夕顔
第百八話 夕顔
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雨の夜だった。
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幼い娘は、知らない男の後ろを歩かされていた。
手首には縄が巻かれている。強く引かれるたび、皮膚が擦れた。
どこから歩き始めたのかは覚えていない。
母が死んだのが先だったのか。
父が戻らなくなったのが先だったのか。
家がなくなったのが先だったのか。
子供には、順番など分からなかった。
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腹が減っていた。
足が痛かった。
泣けば殴られた。
泣かなくても、遅れれば殴られた。
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「売れる顔だ」
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先を歩く男が、もう一人へ言った。
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「手足も長い。少し仕込めば使える」
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意味は分からなかった。
自分が人ではなく、器や布のように値を付けられていることだけは分かった。
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磯禅師は、幼い静と軒下で雨宿りをしていた。
雨の向こうを、人買いの男が一人の娘を連れて歩いていく。
娘の手首には縄が巻かれていた。
痩せた身体。泥に汚れた足。
それでも娘は、滑る地面を不思議なほど崩れずに歩いていた。
磯禅師の目が、その足を追った。
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「お待ち」
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人買いが足を止めた。
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「その娘、いくらだい」
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人買いの男は、訝しげに磯禅師を上から下まで眺めた。
やがて、口元を歪めて言った。
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「安くはねえぞ」
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「値を聞いてるんだよ」
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男が告げた額は、子供一人へ出すには少なくなかった。
磯禅師は眉一つ動かさない。
娘の前へしゃがみ込んだ。
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顎。
喉。
肩。
泥に汚れた指。
細い脚。
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男が縄を引いた。
娘の身体が傾く。
それでも、足は縺れなかった。
濡れた地面を踏み直し、倒れずに立った。
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磯禅師の目が細くなった。
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「この脚は舞える」
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娘は意味が分からず、見返した。
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「喉も悪くない」
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男が鼻で笑った。
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「そんな痩せた餓鬼がか」
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磯禅師は懐から銭を出した。
一度で足りず、もう一つ包みを重ねる。
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「アンタらじゃ、この娘をすぐ壊しちまう」
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銭の重みを確かめた男たちが、顔を見合わせた。
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「宝の持ち腐れさね」
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「使い物にならなきゃ、どうする」
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「その時は、アタシの見る目がなかっただけさ」
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磯禅師は銭を渡した。
男は数を確かめ、ようやく縄を放した。
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磯禅師が娘の手首へ触れた。
雨と泥で固くなった縄を、ゆっくり解く。
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夕顔が覚えているのは、その指だった。
値を付けるためではなく、自分を人として触った、最初の指だった。
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「お前、名は」
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答えられなかった。
声が出ないのではない。
名前を忘れたのでもない。
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誰かに名を呼ばれた記憶が、初めからなかった。
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磯禅師は黙って娘を見た。
その横から、少し幼い子が覗き込んだ。
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「なまえ、ないの?」
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大きな目だった。
恐れも嫌悪もない。
ただ、知りたがっていた。
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「静」
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磯禅師がたしなめた。
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「だって、名前がないと呼べないもの」
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磯禅師は、開いた戸の向こうへ目を向けた。
雨に濡れた垣の下で、白い花が一輪だけ開いていた。
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「今夜、夕顔が咲いた」
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磯禅師は言った。
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「お前も、夕顔と呼ぼう」
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娘は意味を分かっていなかった。
けれど、その子はすぐに口にした。
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「ゆうがお」
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初めて、自分へ向けて呼ばれた名前だった。
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その子が静だった。
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最初にくれたのは、水だった。
次に、粥だった。
その次に、古い小袖だった。
そして、眠る場所を半分くれた。
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「はんぶんだけだからね」
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そう言いながら、夜中には夕顔の手を握っていた。
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姉妹ではなかった。
血はつながっていない。
それでも、姉妹のように育った。
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歌を覚えた。
足の運びを覚えた。
扇の角度。
袖の返し方。
客を見る時と、見ない時の目。
声を出す前の息。
鼓の拍子。
今様の節。
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間違えれば叱られた。
上手くできれば、飯が少し増えた。
もっと上手くなれば、人に呼ばれた。
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白拍子は、誰かに呼ばれて舞う。
誰かに望まれて笑う。
誰かが銭を出せば歌う。
飽きられれば、次の座へ行く。
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それでも、人買いの縄よりは自由だった。
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舞っている間だけは、誰にも触れられなかった。
皆が夕顔を見る。
夕顔の足が止まるまで、誰も夕顔を動かせない。
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それが好きだった。
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やがて夕顔は、美しいと呼ばれるようになった。
静は静で、人の心を掴む舞をした。
二人で同じ座へ出れば、客が増えた。
どちらが上かと聞かれると
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「私」「アタシ」
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静と夕顔が同時に言った。
お互い顔を見合わせる。
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「じゃあ」「両方!」
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二人はクスクスと笑い合う。
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そういう日々があった。
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「十六になる前だった」
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ユウガオの声で、山道へ戻った。
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「重衡卿が、アタシの舞を見た」
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名を口にした時だけ、声が少し変わった。
愛している声ではない。
憎んでいる声でもない。
長く触れずに置いたものへ、久しぶりに指を伸ばす声だった。
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「平重衡」
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シンは名前だけを知っていた。
若い平家の武将だったと思う。
その程度の知識だけが頭にある。
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「……どんな人だったんだ?」
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ユウガオは少し考えた。
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「綺麗な人だったよ」
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ほんの少し、笑った。
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「顔だけじゃない」
「指も、立ち方も、馬から降りる時も」
「武士なのに、何も傷つけないような人に見えた」
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回想の中で、灯が揺れた。
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重衡は宴の上座にいた。
若く、よく整った顔をしている。
夕顔の舞が終わるまで、一度も隣の者と話さなかった。
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「名は」
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問われた。
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「夕顔にございます」
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「夜に咲くのか」
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「お召しがあれば、昼でも舞います」
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重衡は笑った。
大声ではなかった。
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「では、今宵は夜でよかった」
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その後も呼ばれた。
宴へ。
小さな座へ。
人の少ない夜へ。
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重衡は舞を途中で止めなかった。
酔って袖を引くこともなかった。
夕顔が歌えば、最後まで聞いた。
言葉を交わせば、戯れと決めつけずに聞いた。
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やがて、重衡の持つ別邸の一角に住まいを与えられた。
衣が増えた。
食べ物に困らなくなった。
楽器があった。
舞える庭があった。
年嵩の女房が一人付き、夕顔が一人きりにならぬようにされた。
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重衡が訪れれば、夕顔は歌い、舞った。
酌をしながら戦や一門の話を聞くこともあった。
だが、夜が深くなる前に、重衡は必ず帰った。
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夕顔を抱いたことは、一度もなかった。
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ある夜、夕顔は聞いた。
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「わたくしを、女とはご覧にならぬのですか」
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重衡は、しばらく返事をしなかった。
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「女と思わぬわけではない」
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夕顔は目を伏せた。
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「では、なぜ、わたくしをお側に」
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「妻を、裏切りたくないのだ」
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重衡は迷わなかった。
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「私が求めたのは、そなたの歌と舞だ」
「そなたの身を買ったつもりはない」
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夕顔は顔を上げた。
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「不服か」
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「……いいえ」
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「ならば、これからも舞ってくれ」
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「承知いたしました」
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その夜も、重衡は夕顔に触れずに帰った。
妻を愛していた。
そのことを、夕顔にも隠さなかった。
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それでも、夕顔の歌を聞いた。
舞を見た。
酔客の慰みでも、身体を求めるための口実でもなく、夕顔の芸を正当に見た。
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だから、夕顔は重衡を好きになった。
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抱かれるよりも深く、自分を選ばれたような気がした。
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だが、寿永二年の夏。
都の空気が変わった。
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荷が動いた。
馬が集められた。
屋敷の者が走った。
赤い旗が外された。
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夕顔は待った。
あの人の妻と同じ場所に立てるとは思っていなかった。
所詮自分は白拍子だ。
それでも、自分の歌と舞を惜しみ、側に置いたのなら、旅支度をせよと言われるような気がしていた。
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衣を畳んだ。
扇を包んだ。
静からもらった小さな櫛を懐へ入れた。
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迎えは来なかった。
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翌朝、年老いた家人が一人だけ残っていた。
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「夕顔殿」
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目を合わせなかった。
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「お連れする沙汰はございません」
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「……中将様は?」
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「すでに」
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その先を聞かなかった。
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夕顔は一人で門を出た。
着物。
扇。
櫛。
荷は、それだけだった。
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振り返れば、誰かが呼ぶような気がした。
実際には、誰も呼ばなかった。
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「大事にされてなかったとは思わない」
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ユウガオは言った。
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「あの人に抱かれたことは、一度もない」
「奥方を愛してたから」
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少し笑った。
誇るような、寂しがるような笑いだった。
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「でも、アタシの歌も舞も、ちゃんと見てくれた」
「女の玩具じゃなく、白拍子の夕顔として側に置いてくれた」
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「だから、側にいる者としては選ばれたんだと思ってた」
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大切にされた。
認められた。
それでも、最後には連れていかれなかった。
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「選ばれなかったんだ」
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ユウガオは静かに言った。
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「ただ、それだけ」
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都を彷徨い、何日かして静と再会した。
二人で粥を食べた。
夜になってから、同じ床で泣いた。
幼い頃と同じように手を握り、声を押し殺した。
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翌年、義経が都へ入った。
静を介して、夕顔も義経の周りへ出入りするようになった。
宴へ入り、噂を拾った。
公家の屋敷。
武士の酒席。
女房たちの口。
白拍子なら入れる場所があった。
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義経も夕顔を女として囲わなかった。
静の姉妹分として扱った。
必要なら頼り、不要なら好きにさせた。
それが楽だった。
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やがて義経は都を追われた。
静も夕顔も、義経とともに京を出た。
海へ出たが、風と波に押し戻された。
追手を避け、山へ入った。
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吉野の山中で、静が倒れた。
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朝から何も食べられず、歩けば吐いた。
足元を滑らせたあと、衣に薄く血が滲んだ。
近くの小屋へ運び込み、子を取り上げてきたという老女に診せた。
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「月の障りは」
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問われて、静は黙った。
指を折り、顔色を変えた。
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老女は静の腹へ手を置いた。
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「子がおる」
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誰も声を出さなかった。
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「血が止まるまで動かすな」
「このまま山を越えれば、母も子も持たぬ」
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静は起き上がろうとした。
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「行きます」
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義経は何も言わなかった。
ただ、静の肩へ手を置いた。
静はその手を振りほどいた。
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「置いていかないで」
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初めて、声が崩れた。
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夕顔は静の前へ膝をついた。
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「アンタ一人の身体じゃない」
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「私の身体よ」
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「腹の子の身体でもある」
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静は唇を噛んだ。
泣かなかった。
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その夜、追手の火が山の下に見えた。
義経たちは、夜明けまでに山を離れなければならなかった。
義経は夕顔に、何も命じなかった。
残れとも。
来いとも。
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「夕顔」
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静が呼んだ。
幼い頃、初めて名を呼んだ時と同じ声だった。
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「お願いがあるの」
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「何」
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「あの人と、行って」
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夕顔は黙った。
静の手は、腹の上に置かれていた。
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「私の代わりに、あの人を見ていて」
「最後まで」
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「アタシは、アンタと残るつもりだった」
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「駄目」
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静はすぐに言った。
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「私は、ここで子を守る」
「でも、あの人まで一人にしたくない」
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「大将には、弁慶たちがいる」
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「いても、一人になる人なの」
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夕顔は、小屋の外の背中を見た。
人を置いていけるくせに、自分が置いていかれると、すぐ一人になる男だった。
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「夕顔にしか、頼めない」
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静が手を伸ばした。
幼い頃、夜中に握られたのと同じ手だった。
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「お願い」
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夕顔は、その手を握り返した。
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「……分かったよ」
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「大将の無茶を止められるとは思わないけど」
「最後まで、見てくる」
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静は笑った。
泣いてはいなかった。
夕顔も笑った。
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翌朝、夕顔は義経と山を出た。
静を残して。
腹の子を残して。
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自分から望んだ道ではなかった。
静から託された道だった。
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「静に頼まれて、大将についていった」
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ユウガオが言った。
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「アタシは、静と残るつもりだった」
「でも、あの子が、大将を最後まで見てくれって」
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少し笑った。
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「断れなかった」
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静が選んだ。
義経の最後を見届ける者として、夕顔を選んだ。
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「だから、奥州まで来た」
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京から奥州まで来た。
山を越えた。
雪を踏んだ。
飢えた。
逃げた。
笑った。
義経の無茶に呆れた。
タダの飯を食べた。
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そして、シンに会った。
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「最初は似てると思った」
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シンの胸が、わずかに固くなった。
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「重衡にか」
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「顔じゃないよ?」
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ユウガオは、少しだけ昔の笑い方をした。
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「重衡卿の方が、ずっと男前だった」
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「そこは否定できない」
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「否定しなよ」
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ほんの一瞬だけ、いつものユウガオが戻った。
だが、すぐに消えた。
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「優しいところ」
「人を、身分で見ないところ」
「側にいるのに、ずっと遠くを見てるところ」
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ユウガオの目が、まっすぐシンへ向く。
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「大事にしたものを置いたまま、いつかいなくなりそうなところ」
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シンは答えられなかった。
否定できない。
この時代から消える。
いつなのかは分からない。
けれど、いずれ消える。
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「だから、怖かった」
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「……俺が?」
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「アンタを好きになるのが」
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ユウガオは逃げなかった。
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「また同じだと思った」
「優しくされて」
「大事にされて」
「最後には、アタシより遠くにあるものを選ばれる」
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モモ。
義経。
遠い時代。
シン自身にも分からない役目。
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「でも、アンタは同じじゃなかった」
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「何が」
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「分からないって言った」
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シンは瞬きをした。
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「この前、アタシがここで暮らしてもいいんじゃないかって言った時」
「アンタ、分からないって言ったろ」
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「……うん」
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「腹が立ったよ」
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ユウガオは正直に言った。
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「少しくらい、優しい嘘を言えばいいと思った」
「ここにいるとか」
「帰ってくるとか」
「アタシを置いていかないとか」
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声が少し震えた。
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「でも、アンタは言わなかった」
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重衡は、最後の時に何も言わなかった。
シンは、優しい言葉をくれなかった。
けれど、分からないものを分からないと言った。
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「約束で、誤魔化さなかった」
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ユウガオの目が潤んでいた。
泣いてはいない。
泣かないように耐えている。
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「白拍子ってのはね」
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声が低くなった。
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「誰かに呼ばれて踊るんだ」
「誰かに望まれて笑う」
「誰かに選ばれて、初めて居場所ができる」
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ユウガオは自分の掌を見た。
扇を持った手。
重衡卿の前で拍子を刻んだ手。
静の手を握った手。
義経の旅を支えた手。
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「ずっと、そうだった」
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人買いに選ばれた。
磯禅師に引き取られ、名を与えられた。
客に選ばれた。
重衡卿に歌と舞を選ばれた。
そして、最後には連れていかれなかった。
静には、義経を見届ける者として選ばれた。
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「アタシ、自分が誰の側にいるかを、自分で選んだことなんて、一度もなかった」
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「義経は?」
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「静に頼まれたからさ」
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ユウガオが少し笑った。
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「大将についていくと決めたのは、静だ」
「アタシは、その願いを引き受けただけ」
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そして今。
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「アンタは、来いとも言わない」
「行くなとも言わない」
「自分のものになれとも言わない」
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ユウガオは一歩、近づいた。
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「だから」
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木漏れ日が、頬を横切った。
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「初めて、自分で選びたくなった」
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シンは動けなかった。
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「アンタを」
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声は静かだった。
舞台の上なら、もっと美しく言えただろう。
歌にすれば、聞く者を泣かせられたかもしれない。
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だが、ユウガオは飾らなかった。
ユウガオとして言った。
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「大将と静みたいにはなれない」
「アンタと桃の娘の間にも入れない」
「そんなこと、分かってる」
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少しだけ唇を噛んだ。
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「でもさ」
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顔を上げた。
目が赤かった。
それでも、真っ直ぐだった。
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「アタシは、アンタが欲しい」
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言い切った。
逃げなかった。
笑って誤魔化さなかった。
身体を寄せて、冗談に変えなかった。
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光の中に立っていた。
強い女だった。
強くて、危うかった。
夜に咲く花が、昼の光の中で全部を見せていた。
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シンは何も言えなかった。
モモがいる。
モモとの間に、言葉では説明できないものがある。
それは否定できない。
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だが、ユウガオもいる。
衣川の火の中を走った。
泣いて、笑って、隣で酒を飲んだ。
失われた腕飾りを覚えているのはシンだけだった。
ユウガオは知らない。
知らないまま、またシンを選んだ。
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「ユウガオ」
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ようやく、名前を呼んだ。
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「……うん」
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「俺は」
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続かなかった。
ここにいるとは言えない。
消えないとも言えない。
モモを捨てるとも言えない。
ユウガオを選ばないとも言えなかった。
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「今は、言わなくていい」
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ユウガオが先に言った。
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「優しいことを考えてる顔じゃない」
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「ごめん」
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「謝るな」
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ユウガオは一度、目を閉じた。
息を整える。
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「ただ、知ってて」
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目を開けた。
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「アタシは、アンタを選んだ」
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それだけだった。
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馬の蹄が聞こえた。
一つ。
近づいてくる。
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「戻ろう」
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ユウガオが言った。
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「うん」
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二人は並んで歩き出した。
触れなかった。
距離は、来た時より少し近かった。
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家の前に、国衡がいた。
馬から降り、戦支度をしていた。
疲労の色は濃いが、背筋は伸びている。
将の顔だった。
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タダが家の前に立っていた。
国衡は三人を見た。
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「鎌倉の軍が北へ向かった」
「俺は前へ出る」
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ユウガオの表情が変わった。
シンの中から、さっきまでの熱が消える。
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「もう、ここへは来られぬかもしれない」
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国衡は短く告げた。
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「三人の暮らしは頼んである」
「山の者に、道具も食料も冬の薪も預けた」
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「国衡」
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「義経殿への礼だ」
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国衡は少し笑った。
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「何かを貰ったわけではない」
「だが、楽しかった」
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遠くを見る。
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「本当に帰ってくるかもしれぬしな」
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誰も、義経が死んだとは言わなかった。
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「その時まで、健やかに」
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国衡が馬へ向かう。
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「待ってくれ!」
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シンが叫んだ。
国衡が止まる。
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「俺も行く」
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ユウガオは何も言わなかった。
タダも黙っている。
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国衡はゆっくり振り返った。
疲れた顔だった。
それでも、少し笑った。
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「……お前までか」
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奥州の山に、風が通った。
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戦は、もう近くまで来ていた。
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