夜花の告白
第百七話 夜花の告白
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(柔らかい)
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(良い香りがする)
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夜の花の香りだった。
甘く、少し危険で、眠りの底まで追いかけてくる香り。
温かい。
頭の中には靄がかかっていた。身体の輪郭も曖昧で、どこからどこまでが自分なのか分からない。
外では、鳥が鳴いている。
朝だ。
そのことだけは分かる。
けれど、瞼を開く気にはなれなかった。
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(このままでいいかもしれない)
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そう思った直後だった。
頬に触れていたものが、さらりと動いた。
髪だった。
誰かの髪。
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(……むっ)
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シンは目を開けた。
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目の前はユウガオだった。
正確には、ユウガオの胸だった。
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シンの頭を胸に抱えて、静かな寝息を立てている。
解けた黒髪が頬に触れていた。夜の花の香りは近く、近すぎて、吸うたびに頭がまた眠りへ沈みそうになる。
温かい。
むしろ熱い。
柔らかい。
柔らかすぎる。
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(??!?!?)
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シンは固まった。
喉から出かかった声を、全身を使って飲み込む。
動けば起こす。
起こせば目が合う。
目が合ったら、何を言えばいいのか分からない。
そもそも、どうしてこうなったのかも分からない。
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(な、何がどうなった)
(たしか昨日……)
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昨夜だった。
タダが「新作だ」と言った。
山菜と燻製の鹿肉を味噌で和えた料理だった。塩気と煙の香りが強く、噛むほど鹿の脂が出る。酒がひどく合った。
合いすぎた。
ユウガオは当然のように飲んだ。
シンも飲んだ。
普段は弱いくせに、鹿肉が旨いからという理由だけで調子に乗った。
タダが止めた気もする。
ユウガオが面白がって酒を注いだ気もする。
途中で義経の話をしたような気もした。
笑った。
たぶん、泣きはしなかった。
そこまでは曖昧に残っている。
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その先はない。
記憶が、きれいに切れている。
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(ま、まさか……?)
(いや、しかし)
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自分の衣を見る。
乱れている。
だが、昨日から乱れていたかもしれない。
ユウガオの衣を見る。
少し肩から落ちている。
だが、寝相のせいかもしれない。
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(判断材料が少なすぎる)
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「手は出してない」
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心臓が一度、止まった。
シンは目線だけを動かした。
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タダが囲炉裏の前にいた。
朝飯を作っている。
鍋の中で根菜が煮えていた。湯気の向こうで、あまりにも普通の顔をしている。
見張っていたようにも見えない。
何も見ていなかったようにも見えない。
全部見たうえで、どうでもよさそうにしている顔だった。
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「先にお前が沈んだ」
「その後すぐ、夕顔がお前を抱えて沈んだ」
「それだけだ」
「安心しろ」
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シンは全力で安堵した。
ユウガオを起こさないよう、慎重に身体を離す。
腕を外す。
髪を避ける。
頭を持ち上げる。
胸の柔らかさが離れる。
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少しだけ、名残惜しかった。
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(いや違う)
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童貞の誇りが勝った。
何に勝ったのかは分からない。
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「いい加減、手を出してやれ」
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タダが言った。
振り返りもせず、味噌を溶きながら言った。
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「ナニイッテル!?」
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「その時は」
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タダは味を見た。
少しだけ塩を足す。
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「俺は夜釣りでもしている」
「安心しろ」
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「ソユコトチガウ!!」
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「何が違う」
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「ゼンブスベテ!!」
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奇声を上げた瞬間だった。
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「……ふあ」
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ユウガオが目を開けた。
眠そうだった。
頬が少し赤い。起き抜けの目で、すぐ近くにいるシンを見た。
すぐには状況を理解していないようだった。
それから、自分の腕。
シン。
離れた胸元。
順番に見た。
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「ゴメンナサイ!!」
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「……何がだい?」
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ユウガオは少し欠伸をした。
乱れた髪を指で梳き、肩から落ちた衣を直す。
普通だった。
何もなかったような顔をする。
そういう女だった。
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シンは普通にできなかった。
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「か、顔洗ってくる!!」
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「山で?」
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「川!!」
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「朝飯は」
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「あとで!!」
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戸を開けて飛び出した。
後ろからユウガオの声が来る。
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「ちょっと、冷めるよ!」
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返事はしなかった。
いや、できなかった。
朝の空気が冷たい。
火照った顔にはちょうどよかった。
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家から少し離れたところで振り返った。
戸は閉じている。
追っては来ない。
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(助かった)
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そう思ってから、タダがいつの間にか消えていたことに気づいた。
鍋だけを残して。
本当に釣りへ行ったのかもしれない。
あるいは、二人きりにするつもりだったのかもしれない。
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(あの野郎)
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山の朝は、腹が立つほど明るかった。
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落ち着くため、シンは川沿いを歩いた。
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水は透明だった。
底の石が見える。
流れの速い場所と、緩い場所がある。緩いところでは魚影が止まり、朝の光が水面で揺れていた。
冷たい水で顔を洗う。
頬を叩く。
もう一度洗う。
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(柔らかかった)
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また顔を洗った。
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(違う)
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もう一度。
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「…………洗顔」
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「ぎゃあ!!」
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モモがいた。
突然いた。
桃の香りも、気配も、ほとんどなかった。川の横の岩へ腰を下ろし、白い脚の先を水面の近くへ向けている。
いつからいたのか分からない。
シンが何度も顔を洗っているところを、ずっと見ていた可能性がある。
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「いやっ、何でもない!」
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「聞いていない」
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「そうだった!」
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モモが首を傾けた。
シンの濡れた顔。
乱れた髪。
妙に赤い耳。
順番に見た。
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「…………む」
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少し間があった。
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「重大な誤差を感知」
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「そんなことはない!」
「なかった!」
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「何が」
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「何も!」
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モモが立った。
一歩、近づく。
シンが一歩、下がる。
もう一歩近づく。
もう一歩下がる。
踵が岩に当たった。
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「うわ」
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モモが袖を掴んだ。
シンは転ばずに済んだ。
掴んだまま、モモが見上げている。
目が近かった。
白桃の時の冷たい光はない。
ただ、何かを測るように見ている。
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「酒」
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「……まだ臭うか」
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「少し」
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モモは鼻を近づけた。
シンは息を止めた。
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「煙」
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「鹿肉を燻してたからな」
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もう一度、わずかに近づく。
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「花」
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シンの身体が固まった。
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「花?」
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「夜に咲く匂い」
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「山だからな!」
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「まだ朝」
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「夜に咲いたのが残ってるんだ!」
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モモはしばらくシンを見た。
それ以上は追及しなかった。
袖から手を離し、元の岩へ戻る。
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ほんの少しだけ眉が下がっていた。
笑ってはいない。
怒ってもいない。
けれど、何かがあった。
シンには、それが何なのか分からなかった。
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隣へ座る。
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風が来た。
葉が鳴る。
水音が続いている。
それだけだった。
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最近は、こういう時間が増えていた。
数日おきにモモが現れる。
長く話すことはない。
川を見た。
木陰で休んだ。
山の実を一つずつ食べた。
並んで座り、何もしなかった。
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最初の頃は、沈黙のたびに何かを言わなければならないと思った。
名前。
どこから来たのか。
何をしに来たのか。
なぜ自分を殺したのか。
なぜ泣いたのか。
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聞きたいことはいくらでもあった。
聞けば答えが得られる気もした。
だが、実際に隣に座ると、言葉は出てこなかった。
モモも話さない。
それで時間だけが過ぎた。
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不思議と、苦しくはなかった。
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白桃の冷たさは、もうほとんど見えない。
強い神託も届いていないようだった。
ただ、ときどき目が白く遠くなる。
指が止まる。
声が切れる。
そのたびにシンは何も聞かず、モモが戻るまで隣にいた。
肩に触れようとして、やめたこともある。
名を呼ぼうとして、呼べなかったこともある。
待つ以外に、できることがなかった。
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今日も、長い沈黙があった。
川の向こうで鳥が鳴いた。
遠い。
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嫌ではなかった。
むしろ落ち着いた。
理由は分からない。
初めて会ったはずの場所でも、初めてではないような気がする。
懐かしいという言葉だけが先にあって、その中身がない。
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「昨日」
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モモが言った。
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「なに食べたの」
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「鹿肉」
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「おいしかった?」
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「すごく」
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「そう」
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モモは川を見た。
興味がないようにも見える。
だが、聞いた。
それだけで十分な気がした。
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「山菜と、燻した鹿肉を味噌で和えてた」
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「味噌」
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「知ってるのか」
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「知識はある」
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「食べたことは?」
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モモは答えなかった。
記録の中にあるのか。
身体として食べたことがあるのか。
その違いを、自分でも分けられないのかもしれない。
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「今度、持ってくる」
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シンが言った。
言ってから、少し驚いた。
次があることを、当たり前のように口にしていた。
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モモも驚いたようだった。
瞬きを一つした。
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「……りょ」
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その声に白はなかった。
短い。
昔から知っている返事のような気がした。
どこで聞いたのかは分からない。
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しばらくして、モモが立つ。
森の方へ身体を向けた。
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「また来る」
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「うん」
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「鹿肉」
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「覚えてたのか」
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「記録した」
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「じゃあ、忘れるなよ」
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モモは答えなかった。
一歩、森へ入る。
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「モモ」
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呼ぶと、立ち止まった。
振り返らない。
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「またな」
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少し間があった。
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「……りょ」
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黒髪が木の向こうへ消える。
桃の香りだけが、朝の水の匂いに混ざって薄く残った。
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(これでいいんだろうか)
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分からない。
でも、悪くない。
その両方が正しかった。
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山道を戻った。
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午前の光が木の葉を抜け、地面に細かな模様を作っている。風が枝を動かすたび、光も揺れた。
腹が減っていた。
朝飯を途中で放り出したことを思い出す。
タダの鍋。
冷めた根菜。
ユウガオ。
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(戻りづらい)
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だが、戻らないわけにもいかない。
足を進める。
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ユウガオがいた。
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道の途中で立っていた。
腕を組み、こちらを待っている。
朝の乱れた髪はきれいに結い直されていた。顔から酒の赤みも消えている。
いつものユウガオに戻っていた。
戻っているように見えた。
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「また桃の娘のところ?」
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シンは足を止めた。
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「……知ってたのか」
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「見てはいないよ」
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ユウガオは少し目を逸らした。
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「たまに、アンタから桃の残り香がしてた」
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静かな声だった。
責めてはいない。
それが、かえって重い。
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「女は鼻が利くんだ」
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さっきモモにも花の匂いを言い当てられた。
女は鼻が利く。
本当なのかもしれない。
シンは黙った。
何を言えばいいのか分からない。
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「モモは、今は大丈夫だ」
「もう敵対はしない」
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ユウガオは少し笑った。
口元だけだった。
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「そういうことじゃないんだよ」
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「じゃあ、どういう」
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最後まで言えなかった。
ユウガオの目を見たからだった。
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風が来た。
黒髪が揺れる。
ユウガオは腕を解いていた。いつ解いたのか、シンには分からなかった。
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「わかってたんだ」
⸻
低い声だった。
宴で人を振り向かせる白拍子の声ではない。
男をからかう時の声でもない。
ユウガオの声だった。
⸻
「アンタと桃の娘には、二人だけの間合いがある」
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少し間が落ちた。
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「間合い?」
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「あるんだよ」
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ユウガオは森の向こうを見た。
モモが消えた方角だった。
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「近いとか、遠いとかじゃない」
「触れてるとか、抱いてるとかでもない」
「何も喋らなくても、その間に誰も入れない」
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シンは川辺の沈黙を思った。
並んで座っていた。
何もしていない。
それでも、ユウガオには何かが見えていたのかもしれない。
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「大将と静も、そうだった」
⸻
静。
前にも聞いた。
たしか義経の想い人だったはずだ。
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「あの二人、側にいれば分かるんだよ」
「喋ってなくても、喧嘩してても」
「背中を向けてても」
「ほかの誰にも入れない場所がある」
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ユウガオは笑おうとした。
笑えなかった。
⸻
「羨ましかったのか」
⸻
「さあね」
⸻
いつものように躱す声だった。
だが、その先が続かなかった。
⸻
「たぶん、羨ましかった」
⸻
ユウガオが自分から言い直した。
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「静が大事だった」
「大将も嫌いじゃなかった」
「だから、二人が一緒にいるのは嬉しかったよ」
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少し笑う。
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「嬉しいのと、羨ましいのは、一緒にあるんだ」
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シンには、すぐには分からなかった。
だが、分からないと言うこともできなかった。
モモが誰かと同じような沈黙を持っていたら。
自分の知らない誰かの隣で、あの短い返事をしていたら。
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胸の奥に、小さく嫌なものが生まれた。
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「アタシはね」
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ユウガオの視線が、道の脇へ落ちた。
地面には小さな白い花が咲いていた。朝露がまだ残っている。
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「昔から、そういう場所の外にいた」
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シンは何も言わなかった。
言葉を挟めば、ユウガオがやめてしまう気がした。
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「家族の顔は、ほとんど覚えてない」
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少し間を置いた。
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「元の名前も」
「親に、なんて呼ばれてたのかも」
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風が止まった。
木の葉が静まる。
鳥の声も聞こえなくなった。
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「覚えてないのか」
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「覚えてない」
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ユウガオは言った。
軽くもなく、重くもない声だった。
何度も自分の中で言い直し、もう驚かなくなった者の声だった。
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「名前を忘れたんじゃない」
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ユウガオが続けた。
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「呼ばれた記憶がないんだ」
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シンは、自分の名前を思った。
誰が付けたのか。
誰に呼ばれていたのか。
それを自分も覚えていない。
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だが、同じではなかった。
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シンには、失ったものがある。
ユウガオには、初めから与えられた記憶がない。
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「夕顔って名前は」
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「あとから貰った」
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ユウガオは道の脇の花を見た。
白い花ではない。
それでも、遠い夜に咲いていた何かを見ているようだった。
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「磯禅師が付けてくれた」
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その名を口にすると、ユウガオの顔が少しだけ幼くなった。
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「静と出会ったのも、その夜だった」
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シンは黙っていた。
ユウガオも、すぐには続けなかった。
朝の明るさの中で、そこだけ夜へ戻りかけているようだった。
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やがて、彼女は腕を下ろした。
肩から力が抜ける。
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「聞いてくれるかい」
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「うん」
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「長い話になるよ」
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「いいよ」
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ユウガオは小さく笑った。
朝、胸の中で目を覚ました時の笑い方ではなかった。
男をからかう白拍子の笑い方でもなかった。
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夕顔という名を貰う前の、名もない娘へ戻るような笑いだった。
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山の風が、白い花を揺らした。
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(第百八話へ)




