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阿津賀志山

第百十話 阿津賀志山


⸻


 夜の底で、土が鳴っていた。


⸻


 ざく。


 ざく。


 一定の間を置いて、また鳴る。


 獣ではない。


 足音でもなかった。


⸻


「敵が堀へ入った!」


⸻


 防塁の上で声が弾けた。


 眠っていた兵が一斉に起きる。


 弓を掴む。


 槍を取る。


 火を隠す。


 シンも土塁へ駆け上がった。


⸻


 南は暗かった。


 鎌倉軍の陣火だけが、地上の星のように並んでいる。


 その手前。


 外堀の底で、黒い影が動いていた。


⸻


 土を運んでいる。


 背負い籠。


 蓆に包んだ枝。


 石。


 暗闇の中から次々と運び込み、堀へ落としていた。


⸻


「堀を埋めてる」


⸻


 シンの隣へ、国衡が来た。


 もう鎧を着けている。


 眠っていた様子はなかった。


⸻


「鎌倉勢です!」


 斥候が膝をつく。


「鎧を着けぬ人夫、八十ほど! 鋤と鍬を持っております!」


⸻


 奥州の弓が鳴った。


 暗闇へ矢が消える。


 短い悲鳴がした。


 それでも、鋤の音は止まらない。


⸻


 ざく。


 ざく。


 倒れた影の後ろから、別の影が入る。


 土を落とす。


 また次が来る。


⸻


「もっとやっつけないのか?」


⸻


 シンが言った。


 国衡は首を振った。


⸻


「見えぬ敵へ射ても矢の無駄だ」


「でも、堀が」


「全部は埋まらん。埋まった場所を見ておく」


⸻


 国衡が指を差す。


⸻


「そこへ敵が集まる」


⸻


 埋められた場所が、そのまま鎌倉軍の道になる。


 道が分かれば、射る場所も分かる。


 国衡の目は、すでに朝の戦を見ていた。


⸻


 堀の向こうで、松明が一つ動いた。


 大きな馬が見えた。


 その上に、鎧武者がいる。


 土塁を見上げ、堀へ入った人夫を見ていた。


⸻


「あれが畠山次郎重忠だ」


⸻


 国衡が言った。


 重忠は遠かった。


 顔までは見えない。


 それでも、こちらを見ていることだけは分かった。


 国衡も動かなかった。


 夜の堀を挟んで、二人の将が同じ場所を見ている。


⸻


「敵も、戦う場所を作る気だ」


⸻


 国衡が少し笑った。


⸻


「なら、利用させてもらう」


⸻


 松明が下がった。


 重忠の姿も闇へ消えた。


 鋤の音だけが、夜明けまで続いた。


 文治五年八月七日。


 鎌倉軍が国見宿へ入った夜だった。


⸻


⸻


 八月八日の朝は、弦の音で始まった。


⸻


 霧の中から白旗が出た。


 埋めた堀へ向かい、鎌倉の兵が一列になって進んでくる。


 前の者は大きな盾を持っていた。


 その後ろに弓。


 さらに槍。


 馬はまだ来ない。


⸻


 叫ばない。


 走らない。


 矢を受けても列を崩さない。


 白旗が、埋められた場所へ集まっていく。


⸻


 国衡の言った通りだった。


⸻


「まだだ!」


⸻


 奥州兵は弓を引いたまま待った。


 白旗が近づく。


 埋めた土へ足を掛ける。


 盾が外堀を越える。


 一人。


 二人。


 狭い道へ、鎌倉兵が重なる。


⸻


「射よ!」


⸻


 空が黒くなった。


 一列目の矢。


 続いて二列目。


 高さの違う土塁から放たれた矢が、鎌倉勢の頭上で重なった。


 盾が鳴る。


 人が倒れる。


 後ろの兵が前へ出る。


 進もうとして、倒れた者に足を取られる。


⸻


 角笛が二度鳴った。


⸻


 山が動いた。


 夜のうちに止めてあった丸太が、土と枝を巻き込んで落ちてくる。


 鎌倉勢の列が初めて割れた。


 盾が跳ねる。


 白旗が倒れる。


 地面が揺れた。


⸻


 奥州兵から歓声が上がる。


⸻


「追うな!」


⸻


 歓声を、国衡の声が切った。


⸻


「堀を越えるな! 戻れ! 持ち場を離れるな!」


⸻


 追い出ようとした兵が止まる。


 鎌倉勢は崩れながらも、背を向けてはいなかった。


 盾を前へ残し、負傷者を引きずり、ゆっくり下がっていく。


 その背へ矢が降る。


 白旗が霧の中へ消えた。


⸻


「シン!」


⸻


 国衡が振り返った。


⸻


「大木戸へ走れ! 一の土塁を捨てても二を守れ。次は湿地から来る!」


「分かった!」


「復唱!」


「一を捨てても二を守る! 次は湿地!」


「行け!」


⸻


 シンは走った。


 土塁を下りる。


 人の間を抜ける。


 矢が頭上で鳴った。


⸻


 体が止まった。


⸻


 五度の死が、体のどこかに残っていた。


 音の次に痛みが来る。


 痛みの次に白が来る。


 頭ではなく、背中が覚えている。


⸻


 矢が足元へ刺さった。


 土が跳ねる。


 息ができない。


⸻


「シン!」


⸻


 ユウガオの声だった。


 負傷兵の腕を縛りながら、こちらを見ている。


⸻


「気をつけて!」


⸻


 足が動いた。


 走る。


 今度は止まらなかった。


⸻


 大木戸の手前で、馬が倒れていた。


 下に若い兵が挟まれている。


 周囲の男が引いても動かない。


 タダが来た。


 鞍の下へ両手を入れる。


⸻


「持つ」


⸻


 馬の半身が浮いた。


 兵が這い出す。


 タダは馬を横へ寝かせ、若い兵を抱き上げた。


⸻


「戦わないんじゃなかったのか!」


「助けている」


「その力で戦えば強いだろ!」


「飯も焦げる」


⸻


 本当に忙しそうだった。


 負傷兵を片腕で抱え、もう一方の手には大きな杓文字を持っている。


 戦場にいる人間の姿ではない。


 やっていることだけが、誰より役に立っていた。


⸻


 シンは大木戸へ走った。


⸻


⸻


 湿地。


⸻


 白旗が浅瀬へ入った。


 馬を捨てた鎌倉兵が、泥の上へ板を並べている。


 先頭はもう、二つ目の板へ足を掛けていた。


⸻


「国衡様の命だ! 水門を開けろ!」


⸻


 走り着いたシンが叫ぶ。


 待っていた兵が綱を切った。


 板戸が倒れる。


 堰き止めていた水が、一気に低地へ走った。


⸻


 板が浮く。


 足場が流れる。


 鎌倉兵の膝が沈む。


 前へ進もうとするほど、泥が深くなる。


⸻


「今だ!」


⸻


 土塁から矢が降った。


 白旗が泥の中へ倒れる。


 湿地が、鎌倉兵を呑み込んだ。


⸻


 角笛が鳴る。


 今度は山側だった。


⸻


 シンはまた走った。


⸻


⸻


 山側。


⸻


 鎌倉兵が木の間を登っていた。


 正面の堀を避け、細い獣道から土塁の上へ出ようとしている。


 逆茂木へ盾を被せる。


 その上へ、一人が乗った。


⸻


「石を落とせ!」


⸻


 シンの声と同時に、斜面の綱が切られた。


 石が跳ねる。


 丸太が木々の間を走る。


 盾を踏んだ兵が振り返る。


 遅かった。


⸻


 地面が鳴った。


 白旗が斜面を転がり落ちる。


 逃げた兵を、逆茂木の奥から矢が追った。


⸻


「正面!」


⸻


 別の伝令が叫ぶ。


 休む暇はなかった。


 鎌倉勢は、一つが退く前に次を出してくる。


⸻


 シンは斜面を駆け下りた。


 一度滑った。


 手をつく。


 立つ。


 また走る。


⸻


⸻


 大木戸。


⸻


 盾を並べた鎌倉兵が、門へ丸太を打ちつけていた。


 どん。


 木戸が軋む。


 どん。


 横木が外れかける。


⸻


「支えろ!」


⸻


 奥州兵が内側から押す。


 それでも、木戸が少し開いた。


 槍の穂先が隙間から入る。


⸻


 タダが、脇に落ちていた横木を拾った。


 片手で枠へ戻す。


 木戸へ背をつける。


⸻


「何してる!」


「閉める」


⸻


 タダが一歩押した。


 外から何人も押していた木戸が、逆に閉じていく。


 槍の穂先が挟まり、折れた。


 横木が深く嵌まった。


⸻


「戸締まりだ」


⸻


 言い終わる前に、次の矢が飛んできた。


 シンとタダが同時に頭を下げる。


 矢は大鍋へ刺さった。


⸻


「鍋が!」


⸻


 初めて、タダの顔色が変わった。


 周りの兵が笑う。


 笑いながら、門を押し返した。


⸻


 鎌倉勢が形を変えるたび、奥州も形を変えた。


 角笛。


 旗。


 伝令。


 国衡の声が、その全てを一つに動かす。


⸻


 シンも走った。


 湿地へ。


 山側へ。


 大木戸へ。


 槍も使えない。


 弓も引けない。


 馬に速く走られれば落ちる。


 それでも、国衡の声を運べた。


⸻


 昼までに、鎌倉勢は三度退いた。


 三度とも、土塁を越えられなかった。


⸻


 四度目。


 一の土塁へ、白旗が上がった。


 鎌倉兵が歓声を上げる。


 奥州兵が二の土塁へ退く。


 白旗が追う。


⸻


 木戸が開いた。


⸻


 国衡だった。


 高楯黒に乗り、僅かな騎馬だけを連れて外へ出る。


 白旗の横へ回る。


 広がる前の鎌倉勢へ、黒い馬が突き込んだ。


⸻


 槍が一度動く。


 白旗が落ちた。


 高楯黒が土を蹴る。


 後ろの騎馬が続く。


 鎌倉勢の列が横から折れた。


⸻


「押せ!」


⸻


 二の土塁から奥州兵が出た。


 一の土塁を奪い返す。


 国衡は追わない。


 敵が崩れた瞬間に馬首を返し、全員を防塁の中へ戻した。


 木戸が閉じる。


 直後、鎌倉の矢が外側の地面を埋めた。


⸻


 歓声が爆発した。


 今度は、国衡も止めなかった。


 槍が上がる。


 鍬が上がる。


 ユウガオまで血のついた布を振っている。


 タダは大きな杓文字を上げていた。


⸻


「お前はそれでいいのか!」


⸻


 シンが叫ぶ。


⸻


「これしか持っていない!」


⸻


 タダも叫び返した。


 周りの兵が笑った。


⸻


 白旗が遠ざかる。


 鎌倉勢は、もう戻ってこなかった。


⸻


 勝った。


⸻


 その言葉が、今度は防塁の端まで走った。


 夕日が落ちても、南の陣は動かなかった。


 奥州の火だけが、山から川まで長く続いている。


⸻


「本当に、勝ったのか」


⸻


 シンが聞いた。


 国衡は鎌倉の陣を見たまま答える。


⸻


「正面から来る限り、明日も勝つ」


⸻


 その声には、迷いがなかった。


⸻


「明後日もだ」


⸻


 シンは防塁を見た。


 土。


 水。


 木。


 矢。


 ここで生きる者たちが知っている土地。


 全部が、何万もの兵を止めた。


⸻


(勝てる)


⸻


 今度は、そう思い切ることができた。


⸻


⸻


 夜。


⸻


 タダが大鍋を火へ掛けた。


 米。


 豆。


 山菜。


 干し肉。


 勝った日だからと、肉をいつもより多く入れた。


⸻


「明日には鎌倉を追い返せる」


⸻


 防塁を掘った農夫が言った。


 隣にいる息子が、大きく頷く。


 まだ十六くらいだった。


⸻


「追い返したら、この堀を田に戻す」


「俺も手伝う」


「お前は嫁を探せ」


「今、その話をするかよ」


⸻


 周りで笑いが起きた。


 昼まで知らなかった者たちが、同じ鍋を囲んでいる。


 明日の話をしている。


 田の話。


 嫁の話。


 冬の話。


 誰も、死ぬ話をしなかった。


⸻


 国衡も来た。


 椀を一つ受け取る。


⸻


「美味い」


「そうか」


⸻


 タダが肉を一片増やした。


⸻


「俺だけ多くないか」


「働くからだ」


「大将だからではないのか」


「働く大将だからだ」


⸻


 国衡が声を上げて笑った。


 兵たちも笑う。


 火が揺れた。


⸻


「ここ、いいな」


⸻


 タダが言った。


⸻


「何が」


「山がある。川も近い」


「戦場だぞ」


「戦が終われば畑にできる」


「戦場を隠居先にするな」


「魚もいる」


「聞いてない」


⸻


 タダは本気だった。


 明日も戦があることより、戦の後に何を植えるかを考えている。


 その顔を見ていると、本当に明日が来る気がした。


⸻


 国衡は椀を空にすると、すぐに立った。


 勝った夜にも、鎧を脱がなかった。


 山側の見張りを倍にし、背後の峰で焚く合図の火を一つずつ確かめて回る。


 兵が休めるように、自分だけが休まない。


 最後の木戸へ向かう前に、シンたちを振り返った。


⸻


「明日も、同じ鍋を食うぞ」


⸻


 兵たちが応えた。


 その声は、勝鬨より温かかった。


⸻


 シンは水場へ行った。


 ユウガオが手を洗っていた。


 指の間に入った血が落ちない。


 何度こすっても、爪の際に黒く残った。


⸻


「貸して」


⸻


 シンが布を取った。


 ユウガオは手を引く。


⸻


「汚れるよ」


「もう汚れてる」


⸻


 シンの袖にも血がついていた。


 誰の血か分からない。


 自分のものではない。


 それしか分からなかった。


⸻


 ユウガオが手を預けた。


 昼より冷たい。


 シンは指を一本ずつ拭いた。


⸻


「……戦ってのは、勝っても血が落ちないんだね」


⸻


 ユウガオが言った。


⸻


「舞った後なら、汗と白粉だけだった」


⸻


 シンは答えられなかった。


 手を拭き終えても、離さなかった。


⸻


「シン」


「何」


「明日も、生きて戻ってきな」


⸻


 命令する声だった。


⸻


「選んだばかりなんだ。すぐいなくなられたら、アタシの見る目がないみたいだろ」


「そこを心配してるのか」


「そこも、だよ」


⸻


 ユウガオが少し笑った。


 シンも笑った。


 明日もこの手を握れると思った。


⸻


⸻


 遠い尾根の上に、モモがいた。


⸻


 防塁の火が見える。


 その中に、シンがいる。


 ユウガオが隣にいる。


 タダが鍋の前にいる。


 国衡が兵と笑っている。


⸻


 モモは近づかなかった。


 腰のフツにも触れない。


 ただ、火の中にいるシンを見ていた。


⸻


「観測、継続」


⸻


 シンが、ふいに尾根を見た。


 モモは隠れなかった。


 あれほど遠いのに、一瞬だけ目が合った気がした。


 シンはやがて、ユウガオの方へ戻った。


⸻


「……誤差」


⸻


 桃の香りが、夜風に流れた。


⸻


⸻


 八月九日。


⸻


 二日目の鎌倉勢は、昨日ほど深く来なかった。


 朝は湿地。


 昼は大木戸。


 夕方は山側。


 どれも小勢だった。


 攻めながら、奥州の仕掛けを測っている。


⸻


「追うな! 見せるな!」


⸻


 国衡も矢と丸太を温存し、土塁へ手を掛けた者だけを押し返した。


 日暮れに白旗は退いた。


 損害は初日より少ない。


 それでも歓声は小さかった。


 南の陣火が、一つも減っていない。


⸻


 その夜。


⸻


 国衡は見張りを増やし、鳥取越へ斥候を出した。


 夜半前に一人が戻る。


⸻


「異状ありません」


⸻


 国衡は次の斥候を送り、自分は眠らなかった。


⸻


⸻


 八月十日。


 三日目の朝。


⸻


 鎌倉勢は、日の出とともに来た。


 昨日までとは違う。


 本軍を前へ出した、総攻撃だった。


 白旗が地面を覆う。


 埋めた堀へ、盾を重ねて押し寄せる。


⸻


 だが、来る場所は同じだった。


⸻


「射よ!」


⸻


 矢が降る。


 盾が止まる。


 後ろから押された兵が堀へ落ちる。


 湿地へ逃れた馬が、腹まで泥に沈んだ。


⸻


 角笛が鳴る。


 石が落ちる。


 丸太が走る。


 白旗が倒れる。


⸻


 奥州兵が声を上げた。


 もう敵の数を恐れていない。


⸻


「押せ!」


⸻


 国衡の声が防塁を走る。


 槍が一斉に前へ出た。


 土塁へ手を掛けた鎌倉兵が落ち、白旗が下がる。


⸻


 南から、退く角笛が鳴った。


⸻


 鎌倉勢が盾を捨て、負傷者を残して離れていく。


⸻


「勝ったぞ!」


⸻


 誰かが叫んだ。


 声が重なる。


 防塁全体が揺れた。


⸻


「奥州の勝ちだ!」


「鎌倉を追い返した!」


「平泉を守ったぞ!」


⸻


 大鍋を囲んだ農夫が、息子を抱き締めている。


 息子は照れながら笑っていた。


 タダが杓文字を上げる。


 ユウガオがシンを見つけ、笑う。


⸻


 シンも手を上げた。


⸻


 勝てる。


 勝った。


 鎌倉がどれほど大軍でも、もう関係ない。


 ここにいる者たちは、鎌倉の大軍を止めた。


⸻


 一本の矢が飛んできた。


⸻


 農夫の息子が倒れた。


⸻


 父親は、しばらく笑ったままだった。


 息子の胸から生えた矢を見る。


 それから、南を見た。


⸻


 矢は、南から来ていなかった。


⸻


 北だった。


⸻


 二本目。


 三本目。


 歓声を上げていた兵の背へ刺さる。


 安全だったはずの斜面から、矢が降った。


⸻


「山側に白旗!」


⸻


 声が裏返った。


 誰も、すぐには動けなかった。


 南では鎌倉勢が退いている。


 なのに、背後の峰にも白旗がある。


⸻


 泥だらけの斥候が転がり込んできた。


⸻


「背後を取られました!」


「鎌倉の別働隊! 先頭は七騎!」


「鳥取越から、後陣の山へ回り込まれております!」


⸻


 勝鬨が、悲鳴へ変わった。


⸻


 山側。


⸻


 見張り台が燃えた。


 二夜続けて国衡が増やした兵は、すでに倒れていた。


 最初に峰へ現れた白旗は、七つだった。


⸻


 七騎だけで、防塁を崩せるはずはない。


 だが、七騎の役目は戦うことではなかった。


 鳥取越を開き、後続を呼び込むことだった。


⸻


 七騎は見張り台へ火を放ち、合図の兵を射た。


 鳥取越の向こうで待っていた別働隊が、その火を見て山道へ入る。


 白旗が一つ、また一つと峰へ増えていく。


 奥州兵は南を向いたまま、背中から射られた。


⸻


 湿地。


⸻


 水門が内側から開けられた。


 溜めていた水が逃げていく。


 背後から来た兵が、板と枝を浅瀬へ投げ込む。


 朝まで馬を沈めた泥の上に、鎌倉兵の道が伸びる。


 白旗が、その上を走った。


⸻


 大木戸。


⸻


 兵糧小屋から火が上がった。


 繋がれていた馬が暴れる。


 北へ退こうとした兵と、背後から入った鎌倉兵が正面からぶつかった。


 門の内側で、白旗が上がる。


⸻


 南の鎌倉勢が止まった。


 捨てた盾を拾う。


 退いていた白旗が、一斉にこちらを向いた。


⸻


 罠だった。


⸻


 勝ったと思わせるところまでが、攻撃だった。


⸻


 山から川まで一つに動いていた防塁が、前と後ろに裂けた。


 命令が届く前に、持ち場が消える。


 逃げ道へ敵が入り、並んでいた兵がばらばらの人間へ戻っていく。


 朝まで奥州を守っていた壁が、奥州兵を閉じ込める檻に変わった。


⸻


「持ち場を捨てろ!」


⸻


 国衡の声が響いた。


⸻


「包まれる前に北へ抜けろ!」


「負傷者を先に出せ!」


「二の土塁は半刻保て!」


「急げ!」


⸻


 迷わなかった。


 勝利を捨てる決断が、誰より早かった。


⸻


「シン!」


⸻


 国衡が呼ぶ。


⸻


「全ての木戸へ走れ!」


「何て伝える!」


「生きて北へ退け!」


⸻


 シンは走った。


⸻


「国衡様の命だ!」


「北へ退け!」


「負傷者を先に!」


「生きろ!」


⸻


 木戸から木戸へ声を運ぶ。


 背後から矢が来る。


 前からも来る。


 さっきまで味方しかいなかった道に、白旗がいる。


⸻


 土塁の上で、二日前の夜に大鍋を囲んだ農夫が息子を抱いていた。


 動かない。


⸻


「退け!」


⸻


 シンが腕を掴んだ。


 男は息子から手を離さない。


⸻


「明日、田を戻すはずだった」


⸻


 それだけ言った。


 背後で火が爆ぜる。


 シンには、何も返せなかった。


⸻


 ユウガオが走ってきた。


 男の前へ膝をつく。


⸻


「この子も連れてくよ」


⸻


 農夫が顔を上げる。


⸻


「アンタも来て。ここに残ったら、この子を平泉へ帰せない」


⸻


 ユウガオが息子の体を抱えた。


 シンも手を貸す。


 父親が、ようやく立った。


⸻


 タダが来た。


 息子を受け取る。


 片腕で抱え、もう一方の腕に負傷兵を担いでいる。


⸻


「鍋は」


⸻


 シンが聞く。


⸻


「また作れる」


⸻


 後ろで大鍋が火に呑まれた。


 汁が地面へこぼれる。


 タダは見なかった。


⸻


「行け!」


⸻


 タダが農夫を連れて走る。


 シンとユウガオも、その後を追った。


⸻


 燃えた兵糧小屋の横を抜ける。


 北へ続く細い道が見えた。


 あと少しで、防塁の外へ出られる。


⸻


 繋ぎ綱を切った馬が、煙の中から飛び出した。


⸻


「危ない!」


⸻


 シンは右へ跳んだ。


 ユウガオは左へ避ける。


 暴れ馬が二人の間を駆け抜けた。


 泥と火の粉が跳ねる。


⸻


 離れたのは、ほんの五歩だった。


⸻


「シン!」


⸻


 ユウガオが手を伸ばした。


 その背後。


 煙の中から、鎌倉兵が現れた。


 北から回り込んだ兵だった。


⸻


 白旗。


 血に濡れた鎧。


 両手で構えた槍。


⸻


 ユウガオは気づいていない。


 鎌倉兵が腰を落とす。


 穂先が、ユウガオの背へ真っ直ぐ向いた。


⸻


「後ろ!」


⸻


 シンは叫んだ。


 馬の嘶きと怒号に消えた。


 鎌倉兵が踏み込む。


⸻


 五度の死を覚えていた体が、今度は止まらなかった。


⸻


 地面を蹴る。


 一歩。


 二歩。


 三歩目で、ユウガオの腕を掴む。


 道の端へ、力いっぱい引き倒した。


⸻


 ユウガオが倒れる。


 空いた場所へ、シンが踏み込んだ。


⸻


 槍の穂先が、シンの胸へ突き刺さった。


⸻


 衝撃で息が抜けた。


 冷たい鉄が体の中を進む。


 背中で止まった。


⸻


 鎌倉兵と目が合った。


 向こうも驚いていた。


 刺す相手が入れ替わったことを、まだ理解できていない。


⸻


 槍が引き抜かれた。


 横から退いてきた奥州兵が、鎌倉兵へ体ごとぶつかった。


 二人の姿が、煙の向こうへ消える。


 胸から、熱いものが溢れた。


 膝が落ちる。


⸻


「シン?」


⸻


 地面へ倒れたユウガオが、身を起こした。


 最初にシンの顔を見た。


 次に、胸の穴を見た。


 その間にも血が衣を染めていく。


⸻


「シン!」


⸻


 ユウガオが飛びついた。


 倒れる体を抱き止める。


 二人で泥の上へ膝をついた。


⸻


 ユウガオは帯から布を引き抜いた。


 胸の傷へ押し当てる。


 血が布を赤くする。


 もう一枚重ねる。


 それもすぐに赤くなった。


⸻


「大丈夫」


⸻


 誰に言っているのか分からない声だった。


⸻


「アタシ、傷口を縛れるから」


「だから、大丈夫」


⸻


 震える手で、さらに布を押し込む。


 止まらない。


 指の間から、シンの血が溢れる。


⸻


 昨夜、シンが洗った手だった。


 もう一度、真っ赤に濡れていた。


⸻


「いやだ……」


⸻


 ユウガオの声から、強さが消えた。


⸻


「シン。目を開けて」


「アタシを見て」


⸻


 見ていた。


 返事だけができなかった。


 息を吸うたび、胸の中で水の音がした。


 ユウガオの声も、戦の音も、少しずつ遠くなる。


⸻


「選んだばかりなんだよ……!」


⸻


 ユウガオがシンの胸へ額をつけた。


⸻


「生きて戻れって、言ったのに……!」


⸻


 謝ろうとした。


 唇だけが動いた。


 声にはならなかった。


⸻


 桃の香りがした。


⸻


 六度目の死は、勝ったと思った朝に来た。


⸻


 ユウガオの顔が、白に消えた。


⸻


(第百十一話へ)


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