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別の朝

第五話 別の朝


⸻


 息が入った。


⸻


「っ……は、は……」


⸻


 肺が、空気を思い出す。


 体がびくりと跳ねる。


 胸が上下する。


 喉が鳴る。


⸻


 生きている。


⸻


 まず、そう思った。


 次に、首に手をやった。


 ある。


 傷もない。


 血もない。


⸻


 指先が震えていた。


 死んだ時の感覚は、まだ消えていない。


 刃が届く直前の白い光。


 桃の香り。


 雨と金属の匂い。


 モモの指が、ほんの一瞬だけ袖を掴んだ感覚。


⸻


 殺すためではなく。


 離れたくないみたいに。


⸻


(モモ)


⸻


 名前を思い出す。


 それだけで、胸の奥に小さな火が残っている気がした。


⸻


 シンは、ゆっくり目を開けた。


⸻


 空。


 葉。


 白い光。


⸻


 そこまでは同じだった。


⸻


 でも、違った。


⸻


 最初に気づいたのは、匂いだった。


 土の匂いが違う。


 湿っているが、前の森ほど重くない。


 腐葉土の奥に、草の青い匂いが混じっている。


 水の匂いも近い。


 それから、煙。


⸻


 煙がある。


 火の匂い。


 人の匂い。


⸻


 でも、前の時代の煙とは違う。


 焦げた獣脂の荒い匂いだけではない。


 乾いた草。


 煮えた木の実。


 土器の中で何かが温まっている匂い。


 煙そのものも細く、どこか穏やかだった。


⸻


(……違う)


⸻


 シンは起き上がった。


 体は重い。


 だが、最初の時ほどではない。


 足の使い方も分かる。


 自分の名前も分かる。


⸻


 シン。


⸻


 タダが呼んでくれた名前。


 モモが呼んだ名前。


 何度死んでも残った名前。


⸻


(俺は、シン)


⸻


 声には出さなかった。


 出さなくても、もう分かっていた。


⸻


 周囲を見回す。


⸻


 森だった。


 けれど、前の森とは違う。


 木が少し太い。


 枝の広がり方が違う。


 地面には落ち葉が重なっているが、人が歩いた跡がいくつもある。


 獣道ではない。


 これは、人の道だ。


⸻


 何度も踏まれた土。


 低い草が擦り切れている。


 ところどころに、木の皮を剥いだ跡がある。


 小枝が脇に寄せられている。


⸻


 人が、この森を使っている。


⸻


 ただ通るだけではない。


 採り、削り、運び、戻る。


 そんな動きが、地面に残っていた。


⸻


(時代が、違う)


⸻


 なぜそう思ったのかは分からない。


 でも、分かった。


 同じ場所ではない。


 同じ朝でもない。


 同じ死に戻りではない。


⸻


 八度目の死は、死では終わらなかった。


 世界が切り替わった。


 それを体が知っている。


⸻


(じゃあ、ここはどこだ)


⸻


 答えは出ない。


 だが、煙がある。


 人がいる。


 前と同じように。


⸻


 前と同じなら、そこへ行くことになる。


⸻


 シンは立ち上がった。


 草の露が足元を濡らす。


 朝の空気は冷たいが、刺すような寒さではない。


 風は柔らかい。


 遠くで水が流れている。


 川がある。


 たぶん、前より近い。


⸻


 歩き出す。


⸻


 一歩目で、体が少し揺れた。


 だが倒れない。


 息を整え、道らしい跡を辿る。


⸻


 しばらく歩くと、森の中に小さな印が見えた。


 枝を曲げて、別の枝に挟んである。


 自然にそうなったものではない。


 誰かが置いた目印だ。


⸻


(道しるべ?)


⸻


 そう思った瞬間、別の言葉が浮かぶ。


 道。


 境。


 行き来。


⸻


 まだ意味はない。


 だが、その言葉は妙に胸の奥に残った。


⸻


 さらに進む。


 地面に、丸いくぼみがあった。


 小さく、浅い。


 雨水が溜まっている。


 隣にもある。


 少し離れた場所にもある。


⸻


 柱の跡かもしれない。


 昔の何かの跡かもしれない。


 その近くに、割れた土器の欠片が落ちていた。


⸻


 拾う。


⸻


 指先にざらりとした感触。


 厚い。


 外側に、縄を押しつけたような模様はない。


 いや、少しある。


 だが前に見たものより、表面がなめらかだ。


 形も薄い。


⸻


(器が、変わってる)


⸻


 そんなことまで分かるのが、自分でも不思議だった。


 何も知らないはずなのに。


 でも、前の火のそばで見た土器とは違う。


 これは、少しだけ先のものだ。


 少しだけ、火と土の扱いがうまくなっている。


⸻


 シンは欠片を元の場所へ戻した。


⸻


 土の中にあったものを、勝手に持っていく気にはならなかった。


 老婆が見たら怒りそうだ、と思った。


⸻


(老婆)


⸻


 胸が少し痛んだ。


 あの老婆はどうなったのか。


 タダは。


 火は。


⸻


 火は残った。


 最後に見た。


 灰の奥で小さく赤く、消えずに残っていた。


⸻


 それが本当に何かを変えたのかは分からない。


 でも、残った。


⸻


 なら、それでいい。


 今は、そう思うしかなかった。


⸻


 森が開けた。


⸻


 目の前に、集落があった。


⸻


 シンは、思わず立ち止まった。


⸻


 前の集落とは違う。


⸻


 まず、家が違った。


 低く地面に沈むものだけではない。


 少し高い柱を持つ建物がある。


 屋根は急で、草が厚く葺かれている。


 地面を掘り下げた住居もあるが、入口の作りがしっかりしていた。


 煙を逃がす場所も見える。


⸻


 家と家の間には、踏み固められた道がある。


 中央には火の場があるが、その周りに物が雑然と置かれていない。


 皮を干す場所。


 木の実を広げる場所。


 石を削る場所。


 土器を置く場所。


 それぞれが、何となく分かれている。


⸻


(整理されてる)


⸻


 それが第一印象だった。


⸻


 前の集落は、火の周りに人と道具と恐怖が寄り集まっていた。


 ここは違う。


 もちろん豊かとは言えない。


 寒そうな服を着た者もいる。


 手の荒れた女もいる。


 痩せた子供もいる。


⸻


 だが、空気に少し余白がある。


 今にも南が来る、と全員が息を殺しているわけではない。


 子供が走っている。


 犬のような獣が一匹、火のそばで寝ている。


 女たちが話しながら木の実を割っている。


 男たちは遠くを警戒しながらも、何かを直している。


⸻


 笑い声もあった。


⸻


 小さい。


 でも、ある。


⸻


(平和……なのか?)


⸻


 そう思った瞬間、少しだけ怖くなった。


 平和に見えるものほど、壊れる時が怖い。


 それをシンはもう知っている。


⸻


 一歩踏み出した。


⸻


 近くにいた子供が、こちらに気づいた。


 目が合う。


 子供は叫ばなかった。


 ただ、不思議そうに見た。


 それから近くの女の袖を引いた。


⸻


 女が顔を上げる。


 こちらを見る。


 少し目を細める。


 警戒はある。


 だが、槍を持った男が一斉に立ち上がるような空気ではなかった。


⸻


(刺されない?)


⸻


 いや、油断はできない。


 前の経験上、人類は初対面で槍を向けてくることがある。


 かなりある。


⸻


 シンは両手を軽く上げた。


⸻


「えーと、怪しい者ではあります」


⸻


 言ってから、自分で首を傾げた。


⸻


(怪しい者ではあります、は駄目だろ)


⸻


 だが、女は目を瞬いた。


 言葉は通じたようだった。


 前の時代と少し音が違う。


 だが、意味は通る。


 耳に入った言葉が、頭の中で形を変える感覚は同じだ。


⸻


「外の人?」


⸻


 女が言った。


⸻


 若い。


 だが、子供ではない。


 肩までの髪を紐で結び、腰に編んだ袋を下げている。


 腕には土の粉がついていた。


 土器を触っていたのかもしれない。


⸻


「たぶん」


「たぶん?」


「俺もよく分かってなくて」


⸻


 女は困った顔をした。


 その顔が、前の集落の人々より柔らかい。


 この人は、いきなり殺すかどうかを考えていない。


 まず、どう扱うかを考えている。


⸻


 それだけで時代が進んだ気がした。


⸻


「名は?」


⸻


 聞かれた。


⸻


 シンは、息を吸った。


⸻


「シン」


⸻


 今度は迷わない。


 名前はある。


 何度死んでも残った。


⸻


 女は頷いた。


⸻


「シン。私はユナ」


⸻


 ユナ。


⸻


 その名前は、川の音みたいだった。


 短く、柔らかい。


⸻


「ユナ」


「そう」


⸻


 ユナは後ろを振り返った。


⸻


「外の人が来た」


⸻


 声をかけると、何人かが近づいてきた。


 槍を持つ男もいる。


 だが、槍先はこちらへ向いていない。


 腰に立てている。


 いつでも使えるが、まだ敵ではない。


⸻


 集落の奥から、年長の女が出てきた。


 前の時代の老婆ほど年老いてはいない。


 だが、目は鋭い。


 首には小さな石と獣の歯を通した飾りをかけている。


 腰には束ねた草の輪。


⸻


 その女はシンを見た。


 服。


 手。


 顔。


 足。


⸻


 やはり、見るところは同じだった。


⸻


「武器は」


「ないです」


「荷は」


「ないです」


「火は」


「……持ってないです」


⸻


 女は眉を動かした。


⸻


「火も持たずに歩いていたのか」


「はい」


「変な子だ」


⸻


(言われ慣れてきた)


⸻


 女はユナを見た。


⸻


「火の外へ」


⸻


 まただ。


⸻


 シンは少し笑いそうになった。


⸻


 火の外。


 どの時代でも、外から来た者はまずそこに置かれるらしい。


⸻


 ユナに案内され、中央の火の近くへ行く。


 だが、火の中心ではない。


 輪の外側。


 熱は届く。


 会話も聞こえる。


 でも、まだ内側ではない。


⸻


 そこに座る。


⸻


 火の匂いがした。


⸻


 懐かしい、と思った。


 まだこの時代では初めての火なのに。


⸻


 火のそばには土器がいくつか並んでいた。


 中で何かが煮えている。


 木の実と草の根か。


 少し魚の匂いもする。


 別の土器には、細かく砕いた実のようなものが入っている。


 前の時代の焼いただけの肉とは違う。


 煮る。


 混ぜる。


 分ける。


⸻


 食べ物に、手順が増えている。


⸻


 ユナが小さな器を持ってきた。


 木をくり抜いたものだ。


 中には、どろりとした食べ物が入っている。


⸻


「食べる?」


「食べます!」


⸻


 即答だった。


⸻


 ユナが少し笑った。


⸻


「早いね」


「腹が減っているので」


「外の人は、みんなそう言う」


「外、飯ないんで」


⸻


 シンは器を受け取った。


 熱い。


 息を吹きかける。


 口へ運ぶ。


⸻


 やわらかい。


 木の実の粉か、何かの根か。


 少し渋い。


 だが、煮てあるせいで食べやすい。


 魚の脂が少し混ざっていて、腹に落ちる味がした。


⸻


(うまい)


⸻


 派手な味ではない。


 塩気も薄い。


 でも、前の時代の肉とは違ううまさがある。


 ただ命をつなぐための食事ではなく、少しだけ人を落ち着かせる食事だった。


⸻


「うまい」


⸻


 正直に言った。


⸻


 ユナは嬉しそうにした。


⸻


「それ、朝の残り」


「残りでこれ?」


「昨日の木の実を煮直したの。魚の骨も入ってる」


「骨」


「味が出るって、古い人が言ってた」


⸻


(出汁!)


⸻


 シンは器を見つめた。


 言葉だけで感動した。


 何で感動したのか、自分でも分からない。


 だが、骨から味が出るという概念に胸が震えた。


⸻


(文明だ……)


⸻


 たぶん、この言い方はだいぶ失礼だ。


 でも思ってしまった。


⸻


 周囲を見ていると、食べ物が順に分けられているのが分かった。


 まず小さい子供。


 それから年寄り。


 怪我をした者。


 妊娠しているらしい女。


 その後に働き盛りの男や女。


⸻


 前の集落でも分け合ってはいた。


 だが、ここでは順番がある。


 誰に先に渡すか、皆が分かっている。


 揉めない。


 いや、少しは揉める。


 子供がもっと欲しがって叱られている。


 男が大きな魚の身を取ろうとして、女に手を叩かれている。


⸻


 でも、全体として流れがある。


⸻


(社会だ)


⸻


 また変な言葉が浮かぶ。


 社会。


 共同体。


 制度。


⸻


 知っている。


 でも思い出せない。


⸻


 火の向こうで、子供たちが何かを転がして遊んでいる。


 小さな丸い石。


 それを指で弾き、線の中へ入れている。


 近くでは男が木の柄に石刃をはめている。


 女は植物の繊維を撚って紐にしている。


 別の者は、乾いた草を束ねている。


⸻


 みんな、何かをしている。


 ただ生き延びるためだけではない。


 明日のためのことをしている。


⸻


 そこが前と違った。


⸻


 前の時代には、今日を越すための火があった。


 ここには、明日へ渡すための手がある。


⸻


 シンは器の中身を食べ終えた。


⸻


「あの」


⸻


 ユナが言った。


⸻


「シンは、どこから来たの」


⸻


 来た。


 当然の質問。


⸻


 答えられない質問。


⸻


「分からない」


「分からないこと多いね」


「俺もそう思う」


「家は」


「分からない」


「一族は」


「分からない」


「火は」


「持ってない」


「道は」


「……道?」


⸻


 ユナは、少しだけ不思議そうにした。


⸻


「どの道で来たの」


「あっちの森から」


「それは道じゃない」


「え」


「道は、誰かが知っているところ。森は、ただの森」


⸻


 シンは黙った。


⸻


 何気ない言葉だった。


 だが、妙に引っかかる。


⸻


 道は、誰かが知っているところ。


⸻


 ただ地面が踏まれているだけでは道ではない。


 誰かが行き、誰かが戻り、誰かが覚えているから道になる。


⸻


 その考え方が、少し怖くて、少し綺麗だった。


⸻


「じゃあ俺、道じゃないところから来たのか」


「そうなるね」


「だから怪しいのか」


「うん」


⸻


 ユナはあっさり頷いた。


⸻


「でも、腹減ってる人は、とりあえず食べさせる」


「ありがたい文化」


「ぶんか?」


「……ありがたい決まり」


「決まりじゃないよ」


「違うの?」


「火のそばに来た人を、すぐ追い返すと、火が怒る」


⸻


 シンは火を見た。


 前の時代の老婆が聞いたら、頷きそうな言葉だった。


⸻


 時代は変わっても、火はまだ火だった。


⸻


 ただ、前と違うのは。


⸻


 ここでは火が、恐怖だけでなく、人を迎える理由にもなっている。


⸻


 それから、シンはしばらく集落の端に座っていた。


⸻


 誰も完全には信用していない。


 だが、追い出しもしない。


 ユナが時々、何かを持ってくる。


 水。


 木の実。


 空の器。


 それを返す場所。


⸻


 仕事もすぐに渡された。


⸻


 小さな木の枝を運ぶ。


 干してある魚を裏返す。


 子供が倒した器を拾う。


 石を並べる。


⸻


 前の時代のように、無言で試される感じではない。


 だが、見られている。


 この外の者は何ができるのか。


 役に立つのか。


 危ないのか。


 嘘をつくのか。


⸻


 皆が、さりげなく見ている。


⸻


(こっちの方が、ある意味怖いな)


⸻


 槍を向けられる方が分かりやすい。


 共同体に測られる方が、じわじわ来る。


⸻


 夕方近く。


⸻


 集落の外から、人が戻ってきた。


 数人の男と女。


 肩に荷を背負っている。


 木の実。


 草の束。


 小さな獣。


 魚。


⸻


 その中に、ひときわ大きな男がいた。


⸻


 シンは、息を止めた。


⸻


 大きい。


 背が高い。


 肩が厚い。


 腕が太い。


 立っているだけで、周りの空気が少し狭くなる。


⸻


 顔も、声も、歩き方も。


 眉の動かし方も。


 妙に黙るところも。


 人を見る時の、少しだけ面倒くさそうな目も。


⸻


 同じだった。


⸻


 前の時代のタダと。


 何一つ違わないように見えた。


⸻


(……え)


⸻


 シンは固まった。


⸻


(いやいやいやいや)


(同じ?)


(まんま?)


(いや、そんなことある?)


⸻


 男は荷を下ろし、火の方へ歩いてくる。


 途中でシンに気づいた。


 目が合う。


⸻


 男は少しだけ首を傾げた。


⸻


「外の者か」


⸻


 声まで同じだった。


⸻


(同じじゃん)


⸻


 シンは口を開けたまま、何も言えなかった。


 何か壮大な理由を考えそうになった。


 転生。


 再出現。


 同一存在。


 魂。


 情報。


 時代をまたぐ何か。


⸻


 いくつかの言葉が頭の中で跳ねる。


 だが、どれもぴったり来ない。


⸻


 というか、考えても分かる気がしない。


⸻


(まあ……タダだしな)


⸻


 シンは考えるのを少しだけ諦めた。


 タダなら、ありそうな気もした。


 何がありそうなのかは分からないが、タダならまあ、ある。


⸻


「たぶん」


⸻


 シンは答えた。


⸻


 タダは頷いた。


⸻


「変だな」


「第一声それ?」


「顔」


「顔で分かるんですか」


「面倒な顔だ」


⸻


(そこまで同じかよ)


⸻


 シンは、思わず笑った。


 少し泣きそうにもなった。


 でも、結局笑った。


⸻


「あなたの名前は」


⸻


 聞く必要はない気がした。


 でも、聞かなければならない気もした。


⸻


 男はあっさり答えた。


⸻


「タダ」


⸻


 その瞬間、世界が少しだけ戻った気がした。


⸻


 火。


 肉。


 名前。


 大きな背中。


⸻


 消えていない。


 時間が変わっても。


 時代が変わっても。


 どこかで、まだ続いている。


⸻


 シンは、息を吐いた。


⸻


「俺は、シン」


⸻


 タダは頷いた。


⸻


「シン」


⸻


 名前を呼ばれた。


⸻


 また。


⸻


 それだけで、少しだけ息が楽になった。


⸻


 ユナが二人を見比べている。


⸻


「知り合い?」


「初対面です」


⸻


 シンは言った。


⸻


 それから少し考えて、首を傾げた。


⸻


「……たぶん」


「たぶん?」


「俺にもよく分かんない」


⸻


 タダはシンを見た。


⸻


「やはり変だな」


「それはもう、そういうことで」


⸻


 シンは笑った。


 今度はちゃんと笑えた。


⸻


 その夜、シンは火の外に座ったまま、集落の音を聞いていた。


⸻


 土器の中で食べ物が煮える音。


 子供の小さな笑い声。


 犬の息。


 川の音。


 誰かが草を編む音。


 タダが魚を焼く音。


⸻


 前の時代より、音が多い。


 そして、どこか穏やかだ。


⸻


 けれど、穏やかだからこそ、シンは怖かった。


⸻


 南は来るのか。


 モモは来るのか。


 この時代でも死ぬのか。


 何をすれば変えられるのか。


⸻


 火を見る。


⸻


 その向こうで、タダが魚を焼いている。


 ユナが器を並べている。


 子供たちが火に近づきすぎて叱られている。


⸻


 その光景を見て、シンは思った。


⸻


(壊したくないな)


⸻


 その瞬間。


⸻


 甘い匂いがした。


⸻


 桃の匂い。


⸻


 シンの体が固まる。


 喉が鳴る。


 手が震える。


⸻


 火の向こう。


 集落の端。


 木々の影の中。


⸻


 誰かが立っていた。


⸻


 白い。


 薄い。


 黒い髪。


 桃の飾り。


⸻


 モモ。


⸻


 目が合った。


⸻


 モモは何も言わなかった。


 刃も出していない。


 ただ、こちらを見ていた。


⸻


 前と同じ顔。


 でも、どこか違う。


⸻


 シンは立ち上がりかけた。


 だが、モモは一歩下がった。


⸻


 木の影が揺れる。


 次の瞬間には、もういなかった。


⸻


 桃の匂いだけが、ほんの少し残っている。


⸻


「シン?」


⸻


 ユナが声をかけた。


⸻


「どうしたの」


⸻


 シンはしばらく、木々の影を見ていた。


⸻


 モモは殺さなかった。


 ただ見ていた。


⸻


 それが何を意味するのかは分からない。


 でも、あの八度目の最後から、何かが続いている。


⸻


「……いや」


⸻


 シンは座り直した。


⸻


「何でもない」


⸻


 嘘だった。


⸻


 何でもなくない。


 この朝は、前とは違う。


 この集落も、前とは違う。


 タダもいる。


 ユナもいる。


 火もある。


 そして、モモもいる。


⸻


 別の朝だった。


⸻


 同じように始まりながら、何もかもが違う朝だった。


⸻


 火の中で、枝が小さく爆ぜた。


⸻


 その音を聞きながら、シンは思った。


⸻


(今度は、何を変えるんだ)


⸻


 答えは、まだ出なかった。


⸻


(第六話へ)

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