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南から来たもの

第七話 南から来たもの


⸻


 火の外に、包みが置かれていた。


⸻


 木の皮で巻かれ、細い紐で縛られている。


 大きくはない。


 手のひらより少し余るくらいの包みだ。


 だが、それを置いた瞬間、火のそばの空気が変わった。


⸻


 肉でもない。


 魚でもない。


 石刃でもない。


 骨の針でもない。


⸻


 それでも、皆が見た。


 年長の女も。


 ユナも。


 タダも。


 そして、シンも。


⸻


(何だ、あれ)


⸻


 南から来た三人は、火の外に膝をついている。


 先頭の男は痩せていた。


 ただ、弱そうではない。


 手首が硬い。


 指に細かい傷が多い。


 山を歩く者の足ではなく、道を歩く者の足をしていた。


⸻


 その後ろには、若い男と女がいる。


 二人とも籠を背負っていた。


 籠の編み目は、この集落のものより細かい。


 中には、磨かれた石、小さな貝、乾かした何かの根、色の違う土の塊が見える。


⸻


 交換するためのものだ。


⸻


 南から来た男は、両手を火へ向けて見せた。


 武器は持っていない、ということらしい。


 だが、男たちの腰には短い石刃がある。


 こちらの男たちも、それを見ている。


 見ていないふりをしながら、全員見ている。


⸻


(平和だけど、完全に平和ではない)


⸻


 シンは、少しだけ背筋を伸ばした。


⸻


 前の時代の南は、槍と石で来た。


 列を作り、距離を取り、手順で集落を壊しに来た。


⸻


 今、火の外にいる南は違う。


 座っている。


 話す。


 包みを置く。


⸻


 でも、怖さが消えたわけではない。


 むしろ、別の怖さがある。


⸻


 槍なら、刺される前に分かる。


 石なら、飛んでくるのが見える。


 だが、包みは分からない。


 中に何が入っているのか。


 それが何を変えるのか。


 開けるまで分からない。


⸻


 年長の女が火の前に座った。


 この集落で火の内に座れる者だ。


 シンがまだ座れない場所に、当然のように座る。


 彼女が口を開くまで、誰も喋らなかった。


⸻


「南の道は、濡れていたか」


⸻


 いきなり天気の話だった。


⸻


(そこから?)


⸻


 シンは少し驚いた。


 だが、南の男は真面目に頷く。


⸻


「二度、川が増えた。石が動いた。小さい子なら流れる」


「人は?」


「一人、足を切った。だが歩ける」


「獣は?」


「山に多い。鹿は奥へ入った。猪が下りている」


⸻


 年長の女は、短く頷いた。


⸻


 それだけで、何かを受け取ったようだった。


 道の状態。


 川の増水。


 獣の動き。


 南の様子。


⸻


 物を交換する前に、情報を交換している。


⸻


(ニュースだ)


⸻


 シンは思った。


 いや、ニュースというより、道そのものの声だ。


 誰かが歩いて、見て、戻ってきて、話す。


 それによって、ここにいながら遠くが少し分かる。


⸻


 ユナが、そっとシンの隣へ来た。


 火の外の、少し後ろ。


 他の者の邪魔にならない場所だ。


⸻


「近いと怒られない?」


⸻


 シンが小声で聞く。


⸻


「私はここの人だから」


「あ、身分差」


「みぶんさ?」


「いや、火の内側民」


「シンは火の外側人」


「響きが悲しい」


⸻


 ユナが口元を隠して笑った。


 小さな笑いだった。


 でも、目がちゃんと笑っている。


⸻


 シンは少しだけ見惚れた。


⸻


 ユナは、モモとは全然違う。


 肌に土の粉がついている。


 爪の間に草の色が残っている。


 髪は少し跳ねている。


 笑うと、頬にえくぼみたいな影ができる。


⸻


 完璧ではない。


 整いすぎてもいない。


 だから、近い。


⸻


(人間だな)


⸻


 そう思った。


 その感想が失礼なのかどうかは、分からない。


⸻


 ユナは、シンの顔を覗き込んだ。


⸻


「また変な顔」


「俺、そんな顔に出る?」


「出る」


「どんな顔?」


「川で魚を見つけた子供みたいな顔」


「だいぶ馬鹿っぽくない?」


「少し」


「少しなんだ」


⸻


 ユナはまた笑った。


⸻


 その笑い声に、シンの肩から少し力が抜けた。


 南から来た者。


 火の外の包み。


 木々の影で見ていたモモ。


 怖いものはいくつもある。


⸻


 だが、ユナが隣で笑うと、世界が少しだけ普通になる。


 普通の朝。


 普通の集落。


 普通に腹が減って、普通に人が笑う場所。


⸻


 壊したくない、と思った。


⸻


 南の男が、籠から磨かれた石を取り出した。


 青みのある石だった。


 この辺りの川石とは違う。


 光り方が少し硬い。


⸻


 集落の男たちの目が変わる。


 石刃に向いている目だ。


⸻


 次に、南の女が小さな貝を出した。


 穴が開けられている。


 首飾りにするものだろう。


 ユナの視線が、ほんの一瞬だけそれに吸い寄せられた。


⸻


 シンは見逃さなかった。


⸻


「欲しいの?」


⸻


 小声で聞く。


⸻


 ユナはびくっとした。


⸻


「欲しくない」


「今、見てた」


「見ただけ」


「欲しいんだ」


「欲しくない」


「耳、赤い」


⸻


 ユナは無言でシンの腕をつねった。


⸻


「痛っ」


「火の外側人は黙る」


「横暴!」


⸻


 声が少し大きかったらしく、近くの老人がこちらを見た。


 シンは慌てて口を閉じる。


 ユナも何食わぬ顔で前を向いた。


⸻


(この子、意外とやるな)


⸻


 腕が地味に痛い。


 でも、悪くない痛さだった。


⸻


 南の男は、いくつかの品を並べた。


 石。


 貝。


 乾いた根。


 赤い土。


 細く削った骨の針。


 そして最後に、あの包みへ手を伸ばした。


⸻


 火のそばの空気が、もう一度変わる。


⸻


 年長の女が目を細めた。


 タダも、魚を焼く手を止めていた。


⸻


(来る)


⸻


 シンは無意識に息を止めた。


⸻


 男が紐をほどく。


 木の皮がゆっくり開く。


⸻


 中に入っていたのは、小さな粒だった。


⸻


 いくつもある。


 丸いもの。


 細長いもの。


 淡い茶色のもの。


 黒っぽいもの。


 白く乾いたもの。


⸻


 種。


⸻


 そう思った瞬間、シンの腹の奥が妙に重くなった。


⸻


(種だ)


⸻


 ただの種。


 小さな粒。


 今すぐ食べても腹は膨れない。


 魚のように焼けもしない。


 肉のように分けられもしない。


 石刃のように獣を殺せもしない。


⸻


 だが、皆がそれを見ていた。


⸻


 火を見る時の目に少し似ていた。


 今ここにあるものではなく、これから何かになるものを見る目。


⸻


 南の男は、粒を指で示した。


⸻


「南の土で増えたものだ」


⸻


 年長の女が聞く。


⸻


「食えるのか」


「食える」


「少ない」


「今は少ない」


⸻


 男は、火の向こうの地面を指した。


⸻


「土へ入れる。雨を待つ。草になる。穂になる。そこから、また増える」


⸻


 言葉は短い。


 だが、火の周りにいた者たちは黙った。


⸻


 土に入れる。


 雨を待つ。


 増える。


⸻


 それは、この集落にもまったくない考えではない。


 木の実が落ち、芽が出ることは誰でも知っている。


 山の草が季節で戻ることも知っている。


 だが、それを人の手で寄せ、守り、待ち、増やすという話は、少し違った。


⸻


 獲るのではない。


 待って、育てる。


⸻


 年長の女は言った。


⸻


「山に行けば、実はある」


「山は遠い」


「川に行けば、魚はある」


「川は荒れる」


「鹿を追えば、肉はある」


「鹿は逃げる」


⸻


 南の男は、種を見た。


⸻


「これは、逃げない」


⸻


 その言葉に、シンは少しぞっとした。


⸻


 逃げない食べ物。


⸻


 それは便利だ。


 とても便利だ。


 だが同時に、逃げられない食べ物でもある。


 種を土に入れた場所へ、人が縛られる。


 守るために、そこへ戻らなければならない。


 待つために、そこにいなければならない。


⸻


(これ、すごいけど)


(怖いな)


⸻


 ユナは、種をじっと見ていた。


⸻


 貝の時とは違う。


 欲しい、という顔ではない。


 分からないものを、何とか分かろうとしている顔だ。


⸻


「シン」


⸻


 小声で呼ばれる。


⸻


「何」


「あれ、どう思う」


「種だと思う」


「それは分かる」


「分かるんだ」


「馬鹿にしてる?」


「してないです」


⸻


 また腕をつねられそうな気がして、シンは少し離れた。


 ユナが目で追ってくる。


 近づきすぎるとつねる。


 離れるとちょっと不満そうにする。


⸻


(難易度高いな)


⸻


 ユナは種を見たまま言った。


⸻


「土に入れて、増えるなら、すごい」


「うん」


「でも、土に入れたら、食べられない」


「うん」


「食べないで待つって、難しい」


「かなり難しい」


「誰が待つの」


⸻


 シンは答えられなかった。


⸻


 それは、かなり大事な問いだった。


⸻


 誰が待つのか。


 誰が世話をするのか。


 誰が見張るのか。


 誰が収穫するのか。


 誰が分けるのか。


⸻


 そして。


⸻


 誰のものになるのか。


⸻


 南の男は、さらに言った。


⸻


「南では、これを守る者がいる。草を抜く者がいる。鳥を追う者がいる。水を見る者がいる」


⸻


 年長の女が言う。


⸻


「それだけ人がいる」


「いる」


「山へ行く者が減る」


「減る」


「川へ行く者も減る」


「少し」


⸻


 火のそばにいた男の一人が、鼻で笑った。


⸻


「山へ行かぬ男は、足が腐る」


⸻


 南の若い男が顔を上げた。


 少し険しい目をした。


 だが先頭の男が手で制した。


⸻


「足は腐らぬ。だが、手は土を覚える」


⸻


 静かな言葉だった。


⸻


 争いにはならない。


 でも、火の近くに小さな火花が散ったような空気があった。


⸻


(価値観の衝突だ)


⸻


 言葉が浮かぶ。


 これもまた、見えない戦いなのかもしれない。


 槍ではなく。


 石ではなく。


 何をよい暮らしとするか。


 それを巡る戦い。


⸻


 年長の女はシンを見た。


⸻


 突然だった。


⸻


「外の子」


「はい?」


「お前は、これを知っている顔だ」


⸻


 火のそばの視線が、シンに集まった。


⸻


(やば)


⸻


 シンは固まった。


 知っている。


 たぶん、知っている。


 種を植えれば芽が出る。


 芽が育てば実になる。


 水がいる。


 日がいる。


 土がいる。


 雑草を抜く。


 鳥や獣から守る。


 収穫する。


 乾かす。


 保存する。


⸻


 言葉は浮かぶ。


 でも、自分がなぜ知っているのかは分からない。


⸻


「知ってるの?」


⸻


 ユナが小声で聞いた。


⸻


 シンは困った。


⸻


「知ってるような、知らないような」


「そればっかり」


「俺も困ってる」


⸻


 年長の女は、じっと見ている。


 南の男も見ている。


 タダも、魚を焼きながらこちらを見ている。


⸻


(タダ、助けて)


⸻


 目で訴える。


⸻


 タダは魚を返した。


⸻


 助ける気はなさそうだった。


⸻


(ですよね)


⸻


 シンは息を吐いた。


⸻


「たぶん、土に入れるだけじゃ駄目です」


⸻


 言った瞬間、南の男の目が変わった。


⸻


「雨がいる。水がいる。でも、多すぎても駄目だと思う。鳥とか獣にも食われる。周りの草も抜いた方がいい。あと、全部食べたら次がないから、少し残す」


⸻


 言いながら、自分の口が勝手に動いているような感覚があった。


⸻


 なぜ知っている。


 どこで覚えた。


 分からない。


⸻


 でも、出てくる。


⸻


「あと、植える場所を決めたら、そこをしばらく見る人が必要になる。忘れたら終わり。誰も見なかったら、たぶん駄目になる」


⸻


 ユナが目を丸くしていた。


⸻


「シン、すごい」


⸻


 まっすぐ言われた。


⸻


 胸が変なふうに跳ねる。


⸻


「いや、すごいかどうかは」


「すごい」


「そんなキラキラした目で見ないで」


「きらきら?」


「今、目がすごい」


⸻


 ユナは少し照れたように目を伏せた。


⸻


「外の人なのに」


「そこは余計」


「変なのに」


「そこも余計」


「でも、すごい」


⸻


 言い直されると、何も言えなかった。


⸻


(これは良くない)


⸻


 シンは思った。


 何が良くないのかは分からない。


 でも、ユナに褒められると調子に乗りそうになる。


 かなり危険だ。


⸻


 南の男が、ゆっくり口を開いた。


⸻


「外の子は、南の土を知るのか」


「いや、南は……そんなに好きじゃないというか」


⸻


 前の時代の南が頭をよぎる。


 槍。


 石。


 火。


 死。


⸻


「でも、種のことは少し分かる」


「誰に聞いた」


「分からない」


「分からない?」


「分からないことが多いんです、俺」


⸻


 沈黙。


⸻


 南の男はしばらくシンを見ていたが、やがて小さく笑った。


⸻


「道に迷った者は、時々、遠くのことを知る」


⸻


 シンには意味が分からなかった。


 だが、その言い方は悪くなかった。


⸻


 ユナが小声で言う。


⸻


「よかったね」


「何が」


「少し怪しくなくなった」


「少しだけ?」


「少し」


⸻


 ユナは指で少しの幅を示した。


 本当に少しだった。


⸻


「評価が渋い」


「まだ火の外だから」


⸻


 年長の女は、種を見つめていた。


⸻


 火が爆ぜる。


 小さな粒が、火の光を受けてかすかに光る。


⸻


「何と替える」


⸻


 女が言った。


⸻


 南の男は、待っていたように顔を上げた。


⸻


「干した魚。よく磨いた石刃。あと、若い手を少し」


⸻


 空気が止まった。


⸻


(若い手)


⸻


 シンは、その言葉の意味をすぐには掴めなかった。


⸻


 ユナの顔が、少し硬くなる。


 タダの手も止まる。


 年長の女の目が細くなる。


⸻


「手とは」


「見に来る者。土を覚える者。南の畑を見る。戻って、ここで同じことをする」


「どれくらい」


「ひと季節」


「長い」


「種は、すぐ分からぬ」


⸻


 南の男の声は静かだった。


 だが、その静けさが余計に重い。


⸻


 種だけではない。


 知識だけでもない。


 人が必要だ。


 若い人間が南へ行き、南のやり方を見て、覚えて、戻る。


⸻


 それは便利な交換に見える。


 だが、同時に、人の流れが生まれる。


 道が太くなる。


 戻る者もいれば、戻らない者も出るかもしれない。


⸻


(これ、入口だ)


⸻


 シンは思った。


⸻


 何の入口かは、まだはっきり分からない。


 だが、ただの交換ではない。


⸻


 火の外に置かれた小さな種が、人を動かそうとしている。


⸻


 年長の女は何も答えなかった。


⸻


「今は、食べよ」


⸻


 それだけ言った。


⸻


 決定を先へ送った。


 火の前で即答するには、重すぎる話だった。


⸻


 南の男も頷いた。


⸻


「火の外でよい」


⸻


 ユナが立ち上がる。


 南から来た者たちへ水と食べ物を運ぶ。


⸻


 シンも手伝おうとした。


 するとユナが器を渡してきた。


⸻


「こぼさないでね」


「さっきから俺への信頼低くない?」


「水、こぼした」


「あれは器の重心が」


「こぼした」


「はい」


⸻


 シンは慎重に器を運んだ。


 南の若い女へ渡す。


 彼女は短く礼を言った。


⸻


 近くで見ると、南の者たちも疲れていた。


 足は泥だらけで、手は荒れている。


 遠くから来たのだ。


 彼らもまた、腹を減らし、寒さを感じ、火のそばで息をつく人間だった。


⸻


(敵じゃない)


⸻


 少なくとも、今は。


⸻


 でも、だからこそ難しい。


⸻


 敵なら追い返せばいい。


 殺しに来るなら守ればいい。


 だが、食べ物を増やす種を持ってくる人間を、どう扱えばいい。


⸻


 火のそばに戻る途中、ユナが隣に並んだ。


⸻


「シン」


「ん?」


「さっきの話、本当?」


「種の?」


「うん」


「たぶん」


「たぶんは嫌」


「俺も嫌」


⸻


 ユナは少し困った顔をした。


⸻


「でも、本当なら、すごいね」


「そうだな」


「子供が、お腹いっぱいになるかもしれない」


「うん」


「冬に、穴の中が空っぽにならないかもしれない」


「うん」


「山で怪我をする人が減るかもしれない」


「うん」


⸻


 ユナの声は、少し明るかった。


 未来を見ている声だった。


⸻


 シンは、その明るさを否定できなかった。


 否定したくもなかった。


⸻


 腹が減らないのは、いいことだ。


 子供が食べられるのは、いいことだ。


 冬を越せるのは、いいことだ。


⸻


 それは間違いない。


⸻


 でも。


⸻


「その代わり、誰かが見張ることになる」


⸻


 シンは言った。


⸻


 ユナがこちらを見る。


⸻


「誰かが土を見て、草を抜いて、鳥を追って、南へ行って、戻ってきて、分け方を決めることになる」


「うん」


「それで揉めるかもしれない」


「揉めるのは、今もあるよ」


「そうだけど」


「シンは、怖がりだね」


⸻


 言われて、シンは少し驚いた。


⸻


「俺、怖がりに見える?」


「見える」


「マジか」


「まじ?」


「本当に、って意味」


「本当に見える」


⸻


 ユナは少し笑った。


⸻


「でも、怖がる人は悪くないよ」


「そうなの?」


「危ないところを見るから」


⸻


 シンは黙った。


⸻


 ユナは、火の方を見ながら言った。


⸻


「私は、すぐ嬉しくなる」


「それはいいことでは」


「たぶん。でも、嬉しいものを見ると、危ないところを忘れる」


⸻


 ユナは種を見た。


⸻


「あれ、嬉しい」


⸻


 素直な声だった。


⸻


「でも、少し怖い」


⸻


 それも素直な声だった。


⸻


 シンはその横顔を見た。


 火の光が、ユナの頬に当たっている。


 土の粉がついたままの頬。


 少し赤くなった耳。


 真剣な目。


⸻


(可愛いな)


⸻


 思った。


 今度は、ちゃんと思った。


⸻


 そして、思った瞬間に、どこかで甘い匂いがした気がした。


⸻


 振り返る。


⸻


 木々の影。


 白い姿は見えない。


⸻


 でも、いた気がする。


⸻


 モモが。


⸻


 見ている。


⸻


 シンがユナを見るところを。


 ユナがシンの隣に立つところを。


⸻


(……気のせいか?)


⸻


 分からない。


 でも、背中が少し冷えた。


⸻


「シン?」


⸻


 ユナが首を傾げる。


⸻


「何でもない」


「また怖い顔」


「バリエーションが増えてきたな、俺の顔」


「何言ってるかわからない」


⸻


 ユナが笑った。


 シンも笑った。


⸻


 火の外では、南の者たちが食べている。


 火の内では、年長の女が種を見ている。


 タダは黙って魚を焼いている。


 子供たちは、南の貝を見たくてそわそわしている。


⸻


 新しいものが来た。


⸻


 まだ誰も、それを受け入れるとは言っていない。


 拒むとも言っていない。


⸻


 ただ、火のそばに置かれている。


 見られている。


 考えられている。


⸻


 それだけで、もう何かが変わり始めている気がした。


⸻


 夜。


⸻


 シンは火の外に座り、南から来た包みを見ていた。


 種は、もう木の皮に包み直されている。


 だが、中身を知ってしまった後では、ただの包みには見えなかった。


⸻


 小さな未来が包まれている。


⸻


 いい未来か。


 悪い未来か。


 それは分からない。


⸻


 たぶん、両方だ。


⸻


 火が爆ぜた。


⸻


 その音に混じって、どこか遠くで草が揺れた。


⸻


 桃の匂いはしなかった。


⸻


 だが、シンはなぜか思った。


⸻


 モモは見ている。


⸻


 この種を。


 ユナを。


 シンを。


⸻


 そして、この時代がどこへ行くのかを。


⸻


(第八話へ)

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