南から来るもの
第二話 南から来るもの
⸻
朝は、静かだった。
風が止まっている。葉が鳴らない。火の煙だけが、細くまっすぐ空へ伸びていた。
音がないわけではない。人の気配も、火のはぜる音もある。だが、それらがどこか遠い。
耳の奥に残るのは、むしろ沈黙の方だった。
シンは丘の縁に立ち、南の森を見ていた。
何も見えない。
それでも、そこに何かがあると分かる。
⸻
(……来る)
⸻
自分でも、なぜそう思ったのか分からない。
だが周りの人間も同じだった。
男たちが集まる。槍を手にする。石の刃が朝の光を鈍く返す。
粗い作りだが、よく研がれている。握りも安定している。
⸻
(石……だよな)
(鉄じゃない)
(でも、ちゃんと武器になってる)
(原始……じだい?)
⸻
知識だけが浮かぶ。
理由は分からないが、分かる。
女たちは子供を奥へ引いた。老人は火のそばに残る。
誰も大声は出さない。短い言葉だけが交わされる。
「南だ」
「来る」
それで通じているらしい。
⸻
(……なんだろ、この感じ)
⸻
緊張、というよりは準備に近い。
恐れているが、逃げるつもりはない。
受けるつもりだ。
そのとき、森の奥で葉がわずかに揺れた。
それだけで、空気が変わる。
「来たぞ!!」
叫びが上がる。
同時に、男たちが散開した。
前に出る者、横に回る者、後ろに下がる者。
それぞれの動きは速いが、揃っていない。
個々が判断して動いている。
⸻
対して。
⸻
南から現れた連中は、違った。
⸻
森の影から、次々と人影が出てくる。
数は多くない。
だが動きに無駄がない。
前に出る者、後ろで構える者、横に広がる者。
声が飛ぶ。
「前、詰めろ!」
「左、回れ!」
言葉が短い。
だが意味は明確だった。
それに合わせて、全員が同時に動く。
⸻
(揃ってる)
(……これ、違うな)
⸻
南の部族は、体格で勝っているわけではない。
むしろ平均的だ。
だが装備が揃っている。
同じ長さの槍。
同じ形の石。
簡易的な盾のようなものまで持っている。
⸻
(作ってる)
(偶然じゃない)
⸻
次の瞬間。
石が飛んだ。
ひとつではない。
同時に、複数。
⸻
(はやっ)
⸻
避けきれない。
男の一人が顔を押さえて倒れる。
別の男が膝をつく。
距離を詰める前に削られる。
⸻
(アレじゃ近づけない……!)
⸻
南の連中は、無理に突っ込まない。
距離を保ったまま、押してくる。
盾で防ぎ、石を投げ、隙を見て前に出る。
崩れない。
判断が一つの流れになっている。
⸻
(力じゃない)
(頭で勝ってる)
⸻
北側が押し返そうとした瞬間。
横から回り込まれる。
前が詰まる。
後ろが崩れる。
あっという間に、形が崩れた。
⸻
(これ、勝てないやつだ)
⸻
その時だった。
⸻
そこに、少女がいた。
⸻
(……は?)
⸻
さっきまで、何もなかった場所だ。
誰も気づいていない。
自然に立っている。
淡い色の衣をまとっている。
布に見える。
だが、どこか整いすぎている。
汚れがない。
ほつれもない。
風がないのに、わずかに揺れている。
⸻
(なんだあれ)
⸻
顔は整っていた。
整いすぎている。
違和感のない範囲に収まっているのに、何かが引っかかる。
⸻
(……めちゃくちゃ可愛いな)
(……いや違うだろ!)
⸻
視線が合う。
途中の動きがない。
気づいたときには、見られている。
次の瞬間。
消えた。
⸻
(え)
⸻
見失う。
音がない。
気配もない。
次に見えたときには、別の場所にいる。
男の背後だった。
細い刃が振られる。
石ではない。
骨でもない。
均一な光を持つ刃。
⸻
(……刀)
⸻
その認識だけが浮かぶ。
同時に、おかしいと分かる。
この時代にあるはずがない。
だが、ある。
理由は分からない。
分からないまま。
男の体がずれた。
血が遅れて噴き出す。
「やられた!!」
声が上がる。
だが、その間にも別の場所で人が倒れる。
誰も追えていない。
結果だけが増えていく。
⸻
タダが前に出る。
踏み込みが重い。
槍を振る。
初めて、刃とぶつかった。
衝撃が遅れて伝わる。
⸻
(止めた……?)
⸻
だが続かない。
二撃目。
三撃目。
動きが見えない。
ただ、押されていることだけが分かる。
土が削れる。
距離が詰まる。
崩れる。
⸻
(無理だ)
⸻
戦いではない。
理屈の外だ。
逃げるしかない。
そう思う。
だが。
足が動かない。
視線が外せない。
少女が、こちらを見ている。
距離が消える。
いつ動いたのか分からない。
気づいたときには、目の前にいる。
刃が上がる。
⸻
そのとき。
⸻
ふわりと、甘い匂いがした。
⸻
(……え)
⸻
果実のような香り。
桃の芳香。
血の匂いが消える。
場違いなほど、やわらかい。
少女の顔が、すぐそこにある。
綺麗だと思う。
なのに。
何かが決定的に違う。
体が動かない。
避けられない。
⸻
(あ、だめだこれ)
⸻
妙に冷静に、そう思った。
音が遅れる。
世界が一拍ずれる。
刃が振られる。
見えない。
だが分かる。
終わる。
最後に。
⸻
少女の口が、わずかに動いた気がした。
音は聞こえなかった。
だが、もし読めたなら。
たぶん、こう言っていた。
⸻
「――誤差、確認」
⸻
香りだけが残った。
⸻
――そして俺は、死んだ。
⸻
(第三話へ)




