阿津賀志山
第百十話 阿津賀志山
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夜の底で、土が鳴っていた。
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ざく。
ざく。
一定の間を置いて、また鳴る。
獣ではない。
足音でもなかった。
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「敵が堀へ入った!」
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防塁の上で声が弾けた。
眠っていた兵が一斉に起きる。
弓を掴む。
槍を取る。
火を隠す。
シンも土塁へ駆け上がった。
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南は暗かった。
鎌倉軍の陣火だけが、地上の星のように並んでいる。
その手前。
外堀の底で、黒い影が動いていた。
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土を運んでいる。
背負い籠。
蓆に包んだ枝。
石。
暗闇の中から次々と運び込み、堀へ落としていた。
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「堀を埋めてる」
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シンの隣へ、国衡が来た。
もう鎧を着けている。
眠っていた様子はなかった。
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「鎌倉勢です!」
斥候が膝をつく。
「鎧を着けぬ人夫、八十ほど! 鋤と鍬を持っております!」
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奥州の弓が鳴った。
暗闇へ矢が消える。
短い悲鳴がした。
それでも、鋤の音は止まらない。
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ざく。
ざく。
倒れた影の後ろから、別の影が入る。
土を落とす。
また次が来る。
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「もっとやっつけないのか?」
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シンが言った。
国衡は首を振った。
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「見えぬ敵へ射ても矢の無駄だ」
「でも、堀が」
「全部は埋まらん。埋まった場所を見ておく」
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国衡が指を差す。
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「そこへ敵が集まる」
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埋められた場所が、そのまま鎌倉軍の道になる。
道が分かれば、射る場所も分かる。
国衡の目は、すでに朝の戦を見ていた。
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堀の向こうで、松明が一つ動いた。
大きな馬が見えた。
その上に、鎧武者がいる。
土塁を見上げ、堀へ入った人夫を見ていた。
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「あれが畠山次郎重忠だ」
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国衡が言った。
重忠は遠かった。
顔までは見えない。
それでも、こちらを見ていることだけは分かった。
国衡も動かなかった。
夜の堀を挟んで、二人の将が同じ場所を見ている。
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「敵も、戦う場所を作る気だ」
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国衡が少し笑った。
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「なら、利用させてもらう」
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松明が下がった。
重忠の姿も闇へ消えた。
鋤の音だけが、夜明けまで続いた。
文治五年八月七日。
鎌倉軍が国見宿へ入った夜だった。
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八月八日の朝は、弦の音で始まった。
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霧の中から白旗が出た。
埋めた堀へ向かい、鎌倉の兵が一列になって進んでくる。
前の者は大きな盾を持っていた。
その後ろに弓。
さらに槍。
馬はまだ来ない。
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叫ばない。
走らない。
矢を受けても列を崩さない。
白旗が、埋められた場所へ集まっていく。
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国衡の言った通りだった。
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「まだだ!」
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奥州兵は弓を引いたまま待った。
白旗が近づく。
埋めた土へ足を掛ける。
盾が外堀を越える。
一人。
二人。
狭い道へ、鎌倉兵が重なる。
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「射よ!」
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空が黒くなった。
一列目の矢。
続いて二列目。
高さの違う土塁から放たれた矢が、鎌倉勢の頭上で重なった。
盾が鳴る。
人が倒れる。
後ろの兵が前へ出る。
進もうとして、倒れた者に足を取られる。
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角笛が二度鳴った。
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山が動いた。
夜のうちに止めてあった丸太が、土と枝を巻き込んで落ちてくる。
鎌倉勢の列が初めて割れた。
盾が跳ねる。
白旗が倒れる。
地面が揺れた。
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奥州兵から歓声が上がる。
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「追うな!」
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歓声を、国衡の声が切った。
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「堀を越えるな! 戻れ! 持ち場を離れるな!」
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追い出ようとした兵が止まる。
鎌倉勢は崩れながらも、背を向けてはいなかった。
盾を前へ残し、負傷者を引きずり、ゆっくり下がっていく。
その背へ矢が降る。
白旗が霧の中へ消えた。
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「シン!」
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国衡が振り返った。
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「大木戸へ走れ! 一の土塁を捨てても二を守れ。次は湿地から来る!」
「分かった!」
「復唱!」
「一を捨てても二を守る! 次は湿地!」
「行け!」
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シンは走った。
土塁を下りる。
人の間を抜ける。
矢が頭上で鳴った。
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体が止まった。
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五度の死が、体のどこかに残っていた。
音の次に痛みが来る。
痛みの次に白が来る。
頭ではなく、背中が覚えている。
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矢が足元へ刺さった。
土が跳ねる。
息ができない。
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「シン!」
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ユウガオの声だった。
負傷兵の腕を縛りながら、こちらを見ている。
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「気をつけて!」
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足が動いた。
走る。
今度は止まらなかった。
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大木戸の手前で、馬が倒れていた。
下に若い兵が挟まれている。
周囲の男が引いても動かない。
タダが来た。
鞍の下へ両手を入れる。
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「持つ」
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馬の半身が浮いた。
兵が這い出す。
タダは馬を横へ寝かせ、若い兵を抱き上げた。
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「戦わないんじゃなかったのか!」
「助けている」
「その力で戦えば強いだろ!」
「飯も焦げる」
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本当に忙しそうだった。
負傷兵を片腕で抱え、もう一方の手には大きな杓文字を持っている。
戦場にいる人間の姿ではない。
やっていることだけが、誰より役に立っていた。
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シンは大木戸へ走った。
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湿地。
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白旗が浅瀬へ入った。
馬を捨てた鎌倉兵が、泥の上へ板を並べている。
先頭はもう、二つ目の板へ足を掛けていた。
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「国衡様の命だ! 水門を開けろ!」
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走り着いたシンが叫ぶ。
待っていた兵が綱を切った。
板戸が倒れる。
堰き止めていた水が、一気に低地へ走った。
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板が浮く。
足場が流れる。
鎌倉兵の膝が沈む。
前へ進もうとするほど、泥が深くなる。
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「今だ!」
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土塁から矢が降った。
白旗が泥の中へ倒れる。
湿地が、鎌倉兵を呑み込んだ。
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角笛が鳴る。
今度は山側だった。
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シンはまた走った。
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山側。
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鎌倉兵が木の間を登っていた。
正面の堀を避け、細い獣道から土塁の上へ出ようとしている。
逆茂木へ盾を被せる。
その上へ、一人が乗った。
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「石を落とせ!」
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シンの声と同時に、斜面の綱が切られた。
石が跳ねる。
丸太が木々の間を走る。
盾を踏んだ兵が振り返る。
遅かった。
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地面が鳴った。
白旗が斜面を転がり落ちる。
逃げた兵を、逆茂木の奥から矢が追った。
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「正面!」
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別の伝令が叫ぶ。
休む暇はなかった。
鎌倉勢は、一つが退く前に次を出してくる。
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シンは斜面を駆け下りた。
一度滑った。
手をつく。
立つ。
また走る。
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大木戸。
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盾を並べた鎌倉兵が、門へ丸太を打ちつけていた。
どん。
木戸が軋む。
どん。
横木が外れかける。
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「支えろ!」
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奥州兵が内側から押す。
それでも、木戸が少し開いた。
槍の穂先が隙間から入る。
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タダが、脇に落ちていた横木を拾った。
片手で枠へ戻す。
木戸へ背をつける。
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「何してる!」
「閉める」
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タダが一歩押した。
外から何人も押していた木戸が、逆に閉じていく。
槍の穂先が挟まり、折れた。
横木が深く嵌まった。
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「戸締まりだ」
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言い終わる前に、次の矢が飛んできた。
シンとタダが同時に頭を下げる。
矢は大鍋へ刺さった。
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「鍋が!」
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初めて、タダの顔色が変わった。
周りの兵が笑う。
笑いながら、門を押し返した。
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鎌倉勢が形を変えるたび、奥州も形を変えた。
角笛。
旗。
伝令。
国衡の声が、その全てを一つに動かす。
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シンも走った。
湿地へ。
山側へ。
大木戸へ。
槍も使えない。
弓も引けない。
馬に速く走られれば落ちる。
それでも、国衡の声を運べた。
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昼までに、鎌倉勢は三度退いた。
三度とも、土塁を越えられなかった。
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四度目。
一の土塁へ、白旗が上がった。
鎌倉兵が歓声を上げる。
奥州兵が二の土塁へ退く。
白旗が追う。
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木戸が開いた。
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国衡だった。
高楯黒に乗り、僅かな騎馬だけを連れて外へ出る。
白旗の横へ回る。
広がる前の鎌倉勢へ、黒い馬が突き込んだ。
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槍が一度動く。
白旗が落ちた。
高楯黒が土を蹴る。
後ろの騎馬が続く。
鎌倉勢の列が横から折れた。
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「押せ!」
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二の土塁から奥州兵が出た。
一の土塁を奪い返す。
国衡は追わない。
敵が崩れた瞬間に馬首を返し、全員を防塁の中へ戻した。
木戸が閉じる。
直後、鎌倉の矢が外側の地面を埋めた。
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歓声が爆発した。
今度は、国衡も止めなかった。
槍が上がる。
鍬が上がる。
ユウガオまで血のついた布を振っている。
タダは大きな杓文字を上げていた。
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「お前はそれでいいのか!」
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シンが叫ぶ。
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「これしか持っていない!」
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タダも叫び返した。
周りの兵が笑った。
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白旗が遠ざかる。
鎌倉勢は、もう戻ってこなかった。
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勝った。
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その言葉が、今度は防塁の端まで走った。
夕日が落ちても、南の陣は動かなかった。
奥州の火だけが、山から川まで長く続いている。
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「本当に、勝ったのか」
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シンが聞いた。
国衡は鎌倉の陣を見たまま答える。
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「正面から来る限り、明日も勝つ」
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その声には、迷いがなかった。
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「明後日もだ」
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シンは防塁を見た。
土。
水。
木。
矢。
ここで生きる者たちが知っている土地。
全部が、何万もの兵を止めた。
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(勝てる)
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今度は、そう思い切ることができた。
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夜。
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タダが大鍋を火へ掛けた。
米。
豆。
山菜。
干し肉。
勝った日だからと、肉をいつもより多く入れた。
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「明日には鎌倉を追い返せる」
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防塁を掘った農夫が言った。
隣にいる息子が、大きく頷く。
まだ十六くらいだった。
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「追い返したら、この堀を田に戻す」
「俺も手伝う」
「お前は嫁を探せ」
「今、その話をするかよ」
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周りで笑いが起きた。
昼まで知らなかった者たちが、同じ鍋を囲んでいる。
明日の話をしている。
田の話。
嫁の話。
冬の話。
誰も、死ぬ話をしなかった。
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国衡も来た。
椀を一つ受け取る。
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「美味い」
「そうか」
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タダが肉を一片増やした。
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「俺だけ多くないか」
「働くからだ」
「大将だからではないのか」
「働く大将だからだ」
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国衡が声を上げて笑った。
兵たちも笑う。
火が揺れた。
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「ここ、いいな」
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タダが言った。
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「何が」
「山がある。川も近い」
「戦場だぞ」
「戦が終われば畑にできる」
「戦場を隠居先にするな」
「魚もいる」
「聞いてない」
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タダは本気だった。
明日も戦があることより、戦の後に何を植えるかを考えている。
その顔を見ていると、本当に明日が来る気がした。
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国衡は椀を空にすると、すぐに立った。
勝った夜にも、鎧を脱がなかった。
山側の見張りを倍にし、背後の峰で焚く合図の火を一つずつ確かめて回る。
兵が休めるように、自分だけが休まない。
最後の木戸へ向かう前に、シンたちを振り返った。
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「明日も、同じ鍋を食うぞ」
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兵たちが応えた。
その声は、勝鬨より温かかった。
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シンは水場へ行った。
ユウガオが手を洗っていた。
指の間に入った血が落ちない。
何度こすっても、爪の際に黒く残った。
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「貸して」
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シンが布を取った。
ユウガオは手を引く。
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「汚れるよ」
「もう汚れてる」
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シンの袖にも血がついていた。
誰の血か分からない。
自分のものではない。
それしか分からなかった。
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ユウガオが手を預けた。
昼より冷たい。
シンは指を一本ずつ拭いた。
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「……戦ってのは、勝っても血が落ちないんだね」
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ユウガオが言った。
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「舞った後なら、汗と白粉だけだった」
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シンは答えられなかった。
手を拭き終えても、離さなかった。
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「シン」
「何」
「明日も、生きて戻ってきな」
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命令する声だった。
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「選んだばかりなんだ。すぐいなくなられたら、アタシの見る目がないみたいだろ」
「そこを心配してるのか」
「そこも、だよ」
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ユウガオが少し笑った。
シンも笑った。
明日もこの手を握れると思った。
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遠い尾根の上に、モモがいた。
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防塁の火が見える。
その中に、シンがいる。
ユウガオが隣にいる。
タダが鍋の前にいる。
国衡が兵と笑っている。
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モモは近づかなかった。
腰のフツにも触れない。
ただ、火の中にいるシンを見ていた。
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「観測、継続」
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シンが、ふいに尾根を見た。
モモは隠れなかった。
あれほど遠いのに、一瞬だけ目が合った気がした。
シンはやがて、ユウガオの方へ戻った。
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「……誤差」
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桃の香りが、夜風に流れた。
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八月九日。
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二日目の鎌倉勢は、昨日ほど深く来なかった。
朝は湿地。
昼は大木戸。
夕方は山側。
どれも小勢だった。
攻めながら、奥州の仕掛けを測っている。
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「追うな! 見せるな!」
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国衡も矢と丸太を温存し、土塁へ手を掛けた者だけを押し返した。
日暮れに白旗は退いた。
損害は初日より少ない。
それでも歓声は小さかった。
南の陣火が、一つも減っていない。
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その夜。
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国衡は見張りを増やし、鳥取越へ斥候を出した。
夜半前に一人が戻る。
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「異状ありません」
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国衡は次の斥候を送り、自分は眠らなかった。
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八月十日。
三日目の朝。
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鎌倉勢は、日の出とともに来た。
昨日までとは違う。
本軍を前へ出した、総攻撃だった。
白旗が地面を覆う。
埋めた堀へ、盾を重ねて押し寄せる。
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だが、来る場所は同じだった。
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「射よ!」
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矢が降る。
盾が止まる。
後ろから押された兵が堀へ落ちる。
湿地へ逃れた馬が、腹まで泥に沈んだ。
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角笛が鳴る。
石が落ちる。
丸太が走る。
白旗が倒れる。
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奥州兵が声を上げた。
もう敵の数を恐れていない。
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「押せ!」
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国衡の声が防塁を走る。
槍が一斉に前へ出た。
土塁へ手を掛けた鎌倉兵が落ち、白旗が下がる。
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南から、退く角笛が鳴った。
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鎌倉勢が盾を捨て、負傷者を残して離れていく。
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「勝ったぞ!」
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誰かが叫んだ。
声が重なる。
防塁全体が揺れた。
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「奥州の勝ちだ!」
「鎌倉を追い返した!」
「平泉を守ったぞ!」
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大鍋を囲んだ農夫が、息子を抱き締めている。
息子は照れながら笑っていた。
タダが杓文字を上げる。
ユウガオがシンを見つけ、笑う。
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シンも手を上げた。
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勝てる。
勝った。
鎌倉がどれほど大軍でも、もう関係ない。
ここにいる者たちは、鎌倉の大軍を止めた。
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一本の矢が飛んできた。
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農夫の息子が倒れた。
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父親は、しばらく笑ったままだった。
息子の胸から生えた矢を見る。
それから、南を見た。
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矢は、南から来ていなかった。
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北だった。
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二本目。
三本目。
歓声を上げていた兵の背へ刺さる。
安全だったはずの斜面から、矢が降った。
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「山側に白旗!」
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声が裏返った。
誰も、すぐには動けなかった。
南では鎌倉勢が退いている。
なのに、背後の峰にも白旗がある。
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泥だらけの斥候が転がり込んできた。
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「背後を取られました!」
「鎌倉の別働隊! 先頭は七騎!」
「鳥取越から、後陣の山へ回り込まれております!」
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勝鬨が、悲鳴へ変わった。
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山側。
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見張り台が燃えた。
二夜続けて国衡が増やした兵は、すでに倒れていた。
最初に峰へ現れた白旗は、七つだった。
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七騎だけで、防塁を崩せるはずはない。
だが、七騎の役目は戦うことではなかった。
鳥取越を開き、後続を呼び込むことだった。
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七騎は見張り台へ火を放ち、合図の兵を射た。
鳥取越の向こうで待っていた別働隊が、その火を見て山道へ入る。
白旗が一つ、また一つと峰へ増えていく。
奥州兵は南を向いたまま、背中から射られた。
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湿地。
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水門が内側から開けられた。
溜めていた水が逃げていく。
背後から来た兵が、板と枝を浅瀬へ投げ込む。
朝まで馬を沈めた泥の上に、鎌倉兵の道が伸びる。
白旗が、その上を走った。
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大木戸。
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兵糧小屋から火が上がった。
繋がれていた馬が暴れる。
北へ退こうとした兵と、背後から入った鎌倉兵が正面からぶつかった。
門の内側で、白旗が上がる。
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南の鎌倉勢が止まった。
捨てた盾を拾う。
退いていた白旗が、一斉にこちらを向いた。
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罠だった。
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勝ったと思わせるところまでが、攻撃だった。
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山から川まで一つに動いていた防塁が、前と後ろに裂けた。
命令が届く前に、持ち場が消える。
逃げ道へ敵が入り、並んでいた兵がばらばらの人間へ戻っていく。
朝まで奥州を守っていた壁が、奥州兵を閉じ込める檻に変わった。
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「持ち場を捨てろ!」
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国衡の声が響いた。
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「包まれる前に北へ抜けろ!」
「負傷者を先に出せ!」
「二の土塁は半刻保て!」
「急げ!」
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迷わなかった。
勝利を捨てる決断が、誰より早かった。
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「シン!」
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国衡が呼ぶ。
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「全ての木戸へ走れ!」
「何て伝える!」
「生きて北へ退け!」
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シンは走った。
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「国衡様の命だ!」
「北へ退け!」
「負傷者を先に!」
「生きろ!」
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木戸から木戸へ声を運ぶ。
背後から矢が来る。
前からも来る。
さっきまで味方しかいなかった道に、白旗がいる。
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土塁の上で、二日前の夜に大鍋を囲んだ農夫が息子を抱いていた。
動かない。
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「退け!」
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シンが腕を掴んだ。
男は息子から手を離さない。
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「明日、田を戻すはずだった」
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それだけ言った。
背後で火が爆ぜる。
シンには、何も返せなかった。
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ユウガオが走ってきた。
男の前へ膝をつく。
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「この子も連れてくよ」
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農夫が顔を上げる。
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「アンタも来て。ここに残ったら、この子を平泉へ帰せない」
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ユウガオが息子の体を抱えた。
シンも手を貸す。
父親が、ようやく立った。
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タダが来た。
息子を受け取る。
片腕で抱え、もう一方の腕に負傷兵を担いでいる。
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「鍋は」
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シンが聞く。
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「また作れる」
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後ろで大鍋が火に呑まれた。
汁が地面へこぼれる。
タダは見なかった。
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「行け!」
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タダが農夫を連れて走る。
シンとユウガオも、その後を追った。
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燃えた兵糧小屋の横を抜ける。
北へ続く細い道が見えた。
あと少しで、防塁の外へ出られる。
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繋ぎ綱を切った馬が、煙の中から飛び出した。
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「危ない!」
⸻
シンは右へ跳んだ。
ユウガオは左へ避ける。
暴れ馬が二人の間を駆け抜けた。
泥と火の粉が跳ねる。
⸻
離れたのは、ほんの五歩だった。
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「シン!」
⸻
ユウガオが手を伸ばした。
その背後。
煙の中から、鎌倉兵が現れた。
北から回り込んだ兵だった。
⸻
白旗。
血に濡れた鎧。
両手で構えた槍。
⸻
ユウガオは気づいていない。
鎌倉兵が腰を落とす。
穂先が、ユウガオの背へ真っ直ぐ向いた。
⸻
「後ろ!」
⸻
シンは叫んだ。
馬の嘶きと怒号に消えた。
鎌倉兵が踏み込む。
⸻
五度の死を覚えていた体が、今度は止まらなかった。
⸻
地面を蹴る。
一歩。
二歩。
三歩目で、ユウガオの腕を掴む。
道の端へ、力いっぱい引き倒した。
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ユウガオが倒れる。
空いた場所へ、シンが踏み込んだ。
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槍の穂先が、シンの胸へ突き刺さった。
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衝撃で息が抜けた。
冷たい鉄が体の中を進む。
背中で止まった。
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鎌倉兵と目が合った。
向こうも驚いていた。
刺す相手が入れ替わったことを、まだ理解できていない。
⸻
槍が引き抜かれた。
横から退いてきた奥州兵が、鎌倉兵へ体ごとぶつかった。
二人の姿が、煙の向こうへ消える。
胸から、熱いものが溢れた。
膝が落ちる。
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「シン?」
⸻
地面へ倒れたユウガオが、身を起こした。
最初にシンの顔を見た。
次に、胸の穴を見た。
その間にも血が衣を染めていく。
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「シン!」
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ユウガオが飛びついた。
倒れる体を抱き止める。
二人で泥の上へ膝をついた。
⸻
ユウガオは帯から布を引き抜いた。
胸の傷へ押し当てる。
血が布を赤くする。
もう一枚重ねる。
それもすぐに赤くなった。
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「大丈夫」
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誰に言っているのか分からない声だった。
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「アタシ、傷口を縛れるから」
「だから、大丈夫」
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震える手で、さらに布を押し込む。
止まらない。
指の間から、シンの血が溢れる。
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昨夜、シンが洗った手だった。
もう一度、真っ赤に濡れていた。
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「いやだ……」
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ユウガオの声から、強さが消えた。
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「シン。目を開けて」
「アタシを見て」
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見ていた。
返事だけができなかった。
息を吸うたび、胸の中で水の音がした。
ユウガオの声も、戦の音も、少しずつ遠くなる。
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「選んだばかりなんだよ……!」
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ユウガオがシンの胸へ額をつけた。
⸻
「生きて戻れって、言ったのに……!」
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謝ろうとした。
唇だけが動いた。
声にはならなかった。
⸻
桃の香りがした。
⸻
六度目の死は、勝ったと思った朝に来た。
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ユウガオの顔が、白に消えた。
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(第百十一話へ)




