消した棟梁の顔でもない。


 ただ、ものを見る顔だ。


 道具を見る顔。


 盤上の石を見る顔。


 必要なものが、必要な場所に置かれたかだけを確かめる顔。


⸻


 正二位。


 後の征夷大将軍。


 源頼朝。


⸻


 その男が、景時に命じた。


⸻


「公には、首実検を行え」


⸻


 声は静かだった。


⸻


「和田を伴え」


「間違いなく義経の首であると、申せ」


⸻


 それだけだった。


 問いではない。


 相談でもない。


 命だ。


⸻


 景時は、いま桶の前でその命を思い出していた。


⸻


 そして、見た。


⸻


(違う)


⸻


 腸が冷えた。


 景時は息を殺した。


⸻


(これは、義経殿ではない)


⸻


 はっきり分かった。


 損じているからではない。


 腐っているからではない。


 酒に浸され、道中を運ばれ、顔が崩れているからでもない。


 違う。


 あの男ではない。


 義経の顔ではない。


 義経の首ではない。


⸻


 景時の中で、短い沈黙が生まれた。


⸻


 ここで違うと言えばどうなる。


 泰衡は偽った。


 奥州はまだ義経を匿っている。


 あるいは義経は逃げた。


 そのすべてが、鎌倉にとって刃になる。


 だが、刃は抜く者が決める。


 頼朝はもう見ている。


 そのうえで命じた。


 間違いなく義経の首であると、申せ。


⸻


 景時は蓋を戻した。


 ゆっくりだった。


 丁寧すぎるほど丁寧だった。


⸻


 義盛が見ている。


 周りの者も見ている。


 使者も見ている。


 腰越の海も見ているようだった。


⸻


 景時は言った。


⸻


「源九郎判官義経の首に相違なし」


⸻


 声は平らだった。


⸻


「鎌倉殿へ、そのように申し上げる」


⸻


 誰もすぐには声を出さなかった。


 ただ、空気が変わった。


 首は、義経の首になった。


 景時がそう言ったからだ。


 記録はそう残る。


 歴史はそう進む。


⸻


 義盛が鼻をすすった。


⸻


「……そうか」


⸻


 景時は見なかった。


⸻


「そうか」


⸻


 義盛はもう一度言った。


 今度は、誰に言ったのか分からない声だった。


⸻


「お前、すごいな」


⸻


 景時は眉を動かした。


⸻


「何がだ」


⸻


「こういう嫌な役ばっかり、ちゃんとやる」


⸻


 義盛は本気で言っていた。


 嫌味ではない。


 皮肉でもない。


 ただ、感心していた。


 だから余計に、景時は困った。


⸻


「俺なら無理だ」


⸻


「お前は見ていなかっただけだ」


⸻


「見たぞ」


⸻


「見ようとして、泣きそうになって、途中でやめただろう」


⸻


 義盛は少し黙った。


 そして、素直に頷いた。


⸻


「うん」


⸻


「うん、ではない」


⸻


「悲しいものは悲しいだろう」


⸻


 景時はため息をつきそうになった。


 やめた。


 ここでため息をつくと、負けた気がする。


⸻


「お前も、もう少し頑張ってくれ」


⸻


 義盛が顔を上げた。


⸻


「俺?」


⸻


「お前だ」


⸻


 景時は低く言った。


⸻


「侍所別当」


⸻


 義盛は少しだけ胸を張った。


 単純だった。


 本当に単純だった。


⸻


「そうだな」


⸻


「張るな」


⸻


「いや、言われると少し立派な気がする」


⸻


「気がするだけだ」


⸻


「景時、お前、口が悪いな」


⸻


「お前がもう少し働けば、俺の口も少しは良くなる」


⸻


 義盛は少し笑った。


 すぐに笑いは消えた。


 首桶を見た。


 もう蓋は閉じている。


 それでも、そこにあるものを思うだけで、義盛の顔が沈む。


⸻


「九郎殿」


⸻


 小さく言った。


⸻


「強かったな」


⸻


 景時は答えなかった。


 答える必要はなかった。


 波が寄せる。


 潮が引く。


 腰越浦の砂が、濡れて光っていた。


⸻


⸻


 数日が過ぎた。


⸻


 鎌倉。


 御所。


⸻


 主だった御家人たちが集められていた。


 庭に人の気配が満ちている。


 甲冑の擦れる音。


 直垂の袖が動く音。


 誰かが咳を飲み込む音。


 馬の鼻息。


 遠くで鳴る鳥の声。


 そのすべてが、不自然なほど小さかった。


⸻


 鎌倉、坂東の主。


 源頼朝が座していた。


⸻


 大きな声を出す必要はなかった。


 頼朝が口を開く前から、そこにいる全員が分かっている。


 義経の首は届いた。


 首実検は済んだ。


 奥州は、義経を討ったと申し出た。


 ならば終わりか。


 違う。


 終わらない。


 鎌倉殿が終わらせない。


⸻


 頼朝は言った。


⸻


「泰衡は、九郎を匿った」


⸻


 静かだった。


⸻


「討ったと申す」


⸻


 誰も動かない。


⸻


「ならば、なぜ今まで匿った」


⸻


 庭の空気がさらに沈んだ。


⸻


「九郎一人の罪ではない」


「奥州は、鎌倉に背いた」


「源氏累代の家人たる者が、主命を疑い、命に背き、朝廷の顔色を窺い、北に兵と財を蓄えた」


⸻


 頼朝の声は荒くならない。


 だから怖かった。


 怒鳴る者は、まだ人の熱を持っている。


 頼朝には、その熱が見えない。


 ただ、決まったことを読み上げているようだった。


 誰が死ぬか。


 どの国が焼けるか。


 誰の家が絶えるか。


 それがもう、どこかで決まっているように聞こえる。


⸻


 景時は列の端で聞いていた。


⸻


 首桶を見た頼朝の顔を思い出している。


 あの一瞬。


 蓋が開いた時。


 頼朝は、確かに見た。


 偽首かどうかを見抜いたのか。


 見抜かなかったのか。


 景時には分からない。


 いや、分からないままでよいのかもしれない。


 あの顔には何もなかった。


 感情がないのではない。


 感情を置く場所が、人と違う。


 弟の首を見ても、盤面が進む。


 偽首を見ても、盤面が進む。


 本物でも偽物でも、頼朝は北を見る。


 最初から、そういう男だ。


⸻


 頼朝が続けた。


⸻


「奥州を討つ」


⸻


 その一言で、庭の空気が変わった。


 誰かが息を吸った。


 誰かが拳を握った。


 誰かが目を伏せた。


 誰かが笑った。


 誰かが、ようやく来たか、という顔をした。


⸻


「兵を整えよ」


「道を定めよ」


「国々に命を下せ」


「米、馬、矢、鍬、縄、船、すべて用意せよ」


⸻


 命令が降る。


 紙になる。


 紙は人を動かす。


 人は馬に乗る。


 馬は道を行く。


 道は北へ続いている。


⸻


 頼朝は立った。


⸻


 その動きで、御家人たちの背が伸びた。


 誰も命じられていない。


 それでも伸びた。


⸻


 景時は頭を垂れた。


 義盛も垂れた。


 義盛の顔はまだ少し赤い。


 泣いたのかもしれない。


 泣いたのだろう。


 だが、その手はもう太刀の柄に近かった。


 単純な男だ。


 良い男でもある。


⸻


 景時は小さく息を吐いた。


⸻


 嫌な役ばかりだ。


 だが、誰かがやらなければならない。


 そして、鎌倉殿は必ず、その誰かを見つける。


⸻


⸻


 さらに時が過ぎた。


⸻


 旗が上がった。


 馬が並んだ。


 矢を包んだ雨具が担がれた。


 鍬を持つ者がいた。


 道を拓く者がいた。


 米を数える者がいた。


 名を呼ばれる者がいた。


 呼ばれぬまま従う者もいた。


⸻


 鎌倉の空は曇っていた。


 湿った風が吹いている。


 海の匂いはもう遠い。


 代わりに、馬と革と鉄の匂いがあった。


⸻


 奥州征伐軍が、北へ発した。


⸻


 道は続いていた。


 山へ。


 平泉へ。


 衣川へ。


 まだ火を囲んでいる者たちの方へ。


⸻


⸻


 一方、奥州。


 山は静かに息をしていた。


⸻


 午後の光が木の間から斜めに差していた。


 葉が鳴る。


 風だ。


 山の奥から来る風で、少しだけ冷たい。


⸻


 囲炉裏の煙が流れていた。


 タダが燻製を吊るしている。


 鹿肉だ。


 煙の上に丁寧に並べ、脂が落ちる位置を見ている。


 脂が垂れる。


 火が一瞬だけ強くなる。


 タダは少しだけ肉を動かした。


 また確認する。


 たぶん満足した。


 山菜を別の場所に干す。


 囲炉裏はもう完全にタダのものになっていた。


⸻


 ユウガオがシンの隣に座っていた。


 普通に座っていた。


 理由もなく、必然もなく、ただ近い。


⸻


 シンは少し固かった。


⸻


(慣れろよ)


⸻


 慣れない。


⸻


 燻製の煙が甘く漂った。


 鹿の脂と、煙と、山の朝の残りが混ざった匂い。


 怖いくらい平和な午後に見えた。


⸻


 鎌倉では、北へ向かう紙が動いている。


 シンはそれを知らない。


 ただ煙の甘さがあった。


 ユウガオの肩の近さがあった。


 タダが肉を裏返す音があった。


⸻


⸻


 しばらくして、シンは一人で森へ入った。


⸻


 ユウガオには何も言わなかった。


 理由を問われる前に出た。


 答えを持っていない。


⸻


 落ち葉が湿っていた。


 木の根が浮いている。


 霧の残りが低いところに溜まり、足元が白い。


 歩くたびに霧が散る。


 すぐ戻る。


⸻


(俺はまだ消えていない)


(この時代から)


(義経を守る役目じゃなかったのか)


⸻


 森が黙っていた。


⸻


(じゃあ何だ)


⸻


(何を変える)


(何を運ぶ)


(俺は何をする)


⸻


 答えは来なかった。


 霧があるだけだ。


 木があるだけだ。


⸻


 桃の香りがした。


⸻


 シンは止まった。


⸻


 喉の奥が、変な音を立てた。


 息を吸ったのか、吐いたのか、自分でも分からない。


 足が先に動きかける。


 止めた。


 また動きかける。


 手が震えた。


⸻


 衣川の夜が戻る。


 白い袖。


 頬の傷。


 頭を押さえた指。


 兵列へ斬り込んだ背中。


 行って、と言った声。


 まだ、りょ、じゃない、と割れた声。


⸻


「……モモ」


⸻


 声が出た。


 情けないくらい小さかった。


⸻


 木の向こうに、人影があった。


⸻


 モモがいた。


⸻


⸻


 シンはすぐには近づけなかった。


 伸ばしたい手があった。


 肩に触れて、そこにいると確かめたい。


 でも、衣川の夜に義経の刃の前へ飛び込んだ時の白さが、まだ身体の中に残っている。


 助けたいと思った。


 触れたいと思った。


 怖いとも思った。


 その三つが同じ場所で絡まって、シンの足を止めていた。


 近づけば消える気がした。


 近づけば、また白くなる気がした。


 それでも、目を逸らせない。


⸻


 白桃ではなかった。


 かといって、普段のモモでもない。


 その間のどこかだ。


 黒髪に桃の髪留めがある。


 顔の色は薄い。


 頬の傷はまだ完全には消えていない。


 白い衣の端に、泥の跡が残っている。


 それでも目が動いていた。


 色硝子のような目が、シンを見ている。


⸻


「シン」


⸻


 呼ばれた。


⸻


 その一言で、シンの胸の奥が崩れた。


 命令ではない。


 回収でも修正でもない。


 座標でもない。


 名前だ。


 シンの名前だ。


⸻


「お前……」


⸻


 続きが出ない。


 無事か、と聞きたかった。


 どこにいた、とも聞きたかった。


 なんで来た、なんで消えた、なんでまたそんな顔をしている。


 全部が喉に詰まった。


⸻


 シンは一歩だけ近づいた。


 モモの肩がわずかに揺れる。


 反射に近い動きだ。


 シンはそこで止まった。


⸻


「近づいていいか」


⸻


 自分で聞いてから、ひどい質問だと思った。


 でも聞くしかなかった。


⸻


 モモは少し考えた。


⸻


「……少しなら」


⸻


 シンはもう一歩近づいた。


 桃の香りが濃くなる。


 白い冷たさは薄い。


 完全に消えたわけではない。


 でも、衣川の夜に空気を殺していたあの白さではない。


⸻


「痛むのか」


⸻


 シンは頬の傷を見た。


⸻


「微妙」


⸻


「微妙って何だよ」


⸻


「痛い気もする」


「痛くない気もする」


「でも、シンが見ると痛い」


⸻


 シンは黙った。


 胸の奥がぐしゃりと曲がった。


⸻


「……悪い」


⸻


「なんで謝るの」


⸻


「分からない」


⸻


「りょ」


⸻


 モモが言った。


 その短さが、いつものモモに近すぎた。


 シンは笑いそうになった。


 でも笑えなかった。


 代わりに息だけが抜けた。


⸻


「……お前最近どうなんだ」


⸻


 やっと、いつもの言い方に戻った。


 戻した。


 そうしないと、何かが溢れそうになる。


⸻


 モモが少し考えた。


⸻


「………微妙」


⸻


 間があった。


⸻


「まだ白が来る」


「でも前より薄い」


⸻


 シンは頷いた。


 それ以上、すぐには聞かなかった。


 聞けば、モモがまた白に引かれる気がした。


⸻


「俺は此処で、この時代で何すればいい」


⸻


 モモが止まった。


 うまく出てこない顔だ。


 断片で来た。


⸻


「たぶん」


⸻


 間があった。


⸻


「北の火」


⸻


「何だそれ」


⸻


「まだ消えてない」


「だから飛ばない」


「終わってない」


⸻


 半分分かった。


 半分分からない。


 いつものモモに近かった。


⸻


 そう。


 いつものモモだ。


⸻


 それだけで少し息が楽になった。


 そのことは黙っていた。


⸻


⸻


「相変わらず迷ってるねー!」


⸻


 頭の上から声がした。


⸻


 枝の上にいた。


 人が座る場所ではない。


 普通に座っていた。


 小さく手を振る。


 金髪の軽薄な男。


⸻


 ワカレだ。


⸻


 モモが少し警戒した。


 目が細くなる。


 ワカレは気にしない。


⸻


「鎌倉、もう動いてるよ」


「平泉、時間ない」


⸻


 笑っていた。


 けれど、内容は笑顔ではない。


⸻


「もう兵が来るのか」


⸻


「まだ」


⸻


 ワカレは足を揺らした。


⸻


「今は紙」


「文と命令と、人の顔色」


「でも紙が動いたら、次は旗」


「旗が動いたら、馬」


⸻


 シンは北を見た。


 木しか見えない。


 だが、その向こうに平泉がある。


 そのさらに向こうに、まだ見えない火がある。


⸻


「……今回は鎌倉側なのか?」


⸻


「朝廷はなんかもうキモい」


「面白くはあるんだけどね、院の爺様とか」


「でもつまらなくなった」


⸻


 ワカレが言った。


 枝の上で足を揺らした。


⸻


「頼朝くんもまぁ、カミノくんの血縁ではあるし」


「義理は果たせるかなって」


「ギリで」


⸻


「ギリで」


⸻


 シンが繰り返した。


 ワカレが頷いた。


 満足げな顔をしている。


⸻


「……俺は何すればいい」


⸻


 ワカレは少し考えた。


 珍しかった。


 本気で考えていた。


⸻


「見るしかないんじゃない?」


⸻


 枝から風が来た。


 葉が鳴った。


⸻


「見て」


「迷って」


「運ぶ」


⸻


 笑った。


 軽かった。


 でも嘘ではない。


⸻


「義経くんを助ける話だけじゃなかったってこと」


「奥州も、山も、火も、人も、まだ残ってる」


「だから残ってる」


⸻


 シンは何も言えなかった。


 言われたくないことだ。


 でも、たぶん言われるべきことでもある。


⸻


「まあ頑張って」


「長い付き合いだし」


⸻


 モモを見た。


 一瞬だけ。


⸻


「白桃ちゃんも」


⸻


 それだけ。


 それだけなのに何かがあった。


 名前がなかった。


 でも確かに届いていた。


⸻


 モモは答えない。


 ただ、目だけが少し揺れた。


⸻


 ワカレは枝から飛んだ。


 音がない。


 霧の中へ消えた。


 消え際に声だけ来た。


⸻


「しごとしごと」


「忙しい忙しい」


⸻


 森が静かになった。


⸻


⸻


 シンとモモだけが残った。


⸻


 夕方になっていた。


 光が橙色に変わっている。


 木々の間から斜めに差して、霧を染めていた。


 風が来る。


 桃の香りがある。


⸻


「……ウチ、来るか?」


⸻


 シンが言った。


⸻


「飯ある」


「タダが燻製作ってる」


「たぶん旨いぞ」


⸻


 モモが止まった。


 前より長く止まった。


 何かが動いている。


 白でも答えでもない、何かが。


⸻


「……まだ、無理」


⸻


 間があった。


 長い間が落ちた。


⸻


「でも」


⸻


 また間があった。


⸻


「また来る」


⸻


 自分から言った。


 命令でもなかった。


 確認でもなかった。


 モモが自分から言った。


⸻


 シンは頷いた。


 早く頷きすぎると、軽くなる気がした。


 遅すぎると、モモが消える気がした。


 だから、できるだけ普通に頷いた。


⸻


「待ってる」


⸻


 モモの目が動いた。


⸻


「りょ」


⸻


 今度の声には、白が混じらなかった。


⸻


 モモはそのまま森へ去った。


 黒髪が木の向こうへ消える。


 桃の香りだけ残った。


 霧に混ざって、消えなかった。


⸻


⸻


「シーン!」


⸻


 遠くから声が来た。


 ユウガオだ。


⸻


「飯できたってー!」


「タダが呼んでる!」


⸻


 橙色の光の中から来た声だ。


 山が暖かい色をしている。


 燻製の煙の匂いがここまで届いていた。


 甘かった。


⸻


 シンは動かなかった。


 少し北を見た。


⸻


(北の火って何だ)


⸻


(誰の火だ)


⸻


(何を残す)


⸻


 風が来た。


 桃の香りが薄くなる。


 完全には消えなかった。


⸻


 また来ると、言っていた。


⸻


(また来る)


⸻


 それだけが残っていた。


⸻


「シーーン!」


⸻


 今度は近かった。


 ユウガオが森の手前まで来ている。


 半分怒った顔。


 半分笑っている。


⸻


「遅い」


⸻


「今行く」


⸻


 振り返った。


 北に背を向けた。


 煙の匂いのする方へ。


 火の方へ戻った。


⸻


 (第百七話へ)


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