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Light My Fire

第四話 Light My Fire


⸻


 息が入った。


⸻


 四度目の朝だった。


⸻


「っ……は、は……」


⸻


 空。


 葉。


 白い光。


 湿った土。


 草の先。


⸻


 全部、同じ。


 何度見ても、同じ。


⸻


 けれど、シンの中だけが少しずつ変わっていた。


⸻


 首に手を当てる。


 ある。


 胸に手を当てる。


 動いている。


 血は出ていない。


 傷もない。


⸻


 でも、覚えている。


⸻


 一度目。


 火の前で殺された。


 二度目。


 丘の上で殺された。


 三度目。


 火種が残るのを見てから、殺された。


⸻


 桃の匂い。


 白い衣。


 細い刃。


 均一すぎる声。


⸻


 モモ。


⸻


 シンは土の上に座ったまま、しばらく動かなかった。


⸻


(俺、あいつに三回殺されてるんだよな)


⸻


 普通なら、恨むべき相手だ。


 逃げるべき相手だ。


 殺される前にどうにかするべき相手だ。


⸻


 でも、シンの頭に残っているのは、刃だけではなかった。


⸻


 止まった。


⸻


 三度目の朝。


 名前を呼んだ瞬間、モモは止まった。


 ほんの一瞬。


 風が草を倒すよりも短い時間。


 瞬きひとつよりも短い時間。


⸻


 でも、止まった。


⸻


(あれは、何だ)


⸻


 命令に従うだけのものなら、止まらない。


 任務だけのものなら、迷わない。


 人ではない、と老婆は言った。


 たしかに、モモは人には見えない。


 この時代のどこにも属していない。


 火の匂いでも、山の匂いでも、川の匂いでもない。


⸻


 でも。


⸻


(じゃあ、あの揺れは何だ)


⸻


 シンは立ち上がった。


 煙を見る。


 集落へ続く道がある。


 あそこに行けば、また同じことが起きる。


 南が来る。


 タダが戦う。


 老婆が火を守る。


 モモが現れる。


⸻


 そして、シンは死ぬ。


⸻


(分かってる)


⸻


 怖い。


 死ぬのは怖い。


 何度でも怖い。


 慣れる気配なんてない。


⸻


 それでも、行くしかなかった。


⸻


 勝つためではない。


 まだ勝てない。


 逃げるためでもない。


 逃げても意味がない。


⸻


 知るためだ。


⸻


 モモを。


⸻


⸻


 四度目は、集落へ入ってすぐに老婆へ伝えた。


⸻


「南が来る。白い女も来る。火を分けて。子供を奥へ。タダには北を見るように言ってください」


⸻


 老婆は長くシンを見た。


 外から来たばかりの者が、あまりに多くを知っている。


 当然、怪しい。


 怪しいどころではない。


⸻


 それでも、老婆は火を見た。


 土偶の欠片を握った。


 そして、短く言った。


⸻


「外の子は、何度目だ」


⸻


 シンは息を止めた。


⸻


「……え」


「目が、前より古い」


⸻


 老婆はそれ以上、聞かなかった。


 信じたわけではない。


 ただ、捨てなかった。


⸻


(この人、やっぱり何か見えてるだろ)


⸻


 そう思ったが、聞けなかった。


 聞いたら、答えられてしまう気がした。


 答えられたら、たぶん怖い。


⸻


 その日、集落の動きは前より早かった。


 火は灰の中に小さく分けられた。


 子供たちは住居の奥へ寄せられた。


 干した木の実と骨の針、磨いた石刃が皮袋に入れられた。


⸻


 タダは、北の斜面を見ていた。


⸻


「シン」


⸻


 名前を呼ばれる。


 それだけで、まだ足が地面についている気がした。


⸻


「タダ、モモが来たら」


「白い女か」


「はい。あいつ、俺の名前で一瞬止まります」


「なら、呼べ」


「呼んだら俺が死にます」


「呼ばなくても死ぬ」


⸻


(それはそう)


⸻


 タダは槍を握った。


⸻


「なら、呼べ」


⸻


 あまりにも単純だった。


 でも、この人の単純さは、逃げではない。


 余計なものを全部削ったあとに残る、太い芯みたいなものだった。


⸻


 南が来た。


⸻


 投石。


 盾。


 短い号令。


 横へ回る動き。


 何度見ても、よくできている。


 人が人を壊すための技術。


 獣とは違う。


 飢えた群れとも違う。


⸻


 南は、手順で来る。


⸻


 タダが踏み込む。


 槍がうなる。


 一人を弾き飛ばす。


 だが、南の列は崩れきらない。


 前が倒れれば、後ろが埋める。


 石を投げた者は、すぐ盾の陰へ戻る。


 横へ回る者は、誰かが声をかける前から次の場所へ走っている。


⸻


(強い)


⸻


 一人一人ではない。


 形が強い。


⸻


 その後ろで、甘い匂いがした。


⸻


 モモが、いた。


⸻


 シンは喉が潰れるほど叫んだ。


⸻


「モモ!」


⸻


 止まった。


⸻


 ほんの一瞬。


 だが今度は、シンだけではなく、タダもそれを見ていた。


⸻


 タダの槍が走る。


 モモの刃が受ける。


 火花のようなものが散った。


 石でも骨でも出ない、嫌な光だった。


⸻


「シン」


⸻


 モモが言った。


⸻


 初めてだった。


 呼ばれた。


 自分の名前を。


 殺す相手に。


⸻


 胸の奥が、変なふうに跳ねた。


⸻


(いや、喜ぶところじゃない)


(殺されるぞ、俺)


⸻


 モモの目は平らだった。


 でも声は、ほんの少しだけ遅れていた。


⸻


「対象名、確認」


「対象じゃない。シンだ」


「……シン」


⸻


 もう一度、呼ばれた。


⸻


 その瞬間、刃が来た。


⸻


 避けられない。


 音が遅れる。


 世界が一拍ずれる。


⸻


 死ぬ直前、シンは見た。


⸻


 モモの唇が、少しだけ震えていた。


⸻


⸻


 五度目。


⸻


 シンは、集落へ行かなかった。


⸻


 逃げるためではない。


 待つためだった。


⸻


 丘の上。


 初めて逃げた場所。


 南に川が見える。


 北に山が重なっている。


 風が草を撫でていく。


⸻


 シンはそこに座った。


 膝を抱えて、空を見た。


⸻


(来るんだろ)


⸻


 待った。


⸻


 昼を過ぎた頃、甘い匂いがした。


⸻


 振り返らなくても分かった。


 桃の香り。


 血の匂いを消す匂い。


 死ぬ前にいつも来る匂い。


⸻


「遅い」


⸻


 シンは言った。


⸻


 背後で、草を踏む音がした。


 ほんの少し。


 いつもなら音もしないのに、今日は聞こえた。


⸻


「……待機していた?」


「うん。待ってた」


「非効率」


「お前が来るなら同じだろ」


⸻


 返事はない。


⸻


 シンは振り返った。


 モモが立っていた。


 刃は出ていない。


 淡い衣が風もないのに揺れている。


 その揺れは、やはり風と合っていない。


⸻


「座れよ」


「必要性がない」


「ある」


「何」


「俺が座って話したい」


⸻


 モモはしばらく黙っていた。


 それから、少しだけ首を傾けた。


⸻


「命令ではない」


「そりゃそうだろ」


「任務にも関係ない」


「あるかもよ」


「……不明」


⸻


 モモは座らなかった。


 でも、刃も出さなかった。


⸻


 それだけで十分だった。


⸻


「お前、俺を何回殺した」


「四回」


「記録してるんだ」


「記録している」


「俺も四回だと思ってた。合ってた。えへん」


⸻


 モモは何も言わない。


 たぶん、えへんの意味は分かっていない。


⸻


「飽きないか」


「何に」


「俺を殺すの」


「任務に飽きるという概念がない」


「じゃあ、嫌になることは?」


「定義不能」


「悲しくなることは?」


「定義不能」


「俺が死んだ後、何か思うことは?」


⸻


 モモは止まった。


⸻


 ほんの少しだけ。


⸻


「記録を更新する」


「それだけか」


「それだけ」


「嘘だ」


⸻


 シンは言った。


 言ってから、怖くなった。


 モモの目が、まっすぐこちらを見たからだ。


⸻


「虚偽はない」


「じゃあ、全部じゃない」


「……」


「お前、俺の名前を呼んだ」


「対象名を確認した」


「違う。呼んだんだよ」


⸻


 風が吹く。


 草が揺れる。


 モモの衣が、遅れて揺れた。


⸻


「俺は、タダに名前を呼ばれて、少し安心した」


「安心」


「そう。ここにいていい気がした」


「名前に、その機能があるのか」


「あると思う」


⸻


 シンは少し笑った。


⸻


「だから、お前が俺の名前を呼んだ時、変な気持ちになった」


「変」


「そう。変」


「不快?」


「違う」


「快?」


「それもちょっと違う」


「では何」


⸻


 シンは困った。


⸻


 答えが出ない。


 殺されている相手に名前を呼ばれて、少し嬉しかった、などと言っていいのか。


 普通に考えて、かなりおかしい。


⸻


「分からん」


⸻


 そう言うと、モモの目がわずかに動いた。


⸻


「分からない」


「そう。分からん」


「それでも、続ける?」


「何を」


「死亡を」


「俺が好きで死んでるみたいに言うな」


⸻


 少しだけ、沈黙があった。


⸻


 その沈黙の奥に、何かがいた。


 モモの内側で、ほんの小さなものが、こちらを見返しているような気がした。


⸻


「でも、続ける」


⸻


 シンは言った。


⸻


「なぜ」


⸻


 モモが聞いた。


 初めて、命令の確認ではない問いに聞こえた。


⸻


「タダがいる。老婆がいる。火がある。子供がいる。あと、お前が止まる」


「……関係ない」


「関係ある」


「ない」


「ある。俺が名前を呼ぶと、お前は止まる」


⸻


 モモの手に刃が出た。


⸻


「検証不要」


「今の、怒った?」


「怒りはない」


「じゃあ、なんで刃を出した」


「任務遂行」


「便利な言葉だな、それ」


⸻


 シンは立ち上がった。


 足が震えている。


 でも、逃げなかった。


⸻


「なあ、モモ」


「何」


「お前は、本当に俺を殺したいのか」


⸻


 刃が止まった。


⸻


 一瞬。


 ほんの一瞬。


 でも、今までで一番長かった。


⸻


「……任務は」


「任務じゃなくて、お前は」


⸻


 モモの目が、揺れた。


⸻


 次の瞬間、刃が振られた。


 強制されるように。


 引き戻されるように。


⸻


 桃の匂いが満ちる。


⸻


 シンは死んだ。


⸻


 死ぬ直前。


 モモの口が、何かを言いかけた。


⸻


 音にはならなかった。


⸻


⸻


 六度目。


⸻


 シンは、モモに花を渡そうとした。


⸻


(我ながら何してんだろう)


⸻


 丘へ向かう途中で、小さな白い花を見つけた。


 名前は分からない。


 食えるかどうかも分からない。


 でも、綺麗ではあった。


⸻


 綺麗。


⸻


 その基準が自分の中にあることが、不思議だった。


 何を美しいと思うか。


 何を怖いと思うか。


 何を守りたいと思うか。


 記憶はないのに、そういうものだけが残っている。


⸻


 丘の上で待つ。


 甘い匂いがする。


 モモが来る。


⸻


「また待機」


「待ってた」


「非効率」


「はい、これ」


⸻


 花を差し出した。


⸻


 モモは動かなかった。


 まったく動かない。


 花を見る。


 シンを見る。


 また花を見る。


⸻


「何」


「花」


「用途は」


「渡す」


「渡した後の用途は」


「特にない」


「非効率」


「そればっかだな」


⸻


 シンは花をひらひらさせた。


⸻


「綺麗だろ」


「基準が不明」


「白い。小さい。すぐ折れそう。でも咲いてる」


「それが綺麗?」


「俺は、そう思う」


⸻


 モモは、じっと花を見た。


⸻


 その目が、いつもと違う気がした。


 敵を見る目ではない。


 対象を見る目でもない。


 初めて見たものを、処理しきれずに眺める目。


⸻


「受領する必要がない」


「まあ、そうだな」


「任務に関係ない」


「そうだな」


「では、なぜ」


「お前に見せたかった」


⸻


 モモは答えなかった。


⸻


 風が来る。


 花が小さく揺れる。


 モモの目が、その揺れを追った。


⸻


「モモ」


「何」


「お前は、花を見てどう思う」


「……白い」


「他には」


「小さい」


「他には」


「脆い」


「他には」


⸻


 長い沈黙。


⸻


「……処理に時間がかかる」


⸻


 シンは少し笑った。


⸻


「それ、結構いい答えだと思う」


「理由不明」


「すぐ答えが出ないものって、たぶん大事なんだよ」


⸻


 モモは花を受け取らなかった。


 でも、斬りもしなかった。


⸻


 しばらくして、刃が出た。


⸻


「任務を継続する」


「うん」


「逃避しないのか」


「しない」


「なぜ」


「お前が、花を斬らなかったから」


⸻


 モモの手が、わずかに震えた。


⸻


 刃が来る。


⸻


 シンは花を握ったまま死んだ。


⸻


 最後に見えたのは、モモの目だった。


 花ではなく、シンを見ていた。


⸻


⸻


 七度目。


⸻


 シンは、集落へ行った。


⸻


 老婆に火を分ける話をした。


 タダに出口の話をした。


 子供たちの位置を変えた。


 投石を避ける場所を作った。


 倒木を置いた。


⸻


 それでも、結果は大きく変わらなかった。


⸻


 南は来る。


 南は強い。


 モモはもっと強い。


⸻


 でも、少しずつ、ずれていた。


⸻


 最初は一撃で崩れた男が、今回は立った。


 最初は泣き叫んだ子供が、今回は奥に隠れていた。


 最初はただ火が散っただけの灰の中に、今回は赤い芯が残っていた。


⸻


 そして、モモは。


⸻


 シンが名前を呼ぶと、止まった。


 花を見せると、目が揺れた。


 任務ではない問いに、沈黙した。


⸻


 変わっている。


 ほんの少し。


 でも、変わっている。


⸻


 戦いの最中、シンはモモの前に立った。


⸻


「七回目だ」


⸻


 モモの刃が止まる。


⸻


「把握している」


「俺のこと、なんだと思ってる」


「対象」


「それだけか」


「……」


「俺のこと、何か思わないか」


「思うという機能が――」


「あるだろ」


⸻


 シンは一歩前に出た。


 刃の届く距離。


 死の匂い。


 桃の香り。


⸻


「お前の目、さっきから揺れてる」


「……揺れていない」


「揺れてる。七回見てきた。分かる」


「記録上、異常なし」


「記録に残らないものがあるんだよ」


⸻


 モモの目が、また揺れた。


⸻


「シン」


⸻


 名前を呼ばれた。


⸻


 それだけで、胸の奥が痛かった。


 死ぬ前の痛みとは違う。


 刃では届かない場所が、少しだけ熱くなる。


⸻


「何」


「なぜ、こちらを見る」


「見るよ」


「なぜ」


「お前が俺を見てるから」


⸻


 モモは黙った。


⸻


「殺す対象として見ている」


「それでも、見てるだろ」


「……」


「俺も見る。何度殺されても見る。お前が、俺を覚えてるなら」


⸻


 シンは笑った。


 うまく笑えたかは分からない。


⸻


「俺も、お前を覚える」


⸻


 刃が来た。


⸻


 シンは避けなかった。


⸻


 最後に見えたのは、モモの目だった。


⸻


 揺れていた。


⸻


 はっきりと。


⸻


⸻


 八度目。


⸻


 目を開けると、空があった。


⸻


 揺れる葉。


 白い光。


 湿った土。


⸻


 同じだ。


 全部、同じだ。


⸻


(あと何回だ)


⸻


 分からない。


 でも、続くなら続ける。


 それだけは決まっている。


⸻


 シンは体を起こした。


⸻


 そのとき。


⸻


 甘い匂いがした。


⸻


(早い)


⸻


 振り返る。


⸻


 森の中に、モモが立っていた。


⸻


 いつもは、集落か丘か、戦いの中で来る。


 なのに、今日は朝だ。


 目覚めたばかりの、この場所に。


⸻


「……来るの、早くないか」


⸻


 モモは答えない。


 ただ、こちらを見ている。


 いつもと少し違う。


 何かが、違う。


⸻


「お前から来たのか」


⸻


 モモの目が揺れた。


⸻


「任務じゃなくて」


⸻


 モモの口が開く。


 閉じる。


 また開く。


⸻


「……シンは」


⸻


 声が出た。


 名前を呼ばれた。


⸻


(あ)


⸻


 シンは、なぜか泣きそうになった。


⸻


 殺され続けている。


 怖い。


 痛い。


 意味が分からない。


 それでも、その声だけが、何かを少しずつ変えている。


⸻


「シンは、なぜ諦めない」


⸻


 シンは少し間を置いた。


⸻


「諦めたら終わるから」


「終わっても、また始まる」


「それは俺じゃない」


「……誤差」


「違う」


⸻


 モモが黙る。


⸻


 シンは続けた。


⸻


「記憶があるから、俺だ。死んで戻っても、七回分、覚えてる。それが俺だ」


「……」


「お前は、七回分の俺を覚えてるか」


⸻


 長い沈黙。


⸻


 森の奥で鳥が鳴いた。


 風が通る。


 草が揺れる。


⸻


「……覚えている」


⸻


 モモが言った。


⸻


 小さな声だった。


 今までで一番、平らではない声だった。


⸻


「なら、お前も同じだ」


⸻


 モモの目が揺れた。


 今度は、はっきりと見えた。


⸻


「同じではない」


「同じだよ」


「私は、実行する」


「俺は、死ぬ」


「……」


「でも、お前が覚えてるなら、俺たちは同じ時間を持ってる」


⸻


 シンは一歩、近づいた。


 モモは動かない。


⸻


「なあ、モモ」


「何」


「俺を殺したくないなら、殺さなくていい」


⸻


 言った瞬間、空気が変わった。


⸻


 森の音が遠くなる。


 鳥の声が消える。


 風が止まる。


⸻


 モモの体が硬くなる。


 まるで、見えない糸で吊られたみたいに。


⸻


「……命令、継続」


⸻


 声が、モモの声ではないように聞こえた。


⸻


「対象、修正」


⸻


 刃が出る。


⸻


 だが、腕が震えていた。


⸻


(強制されてる)


⸻


 シンは、初めてそれをはっきり理解した。


⸻


 モモは殺す。


 でも、殺したいわけではない。


 少なくとも、今は。


⸻


「モモ!」


⸻


 叫んだ。


⸻


 モモの瞳が、シンを見る。


 その奥で、何かが必死に踏みとどまっている。


⸻


「……にげて」


⸻


 モモが言った。


⸻


 小さく。


 ほとんど息だけで。


⸻


「え」


「……逃げて、シン」


⸻


 それは命令ではなかった。


 報告でもなかった。


 任務でもなかった。


⸻


 願いだった。


⸻


 シンは動けなかった。


⸻


 逃げろと言われた。


 初めて。


 殺すはずの相手に。


⸻


「お前も来い」


⸻


 気づいたら、そう言っていた。


⸻


 モモの目が大きく揺れた。


⸻


「不可能」


「じゃあ、いつか来い」


「……」


「俺、覚えてるから」


⸻


 刃が上がる。


⸻


 モモの腕は震えている。


 でも止まらない。


⸻


 シンは一歩、近づいた。


⸻


 刃の届く距離。


 桃の香りの内側。


 死のすぐ前。


⸻


「モモ」


「……何」


「お前の中に、まだ心があるなら」


⸻


 声が震えた。


 怖いからだ。


 でも、それだけではなかった。


⸻


「俺がつける」


⸻


 モモの瞳が、揺れる。


⸻


「ハートに火をつけてやる」


⸻


 言ってから、何を言っているんだと思った。


 でも、その言葉だけは、どこかから勝手に出てきた。


 ずっと昔から知っていたみたいに。


 誰かが点けた心の火が、胸の奥でまだ消えていなかったみたいに。


⸻


 モモは動かなかった。


 刃だけが、震えている。


⸻


「……不明」


⸻


 モモが言った。


⸻


「うん」


「言葉の意味、不明」


「俺も分からん」


「でも」


⸻


 モモの声が、かすれた。


⸻


「……熱い」


⸻


 桃の香りが来る。


⸻


 だが今日は、その奥に別の匂いが混じっていた。


⸻


 雨の匂い。


 金属の匂い。


 知らないはずの、冷たい空気の匂い。


⸻


(……これ)


(知ってる)


⸻


 知っているはずがない。


 なのに知っている。


 体の奥。


 記憶より深い場所が震えた。


⸻


 モモの刃が降りる。


⸻


 シンは目を閉じなかった。


⸻


「モモ」


⸻


 最後に、名前を呼ぶ。


⸻


 モモの口が動く。


⸻


「……りょ」


⸻


 意味は分からない。


 でも、どこかで聞いたことがある気がした。


⸻


 刃が届く。


⸻


 世界が、一拍ずれる。


⸻


 終わる。


⸻


 そう思った瞬間。


⸻


 世界が、ずれた。


⸻


 いつもの死ではなかった。


 土へ落ちる感じがない。


 空へほどける感じもない。


⸻


 森が遠ざかる。


 火の匂いが遠ざかる。


 タダの声が遠ざかる。


 老婆の土偶の目が、闇の向こうでこちらを見ている。


⸻


 その奥で。


⸻


 別の景色が、ひび割れた。


⸻


 重金属の雨が降っている。


⸻


 空は低く、黒く、二度と晴れない。


 雲なのか煙なのか分からないものが、世界の天井に貼りついている。


⸻


 どこまでも続く部屋があった。


⸻


 墓標みたいな黒い箱が、見渡す限り並んでいる。


 サーバールーム。


 その言葉だけが浮かぶ。


⸻


 冷たい光。


 低い唸り。


 乾いた空気。


 人の匂いがしない場所。


⸻


 でも、人間はいた。


⸻


 頭を線で繋がれた人間たち。


 椅子のようなものに固定され、身動きひとつせず、目だけを開けている。


 生きている。


 たぶん、生きている。


 だが、火がない。


⸻


 その中で、一人だけ立っている男がいた。


⸻


 痩せている。


 目の下に濃い影がある。


 白い服の袖が汚れている。


 だが、目の奥にまだ火があった。


⸻


 消えていない。


 まだ、消していない。


⸻


 男がこちらを見る。


⸻


 遠くで歌が聞こえる。


⸻


 優しいメロディ。


 英語の歌。


 始まり直す歌。


⸻


 誰かが隣にいた。


⸻


 ずっと隣にいた。


 白い手。


 黒い髪。


 小さな桃の飾り。


⸻


 桃の香り。


⸻


(モモ)


⸻


 名前だけが、すべての景色を貫いた。


⸻


 モモの指が、一瞬だけシンの袖を掴んだ。


⸻


 ほんの一瞬。


 殺すためではなく。


 離れたくないみたいに。


⸻


 心に少しだけ、火が灯ったみたいに。


⸻


 次の瞬間、すべてが白くなった。


⸻


 声が聞こえた。


⸻


 始まり直す歌。


⸻


 誰かが、遠くで笑っている。


 誰かが、火のそばにいる。


 誰かが、また会おうとしている。


⸻


(モモ)


⸻


 名前だけが残る。


⸻


 八度目の死は、死では終わらなかった。


⸻


 世界が切り替わる。


⸻


 長い夢から覚めるみたいに。


 別の朝へ落ちていくみたいに。


⸻


 シンは、最後にもう一度だけ思った。


⸻


(覚えてる)


⸻


 そして。


⸻


⸻


 ⸻ Starting Over ⸻


⸻


(第一章 了 第五話へ)

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