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逃れられぬ敗走

第百十一話 逃れられぬ敗走


⸻


 槍が、胸を貫いた。


⸻


 ユウガオの手が、血に濡れていた。


 いやだ、と声がした。


 夜花の香り。


 白。


⸻


⸻


「射よ!」


⸻


 弦が鳴った。


 シンは息を吸った。


 胸に痛みが残っている。


 手を当てた。


 穴はなかった。


 血もない。


⸻


 朝だった。


 文治五年八月八日。


 阿津賀志山。


 戦の最初の朝。


⸻


 空を黒くした矢が、埋められた堀へ降る。


 鎌倉兵が倒れた。


 盾が重なる。


 角笛が二度鳴る。


 丸太が山を走った。


⸻


 同じだった。


⸻


(戻った)


⸻


 六度目の死が、まだ体の中にあった。


 ユウガオの顔が白へ消えた瞬間から、朝へ戻されている。


⸻


「シン!」


⸻


 声がした。


 ユウガオが負傷兵の腕を縛っている。


 生きていた。


 手には、まだシンの血がついていない。


⸻


 シンは走った。


⸻


「ちょっ、何だい!」


⸻


 ユウガオの両手を掴んだ。


 掌。


 指。


 爪の際。


 どこにもシンの血はなかった。


⸻


「よかった」


⸻


 息が漏れた。


⸻


「朝から女の手を握って、それだけかい?」


「生きてるか確かめた」


「口説き文句が物騒すぎるよ」


⸻


 ユウガオは呆れながらも、手を振りほどかなかった。


⸻


「シン!」


⸻


 今度は国衡の声だった。


 我に返る。


⸻


「大木戸へ走れ! 一を捨てても二を守れ!」


「次は湿地だ!」


⸻


 国衡が止まった。


⸻


「何?」


「鎌倉勢は馬を捨てる。板を並べて、湿地から来る!」


⸻


 言い切った直後、湿地側の角笛が鳴った。


 斥候が駆けてくる。


⸻


「敵、湿地へ入りました!」


⸻


 国衡の目が、シンへ戻った。


⸻


「……話は後だ。走れ!」


⸻


 シンは走った。


⸻


⸻


 戦は、二度目の方が速かった。


⸻


 湿地。


 板が二枚置かれたところで、水門を開いた。


 鎌倉兵は足場ごと泥へ沈んだ。


⸻


 山側。


 盾を逆茂木へ掛ける前に、石を落とした。


 登り始めた白旗が、斜面を逆に下っていく。


⸻


 大木戸。


 横木が外れる前に、二本目を入れた。


 鎌倉勢が丸太を打ちつけても、門はほとんど動かなかった。


⸻


 シンは、起きることを先に叫んだ。


 国衡の命令が、その後から追いつく。


 兵が動く。


 矢が飛ぶ。


 白旗が退く。


⸻


「次は山側!」


「丸太はまだ落とすな!」


「正面へ戻る! 弓を二列!」


⸻


 答えを知っている戦だった。


 それでも、遊びではない。


 間違えば人が死ぬ。


 正解を知った理由も、人が死んだからだった。


⸻


 ただし、同じだったのは途中までだった。


⸻


 湿地の兵を早く退けたせいで、山側の攻撃が前より早く来た。


 山側へ石を集めたせいで、正面の弓が足りなくなった。


 前にはなかった場所へ、鎌倉兵が手を掛ける。


⸻


「そこじゃない!」


⸻


 シンが叫んだ。


 だが、どこを守ればいいのか分からない。


 知っていた戦が、シンの言葉で形を変えていた。


⸻


「弓は動かすな!」


⸻


 国衡の声が飛んだ。


⸻


「山側の槍を半分戻せ! 正面の二列目へ入れろ!」


⸻


 兵が走る。


 空いた土塁へ槍が並ぶ。


 登りかけた鎌倉兵を、横から押し落とした。


⸻


 シンには前に起きたことが見える。


 国衡には、今起きていることが見えていた。


 どちらか一つでは、足りなかった。


⸻


 シンは、知っていることだけを叫んだ。


 知らないことは、国衡に任せた。


⸻


 昼までに、鎌倉勢は三度退いた。


 前より早く。


 前より少ない犠牲で。


⸻


「お前、本当に槍も弓も使えぬのか」


⸻


 国衡が、高楯黒の上から聞いた。


⸻


「使えない」


「戦場は見えている」


「死ぬほど見たから」


⸻


 国衡が眉を寄せた。


⸻


「何と言った?」


「こっちの話!」


⸻


 四度目の白旗が迫る。


 国衡は問いを残したまま馬首を返した。


⸻


「木戸を開けろ!」


⸻


 高楯黒が飛び出す。


 騎馬が続く。


 鎌倉勢が広がる前に、横から突き崩した。


 一度押す。


 深追いせず戻る。


 木戸が閉じた直後、矢が外側の地面へ突き立った。


⸻


 前と同じだった。


 違うのは、倒れている奥州兵の数だけだった。


⸻


⸻


 大木戸の裏で、タダが鍋を運んでいた。


⸻


「そこに置くな!」


⸻


 シンが叫ぶ。


⸻


「なぜ」


「いいから三歩、右!」


⸻


 タダが大鍋を持ち上げた。


 三歩動く。


 次の瞬間、矢が飛んできた。


 さっきまで鍋があった場所へ刺さる。


⸻


 タダは矢を見た。


 鍋を見た。


 シンを見る。


⸻


「恩に着る」


「俺を心配しろよ」


「鍋は替えがない」


「俺にはあるみたいに言うな」


⸻


 タダは鍋を安全な場所へ運び、一滴もこぼさずに置いた。


 すぐに戻り、倒れた馬を片手で起こした。


 さらに負傷兵を二人拾った。


⸻


「やっぱり戦った方が強いだろ!」


「飯が炊けた」


「聞けよぅ!」


⸻


 タダは聞かなかった。


 兵へ椀を配り始めた。


⸻


⸻


 夕方。


⸻


 白旗が遠ざかった。


 防塁に歓声が上がる。


 前の戦より大きかった。


 死んだ者が少ない分、生きた声が多かった。


⸻


 シンはユウガオを探した。


 水場。


 負傷兵の列。


 大鍋の横。


⸻


 いない。


⸻


 胸の傷が、あるはずもないのに痛んだ。


⸻


「誰を探してるんだい?」


⸻


 後ろから、耳を摘まれた。


⸻


「痛い!」


「女の手を握っておいて、戦が始まったら放り出す。悪い男だね」


⸻


 ユウガオだった。


 生きている。


 怪我もない。


⸻


「よかった」


⸻


 また同じ言葉が出た。


 ユウガオが、シンの顔を覗き込む。


⸻


「アンタ、今日ずっと変だよ」


「いつもは普通みたいに言うな」


「いつもより変だって言ってる」


⸻


 額へ手を当てられた。


⸻


「熱はないね」


「たぶん」


「アタシが死ぬ夢でも見た?」


⸻


 息が止まった。


 ユウガオの顔から笑いが消える。


⸻


「……見たのかい?」


「死んだのは俺」


⸻


 全部は言えなかった。


 血に濡れた手だけが浮かぶ。


⸻


「アタシの前で?」


⸻


 シンは頷いた。


 ユウガオは、少しだけ黙った。


⸻


「なら今日は、そばにいな」


⸻


 指が、シンの指の間へ入った。


 手を繋がれた。


 昨夜と同じ手だった。


 あの時は冷たかった。


 今は温かい。


 指先が動くたび、本当に生きていることが伝わってくる。


⸻


「戦場で……」


「死ぬよりは邪魔になる方がいいだろ」


「動けないんだけど」


「今敵に襲われたら二人とも御陀仏だね」


「それは嫌だ」


⸻


 ユウガオが笑った。


⸻


「素直になったね」


「死んだから」


「毎回それをやらないと素直になれないのかい?」


「できれば、もうやりたくない」


⸻


 繋いだ手へ、少し力が入った。


 シンの顔が熱くなる。


⸻


「今さら赤くなるんじゃないよ」


「今さらじゃない。今だから」


「よく分からないね」


「俺も」


⸻


 シンも、ようやく笑えた。


⸻


 その手を離したのは、国衡が呼びに来た後だった。


⸻


⸻


 夜。


⸻


 国衡は防塁の図を広げた。


 シンとタダとユウガオだけが残っている。


⸻


「朝から、お前の言う通りに敵が動いた」


⸻


 国衡が言った。


⸻


「理由を聞く」


⸻


 シンは山側の道を指した。


⸻


「明日の夜、ここへ七騎が先に入る」


「七騎?」


「鳥取越の見張りを破って、後続の別働隊を後陣へ引き入れる」


⸻


 国衡の目が細くなった。


⸻


「後続は、どれほどいる」


「分からない。七騎の後から、白旗が増えた」


「そこまで夢で見たのか」


「見た」


「便利な夢だな」


「俺が死ななければ、もっと便利だった」


⸻


 沈黙が落ちた。


 タダがシンを見る。


 ユウガオは、先ほどまで繋いでいたシンの手へ目を落とした。


⸻


「一度、明後日の朝まで見た」


⸻


 シンは言った。


⸻


「鳥取越から後陣へ回られて、ここは落ちた。俺も死んだ」


⸻


 国衡は笑わなかった。


 信じるとも言わなかった。


 図の山道を見ている。


⸻


「明後日の俺は、どうしていた」


「最後まで兵を逃がしてた」


「死んだか」


「俺が死んだ時には、まだ生きてた」


⸻


 国衡が息を吐いた。


⸻


「ならば、その先はまだ決まっておらん」


⸻


 図の上へ、黒い石を置く。


⸻


「鳥取越の入口は空けておく」


「え?」


「入らせる。七騎も後続も、狭いところで前後を閉じる」


⸻


 黒い石が二つの白い石を挟んだ。


⸻


「水門には錠を掛ける。見張りは倍では足りぬ。三倍だ」


「合図の火も場所を変えてくれ」


「そうする」


⸻


「見張りは、信用できる者だけに」


⸻


 シンが言った。


 国衡が少し笑う。


⸻


「戦の前に、それを言い始めたら誰も置けぬ」


「でも、敵は鳥取越を抜けた」


「分かっている」


⸻


 国衡が、控えていた兵へ顔を向けた。


⸻


「山側は、父の代から仕える者だけを選べ。北の道を知る者たちだ」


⸻


 兵が頷く。


⸻


「あの者たちなら、道も人も見誤らぬ」


⸻


 迷いのない声だった。


 シンも、それ以上は言わなかった。


 この時は、外から来る敵のことしか考えていなかった。


⸻


「一つ、聞いていいか」


⸻


 国衡が言った。


⸻


「お前が先を変えれば、その夢はどうなる」


「分からない。今日も途中から変わった」


「なら、鳥取越を塞いだ後は」


「誰も知らない」


⸻


 国衡は笑った。


⸻


「それでよい」


「よくないだろ」


「先が決まっておらぬなら、そこからは俺の戦だ」


⸻


 国衡の指が、図の北側を叩いた。


⸻


 国衡が顔を上げた。


⸻


「お前の死を、無駄にはせん」


⸻


 シンは頷いた。


 今度こそ、変えられると思った。


⸻


⸻


 翌日。


 八月九日。


⸻


 二日目の鎌倉勢は、守りの形を探るように攻めた。


 湿地へ板を一枚だけ置く。


 大木戸へ矢を放つ。


 山側へ兵を見せて、すぐに退く。


⸻


 シンは先を叫びすぎなかった。


 昨日、答えを急いだせいで、戦そのものが形を変えた。


 知っている動きだけを国衡へ伝え、命令は国衡に任せる。


⸻


「正面は探ってるだけだ!」


「分かっている。矢を使うな!」


⸻


 国衡は敵に仕掛けを見せず、近づいた兵だけを押し返した。


 日が落ちるまで、防塁は一つも奪われなかった。


⸻


 そして、二日目の夜。


 鳥取越。


⸻


 火を持たない影が、木々の間へ入った。


 先に二騎。


 少し遅れて、五騎。


 七騎だった。


 前の戦で、鳥取越を開いた先導役だった。


 その後ろに、さらに影が続く。


 白旗を巻いた槍。


 弓。


 徒歩の兵。


 数は木々に紛れて読めない。


⸻


 奥州兵は、道を空けて待っていた。


 七騎が狭い谷へ入る。


 後続の別働隊も続く。


 長い列が、谷の中へ伸び切る。


⸻


 鳥の声が一度した。


 本物の鳥ではなかった。


⸻


 前で木が倒れた。


 後ろでも倒れる。


 山道が閉じた。


⸻


 上から松明が落ちる。


 闇の中に、白旗だけが浮かんだ。


⸻


「射よ!」


⸻


 今度は、奥州が背後を取った。


⸻


⸻


 八月十日。


 三日目の朝。


⸻


 鎌倉勢は、同じようには来なかった。


 昨日の探る攻めとは違う。


 本軍が、大木戸へ一度に押し寄せた。


 白旗。


 盾。


 埋めた堀。


⸻


 奥州兵は、同じようには戦わなかった。


⸻


 矢は少なく。


 石は近づくまで待つ。


 退くふりをして、埋めた道へ兵を集める。


 一斉に射る。


⸻


 白旗が下がった。


 退く角笛が鳴る。


 鎌倉勢が離れていく。


⸻


 前と同じ時刻だった。


⸻


 シンは北を見た。


 農夫が、息子の肩を抱いている。


 息子は迷惑そうに父の腕を外そうとしていた。


⸻


 矢は来ない。


⸻


 一息。


 二息。


 三息。


⸻


 山から角笛が三度鳴った。


⸻


 奥州の合図だった。


⸻


「鳥取越の敵、挟撃に成功!」


⸻


 伝令が転がり込む。


⸻


「七騎に続いた鎌倉の別働隊、退きます!」


「背後への侵入、ありません!」


⸻


 歓声が上がった。


 父親が、今度こそ息子を抱き締める。


 息子が本気で嫌がった。


⸻


「勝った」


⸻


 シンは北を見たまま言った。


⸻


「今度は、本当に」


⸻


 隣でユウガオが笑った。


⸻


「アタシの選んだ男が、少しは役に立ったね」


「役に立つと思って選んだの?」


「まさか」


「否定が早い」


「困った顔が面白かったから」


「もっと悪い」


⸻


 ユウガオが肩を寄せた。


 シンも離れなかった。


⸻


 タダが来た。


 大きな鍋を持っている。


⸻


「飯が余った」


「いいことだろ」


「敵にも食わせる」


「何でそうなる」


「捕まえた者も腹が減る」


⸻


 正しかった。


 正しいが、勝鬨より先に敵の飯を心配する男は、たぶんタダだけだった。


⸻


 国衡が高楯黒を下りた。


 前の戦では、ここから全てが崩れた。


 今は防塁が残っている。


 火も上がっていない。


 北にも、奥州の旗がある。


⸻


「シン」


⸻


 国衡が呼んだ。


⸻


「お前の夢に、礼を言う」


⸻


 シンは、ようやく息を吐いた。


 前に死んだ時刻を、もう過ぎている。


⸻


(逃れた)


⸻


 そう思った。


⸻


「国衡様」


⸻


 奥州兵が五人、近づいてきた。


 山道を守っていた者たちだった。


 鎧は泥と血に汚れている。


 一人は腕を押さえていた。


 昨夜、国衡が自ら選んだ者たちだった。


 見張りの兵も顔を知っている。


 誰にも止められず、防塁の内側を通ってきた。


⸻


「鳥取越の別働隊は、南へ退きました」


「追ったか」


「いいえ。御命令通り、道を守っております」


⸻


 国衡が頷く。


⸻


「よくやった。傷を見せろ」


⸻


 腕を押さえていた兵が、一歩出た。


 国衡の前へ来るまで、一度も顔を上げなかった。


 肩が震えている。


 痛みに耐えているのだと、誰もが思った。


 顔を上げる。


 泣いていた。


⸻


「北は、まだ終わらぬ」


⸻


 シンの背中が冷えた。


 泰衡が、同じことを言っていた。


 平泉で、山に立つ影から聞いたと。


⸻


「何?」


⸻


 国衡が聞き返す。


 兵の手が、傷を押さえていた布の下へ入った。


⸻


「神託に従え」


⸻


 短い刃が光った。


⸻


「国衡!」


⸻


 シンが叫ぶ。


 国衡が身を引く。


 刃は胸を外れ、脇腹へ入った。


⸻


 国衡の肘が兵の顔を打つ。


 一人が倒れる。


 残りの四人が、同時に動いた。


⸻


 奥州の鎧。


 奥州の刀。


 奥州の言葉。


 目だけが、どこにもいなかった。


⸻


「北を残せ」


「敗れて残せ」


「抗う者を討て」


⸻


 国衡が一人の腕を折った。


 刀を奪う。


 二人目を斬る。


 強かった。


 傷を負っても、まだ誰より強かった。


⸻


 だが、三人目の顔を見て止まった。


⸻


「藤次……?」


⸻


 知っている兵だった。


 昨夜、国衡が山道の見張りを任せた男だった。


 父の代から仕えていると、そう言った男だった。


 国衡の声に、男の目から涙が増えた。


 口だけが、別の声で動く。


⸻


「神託は違わぬ」


⸻


 藤次の左手が、自分の右手首を掴んだ。


 刃を止めようとしている。


 歯を食いしばる。


 喉から、本人の声が漏れた。


⸻


「逃げ……」


⸻


 右腕が、左手を振りほどいた。


 刀が、国衡の腹へ入った。


⸻


「やめろ!」


⸻


 シンは飛びついた。


 藤次と呼ばれた男へ、体ごとぶつかる。


 刀が抜けた。


 国衡が膝をつく。


⸻


 男の手が、シンの肩を掴んだ。


 人間の力ではなかった。


 引き寄せられる。


⸻


 腹が熱くなった。


⸻


 下を見る。


 刃が入っていた。


 国衡から抜いた刀だった。


⸻


「シン!」


⸻


 ユウガオが叫ぶ。


 タダが鍋を落とした。


 初めてだった。


 大鍋が地面へ転がり、飯が土へこぼれる。


⸻


 タダが走る。


 神託兵がシンを盾にした。


 刃を、さらに深く押し込む。


 ユウガオもこちらへ走っていた。


 別の神託兵が間へ入る。


 奥州の槍が、ユウガオへ向いた。


 タダが横から男を殴り飛ばす。


 それでも、まだ遠い。


⸻


 国衡が顔を上げた。


 血を吐く。


 それでも刀を振った。


 神託兵の腕が落ちる。


⸻


 シンの体から刃が抜けた。


 地面へ倒れる。


⸻


 国衡の背後に、最後の一人がいた。


 両手で槍を構えている。


 国衡は振り返らない。


 シンには見えた。


⸻


「後ろ……!」


⸻


 声にならなかった。


 槍が国衡の背へ入った。


 胸から穂先が出る。


⸻


 高楯黒が嘶いた。


 国衡の刀が落ちる。


 槍を受けたまま、一歩だけ前へ出た。


 それから、シンの隣へ膝をついた。


⸻


「……すまん」


⸻


 国衡の声だった。


⸻


「今度は、俺が読めなかった」


⸻


 違うと言いたかった。


 国衡は何も読み違えていない。


 正面を守った。


 山道も守った。


 兵も逃がさずに済んだ。


⸻


 それでも、国衡は死ぬ。


⸻


 外から来なければ、内から来る。


 敗走を塞げば、味方が刃になる。


⸻


 タダが最後の神託兵へぶつかった。


 男の体が浮き、土塁の下へ消える。


 ユウガオがシンの名を呼んでいる。


 すぐ近くにいるはずなのに、声だけが遠かった。


⸻


 シンの腹から、血が流れ続けていた。


 隣では、国衡が動かなくなっている。


 守った防塁の上に、奥州の旗が立っている。


 勝ったはずの戦場で、二人だけが負けていた。


⸻


 七度目の死だった。


⸻


⸻


「射よ!」


⸻


 弦が鳴った。


 朝だった。


 文治五年八月八日。


 阿津賀志山。


 戦の最初の朝。


⸻


 シンは立てなかった。


 膝をつく。


 胸を押さえる。


 腹を押さえる。


 どちらにも傷はない。


 痛みだけが残っていた。


⸻


 それでも、両手を土へついた。


 右足を立てる。


 左足も立てる。


 膝が震えた。


 腹の奥に、まだ刃が残っている気がする。


 シンは歯を食いしばり、起き上がった。


⸻


 右手を見た。


 親指を折る。


 一度。


 人差し指。


 二度。


 一本ずつ、折っていく。


 小指まで折れた。


 五度。


⸻


 左手の親指を折る。


 ユウガオを庇い、胸を槍で貫かれた。


 六度。


 人差し指を折る。


 国衡の隣で、腹へ刃を受けた。


 七度。


⸻


 二本の指が折れた左手を、しばらく見た。


 七回、死んだ。


 数えれば、それだけのことだった。


 一つ一つには、声があった。


 顔があった。


 死ぬ直前まで、生きていた誰かがいた。


⸻


 もう一度、考える。


 正面を知っている。


 湿地も知っている。


 鳥取越も知っている。


 神託兵の顔も知っている。


 今度は、先に五人を捕らえればいい。


 国衡へ全てを話し、誰も近づけなければいい。


 それで、国衡は生き残る。


⸻


 そこまで考えて、止まった。


 本当に、それで終わるのか。


⸻


 藤次は、泣いていた。


 自分の腕を、自分で止めようとしていた。


 あの五人が敵だったのではない。


 あの五人を、敵にした何かがいた。


 五人を縛れば、別の誰かが刃になるかもしれない。


 伝令。


 水を運ぶ者。


 国衡が顔を知っている、別の誰か。


⸻


 なら、国衡へ近づく者を全て止める。


 できるはずがない。


 伝令も、負傷兵も、将への報告も止まる。


 父の代から仕えた藤次さえ、ああなった。


 誰を残せばいいのか、シンには選べない。


 国衡を平泉へ戻す。


 戻るはずがない。


 縛ってでも戻せば、この防塁から将が消える。


 正面の大軍に押し潰される。


⸻


 次は、どこから来る。


⸻


 前を塞げば、後ろ。


 後ろを塞げば、内側。


 内側を塞ごうとすれば、守る側から壊れていく。


⸻


 もう一度、死ねば。


 次の答えが分かるのか。


 その考えが浮かんだ自分に、シンはぞっとした。


 答えを一つ知るたび、敗北は別の形になる。


 その形を知るために、また誰かを死なせる。


 また自分も死ぬ。


 そして戻れば、今度こそ違うと信じて走る。


 いつまで。


 あと何度。


⸻


 どうすればいい。


⸻


「シン!」


⸻


 ユウガオの声がした。


 生きている。


 国衡の声も聞こえる。


 また、何も知らずに戦っている。


⸻


 シンは国衡の方へ、一歩進んだ。


 止まった。


 何を伝えればいい。


 正面を守れ。


 山道も守れ。


 味方を信じるな。


 だが、味方を疑えば戦えない。


⸻


 喉から、乾いた息が漏れた。


 笑いに少し似ていた。


 何も、おかしくなかった。


 何を直せばいいのかさえ、もう分からない。


 シンは顔を上げられなかった。


⸻


「……もう、分からない」


⸻


 桃の香りがした。


⸻


 近い。


 今までで、一番近かった。


⸻


 白い脚が、シンの前で止まった。


 薄桃の衣が、朝の風に揺れる。


 腰にはフツ。


 黒い髪に、桃の飾り。


⸻


 モモが、シンを見下ろしていた。


⸻


 今度は、遠くからではなかった。


⸻


(第百十二話へ)


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