火の民
第三話 火の民
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息が入った。
三度目の朝だった。
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「っ……は、は……」
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空。
葉。
白い光。
湿った土。
草の先。
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全部、同じだ。
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(また、ここ)
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もう驚かなかった。
いや、驚いてはいる。
怖いし、気持ち悪いし、できれば今すぐ誰かに説明してほしい。
でも、腹の底ではもう分かっていた。
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死ぬと、戻る。
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少なくとも、今はそうなっている。
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シンは体を起こした。
頭の重さにも少し慣れてきた。
足元のふらつきも知っている。
この森の匂いも、煙の見える位置も、鳥の声の高さも。
全部、少しずつ知っているものになっていた。
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(嫌な慣れだな)
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首に手を当てる。
ある。
傷もない。
血もない。
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それでも、刃が通った感覚は残っている。
最初の死。
集落の火の前。
桃の匂い。
次の死。
丘の上。
逃げても意味ない、と言った女。
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モモ。
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名前を思い出しただけで、背中の奥が冷たくなった。
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(逃げても来る)
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それは、もう分かった。
集落に行かなければ助かる、という考えは消えた。
森を越えても、丘に出ても、あの女は来る。
追跡している、と言っていた。
任務だ、とも。
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(じゃあ、逃げるだけじゃ駄目だ)
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シンは煙を見た。
森の向こう。
低く、細く、しかし確かに上がっている。
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あそこに老婆がいる。
タダがいる。
火がある。
⸻
あの人たちは、まだ何も知らない。
いや、南が来ることは知っている。
だから武器を作り、子供を静かにさせ、火を守っていた。
だが、モモを知らない。
あの刃を知らない。
あの速さを知らない。
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(俺は知ってる)
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だから何ができる。
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分からない。
でも、知っているのに何もしないのは、たぶん違う。
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「……行くか」
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声に出すと、少しだけ足が動いた。
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森を抜けた。
今度は迷わない。
煙へ向かう道も、根の張り方も、踏みやすい土も、少しだけ覚えている。
最初より早く、集落の縁に着いた。
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火の周りに、人がいた。
皮をまとった男。
木の実を選る女。
石を削る老人。
灰のそばの老婆。
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まだ何も起きていない。
まだ誰も死んでいない。
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その事実に、胸が詰まった。
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(まだ、間に合う)
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一歩踏み出す。
近くにいた男が顔を上げた。
目が合う。
男が叫ぶ。
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(ここも同じ)
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槍を持った男たちが立ち上がる。
半円を作る。
距離を詰める。
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シンは、今度は迷わず両手を上げた。
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「武器はない。腹は減ってる。あと、たぶん変なやつです」
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言葉の全部が通じたかは分からない。
だが、何人かの眉が動いた。
危険な者というより、妙な者を見る目になる。
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人の輪が割れた。
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老婆が出てくる。
白い髪。
曲がっていない背。
首から下がる、土の欠片。
目のような形。
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老婆はシンを見た。
頭から足元まで。
服。
手。
顔。
足。
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そして、前と同じ言葉を言った。
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「……外から来たな」
「はい」
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今度は、そう答えた。
老婆の目がわずかに細くなる。
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「一人か」
「はい」
「名は」
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シンは息を吸った。
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「シン」
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言えた。
ちゃんと言えた。
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老婆はしばらく黙っていた。
名を聞いた、というより、名が本当にあるかを確かめている目だった。
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「……火の外に座れ」
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同じ場所を指された。
輪の外。
火の熱は届くが、中心ではない場所。
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(火の外、か)
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前はただの距離だと思った。
受け入れられていないから、外側なのだと。
でも今は少し違って見える。
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火の中と、火の外。
集落の内と、外。
人と、まだ人かどうか分からないもの。
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境目がある。
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この人たちは、それを知っている。
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焼いた肉を渡された。
薄く、硬い。
塩気はない。
ただ火で炙っただけの肉。
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それでも、うまかった。
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(相変わらずうまい)
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かぶりつく。
歯に繊維が引っかかる。
脂は少なく、焦げたところだけが香ばしい。
塩も、醤油も、胡椒もない。
そもそも、醤油がいつからあるのかも分からない。
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(いや、さすがに今はないだろ)
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たぶん。
たぶん、ない。
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(俺の歴史知識、信用ならなすぎる)
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口の中で肉を噛みながら、シンは火の周りを見た。
前より、見えるものが増えている。
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住居は低い。
地面を少し掘り下げ、柱を立て、枝を組み、その上に草や皮を伏せている。
屋根の端は煙で黒い。
入口は狭く、外から覗いても中は暗い。
ただの穴みたいに見えるのに、中には人の匂いがあった。
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煙。
獣皮。
土。
乾いた草。
古い汗。
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(家、なんだよな)
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窓はない。
床もない。
明かりもない。
スマホのライトも、蛍光灯も、コンセントもない。
思い出せる単語だけが、やたら未来のものみたいに浮いている。
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それでも、これは家だと分かった。
外の森と内側を分けるもの。
眠る場所。
子供を隠す場所。
火の近くに戻ってくるための場所。
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火の近くには、厚い土器が置かれていた。
手で持つと重そうな、ずんぐりした器。
表面には縄を押しつけたような跡がある。
割れた場所を、細い植物の繊維で縛って補修したものもあった。
完全に割れた破片は、端の方にまとめて置かれている。
ただのゴミには見えない。
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(縄目……土器)
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言葉だけが浮かぶ。
縄文土器。
縄文時代。
弥生時代。
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(どっちだ、これ)
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縄文と弥生の違いくらい、知っている気がしていた。
米がどうとか。
金属器がどうとか。
竪穴住居がどうとか。
土器の形がどうとか。
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ただ、目の前に置かれると途端に怪しい。
教科書の写真なら、下に説明がついている。
展示ケースなら、横に札がある。
ここにはない。
札もない。
年表もない。
誰も「今は紀元前何年です」なんて親切に言ってくれない。
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(昔すぎると、逆に全部一緒に見えるな)
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ひどい感想だと思った。
でも本音だった。
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同じ「大昔」でも、そこには昨日と今日があり、古い道具と新しい道具があり、うまいやり方と下手なやり方がある。
教科書の一行にされる何百年かを、この人たちは普通に朝から晩まで生きている。
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(時代って、こっちの都合で区切ってるだけなんだろうな)
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そう思った。
思ってから、自分に少し驚いた。
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(今の、ちょっと賢そうだったな)
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すぐに腹が鳴った。
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(台無しだな)
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老人が削っているのは、石の刃だった。
膝の上に石を置き、別の石で叩く。
乾いた音がする。
割れた欠片が飛ぶ。
老人はまぶたも動かさず、指先で欠け方を確かめる。
石はただ割ればいいわけではないらしい。
割れたい方向と、割らせたい方向がある。
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(石にも機嫌があるみたいだ)
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別の場所では、女が鹿の角らしきものを削っている。
細く尖らせて、針のようにしている。
魚を引っかける道具にも見えた。
削った粉が膝に落ち、女はそれを息で吹いた。
指先は割れている。
爪の間は黒い。
それでも手つきは速い。
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木の器は少ない。
葉や皮を折っただけの皿のようなものが多い。
肉は手で持つ。
木の実は石の上で割る。
砕いたものは、広い石の皿に溜める。
水は土器に入れられているが、持ち上げるたびに重そうだった。
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服もそうだ。
男たちは獣の皮を肩にかけ、腰を紐で縛っている。
女たちは粗い布のようなものを巻き、上から皮を重ねている。
子供はほとんど裸に近い。
寒そうに見えるのに、誰も寒いとは言わない。
寒ければ火へ寄る。
濡れれば乾かす。
破れれば縛る。
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(服っていうより、外皮だな)
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シンは自分の格好を見下ろした。
同じような皮。
同じような紐。
この場所に馴染む衣。
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誰が着せたのか。
なぜ着ているのか。
やはり分からない。
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分からないまま、馴染んでいる。
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それが一番、気持ち悪かった。
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(暮らしが、ある)
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ただ原始的なのではない。
知らないだけで、ちゃんと技術がある。
火を扱い、石を削り、角を磨き、草を編み、土を焼く。
その一つ一つが、手と匂いと音でできている。
ボタンを押せばつく火ではない。
蛇口をひねれば出る水ではない。
袋を開ければ食べられる飯ではない。
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全部、誰かの手が先に動いている。
誰かが拾い、割り、削り、運び、焼いている。
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(でも、余裕はない)
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皆、南を見ている。
笑い声はほとんどない。
子供の声も小さい。
食事は楽しみではなく、体を動かすためのものだ。
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火の前に、老婆が戻ってきた。
首から下がる土の欠片を、指先で触っている。
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シンは思い切って聞いた。
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「それ、何ですか」
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老婆の視線が刺さる。
周囲の数人もこちらを見た。
聞いてはいけないことを聞いたのかもしれない。
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(やべ)
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だが老婆は怒らなかった。
少し間を置いて、土の欠片を持ち上げた。
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「目だ」
「目」
「見るものではない」
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老婆は、火の向こうを見た。
南の森。
その奥。
まだ来ていないもの。
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「見返すものだ」
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意味は分からなかった。
でも、軽い言葉ではないことは分かった。
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「誰を、ですか」
「来るもの」
「南?」
「南も。南でないものも」
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シンの喉が鳴った。
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(南でないもの)
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桃の匂い。
白い衣。
均一すぎる刃。
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「白い女が来ます」
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シンは言った。
言ってから、集落の空気が変わったことに気づいた。
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老婆の目が動かない。
男たちの手が止まる。
石を打つ音が消える。
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「南の者とは別です。すごく速い。刃を持ってる。石じゃない、骨でもない。あの、変な刃で、人を斬る」
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言葉が足りない。
伝わっているか分からない。
でも、止められなかった。
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「桃みたいな匂いがする」
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老婆の眉が、ほんの少し動いた。
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「桃」
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その言葉が、この時代の音として合っているのかは分からなかった。
そもそも桃があるのかも分からない。
ただ、シンの頭にはそれしかなかった。
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「モモ、って名乗った」
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老婆は黙った。
長い沈黙だった。
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やがて、老婆は火の中へ細い枝を一本入れた。
枝の先が焦げ、赤くなる。
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「火の中に入るものは、火の匂いになる」
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低い声だった。
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「山に入るものは、山の匂いになる。川に入るものは、水の匂いになる」
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老婆は、赤くなった枝を灰の上へ置いた。
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「その女は、どこの匂いでもないのだな」
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シンは息を飲んだ。
⸻
「……はい」
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老婆は土の目を握った。
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「なら、人ではない」
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誰も笑わなかった。
誰も否定しなかった。
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この人たちは、人でないものを笑わない。
そんなものはいないと、簡単には言わない。
森にも、川にも、火にも、骨にも、見えないものが宿ると知っている。
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だから、シンの言葉は完全には信じられなくても、完全には捨てられなかった。
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ただ、シンは老婆を見ながら、別の寒さも感じていた。
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(この人、なんでそんなに分かるんだ)
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モモを見たことがあるのか。
それとも、似たものを知っているのか。
まさか、俺が死んで戻っていることまで見えているのか。
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そんなはずはない。
ない、と思いたい。
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けれど老婆の目は、シンの言葉より奥を見ている気がした。
火の外に座るシンの、そのさらに外側。
森でも、南でも、今この場でもないものを。
⸻
「俺のことも、人じゃないと思いますか」
⸻
気づくと、聞いていた。
⸻
老婆はすぐには答えなかった。
土の欠片を親指で撫でる。
火が、老婆の皺の中で揺れる。
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「お前は、匂いが薄い」
「薄い?」
「火にも、山にも、川にも、まだ染まっていない」
⸻
シンは思わず自分の腕を嗅いだ。
煙と土と汗の匂いしかしない。
⸻
「いや、けっこう臭いと思いますけど」
⸻
老婆は笑わなかった。
「体の匂いではない」
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(分からん)
⸻
分からない。
でも、分からないことを言われているのに、なぜか無視できなかった。
⸻
シンは、火を見た。
⸻
火は、ただ燃えているだけではなかった。
肉を焼く。
体を温める。
獣を遠ざける。
闇を押し返す。
人の輪の中心にある。
⸻
火の内側に座る者は、この集落の人間だ。
火の外に座るシンは、まだ外のものだ。
⸻
(火って、境界なんだ)
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宗教、という言葉が浮かぶ。
でも、それは少し違う気がした。
この人たちにとって、これは信じるか信じないかではない。
暮らしの手順だ。
⸻
火を絶やさない。
食べたものを戻す。
骨を捨てない。
見えないものを、見えないまま扱う。
⸻
そうしなければ、世界のどこかが詰まる。
そんな感覚で生きている。
⸻
老婆はシンを火の裏側へ連れていった。
⸻
集落の中央から少し外れたところに、浅い穴がある。
穴の縁には、黒く焼けた小石が並べられていた。
その中に、小さな骨が置かれている。
⸻
鹿の骨。
魚の骨。
鳥の骨。
⸻
たぶん、食べたものの残りだ。
ただ捨ててあるのではない。
並べられている。
⸻
老婆が膝をついた。
小さな骨をひとつ拾い、火にかざす。
少し炙ってから、灰の上へ置く。
⸻
「食ったものは、戻す」
⸻
老婆が言った。
⸻
「戻さぬものは、迷う」
「骨を、ですか」
「肉は腹へ入る。血になる。血は土へ落ちる。骨は残る。残るものは、戻す」
⸻
シンは黙って聞いた。
⸻
昔の人は信心深かった。
そんな言い方なら、たぶん簡単だ。
でも、目の前の老婆はそんなふうに生きていない。
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信じているというより、知っている。
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火は熱い。
水は冷たい。
骨は残る。
残るものは戻さなければならない。
⸻
それは、生活の一部だった。
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「今日、南が来ます」
⸻
シンは言った。
⸻
「知っている」
「でも、いつも通りだと負けます」
「知っている」
⸻
老婆は、あまりにも静かに言った。
シンは言葉に詰まった。
⸻
(知っている?)
⸻
まただ。
この人は、知らないはずのことを知っているみたいに言う。
南が来ることは、集落全体が警戒しているから分かる。
だが、負けることまで、どうしてそんな顔で受け止められるのか。
⸻
「……じゃあ、逃げれば」
「どこへ」
「北へ」
⸻
老婆の手が止まった。
⸻
火の音だけがする。
ぱち、と小さく木がはぜた。
⸻
「北は、寒い」
「それでも」
「山が深い」
「それでも」
「子は、歩けぬ」
⸻
シンは黙った。
⸻
正しいことを言ったつもりだった。
でも、目の前にいる人間は、正しさだけでは動けない。
老人がいる。
子供がいる。
食べ物がいる。
火を運ぶ者がいる。
怪我人が出れば終わる。
⸻
逃げる、というのは、言うほど簡単ではない。
⸻
「じゃあ、せめて隠すとか」
「何を」
「子供。食べ物。あと、それ」
⸻
シンは老婆の首の土片を見た。
⸻
老婆は、初めて少しだけ笑った。
笑った、というより、皺の奥で火が揺れたような顔だった。
⸻
「外の子は、変なことを言う」
「よく言われます」
「まだ言われていないだろう」
「あ、そうか」
⸻
老婆は土片を握り直した。
⸻
「火は隠せぬ。火は見える」
「でも、分けることはできる」
⸻
その言葉は、考えるより先に出た。
老婆の目がシンを見る。
⸻
「火を、分ける」
「小さくして、灰の中に残す。火が消えたように見えても、まだ中にある。持って逃げられるくらいに」
⸻
なぜそんなことを知っているのかは分からない。
でも、分かる。
火は完全に燃えている炎だけではない。
灰の奥の赤いもの。
眠った火。
それなら、運べる。
⸻
老婆はしばらく黙っていた。
⸻
「……火を眠らせるか」
「たぶん」
「たぶん、か」
「かなりたぶん」
⸻
老婆は今度こそ、ほんの少し笑った。
⸻
「タダに似ている」
「えっ」
⸻
その名前が出た瞬間、胸が少し温かくなった。
⸻
「タダはどこですか」
「外だ」
「見張り?」
「山を見ている」
「南じゃなくて?」
「タダは、出口を見る」
⸻
出口。
⸻
その言葉が、妙に残った。
⸻
昼を過ぎる頃、集落の動きは前と少し変わっていた。
⸻
老婆が何かを言ったのだろう。
女たちは子供をいつもより奥へ移した。
大きな荷は動かせない。
だが、小さな皮袋や乾いた木の実、削った石の刃は、住居の裏側へまとめられた。
⸻
火のそばでは、老婆が灰を寄せていた。
火を消すのではない。
燃えすぎないように、灰の中へ赤い芯を押し込んでいる。
⸻
眠らせる。
⸻
その言葉が似合った。
⸻
タダは、集落の外周に立っていた。
南ではなく、北寄りの斜面を見ている。
⸻
「タダ」
⸻
呼ぶと、振り返った。
⸻
「シン」
⸻
また名前を呼ばれた。
それだけで、ここに戻ってきた意味が少しだけ生まれる。
⸻
「老婆から聞きました。出口を見るって」
「出口は大事だ」
「戦うより?」
「戦うと、前を見る。逃げるには、後ろを見る」
⸻
タダは短く言った。
⸻
「両方いる」
⸻
シンは頷いた。
この人は、ただ強いだけではない。
どこで誰が生き残るかを見ている。
⸻
「南は、来ます」
「知っている」
「俺、知ってるんです。来るんです。俺、一回見てる」
「そうか」
「信じるんですか」
「顔」
「また顔」
「面倒な顔だ」
⸻
タダは少しだけ口元を動かした。
⸻
「嘘で、その顔はしない」
⸻
胸が詰まった。
⸻
「白い女が来ます」
「老婆から聞いた」
「強いです」
「見れば分かる」
「見たら、たぶん遅い」
⸻
タダは黙った。
それから、太い槍を握り直した。
⸻
「なら、見える前に動く」
⸻
言葉は短い。
だが、腹の底に落ちる。
⸻
陽が傾きはじめた。
⸻
火は小さかった。
前よりも、ずっと小さい。
炎は低く、灰の中で赤く眠っている。
人の声も低い。
子供たちは奥に寄せられ、女たちは荷を抱えたまま眠ったふりをしている。
男たちは南を見る。
タダは北の斜面を見る。
老婆は火を見る。
⸻
シンはその全部を見ていた。
⸻
(変わった)
⸻
ほんの少し。
でも、変わった。
⸻
森は静かだった。
葉が鳴らない。
鳥の声が遠い。
火の煙は低く、細く、地面を舐めるように流れている。
⸻
シンは外周に立っていた。
槍は持っていない。
持っても役に立たない。
その代わり、石を握っている。
丸く、手に収まる大きさの石。
投げるためのものだ。
⸻
(当たる気はしない)
⸻
でも、手ぶらよりはましだった。
⸻
森の向こうで、鳥が飛んだ。
⸻
来る。
⸻
「南だ!!」
⸻
声が上がる。
⸻
男たちが動く。
今度は、前より少しだけ早い。
女たちはすでに子供を抱えている。
老婆は火のそばで、灰を小さな土器へ移している。
赤い点が、その中で眠っている。
⸻
(火種)
⸻
残った。
まだ、残っている。
⸻
南の男たちが出てきた。
⸻
数は多くない。
だが、少ないからこそ怖かった。
誰も勝手に走らない。
誰も大声で怒鳴り続けない。
先頭の男が短く声を出すと、二人が横へ流れ、別の二人が石を握った。
盾のような木を持つ者が前に出る。
槍を持つ者は、その後ろで穂先だけを見せる。
⸻
(ばらばらじゃない)
⸻
それぞれが強いのではない。
ひとつの形で来る。
押す場所。
削る場所。
回り込む場所。
全部、決まっているみたいだった。
⸻
「右」
⸻
南の男が言った。
短い声。
それだけで、右の二人が少し広がる。
北側の男がそちらを見る。
その瞬間、正面から石が飛んだ。
⸻
前回なら顔に入っていた。
⸻
だが今回は、北側の男たちが早く散っていた。
石が地面を叩く。
一人は避けきれず肩に当たったが、顔には入らない。
⸻
(変わった)
⸻
シンは息を飲んだ。
ほんの少しだ。
勝てるほどではない。
でも、確かに変わった。
⸻
南はすぐに形を直した。
外れた石を気にしない。
失敗した者を責めない。
空いた場所へ別の者が入る。
前に出た者が下がり、後ろの者が石を投げる。
投げた者はすぐ槍の陰へ戻る。
⸻
(切り替えが速い)
⸻
集落の男たちは強い。
声も大きい。
腕も太い。
走れば速い。
だが、南は違う。
人を倒すだけではなく、場を崩すことを知っている。
ひとりを狙うのではなく、火の周りを壊し、逃げ道を塞ぎ、子供のいる方へ圧をかける。
⸻
(集落を殺す動きだ)
⸻
その理解に、背筋が冷えた。
⸻
タダが前に出る。
南の横回りに合わせて、別の男が木を倒す。
小さな倒木だ。
大した障害ではない。
だが、一瞬足が止まる。
そこへタダの槍が入る。
⸻
南の男が吹き飛んだ。
⸻
(いける?)
⸻
思った瞬間。
⸻
甘い匂いがした。
⸻
(来た)
⸻
火の匂いが消える。
土の匂いが消える。
血の匂いさえ、後ろへ押しやられる。
⸻
桃の匂い。
⸻
モモが、いた。
⸻
戦いの隙間に、最初からそこにいたみたいに立っている。
白く、薄く、汚れがない。
この時代のどこにも属していない姿。
⸻
モモの目が動いた。
北側の動き。
倒木。
子供たちの位置。
灰を入れた土器。
老婆の手。
タダ。
そして、シン。
⸻
「行動修正、確認」
⸻
声が聞こえた。
前とは違う。
誤差、だけではない。
こちらが変えたことを、見ている。
⸻
「対象、再確認」
⸻
モモの視線がシンに止まる。
⸻
シンは石を握った。
投げる。
⸻
当たるはずがない。
分かっている。
でも投げた。
⸻
石はモモの頬の横を通りすぎた。
避けたのか、最初から当たらないと分かっていたのかも分からない。
⸻
「モモ!」
⸻
名前を呼んだ。
⸻
モモの動きが、一瞬止まった。
⸻
ほんの一瞬。
だが、止まった。
⸻
足ではない。
体でもない。
もっと細いところだ。
瞬きの間隔。
刃を握る指。
視線がシンの顔に合うまでの、ほんの小さな遅れ。
⸻
(止まった)
⸻
タダがその隙に踏み込む。
槍が走る。
刃とぶつかる。
今度は一撃だけではない。
二撃目まで受けた。
⸻
土が弾ける。
モモの衣が揺れる。
風の向きとは少し違う揺れ方。
⸻
「モモ、聞け!」
⸻
シンは叫んだ。
⸻
「お前は、俺を知ってるんだろ!」
⸻
モモの目が、わずかに揺れた。
⸻
それは表情ではなかった。
笑ったわけでも、驚いたわけでもない。
ただ、均一だったものに小さな濁りが入った。
水面に落ちた灰みたいに、一瞬だけ。
⸻
だが、次の瞬間。
その濁りが消える。
⸻
「修正、続行」
⸻
タダの槍が弾かれた。
大きな体が一歩下がる。
それでも倒れない。
⸻
「シン、下がれ!」
⸻
タダの声。
初めて聞く大きな声だった。
⸻
シンは下がらなかった。
下がれなかった。
⸻
モモが来る。
距離が消える。
⸻
目の前。
⸻
桃の匂い。
白い肌。
細い刃。
⸻
「お前、今、止まっただろ」
⸻
シンは言った。
自分でも、なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。
⸻
「……誤差」
⸻
モモの声が、ほんの少しだけ遅れた。
その一拍の遅れが、シンにははっきり分かった。
⸻
これまでのモモなら、答えは刃と同時に来た。
判断と動きの間に隙間がなかった。
なのに今は、声が先に探していた。
何と呼べばいいのかを。
⸻
「違う」
⸻
シンは笑った。
怖くて、顔が引きつっていた。
それでも笑った。
⸻
「今のは、お前だ」
⸻
モモの目が、揺れた。
今度は、見間違いではなかった。
視線がシンの目から口元へ落ち、また目に戻る。
刃の角度が、ほんのわずかに下がる。
桃の匂いが、一瞬だけ薄くなる。
⸻
その全部が、すぐに戻った。
⸻
「誤差、修正」
⸻
刃が振られる。
⸻
世界が一拍ずれる。
⸻
終わる。
⸻
でも、最後に見えた。
⸻
老婆が、灰の入った小さな土器を子供に渡している。
タダが、その前に立っている。
火は、まだ消えていない。
⸻
(残った)
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そう思った。
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香りだけが残る。
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そして俺は、三度目の死を迎えた。
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息が入った。
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また。
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空。
葉。
白い光。
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シンは、土の上で目を開けた。
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首に手を当てる。
ある。
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胸に手を当てる。
動いている。
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森の向こうに、煙が見える。
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あそこに、火がある。
タダがいる。
老婆がいる。
モモが来る。
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そして。
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(モモは、止まる)
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ほんの一瞬。
それでも、確かに。
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シンはゆっくり起き上がった。
足は震えている。
怖い。
死ぬのは怖い。
何度でも怖い。
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それでも。
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「……もう一回」
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声に出した。
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森が、何も知らない顔で揺れていた。
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(第四話へ)




