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奥州征伐

第百九話 奥州征伐


⸻


「……お前までか」


⸻


 国衡は、シンを見た。


 驚いたというより、困っていた。


 これから戦へ向かう男に、戦えない人間がついていくと言っている。


 困るのは当然だった。


⸻


「槍は使えるか」


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「ほとんど使えない」


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「弓は」


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「もっと使えない」


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「馬は」


⸻


「乗れる!」


⸻


 少し考えた。


⸻


「でも速く走られたら、たぶん落ちる」


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 国衡が目を閉じた。


⸻


「……何をしに来る」


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「それは、まだ分からない」


⸻


「分からぬまま戦へ来るな」


⸻


 正しかった。


 正しすぎて、何も返せない。


 それでも退くとは言えなかった。


⸻


「でも、行く」


⸻


 国衡が息を吐く。


⸻


「……俺も行く」


⸻


 タダだった。


 国衡の目が移る。


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「お前は戦えるな」


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「戦わない」


⸻


「土佐坊を一人で止めたと聞いた」


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「昔の話だ」


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「ひと月も経っていない」


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 タダは少し考えた。


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「今は飯を作っている」


⸻


 顔が穏やかだった。


 山で魚を焼き、薪を割り、朝になれば味噌汁を作る。


 もう一生そうして暮らすつもりらしい。


⸻


(完全に隠居してる)


⸻


 意味だけが頭に浮かんだ。


 未来では、もっと別の呼び方があった気がする。


 働かなくても暮らせるようになり、早めに仕事を辞める生き方。


⸻


(……FIREだ)


⸻


 土佐坊と殴り合える男が、山菜と魚で早期退職していた。


⸻


「戦場で何をする」


⸻


「飯を作る」


⸻


「戦場だぞ」


⸻


「戦場でも腹は減る」


⸻


 国衡はタダを見た。


 反論しようとして、やめた。


⸻


「アタシも行くよ」


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 ユウガオが言った。


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「夕顔殿まで」


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「アンタたちだけ行かせて、アタシはここで冬の薪でも数えてろって?」


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「北の戦に舞は要らぬ」


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「舞うだけが白拍子じゃない」


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 迷いはなかった。


⸻


「傷口を縛れる。水も運べる。字も読める。男が聞けない話を、女から聞ける」


⸻


 それから、シンを見る。


⸻


「……選んだばかりの男が、もう戦へ行くって言ってるしね」


⸻


 シンの顔が熱くなった。


 タダが見る。


 国衡も見る。


⸻


「何の話だ?」


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「何でもないっ」


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「何でもなくはないよ」


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 ユウガオは笑った。


 言ったことを冗談にはしなかった。


 全部を言い終えた女の笑い方だった。


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「悪い男を選んだな」


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 国衡が言った。


⸻


「知ってる」


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 即答だった。


 シンだけが何も言えない。


⸻


「……分かった」


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 国衡が馬の手綱を引いた。


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「ならば全員で、平泉へ戻る」


⸻


「戦場に行くんじゃないのか」


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「戦は、戦場で始まるのではない」


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 わずかに残っていた笑いが消えた。


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「誰をどこへ置くか。何を運び、何を残すか。それを決めた時に始まる」


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 将の顔だった。


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「もう始まっている」


⸻


⸻


 山を出る時、桃の香りがした。


⸻


 シンは振り返った。


 木々の向こう。


 高い尾根の上に、白いものがあった。


 人の形に見えた。


 黒い髪が、風に揺れた気がした。


⸻


「シン?」


⸻


 ユウガオが呼ぶ。


 もう一度見た時には、誰もいなかった。


 香りだけが残っている。


⸻


「……何でもない」


⸻


 今度はシンが言った。


 ユウガオは何も聞かなかった。


⸻


⸻


 平泉へ近づくほど、人の流れが速くなった。


⸻


 南へ向かう兵。


 北へ向かう荷車。


 米俵。


 干した魚。


 矢竹。


 革。


 鍋。


 泣いている子供を乗せた車もある。


⸻


 道の真ん中で、荷車の車輪が外れた。


 俵が傾く。


 男たちが慌てて支えた。


 その横を歩いていたタダが、荷台へ片手を掛ける。


⸻


「持つ」


⸻


 荷車が浮いた。


 米俵と鍋と子供を乗せたまま、片側が持ち上がる。


 怪力すぎる。


 男たちが固まった。


 外れた車輪を入れ直す。


⸻


「助かった。やはり武者は違うな」


⸻


「飯係だ」


⸻


 タダは荷車を下ろし、何事もなかったように歩き出した。


⸻


(どこが隠居だ)


⸻


 シンも追う。


⸻


⸻


 平泉は、まだ美しかった。


 夏の日を受けた堂塔が光っている。


 水路には澄んだ水が流れ、池の蓮が開いていた。


 金の飾りも、白い壁も変わらない。


⸻


 人間だけが変わっていた。


⸻


 市の店は戸を閉じ、品を包んでいる。


 鍛冶場では鉄を打つ音が止まらない。


 寺の鐘が鳴る。


 兵が走る。


 女たちが布を裂き、傷を縛るための帯を作っていた。


⸻


 義経の首を鎌倉へ送れば、戦は終わるはずだった。


 実際には逆だった。


 あの首が、戦を連れてきた。


⸻


⸻


 評定の間には、すでに十数人が集まっていた。


⸻


 武具を着けた者。


 寺の者。


 土地の道を知る者。


 兵糧を数える者。


 部屋の中央には、大きな板が置かれている。


 白い紙を幾枚も継ぎ、山と川と道が墨で描かれていた。


⸻


 平泉。


 多賀の国府。


 白石。


 伊達。


 阿津賀志山。


 その南へ、奥大道が伸びている。


⸻


 道の上には石が並べられていた。


 黒い石が奥州。


 白い石が鎌倉。


 白い石の方が、ずっと多い。


⸻


 シンたちは部屋の端へ座った。


 国衡が連れてきたから、追い出されないだけだ。


 ユウガオは黙って紙を見ている。


 タダは兵糧を書きつけた札の方を見ていた。


 すでに飯のことしか考えていない。


⸻


 奥の簾が上がった。


⸻


 泰衡が入ってきた。


⸻


 痩せていた。


 衣は整っている。


 髪も乱れていない。


 それでも、目の下の影だけは隠せなかった。


 眠っていない。


 座る時、脇息に手を置き損ねた。


 指が一度、宙を掴む。


⸻


「始めよ」


⸻


 声は小さかった。


 すぐに南からの使者が入る。


⸻


「鎌倉勢、白河を越えました」


⸻


 部屋が静まる。


⸻


「戦は」


⸻


 国衡が聞く。


⸻


「大きな戦はございません。関を守る者は退き、鎌倉勢は奥大道を北上しております」


⸻


「数は」


⸻


 使者は一度、口を閉じた。


⸻


「数えられませぬ」


⸻


 誰かが息を吐く。


 別の誰かが念仏を飲み込んだ。


⸻


「東は」


⸻


「海道にも別勢。西の出羽道へ向かう兵もおります」


⸻


 三つ。


 鎌倉方は奥州へ入る道を三つとも使っていた。


 中央を本隊が進み、東と西にも兵を置く。


 一つを塞いでも、別の道から北へ入る。


⸻


 国衡が白い石を三つに分けた。


 中央へ最も多く。


 東と西へ、それぞれ幾つか。


⸻


「海道は千葉、八田らが上がる。西は比企、宇佐美の兵が回る」


⸻


 指が紙の上を動いた。


⸻


「だが、頭はここだ」


⸻


 奥大道。


 白河から北へ続く道を指す。


⸻


「頼朝は自ら、この道を来る」


⸻


「しかし、この数をどう止める」


⸻


 老いた武者が聞いた。


 国衡は答えず、紙の上の白い石を掴んだ。


 大半を、板の外へ落とす。


 石が床を打った。


⸻


「何を」


⸻


「あの数が、一度に戦えると思うか」


⸻


 紙の上に残った白い石は、僅かだった。


⸻


「奥大道は、阿津賀志で狭くなる。西は山。東は阿武隈の古い流れと湿地だ」


⸻


「阿津賀志では、春から堀を掘らせている」


⸻


 国衡が黒い石を一列に並べる。


⸻


「山から川まで、すでに土塁と堀を通してある。馬を湿地へ入れ、歩兵を堀で止める。正面に立てる兵の数を、こちらが決める」


⸻


 板の外へ落ちた白い石を指した。


⸻


「後ろに何万いようと、前が詰まれば槍は届かぬ」


⸻


 老武者の目が変わった。


⸻


「堀は、どこまで出来ている」


⸻


「山の中腹から川筋まで。深いところは二重にした。掘った土は三つの土塁へ積ませてある」


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「残りは」


⸻


「低い場所が二箇所。頼朝が着く前に塞ぐ」


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「湿地側は」


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「水を逃がすなと命じてある。雨が降れば、さらに沈む」


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 別の武者が身を乗り出した。


⸻


「山側は」


⸻


「木を倒し、逆茂木を置く。登れば上から射る。足を止めたところへ石と丸太を落とす」


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「敵の先陣は畠山重忠だ」


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「……強いな」


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 国衡は笑った。


⸻


「だが、面白い」


⸻


 部屋の空気が変わった。


 怖さが消えたわけではない。


 だが、白い石の数だけを見ていた者たちが、山と泥と堀を見始めた。


⸻


「金剛別当秀綱を南の備え。俺は大木戸に入る。信夫の佐藤勢は石那坂を塞ぐ」


⸻


「東と西は」


⸻


「土地の兵を残す。だが、分けすぎぬ。まず頼朝を止める」


⸻


 黒い石が白い石を囲んでいく。


⸻


「第一陣を押し返せば、後ろの大軍は自分たちで道を塞ぐ。兵糧は減り、馬は疲れる。頼朝は戦い続けるか、話をするか、選ばねばならなくなる」


⸻


「勝てるのか」


⸻


 泰衡だった。


 国衡が振り返る。


⸻


「正面から来るなら、勝つ」


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 迷わなかった。


 泰衡の目に、わずかに光が戻る。


⸻


「本当に」


⸻


「ああ」


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 泰衡は紙の上の阿津賀志山を見た。


 しばらく、そこから目を動かさなかった。


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「……同じだ」


⸻


「何が」


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「昨夜、山を見た」


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 泰衡は、遠いものを探すように目を細めた。


⸻


「大きな影が立っていた」


「顔は見えなかった」


「ただ、北はまだ終わらぬと」


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 誰も言葉を挟まない。


 夢だったのか、目を開けたまま見たのか。


 泰衡自身にも、分かっていないようだった。


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 泰衡は我に返ったように口を閉じた。


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「忘れろ」


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 国衡は、その意味を問わなかった。


⸻


「今夜は眠れ。戦は俺がする」


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 泰衡の顔が歪んだ。


 当主として怒ったのか、弟として安堵したのか、分からなかった。


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「兄上」


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「何だ」


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「戻れ」


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 声が小さかった。


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「必ず、戻ってきてくれ」


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 国衡は少し笑った。


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「勝てと言ったり、戻れと言ったり、忙しい当主だ」


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 泰衡も、ほんの少しだけ笑った。


 すぐに消えた。


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「両方だ」


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「承知した」


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 国衡が紙の上の黒い石を握った。


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「勝って、戻る」


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 評定の間に、初めて人の息が戻った。


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⸻


 その夜、平泉は眠らなかった。


⸻


 使者が東へ走る。


 西へ走る。


 南へ走る。


 兵糧が蔵から運び出される。


 矢が束ねられる。


 槍の穂先が研がれる。


 鍬と鋤まで集められた。


⸻


 戦う道具より、土を動かす道具の方が足りない。


⸻


 タダは兵糧蔵にいた。


 米俵を二つ、両肩へ載せて歩いている。


 周りの男たちは、一つを二人で運んでいた。


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「やはり兵にするべきだな」


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 国衡が言った。


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「飯係だ」


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「その力で鍋を持つのか」


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「大きい鍋が持てる」


⸻


 間違ってはいなかった。


 国衡が笑う。


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「好きにしろ」


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「そうする」


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 タダはすでに好きにしていた。


⸻


⸻


 阿津賀志山へ着いた時、防塁は大地を二つに分けていた。


⸻


 山の中腹から、土の線が伸びている。


 平地へ下り、畑を横切り、湿地へ入り、阿武隈川の古い流れまで続く。


 山と川の隙間を、巨大な土の腕で塞いでいるようだった。


⸻


 土塁の古い面には、すでに草がついていた。


 その上へ盛り足された土だけが、黒く湿っている。


 まだ堀を深くしている場所もある。


 崩れた斜面を固め、逆茂木を打ち込み、丸太と石を運び上げていた。


 堀が二つ並び、その間と両側に三つの土塁が立つ。


 低い場所は水と泥で光っていた。


⸻


 人がいた。


 どこを見ても人がいる。


 兵。


 農夫。


 山の民。


 寺から来た者。


 女もいた。


 子供まで枝を運んでいる。


⸻


 タダは着くなり、太い丸太を担いだ。


 三人がかりで動かしていたものを、一人で持ち上げる。


 周りから声が上がった。


⸻


「どこへ置く」


⸻


「山側へ!」


⸻


 タダが歩く。


 兵たちが道を開けた。


⸻


「本当に戦わない気か」


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 シンが聞く。


⸻


「戦わない」


⸻


「今、兵器みたいな丸太を運んでるぞ」


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「薪だ」


⸻


「そんな太い薪があってたまるか」


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 タダは返事をせず、斜面を上っていった。


 完全に早期退職した人間の背中だった。


 担いでいるものだけがおかしい。


⸻


 ユウガオは水場へ入った。


 桶を運びながら女たちの名を聞き、半刻も経たないうちに笑わせている。


 白拍子は、どこにでも入れた。


 笑い声があるだけで、鍬を振る手が少し軽くなる。


⸻


 シンは国衡の後ろを走った。


 国衡が乗る馬は、他の馬より頭一つ大きい。


 艶のある黒毛。


 太い脚。


 国衡を乗せて斜面を上り下りしても、ほとんど息を乱さない。


⸻


「高楯黒だ」


⸻


 手綱を取る兵が、誇るように教えた。


⸻


「奥州で、あれより強い馬はいない」


⸻


 高楯黒は、聞こえているように鼻を鳴らした。


 国衡が首筋を叩く。


⸻


「シン!」


⸻


 呼ばれた。


 走る。


⸻


「山側の木戸へ伝えろ。合図を一つ増やす。角笛が二度なら、丸太を落とせ」


⸻


「分かった」


⸻


「復唱」


⸻


「角笛二度で丸太!」


⸻


「行け!」


⸻


 足が動いた。


 槍も弓も使えない。


 馬に速く走られれば落ちる。


 それでも、声なら運べた。


⸻


⸻


 翌日、防塁を試した。


⸻


 鎧を着けていない馬を、南側からゆっくり進ませる。


 乾いた場所では走れた。


 湿地へ入った途端、脚が沈む。


 一歩。


 二歩。


 泥が膝近くまで上がり、馬が鼻を鳴らして止まった。


⸻


「ここへ鎧武者を乗せたら」


⸻


 国衡が聞く。


⸻


「動けません」


⸻


「引き上げろ。馬は傷つけるな」


⸻


 綱を掛け、馬を戻す。


 次は堀だった。


 南側へ藁束を並べる。


 合図。


 土塁の上から矢が飛んだ。


 一列目。


 二列目。


 高さの違う土塁から放たれた矢が重なり、藁束へ突き立つ。


⸻


 さらに角笛が二度。


⸻


 山側で綱が切られた。


 丸太が落ちる。


 一本ではない。


 土と枝を巻き込み、南へ向かって斜面を走った。


 地面が揺れる。


 最後の一本が止まると、兵たちから歓声が上がった。


⸻


「もう一度!」


⸻


 誰かが叫ぶ。


⸻


「丸太がなくなる!」


⸻


 別の誰かが怒鳴った。


 笑いが起きた。


⸻


 国衡も笑っていた。


⸻


「見たか」


⸻


 シンを見る。


⸻


「大軍と戦う必要はない」


⸻


 国衡が泥へ嵌まった藁束を指した。


⸻


「先頭を止めれば、後ろはただの壁だ」


⸻


 シンは防塁を見た。


 土。


 水。


 木。


 矢。


 ここで生きる者たちが知っている土地。


 全部が一つの仕掛けになっている。


⸻


(勝てるかもしれない)


⸻


 初めて、そう思った。


⸻


⸻


 夜。


⸻


 タダが大鍋を火へ掛けた。


 米。


 豆。


 山菜。


 干し肉。


 働いた人数を見て、途中で鍋を一つ増やした。


⸻


「ここ、いいな」


⸻


 タダが言った。


⸻


「何が」


⸻


「山がある。川も近い」


⸻


「今から戦場になる場所だぞ」


⸻


「戦が終われば畑にできる」


⸻


「戦場を隠居先にするな」


⸻


「魚もいる」


⸻


「聞いてない」


⸻


 タダは本気だった。


 戦が終われば、ここで畑を耕し、魚を焼き、大鍋で飯を作るつもりらしい。


⸻


「爺さんみたいだね」


⸻


 ユウガオが椀を受け取る。


⸻


「まだ若い」


⸻


「若い男は、もう少し野望を持つもんだよ」


⸻


「畑を広くする」


⸻


「そういう野望じゃない」


⸻


 周りの兵が笑った。


 タダの鍋を囲む者が増える。


 先ほどまで知らない者同士だった。


 今は同じ椀から飯を食べている。


⸻


 国衡も来た。


 椀を一つ受け取る。


⸻


「美味い」


⸻


「そうか」


⸻


 タダが肉を一片増やした。


⸻


「俺だけ多くないか」


⸻


「働くからだ」


⸻


「大将だからではないのか」


⸻


「働く大将だからだ」


⸻


 国衡が声を上げて笑った。


 兵たちも笑った。


 火が揺れた。


 明日も掘れる。


 明日も戦う支度ができる。


 それだけで、今は十分だった。


⸻


⸻


 遠い尾根の上に、モモがいた。


⸻


 防塁の火が見える。


 その中に、シンがいる。


 声は届かない。


 顔も、はっきりとは見えない。


 それでも、どこにいるか分かった。


⸻


 ユウガオが隣にいる。


 タダが鍋の前にいる。


 国衡が笑っている。


⸻


 モモは近づかなかった。


 白い衣が夜風に揺れる。


 腰にはフツがある。


 柄へ触れた指を、すぐに放した。


⸻


「観測、継続」


⸻


 誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。


 桃の香りが、風に流れる。


⸻


「……誤差」


⸻


 それでも、火が消えるまで動かなかった。


⸻


⸻


 四日目の夕方。


⸻


 南から来た馬が、泡を吹いて倒れた。


 乗っていた兵も転がるように地へ降りる。


⸻


「鎌倉勢!」


⸻


 鍬の音が止まった。


 槌の音も止まる。


⸻


「国見宿へ入ります!」


⸻


 国衡が土塁へ上がった。


 シンも後を追う。


 ユウガオが水桶を置いた。


 タダも鍬を地へ刺した。


⸻


 南を見る。


⸻


 最初に見えたのは、人ではなかった。


 土煙だった。


 遠い地面の上に、茶色い帯ができている。


 風ではない。


 帯はゆっくり広がり、空の低いところを汚していく。


⸻


 その下から、白いものが現れた。


 一つ。


 二つ。


 十。


 数えられなくなる。


⸻


 白旗だった。


⸻


 道から来る。


 丘の向こうからも出る。


 途切れない。


 槍が光る。


 馬がいる。


 人がいる。


 さらに、その後ろにも白い旗がある。


⸻


「多いね」


⸻


 ユウガオが言った。


⸻


「ああ」


⸻


「飯は足りる」


⸻


 タダが言った。


⸻


「敵の分まで作るなよ」


⸻


「来たら食わせる」


⸻


「来させないための防塁だ」


⸻


 国衡が笑った。


 白い旗を見ている。


 恐れていない。


 待っていた顔だった。


⸻


「数えるな!」


⸻


 国衡の声が防塁へ響いた。


 兵たちが顔を上げる。


⸻


「あの全てと戦うわけではない!」


⸻


 槍の石突きで、足元の土塁を叩く。


⸻


「戦う場所は、俺たちが作った!」


⸻


 声が山と湿地へ走る。


⸻


「馬が沈む場所を、俺たちは知っている!」


「登れば崩れる斜面を、俺たちは知っている!」


「ここで飯を食い、ここで水を飲み、ここで生きてきた!」


⸻


 兵たちが槍を上げた。


 農夫が鍬を上げた。


 女たちが声を上げた。


 タダまで大きな杓文字を上げていた。


⸻


「お前はそれでいいのか」


⸻


「これしかない」


⸻


 鬨が上がった。


 奥州の声だった。


⸻


 南の軍が止まる。


 まだ遠い。


 それでも、向こうにも聞こえた気がした。


⸻


 日が落ちる。


⸻


 南の平地に、火が一つ灯った。


 また一つ。


 次々に増える。


 やがて数えることを諦めた。


⸻


 夜空には星があった。


 地上にも星があった。


 地上の方が多かった。


⸻


 だが、北にも火があった。


⸻


 山から川まで。


 長い防塁の上に、奥州の火が並んでいる。


 白い旗の海と、土で作った壁が向かい合う。


⸻


 国衡が槍を取った。


⸻


「来たぞ」


⸻


 少し笑っていた。


⸻


「明日、勝つ」


⸻


 阿津賀志山が、夜の中で敵を待っていた。


⸻


(第百十話へ)


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