↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
39/149

帰る場所

第三十九話 帰る場所


⸻


 山道は、来た時より歩きやすかった。


⸻


 雪が薄くなっている。


 踏むと、ぎ、と鳴る。


 場所によっては、もう土が見えていた。


 日当たりのいい斜面では、雪が泥と混じり、靴の下に重くまとわりつく。


⸻


 春の雪だ。


⸻


 白い。


 でも、冬の白ではない。


⸻


 少し汚れている。


 少し緩んでいる。


 少しずつ、水へ戻り始めている。


⸻


 シンは杖をつきながら歩いた。


⸻


 足は、もうほとんど痛まない。


 ただ、長く歩くと傷の奥が少し重くなる。


 そこに矢が刺さったことを、体がまだ忘れていない。


⸻


 忘れない者は重くなる。


⸻


 オキの言葉を思い出した。


⸻


(体も、忘れてないってことか)


⸻


 シンは小さく息を吐いた。


⸻


 懐には、ミコにもらった赤い石がある。


 布に包んで、胸の近くに入れていた。


⸻


 歩くたびに、小さく当たる。


⸻


 重くはない。


 だが、存在は分かる。


⸻


 川に濡れた夕焼け色の石。


 ミコが「山へ行くなら、赤が見える方がいい」と言って渡した石。


⸻


 赤は残る。


⸻


 その言葉も、一緒に入っていた。


⸻


 歩きながら、イヌのことを考えていた。


⸻


 赤と黒。


 軽い足。


 逃げることに慣れた目。


⸻


 ヤマトか、と聞かれて、イヌは「まだ違う」と言った。


⸻


 まだ。


⸻


 違う、ではない。


 まだ、違う。


⸻


(いずれ、そうなるかもしれないってことか)


(もう、なりかけてるってことか)


⸻


 分からない。


⸻


 分からないことばかりだ。


⸻


 けれど、イヌが警告したことだけは分かる。


⸻


 春になれば、ヤマトの軍が来る。


 道が乾く。


 川が落ち着く。


 雪が消える。


⸻


 そして、人が動ける。


⸻


 山も。


 川も。


 ヤマトも。


⸻


 春が、ただ暖かいだけの季節ではなくなった。


⸻


 シンは、泥の上に残る足跡を見た。


⸻


 自分の足跡だ。


 そこに、さっき通った鹿らしき跡が重なっている。


 さらに細い鳥の跡が、その上を横切っている。


⸻


 道は、一つではない。


⸻


 人だけが歩くわけでもない。


⸻


 イヌは「道を一つにするな」と言った。


⸻


 それは、たぶん逃げ道の話だけではない。


 暮らしの話でもある。


 情報の話でもある。


 火の話でもある。


⸻


 ひとつに集めれば、管理される。


 ひとつに集めれば、奪われる。


 ひとつに集めれば、焼かれる。


⸻


 では、散らせばいいのか。


 隠せばいいのか。


 逃げればいいのか。


⸻


 それも、分からない。


⸻


 分からないまま、シンは山へ戻っている。


⸻


 アサメに伝えるため。


 タダに伝えるため。


 炉の集落に、春のことを知らせるため。


⸻


 それは嘘ではない。


⸻


 でも、それだけではなかった。


⸻


 戻りたい、と思っていた。


⸻


 いつの間にか。


⸻


 オキの集落を出る時、そう思っていた。


⸻


 白い煙も、川の音も、ミコの赤い紐も、オキの目も、全部胸に残っている。


 また来る、と言った。


 その約束も本当だ。


⸻


 それでも、シンの足は山へ向かった。


⸻


 山の炉へ。


 重い黒い煙へ。


 タダの肉へ。


 アサメの紅い衣へ。


⸻


 戻る、という言葉が自然に出た。


⸻


 そのことに、シン自身が少し驚いていた。


⸻


 昼を少し過ぎた頃、見覚えのある岩が見えた。


⸻


 鳥の嘴みたいな岩。


⸻


 アサメが教えてくれた道しるべだ。


⸻


 そこを越えれば、もう山の炉集落は近い。


⸻


 風が変わった。


⸻


 川の湿った匂いが薄れ、炭の匂いが少しずつ混じり始める。


 冷たい土の匂い。


 乾きかけた木の匂い。


 焼けた石の匂い。


⸻


 鉄の匂い。


⸻


(帰ってきた)


⸻


 そう思った。


⸻


 まだ集落は見えていない。


 それでも、匂いで分かった。


⸻


 あの火の場所だ。


⸻


 シンは、少しだけ歩くのが速くなった。


⸻


 すぐに足の奥が重くなった。


⸻


「調子に乗るなってことね」


⸻


 誰に言うでもなく呟く。


⸻


 すると、木の向こうに大きな影が見えた。


⸻


 タダだった。


⸻


 薪を抱えていた。


⸻


 抱えていた、という量ではない。


 小屋一つ分くらいありそうに見える。


 普通なら数人で運ぶ量だ。


⸻


 タダはそれを、普通の顔で持っていた。


⸻


 シンに気づいて、止まった。


⸻


「戻ったか」


「戻った」


「足は」


「もう痛くない」


⸻


 タダは薪を抱えたまま、シンを見た。


⸻


 上から下まで。


 頭。


 肩。


 腹。


 足。


 荷。


 顔。


⸻


 最後に、少し眉を寄せた。


⸻


「痩せた」


「そうか?」


「痩せた」


「オキの集落でも食べてたぞ」


「あの老人は食が細い。客にも少ししか出さん」


「詳しいな」


「行ったことがある」


⸻


 タダはそれだけ言って、薪を持ち直した。


⸻


 シンは思わず笑った。


⸻


「タダ、オキのところで何してたんだ」


「肉を食った」


「だろうな」


「薪を割った」


「だろうな」


「魚を食った」


「それは分かる」


「足りなかった」


「そこまで分かる」


⸻


 タダは少しだけ頷いた。


⸻


「肉、焼くか」


⸻


 シンは止まった。


⸻


 その一言で、足の疲れが少し飛んだ。


⸻


「焼いてほしい」


「焼く」


「すごい助かる」


「当たり前だ」


⸻


(タダはタダだな)


⸻


 何の時代でも。


 どんな場所でも。


 タダは、肉と火の方へ人を引っ張る。


⸻


 それが妙にありがたかった。


⸻


 集落へ入ると、最初に子供がシンを見つけた。


⸻


 火のそばで枝を集めていた小さな子だ。


 名前はまだ知らない。


 顔は煤で少し黒い。


⸻


「あ、川の男だ」


⸻


 シンは足を止めた。


⸻


「川の男?」


⸻


 別の子供も振り向いた。


⸻


「川くさい」


「魚くさい」


「煙が白い」


⸻


「俺、そんな匂いする?」


⸻


 子供たちは同時に頷いた。


⸻


 かなり遠慮がない。


⸻


「マジか」


⸻


 タダが横から言った。


⸻


「洗え」


「帰ってきて最初の言葉がそれ?」


「二番目だ」


「正確」


⸻


 子供の一人が、シンの懐のあたりを指した。


⸻


「赤いの、持ってる」


⸻


 シンは少し驚いた。


⸻


 布に包んでいたはずだ。


 でも、少しだけ見えていたのかもしれない。


⸻


「川で拾った石」


「くれ」


「駄目」


「なんで」


「もらったから」


「誰に」


「ミコ」


「誰」


「川を見る子」


「川って見るの?」


「見るらしい」


「水じゃん」


「俺もそう思う」


⸻


 子供たちは、よく分からないという顔をした。


⸻


 それから、すぐに別のものへ興味が移った。


 タダの薪の量だ。


⸻


「タダ、それ燃やすの?」


「燃やす」


「全部?」


「いつか」


「今日?」


「違う」


「じゃあ何でそんなに持つの?」


「持てるから」


⸻


 子供たちは納得したような、していないような顔をした。


⸻


 シンは笑った。


⸻


 こういう会話も、戻ってきた感じがする。


⸻


 炉のそばに、アサメがいた。


⸻


 紅い衣。


 右腕の文様。


 火のそばで、背筋を伸ばして立っている。


⸻


 アサメはシンを見た。


⸻


 驚かなかった。


⸻


 まるで、戻ってくることを最初から知っていたような顔だった。


⸻


「戻ったか」


「戻った」


「遅かった」


「雪道だったので」


「それもあるな」


⸻


 アサメはそれだけ言って、炉に向き直った。


⸻


 終わりだった。


⸻


 それだけ。


⸻


(軽いな)


⸻


 いや。


 軽いのではない。


⸻


 それが、アサメの受け入れ方なのだ。


⸻


 戻ったか。


 戻った。


⸻


 それで足りる。


⸻


 それ以上、抱きしめたり、心配したり、泣いたりはしない。


 だが、戻る場所としては開いている。


⸻


 シンは、そのことに少しだけ胸が温かくなった。


⸻


「イヌが来た」


 シンは言った。


⸻


 アサメの目が、炉から離れた。


⸻


 ほんの少し。


⸻


「赤黒い男か」


「知ってるのか」


「噂だけ。南の方で動いている者がいると聞いていた」


「オキにも南の果てから来たって看破されてた」


「オキなら言う」


「知ってるのか?」


「昔からだ」


⸻


 アサメは短く答えた。


⸻


 昔から。


⸻


 その言葉の中には、山と川の行き来があった。


 オキとアサメの間にある、見えない道があった。


⸻


「春になれば、ヤマトの軍が来るって言ってた」


⸻


 アサメは表情を変えなかった。


⸻


 ただ、炉を見た。


⸻


 火が少しだけ揺れた。


⸻


「川沿いを上る。山にも入る。炉を探す。鉄を探す。人の名を求める。そう言ってた」


「そうか」


「驚かないんだな」


「山が言っていた」


「山が?」


「雪の沈み方が違った。獣の動きも違う。川から来る話が重くなっていた」


⸻


 シンは眉を寄せた。


⸻


「話が重いって、オキみたいなこと言うな」


「オキが言うなら、そうなのだろう」


「そこは認めるんだ」


⸻


 アサメは少しだけ口元を動かした。


⸻


 笑った、ように見えた。


⸻


「どうするんだ」


 シンは聞いた。


⸻


「今は、ここにいる」


「ヤマトが来るかもしれないのに?」


「来るまでは、ここにいる」


「来てから考えるってこと?」


「違う」


⸻


 アサメは炉を見たまま言った。


⸻


「来るまで、暮らす」


⸻


 その言葉に、シンは少し黙った。


⸻


 来るまで、暮らす。


⸻


 逃げるでもない。


 待つでもない。


 何もしないでもない。


⸻


 暮らす。


⸻


 火を保つ。


 鉄を作る。


 肉を食べる。


 道を見張る。


 子供を叱る。


 水を運ぶ。


 薪を割る。


 山菜を探す。


 笑う。


 眠る。


⸻


 そういう全部を、来るまで続ける。


⸻


「それで間に合うのか」


「間に合わせる」


「どうやって」


「暮らしながら」


⸻


 アサメは当たり前のように言った。


⸻


 シンはすぐには理解できなかった。


⸻


 けれど、その言葉は炉の火みたいに残った。


⸻


 暮らしながら。


⸻


 戦う準備をする。


 逃げる準備をする。


 残す準備をする。


 捨てる準備をする。


⸻


 たぶん、全部だ。


⸻


 それは、シンが思っていた「対策」とは違う。


 作戦図を広げて、全員で会議して、誰がどこへ行くかを決めるようなものではない。


⸻


 でも、この時代のこの山では、そういうものなのかもしれない。


⸻


 暮らしそのものが、準備なのだ。


⸻


⸻


 夕方、タダが肉を焼いた。


⸻


 鹿だった。


⸻


 大きい。


⸻


 タダは黙って、丁寧に焼いた。


 肉を火に近づけすぎない。


 遠ざけすぎない。


 脂が落ちる場所を見て、炭を少し動かす。


 焦げそうになると、手首だけで角度を変える。


⸻


 焼く、というより、火と肉の間を取り持っているようだった。


⸻


 香ばしい匂いが集落に広がった。


⸻


(これは駄目だ)


⸻


 腹が鳴った。


⸻


 かなり大きく鳴った。


⸻


 子供たちが一斉にシンを見た。


⸻


「川の男、腹が鳴った」


「魚じゃ足りなかったんだ」


「川は腹が減る」


⸻


「川の男で定着しつつあるな」


 シンは小さく言った。


⸻


 タダが肉を差し出した。


⸻


「食え」


「いただきます」


「もっと食え」


「まだ一口目!」


⸻


 肉を食べた。


⸻


 うまかった。


⸻


 かなり、うまかった。


⸻


 オキの集落の食事は質素だった。


 魚と塩と、少しの根や草。


 あれも良かった。


 川の味がした。


⸻


 でも、タダの肉は違う。


⸻


 脂がある。


 熱がある。


 噛むと、口の中に山の匂いが広がる。


⸻


(うま……)


⸻


 声に出す余裕がなかった。


⸻


 ただ食べた。


⸻


 タダがまた肉を置いた。


⸻


「食え」


「食う」


「痩せた」


「取り戻す」


⸻


 アサメが横で肉を食べていた。


⸻


 赤い衣のまま、当然のように肉を食べている。


 豪快ではない。


 だが、迷いがない。


⸻


 シンは、肉を噛みながらアサメを見た。


⸻


「何だ」


「いや。帰ってきた感じがするなと思って」


「ここは山だ」


「そういう意味じゃなくて」


「では何だ」


⸻


 シンは少し考えた。


⸻


 帰ってきた。


⸻


 そう思った理由。


⸻


 タダがいるからか。


 肉があるからか。


 アサメがいるからか。


 炉があるからか。


 子供たちに川くさいと言われるからか。


⸻


 たぶん、全部だ。


⸻


「戻る場所があるって感じ」


 シンは言った。


⸻


 アサメは少し黙った。


⸻


 それから、短く言った。


⸻


「なら、戻ればいい」


⸻


 それだけだった。


⸻


 あまりに当たり前の言い方だった。


⸻


 シンは一瞬、言葉を失った。


⸻


 なら、戻ればいい。


⸻


 戻る場所があるなら、戻ればいい。


⸻


 そこに、難しい感情はなかった。


 資格も、許可も、理由も、長い説明もなかった。


⸻


 ただ、戻ればいい。


⸻


 シンは肉を飲み込んだ。


⸻


「しばらく、ここにいてもいいか」


⸻


 言ってから、自分でも少し驚いた。


⸻


 聞くつもりはなかった。


 でも、言葉が出た。


⸻


 アサメはシンを見た。


⸻


 タダも、肉を焼く手を止めずに聞いている。


 子供たちは、肉に夢中で聞いていない。


 炉の男たちは、少しだけこちらを見た。


⸻


「何をする」


 アサメが聞いた。


⸻


「何ができるか、まだ分からない」


「分からないのに、いるのか」


「分からないから、いる」


⸻


 アサメの目が、少し変わった。


⸻


 シンは続けた。


⸻


「オキのところで、見た。川の暮らし。骨流し。鉄と話が流れる場所。イヌの警告も聞いた。でも、まだ分からない。ヤマトのことも、鬼のことも、モモのことも、自分のことも」


⸻


 火が爆ぜた。


⸻


 ぱち、と小さな音がした。


⸻


「だから、今度はここを見る。炉を見る。山を見る。ここで何が守られているのか、何が狙われているのか、ちゃんと見る」


⸻


 シンは少しだけ息を吸った。


⸻


「逃げ込むんじゃなくて。見張るだけでもなくて。できれば、働く。できるかは分からないけど」


⸻


 タダが肉を置いた。


⸻


「薪は割れる」


「まだ下手だけど」


「下手でも割れる」


「鉄は運べる」


 アサメが言った。


⸻


「落とすかもしれない」


「落とすな」


「頑張る」


「山菜も覚えろ」


「それは難しそう」


「覚えろ」


⸻


 子供の一人が言った。


⸻


「川の男、火を吹ける?」


「吹けない」


「じゃあ何できるの」


「それを今から探すんだよ」


「遅い」


「辛辣」


⸻


 集落の者たちが少し笑った。


⸻


 大きな笑いではない。


 でも、火の周りに笑いがあった。


⸻


 それが、シンにはひどくありがたかった。


⸻


 アサメが言った。


⸻


「いればいい」


⸻


 短い言葉だった。


⸻


「役に立つなら使う。邪魔ならどける」


「そこは優しくないんだな」


「邪魔なものを優しく置く場所はない」


「なるほど」


⸻


 タダが肉を追加した。


⸻


「食え」


「急に話題変えるじゃん」


「食えば動ける」


「はい」


⸻


 シンは食べた。


⸻


 肉を食べる。


 火を見る。


 笑い声を聞く。


⸻


 それだけのことなのに、胸の中で何かが少しずつ形を持っていく。


⸻


 ここにいる。


⸻


 しばらく。


⸻


 暮らす。


⸻


 その言葉が、だんだん自分の中で重くなっていく。


⸻


 重い。


⸻


 でも、嫌な重さではなかった。


⸻


⸻


 夜が深くなった。


⸻


 子供たちは眠った。


 炉の男たちは、小さな声で明日の炭の話をしている。


 アサメは外へ出て、少し山を見て戻ってきた。


 タダは外周を確認していた。


⸻


 異常はないらしい。


 戻ってきても、何も言わなかった。


 だから、そういうことだと分かる。


⸻


 炉の火が小さくなる。


⸻


 赤い芯だけが残る。


⸻


 シンは、住居の外へ出た。


⸻


 空は晴れていた。


⸻


 星が出ている。


⸻


 冬の星だ。


 前の時代と同じ星だ。


⸻


 だが、見上げている場所は違う。


⸻


 川ではない。


 炉の山だ。


⸻


 シンは懐から赤い石を出した。


⸻


 夜の中では、色がよく見えない。


 でも、手のひらの中にあると分かる。


⸻


 ミコの石。


 川の赤。


⸻


 火の赤ではない。


 山の赤でもない。


⸻


 それでも、赤は残る。


⸻


 甘い匂いがした。


⸻


 シンは顔を上げた。


⸻


 木の陰に、モモがいた。


⸻


 集落の外れ。


 炉の光がぎりぎり届かない場所。


 でも、近い。


⸻


 今日は、これまでで一番近い。


⸻


 白い衣。


 黒い髪。


 小さな桃色の飾り。


⸻


 雪の中で見た時ほど、白に溶けてはいない。


 夜の中では、むしろ白く浮いている。


⸻


 きれいだった。


⸻


 相変わらず。


 怖いほど。


⸻


 でも、今夜のシンは、すぐに逃げようとは思わなかった。


⸻


「ついてきてたな」


⸻


 モモは少しだけ沈黙した。


⸻


「……確認」


「ずっと気づいてたぞ」


「……」


「討ちに来なかった」


「……」


「なんで来なかったんだ」


⸻


 モモは少し間を置いた。


⸻


「……処理遅延」


「処理が遅れたから、来なかったのか」


「……」


「それだけか」


「……不明」


⸻


 不明。


⸻


 モモ自身にも、分からないことがある。


⸻


 その事実が、今は少し嬉しかった。


⸻


「俺も不明だらけだよ」


⸻


 モモは答えない。


⸻


 ただ、立っている。


⸻


 刀は抜いていない。


⸻


 それだけで、十分な変化だった。


⸻


「しばらく、ここにいることにした」


⸻


 モモの瞳が、わずかに動いた。


⸻


「……滞留」


「そう。滞留」


「……理由」


「暮らすため」


⸻


 モモは沈黙した。


⸻


 意味を探しているのかもしれない。


 処理しているのかもしれない。


 ただ、何も感じていないだけかもしれない。


⸻


「逃げてるわけじゃない。いや、少しは逃げてるのかもしれないけど。でも、それだけじゃない」


⸻


 シンは炉の方を見た。


⸻


 赤い光が、住居の隙間から漏れている。


 肉の匂いはもう薄い。


 代わりに、炭と灰の匂いがする。


⸻


「ここを見たい。ここで働いて、食って、寝て、笑って、叱られて、川くさいって言われて、そういうのをちゃんと見たい」


⸻


 モモは答えなかった。


⸻


「オキの集落もそうだった。ミコがいた。白い煙があった。骨流しがあった。イヌが来た。春にヤマトが来るって言った」


⸻


 シンはモモを見た。


⸻


「俺は、全部見なきゃいけない。たぶん、お前のことを知るためにも」


⸻


 モモの指が、わずかに動いた。


⸻


 柄には触れない。


⸻


 ただ、指先が少しだけ動いた。


⸻


「……対象シン」


「うん」


「……鬼候補」


「まだ候補か」


「……保留中」


「保留ってことは、まだ斬らないんだな」


「……即時討伐、停止」


⸻


 シンは息を吐いた。


⸻


「助かる」


⸻


 モモは視線を集落へ向けた。


⸻


 炉の方へ。


 煙の方へ。


 人が眠っている住居の方へ。


⸻


 それから、またシンへ戻した。


⸻


「……帰属」


「え?」


「……対象シン、集団帰属を選択」


⸻


 帰属。


⸻


 硬い言葉だった。


⸻


 でも、意味は分かった。


⸻


「そうかもな」


⸻


 シンは少し笑った。


⸻


「帰属って言うと、なんか違うけど。まあ、そうかも」


⸻


 モモは黙っている。


⸻


「帰る場所にしたいんだと思う」


⸻


 その言葉を言った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。


⸻


 帰る場所。


⸻


 言ってしまった。


⸻


 前の時代には、言えなかった言葉。


 言う前に、世界が終わった言葉。


⸻


「帰る場所」


⸻


 モモが繰り返した。


⸻


 とても小さな声だった。


⸻


「そう」


「……定義不能」


「だろうな」


⸻


 シンは笑った。


⸻


「俺も、まだよく分からない」


⸻


 モモは黙っていた。


⸻


 だが、消えなかった。


⸻


 しばらく、二人の間に夜があった。


⸻


 炉の煙。


 星。


 冷えた空気。


 遠くの獣の声。


⸻


 それから、シンはふと思いついて言った。


⸻


「次、タダが肉を焼く時、来るか」


⸻


 モモの目が、わずかに動いた。


⸻


「……不要」


「不要じゃねえんだよ。うまいんだよ」


「……栄養摂取、不要」


「そういうことじゃない」


⸻


 シンは少しだけ前のめりになった。


⸻


「うまいものは、必要だから食べるんじゃない。うまいから食べるんだ」


⸻


 モモは動かない。


⸻


「いや、必要でもあるけど。まあ、それはいい。とにかく、タダの肉はすごい。山の鹿。火加減。脂。塩少し。あれは本当にすごい」


⸻


 モモは無言だった。


⸻


 だが、視線が一度だけ炉へ動いた。


⸻


 シンは見逃さなかった。


⸻


「今、見たな」


「……確認」


「肉を確認したな」


「……煙を確認」


「ほぼ肉じゃん」


⸻


 モモは答えない。


⸻


 けれど、すぐには消えない。


⸻


 シンは、その沈黙を少しだけ楽しんだ。


⸻


 前なら、こんな時間はなかった。


⸻


 鬼。


 討つ。


 それで終わりだった。


⸻


 今は、処理遅延がある。


 不明がある。


 保留がある。


 煙を確認するモモがいる。


⸻


 それだけで、まだ続けられる気がした。


⸻


「聞こえてたら、今度来い」


⸻


 モモは返事をしなかった。


⸻


 白い姿が、夜の中で少し薄くなる。


⸻


 消える前に、モモは一言だけ言った。


⸻


「……処理中」


⸻


 それから、消えた。


⸻


 桃の匂いが、少し残った。


⸻


 そして、ほんのわずかに。


⸻


 炉の煙の匂いが混じった気がした。


⸻


⸻


 シンはしばらく、そこに立っていた。


⸻


 夜の山は冷たい。


⸻


 でも、背中には炉の熱がある。


⸻


 懐には、川の赤い石がある。


⸻


 少し離れた場所に、モモの気配の余韻がある。


⸻


 春には、ヤマトが来る。


⸻


 分からないことは、まだ何一つ解けていない。


⸻


 それでも。


⸻


 シンは、この山で暮らしてみようと思った。


⸻


 死なないためだけではなく。


 誰かを見張るためだけでもなく。


⸻


 ここで火を見て。


 肉を食べて。


 怒られて。


 働いて。


 覚えて。


⸻


 ここに帰ってくるために。


⸻


 シンは、炉の明かりへ戻った。


⸻


(第四十話へ)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。