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starting over

第一話 starting over



ーOur life together


ーis so precious together


ーWe have grown


ーwe have grown



 意識が、ゆっくり浮かび上がる。


 深い水の底から、光の方へ引き上げられるような感覚だった。


 遠くで声がする。


 いくつかの声が重なっている。


 柔らかく、あたたかい。


 言葉は聞き取れない。


 けれど、意味だけが胸に落ちてくるような気がした。


 誰かが笑っている。


 誰かが、すぐ近くにいる。


 それが誰なのかは分からない。


 でも、不思議と怖くはなかった。



(……いい夢だな)



 そう思った。


 そう思った瞬間、胸の奥に、ほんの少しだけ寂しさが残る。



(……誰といた?)



 思い出そうとする。


 けれど、指の間から水がこぼれるみたいに、全部がほどけていく。


 声も。


 温度も。


 誰かの気配も。


 遠ざかっていく。



 ――息が入った。



「っ……は、は……!」


 肺に空気が流れ込み、体がびくりと跳ねた。


 急に現実へ投げ出されたみたいだった。


 目を開ける。


 空。


 揺れる葉。


 枝の隙間から落ちる白い光。


 しばらく、そのまま瞬きをした。



(……外?)



 背中の下には土がある。


 湿っている。


 少し冷たい。


 腕を動かすと、草の先が肌に触れた。


 くすぐったい。



(……生きてる)



 なぜ、そんな確認をしたのかは分からない。


 でも、まずそう思った。


 手を開く。


 指は動く。


 腕も動く。


 胸に触れる。


 痛みはない。



(よし、生きてるな)



 状況はまったく分からない。


 だが、とりあえず生きている。


 それは大事だ。


 たぶん、かなり大事だ。



 ゆっくり体を起こした。


 頭が少し重い。


 立ち上がろうとして、足元がふらつく。



(体、重っ)



 寝起きだから、という感じでもない。


 この体の重さに、まだ慣れていないような妙な感覚がある。


 だが、動く。


 歩ける。


 ひとまず問題はない。


 周囲は森だった。


 太い木と細い木が入り混じり、地面には落ち葉が重なっている。


 獣道のような細い道が、木々の間に伸びていた。


 その先。


 煙が見えた。



(人、いるな)



 その判断は早かった。


 煙。


 火。


 人間。


 そういう連想だけが、なぜか自然に浮かぶ。



(……なんで分かるんだろ)



 記憶はない。


 自分が誰なのかも、どこから来たのかも分からない。


 なのに、ものの名前や意味だけは分かる。


 木。


 煙。


 火。


 人。


 危険。


 知らないのに、知っている。



(わかるけど、わからん……)



 ひとまず歩いた。


 森を抜けると、開けた場所に出た。


 小さな集落だった。


 住居は低く、土と木と草で作られている。


 いくつかの家が円を描くように並び、その中央に火があった。


 火の周りには人がいる。


 皮をまとった男。


 木の実のようなものを選り分けている女。


 膝を抱えた子供。


 石を削っている老人。


 だが、穏やかな空気ではなかった。


 誰もが落ち着かない。


 音はある。


 火のはぜる音。


 石を打つ音。


 子供の息遣い。


 けれど、声が少ない。



(……なんだろ、この緊張感)



 一歩踏み出す。


 その瞬間、近くにいた男が顔を上げた。


 目が合う。


 男の顔が固まる。


 次に、短く叫んだ。


 意味は完全には分からない。


 だが、警戒の声だということは分かった。


 一斉に視線が集まる。



(あ、やべ)



 数人が立ち上がる。


 男たちの手には槍のようなものがある。


 石の刃。


 木の柄。


 粗いが、十分に危ない。


 半円を描くように、距離を詰めてくる。



(展開早い!)



「……えっと」


 声を出した。


 その瞬間、自分の声が妙に頼りなく聞こえた。


 誰も返事をしない。


 男の一人が唾を吐く。


 別の男が槍の先をわずかに上げる。


 両手をゆっくり上げた。



(これは、絶対に刺されたくないやつ)



 そのとき、人の輪が少し割れた。


 小柄な老婆が出てくる。


 背は低い。


 だが、腰は曲がっていない。


 髪は白く、肌には深い皺が刻まれている。


 目が鋭い。


 その目だけで、周りの男たちよりずっと怖かった。



(この人、強いな)



 老婆は頭から足元まで眺めた。


 服を見る。


 手を見る。


 顔を見る。


 そして、短く言った。


「……外から来たな」


 言葉が、分かった。


 音は馴染みがない。


 だが意味は通る。



(あ、通じた)



「……分かりません」


 口が勝手に動いた。


 自分でも驚くくらい、自然に答えていた。


 老婆は眉を動かさない。


「名は」


「……」


 名前。


 そこだけが、ぽっかり空いている。



(名前、ないな)



 いや、ないはずがない。


 人間ならある。


 たぶん。


 でも出てこない。


「……分かりません」


 同じ答えになった。


 周囲がざわつく。


 若い男の一人が何かを言う。


 荒い声。


 疑い。


 排除。


 そんな気配が混じっている。


 老婆が片手を上げると、声は止まった。


「……いい。中来い」



(た、助かった……?)



 助かったのか、監視されるだけなのかは分からない。


 だが、少なくとも今すぐ刺されることはなさそうだった。


 火のそばに座らされた。


 座る場所は、輪の外側。


 完全には受け入れられていない。


 子供がこちらを見ている。


 母親らしい女が、その子供の肩を引き寄せた。



(距離感がすごい)



 少しして、焼いた肉を渡された。


 薄い肉片。


 表面は焦げていて、中は少し硬そうだった。


 何の肉かは分からない。



(ニク!!)



 腹が鳴った。


 思ったより大きい音だった。


 近くにいた子供がびくっとする。



(すまん)



 かぶりつく。


 熱い。


 硬い。


 味付けはほとんどない。


 塩気もない。


 ただ焼いただけ。


 それなのに。


 うまい。


 体が欲しがっている。


 しばらく無心でかぶりつく。


 周囲の人間も同じように食べていた。


 ゆっくり味わう者はいない。


 皆、早い。


 小さな子供が肉に手を伸ばし、隣の大人に軽く払われる。


 泣きかけた子供は、すぐに口を結んだ。



(余裕ないな、ここ)



 食事というより、補給だった。


 生きるために食っている。


 楽しむためではない。


 火の向こうでは、男たちが石を削っていた。


 槍の先。


 刃。


 同じ形のものがいくつも並んでいる。


 作っているというより、間に合わせている。



(なんか、準備してる)



 そこで初めて、この集落の緊張の理由を少しだけ理解した。


 何かが来る。


 たぶん、敵だ。



 夜になった。


 日は沈み、森の影が深くなる。


 火は中央で燃え続けている。


 誰も完全には眠らない。


 何人かが交代で外周に立つ。


 森の方を見ている。


 子供が泣きかけると、母親がすぐに口を押さえた。


 泣き声が森へ届くのを恐れている。



(剣呑だな)



 火を見つめた。


 火の揺れ。


 木のはぜる音。


 低い呼吸。


 土の匂い。


 その奥で、ふと何かがよぎる。


 音。


 遠い。


 優しげなメロディ。



 ――スターティング・オーヴァー



 顔を上げた。


 誰も反応していない。


 今の音は、外から聞こえたものではない。


 頭の奥で鳴った。



(……なんだ今の)



 知っている気がする。


 でも思い出せない。


 歌だった気がする。


 誰かが好きだった気がする。


 それ以上は出てこなかった。



 翌朝。


 水を運ばされた。


 断る余地はなかった。


 老婆が指を差す。


 容器を渡される。


 川へ行け、ということらしい。


 川は集落から少し離れていた。


 森を抜けた先に、細い流れがある。


 水は冷たい。


 容器は重い。


 満たして持ち上げると、腕にずしりと負担が来る。



(これは、重労働っ……!)



 戻る途中で少しこぼした。


 近くにいた若い男が舌打ちする。


「遅い」


 短い。


 鋭い。


「……すみません」


 反射で謝る。



(謝罪文化あるのか知らんけど)



 男は返事をしない。


 ただ、容器を奪い、運び方を見せる。


 肩の位置。


 足運び。


 揺らさない角度。


 口では説明しない。


 見ろ、ということらしい。



(なるほど)



 もう一度やる。


 今度は少しましだった。


 男は何も言わない。


 だが、舌打ちもしなかった。



(褒めてはくれない)



 昼。


 木の実を集める女たちの手伝いをした。


 食べられるものと、捨てるものを分ける。


 見分けがつかない。


 一つ間違えると、隣の女が無言で弾く。


 また間違える。


 また弾かれる。



(すごいスパルタ)



 やがて、女はひとつの実を手に乗せた。


 食べていい、という意味らしい。


 噛む。


 渋い。



(ぎにゃっ!にがっ!)



 顔に出たのか、近くの子供が少しだけ笑った。


 初めて見た笑顔だった。



(今のはちょっと嬉しい)



 夕方。


 集落の外周で見張りが交代する。


 男たちはほとんど喋らない。


 ただ、南の方角をよく見る。


 つられて見る。


 森の向こう。


 何も見えない。


 だが、皆がそこを見ている。



(南、か)



 その言葉だけは何度か聞いた。


 南。


 来る。


 危ない。


 殺す。


 逃げない。


 断片的な言葉だけで、だいたいの意味は分かった。



 二日目の夜も、火は消えなかった。


 老婆は一度も横にならない。


 火の近くに座り、南を向いている。



(あの人、寝てるの見てないな)



 強い。


 という最初の印象は、たぶん間違っていない。



 三日目。


 外周に立たされた。


 見張りの真似事だった。


 槍は渡されない。


 信用されていないからだろう。


 それはそうだ。


 自分でも、自分を信用できない。



(名前も分からんしな)



 午前中は何も起きなかった。


 風。


 森。


 葉。


 鳥の声。


 それだけ。


 午後になって、背後で大きな足音がした。


 振り返る。


 でかい男がいた。


 本当にでかい。


 背が高いだけではない。


 肩が厚い。


 腕も太い。


 立っているだけで、周囲の空気が少し狭くなる。



「でか〜」



(あ、口に出してしまった)



 男はこちらを見る。


 怒るかと思った。


 だが、少しだけ目を細める。


「よく言われる」



(返すんだ)



 男は隣に立ち、森を見る。


 しばらく何も言わない。


 黙る。


 沈黙が続く。


 不思議と、気まずくはなかった。



「外の者」


 男が言った。


「はい?」


「お前」


「ああ、俺か」


 男は頷く。


「変」


「それはまあ、たぶん」


「でも、悪くない」



(判断早いな)



「なんで分かるんですか」


「顔」


「顔?」


「面倒な顔」



(どういう顔?)



 聞き返そうとしたが、男はもう黙っていた。


 会話終了らしい。


 少しだけ笑いそうになる。



(変な人だな)



 その夜。


 火のそばに座っていると、あの大きな男もいた。


 肉を焼いている。


 手つきが妙に丁寧だった。


 焼けた肉をひとつ、渡してくる。


「食え」


「ありがとう!」


 受け取る。


 前より少しだけ厚い肉だった。



(いい人か?)



 かぶりつく。


 やはりうまい。


 今度は少しだけ焦げが香ばしい。



(この人、焼くのうまいな)



 大きな男は短く言った。


「タダ」


「え?」


「俺」


「ああ、名前か」


 少し間を置く。


「俺は……」


 名乗ろうとして、止まる。


 やはり出てこない。


 だが、その瞬間。


「……シン」


 自然に口から出た。



(出た)



 自分で驚いた。


 タダは頷く。


「シン」


「たぶん」


「たぶんか」


「俺もよく分かってない」


 タダは少しだけ笑った。


「変」


「知ってる」



 火がはぜる。


 その音に重なるように、また遠いメロディがよぎる。


 スターティング・オーヴァー。


 今度は少しだけ長い。



(何の曲なんだっけ)



 タダを見る。


 タダは火を見ていた。


 だが、ほんのわずかに、鼻歌のように息を揺らした気がした。



(……今)



 聞こうとした。


 その瞬間。


 森の奥から、短い叫びが上がった。


 見張りの声。


 火のそばにいた者たちが、一斉に動く。


 老婆が立ち上がる。


 タダも立つ。


 空気が変わる。



「南だ!!」



 誰かが言った。


 声は震えていなかった。


 だが、その場にいた全員の顔が硬くなった。


 南の森を見る。


 まだ何も見えない。


 だが、来る。


 それだけは分かった。



(なんか来る?)



 タダが短く言う。


「下がれ」


「いや、何が」


「下がれ」


 その声に、冗談はなかった。


 一歩下がる。


 森の向こうで、鳥が飛び立つ。


 静かな朝の前にある、長い沈黙。


 その中で、息を飲んだ。



 そして、南の森が揺れて。


 彼女が、いた。



(第二話へ)

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