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就職活動

第四十話 就職活動


⸻


 翌朝、シンは仕事を探すことにした。


⸻


 炉の集落で暮らす。


⸻


 そう決めた以上、ただ肉を食べて寝ているわけにはいかない。


⸻


 いや、肉を食べて寝るだけでも、たぶんタダは何も言わない。


 アサメも何も言わない。


⸻


 集落の者たちも、シンをすぐ追い出すようなことはしないだろう。


⸻


 だが、それでは駄目だと思った。


⸻


 ここにいるなら、何かをしたい。


⸻


 ここで火を見て。


 肉を食べて。


 怒られて。


 働いて。


 覚えて。


⸻


 そう思った。


⸻


 だから、まずアサメに言った。


⸻


「仕事をください」


⸻


 アサメは炉のそばで、黒い炭を見ていた。


⸻


 シンの言葉を聞いて、少しだけ顔を上げる。


⸻


「仕事?」


「はい。就職活動をしたい」


「しゅうしょく?」


「ええと、働き口探し」


「ここに口はある」


「いや、そういう口じゃなくて」


⸻


 シンは少し考えた。


⸻


 この時代に就職活動はない。


 履歴書もない。


 面接もない。


 志望動機もない。


⸻


 スーツもない。


 証明写真もない。


 自分を御社の成長に貢献できる人材として売り込む必要もない。


⸻


 それはそれで、だいぶ羨ましい。


⸻


 ただし、ここには別の厳しさがある。


⸻


 できるか。


 できないか。


⸻


 それだけだ。


⸻


「ここで暮らすなら、働きたい」


 シンは言った。


⸻


「何ができる」


「それを探したい」


「分からないのか」


「分からない」


「なら、やってみろ」


⸻


 アサメは短く言った。


⸻


 雑だった。


⸻


 でも、採用試験開始の合図としては十分だった。


⸻


 シンの就職活動が始まった。


⸻


⸻


 最初の仕事は、薪割りだった。


⸻


 タダが連れていった。


⸻


 集落の裏手に、薪置き場がある。


 雪に濡れないように、低い屋根の下に木が積まれていた。


 太いもの。


 細いもの。


 乾いたもの。


 まだ湿っているもの。


 割りやすそうなもの。


 見るからに割りにくそうなもの。


⸻


 シンには、全部ただの木に見えた。


⸻


 タダは、木を見分けていた。


⸻


 手に取る前から、どれが割れやすいか分かっているらしい。


 持った瞬間、どこへ刃を入れるか決める。


⸻


 鉄の斧を構える。


⸻


 振る。


⸻


 こん。


⸻


 音は軽かった。


⸻


 だが、木は真っ二つになった。


⸻


「え」


⸻


 シンは声を漏らした。


⸻


 タダは気にせず、次の木を置いた。


⸻


 こん。


⸻


 割れる。


⸻


 こん。


⸻


 割れる。


⸻


 こん。


⸻


 割れる。


⸻


 力まかせではない。


 いや、力はある。


 かなりある。


 だが、それだけではない。


⸻


 木の割れ目を見ている。


 乾き方を見ている。


 節を避けている。


 斧の重さを、余計に殺していない。


⸻


 シンは深く頷いた。


⸻


「なるほど。分かった」


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 タダは手を止めた。


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「分かったか」


「分かった気がする」


「それは分かってない」


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 タダは斧を渡した。


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 重い。


⸻


 思っていたより、だいぶ重い。


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 鉄の重さだ。


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 シンは木を置いた。


 タダがやっていたように、割れ目を探す。


⸻


 分からない。


⸻


 全部、木だ。


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 とりあえず真ん中を狙う。


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 振り上げた。


⸻


 重い。


⸻


 振り下ろす。


⸻


 こん。


⸻


 斧が刺さった。


⸻


 割れない。


⸻


 木に刺さったまま、斧が動かない。


⸻


「……」


⸻


 シンは斧を抜こうとした。


⸻


 抜けない。


⸻


 足で木を押さえ、両手で柄を引く。


⸻


 抜けない。


⸻


 タダが横から片手で斧を抜いた。


⸻


「節」


「節?」


「そこは割れない」


「先に言ってほしかった」


「見ろ」


⸻


 シンは木を見た。


⸻


 節があった。


⸻


 確かにあった。


⸻


 見ていなかっただけだ。


⸻


 再挑戦する。


⸻


 今度は節を避けた。


⸻


 振る。


⸻


 こん。


⸻


 少し割れた。


⸻


「お」


⸻


 もう一度。


⸻


 こん。


⸻


 割れた。


⸻


 一つ。


⸻


 シンは息を吐いた。


⸻


「割れた」


⸻


 達成感があった。


⸻


 かなりあった。


⸻


 顔を上げる。


⸻


 その間に、タダは横で十本くらい割っていた。


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「……」


⸻


 子供たちが見ていた。


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 いつの間にか集まっていた。


⸻


「川の男、一つ」


「タダ、十」


「川の男、また一つ」


「タダ、もう二十」


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 実況されていた。


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 かなり厳密に。


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「やめて。数字にされるとつらい」


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 子供たちは笑った。


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 シンは薪割りを続けた。


⸻


 結果。


⸻


 シン、七本。


 タダ、数えきれない。


⸻


 第一志望、薪割り。


⸻


 不採用ではない。


⸻


 だが、即戦力ではなかった。


⸻


⸻


 次の仕事は、鉄を運ぶことだった。


⸻


 これはいけると思った。


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 薪割りは技術がいる。


 山菜は知識がいる。


 火守りも何か難しそうだ。


⸻


 だが、運ぶだけならできる。


⸻


 そう思った。


⸻


 炉のそばには、黒い塊がいくつか置かれていた。


⸻


 鉄そのものなのか、鉄になる前のものなのか、シンにはよく分からない。


 だが、炉の男がそれを指した。


⸻


「これを向こうへ」


「分かった」


⸻


 シンは両手で持った。


⸻


 重い。


⸻


 見た目より、重い。


⸻


 石の重さとも違う。


 水の重さとも違う。


 体の中心を下へ引っ張るような重さだった。


⸻


 足元に注意しながら歩く。


⸻


 数歩。


⸻


 いける。


⸻


 いけるぞ。


⸻


 そう思った瞬間、泥で足が滑った。


⸻


「あ」


⸻


 鉄の塊が手からずれた。


⸻


 落ちる。


⸻


 自分の足の上に。


⸻


(終わった)


⸻


 次の瞬間、横から太い手が伸びた。


⸻


 タダだった。


⸻


 鉄の塊を、片手で受け止めていた。


⸻


 音もなかった。


⸻


 ただ、そっと止めた。


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 シンの足の指の上、ほんの少し手前で。


⸻


「……ありがとう」


⸻


 タダは鉄を持ったまま、シンを見た。


⸻


「足、潰れる」


「はい」


「潰れたら歩けない」


「はい」


「歩けないと肉を取りに行けない」


「肉基準なの?」


⸻


 タダは答えず、鉄を所定の場所へ置いた。


⸻


 集落の子供たちは、また見ていた。


⸻


「川の男、足つぶし」


「足つぶし候補」


「ごくつぶし!」


⸻


「この時代でその罵倒早くない?!」


⸻


 第二志望、鉄運び。


⸻


 危険。


⸻


 保留。


⸻


⸻


 次は、火守りだった。


⸻


 火守り。


⸻


 言葉だけ聞けば、少し格好いい。


⸻


 火を守る。


⸻


 この物語全体に関わるような、壮大な仕事に聞こえる。


⸻


 だが実際は、火を消さないように、煙を逆流させないように、薪を足しすぎないように、灰を整え、風を見て、炭の赤を保つ仕事だった。


⸻


 つまり、難しい。


⸻


 シンはそれを、五分で理解した。


⸻


 まず、湿った薪を入れた。


⸻


 煙が増えた。


⸻


 慌てて細い枝を足した。


⸻


 さらに煙が増えた。


⸻


 火が弱くなったので、息を吹きかけた。


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 灰が舞った。


⸻


 自分の顔にかかった。


⸻


「ぶっ」


⸻


 子供が笑った。


⸻


 かなり笑った。


⸻


 アサメが来た。


⸻


 黙って火を見る。


⸻


 それから、煙を見る。


⸻


 最後に、シンの顔を見た。


⸻


「火を見るな」


「え」


「火の周りを見ろ」


⸻


 アサメは湿った薪を一本抜いた。


⸻


 灰を少しどける。


 炭の向きを変える。


 入口の風を手で確かめる。


⸻


 火が少し息をした。


⸻


 煙が細くなった。


⸻


「火は、火だけでは燃えない」


⸻


 アサメは言った。


⸻


「木。風。灰。土。湿り。人の手。全部で燃える」


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 シンは灰まみれの顔で頷いた。


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「深い」


「顔を洗え」


「はい」


⸻


 第三志望、火守り。


⸻


 顔面灰。


⸻


 不採用寄り。


⸻


⸻


 次は、山菜採りだった。


⸻


 これは、慎重にいこうと思った。


⸻


 前の失敗を踏まえる。


⸻


 見る。


 聞く。


 勝手に触らない。


 勝手に食べない。


⸻


 シンは自分に言い聞かせた。


⸻


 アサメが山へ連れていった。


⸻


 タダもついてきた。


⸻


 なぜか。


⸻


 シンには分かった。


⸻


 運搬係だ。


⸻


 自分を。


⸻


「そこまで信用ない?」


⸻


 タダは答えなかった。


⸻


 沈黙が答えだった。


⸻


 山には、雪の下から緑が出始めていた。


⸻


 若い芽。


 丸まった葉。


 赤みを帯びた茎。


 枯れ葉の下から顔を出す、小さな春。


⸻


 アサメはそれを、迷いなく見分ける。


⸻


「これは食える」


「これは」


「腹を壊す」


「これは」


「苦い。食える」


「これは」


「触るな」


⸻


「触るな、があるのか」


「ある」


⸻


 シンは少し緊張した。


⸻


 山菜採りは、思っていたより命がけだった。


⸻


 アサメは採りながら説明する。


⸻


 根を残すもの。


 上だけ折るもの。


 若いものだけ食うもの。


 火を通せば食えるもの。


 水にさらすもの。


 匂いで見分けるもの。


 似ているが違うもの。


⸻


 多い。


⸻


 情報量が多い。


⸻


 シンの頭の中で、ウロオボエ様が遠い目をした。


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(これは覚えきれない)


⸻


 そう思った時だった。


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 足元に、見覚えのあるような草があった。


⸻


 柔らかそうな若い葉。


 少し艶がある。


 香りも悪くない。


⸻


(これは……食えそう)


⸻


 シンは慎重に見た。


⸻


 アサメは少し離れている。


 タダは大きな籠を背負っている。


⸻


 子供たちなら勝手に食べるかもしれない。


 いや、それは危ない。


⸻


 だから、まず自分が確認する。


⸻


 そう思った。


⸻


 この時点で、だいぶ間違っていた。


⸻


 シンは小さな葉を一枚ちぎった。


⸻


 匂いを嗅ぐ。


⸻


 悪くない。


⸻


 少しだけ噛んだ。


⸻


 苦い。


⸻


 だが、いける。


⸻


 いや、いけるか。


⸻


 いける。


⸻


 次の瞬間、舌がしびれた。


⸻


「ん?」


⸻


 口の中が変だった。


⸻


 苦い。


 渋い。


 しびれる。


⸻


 舌が、勝手に太くなったような気がする。


⸻


 世界が少し回った。


⸻


「あ、これ、駄目なやつかも」


⸻


 アサメが振り向いた。


⸻


 目が細くなる。


⸻


「食ったか」


「少し」


「吐け」


「ほげぇ」


⸻


 シンは言われた通りにした。


⸻


 だが、遅かった。


⸻


 足元がふわっとした。


⸻


 視界が斜めになった。


⸻


「おっと」


⸻


 倒れる前に、タダが受け止めた。


⸻


 大きな腕に抱えられる。


⸻


 そのまま、荷物のように肩へ担がれた。


⸻


「またか」


 タダが言った。


⸻


「また、って言った?」


⸻


 シンの声は、自分でも情けなかった。


⸻


「山では、知らないものを食うな」


 アサメが言った。


⸻


「はい」


「見てから食え」


「見ました」


「見えていない」


「はい」


⸻


 第四志望、山菜採り。


⸻


 毒草に敗北。


⸻


 タダにより搬送。


⸻


⸻


 集落に戻った時、子供たちは大喜びだった。


⸻


 シンがタダの肩に担がれて帰ってきたからだ。


⸻


 しかも、口がしびれてうまく喋れない。


⸻


「川の男、草に負けた!」


「草つよい!」


「足も弱い!」


「火にも負けた!」


「木にも負けた!」


⸻


「ひょっろ待っへ。全部並べると本当にひどぅい」


⸻


 舌が回らない。


⸻


 子供たちはさらに笑った。


⸻


 シンは土の上に寝かされた。


⸻


 タダが水を持ってくる。


 アサメが苦いものを飲ませる。


 年配の女が遠くから一度見て、鼻で笑った。


⸻


「山に採られかけたね」


⸻


 それだけ言って、去っていった。


⸻


(誰!?)


⸻


 聞く元気はなかった。


⸻


 口のしびれが引くまで、シンはしばらく横になった。


⸻


 子供たちの声が聞こえる。


⸻


「川の男、仕事ないね」


「肉は食べる」


「草には負ける」


「炉の糞なら拾えるかも」


「炉の糞?」


「黒いやつ」


「拾っても怒られるよ」


⸻


 笑い声。


⸻


 悪意はない。


⸻


 でも、刺さった。


⸻


 かなり刺さった。


⸻


 シンは空を見た。


⸻


 木々の隙間から、白い雲が見える。


⸻


(何やってんだろうな、俺)


⸻


 ここで暮らす。


 働く。


 役に立つ。


⸻


 そう思った。


⸻


 だが、結果はどうだ。


⸻


 薪はタダの十分の一以下。


 鉄は足に落としかける。


 火守りは灰まみれ。


 山菜は毒草。


⸻


 子供に笑われる。


⸻


 情けない。


⸻


 死に戻りがどうとか。


 時代を越えるとか。


 モモを救うとか。


 ヤマトを知るとか。


⸻


 大きなことを考えているくせに、目の前の薪一本まともに割れない。


⸻


(だっせぇ)


⸻


 シンは目を閉じた。


⸻


 少しだけ、前の時代を思い出した。


⸻


 コト。


 ユナ。


 タダ。


 火。


⸻


 あの時も、シンは何も分からなかった。


⸻


 それでも、時々、うろ覚えの知識が役に立った。


⸻


 正確ではない。


 立派でもない。


 誰かに教えられるほどのものでもない。


⸻


 ただ、どこかで聞いた。


 昔、見た。


 学校で習った気がする。


 テレビで見た気がする。


 ネットで読んだ気がする。


 自分がどこにいたのかはわからないが。


⸻


 そんな曖昧なもの。


⸻


 シンは、それを前の時代で冗談みたいに呼んでいた。


⸻


 ウロオボエ様。


⸻


 忘れかけた知識の神様。


⸻


 頼りない。


 だが、たまに仕事をする。


⸻


(ウロオボエ様……)


⸻


 シンは目を閉じたまま、心の中で手を合わせた。


⸻


(このままだと就職先がありません)


(何か、ありませんか)


⸻


 返事はなかった。


⸻


 そりゃそうだ。


⸻


 神様ではない。


 ただのうろ覚えだ。


⸻


 シンはそのまま、少し眠った。


⸻


⸻


 事件が起きたのは、夕方前だった。


⸻


 シンの口のしびれがようやく引き、立てるようになった頃。


⸻


 集落の端で、山鳥が飛び出した。


⸻


 突然だった。


⸻


 ばさばさばさっ。


⸻


 藪の中から、丸い体の鳥が飛び上がる。


 羽音がやたら大きい。


 飛ぶのがあまりうまくない。


 だが、驚かせる力だけはすごい。


⸻


「うわっ!!」


⸻


 シンは本気で驚いた。


⸻


 子供たちはそれを見て、また笑った。


⸻


「川の男、鳥にも負けた!」


「今のはずるいだろ!」


⸻


 山鳥は低く飛び、魚を干している小屋の方へ突っ込んだ。


⸻


 小屋といっても、低い屋根と柱だけの乾し場だ。


 下では白い煙が細く上がっている。


 魚を燻すための火だ。


⸻


 山鳥は、その柱にぶつかりかけ、慌てて方向を変えた。


⸻


 子供の一人が追いかけた。


⸻


「待て!」


「待たないだろ!」


⸻


 シンは言ったが、子供は聞いていない。


⸻


 山鳥は羽ばたき、乾いた葦の束を倒した。


⸻


 葦が火の近くへ落ちる。


⸻


 すぐには燃えなかった。


⸻


 だが、煙が増えた。


⸻


 白い煙が、急に濃くなる。


⸻


 子供は山鳥を追って、乾し場の奥へ入った。


⸻


 そこで、咳き込んだ。


⸻


「けほっ」


⸻


 シンは眉を寄せた。


⸻


 煙が多い。


⸻


 火は小さい。


 だが、煙が屋根の下に溜まっている。


⸻


 子供が戻ろうとして、反対側へ動いた。


⸻


 煙で見えていない。


⸻


 また咳き込む。


⸻


「おい、こっち!」


⸻


 シンは声をかけた。


⸻


 子供は聞こえているのか分からない。


 煙の中で、変な方向へ手を伸ばしている。


⸻


 周りの子供たちが騒ぎ始めた。


⸻


 大人たちは少し離れた場所にいた。


 タダもアサメも、炉の方にいる。


⸻


 煙。


⸻


 子供。


⸻


 低い屋根。


⸻


 その瞬間、シンの中で何かが繋がった。


⸻


 学校。


 避難訓練。


 ハンカチ。


 姿勢を低く。


 煙は上。


⸻


(ウロオボエ様!!)


⸻


 シンは近くにあった布を桶の水に突っ込んだ。


⸻


 濡れた布を口元に当てる。


⸻


 それから、立ったままではなく、体を低くした。


⸻


 膝をつく。


 ほとんど這うように、煙の下へ入る。


⸻


 上は白い。


 目が痛い。


 だが、下は少しましだった。


⸻


 完璧ではない。


 煙は下にも来る。


⸻


 それでも、立って入るよりは息ができる。


⸻


「こっち!」


⸻


 シンは低い姿勢のまま、子供の足を掴んだ。


⸻


 子供が驚いて、暴れかける。


⸻


「低く! 這え!」


⸻


 自分でも、なぜそんな言葉が出たのか分からない。


⸻


 ただ、そう言った。


⸻


 子供は咳き込みながら、シンの腕にしがみついた。


⸻


 シンは引っ張った。


⸻


 重い。


⸻


 子供なのに重い。


⸻


 自分の体力のなさが、ここでも出る。


⸻


 だが、今度は離さなかった。


⸻


 低く。


 煙の下を。


 出口へ。


⸻


 外へ出た瞬間、冷たい空気が顔に当たった。


⸻


 シンは子供を抱えたまま転がった。


⸻


 子供が咳き込む。


⸻


 泣きはしない。


 でも、目が赤い。


⸻


 シンも咳き込んだ。


⸻


「げほっ、げほっ……煙、えぐ……」


⸻


 その時、タダが来た。


⸻


 遅いわけではない。


 むしろ早い。


⸻


 だが、シンが先に動いていた。


⸻


 タダは乾し場を見ると、すぐに葦の束をどけ、火を押さえた。


 アサメが屋根の脇を開ける。


 煙が逃げた。


⸻


 白い煙が上へ抜ける。


⸻


 子供たちは黙っていた。


⸻


 さっきまで笑っていた子たちが、今はシンを見ている。


⸻


 ミコはいない。


 オキの集落ではない。


⸻


 ここは山の炉集落だ。


⸻


 でも、子供の目は同じだった。


⸻


 何かを見た目だ。


⸻


 アサメが近づいてきた。


⸻


「なぜ低く入った」


「煙は上に溜まるから」


「誰に聞いた」


⸻


 シンは咳き込みながら、少し考えた。


⸻


「ウロオボエ様」


⸻


 アサメは無言だった。


⸻


 タダも無言だった。


⸻


 子供たちも無言だった。


⸻


 沈黙。


⸻


 やや長い沈黙。


⸻


「誰だ」


 アサメが聞いた。


⸻


「俺の中にいる、だいたいしか覚えてない神様」


⸻


 アサメはさらに無言になった。


⸻


 タダが子供の背を軽く叩いて、呼吸を確かめている。


⸻


 子供は大丈夫そうだった。


⸻


 シンは咳をしながら続けた。


⸻


「本当は神様じゃないけど。昔、どこかで聞いた気がするやつ。ちゃんとは覚えてないけど、たまに役に立つ」


⸻


 子供の一人が言った。


⸻


「うろおぼえさま?」


「そう」


「煙の神?」


「いや、雑な記憶の神」


「雑?」


「かなり雑」


⸻


 子供たちは顔を見合わせた。


⸻


 それから、一人が言った。


⸻


「川の男、うろおぼえ」


⸻


 別の子が言った。


⸻


「でも、助けた」


⸻


 その一言で、空気が少し変わった。


⸻


 笑いではなかった。


⸻


 まだ、尊敬というほどでもない。


⸻


 でも、さっきまでの「草に負けた男」だけではなくなった。


⸻


 シンはその変化を感じた。


⸻


 小さい。


⸻


 本当に小さい。


⸻


 でも、確かに変わった。


⸻


 タダがシンを見た。


⸻


「動けたな」


「動けた」


「咳は」


「出る」


「煙を吸った」


「少し」


「水を飲め」


「はい」


⸻


 タダは水を渡した。


⸻


 アサメは乾し場の煙を見ていた。


⸻


「火の周りを見たな」


⸻


 シンは顔を上げた。


⸻


「え?」


「子供。煙。屋根。水。布。出口。全部見た」


⸻


 アサメはシンを見た。


⸻


「火だけを見なかった」


⸻


 それは、褒め言葉だった。


⸻


 アサメにしては、かなり。


⸻


 シンは少しだけ照れた。


⸻


「じゃあ、火守り採用?」


「まだ」


「厳しい」


「だが、子供のそばにはいろ」


「子供のそば?」


「お前は、弱い者の失敗に気づく」


⸻


 シンは黙った。


⸻


 弱い者の失敗。


⸻


 自分が失敗ばかりしているから。


 怖いから。


 分からないから。


 小さなことに驚くから。


⸻


 たぶん、気づけた。


⸻


 強い者なら、気にしないこと。


 山の民なら当たり前に避けること。


 タダなら力で解決できること。


 アサメなら最初から見抜くこと。


⸻


 シンは、できない側にいる。


⸻


 だから、できない子供の動きが見えた。


⸻


「それ、仕事になるのか」


「なる」


 アサメは言った。


⸻


 短く。


 だが、はっきりと。


⸻


 タダが頷いた。


⸻


「子供はすぐ死ぬ」


「言い方」


「見ていろ」


⸻


 子供たちは、少しだけ不満そうだった。


⸻


「死なないし」


「俺、煙ちょっとだけだったし」


「山鳥が悪い」


⸻


 その時、少し離れた枝の上で、さっきの山鳥がまた羽を鳴らした。


⸻


 ばさっ。


⸻


 シンは肩を跳ねさせた。


⸻


「うわっ」


⸻


 子供たちが笑った。


⸻


「また負けた!」


「鳥に弱い!」


⸻


 シンは枝の上の山鳥を睨んだ。


⸻


(こいつ……)


⸻


 妙に丸い。


 妙に図々しい。


 妙に人を驚かせる。


⸻


(トリビックリクン……)


⸻


 心の中で命名した。


⸻


 おそらく、長い付き合いに……なりたくない。


⸻


⸻


 その夜、シンは炉のそばに座っていた。


⸻


 咳は少し残っている。


 口のしびれはもう消えた。


 体は疲れていた。


⸻


 就職活動初日としては、かなり激しい一日だった。


⸻


 薪割り。


 鉄運び。


 火守り。


 山菜採り。


 毒草。


 煙。


 子供救出。


 ウロオボエ様。


 トリビックリクン。


⸻


 情報量が多い。


⸻


 シンは火を見た。


⸻


 火だけを見るな。


 火の周りを見ろ。


⸻


 アサメの言葉が残っている。


⸻


 それは、火守りだけの話ではない気がした。


⸻


 モモだけを見るな。


 鬼だけを見るな。


 ヤマトだけを見るな。


⸻


 その周りを見ろ。


⸻


 鉄。


 道。


 川。


 山。


 子供。


 肉。


 煙。


 骨。


 笑い。


 失敗。


⸻


 全部で、今が燃えている。


⸻


 シンは小さく息を吐いた。


⸻


「ウロオボエ様」


⸻


 誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。


⸻


「あなた、まだいたんですね」


⸻


 もちろん返事はない。


⸻


 でも、シンの中で、忘れかけていた変な神様が少しだけ復活した。


⸻


 完璧な知識ではない。


 正しいとは限らない。


 役に立つかも分からない。


⸻


 でも、何もできないわけではない。


⸻


 うろ覚えでも、誰かを助けられる時がある。


⸻


 なら、それも自分の仕事かもしれない。


⸻


 タダが肉を持ってきた。


⸻


 無言で、シンの前に置く。


⸻


「食え」


「今日、採用祝い?」


「煙を吸った」


「そっちか」


「食えば治る」


「タダ理論、万能だな」


⸻


 シンは肉を食べた。


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 うまかった。


⸻


 とても。


⸻


 少し離れたところで、子供たちがこちらを見ていた。


⸻


 その中の一人が言った。


⸻


「うろおぼえ」


⸻


 別の子が言った。


⸻


「煙の時は、うろおぼえ」


⸻


「いや、名前みたいにするな」


⸻


 子供たちは笑った。


⸻


 でも、さっきとは少し違う笑いだった。


⸻


 シンを馬鹿にしているだけではない。


 仲間内の変なものとして、笑っている。


⸻


 たぶん。


⸻


 たぶんだ。


⸻


 シンは肉を噛みながら、少しだけ嬉しくなった。


⸻


 就職先は、まだ決まっていない。


⸻


 薪割りは弱い。


 鉄運びは危ない。


 火守りは顔が灰になる。


 山菜採りは命が危ない。


⸻


 でも。


⸻


 子供のそばにいる。


 弱い者の失敗に気づく。


 うろ覚えで、たまに役に立つ。


⸻


 そんな仕事なら、少しできるかもしれない。


⸻


 シンは炉の火を見た。


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 火だけではなく、その周りも。


⸻


 タダ。


 アサメ。


 子供たち。


 薪。


 灰。


 煙。


 肉。


 山鳥。


⸻


 そして、自分。


⸻


 少しだけ、そこに混じれた気がした。


⸻


 たった少し。


⸻


 でも、確かに。


⸻


 シンの一時就職先:保育士。


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(第四十一話へ)

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