帰る場所
第三十九話 帰る場所
⸻
山道は、来た時より歩きやすかった。
⸻
雪が薄くなっている。
踏むと、ぎ、と鳴る。
場所によっては、もう土が見えていた。
日当たりのいい斜面では、雪が泥と混じり、靴の下に重くまとわりつく。
⸻
春の雪だ。
⸻
白い。
でも、冬の白ではない。
⸻
少し汚れている。
少し緩んでいる。
少しずつ、水へ戻り始めている。
⸻
シンは杖をつきながら歩いた。
⸻
足は、もうほとんど痛まない。
ただ、長く歩くと傷の奥が少し重くなる。
そこに矢が刺さったことを、体がまだ忘れていない。
⸻
忘れない者は重くなる。
⸻
オキの言葉を思い出した。
⸻
(体も、忘れてないってことか)
⸻
シンは小さく息を吐いた。
⸻
懐には、ミコにもらった赤い石がある。
布に包んで、胸の近くに入れていた。
⸻
歩くたびに、小さく当たる。
⸻
重くはない。
だが、存在は分かる。
⸻
川に濡れた夕焼け色の石。
ミコが「山へ行くなら、赤が見える方がいい」と言って渡した石。
⸻
赤は残る。
⸻
その言葉も、一緒に入っていた。
⸻
歩きながら、イヌのことを考えていた。
⸻
赤と黒。
軽い足。
逃げることに慣れた目。
⸻
ヤマトか、と聞かれて、イヌは「まだ違う」と言った。
⸻
まだ。
⸻
違う、ではない。
まだ、違う。
⸻
(いずれ、そうなるかもしれないってことか)
(もう、なりかけてるってことか)
⸻
分からない。
⸻
分からないことばかりだ。
⸻
けれど、イヌが警告したことだけは分かる。
⸻
春になれば、ヤマトの軍が来る。
道が乾く。
川が落ち着く。
雪が消える。
⸻
そして、人が動ける。
⸻
山も。
川も。
ヤマトも。
⸻
春が、ただ暖かいだけの季節ではなくなった。
⸻
シンは、泥の上に残る足跡を見た。
⸻
自分の足跡だ。
そこに、さっき通った鹿らしき跡が重なっている。
さらに細い鳥の跡が、その上を横切っている。
⸻
道は、一つではない。
⸻
人だけが歩くわけでもない。
⸻
イヌは「道を一つにするな」と言った。
⸻
それは、たぶん逃げ道の話だけではない。
暮らしの話でもある。
情報の話でもある。
火の話でもある。
⸻
ひとつに集めれば、管理される。
ひとつに集めれば、奪われる。
ひとつに集めれば、焼かれる。
⸻
では、散らせばいいのか。
隠せばいいのか。
逃げればいいのか。
⸻
それも、分からない。
⸻
分からないまま、シンは山へ戻っている。
⸻
アサメに伝えるため。
タダに伝えるため。
炉の集落に、春のことを知らせるため。
⸻
それは嘘ではない。
⸻
でも、それだけではなかった。
⸻
戻りたい、と思っていた。
⸻
いつの間にか。
⸻
オキの集落を出る時、そう思っていた。
⸻
白い煙も、川の音も、ミコの赤い紐も、オキの目も、全部胸に残っている。
また来る、と言った。
その約束も本当だ。
⸻
それでも、シンの足は山へ向かった。
⸻
山の炉へ。
重い黒い煙へ。
タダの肉へ。
アサメの紅い衣へ。
⸻
戻る、という言葉が自然に出た。
⸻
そのことに、シン自身が少し驚いていた。
⸻
昼を少し過ぎた頃、見覚えのある岩が見えた。
⸻
鳥の嘴みたいな岩。
⸻
アサメが教えてくれた道しるべだ。
⸻
そこを越えれば、もう山の炉集落は近い。
⸻
風が変わった。
⸻
川の湿った匂いが薄れ、炭の匂いが少しずつ混じり始める。
冷たい土の匂い。
乾きかけた木の匂い。
焼けた石の匂い。
⸻
鉄の匂い。
⸻
(帰ってきた)
⸻
そう思った。
⸻
まだ集落は見えていない。
それでも、匂いで分かった。
⸻
あの火の場所だ。
⸻
シンは、少しだけ歩くのが速くなった。
⸻
すぐに足の奥が重くなった。
⸻
「調子に乗るなってことね」
⸻
誰に言うでもなく呟く。
⸻
すると、木の向こうに大きな影が見えた。
⸻
タダだった。
⸻
薪を抱えていた。
⸻
抱えていた、という量ではない。
小屋一つ分くらいありそうに見える。
普通なら数人で運ぶ量だ。
⸻
タダはそれを、普通の顔で持っていた。
⸻
シンに気づいて、止まった。
⸻
「戻ったか」
「戻った」
「足は」
「もう痛くない」
⸻
タダは薪を抱えたまま、シンを見た。
⸻
上から下まで。
頭。
肩。
腹。
足。
荷。
顔。
⸻
最後に、少し眉を寄せた。
⸻
「痩せた」
「そうか?」
「痩せた」
「オキの集落でも食べてたぞ」
「あの老人は食が細い。客にも少ししか出さん」
「詳しいな」
「行ったことがある」
⸻
タダはそれだけ言って、薪を持ち直した。
⸻
シンは思わず笑った。
⸻
「タダ、オキのところで何してたんだ」
「肉を食った」
「だろうな」
「薪を割った」
「だろうな」
「魚を食った」
「それは分かる」
「足りなかった」
「そこまで分かる」
⸻
タダは少しだけ頷いた。
⸻
「肉、焼くか」
⸻
シンは止まった。
⸻
その一言で、足の疲れが少し飛んだ。
⸻
「焼いてほしい」
「焼く」
「すごい助かる」
「当たり前だ」
⸻
(タダはタダだな)
⸻
何の時代でも。
どんな場所でも。
タダは、肉と火の方へ人を引っ張る。
⸻
それが妙にありがたかった。
⸻
集落へ入ると、最初に子供がシンを見つけた。
⸻
火のそばで枝を集めていた小さな子だ。
名前はまだ知らない。
顔は煤で少し黒い。
⸻
「あ、川の男だ」
⸻
シンは足を止めた。
⸻
「川の男?」
⸻
別の子供も振り向いた。
⸻
「川くさい」
「魚くさい」
「煙が白い」
⸻
「俺、そんな匂いする?」
⸻
子供たちは同時に頷いた。
⸻
かなり遠慮がない。
⸻
「マジか」
⸻
タダが横から言った。
⸻
「洗え」
「帰ってきて最初の言葉がそれ?」
「二番目だ」
「正確」
⸻
子供の一人が、シンの懐のあたりを指した。
⸻
「赤いの、持ってる」
⸻
シンは少し驚いた。
⸻
布に包んでいたはずだ。
でも、少しだけ見えていたのかもしれない。
⸻
「川で拾った石」
「くれ」
「駄目」
「なんで」
「もらったから」
「誰に」
「ミコ」
「誰」
「川を見る子」
「川って見るの?」
「見るらしい」
「水じゃん」
「俺もそう思う」
⸻
子供たちは、よく分からないという顔をした。
⸻
それから、すぐに別のものへ興味が移った。
タダの薪の量だ。
⸻
「タダ、それ燃やすの?」
「燃やす」
「全部?」
「いつか」
「今日?」
「違う」
「じゃあ何でそんなに持つの?」
「持てるから」
⸻
子供たちは納得したような、していないような顔をした。
⸻
シンは笑った。
⸻
こういう会話も、戻ってきた感じがする。
⸻
炉のそばに、アサメがいた。
⸻
紅い衣。
右腕の文様。
火のそばで、背筋を伸ばして立っている。
⸻
アサメはシンを見た。
⸻
驚かなかった。
⸻
まるで、戻ってくることを最初から知っていたような顔だった。
⸻
「戻ったか」
「戻った」
「遅かった」
「雪道だったので」
「それもあるな」
⸻
アサメはそれだけ言って、炉に向き直った。
⸻
終わりだった。
⸻
それだけ。
⸻
(軽いな)
⸻
いや。
軽いのではない。
⸻
それが、アサメの受け入れ方なのだ。
⸻
戻ったか。
戻った。
⸻
それで足りる。
⸻
それ以上、抱きしめたり、心配したり、泣いたりはしない。
だが、戻る場所としては開いている。
⸻
シンは、そのことに少しだけ胸が温かくなった。
⸻
「イヌが来た」
シンは言った。
⸻
アサメの目が、炉から離れた。
⸻
ほんの少し。
⸻
「赤黒い男か」
「知ってるのか」
「噂だけ。南の方で動いている者がいると聞いていた」
「オキにも南の果てから来たって看破されてた」
「オキなら言う」
「知ってるのか?」
「昔からだ」
⸻
アサメは短く答えた。
⸻
昔から。
⸻
その言葉の中には、山と川の行き来があった。
オキとアサメの間にある、見えない道があった。
⸻
「春になれば、ヤマトの軍が来るって言ってた」
⸻
アサメは表情を変えなかった。
⸻
ただ、炉を見た。
⸻
火が少しだけ揺れた。
⸻
「川沿いを上る。山にも入る。炉を探す。鉄を探す。人の名を求める。そう言ってた」
「そうか」
「驚かないんだな」
「山が言っていた」
「山が?」
「雪の沈み方が違った。獣の動きも違う。川から来る話が重くなっていた」
⸻
シンは眉を寄せた。
⸻
「話が重いって、オキみたいなこと言うな」
「オキが言うなら、そうなのだろう」
「そこは認めるんだ」
⸻
アサメは少しだけ口元を動かした。
⸻
笑った、ように見えた。
⸻
「どうするんだ」
シンは聞いた。
⸻
「今は、ここにいる」
「ヤマトが来るかもしれないのに?」
「来るまでは、ここにいる」
「来てから考えるってこと?」
「違う」
⸻
アサメは炉を見たまま言った。
⸻
「来るまで、暮らす」
⸻
その言葉に、シンは少し黙った。
⸻
来るまで、暮らす。
⸻
逃げるでもない。
待つでもない。
何もしないでもない。
⸻
暮らす。
⸻
火を保つ。
鉄を作る。
肉を食べる。
道を見張る。
子供を叱る。
水を運ぶ。
薪を割る。
山菜を探す。
笑う。
眠る。
⸻
そういう全部を、来るまで続ける。
⸻
「それで間に合うのか」
「間に合わせる」
「どうやって」
「暮らしながら」
⸻
アサメは当たり前のように言った。
⸻
シンはすぐには理解できなかった。
⸻
けれど、その言葉は炉の火みたいに残った。
⸻
暮らしながら。
⸻
戦う準備をする。
逃げる準備をする。
残す準備をする。
捨てる準備をする。
⸻
たぶん、全部だ。
⸻
それは、シンが思っていた「対策」とは違う。
作戦図を広げて、全員で会議して、誰がどこへ行くかを決めるようなものではない。
⸻
でも、この時代のこの山では、そういうものなのかもしれない。
⸻
暮らしそのものが、準備なのだ。
⸻
⸻
夕方、タダが肉を焼いた。
⸻
鹿だった。
⸻
大きい。
⸻
タダは黙って、丁寧に焼いた。
肉を火に近づけすぎない。
遠ざけすぎない。
脂が落ちる場所を見て、炭を少し動かす。
焦げそうになると、手首だけで角度を変える。
⸻
焼く、というより、火と肉の間を取り持っているようだった。
⸻
香ばしい匂いが集落に広がった。
⸻
(これは駄目だ)
⸻
腹が鳴った。
⸻
かなり大きく鳴った。
⸻
子供たちが一斉にシンを見た。
⸻
「川の男、腹が鳴った」
「魚じゃ足りなかったんだ」
「川は腹が減る」
⸻
「川の男で定着しつつあるな」
シンは小さく言った。
⸻
タダが肉を差し出した。
⸻
「食え」
「いただきます」
「もっと食え」
「まだ一口目!」
⸻
肉を食べた。
⸻
うまかった。
⸻
かなり、うまかった。
⸻
オキの集落の食事は質素だった。
魚と塩と、少しの根や草。
あれも良かった。
川の味がした。
⸻
でも、タダの肉は違う。
⸻
脂がある。
熱がある。
噛むと、口の中に山の匂いが広がる。
⸻
(うま……)
⸻
声に出す余裕がなかった。
⸻
ただ食べた。
⸻
タダがまた肉を置いた。
⸻
「食え」
「食う」
「痩せた」
「取り戻す」
⸻
アサメが横で肉を食べていた。
⸻
赤い衣のまま、当然のように肉を食べている。
豪快ではない。
だが、迷いがない。
⸻
シンは、肉を噛みながらアサメを見た。
⸻
「何だ」
「いや。帰ってきた感じがするなと思って」
「ここは山だ」
「そういう意味じゃなくて」
「では何だ」
⸻
シンは少し考えた。
⸻
帰ってきた。
⸻
そう思った理由。
⸻
タダがいるからか。
肉があるからか。
アサメがいるからか。
炉があるからか。
子供たちに川くさいと言われるからか。
⸻
たぶん、全部だ。
⸻
「戻る場所があるって感じ」
シンは言った。
⸻
アサメは少し黙った。
⸻
それから、短く言った。
⸻
「なら、戻ればいい」
⸻
それだけだった。
⸻
あまりに当たり前の言い方だった。
⸻
シンは一瞬、言葉を失った。
⸻
なら、戻ればいい。
⸻
戻る場所があるなら、戻ればいい。
⸻
そこに、難しい感情はなかった。
資格も、許可も、理由も、長い説明もなかった。
⸻
ただ、戻ればいい。
⸻
シンは肉を飲み込んだ。
⸻
「しばらく、ここにいてもいいか」
⸻
言ってから、自分でも少し驚いた。
⸻
聞くつもりはなかった。
でも、言葉が出た。
⸻
アサメはシンを見た。
⸻
タダも、肉を焼く手を止めずに聞いている。
子供たちは、肉に夢中で聞いていない。
炉の男たちは、少しだけこちらを見た。
⸻
「何をする」
アサメが聞いた。
⸻
「何ができるか、まだ分からない」
「分からないのに、いるのか」
「分からないから、いる」
⸻
アサメの目が、少し変わった。
⸻
シンは続けた。
⸻
「オキのところで、見た。川の暮らし。骨流し。鉄と話が流れる場所。イヌの警告も聞いた。でも、まだ分からない。ヤマトのことも、鬼のことも、モモのことも、自分のことも」
⸻
火が爆ぜた。
⸻
ぱち、と小さな音がした。
⸻
「だから、今度はここを見る。炉を見る。山を見る。ここで何が守られているのか、何が狙われているのか、ちゃんと見る」
⸻
シンは少しだけ息を吸った。
⸻
「逃げ込むんじゃなくて。見張るだけでもなくて。できれば、働く。できるかは分からないけど」
⸻
タダが肉を置いた。
⸻
「薪は割れる」
「まだ下手だけど」
「下手でも割れる」
「鉄は運べる」
アサメが言った。
⸻
「落とすかもしれない」
「落とすな」
「頑張る」
「山菜も覚えろ」
「それは難しそう」
「覚えろ」
⸻
子供の一人が言った。
⸻
「川の男、火を吹ける?」
「吹けない」
「じゃあ何できるの」
「それを今から探すんだよ」
「遅い」
「辛辣」
⸻
集落の者たちが少し笑った。
⸻
大きな笑いではない。
でも、火の周りに笑いがあった。
⸻
それが、シンにはひどくありがたかった。
⸻
アサメが言った。
⸻
「いればいい」
⸻
短い言葉だった。
⸻
「役に立つなら使う。邪魔ならどける」
「そこは優しくないんだな」
「邪魔なものを優しく置く場所はない」
「なるほど」
⸻
タダが肉を追加した。
⸻
「食え」
「急に話題変えるじゃん」
「食えば動ける」
「はい」
⸻
シンは食べた。
⸻
肉を食べる。
火を見る。
笑い声を聞く。
⸻
それだけのことなのに、胸の中で何かが少しずつ形を持っていく。
⸻
ここにいる。
⸻
しばらく。
⸻
暮らす。
⸻
その言葉が、だんだん自分の中で重くなっていく。
⸻
重い。
⸻
でも、嫌な重さではなかった。
⸻
⸻
夜が深くなった。
⸻
子供たちは眠った。
炉の男たちは、小さな声で明日の炭の話をしている。
アサメは外へ出て、少し山を見て戻ってきた。
タダは外周を確認していた。
⸻
異常はないらしい。
戻ってきても、何も言わなかった。
だから、そういうことだと分かる。
⸻
炉の火が小さくなる。
⸻
赤い芯だけが残る。
⸻
シンは、住居の外へ出た。
⸻
空は晴れていた。
⸻
星が出ている。
⸻
冬の星だ。
前の時代と同じ星だ。
⸻
だが、見上げている場所は違う。
⸻
川ではない。
炉の山だ。
⸻
シンは懐から赤い石を出した。
⸻
夜の中では、色がよく見えない。
でも、手のひらの中にあると分かる。
⸻
ミコの石。
川の赤。
⸻
火の赤ではない。
山の赤でもない。
⸻
それでも、赤は残る。
⸻
甘い匂いがした。
⸻
シンは顔を上げた。
⸻
木の陰に、モモがいた。
⸻
集落の外れ。
炉の光がぎりぎり届かない場所。
でも、近い。
⸻
今日は、これまでで一番近い。
⸻
白い衣。
黒い髪。
小さな桃色の飾り。
⸻
雪の中で見た時ほど、白に溶けてはいない。
夜の中では、むしろ白く浮いている。
⸻
きれいだった。
⸻
相変わらず。
怖いほど。
⸻
でも、今夜のシンは、すぐに逃げようとは思わなかった。
⸻
「ついてきてたな」
⸻
モモは少しだけ沈黙した。
⸻
「……確認」
「ずっと気づいてたぞ」
「……」
「討ちに来なかった」
「……」
「なんで来なかったんだ」
⸻
モモは少し間を置いた。
⸻
「……処理遅延」
「処理が遅れたから、来なかったのか」
「……」
「それだけか」
「……不明」
⸻
不明。
⸻
モモ自身にも、分からないことがある。
⸻
その事実が、今は少し嬉しかった。
⸻
「俺も不明だらけだよ」
⸻
モモは答えない。
⸻
ただ、立っている。
⸻
刀は抜いていない。
⸻
それだけで、十分な変化だった。
⸻
「しばらく、ここにいることにした」
⸻
モモの瞳が、わずかに動いた。
⸻
「……滞留」
「そう。滞留」
「……理由」
「暮らすため」
⸻
モモは沈黙した。
⸻
意味を探しているのかもしれない。
処理しているのかもしれない。
ただ、何も感じていないだけかもしれない。
⸻
「逃げてるわけじゃない。いや、少しは逃げてるのかもしれないけど。でも、それだけじゃない」
⸻
シンは炉の方を見た。
⸻
赤い光が、住居の隙間から漏れている。
肉の匂いはもう薄い。
代わりに、炭と灰の匂いがする。
⸻
「ここを見たい。ここで働いて、食って、寝て、笑って、叱られて、川くさいって言われて、そういうのをちゃんと見たい」
⸻
モモは答えなかった。
⸻
「オキの集落もそうだった。ミコがいた。白い煙があった。骨流しがあった。イヌが来た。春にヤマトが来るって言った」
⸻
シンはモモを見た。
⸻
「俺は、全部見なきゃいけない。たぶん、お前のことを知るためにも」
⸻
モモの指が、わずかに動いた。
⸻
柄には触れない。
⸻
ただ、指先が少しだけ動いた。
⸻
「……対象シン」
「うん」
「……鬼候補」
「まだ候補か」
「……保留中」
「保留ってことは、まだ斬らないんだな」
「……即時討伐、停止」
⸻
シンは息を吐いた。
⸻
「助かる」
⸻
モモは視線を集落へ向けた。
⸻
炉の方へ。
煙の方へ。
人が眠っている住居の方へ。
⸻
それから、またシンへ戻した。
⸻
「……帰属」
「え?」
「……対象シン、集団帰属を選択」
⸻
帰属。
⸻
硬い言葉だった。
⸻
でも、意味は分かった。
⸻
「そうかもな」
⸻
シンは少し笑った。
⸻
「帰属って言うと、なんか違うけど。まあ、そうかも」
⸻
モモは黙っている。
⸻
「帰る場所にしたいんだと思う」
⸻
その言葉を言った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
⸻
帰る場所。
⸻
言ってしまった。
⸻
前の時代には、言えなかった言葉。
言う前に、世界が終わった言葉。
⸻
「帰る場所」
⸻
モモが繰り返した。
⸻
とても小さな声だった。
⸻
「そう」
「……定義不能」
「だろうな」
⸻
シンは笑った。
⸻
「俺も、まだよく分からない」
⸻
モモは黙っていた。
⸻
だが、消えなかった。
⸻
しばらく、二人の間に夜があった。
⸻
炉の煙。
星。
冷えた空気。
遠くの獣の声。
⸻
それから、シンはふと思いついて言った。
⸻
「次、タダが肉を焼く時、来るか」
⸻
モモの目が、わずかに動いた。
⸻
「……不要」
「不要じゃねえんだよ。うまいんだよ」
「……栄養摂取、不要」
「そういうことじゃない」
⸻
シンは少しだけ前のめりになった。
⸻
「うまいものは、必要だから食べるんじゃない。うまいから食べるんだ」
⸻
モモは動かない。
⸻
「いや、必要でもあるけど。まあ、それはいい。とにかく、タダの肉はすごい。山の鹿。火加減。脂。塩少し。あれは本当にすごい」
⸻
モモは無言だった。
⸻
だが、視線が一度だけ炉へ動いた。
⸻
シンは見逃さなかった。
⸻
「今、見たな」
「……確認」
「肉を確認したな」
「……煙を確認」
「ほぼ肉じゃん」
⸻
モモは答えない。
⸻
けれど、すぐには消えない。
⸻
シンは、その沈黙を少しだけ楽しんだ。
⸻
前なら、こんな時間はなかった。
⸻
鬼。
討つ。
それで終わりだった。
⸻
今は、処理遅延がある。
不明がある。
保留がある。
煙を確認するモモがいる。
⸻
それだけで、まだ続けられる気がした。
⸻
「聞こえてたら、今度来い」
⸻
モモは返事をしなかった。
⸻
白い姿が、夜の中で少し薄くなる。
⸻
消える前に、モモは一言だけ言った。
⸻
「……処理中」
⸻
それから、消えた。
⸻
桃の匂いが、少し残った。
⸻
そして、ほんのわずかに。
⸻
炉の煙の匂いが混じった気がした。
⸻
⸻
シンはしばらく、そこに立っていた。
⸻
夜の山は冷たい。
⸻
でも、背中には炉の熱がある。
⸻
懐には、川の赤い石がある。
⸻
少し離れた場所に、モモの気配の余韻がある。
⸻
春には、ヤマトが来る。
⸻
分からないことは、まだ何一つ解けていない。
⸻
それでも。
⸻
シンは、この山で暮らしてみようと思った。
⸻
死なないためだけではなく。
誰かを見張るためだけでもなく。
⸻
ここで火を見て。
肉を食べて。
怒られて。
働いて。
覚えて。
⸻
ここに帰ってくるために。
⸻
シンは、炉の明かりへ戻った。
⸻
(第四十話へ)




