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火の民

第三話 火の民


⸻


 息が入った。


 三度目の朝だった。


⸻


「っ……は、は……」


⸻


 空。


 葉。


 白い光。


 湿った土。


 草の先。


⸻


 全部、同じだ。


⸻


(また、ここ)


⸻


 もう驚かなかった。


 いや、驚いてはいる。


 怖いし、気持ち悪いし、できれば今すぐ誰かに説明してほしい。


 でも、腹の底ではもう分かっていた。


⸻


 死ぬと、戻る。


⸻


 少なくとも、今はそうなっている。


⸻


 シンは体を起こした。


 頭の重さにも少し慣れてきた。


 足元のふらつきも知っている。


 この森の匂いも、煙の見える位置も、鳥の声の高さも。


 全部、少しずつ知っているものになっていた。


⸻


(嫌な慣れだな)


⸻


 首に手を当てる。


 ある。


 傷もない。


 血もない。


⸻


 それでも、刃が通った感覚は残っている。


 最初の死。


 集落の火の前。


 桃の匂い。


 次の死。


 丘の上。


 逃げても意味ない、と言った女。


⸻


 モモ。


⸻


 名前を思い出しただけで、背中の奥が冷たくなった。


⸻


(逃げても来る)


⸻


 それは、もう分かった。


 集落に行かなければ助かる、という考えは消えた。


 森を越えても、丘に出ても、あの女は来る。


 追跡している、と言っていた。


 任務だ、とも。


⸻


(じゃあ、逃げるだけじゃ駄目だ)


⸻


 シンは煙を見た。


 森の向こう。


 低く、細く、しかし確かに上がっている。


⸻


 あそこに老婆がいる。


 タダがいる。


 火がある。


⸻


 あの人たちは、まだ何も知らない。


 いや、南が来ることは知っている。


 だから武器を作り、子供を静かにさせ、火を守っていた。


 だが、モモを知らない。


 あの刃を知らない。


 あの速さを知らない。


⸻


(俺は知ってる)


⸻


 だから何ができる。


⸻


 分からない。


 でも、知っているのに何もしないのは、たぶん違う。


⸻


「……行くか」


⸻


 声に出すと、少しだけ足が動いた。


⸻


 森を抜けた。


 今度は迷わない。


 煙へ向かう道も、根の張り方も、踏みやすい土も、少しだけ覚えている。


 最初より早く、集落の縁に着いた。


⸻


 火の周りに、人がいた。


 皮をまとった男。


 木の実を選る女。


 石を削る老人。


 灰のそばの老婆。


⸻


 まだ何も起きていない。


 まだ誰も死んでいない。


⸻


 その事実に、胸が詰まった。


⸻


(まだ、間に合う)


⸻


 一歩踏み出す。


 近くにいた男が顔を上げた。


 目が合う。


 男が叫ぶ。


⸻


(ここも同じ)


⸻


 槍を持った男たちが立ち上がる。


 半円を作る。


 距離を詰める。


⸻


 シンは、今度は迷わず両手を上げた。


⸻


「武器はない。腹は減ってる。あと、たぶん変なやつです」


⸻


 言葉の全部が通じたかは分からない。


 だが、何人かの眉が動いた。


 危険な者というより、妙な者を見る目になる。


⸻


 人の輪が割れた。


⸻


 老婆が出てくる。


 白い髪。


 曲がっていない背。


 首から下がる、土の欠片。


 目のような形。


⸻


 老婆はシンを見た。


 頭から足元まで。


 服。


 手。


 顔。


 足。


⸻


 そして、前と同じ言葉を言った。


⸻


「……外から来たな」


「はい」


⸻


 今度は、そう答えた。


 老婆の目がわずかに細くなる。


⸻


「一人か」


「はい」


「名は」


⸻


 シンは息を吸った。


⸻


「シン」


⸻


 言えた。


 ちゃんと言えた。


⸻


 老婆はしばらく黙っていた。


 名を聞いた、というより、名が本当にあるかを確かめている目だった。


⸻


「……火の外に座れ」


⸻


 同じ場所を指された。


 輪の外。


 火の熱は届くが、中心ではない場所。


⸻


(火の外、か)


⸻


 前はただの距離だと思った。


 受け入れられていないから、外側なのだと。


 でも今は少し違って見える。


⸻


 火の中と、火の外。


 集落の内と、外。


 人と、まだ人かどうか分からないもの。


⸻


 境目がある。


⸻


 この人たちは、それを知っている。


⸻


 焼いた肉を渡された。


 薄く、硬い。


 塩気はない。


 ただ火で炙っただけの肉。


⸻


 それでも、うまかった。


⸻


(相変わらずうまい)


⸻


 かぶりつく。


 歯に繊維が引っかかる。


 脂は少なく、焦げたところだけが香ばしい。


 塩も、醤油も、胡椒もない。


 そもそも、醤油がいつからあるのかも分からない。


⸻


(いや、さすがに今はないだろ)


⸻


 たぶん。


 たぶん、ない。


⸻


(俺の歴史知識、信用ならなすぎる)


⸻


 口の中で肉を噛みながら、シンは火の周りを見た。


 前より、見えるものが増えている。


⸻


 住居は低い。


 地面を少し掘り下げ、柱を立て、枝を組み、その上に草や皮を伏せている。


 屋根の端は煙で黒い。


 入口は狭く、外から覗いても中は暗い。


 ただの穴みたいに見えるのに、中には人の匂いがあった。


⸻


 煙。


 獣皮。


 土。


 乾いた草。


 古い汗。


⸻


(家、なんだよな)


⸻


 窓はない。


 床もない。


 明かりもない。


 スマホのライトも、蛍光灯も、コンセントもない。


 思い出せる単語だけが、やたら未来のものみたいに浮いている。


⸻


 それでも、これは家だと分かった。


 外の森と内側を分けるもの。


 眠る場所。


 子供を隠す場所。


 火の近くに戻ってくるための場所。


⸻


 火の近くには、厚い土器が置かれていた。


 手で持つと重そうな、ずんぐりした器。


 表面には縄を押しつけたような跡がある。


 割れた場所を、細い植物の繊維で縛って補修したものもあった。


 完全に割れた破片は、端の方にまとめて置かれている。


 ただのゴミには見えない。


⸻


(縄目……土器)


⸻


 言葉だけが浮かぶ。


 縄文土器。


 縄文時代。


 弥生時代。


⸻


(どっちだ、これ)


⸻


 縄文と弥生の違いくらい、知っている気がしていた。


 米がどうとか。


 金属器がどうとか。


 竪穴住居がどうとか。


 土器の形がどうとか。


⸻


 ただ、目の前に置かれると途端に怪しい。


 教科書の写真なら、下に説明がついている。


 展示ケースなら、横に札がある。


 ここにはない。


 札もない。


 年表もない。


 誰も「今は紀元前何年です」なんて親切に言ってくれない。


⸻


(昔すぎると、逆に全部一緒に見えるな)


⸻


 ひどい感想だと思った。


 でも本音だった。


⸻


 同じ「大昔」でも、そこには昨日と今日があり、古い道具と新しい道具があり、うまいやり方と下手なやり方がある。


 教科書の一行にされる何百年かを、この人たちは普通に朝から晩まで生きている。


⸻


(時代って、こっちの都合で区切ってるだけなんだろうな)


⸻


 そう思った。


 思ってから、自分に少し驚いた。


⸻


(今の、ちょっと賢そうだったな)


⸻


 すぐに腹が鳴った。


⸻


(台無しだな)


⸻


 老人が削っているのは、石の刃だった。


 膝の上に石を置き、別の石で叩く。


 乾いた音がする。


 割れた欠片が飛ぶ。


 老人はまぶたも動かさず、指先で欠け方を確かめる。


 石はただ割ればいいわけではないらしい。


 割れたい方向と、割らせたい方向がある。


⸻


(石にも機嫌があるみたいだ)


⸻


 別の場所では、女が鹿の角らしきものを削っている。


 細く尖らせて、針のようにしている。


 魚を引っかける道具にも見えた。


 削った粉が膝に落ち、女はそれを息で吹いた。


 指先は割れている。


 爪の間は黒い。


 それでも手つきは速い。


⸻


 木の器は少ない。


 葉や皮を折っただけの皿のようなものが多い。


 肉は手で持つ。


 木の実は石の上で割る。


 砕いたものは、広い石の皿に溜める。


 水は土器に入れられているが、持ち上げるたびに重そうだった。


⸻


 服もそうだ。


 男たちは獣の皮を肩にかけ、腰を紐で縛っている。


 女たちは粗い布のようなものを巻き、上から皮を重ねている。


 子供はほとんど裸に近い。


 寒そうに見えるのに、誰も寒いとは言わない。


 寒ければ火へ寄る。


 濡れれば乾かす。


 破れれば縛る。


⸻


(服っていうより、外皮だな)


⸻


 シンは自分の格好を見下ろした。


 同じような皮。


 同じような紐。


 この場所に馴染む衣。


⸻


 誰が着せたのか。


 なぜ着ているのか。


 やはり分からない。


⸻


 分からないまま、馴染んでいる。


⸻


 それが一番、気持ち悪かった。


⸻


(暮らしが、ある)


⸻


 ただ原始的なのではない。


 知らないだけで、ちゃんと技術がある。


 火を扱い、石を削り、角を磨き、草を編み、土を焼く。


 その一つ一つが、手と匂いと音でできている。


 ボタンを押せばつく火ではない。


 蛇口をひねれば出る水ではない。


 袋を開ければ食べられる飯ではない。


⸻


 全部、誰かの手が先に動いている。


 誰かが拾い、割り、削り、運び、焼いている。


⸻


(でも、余裕はない)


⸻


 皆、南を見ている。


 笑い声はほとんどない。


 子供の声も小さい。


 食事は楽しみではなく、体を動かすためのものだ。


⸻


 火の前に、老婆が戻ってきた。


 首から下がる土の欠片を、指先で触っている。


⸻


 シンは思い切って聞いた。


⸻


「それ、何ですか」


⸻


 老婆の視線が刺さる。


 周囲の数人もこちらを見た。


 聞いてはいけないことを聞いたのかもしれない。


⸻


(やべ)


⸻


 だが老婆は怒らなかった。


 少し間を置いて、土の欠片を持ち上げた。


⸻


「目だ」


「目」


「見るものではない」


⸻


 老婆は、火の向こうを見た。


 南の森。


 その奥。


 まだ来ていないもの。


⸻


「見返すものだ」


⸻


 意味は分からなかった。


 でも、軽い言葉ではないことは分かった。


⸻


「誰を、ですか」


「来るもの」


「南?」


「南も。南でないものも」


⸻


 シンの喉が鳴った。


⸻


(南でないもの)


⸻


 桃の匂い。


 白い衣。


 均一すぎる刃。


⸻


「白い女が来ます」


⸻


 シンは言った。


 言ってから、集落の空気が変わったことに気づいた。


⸻


 老婆の目が動かない。


 男たちの手が止まる。


 石を打つ音が消える。


⸻


「南の者とは別です。すごく速い。刃を持ってる。石じゃない、骨でもない。あの、変な刃で、人を斬る」


⸻


 言葉が足りない。


 伝わっているか分からない。


 でも、止められなかった。


⸻


「桃みたいな匂いがする」


⸻


 老婆の眉が、ほんの少し動いた。


⸻


「桃」


⸻


 その言葉が、この時代の音として合っているのかは分からなかった。


 そもそも桃があるのかも分からない。


 ただ、シンの頭にはそれしかなかった。


⸻


「モモ、って名乗った」


⸻


 老婆は黙った。


 長い沈黙だった。


⸻


 やがて、老婆は火の中へ細い枝を一本入れた。


 枝の先が焦げ、赤くなる。


⸻


「火の中に入るものは、火の匂いになる」


⸻


 低い声だった。


⸻


「山に入るものは、山の匂いになる。川に入るものは、水の匂いになる」


⸻


 老婆は、赤くなった枝を灰の上へ置いた。


⸻


「その女は、どこの匂いでもないのだな」


⸻


 シンは息を飲んだ。


⸻


「……はい」


⸻


 老婆は土の目を握った。


⸻


「なら、人ではない」


⸻


 誰も笑わなかった。


 誰も否定しなかった。


⸻


 この人たちは、人でないものを笑わない。


 そんなものはいないと、簡単には言わない。


 森にも、川にも、火にも、骨にも、見えないものが宿ると知っている。


⸻


 だから、シンの言葉は完全には信じられなくても、完全には捨てられなかった。


⸻


 ただ、シンは老婆を見ながら、別の寒さも感じていた。


⸻


(この人、なんでそんなに分かるんだ)


⸻


 モモを見たことがあるのか。


 それとも、似たものを知っているのか。


 まさか、俺が死んで戻っていることまで見えているのか。


⸻


 そんなはずはない。


 ない、と思いたい。


⸻


 けれど老婆の目は、シンの言葉より奥を見ている気がした。


 火の外に座るシンの、そのさらに外側。


 森でも、南でも、今この場でもないものを。


⸻


「俺のことも、人じゃないと思いますか」


⸻


 気づくと、聞いていた。


⸻


 老婆はすぐには答えなかった。


 土の欠片を親指で撫でる。


 火が、老婆の皺の中で揺れる。


⸻


「お前は、匂いが薄い」


「薄い?」


「火にも、山にも、川にも、まだ染まっていない」


⸻


 シンは思わず自分の腕を嗅いだ。


 煙と土と汗の匂いしかしない。


⸻


「いや、けっこう臭いと思いますけど」


⸻


 老婆は笑わなかった。


「体の匂いではない」


⸻


(分からん)


⸻


 分からない。


 でも、分からないことを言われているのに、なぜか無視できなかった。


⸻


 シンは、火を見た。


⸻


 火は、ただ燃えているだけではなかった。


 肉を焼く。


 体を温める。


 獣を遠ざける。


 闇を押し返す。


 人の輪の中心にある。


⸻


 火の内側に座る者は、この集落の人間だ。


 火の外に座るシンは、まだ外のものだ。


⸻


(火って、境界なんだ)


⸻


 宗教、という言葉が浮かぶ。


 でも、それは少し違う気がした。


 この人たちにとって、これは信じるか信じないかではない。


 暮らしの手順だ。


⸻


 火を絶やさない。


 食べたものを戻す。


 骨を捨てない。


 見えないものを、見えないまま扱う。


⸻


 そうしなければ、世界のどこかが詰まる。


 そんな感覚で生きている。


⸻


 老婆はシンを火の裏側へ連れていった。


⸻


 集落の中央から少し外れたところに、浅い穴がある。


 穴の縁には、黒く焼けた小石が並べられていた。


 その中に、小さな骨が置かれている。


⸻


 鹿の骨。


 魚の骨。


 鳥の骨。


⸻


 たぶん、食べたものの残りだ。


 ただ捨ててあるのではない。


 並べられている。


⸻


 老婆が膝をついた。


 小さな骨をひとつ拾い、火にかざす。


 少し炙ってから、灰の上へ置く。


⸻


「食ったものは、戻す」


⸻


 老婆が言った。


⸻


「戻さぬものは、迷う」


「骨を、ですか」


「肉は腹へ入る。血になる。血は土へ落ちる。骨は残る。残るものは、戻す」


⸻


 シンは黙って聞いた。


⸻


 昔の人は信心深かった。


 そんな言い方なら、たぶん簡単だ。


 でも、目の前の老婆はそんなふうに生きていない。


⸻


 信じているというより、知っている。


⸻


 火は熱い。


 水は冷たい。


 骨は残る。


 残るものは戻さなければならない。


⸻


 それは、生活の一部だった。


⸻


「今日、南が来ます」


⸻


 シンは言った。


⸻


「知っている」


「でも、いつも通りだと負けます」


「知っている」


⸻


 老婆は、あまりにも静かに言った。


 シンは言葉に詰まった。


⸻


(知っている?)


⸻


 まただ。


 この人は、知らないはずのことを知っているみたいに言う。


 南が来ることは、集落全体が警戒しているから分かる。


 だが、負けることまで、どうしてそんな顔で受け止められるのか。


⸻


「……じゃあ、逃げれば」


「どこへ」


「北へ」


⸻


 老婆の手が止まった。


⸻


 火の音だけがする。


 ぱち、と小さく木がはぜた。


⸻


「北は、寒い」


「それでも」


「山が深い」


「それでも」


「子は、歩けぬ」


⸻


 シンは黙った。


⸻


 正しいことを言ったつもりだった。


 でも、目の前にいる人間は、正しさだけでは動けない。


 老人がいる。


 子供がいる。


 食べ物がいる。


 火を運ぶ者がいる。


 怪我人が出れば終わる。


⸻


 逃げる、というのは、言うほど簡単ではない。


⸻


「じゃあ、せめて隠すとか」


「何を」


「子供。食べ物。あと、それ」


⸻


 シンは老婆の首の土片を見た。


⸻


 老婆は、初めて少しだけ笑った。


 笑った、というより、皺の奥で火が揺れたような顔だった。


⸻


「外の子は、変なことを言う」


「よく言われます」


「まだ言われていないだろう」


「あ、そうか」


⸻


 老婆は土片を握り直した。


⸻


「火は隠せぬ。火は見える」


「でも、分けることはできる」


⸻


 その言葉は、考えるより先に出た。


 老婆の目がシンを見る。


⸻


「火を、分ける」


「小さくして、灰の中に残す。火が消えたように見えても、まだ中にある。持って逃げられるくらいに」


⸻


 なぜそんなことを知っているのかは分からない。


 でも、分かる。


 火は完全に燃えている炎だけではない。


 灰の奥の赤いもの。


 眠った火。


 それなら、運べる。


⸻


 老婆はしばらく黙っていた。


⸻


「……火を眠らせるか」


「たぶん」


「たぶん、か」


「かなりたぶん」


⸻


 老婆は今度こそ、ほんの少し笑った。


⸻


「タダに似ている」


「えっ」


⸻


 その名前が出た瞬間、胸が少し温かくなった。


⸻


「タダはどこですか」


「外だ」


「見張り?」


「山を見ている」


「南じゃなくて?」


「タダは、出口を見る」


⸻


 出口。


⸻


 その言葉が、妙に残った。


⸻


 昼を過ぎる頃、集落の動きは前と少し変わっていた。


⸻


 老婆が何かを言ったのだろう。


 女たちは子供をいつもより奥へ移した。


 大きな荷は動かせない。


 だが、小さな皮袋や乾いた木の実、削った石の刃は、住居の裏側へまとめられた。


⸻


 火のそばでは、老婆が灰を寄せていた。


 火を消すのではない。


 燃えすぎないように、灰の中へ赤い芯を押し込んでいる。


⸻


 眠らせる。


⸻


 その言葉が似合った。


⸻


 タダは、集落の外周に立っていた。


 南ではなく、北寄りの斜面を見ている。


⸻


「タダ」


⸻


 呼ぶと、振り返った。


⸻


「シン」


⸻


 また名前を呼ばれた。


 それだけで、ここに戻ってきた意味が少しだけ生まれる。


⸻


「老婆から聞きました。出口を見るって」


「出口は大事だ」


「戦うより?」


「戦うと、前を見る。逃げるには、後ろを見る」


⸻


 タダは短く言った。


⸻


「両方いる」


⸻


 シンは頷いた。


 この人は、ただ強いだけではない。


 どこで誰が生き残るかを見ている。


⸻


「南は、来ます」


「知っている」


「俺、知ってるんです。来るんです。俺、一回見てる」


「そうか」


「信じるんですか」


「顔」


「また顔」


「面倒な顔だ」


⸻


 タダは少しだけ口元を動かした。


⸻


「嘘で、その顔はしない」


⸻


 胸が詰まった。


⸻


「白い女が来ます」


「老婆から聞いた」


「強いです」


「見れば分かる」


「見たら、たぶん遅い」


⸻


 タダは黙った。


 それから、太い槍を握り直した。


⸻


「なら、見える前に動く」


⸻


 言葉は短い。


 だが、腹の底に落ちる。


⸻


 陽が傾きはじめた。


⸻


 火は小さかった。


 前よりも、ずっと小さい。


 炎は低く、灰の中で赤く眠っている。


 人の声も低い。


 子供たちは奥に寄せられ、女たちは荷を抱えたまま眠ったふりをしている。


 男たちは南を見る。


 タダは北の斜面を見る。


 老婆は火を見る。


⸻


 シンはその全部を見ていた。


⸻


(変わった)


⸻


 ほんの少し。


 でも、変わった。


⸻


 森は静かだった。


 葉が鳴らない。


 鳥の声が遠い。


 火の煙は低く、細く、地面を舐めるように流れている。


⸻


 シンは外周に立っていた。


 槍は持っていない。


 持っても役に立たない。


 その代わり、石を握っている。


 丸く、手に収まる大きさの石。


 投げるためのものだ。


⸻


(当たる気はしない)


⸻


 でも、手ぶらよりはましだった。


⸻


 森の向こうで、鳥が飛んだ。


⸻


 来る。


⸻


「南だ!!」


⸻


 声が上がる。


⸻


 男たちが動く。


 今度は、前より少しだけ早い。


 女たちはすでに子供を抱えている。


 老婆は火のそばで、灰を小さな土器へ移している。


 赤い点が、その中で眠っている。


⸻


(火種)


⸻


 残った。


 まだ、残っている。


⸻


 南の男たちが出てきた。


⸻


 数は多くない。


 だが、少ないからこそ怖かった。


 誰も勝手に走らない。


 誰も大声で怒鳴り続けない。


 先頭の男が短く声を出すと、二人が横へ流れ、別の二人が石を握った。


 盾のような木を持つ者が前に出る。


 槍を持つ者は、その後ろで穂先だけを見せる。


⸻


(ばらばらじゃない)


⸻


 それぞれが強いのではない。


 ひとつの形で来る。


 押す場所。


 削る場所。


 回り込む場所。


 全部、決まっているみたいだった。


⸻


「右」


⸻


 南の男が言った。


 短い声。


 それだけで、右の二人が少し広がる。


 北側の男がそちらを見る。


 その瞬間、正面から石が飛んだ。


⸻


 前回なら顔に入っていた。


⸻


 だが今回は、北側の男たちが早く散っていた。


 石が地面を叩く。


 一人は避けきれず肩に当たったが、顔には入らない。


⸻


(変わった)


⸻


 シンは息を飲んだ。


 ほんの少しだ。


 勝てるほどではない。


 でも、確かに変わった。


⸻


 南はすぐに形を直した。


 外れた石を気にしない。


 失敗した者を責めない。


 空いた場所へ別の者が入る。


 前に出た者が下がり、後ろの者が石を投げる。


 投げた者はすぐ槍の陰へ戻る。


⸻


(切り替えが速い)


⸻


 集落の男たちは強い。


 声も大きい。


 腕も太い。


 走れば速い。


 だが、南は違う。


 人を倒すだけではなく、場を崩すことを知っている。


 ひとりを狙うのではなく、火の周りを壊し、逃げ道を塞ぎ、子供のいる方へ圧をかける。


⸻


(集落を殺す動きだ)


⸻


 その理解に、背筋が冷えた。


⸻


 タダが前に出る。


 南の横回りに合わせて、別の男が木を倒す。


 小さな倒木だ。


 大した障害ではない。


 だが、一瞬足が止まる。


 そこへタダの槍が入る。


⸻


 南の男が吹き飛んだ。


⸻


(いける?)


⸻


 思った瞬間。


⸻


 甘い匂いがした。


⸻


(来た)


⸻


 火の匂いが消える。


 土の匂いが消える。


 血の匂いさえ、後ろへ押しやられる。


⸻


 桃の匂い。


⸻


 モモが、いた。


⸻


 戦いの隙間に、最初からそこにいたみたいに立っている。


 白く、薄く、汚れがない。


 この時代のどこにも属していない姿。


⸻


 モモの目が動いた。


 北側の動き。


 倒木。


 子供たちの位置。


 灰を入れた土器。


 老婆の手。


 タダ。


 そして、シン。


⸻


「行動修正、確認」


⸻


 声が聞こえた。


 前とは違う。


 誤差、だけではない。


 こちらが変えたことを、見ている。


⸻


「対象、再確認」


⸻


 モモの視線がシンに止まる。


⸻


 シンは石を握った。


 投げる。


⸻


 当たるはずがない。


 分かっている。


 でも投げた。


⸻


 石はモモの頬の横を通りすぎた。


 避けたのか、最初から当たらないと分かっていたのかも分からない。


⸻


「モモ!」


⸻


 名前を呼んだ。


⸻


 モモの動きが、一瞬止まった。


⸻


 ほんの一瞬。


 だが、止まった。


⸻


 足ではない。


 体でもない。


 もっと細いところだ。


 瞬きの間隔。


 刃を握る指。


 視線がシンの顔に合うまでの、ほんの小さな遅れ。


⸻


(止まった)


⸻


 タダがその隙に踏み込む。


 槍が走る。


 刃とぶつかる。


 今度は一撃だけではない。


 二撃目まで受けた。


⸻


 土が弾ける。


 モモの衣が揺れる。


 風の向きとは少し違う揺れ方。


⸻


「モモ、聞け!」


⸻


 シンは叫んだ。


⸻


「お前は、俺を知ってるんだろ!」


⸻


 モモの目が、わずかに揺れた。


⸻


 それは表情ではなかった。


 笑ったわけでも、驚いたわけでもない。


 ただ、均一だったものに小さな濁りが入った。


 水面に落ちた灰みたいに、一瞬だけ。


⸻


 だが、次の瞬間。


 その濁りが消える。


⸻


「修正、続行」


⸻


 タダの槍が弾かれた。


 大きな体が一歩下がる。


 それでも倒れない。


⸻


「シン、下がれ!」


⸻


 タダの声。


 初めて聞く大きな声だった。


⸻


 シンは下がらなかった。


 下がれなかった。


⸻


 モモが来る。


 距離が消える。


⸻


 目の前。


⸻


 桃の匂い。


 白い肌。


 細い刃。


⸻


「お前、今、止まっただろ」


⸻


 シンは言った。


 自分でも、なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。


⸻


「……誤差」


⸻


 モモの声が、ほんの少しだけ遅れた。


 その一拍の遅れが、シンにははっきり分かった。


⸻


 これまでのモモなら、答えは刃と同時に来た。


 判断と動きの間に隙間がなかった。


 なのに今は、声が先に探していた。


 何と呼べばいいのかを。


⸻


「違う」


⸻


 シンは笑った。


 怖くて、顔が引きつっていた。


 それでも笑った。


⸻


「今のは、お前だ」


⸻


 モモの目が、揺れた。


 今度は、見間違いではなかった。


 視線がシンの目から口元へ落ち、また目に戻る。


 刃の角度が、ほんのわずかに下がる。


 桃の匂いが、一瞬だけ薄くなる。


⸻


 その全部が、すぐに戻った。


⸻


「誤差、修正」


⸻


 刃が振られる。


⸻


 世界が一拍ずれる。


⸻


 終わる。


⸻


 でも、最後に見えた。


⸻


 老婆が、灰の入った小さな土器を子供に渡している。


 タダが、その前に立っている。


 火は、まだ消えていない。


⸻


(残った)


⸻


 そう思った。


⸻


 香りだけが残る。


⸻


 そして俺は、三度目の死を迎えた。


⸻


⸻


 息が入った。


⸻


 また。


⸻


 空。


 葉。


 白い光。


⸻


 シンは、土の上で目を開けた。


⸻


 首に手を当てる。


 ある。


⸻


 胸に手を当てる。


 動いている。


⸻


 森の向こうに、煙が見える。


⸻


 あそこに、火がある。


 タダがいる。


 老婆がいる。


 モモが来る。


⸻


 そして。


⸻


(モモは、止まる)


⸻


 ほんの一瞬。


 それでも、確かに。


⸻


 シンはゆっくり起き上がった。


 足は震えている。


 怖い。


 死ぬのは怖い。


 何度でも怖い。


⸻


 それでも。


⸻


「……もう一回」


⸻


 声に出した。


⸻


 森が、何も知らない顔で揺れていた。


⸻


(第四話へ)


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