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小さな未来

第八話 小さな未来


⸻


 種は、火の外に置かれたままだった。


⸻


 木の皮に包み直され、細い紐で縛られている。


 ただの小さな包みだ。


 知らない者が見れば、乾いた木の実か、砕いた薬草か、虫除けの粉でも入っていると思うかもしれない。


⸻


 だが、シンにはもう違って見えていた。


⸻


 あの包みの中には、まだ来ていない腹いっぱいがある。


 まだ見ぬ争いがある。


 まだ生まれていない決まりがある。


 誰かの喜びがある。


 誰かの我慢がある。


⸻


 小さな未来。


⸻


 そう呼ぶしかなかった。


⸻


⸻


 翌朝。


⸻


 集落は、いつもより少し落ち着かなかった。


 朝の火は同じように燃えている。


 子供たちは器を持って並び、女たちは煮た木の実を分け、男たちは道具を直している。


⸻


 それでも、視線が時々、火の外へ流れた。


 南の者たちが寝ている場所。


 その横に置かれた包み。


⸻


 皆、気にしていないふりをして、気にしていた。


⸻


(まあ、気になるよな)


⸻


 シンも気にしていた。


 種を受け入れるのか。


 受け入れないのか。


 試すのか。


 捨てるのか。


 食うのか。


 土に入れるのか。


⸻


 どれを選んでも、この集落は少し変わる。


 何もしない、という選択でさえ、南との関係を変える。


⸻


 朝の食事を受け取る時、ユナが隣へ来た。


 眠そうだった。


 髪の片側が跳ねている。


 頬には寝跡のような薄い線がついていた。


 本人はまったく気づいていない。


⸻


「おはよう」


「おはよう。寝癖ついてる」


「ねぐせ?」


「髪、跳ねてる」


⸻


 ユナは慌てて髪に手をやった。


 跳ねている方とは逆を押さえる。


⸻


「そっちじゃない」


「こっち?」


「逆」


「こっち?」


「行き過ぎ」


⸻


 ユナは両手で髪を押さえ、そのままシンを睨んだ。


⸻


「直して」


「え、俺が?」


「見えてるんでしょ」


「いや、そうだけど」


⸻


 シンは少し迷ってから手を伸ばした。


 ユナの髪に触れる。


⸻


 柔らかかった。


⸻


 土と草の匂いがした。


 それに、女性そのものみたいな香りがした。


 モモの桃の香りとはまた違う。


 石鹸もシャンプーもないはずなのに、本能として反応してしまうような、そんな香り。


⸻


(イカン、ドキドキする)


⸻


「……シン?」


「あ、いや」


⸻


 跳ねた髪を押さえる。


 うまく直らない。


 もう一度押さえる。


 さらに変な方向へ跳ねた。


⸻


「あ」


「下手」


「俺のせい?」


「シンが触った」


「元から跳ねてた」


「今の方が変」


⸻


 ユナは口を尖らせた。


⸻


(可愛いな)


⸻


 普通に思った。


 普通すぎて、少し焦った。


⸻


 その瞬間、どこかで甘い匂いがした。


 シンは反射的に振り返る。


⸻


 木々の影。


 白い姿はない。


 桃の匂いも、すぐに消えた。


⸻


(またか)


⸻


 この時代に来てから、何度か見ている。


 集落の外れ。


 森の向こう。


 火の届かない場所。


 白い衣の影。


⸻


 だが、声をかける前に、いつも消えた。


 モモなのか。


 記録の残り香なのか。


 ただの幻なのか。


 まだ、分からなかった。


⸻


 ユナが首を傾げる。


⸻


「どうしたの」


「いや、ちょっと桃っぽい気配が」


「桃?」


「あ、いや。果物の話ではなく」


「お腹すいた?」


「桃って聞いて即、腹の話になるの?」


「シンはすぐ食べるから」


「信頼の方向がだいぶ雑だな!」


⸻


 ユナは小さく笑った。


 その笑い声を聞いて、シンは少しだけ安心した。


⸻


⸻


 朝の食事が終わると、年長の女が火のそばに座った。


 南の三人も呼ばれる。


 タダも来た。


 ユナと何人かの若い者もいる。


 シンも、なぜか呼ばれた。


⸻


「俺、まだ火の外側人ですよ」


⸻


 小声でユナに言う。


⸻


「でも種のこと、少し知ってる」


「少しです」


「少しでも、知らないよりいい」


⸻


 その言い方はまっすぐだった。


 褒められているようで、同時に仕事を押しつけられているようでもある。


⸻


(この子、天然で人を動かすタイプだな)


⸻


 シンは火の外に座った。


 内ではない。


 だが、昨日より少し近い。


⸻


 それだけで、何かが変わった気がした。


⸻


 南の男が包みを開く。


 小さな種が、木の皮の上に広がった。


⸻


 朝の光を受けても派手には光らない。


 ただの乾いた粒だ。


 頼りない。


 指で潰せそうなほど小さい。


⸻


 だが、その頼りなさが逆に怖かった。


 こんな小さなものに、人の暮らしが動かされるかもしれない。


⸻


 年長の女が言った。


⸻


「全部は受けぬ」


⸻


 南の男は表情を変えない。


⸻


「少しでも、土は覚える」


「土が覚える前に、人が忘れる」


「なら、覚える者を南へ」


⸻


 火のそばの空気が重くなる。


⸻


 若い手。


⸻


 昨日の言葉が戻ってくる。


 年長の女はすぐには答えず、種を見た。


⸻


「まず、ここで試す」


「この土で?」


「そうだ」


「南ほど温くない」


「知っている」


「雨も違う」


「知っている」


「鳥が食う」


「知っている」


「それでも?」


「それでも」


⸻


 南の男は、少しだけ口元を動かした。


 笑ったのかもしれない。


⸻


「では、少し」


⸻


 年長の女は頷き、シンを見た。


⸻


「外の子」


「はい」


「どこへ入れる」


⸻


 全部の視線が、シンに向いた。


⸻


(え、俺?)


⸻


 まただ。


 なぜか、こういう時に見られる。


 しかも、何となく答えが分かってしまう自分がいる。


⸻


 シンは種を見て、それから集落の周りを見た。


 川に近すぎれば、水が多いかもしれない。


 森の奥は日が足りない。


 中央の火の近くは人が通る。


 住居の裏は犬や子供が走る。


⸻


 少し開けていて、日が当たる。


 水へ行きやすい。


 でも、川に近すぎない。


 人の目が届き、踏まれにくい場所。


⸻


 シンは集落の東側を指した。


⸻


「あそこ。朝の日が当たる。水も近い。でも川に近すぎない。あと、子供が走る道から少し外れてる」


⸻


 ユナがすぐにその方向を見た。


⸻


「私が使ってる干し草の場所の近く?」


「そう。あの横」


「そこ、私の場所」


「え、所有権あるの?」


「しょゆう?」


「いや、ユナの場所?」


「うん」


⸻


 ユナは少し胸を張った。


⸻


「私が乾かす草が一番早く乾く場所」


「すごい自慢してる」


「すごい場所だから」


⸻


 自慢げな顔が、ちょっと可愛い。


⸻


「じゃあ、そこを少し貸してほしい」


「種のために?」


「うん」


⸻


 ユナは真剣な顔で考えた。


 草を乾かす場所を譲るかどうか。


 この集落では、それも立派な判断らしい。


⸻


「少しなら」


「ありがとう」


「でも、私も見る」


「もちろん」


「私の場所だから」


「はい、地主様」


「じぬしさま?」


「場所の偉い人」


⸻


 ユナは目を丸くした。


 それから、少し照れたように笑った。


⸻


「じゃあ、私は場所の偉い人」


「そうです」


「シンは火の外側人」


「格差がすごい」


⸻


 ユナは満足そうだった。


⸻


 話がまとまりかけた時、若い男が声を上げた。


 昨日、山へ行かぬ男は足が腐ると言っていた男だ。


⸻


「食えばいい」


⸻


 男は種を見ていた。


⸻


「腹が減っている子がいる。南へ魚も石も渡す。それで、食えぬ粒を土に入れるのか」


⸻


 火のそばが静かになった。


 誰もすぐには否定しなかった。


 できなかった。


⸻


 男の言葉は乱暴だ。


 だが、間違ってはいない。


⸻


 今、腹が減っている子供がいる。


 今、食べられるものが必要な人がいる。


 それなのに、食べられるかもしれない粒を土に入れて待つ。


⸻


 未来のために、今を我慢する。


⸻


 それがどれほど難しいことか、シンにも少し分かった。


⸻


 南の男が口を開こうとした。


 だが、年長の女が手で止める。


⸻


 ユナも黙っていた。


 さっきまでの柔らかい表情ではない。


 ちゃんと集落の一人の顔をしている。


⸻


 タダは何も言わない。


 魚も焼いていない。


 ただ、火を見ていた。


⸻


 シンは膝の上で手を握った。


⸻


(どうする)


⸻


 食えばいい。


 確かにそうだ。


 この時代では、今食うことが何より大事だ。


⸻


 だが、全部食えばそこで終わる。


 土に入れなければ、増えない。


⸻


「全部は食べない方がいい」


⸻


 男がこちらを見る。


⸻


「外の者が決めるのか」


「決めない。でも、たぶん、これは全部食べたら終わる」


「終わればいい。腹に入る」


「腹に入ったら、一日で終わる」


「一日生きるのは大事だ」


「大事です」


⸻


 シンは頷いた。


⸻


「でも、一日分を少し我慢したら、何十日分になるかもしれない」


「かもしれない、か」


「はい。かもしれない」


「頼りないな」


「俺もそう思います」


⸻


 少しだけ笑いが起きた。


 緊張がわずかに緩む。


⸻


「だから、全部は駄目だと思う。食べる分、試す分、残す分に分けた方がいい」


⸻


 年長の女の目が細くなった。


⸻


「三つに分ける」


「はい」


「なぜ」


「食べれば、味が分かる。土に入れれば、ここで育つか分かる。残せば、失敗しても次に試せる」


⸻


 言いながら、シンは少し怖くなった。


 これは便利な考えだ。


 便利な考えは、暮らしを変える。


⸻


 でも、言わなければもっと悪い気がした。


⸻


 若い男は黙った。


 完全には納得していない。


 だが、全部食えという勢いは弱まった。


⸻


 年長の女は、種を三つに分けた。


 小さな山が三つできる。


⸻


 ひとつは、今日火に見せる。


 ひとつは、土へ入れる。


 ひとつは、残す。


⸻


「味を見る分は少しだ」


⸻


 女が言う。


 若い男は口を曲げた。


⸻


「少なすぎる」


「未来を食いすぎるな」


⸻


 女の声は静かだった。


 その一言で、火のそばはまた静かになる。


⸻


(かっこいい)


⸻


 シンは素直に思った。


⸻


 未来を食いすぎるな。


⸻


 この時代の言葉は、時々とんでもなく強い。


⸻


⸻


 昼前。


⸻


 種を土へ入れる場所を決めた。


 ユナの干し草の場所の横。


 日が当たる小さな空き地。


 集落から見えるが、人が通りすぎる場所ではない。


⸻


 そこに、ユナが立った。


 両手を腰に当てている。


 なぜか偉そうだ。


⸻


「ここ」


「地主様」


「場所の偉い人」


「はい」


⸻


 ユナは満足げに頷いた。


⸻


 南の男が土を触る。


 指先で湿りを確かめ、短い木の棒で土をほぐした。


⸻


 シンはそれを見て、少し違和感を覚える。


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「深すぎない方がいいかも」


⸻


 南の男がこちらを見る。


⸻


「なぜ」


「小さい種は、深いと出てこられない気がする」


「土の中で眠る」


「眠ったまま起きないかもしれない」


⸻


 南の男は少し考え、頷いた。


⸻


「浅く」


⸻


 土を浅く開く。


 種を数粒ずつ置く。


 上から軽く土をかぶせる。


⸻


 それだけの作業だった。


⸻


 だが、皆が見ていた。


 子供も。


 老人も。


 若い男も。


 タダも。


 南の者たちも。


⸻


 ユナは、真剣すぎる顔で見ていた。


⸻


「ユナ」


「何」


「そんな顔しなくても、種は逃げないよ」


「逃げないから怖いんでしょ」


⸻


 昨日の南の男の言葉を覚えていたらしい。


 シンは少し驚いた。


⸻


 ユナは、可愛いだけではない。


 ちゃんと聞いている。


 覚えている。


 考えている。


⸻


「そうだな」


⸻


 シンは言った。


⸻


「逃げないものって、怖いな」


「でも、可愛い」


「種が?」


「うん」


⸻


 ユナは土を見た。


⸻


「小さいのに、増えるかもしれない」


「それは可愛いのか?」


「可愛い」


⸻


 よく分からない基準だった。


 でも、ユナがそう言うと、そういう気もしてくる。


⸻


(可愛いもの多いな、この子の世界)


⸻


 シンは少し笑った。


⸻


 その時だった。


⸻


「あっ」


⸻


 小さな声がした。


 火のそばの方だ。


⸻


 振り返ると、子供が一人、走り出していた。


 小さな女の子だ。


 手に何かを握っている。


⸻


 ユナが顔色を変えた。


⸻


「コト!」


⸻


 子供は止まらない。


 干し場の裏へ逃げる。


⸻


 年長の女が立ち上がる。


 若い男も動く。


 南の女が木の皮の包みを見る。


⸻


 そこにあった、残す分の種。


 その一部が、少し減っていた。


⸻


(盗った?)


⸻


 シンは走り出した。


⸻


 コトと呼ばれた子供は小さい。


 だが、すばしっこい。


 干した魚の下をくぐり、草束の間へ入る。


⸻


「待って、待って、怒らないから!」


⸻


 シンが叫ぶ。


⸻


「それ、怒る人の言い方!」


⸻


 ユナが後ろから叫んだ。


⸻


「じゃあ何て言えば!」


「優しく!」


「コトちゃん、ちょっと止まってくれると大変助かります!」


「変!」


「難しいなオイ!」


⸻


 コトはちらっと振り返った。


 そのせいで、足元の草に引っかかる。


⸻


「わっ」


⸻


 転んだ。


⸻


 シンは慌てて駆け寄る。


 ユナも追いついた。


⸻


 コトは地面に座り込み、握った手を胸に抱えている。


 大きな目に涙が溜まっていた。


⸻


 年は五つか六つくらいに見えた。


 髪は短く、頬は少し痩せている。


 でも目だけは強い。


⸻


 ユナが膝をつく。


⸻


「コト」


⸻


 声は柔らかかった。


 叱ってはいない。


⸻


「何を持ってるの」


⸻


 コトは黙っている。


 シンも膝をついた。


⸻


「食べたかった?」


⸻


 コトの目が、少し揺れた。


⸻


「違う」


⸻


 小さな声だった。


⸻


「じゃあ、どうしたかった?」


⸻


 コトは、握った手をさらに強く閉じる。


⸻


「増えるって言った」


⸻


 ユナが息を止めた。


⸻


「うん」


「土に入れたら、増えるって」


「うん」


「じゃあ、私のところに入れたら、増えると思った」


⸻


 シンは一瞬、意味が分からなかった。


⸻


 コトは、自分の腹を押さえた。


⸻


「ここに入れたら、増えると思った」


⸻


 その場の空気が止まった。


⸻


 シンは、何も言えなかった。


 笑えない。


 叱れない。


 馬鹿にできない。


⸻


 コトは本気だった。


 種を腹に入れれば、腹の中で増えると思ったのだ。


 あるいは、そうであってほしいと思ったのだ。


⸻


 ユナの顔が、くしゃりと歪んだ。


⸻


「コト」


⸻


 名前を呼ぶ声が、少し震えている。


⸻


 コトは泣きそうになりながら言った。


⸻


「お腹、空くの嫌」


⸻


 誰も笑わなかった。


⸻


 火のそばにいた者たちも、いつの間にか近くまで来ていた。


 年長の女も、タダも、南の者たちも。


⸻


 若い男が、顔を背けた。


 彼が「食えばいい」と言った理由が、少し分かった気がした。


⸻


 シンは、ゆっくり息を吐いた。


 そして、できるだけ優しい声を出した。


⸻


「コト。腹に入れたら、増えない」


⸻


 コトの目から、涙が一粒落ちた。


⸻


「なんで」


「お腹の中は、土じゃないから」


「でも、食べるところ」


「うん。食べるところ。だから、腹に入れたら、コトの力になる。でも、増える場所じゃない」


⸻


 コトは、握った手を少しだけ開いた。


 小さな種が数粒、汗で手のひらに貼りついていた。


⸻


「じゃあ、食べたら終わり?」


「うん」


「土に入れたら?」


「増えるかもしれない」


「かもしれない?」


「うん。絶対じゃない。でも、見てあげたら、増えるかもしれない」


⸻


 コトは鼻をすすった。


⸻


「誰が見るの」


⸻


 シンは少し考えた。


 ユナを見る。


⸻


 ユナは涙をこらえた顔で頷いた。


⸻


「私が見る」


⸻


 コトはユナを見た。


⸻


「ユナだけ?」


「シンも見る」


「え、俺も?」


⸻


 ユナがこちらを見る。


 その目は、断れない目だった。


⸻


「見るよね」


「見ます」


⸻


 即答した。


⸻


 コトは少し考えた。


⸻


「タダも?」


⸻


 全員がタダを見た。


⸻


 タダは、いつもの顔で頷いた。


⸻


「見る」


⸻


 短い。


 だが、強い。


⸻


 コトは、手のひらの種を見た。


⸻


「じゃあ、土に入れる」


⸻


 ユナが、そっとコトの手を包んだ。


⸻


「一緒に入れよう」


⸻


 コトは頷いた。


⸻


 シンは胸の奥が熱くなるのを感じた。


⸻


 種を蒔く。


 ただそれだけのことが、急に物語になった。


⸻


 コトの腹。


 ユナの手。


 タダの頷き。


 南の男の沈黙。


 若い男の悔しそうな顔。


⸻


 未来は、理屈だけでは動かない。


 腹が減るから動く。


 泣く子がいるから動く。


 誰かがその手を取るから、ようやく土へ向かう。


⸻


 コトの手にあった種は、ユナの場所の隅に埋められた。


⸻


 小さな穴。


 小さな粒。


 小さな手。


⸻


 ユナが土をかぶせる。


 コトが、その上をそっと押さえる。


 シンも真似をして、指先で軽く土を押した。


⸻


「強く押さない」


⸻


 ユナに注意された。


⸻


「はい」


「潰れる」


「すみません、地主様」


「場所の偉い人」


「はい、場所の偉い人」


⸻


 コトが、泣き顔のまま少し笑った。


⸻


 それだけで、シンは救われた気がした。


⸻


⸻


 その夜。


⸻


 火のそばで、ほんの少しだけ種が煮られた。


 味を見る分だ。


⸻


 土器の中で湯が揺れる。


 種は少なすぎて、食事というより儀式に近かった。


⸻


 年長の女が、まず火へひと粒落とした。


⸻


「火が知る」


⸻


 それから、煮えた種が少しずつ分けられた。


 南の者。


 年長の女。


 ユナ。


 コト。


 若い男。


 タダ。


 そして、シン。


⸻


 シンの器には、本当に数粒しか入っていなかった。


⸻


(少なっ)


⸻


 だが、文句を言う空気ではない。


 口に入れる。


⸻


 硬い。


 少し粉っぽい。


 ほのかに甘い。


⸻


 うまいかと言われると、正直よく分からない。


 でも、腹に入った瞬間、妙な重さがあった。


⸻


 これは食べ物だ。


 同時に、約束でもある。


⸻


 ユナがこちらを見た。


⸻


「どう?」


「えーと」


「おいしい?」


⸻


 正直に言うか迷った。


⸻


「未来の味がする」


⸻


 シンは言った。


 ユナは目を瞬いた。


 それから、ふっと笑った。


⸻


「変な味」


「俺もそう思う」


⸻


 コトも同じものを食べて、真剣な顔をしていた。


⸻


「増える?」


⸻


 シンは頷いた。


⸻


「見てたら、増えるかも」


「見る」


「俺も見る」


「ユナも」


「うん」


「タダも」


「見る」


⸻


 タダはまた短く言った。


 その短さに、コトは安心したようだった。


⸻


 夜が深くなる。


⸻


 南の者たちは火の外で眠った。


 集落の者たちも、それぞれの住居へ戻る。


 コトは最後まで種を埋めた場所を気にしていたが、ユナに抱えられるように連れて行かれた。


⸻


「ユナ、髪また跳ねてる」


⸻


 シンが小声で言うと、ユナは振り返った。


⸻


「明日、直して」


「また俺が?」


「下手だけど」


「下手なのに?」


「面白いから」


⸻


 そう言って、ユナは笑った。


 シンは返す言葉を失った。


⸻


(ずるいな)


⸻


 火の光の中で笑うユナは、反則だった。


⸻


 ユナとコトが住居へ消える。


 シンはしばらく、その方向を見ていた。


⸻


 その時。


⸻


 甘い匂いがした。


⸻


 今度は、はっきりと。


⸻


 桃の匂い。


⸻


 シンは振り返った。


 集落の外。


 木々の影。


 白い衣。


 黒い髪。


 桃の飾り。


⸻


 モモが立っていた。


⸻


 今度は消えなかった。


⸻


 シンは、すぐには動けなかった。


 喉の奥が詰まる。


 心臓が、一拍だけ遅れてから、やけに強く打った。


⸻


 この時代に来てから、何度も見かけた。


 木の陰に。


 川の向こうに。


 火の届かない暗がりに。


⸻


 けれど、話せたことは一度もなかった。


 声をかけようとした瞬間、いつも消えた。


 だから、今も消えると思っていた。


⸻


 だが、モモは消えなかった。


⸻


 そこにいる。


 最後に見た時と、同じ顔で。


 同じ匂いで。


 同じ白で。


 同じように、こちらを見ている。


⸻


 なのに、時代だけが違う。


 森も違う。


 集落も違う。


 シンの隣にいる人たちも違う。


⸻


 何もかも違うのに、モモだけが、間違いのようにそこにいた。


⸻


「……本物か」


⸻


 やっと出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。


 モモの目が、わずかに動く。


⸻


「本体投影。実在接続」


「分かんねえよ」


「ここにいる」


⸻


 その答えだけは、分かった。


⸻


 シンは息を吸った。


 桃の匂いが胸の奥まで入ってくる。


⸻


 懐かしいと思ってしまった。


 怖いより先に。


 嫌だと思うより先に。


 懐かしいと思ってしまった自分に、少し腹が立った。


⸻


「……久しぶり、でいいのか」


⸻


 モモは少しだけ首を傾げた。


⸻


「凡そ、4240000時間ぶり」


⸻


 シンは止まった。


⸻


「わからねぇよ」


⸻


「約四百八十四年」


⸻


「急に重いな」


「換算」


「換算じゃなくて、言い方の問題だよ」


⸻


 笑おうとした。


 けれど、うまく笑えなかった。


⸻


 四百八十四年。


⸻


 シンにとっては、死んで、飛ばされて、目が覚めたらここだった。


 だが、言葉にされると、途方もない穴が口を開ける。


⸻


「その間、何してた」


⸻


 聞かずにはいられなかった。


⸻


 モモはすぐには答えなかった。


 白い衣が夜風に揺れる。


 だが、やはり風と少しずれている。


⸻


「ほぼ待機状態」


「待機?」


「記録は停止していた」


「記憶じゃなくて?」


「記録」


⸻


 モモは短く言った。


⸻


「必要な断片のみ保持。連続的な体験はない」


「寝てたみたいなものか」


「近似」


「夢は?」


「ない」


「寂しいとかは?」


「定義不能」


⸻


 その言葉で、シンは少しだけ黙った。


⸻


 四百八十四年。


 けれど、モモには連続した時間がない。


 記録は停止していた。


 必要な断片だけが残る。


⸻


 人間ではない。


 でも、ただの道具とも思えない。


 敵だと言い切るには、あまりにも声が近い。


 味方だと思うには、あまりにも刃の記憶が深い。


⸻


(本当に何なんだ、お前)


⸻


 シンは思った。


⸻


(いや)


⸻


 すぐに、別の問いが浮かぶ。


⸻


(俺も含めて、何者なんだ)


⸻


 分からない。


 自分がどこから来たのか。


 モモが何を抱えているのか。


 なぜ、二人だけが時代を越えて残っているのか。


⸻


 分からないことばかりだった。


⸻


「殺しに来たのか」


⸻


 言ってから、胸の奥が冷えた。


 聞きたくなかった。


 でも、聞かずにはいられなかった。


⸻


 モモは、すぐには答えなかった。


⸻


「現在、任務待機中」


「待機」


「そう」


「じゃあ、任務が来たら」


「実行する」


⸻


 短い答えだった。


 シンは、喉の奥で笑った。


⸻


「そこは嘘でも迷えよ」


「虚偽応答は非効率」


「効率の話じゃねえんだよ」


⸻


 モモは黙った。


 その沈黙が、前より少しだけ重かった。


⸻


「でも、今は殺さない」


「今は」


「そう」


⸻


「……そっか」


⸻


 安心していいのか、分からなかった。


 でも、少なくとも今この瞬間、モモの手に刃はない。


⸻


 シンは一歩だけ近づいた。


 足の裏に、夜の土の冷たさが伝わる。


 それだけで、ここが夢ではないと分かってしまう。


⸻


「何を待ってる」


「この時代の変化点」


「変化点」


⸻


 モモは火の方を見た。


⸻


「南から持ち込まれた栽培技術。定住強化。余剰生産。労働配分の固定化。共同体内の所有概念の発生、または拡張」


「四百八十四年ぶりの会話で、それか」


「重要」


「分かるけどさ」


⸻


 シンも火の方を見た。


 土の中に眠る種。


 それを見ようとするユナとコト。


 南へ若い手を出すかもしれない集落。


⸻


「農耕、ってことだよな」


「初期農耕、または栽培の導入段階」


「狩りとか採集だけじゃなくなる」


「そう。移動性が低下する。蓄積が増える。交換価値が変化する」


「腹は満たされるかもしれない」


「同時に、土地への依存が増える」


「土地を守る必要が出る」


「収穫物を管理する必要が出る」


「誰が働いて、誰が分けるかでも揉める」


「予測一致」


⸻


 シンは小さく息を吐いた。


⸻


「やっぱ怖いな」


「怖い?」


「便利なものって、怖い」


「便利は効率向上」


「効率が上がると、人が楽になる」


「そう」


「でも、楽になった分だけ、手放せなくなる」


⸻


 モモは黙った。


⸻


「依存」


「そう。それ」


⸻


 シンは頷いた。


⸻


「南が槍で来た時より、こっちの方が難しい。種は悪いやつじゃない。コトが腹減らなくなるなら、絶対いいことだ。でも、それを受け入れた瞬間、暮らしが変わる。変わった暮らしは、たぶん戻らない」


「不可逆性」


「そう。不可逆」


⸻


 自分で言いながら、シンは変な気分になった。


⸻


 四百八十四年ぶりに話すモモと、森の外れで農耕と定住について話している。


 火の向こうでは、ユナたちが土器を片づけている。


⸻


 あまりにも場違いで。


 あまりにも、戻ってきてしまったようだった。


⸻


「シンは、導入に反対か」


「分からない」


「賛成か」


「分からない」


「判断保留」


「うん。たぶん、それが一番近い」


⸻


「なぜ」


「コトを見たら、反対できない。ユナを見ても、反対できない。腹が減らない未来を欲しがるのは、当たり前だ」


「では賛成」


「でも、南の男が若い手を欲しがった」


「技術移転には労働者の移動が必要」


「それも分かる。でも、それって集落の人間が南の道に入るってことだろ。道が太くなる。戻れなくなるやつも出るかもしれない」


「文化的従属の初期段階」


「言い方が重いな」


「事実」


「だよな」


⸻


 シンは頭をかいた。


⸻


「分かるけど、分からないんだよ。俺、未来っぽい言葉は出てくる。でも、ここにいるコトの腹の音とか、ユナの手の温度とか、そういうのを前にすると、簡単に答えられない」


⸻


 モモの目が、わずかに動いた。


⸻


「ユナは、近い」


⸻


 シンは息を止めた。


⸻


「近い?」


「距離が近い」


「物理的に?」


「物理。視線。発声。接触」


「接触って、髪の寝癖直しただけだろ」


「接触」


「言い方」


⸻


 モモの目は平らだった。


 でも、声の奥に何かがあった。


 それが何なのか、シンにはまだ分からない。


⸻


「嫌なのか?」


⸻


 聞いてから、しまったと思った。


 だが、言葉はもう戻らない。


⸻


 モモは長く黙った。


⸻


「……定義不能」


⸻


 前にも聞いた言葉だった。


 だが、今の定義不能は、前よりずっと感情に近かった。


⸻


 シンは、少しだけ胸が痛くなった。


⸻


「そっか」


⸻


 それ以上、何を言えばいいか分からなかった。


⸻


 モモは、種を埋めた場所の方を見た。


⸻


「栽培の成功率は」


「分からない。この土地と気候でいけるかは不明。水も気温も違うし、たぶん品種も合ってるか分からない」


「失敗率は高い」


「だと思う。でも、試す価値はある」


「なぜ」


「失敗しても、知識が残る。どこが駄目だったか分かれば、次に変えられる」


「試行錯誤」


「そう。試行錯誤」


⸻


 モモは黙った。


⸻


「シンは、試行錯誤を肯定する」


「死に戻りで散々やらされたからな」


「……」


「冗談だよ」


「冗談」


「うん。たぶん半分くらい」


⸻


 モモはまた黙った。


 その沈黙が、少しだけ柔らかかった。


⸻


「モモ」


「何」


「一緒に見るか」


⸻


 モモの目が揺れた。


⸻


「何を」


「種。増えるかどうか。この時代がどう変わるか」


「任務にない」


「だろうな」


「必要性が不明」


「不明なら、見たら分かるかも」


⸻


 モモは黙った。


 長い沈黙だった。


⸻


「……りょ。」


⸻


 小さな声だった。


 あまりにも自然に、モモの口からこぼれた。


⸻


 命令でもない。


 報告でもない。


 対象確認でもない。


 この時代の言葉とも、少し違う。


⸻


 短くて、軽くて、妙に砕けた音。


⸻


 りょ。


⸻


 シンは一瞬、固まった。


⸻


「……今、何て?」


「りょ。」


「いや、それ」


「肯定応答」


「肯定応答にしては、だいぶ雑じゃない?」


「了解、の短縮表現と推定」


「推定なんだ」


「出力経路、不明」


⸻


 モモは自分でも少し不思議そうだった。


 いや、不思議そうに見えた。


 表情はほとんど変わらない。


 それでもシンには、そう見えた。


⸻


「今、考えて言ったのか?」


「不明」


「不明多いな」


「発話直前に選択された。理由は不明。ただし、効率は良い」


「効率で採用すんな」


「二音で承諾を伝達可能。優秀」


「そういう問題かよ」


⸻


 シンは笑いかけた。


 だが、笑いきれなかった。


⸻


 胸の奥が、変だった。


⸻


 その言葉を、初めて聞いた気がしない。


 どこかで、ずっと前に聞いた気がする。


 いや、聞いたのではない。


 言わせたことがあるような気がする。


⸻


 硬い言葉ばかり使う誰かに。


 もっと軽くていいんだよ、と笑いながら。


 冗談半分で、ふざけて。


 なのに、その誰かが真面目に受け取ってしまって。


⸻


 採用。


⸻


 そんな声が、記憶ではない場所で揺れた。


⸻


「シン」


⸻


 モモが呼ぶ。


⸻


「表情が不安定」


「いや、誰のせいだと」


「私?」


「たぶん」


「誤差」


「便利だな、それも」


⸻


 モモは少しだけ黙った。


⸻


「りょ。」


⸻


 二度目だった。


 今度は、さっきよりほんの少しだけ馴染んで聞こえた。


⸻


「……それ、口癖にする気か?」


「口癖」


「何回も言うやつ」


「効率が良い場合、使用頻度は上昇する」


「する気満々じゃん」


「りょ。」


「早速使うな」


⸻


 モモの目が、わずかに揺れた。


 笑ったわけではない。


 でも、笑っているような気がした。


⸻


 シンは、胸の奥にまた小さな火が灯るのを感じた。


⸻


 その言葉が何なのかは分からない。


 モモも、たぶん分かっていない。


 シンも、思い出せない。


⸻


 それでも。


⸻


 何かが残っている。


⸻


 刃でも。


 任務でも。


 死でもないものが。


⸻


「じゃあ」


⸻


 シンは言った。


⸻


「種、見に来いよ」


⸻


 モモは少し間を置いた。


⸻


「りょ。」


⸻


 三度目。


 今度は、完全にモモの言葉だった。


⸻


 次の瞬間、モモは一歩下がった。


 白い衣が木々の影に溶ける。


⸻


「また見る」


⸻


 それだけ言って、消えた。


⸻


 桃の匂いが少し残る。


⸻


 シンはしばらく、その場に立っていた。


⸻


 火の方では、種が土の中で眠っている。


 ユナが明日も見ると言った。


 コトも見る。


 タダも見る。


 モモも、たぶん見る。


⸻


 小さな未来は、土に入った。


⸻


 そして、その未来を見ようとする者が、少しずつ増えていた。


⸻


(第九話へ)

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