小さな未来
第八話 小さな未来
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種は、火の外に置かれたままだった。
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木の皮に包み直され、細い紐で縛られている。
ただの小さな包みだ。
知らない者が見れば、乾いた木の実か、砕いた薬草か、虫除けの粉でも入っていると思うかもしれない。
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だが、シンにはもう違って見えていた。
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あの包みの中には、まだ来ていない腹いっぱいがある。
まだ見ぬ争いがある。
まだ生まれていない決まりがある。
誰かの喜びがある。
誰かの我慢がある。
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小さな未来。
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そう呼ぶしかなかった。
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翌朝。
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集落は、いつもより少し落ち着かなかった。
朝の火は同じように燃えている。
子供たちは器を持って並び、女たちは煮た木の実を分け、男たちは道具を直している。
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それでも、視線が時々、火の外へ流れた。
南の者たちが寝ている場所。
その横に置かれた包み。
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皆、気にしていないふりをして、気にしていた。
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(まあ、気になるよな)
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シンも気にしていた。
種を受け入れるのか。
受け入れないのか。
試すのか。
捨てるのか。
食うのか。
土に入れるのか。
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どれを選んでも、この集落は少し変わる。
何もしない、という選択でさえ、南との関係を変える。
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朝の食事を受け取る時、ユナが隣へ来た。
眠そうだった。
髪の片側が跳ねている。
頬には寝跡のような薄い線がついていた。
本人はまったく気づいていない。
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「おはよう」
「おはよう。寝癖ついてる」
「ねぐせ?」
「髪、跳ねてる」
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ユナは慌てて髪に手をやった。
跳ねている方とは逆を押さえる。
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「そっちじゃない」
「こっち?」
「逆」
「こっち?」
「行き過ぎ」
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ユナは両手で髪を押さえ、そのままシンを睨んだ。
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「直して」
「え、俺が?」
「見えてるんでしょ」
「いや、そうだけど」
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シンは少し迷ってから手を伸ばした。
ユナの髪に触れる。
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柔らかかった。
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土と草の匂いがした。
それに、女性そのものみたいな香りがした。
モモの桃の香りとはまた違う。
石鹸もシャンプーもないはずなのに、本能として反応してしまうような、そんな香り。
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(イカン、ドキドキする)
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「……シン?」
「あ、いや」
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跳ねた髪を押さえる。
うまく直らない。
もう一度押さえる。
さらに変な方向へ跳ねた。
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「あ」
「下手」
「俺のせい?」
「シンが触った」
「元から跳ねてた」
「今の方が変」
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ユナは口を尖らせた。
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(可愛いな)
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普通に思った。
普通すぎて、少し焦った。
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その瞬間、どこかで甘い匂いがした。
シンは反射的に振り返る。
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木々の影。
白い姿はない。
桃の匂いも、すぐに消えた。
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(またか)
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この時代に来てから、何度か見ている。
集落の外れ。
森の向こう。
火の届かない場所。
白い衣の影。
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だが、声をかける前に、いつも消えた。
モモなのか。
記録の残り香なのか。
ただの幻なのか。
まだ、分からなかった。
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ユナが首を傾げる。
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「どうしたの」
「いや、ちょっと桃っぽい気配が」
「桃?」
「あ、いや。果物の話ではなく」
「お腹すいた?」
「桃って聞いて即、腹の話になるの?」
「シンはすぐ食べるから」
「信頼の方向がだいぶ雑だな!」
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ユナは小さく笑った。
その笑い声を聞いて、シンは少しだけ安心した。
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朝の食事が終わると、年長の女が火のそばに座った。
南の三人も呼ばれる。
タダも来た。
ユナと何人かの若い者もいる。
シンも、なぜか呼ばれた。
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「俺、まだ火の外側人ですよ」
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小声でユナに言う。
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「でも種のこと、少し知ってる」
「少しです」
「少しでも、知らないよりいい」
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その言い方はまっすぐだった。
褒められているようで、同時に仕事を押しつけられているようでもある。
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(この子、天然で人を動かすタイプだな)
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シンは火の外に座った。
内ではない。
だが、昨日より少し近い。
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それだけで、何かが変わった気がした。
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南の男が包みを開く。
小さな種が、木の皮の上に広がった。
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朝の光を受けても派手には光らない。
ただの乾いた粒だ。
頼りない。
指で潰せそうなほど小さい。
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だが、その頼りなさが逆に怖かった。
こんな小さなものに、人の暮らしが動かされるかもしれない。
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年長の女が言った。
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「全部は受けぬ」
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南の男は表情を変えない。
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「少しでも、土は覚える」
「土が覚える前に、人が忘れる」
「なら、覚える者を南へ」
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火のそばの空気が重くなる。
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若い手。
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昨日の言葉が戻ってくる。
年長の女はすぐには答えず、種を見た。
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「まず、ここで試す」
「この土で?」
「そうだ」
「南ほど温くない」
「知っている」
「雨も違う」
「知っている」
「鳥が食う」
「知っている」
「それでも?」
「それでも」
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南の男は、少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
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「では、少し」
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年長の女は頷き、シンを見た。
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「外の子」
「はい」
「どこへ入れる」
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全部の視線が、シンに向いた。
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(え、俺?)
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まただ。
なぜか、こういう時に見られる。
しかも、何となく答えが分かってしまう自分がいる。
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シンは種を見て、それから集落の周りを見た。
川に近すぎれば、水が多いかもしれない。
森の奥は日が足りない。
中央の火の近くは人が通る。
住居の裏は犬や子供が走る。
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少し開けていて、日が当たる。
水へ行きやすい。
でも、川に近すぎない。
人の目が届き、踏まれにくい場所。
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シンは集落の東側を指した。
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「あそこ。朝の日が当たる。水も近い。でも川に近すぎない。あと、子供が走る道から少し外れてる」
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ユナがすぐにその方向を見た。
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「私が使ってる干し草の場所の近く?」
「そう。あの横」
「そこ、私の場所」
「え、所有権あるの?」
「しょゆう?」
「いや、ユナの場所?」
「うん」
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ユナは少し胸を張った。
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「私が乾かす草が一番早く乾く場所」
「すごい自慢してる」
「すごい場所だから」
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自慢げな顔が、ちょっと可愛い。
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「じゃあ、そこを少し貸してほしい」
「種のために?」
「うん」
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ユナは真剣な顔で考えた。
草を乾かす場所を譲るかどうか。
この集落では、それも立派な判断らしい。
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「少しなら」
「ありがとう」
「でも、私も見る」
「もちろん」
「私の場所だから」
「はい、地主様」
「じぬしさま?」
「場所の偉い人」
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ユナは目を丸くした。
それから、少し照れたように笑った。
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「じゃあ、私は場所の偉い人」
「そうです」
「シンは火の外側人」
「格差がすごい」
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ユナは満足そうだった。
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話がまとまりかけた時、若い男が声を上げた。
昨日、山へ行かぬ男は足が腐ると言っていた男だ。
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「食えばいい」
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男は種を見ていた。
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「腹が減っている子がいる。南へ魚も石も渡す。それで、食えぬ粒を土に入れるのか」
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火のそばが静かになった。
誰もすぐには否定しなかった。
できなかった。
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男の言葉は乱暴だ。
だが、間違ってはいない。
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今、腹が減っている子供がいる。
今、食べられるものが必要な人がいる。
それなのに、食べられるかもしれない粒を土に入れて待つ。
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未来のために、今を我慢する。
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それがどれほど難しいことか、シンにも少し分かった。
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南の男が口を開こうとした。
だが、年長の女が手で止める。
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ユナも黙っていた。
さっきまでの柔らかい表情ではない。
ちゃんと集落の一人の顔をしている。
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タダは何も言わない。
魚も焼いていない。
ただ、火を見ていた。
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シンは膝の上で手を握った。
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(どうする)
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食えばいい。
確かにそうだ。
この時代では、今食うことが何より大事だ。
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だが、全部食えばそこで終わる。
土に入れなければ、増えない。
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「全部は食べない方がいい」
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男がこちらを見る。
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「外の者が決めるのか」
「決めない。でも、たぶん、これは全部食べたら終わる」
「終わればいい。腹に入る」
「腹に入ったら、一日で終わる」
「一日生きるのは大事だ」
「大事です」
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シンは頷いた。
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「でも、一日分を少し我慢したら、何十日分になるかもしれない」
「かもしれない、か」
「はい。かもしれない」
「頼りないな」
「俺もそう思います」
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少しだけ笑いが起きた。
緊張がわずかに緩む。
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「だから、全部は駄目だと思う。食べる分、試す分、残す分に分けた方がいい」
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年長の女の目が細くなった。
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「三つに分ける」
「はい」
「なぜ」
「食べれば、味が分かる。土に入れれば、ここで育つか分かる。残せば、失敗しても次に試せる」
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言いながら、シンは少し怖くなった。
これは便利な考えだ。
便利な考えは、暮らしを変える。
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でも、言わなければもっと悪い気がした。
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若い男は黙った。
完全には納得していない。
だが、全部食えという勢いは弱まった。
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年長の女は、種を三つに分けた。
小さな山が三つできる。
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ひとつは、今日火に見せる。
ひとつは、土へ入れる。
ひとつは、残す。
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「味を見る分は少しだ」
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女が言う。
若い男は口を曲げた。
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「少なすぎる」
「未来を食いすぎるな」
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女の声は静かだった。
その一言で、火のそばはまた静かになる。
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(かっこいい)
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シンは素直に思った。
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未来を食いすぎるな。
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この時代の言葉は、時々とんでもなく強い。
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昼前。
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種を土へ入れる場所を決めた。
ユナの干し草の場所の横。
日が当たる小さな空き地。
集落から見えるが、人が通りすぎる場所ではない。
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そこに、ユナが立った。
両手を腰に当てている。
なぜか偉そうだ。
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「ここ」
「地主様」
「場所の偉い人」
「はい」
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ユナは満足げに頷いた。
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南の男が土を触る。
指先で湿りを確かめ、短い木の棒で土をほぐした。
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シンはそれを見て、少し違和感を覚える。
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「深すぎない方がいいかも」
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南の男がこちらを見る。
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「なぜ」
「小さい種は、深いと出てこられない気がする」
「土の中で眠る」
「眠ったまま起きないかもしれない」
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南の男は少し考え、頷いた。
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「浅く」
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土を浅く開く。
種を数粒ずつ置く。
上から軽く土をかぶせる。
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それだけの作業だった。
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だが、皆が見ていた。
子供も。
老人も。
若い男も。
タダも。
南の者たちも。
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ユナは、真剣すぎる顔で見ていた。
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「ユナ」
「何」
「そんな顔しなくても、種は逃げないよ」
「逃げないから怖いんでしょ」
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昨日の南の男の言葉を覚えていたらしい。
シンは少し驚いた。
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ユナは、可愛いだけではない。
ちゃんと聞いている。
覚えている。
考えている。
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「そうだな」
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シンは言った。
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「逃げないものって、怖いな」
「でも、可愛い」
「種が?」
「うん」
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ユナは土を見た。
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「小さいのに、増えるかもしれない」
「それは可愛いのか?」
「可愛い」
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よく分からない基準だった。
でも、ユナがそう言うと、そういう気もしてくる。
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(可愛いもの多いな、この子の世界)
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シンは少し笑った。
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その時だった。
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「あっ」
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小さな声がした。
火のそばの方だ。
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振り返ると、子供が一人、走り出していた。
小さな女の子だ。
手に何かを握っている。
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ユナが顔色を変えた。
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「コト!」
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子供は止まらない。
干し場の裏へ逃げる。
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年長の女が立ち上がる。
若い男も動く。
南の女が木の皮の包みを見る。
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そこにあった、残す分の種。
その一部が、少し減っていた。
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(盗った?)
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シンは走り出した。
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コトと呼ばれた子供は小さい。
だが、すばしっこい。
干した魚の下をくぐり、草束の間へ入る。
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「待って、待って、怒らないから!」
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シンが叫ぶ。
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「それ、怒る人の言い方!」
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ユナが後ろから叫んだ。
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「じゃあ何て言えば!」
「優しく!」
「コトちゃん、ちょっと止まってくれると大変助かります!」
「変!」
「難しいなオイ!」
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コトはちらっと振り返った。
そのせいで、足元の草に引っかかる。
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「わっ」
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転んだ。
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シンは慌てて駆け寄る。
ユナも追いついた。
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コトは地面に座り込み、握った手を胸に抱えている。
大きな目に涙が溜まっていた。
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年は五つか六つくらいに見えた。
髪は短く、頬は少し痩せている。
でも目だけは強い。
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ユナが膝をつく。
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「コト」
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声は柔らかかった。
叱ってはいない。
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「何を持ってるの」
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コトは黙っている。
シンも膝をついた。
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「食べたかった?」
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コトの目が、少し揺れた。
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「違う」
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小さな声だった。
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「じゃあ、どうしたかった?」
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コトは、握った手をさらに強く閉じる。
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「増えるって言った」
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ユナが息を止めた。
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「うん」
「土に入れたら、増えるって」
「うん」
「じゃあ、私のところに入れたら、増えると思った」
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シンは一瞬、意味が分からなかった。
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コトは、自分の腹を押さえた。
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「ここに入れたら、増えると思った」
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その場の空気が止まった。
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シンは、何も言えなかった。
笑えない。
叱れない。
馬鹿にできない。
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コトは本気だった。
種を腹に入れれば、腹の中で増えると思ったのだ。
あるいは、そうであってほしいと思ったのだ。
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ユナの顔が、くしゃりと歪んだ。
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「コト」
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名前を呼ぶ声が、少し震えている。
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コトは泣きそうになりながら言った。
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「お腹、空くの嫌」
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誰も笑わなかった。
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火のそばにいた者たちも、いつの間にか近くまで来ていた。
年長の女も、タダも、南の者たちも。
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若い男が、顔を背けた。
彼が「食えばいい」と言った理由が、少し分かった気がした。
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シンは、ゆっくり息を吐いた。
そして、できるだけ優しい声を出した。
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「コト。腹に入れたら、増えない」
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コトの目から、涙が一粒落ちた。
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「なんで」
「お腹の中は、土じゃないから」
「でも、食べるところ」
「うん。食べるところ。だから、腹に入れたら、コトの力になる。でも、増える場所じゃない」
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コトは、握った手を少しだけ開いた。
小さな種が数粒、汗で手のひらに貼りついていた。
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「じゃあ、食べたら終わり?」
「うん」
「土に入れたら?」
「増えるかもしれない」
「かもしれない?」
「うん。絶対じゃない。でも、見てあげたら、増えるかもしれない」
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コトは鼻をすすった。
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「誰が見るの」
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シンは少し考えた。
ユナを見る。
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ユナは涙をこらえた顔で頷いた。
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「私が見る」
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コトはユナを見た。
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「ユナだけ?」
「シンも見る」
「え、俺も?」
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ユナがこちらを見る。
その目は、断れない目だった。
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「見るよね」
「見ます」
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即答した。
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コトは少し考えた。
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「タダも?」
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全員がタダを見た。
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タダは、いつもの顔で頷いた。
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「見る」
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短い。
だが、強い。
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コトは、手のひらの種を見た。
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「じゃあ、土に入れる」
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ユナが、そっとコトの手を包んだ。
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「一緒に入れよう」
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コトは頷いた。
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シンは胸の奥が熱くなるのを感じた。
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種を蒔く。
ただそれだけのことが、急に物語になった。
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コトの腹。
ユナの手。
タダの頷き。
南の男の沈黙。
若い男の悔しそうな顔。
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未来は、理屈だけでは動かない。
腹が減るから動く。
泣く子がいるから動く。
誰かがその手を取るから、ようやく土へ向かう。
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コトの手にあった種は、ユナの場所の隅に埋められた。
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小さな穴。
小さな粒。
小さな手。
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ユナが土をかぶせる。
コトが、その上をそっと押さえる。
シンも真似をして、指先で軽く土を押した。
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「強く押さない」
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ユナに注意された。
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「はい」
「潰れる」
「すみません、地主様」
「場所の偉い人」
「はい、場所の偉い人」
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コトが、泣き顔のまま少し笑った。
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それだけで、シンは救われた気がした。
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その夜。
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火のそばで、ほんの少しだけ種が煮られた。
味を見る分だ。
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土器の中で湯が揺れる。
種は少なすぎて、食事というより儀式に近かった。
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年長の女が、まず火へひと粒落とした。
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「火が知る」
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それから、煮えた種が少しずつ分けられた。
南の者。
年長の女。
ユナ。
コト。
若い男。
タダ。
そして、シン。
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シンの器には、本当に数粒しか入っていなかった。
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(少なっ)
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だが、文句を言う空気ではない。
口に入れる。
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硬い。
少し粉っぽい。
ほのかに甘い。
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うまいかと言われると、正直よく分からない。
でも、腹に入った瞬間、妙な重さがあった。
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これは食べ物だ。
同時に、約束でもある。
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ユナがこちらを見た。
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「どう?」
「えーと」
「おいしい?」
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正直に言うか迷った。
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「未来の味がする」
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シンは言った。
ユナは目を瞬いた。
それから、ふっと笑った。
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「変な味」
「俺もそう思う」
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コトも同じものを食べて、真剣な顔をしていた。
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「増える?」
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シンは頷いた。
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「見てたら、増えるかも」
「見る」
「俺も見る」
「ユナも」
「うん」
「タダも」
「見る」
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タダはまた短く言った。
その短さに、コトは安心したようだった。
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夜が深くなる。
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南の者たちは火の外で眠った。
集落の者たちも、それぞれの住居へ戻る。
コトは最後まで種を埋めた場所を気にしていたが、ユナに抱えられるように連れて行かれた。
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「ユナ、髪また跳ねてる」
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シンが小声で言うと、ユナは振り返った。
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「明日、直して」
「また俺が?」
「下手だけど」
「下手なのに?」
「面白いから」
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そう言って、ユナは笑った。
シンは返す言葉を失った。
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(ずるいな)
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火の光の中で笑うユナは、反則だった。
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ユナとコトが住居へ消える。
シンはしばらく、その方向を見ていた。
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その時。
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甘い匂いがした。
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今度は、はっきりと。
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桃の匂い。
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シンは振り返った。
集落の外。
木々の影。
白い衣。
黒い髪。
桃の飾り。
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モモが立っていた。
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今度は消えなかった。
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シンは、すぐには動けなかった。
喉の奥が詰まる。
心臓が、一拍だけ遅れてから、やけに強く打った。
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この時代に来てから、何度も見かけた。
木の陰に。
川の向こうに。
火の届かない暗がりに。
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けれど、話せたことは一度もなかった。
声をかけようとした瞬間、いつも消えた。
だから、今も消えると思っていた。
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だが、モモは消えなかった。
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そこにいる。
最後に見た時と、同じ顔で。
同じ匂いで。
同じ白で。
同じように、こちらを見ている。
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なのに、時代だけが違う。
森も違う。
集落も違う。
シンの隣にいる人たちも違う。
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何もかも違うのに、モモだけが、間違いのようにそこにいた。
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「……本物か」
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やっと出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。
モモの目が、わずかに動く。
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「本体投影。実在接続」
「分かんねえよ」
「ここにいる」
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その答えだけは、分かった。
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シンは息を吸った。
桃の匂いが胸の奥まで入ってくる。
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懐かしいと思ってしまった。
怖いより先に。
嫌だと思うより先に。
懐かしいと思ってしまった自分に、少し腹が立った。
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「……久しぶり、でいいのか」
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モモは少しだけ首を傾げた。
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「凡そ、4240000時間ぶり」
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シンは止まった。
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「わからねぇよ」
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「約四百八十四年」
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「急に重いな」
「換算」
「換算じゃなくて、言い方の問題だよ」
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笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
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四百八十四年。
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シンにとっては、死んで、飛ばされて、目が覚めたらここだった。
だが、言葉にされると、途方もない穴が口を開ける。
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「その間、何してた」
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聞かずにはいられなかった。
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モモはすぐには答えなかった。
白い衣が夜風に揺れる。
だが、やはり風と少しずれている。
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「ほぼ待機状態」
「待機?」
「記録は停止していた」
「記憶じゃなくて?」
「記録」
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モモは短く言った。
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「必要な断片のみ保持。連続的な体験はない」
「寝てたみたいなものか」
「近似」
「夢は?」
「ない」
「寂しいとかは?」
「定義不能」
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その言葉で、シンは少しだけ黙った。
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四百八十四年。
けれど、モモには連続した時間がない。
記録は停止していた。
必要な断片だけが残る。
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人間ではない。
でも、ただの道具とも思えない。
敵だと言い切るには、あまりにも声が近い。
味方だと思うには、あまりにも刃の記憶が深い。
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(本当に何なんだ、お前)
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シンは思った。
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(いや)
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すぐに、別の問いが浮かぶ。
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(俺も含めて、何者なんだ)
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分からない。
自分がどこから来たのか。
モモが何を抱えているのか。
なぜ、二人だけが時代を越えて残っているのか。
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分からないことばかりだった。
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「殺しに来たのか」
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言ってから、胸の奥が冷えた。
聞きたくなかった。
でも、聞かずにはいられなかった。
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モモは、すぐには答えなかった。
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「現在、任務待機中」
「待機」
「そう」
「じゃあ、任務が来たら」
「実行する」
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短い答えだった。
シンは、喉の奥で笑った。
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「そこは嘘でも迷えよ」
「虚偽応答は非効率」
「効率の話じゃねえんだよ」
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モモは黙った。
その沈黙が、前より少しだけ重かった。
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「でも、今は殺さない」
「今は」
「そう」
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「……そっか」
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安心していいのか、分からなかった。
でも、少なくとも今この瞬間、モモの手に刃はない。
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シンは一歩だけ近づいた。
足の裏に、夜の土の冷たさが伝わる。
それだけで、ここが夢ではないと分かってしまう。
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「何を待ってる」
「この時代の変化点」
「変化点」
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モモは火の方を見た。
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「南から持ち込まれた栽培技術。定住強化。余剰生産。労働配分の固定化。共同体内の所有概念の発生、または拡張」
「四百八十四年ぶりの会話で、それか」
「重要」
「分かるけどさ」
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シンも火の方を見た。
土の中に眠る種。
それを見ようとするユナとコト。
南へ若い手を出すかもしれない集落。
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「農耕、ってことだよな」
「初期農耕、または栽培の導入段階」
「狩りとか採集だけじゃなくなる」
「そう。移動性が低下する。蓄積が増える。交換価値が変化する」
「腹は満たされるかもしれない」
「同時に、土地への依存が増える」
「土地を守る必要が出る」
「収穫物を管理する必要が出る」
「誰が働いて、誰が分けるかでも揉める」
「予測一致」
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シンは小さく息を吐いた。
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「やっぱ怖いな」
「怖い?」
「便利なものって、怖い」
「便利は効率向上」
「効率が上がると、人が楽になる」
「そう」
「でも、楽になった分だけ、手放せなくなる」
⸻
モモは黙った。
⸻
「依存」
「そう。それ」
⸻
シンは頷いた。
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「南が槍で来た時より、こっちの方が難しい。種は悪いやつじゃない。コトが腹減らなくなるなら、絶対いいことだ。でも、それを受け入れた瞬間、暮らしが変わる。変わった暮らしは、たぶん戻らない」
「不可逆性」
「そう。不可逆」
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自分で言いながら、シンは変な気分になった。
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四百八十四年ぶりに話すモモと、森の外れで農耕と定住について話している。
火の向こうでは、ユナたちが土器を片づけている。
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あまりにも場違いで。
あまりにも、戻ってきてしまったようだった。
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「シンは、導入に反対か」
「分からない」
「賛成か」
「分からない」
「判断保留」
「うん。たぶん、それが一番近い」
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「なぜ」
「コトを見たら、反対できない。ユナを見ても、反対できない。腹が減らない未来を欲しがるのは、当たり前だ」
「では賛成」
「でも、南の男が若い手を欲しがった」
「技術移転には労働者の移動が必要」
「それも分かる。でも、それって集落の人間が南の道に入るってことだろ。道が太くなる。戻れなくなるやつも出るかもしれない」
「文化的従属の初期段階」
「言い方が重いな」
「事実」
「だよな」
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シンは頭をかいた。
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「分かるけど、分からないんだよ。俺、未来っぽい言葉は出てくる。でも、ここにいるコトの腹の音とか、ユナの手の温度とか、そういうのを前にすると、簡単に答えられない」
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モモの目が、わずかに動いた。
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「ユナは、近い」
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シンは息を止めた。
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「近い?」
「距離が近い」
「物理的に?」
「物理。視線。発声。接触」
「接触って、髪の寝癖直しただけだろ」
「接触」
「言い方」
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モモの目は平らだった。
でも、声の奥に何かがあった。
それが何なのか、シンにはまだ分からない。
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「嫌なのか?」
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聞いてから、しまったと思った。
だが、言葉はもう戻らない。
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モモは長く黙った。
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「……定義不能」
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前にも聞いた言葉だった。
だが、今の定義不能は、前よりずっと感情に近かった。
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シンは、少しだけ胸が痛くなった。
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「そっか」
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それ以上、何を言えばいいか分からなかった。
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モモは、種を埋めた場所の方を見た。
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「栽培の成功率は」
「分からない。この土地と気候でいけるかは不明。水も気温も違うし、たぶん品種も合ってるか分からない」
「失敗率は高い」
「だと思う。でも、試す価値はある」
「なぜ」
「失敗しても、知識が残る。どこが駄目だったか分かれば、次に変えられる」
「試行錯誤」
「そう。試行錯誤」
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モモは黙った。
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「シンは、試行錯誤を肯定する」
「死に戻りで散々やらされたからな」
「……」
「冗談だよ」
「冗談」
「うん。たぶん半分くらい」
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モモはまた黙った。
その沈黙が、少しだけ柔らかかった。
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「モモ」
「何」
「一緒に見るか」
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モモの目が揺れた。
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「何を」
「種。増えるかどうか。この時代がどう変わるか」
「任務にない」
「だろうな」
「必要性が不明」
「不明なら、見たら分かるかも」
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モモは黙った。
長い沈黙だった。
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「……りょ。」
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小さな声だった。
あまりにも自然に、モモの口からこぼれた。
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命令でもない。
報告でもない。
対象確認でもない。
この時代の言葉とも、少し違う。
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短くて、軽くて、妙に砕けた音。
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りょ。
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シンは一瞬、固まった。
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「……今、何て?」
「りょ。」
「いや、それ」
「肯定応答」
「肯定応答にしては、だいぶ雑じゃない?」
「了解、の短縮表現と推定」
「推定なんだ」
「出力経路、不明」
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モモは自分でも少し不思議そうだった。
いや、不思議そうに見えた。
表情はほとんど変わらない。
それでもシンには、そう見えた。
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「今、考えて言ったのか?」
「不明」
「不明多いな」
「発話直前に選択された。理由は不明。ただし、効率は良い」
「効率で採用すんな」
「二音で承諾を伝達可能。優秀」
「そういう問題かよ」
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シンは笑いかけた。
だが、笑いきれなかった。
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胸の奥が、変だった。
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その言葉を、初めて聞いた気がしない。
どこかで、ずっと前に聞いた気がする。
いや、聞いたのではない。
言わせたことがあるような気がする。
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硬い言葉ばかり使う誰かに。
もっと軽くていいんだよ、と笑いながら。
冗談半分で、ふざけて。
なのに、その誰かが真面目に受け取ってしまって。
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採用。
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そんな声が、記憶ではない場所で揺れた。
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「シン」
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モモが呼ぶ。
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「表情が不安定」
「いや、誰のせいだと」
「私?」
「たぶん」
「誤差」
「便利だな、それも」
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モモは少しだけ黙った。
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「りょ。」
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二度目だった。
今度は、さっきよりほんの少しだけ馴染んで聞こえた。
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「……それ、口癖にする気か?」
「口癖」
「何回も言うやつ」
「効率が良い場合、使用頻度は上昇する」
「する気満々じゃん」
「りょ。」
「早速使うな」
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モモの目が、わずかに揺れた。
笑ったわけではない。
でも、笑っているような気がした。
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シンは、胸の奥にまた小さな火が灯るのを感じた。
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その言葉が何なのかは分からない。
モモも、たぶん分かっていない。
シンも、思い出せない。
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それでも。
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何かが残っている。
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刃でも。
任務でも。
死でもないものが。
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「じゃあ」
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シンは言った。
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「種、見に来いよ」
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モモは少し間を置いた。
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「りょ。」
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三度目。
今度は、完全にモモの言葉だった。
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次の瞬間、モモは一歩下がった。
白い衣が木々の影に溶ける。
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「また見る」
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それだけ言って、消えた。
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桃の匂いが少し残る。
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シンはしばらく、その場に立っていた。
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火の方では、種が土の中で眠っている。
ユナが明日も見ると言った。
コトも見る。
タダも見る。
モモも、たぶん見る。
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小さな未来は、土に入った。
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そして、その未来を見ようとする者が、少しずつ増えていた。
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(第九話へ)




